歌声喫茶が人生変えた

予定よりも大分早い時間に着いた明照は、暇潰しに
“カチューシャ”を聴いていた、それも中国語の歌詞を。
明照のお気に入りのソングチューバーChang(チャン) Yuehui(ユエホイ)
“前例が無いのは絶好の機会”と普段からSNSでも公言していて
今回カチューシャを中国語で歌ったのもその一環だった。

「素顔こそ金色の仮面に覆われているけどChang Yuehuiさん
声と動作が可愛いし、色々な言語の歌を知ってて、凄いなぁ」
何気無く発した独り言を聞いていた人物が居た。横丁の中華料理屋の
店主、王 欣怡は何時の間にか、くノ一の如く忍び寄っていた。
「本当。この子、中国語は勿論、ロシア語・朝鮮語の歌も
知っていて凄い。然も言語により再生リスト有るから親切」
(ワン) 欣怡(シンイー)が至近距離に居る事に全く気付かなかった明照は危うく
飛び上がるところだった。
「わっ・・・! い、何時の間に!?」
気がつくと至近距離に居たのは1人ではなかった。
「大分前からだよ」
あっと思った時には稲葉杏果は明照の膝の上に座っていた。
「いや近い近い。僕の膝の上は何時から杏果ちゃんの席になったのかな」
「そんなどうでも良い事、気にすることないよ。あたしと明照君の仲なんだから」
何処までも自由過ぎる杏果に、明照は適切なツッコミが思い浮かばなかった。
然し、子供に慕われるのは素敵な事とも分かっていた。


「今日は“ワルシャワ労働歌”を歌います。革命の場面を思い浮かべると
歌い易くなりますよ」
進行役の英子の言葉が終わるのを待って、寛司は音楽を再生した。
元々ポーランドで作られた後、インターナショナルと同様、諸外国に伝わった
この歌をポーランド語→日本語→ドイツ語→ロシア語の順に歌った。当然
日本語以外はさっぱりだったが、明照にとっては然程
大きな問題ではなかった。ポーランド語・ドイツ語・ロシア語が分からない問題は
人に聞けば済むから未だ良かった。然し、歌う度に気道が狭くなる様な
感覚は本当に死活問題だった。
「如何しよう、本当に二進も三進もいかない・・・」
人前で歌うと恥ずかしくなる問題に加え、明照はもう1つ悩みを抱えていた。
結論から言うと、耳コピが壊滅的に下手なのである。祖父母から最初に
重要性を教わったものの、如何しても上手く出来ずにいた。

今日も懲りずに気道が狭くなった様な感覚を覚えた明照は
他のメンバー達が帰った後1人で頭を抱えていた。
自分の視界が霞んでいる事に気付くのに然程長くは掛からなかった。
「こんなの有りかよ。何でこんな調子なんだよ。
僕は人前で歌うという立派な事が出来る人間ではないのか・・・・・・!」
明照は最早、自分でも感情の津波を如何にも出来なくなっていた。
そんな明照の視界に、不意にハンカチが入ってきた。
「如何したの? 話、聞くよ」
「あ、有難う御座います・・・って、杏果ちゃん!?」
ハンカチを受け取り涙を拭いた数秒後、持ち主が誰か分かり
明照は一時的にフリーズした。
「誰にも言わないから、話してみて」
何時もの様に対面座位になると、杏果は明照の顔を覗き込んだ。
「そうやってバイカル湖の様に澄んだ瞳で見られると
何故か嫌だとは言えなくなっちゃうんだよな」
観念した明照は一つ、二つと思い浮かべながら本音を吐き出した。
「僕は耳コピが下手で頭を抱えていたんだ。外国語が分からない
事などこれに比べれば大した問題じゃない。だけど、歌声喫茶で
耳コピが下手って致命的だろう? だから、僕は人前で歌える程
立派な人間じゃないって思えて・・・・・・」
一度も目線を逸らさず聞いていた杏果は前にした内容に近い質問を投げかけた。
「耳コピが下手だから立派な人間じゃないって、誰から言われたの?」
「いや、誰って事は無いけど・・・」
言葉遣いと表情はあくまでも優しいものの、逃げ道は完全に
塞がれていた。いい加減な答えを返しても納得などしないだろう。
「まぁ、覚えてなくても仕方ないね。じゃあ別の質問。
明照君にとって“立派な人”ってどんな人?」
「う、うぅ・・・・・・」
杏果本人には自覚など無いが、明照にとってはこの“尋問”は
考え方次第では、人前で歌う事以上の苦痛だった。
嘘を吐いたら十中八九怒るか呆れる。そんな未来が見えるから尚更
困り果てた。
そんな明照に助け舟を出したのは、予想外の人物だった。
「明照君、音楽は皆に平等に開かれたものなのよ。漢字を見て御覧なさい。
“『音』を『楽』しむ”と書くでしょう? 漢字は表意文字なんだから分かるわよね?」
とっくの昔に帰ったとばかり思い込んでいた英子は
2人の目線位の高さに屈んでいた。
「え、英子さん・・・」
何と返事すれば良いか分からなくなったが、少なくとも、事態は確実に
好転しつつある。それだけは間違い無かった。
「“立派な人間ではないから決して音楽に触れてはならない”なんて、
そんな馬鹿げた話が一体何処の世界で通用するというんだい?」
足音が聞こえなかったので気付かなかったが、寛司も近くに居た。
3人から問われ、明照は漸く悟った。
「現実には、世界中何処を探しても居る訳ない、幻の何者かが僕の悪口
言っていると信じ込んでいました。何でかは分かりませんが、兎も角も
真実に気付かせて下さって、有難う御座います」
杏果が膝の上に鎮座しているので深く一礼することは出来ないものの
それでも根が律儀な明照は、どうにかして目礼した。
「何だ、明照は立派な人間じゃないか」
「本当。人に感謝するって簡単そうで難しいんだからね」
未だ帰ってこない孫を探しに戻ってきた均と清美は、何時からか
一連の様子を見ていた。
予期せぬ出現はこれで4度目である上、足掛け14年も見てきた顔なので
明照は今度は驚かなかった。
「親切にして貰ったら御礼を言うのは当たり前の事だよね?」
「理論上はそうだけど、現実にはこれを出来る人が中々居なくてね」
「全く嘆かわしい。こんな事言うと老害呼ばわりされるかも知れないが
わしらが明照位の年の頃は、人に感謝出来ない奴は逆賊呼ばわりされたんだぞ」
この類の話は、ともすれば説教臭くなる傾向が有る。然し、何故か
均と清美の話は説得力が強かった。
「・・・改めて、有難う。こんなにも素敵な所へ連れて来てくれて。
それから、御免なさい。ウジウジしてたら2人の顔に泥を塗ることになるよね。
ポジティブになれば歌も上手くなるかな?」
最初の頃より大分表情が明るくなった明照を見て、祖父母は勿論
主宰者夫婦及び孫娘も表情を緩めた。
杏果のタブレットの画面の中では、ソ連時代の軍服を着たロシア人の男女が
“連合軍の歌”、俗に“ワルシャワ条約機構の歌”とも称される歌曲を合唱していた。
「明照君、これ教えようか?」
今日は対面座位ではなく、隣に座っていた杏果は
明照の二の腕を掴んだ。一瞬痙攣はしたが、明照は段々
杏果の行動に慣れつつあった。
「良い歌であることは間違い無いけど、僕には未だ難しいかも。
修業が足りない所為で、御免よ」
ネガティブな発想はしなくなりつつあったものの、明照は未だ
自分の能力を過小評価していた。そんな明照の背中を押したのは
祖父母だった。
「気にするな。これは別に試験じゃないんだから」
「実際にやってみると案外簡単かも知れないよ・・・あら、これ
何て曲だったかしら」
最後の最後で清美は何時もの忘れっぽさを発揮したものの
創業初日からの会員である2人の言葉は明照だけでなく、その場に居た
他の会員達にも響いた。自分達は勝手に己の限界を実際よりも遥かに低く
見積もっていたのではないだろうか。確実な物証こそ無いものの
何故かそんな気がしてならなかった。
そうこうしている間に開始の時間となった。

今日選ばれた歌曲は“嗚呼、マローズ(極寒)、マローズよ”だった。
明照は中学生男子としてはかなり声域が高く、人によっては
女性の声と聞き間違える事すら有る程なのでアルトに回された。
この日、明照は自分でも驚く程歌うのが楽になっていると気付いた。
否、そればかりではない。寧ろ、歌うと脳内麻薬が大量に分泌されていた。
今迄何でこんなにも歌うのが苦痛だったんだろう。本当は天にも昇る心地なのに。

休憩時間を挟み、後半に入ろうかという時、明照は意を決して
寛司と英子に自分の欲求を申告した。
「次に歌う時、僕にソプラノやらせて下さいますか?
僕の声はかなり高いですから、自信有ります」
ついこの前までネガティブな事ばかり考えていた弱味噌が
自ら難易度の高い事を志願したとあって、2人は目玉が飛び出るかと思った。
「明照君、思い切った決断をしたね」
「如何したの? 何かに目覚めた?」
二人から問われても、明照は以前と違い冷静だった。
「今日皆で歌った結果、気付きました。皆と一緒に歌うこと
人前で歌うこと。それって、本当は途轍も無く楽しくて堪らない
事なんですね。どうしてもっと早く気付けなかったんでしょう。
もしもタイムマシンが有るなら数日前の僕に教えてやりたいですよ。
“こんな楽しい事なのに悪い様に考えては駄目だ”って」
予期せぬ覚醒は二人を大いに戸惑わせた。しかし、それ以上に
教え甲斐が有ると認識させた。この様子を見ていた均と清美も
満足そうに頷いた。
「よく言った。それでこそ明照」
「何やるのか知らないけど、やるなら最後迄諦めないでね」
相変わらず惚けた所が有る清美だったが、その目は明らかに
可愛い孫を応援する祖母の目だった。
「それじゃ、僕、ベストを尽くしてくるから」
最初とは違う所に立った明照は、未だ緊張自体はしていたものの
最早迷いも恐怖も無かった。邪念を完全に薙ぎ払った
立派な一人の歌い手となっていた。
歌い終わった時、明照は心地良い緊張感と疲労を覚えていた。
自分の席に戻った明照の所に他の会員達が集まってきた。
「明照君、やるやんか。出し惜しみなんてせんで良かったんやで」
「本当。何でもっと早く本気を出さなかったんだよ」
「オーチンハラショーですよ、同志明照」
皆から賞賛され、明照は心がホワホワしていた。
「僕って本気出せばこんなに上手に出来るとは・・・。
自分でも全く自覚していませんでした」
心拍数が上がっているのを感じながらも、明照は
人から肯定されるって嬉しいと改めって痛感した。


終了後、帰り支度を始めていた明照は、不意に杏果に呼ばれた。
「明照君、今日はとってもよく頑張ってたね。御褒美に
良い所へ案内するよ」
「良い所?」
唐突な申し掛けに明照は目が点になった。しかし、別に
拒否しなくてはならない理由も無いので
杏果に導かれるがままについて行った。

歌声喫茶の裏口はそのまま自宅へと繋がっていた。
廊下を進み、階段を上った先の、一際大きな部屋に入った瞬間
明照は言葉を失った。何せそこは明照が今迄一度も見たことがない
物で溢れかえっていたからだ。何から注視していけば良いか分からずにいると
杏果は得意げに話し始めた。
「驚くなって方が無理だよね。明照君はこの手の物
存在すら知らなかったんじゃないかな」
杏果の部屋には、様々な年代の魔法少女のグッズが所狭しと並んでいた。
「よくこれだけ集められたね。魔法少女の事は分からないけど
見たところ、今では簡単に手に入らない物が多いよね?」
「それが分かるだけでも大したものだよ。あたしにとって一番
許せないのは“全部同じでしょ”と言われる事なんだよね。
因みに“違いが分からない”は許す。でもここへ呼んだのは
他にやる事が有るからなんだよ」
何処からかティッシュとゴミ箱を持ってくると、杏果は
自身の膝を指差した。
「え・・・・・・?」
「大丈夫だから、頭乗っけて」
明照はまたも固まった。年齢としてはどちらも子供だ。とは言え
まぁまぁ図体のでかい男である自分が、小さい女の子に膝枕して
貰うなんて。何故か凄まじい罪悪感を覚えた。
「あ、あの・・・・・・」
「何やっているの? 誰も見てないんだから大丈夫だよ」
魔法少女グッズに囲まれているだけでも落ち着かないのに
膝枕までするとは。だが、正当な理由も無く断ったら、折角
築き上げてきた信頼が音を立てて崩れ落ちていくのは確実だった。
「えぇいもう如何にでもなれっ・・・・・・!」
観念した明照が恐る恐る杏果の膝の上に頭を乗せた数秒後
体を震わせる程の快楽が全身を駆け巡った。
見ると、杏果は珍しい玩具を手にした様な顔をしていた。
「ほら、じっとして」
「だ、だってこんな事するなんて聞いてないっ・・・」
「穴の奥までしっかりやらないと」
「うぅう・・・怖い・・・・・・」
「暴れると怪我するよ」
「そ、そんな事言ったって・・・」
数十秒後、漸く膝から下ろされた明照は
人前で歌うことを恥ずかしがっていた頃とは違う種類の
脱力感を覚えていた。
「何で最初に教えて呉れなかったんだよぅ」
「耳掃除でこんな事になるなんて思わなかったんだもの」
呆れながらも杏果は綿棒をティッシュに包み、ゴミ箱に投げ込んだ。
「まぁね、“もう懲り懲り。一生しないで”と言うのなら従うけど」
「あ、いや、其処迄は言わないよ。やる前に教えて呉れたら
それで良いから」
何とも不思議な感触を覚えながらも明照はぼんやり座っていた。
「明照君、あたしの部屋は2つ有るんだけど、どちらも
自由に入って良いからね。自分の家に居る時と同じ様に
過ごすんだよ」
「杏果ちゃん、自分の部屋が2つも有るの?」
「まぁ、事情が色々有ってね」
この時、杏果の顔は正面を向いてなかったので明照は
気付いていなかった。杏果は固い表情を明照の前では見せなかった。
否、見せたくなかった。
或る休日の朝、明照が目覚めると、普段は未だ寝ている筈の両親が
何故か今日は先に起きていた。何時に無く固い表情から、明照は
瞬時に悟った。明らかに何かが普段と著しく違う。
「起きたか。話が有るから座りなさい」
先に口を開いたのは父、田中靖彦(やすひこ)だった。普段は仕事が非常に
忙しく、家に帰った後も何やらしている事が多い父がこんな
事を言い出すのは異例の事であった。
「今起きたばかりでトイレ行きたいんだけど」
「あ、そうだったな。どうぞ」
その場を離れた後も明照は考え込んでいた。一体
何事なんだ。模範的と言えるかは分からないけど
少なくとも学校で何か問題を起こしたことなど1度もない。
だったら一体何故。幾ら考えても見当がつかなかった。

戻ってくると、母、田中千枝(ちえ)は椅子を引いて席を勧めた。
明照が座ったのを確認すると、改めて靖彦は口を開いた。
「明照、御前は最近よく出歩いているな。何処へ行っているんだ?」
一体何事かと思えば、これ程までに単純な内容だったとは。
色々な意味で予想外の展開に、明照は拍子抜けした。
笑いたいのを必死で堪えつつ、明照は正直に答えた。
「歌声喫茶“ひかり”だよ」
黙秘、或は口籠るかと思ったら、意外にも明照はあっさり答えた。
それが却って両親を混乱させた。聞かれる事を予測して、前もって
嘘の脚本を徹底的に練り上げていたのか。それとも
悪い事をするのが格好良いと信じ込んでいるのか。
暫くの間続いた沈黙を破ったのは千枝だった。
「幼稚園の頃から只の1度たりとも友達を家に連れてきた
事も無ければ、反対に、友達の家に遊びに行った
こともないあなたが連日出歩くなんて・・・・・・」
「心配しなくても学業に悪影響は及んでないから大丈夫」
「そういう問題じゃない」
靖彦は思わず大声で口を挟んだ。歌声喫茶という
聞き慣れないキーワードが有った。其れだけで
理性を半壊させるには十分だった。
「今迄の様に、休日も一日中家に引き籠っているのが
良いと云う訳ではない。だが、不良とつるむなんて、一体
何考えているんだ。友達は選びなさい」
全く以て頓珍漢な発言に、明照は何からツッコミを入れるべきか
分からなくなった。目が点になりながらも、明照は応えた。
「何処か全然別の所と勘違いしている様だね。・・・・・・良いよ。
一緒に行こう。百聞は一見に如かずって云うからね。
本当に不良とつるんでいるか否か、その目で確かめると良いよ」
明照が大きく目を見開き、前のめりになって言うので千枝は
戸惑ったが、同時に確信もした。
「明照は確かに友達作りは下手だけど、筋金入りの正直者だから
行くだけ行ってみましょ。万一本当に不良と付き合いが有るなら
その場合はやるべき事をやるだけ」
未だ疑いは持っていたが、靖彦は渋々同意した。
「こんな形で一家全員で休日にお出掛けとは思わなかった」

均と清美に連れられ歌声喫茶“ひかり”に着くと、靖彦と千枝は
明照が初めて来た時と同じ反応を示した。
「何なんだここは・・・・・・?」
「思っていたのと全然違うわね」
孫と同様、可笑しいのを堪えていた均と清美は
娘と、義理の息子に尋ねた。
「歌声喫茶と聞いて何を想像したんだ?」
「誰にもバラさないから言って御覧」
思わぬ問い掛けに千枝と靖彦はパニックに陥った。
「いや、あの、何って事はないけど」
「正直全然分かりませんでした」
余りの情けなさに均は呆れ果てた。
「全く。一度も納豆食べたことない癖に
食わず嫌いをする子供と一緒ではないか」
思いがけず自身の過去の古傷に触れられ、千枝と靖彦は
危うく奇声を上げるところだった。

中に入ると、ブラジル人の会員、フェリペとガブリエラが
挨拶しに来た。
「アキテル君、今日ハ家族一緒?」
「初メマシテ」
訛りこそ有るものの、日本語で挨拶され、靖彦と千枝は
危うく舌を噛むところだった。
「は、初めまして・・・」
「えっと確か・・・ボーアターデ」
余りに不自然極まりないブラジル・ポルトガル語に
フェリペとガブリエラは苦笑を隠すのに苦労した。
然し同時にいじらしくも思えた。
「御存知デシタカ」
「一言デモ知ッテイルッテダケデ嬉シイデス」
その後も、ロシア人乃至中国人の会員とも挨拶をして
靖彦と千枝は何かが違うと気付き始めた。
「思っていたのと違うな・・・いやいや、未だ決め込むには早い」
「今日1日付き合えば分かる事よ」
あれこれ考え込みながら用意された席に着くと、主催者の孫娘
稲葉杏果が姿を見せた。少し遅れて主催者夫婦も現れた。
「明照君のパパとママ? 初めまして。稲葉杏果です。
明照君の、年の離れた大親友です。こちらは私の祖父母
兼 歌声喫茶“ひかり”の主催者、小野田寛司・小野田英子です」
6歳位に見える女の子が、随分はっきり挨拶出来るので
靖彦と千枝は歌声喫茶と云う所がどんな場所か益々
分からなくなった。
「初めまして。田中靖彦と申します」
「初めまして。田中千枝です。両親と息子が
何時も御世話になっています」
明照に似て丁寧な挨拶をする2人を見て、主催者夫婦は機嫌を良くした。
「小野田寛司です。歌声喫茶“ひかり”へようこそ」
「小野田英子です。新たなメンバーを迎えられて嬉しいです」
何時もの様に、杏果は明照の膝の上に鎮座していたが
靖彦と千枝は最早ツッコミを入れる暇が無かった。
「息子は此処ではどの様に過ごしていますか?」
「皆さんに御迷惑を掛けてないでしょうか」
この状況を打開しようと、決まり文句を口にした両親の耳に
入ったのは、予想の斜め上を行く内容だった。
「迷惑だなんてとんでもない。革命的大躍進を遂げました」
「例えるなら、土鳩がフェニックスに進化した様なものね」
不良ではなかったが、自分達が会ったことがないタイプの人種と
接し、靖彦と千枝は目が回った。
「杞憂だったわね」
「・・・まぁ、不良よりはマシか。然も
小さい子に懐かれているし、介入は出来ないな」
まぁ良いやと考えた両親は歌詞カードに目線を向けた。

程無く、開始の時刻となった。寛司が壇上に上がると
皆の目線が一斉に集まった。
「今日は体験入会の方がいらっしゃいましたので、比較的
知名度の高い“コロブチカ”を歌います」
題名だけ聞いても靖彦と千枝は勿論、明照も意味が分からなかった。
だが、心配する必要など全く無かった。
何せよく知っている曲だったのだから。
「確か、ブロックを横1列に揃えて消すパズルの・・・・・・」
明照の独り言を英子は聞き逃さなかった。
「その通り。このパズルはソ連のコンピューター技術者
アレクセイ・レオニードヴィッチ・パジトノフ博士が
開発しました。ゲーム中の音楽がロシア民謡であるのも
これなら納得でしょうね」
試しに聴き終えた後、靖彦と千枝は見慣れないキリル文字に
目眩がした。
「こんな難しいのを明照は歌っているのか」
「私達に御手本見せて欲しいわね」
誤解とは言え歌声喫茶を不良の巣窟と勝手に思い込み
馬鹿にしてきた両親への仕返しのチャンスだと考えた。
明照は杏果から教わった耳コピの技術を活かし
両親の耳元で歌った。しかし、2人は分かった様な
分からなかった様な顔をしていた。
「超展開が次から次へ起きて、如何したものか」
「少なくとも今日1日は最後迄付き合う約束でしょ」
逃げ帰ろうとする靖彦を引っ張ると、千枝は何とか
順応しようと、小声で歌ってみた。
何時現れたのか、英子が傍でずっと聴いていた。
「練習するなら大声でしなさいな。ここはそういう
場所なんだから大丈夫ですよ」
足音も立てずに現れた事には驚いたが、一方
真っ当な助言を貰い、頭が上がらなかった。

実際歌ってみた後、靖彦と千枝は理解した。
知っている=上手に歌える とは限らない。
「音楽の授業、真面目に受けるべきだったな」
「何でもっと早く気付けなかったのかしら」
嘆く2人に均と清美は横で助言していた。
「そんな暗い表情ではまともに歌えないぞ」
「何ぞ面白い事考えて御覧」
一方、明照もまた杏果から指導を受けていた。
「今は実際ブロック動かしてないんだから、そんなに
力まなくても良いんだよ。それともゲームで勝負したい?
良いよ。あたしの大好きな明照君となら何しても楽しいし」
「え、あ、いや、そ、それは考えつかなかったな」
こうして3人は歌声喫茶“ひかり”の流儀に則った洗礼を受け
帰る頃には頭の中でコロブチカが無限ループしていた。
しかし、それは断じて嫌な現象ではなかった。

帰り道、行きと違いすっかり上機嫌な靖彦は何年かぶりに
息子の頭を撫で回した。
「良い所へ連れて来てくれて有難うな。それから
有りもしない容疑をかけて本当に申し訳無い。
父親として不甲斐ない。穴が有ったら入りたい」
「そんな気にしなくても、分かってくれたら十分だから。
歌声喫茶は素敵な所だろう?」
何処かで聞いた覚えの有る表現を口にする父に苦笑していると
千枝は明照に何やら差し出した。
「これで済む訳ないとは分かっているけど、せめてもの
落とし前よ」
半ば強引に五千円札を渡され、明照は目を白黒させた。
「いや、そんなつもりは微塵も・・・」
返そうとしたが、均と清美から手を掴まれ、諭された。
「受け取っておきなさい。こういうのは下手に
突き返すと後が大変なんだ」
「人からの好意は有難く受ける方が利口なのよ」
大好きな祖父母に言われてはそれ以上反論する気になれず
明照は臨時収入を素直に喜ぶことにした。

夕食の後、明照の部屋からはソ連の軍歌
“3人の戦車兵”が聞こえてきた。事情を分かっているので
誰も練習の邪魔をしに行くことは無かった。
歌声喫茶“ひかり”ではいつものメンバーが“ロシア、我が祖国”を合唱していた。
場の空気と、人前での歌唱にすっかり慣れた明照は誰の目から見ても
明らかに堂々としていた。暫く前の面影は何処にも無かった。

「では本日はこれまで。気をつけて御帰り下さい」
「御疲れ様でした。御忘れ物に御注意下さい」
主宰者である寛司・英子夫妻の一言を合図に
皆が帰り支度を始めるる中、明照は唯一残っていた。
皆が信頼してくれている以上、もっと上達しないと
申し訳ないと考えた末の行動だった。そんな明照の
膝の上に、主宰者の孫娘、稲葉杏果は何の躊躇も無く
鎮座した。
「今日も一生懸命頑張っているね。でも疲れたままやっても
良い結果は出せないよ。バラライカの弦だって、余り強く
張り過ぎると切れるもの。分かるよね?」
「え、あ、うん・・・」
年下ながら自分より遥かに聡明な杏果に、明照はいつも
ドキドキしていた。自分の心の内まで全て
見透かされているかも知れない。
「折角居るんだし、一緒におやつ食べようよ」
「良いの?」
「明照君は何時でも大歓迎だよ」
一瞬、自分より年上の人の姿の幻影が見えたが
損得勘定抜きに自分を無邪気に慕う杏果は矢張り
疑うことを全く知らない子供だった。
「それじゃ、行こうか!」
「あ、うん」
人前での歌唱はもう平気だが、杏果の積極的な攻勢は
相変わらず明照をドキドキさせた。とは言っても
初めて会った時よりは大分マシなのだが。

「いっぱい有るから幾らでも食べてね」
「何かすいません。こんなに良くしてもらって」
「何を言うんだ。明照君はうちの家族も同然だぞ」
明照が何か一つ食べると、英子と寛司が五つ出す。
数えた訳ではないがそんな気がした。
「おじいちゃんとおばあちゃん、お客さんをもてなすのが
生き甲斐なんだよ。深く考えないでね」
耳元で杏果が囁いた時、明照は一瞬またキスされるかと
思ったが、幸か不幸か予想は外れた。

色々御馳走になった後、明照は杏果に手を引かれ
廊下を進んでいた。
「この先だよね、杏果ちゃんの部屋」
「あれとは別だよ。あたしの部屋は2つ有るから」
聞き返す間も無く通された部屋には様々な動物の
縫いぐるみが所狭しと並んでいた。
物は違えども明照にとっては珍しい物が多く
目線を彼方此方に動かしていた。
「皆から色々贈られてね。正直言ってこんなに
増えるとは思わなかったよ」
「へ、へぇ・・・・・・」
大熊猫や小熊猫は未だしも、中には三葉虫だの恐竜だの
変わった物も有り、明照はツッコミを入れるべきか否か
分からなくなった。そんな中、杏果は、明照が最も恐れていた
質問を口にした。
「明照君、良ければ話してくれないかな。人前で歌うのが
怖くなったきっかけは何?」
何時か必ず聞かれると頭では分かっていた。しかし、いざ
その時が本当に来ると、矢張り掌が汗塗れになっていた。
「大丈夫。嫌なものを強要する事はないよ。断ったからって
あたし達が歳の離れた大親友じゃなくなる訳ないんだから」
「いや、話すよ。杏果ちゃんには何度となく
御世話になってきたからね」
そうして明照が話し始めたのは重苦しい内容だった。


ここで、時は1年前に戻る。当時、中学1年だった明照は
校内で行われる音楽コンクールの練習の最中だった。当時から
明照は声変わりの時期をとっくに過ぎた筈なのに、ずっと
声が高いままだった。どれ程かと云うと、何も知らない人が
声だけ聞いたら女性と間違える程の高音だった。
同級生達は、明照の高音が異質な存在に映った。そうして
迫害へと繋がっていった。普段の音楽の授業なら、明照1人が恥をかけば済む。
しかし、優勝がかかっている音楽コンクールとなると話は別だ。
男子からは“お前女かよ”と罵られ、女子からは“男の癖に声高いなんて”と
忌み嫌われ、明照は人前で声を出すのが怖くなってきた。
思い詰めた明照は当時の担任に、勇気を振り絞って申告した。
「先生、今度の音楽コンクール、僕だけ棄権させて下さい。御願いします」
前例の無い申し掛けに、当時の担任
工藤俊子(くどうとしこ)は目玉が飛び出そうになった。
「明照君、エイプリルフールの予行演習なら未だ気が早過ぎるわよ。
それとも、これは新手のアネクドートなの?」
だが、明照の、何かを思い詰めた様な目は、それが
冗談でも悪戯でもないと雄弁に物語っていた。
丁度職員室に校長、教頭、学年主任も居たので急遽
事情聴取が行われた。話を聞き終えた俊子は何時しか
夜叉の如き形相になっていた。

翌日の道徳の授業は“裁判”の為に使われることになった。
担任の気迫に誰もが正直に何もかも白状せざるを得なくなった。
最終的に、学級の、何と91%もの生徒が明照の高音について
罵っていたことが判明した。極少数の、明照の悪口を言わなかった
生徒を明照と共に図書室へ避難させた後
俊子は冷静に、然し冷徹に言い放った。
「自己批判と明照君への謝罪は勿論だけど
それだけでは済まないわよ。
音楽コンクール、如何するのか選択肢をあげるわ。

1つ:うちのクラスは不参加
2つ:明照君のソロステージにする
3つ:悪口言った面子は全員他所の学校に転校

さぁ、どれが良い?」
普段、とても穏やかで、笑顔が可愛いと評判の
俊子から究極の選択を迫られ、皆頭を抱えた。
「断っておくけど、明照君に口パクさせるのは
無しだから。明らかに人権侵害よ」
逃げ道を完全に絶たれ、一部の女子は泣き出していた。
それが俊子の怒りを更に増幅させた。
「何であなた達が泣いているの。一番悲しいのは
誰か分からない? 人の痛みや苦しみが分からない者は
獣にすら劣るわ! 狼だって我が子を守る為ならどんな
危ない事でも積極的にするわよ」
容赦無く責め立てられ、一部の男子すら涙をこぼした。
「・・・まぁ、急には即答出来ないわよね。暫く考える時間
与えるから、皆で徹底的に話し合いなさい。何か有ったら
図書室へどうぞ」
最初よりは幾分優しい口調で告げると、俊子は教室を出ていった。

約20分後、俊子が明照及び悪口を言わなかった同級生と
共に戻ってくると、話し合いは丁度終わっていた。
「良い時に戻った様ね。では、如何なったか教えて頂戴」
皆を代表して、三つ編みの女子生徒、山田道子(やまだみちこ)が挙手した。
「明照君に誠心誠意謝り、一緒に歌います。誰が欠けても絶対
後悔する事は目に見えています」
「成る程。それがあなた達の出した結論なのね。悪くないわ。
尤も、最終的な決定権は明照君にあるんだけどね。もし
拒まれたら私ですら口出しは出来ないのよ」
一緒に戻ってきた明照はずっと無表情のままだったが
神経を常に研ぎ澄ませていた。誰かがまた悪口を言ったら
直ぐ気付ける様にしなくてはならない。だが、そんな気配は
無かった。意を決した明照は俊子と目が合うと、教壇に上った。
「明照君、君が裁判長よ。判決は?」
「・・・・・・受け容れます。本当に二度と声の事で何も
言わないと全員が約束するのなら」
“温情判決”に皆一度は安堵した。だが、それで終わりではなかった。
「あなた達が本当に反省しているか否か調べなくてはならないわ。
今から1人ずつ前に出て、自己批判をしなさい。それから、帰りの
ホームルームの時間で原稿用紙を配るから、反省文を書くこと。
これは明照君も読むから、その事を忘れないで」
一同はまたも恐怖に震え上がったが、誰も逆らわなかった。

この日以降、明照の声の事を罵る者は居なくなった。しかし
クラスでは腫れ物に触る様な扱いが始まった。
また、明照は自分の声に自己嫌悪を覚え、1学年が終わるまで
筆談に頼る事が増えた。


「・・・こんな長話聞いても面白くなかったかな」
「とんでもない。寧ろ、話してくれて凄く嬉しいよ。有難う。
心の痛みは今も有る?」
後ろから杏果にあすなろ抱きをされ、明照は何故か涙腺が緩んだ。
「もう無くなったと思ったけど、未だ有ったみたい・・・」
「良いよ。残らず吐き出しちゃって。受け容れるから」
小さく頷いた直後、明照は堰を切った様に泣き出した。
元々喜怒哀楽が薄い明照にとって、これは慣れない事だった。
しかも、年下の女の子の前で号泣するなど想像出来なかった。
そんな明照を、杏果は嘲りも見下しもせず、只々
優しく後頭部を撫で、落ち着くまでじっくり待ち続けた。

漸く冷静になった時、明照は自分が無様な姿を見せたと感じていた。
「御免ね。昔の愚痴を延々垂れ流した挙句
情けない姿を見せて。格好悪いなー・・・」
「格好悪い?誰が?」
杏果から思わぬ事を問われ、明照はキョトンとした。
「何か勘違いしている様だね、明照君。
格好悪いのは、明照君をこんなに追い詰めた連中だよ。
声が高いからって、それは意地悪して良い理由にならないよ」
「いや、それは僕が堂々としていれば良かったんじゃ・・・」
「自分を責めないの。明照君は何も悪くない。何も間違ってない。
高い声だからって酷い事を言った人達が完全に悪いよ」
普段笑顔が輝く杏果が自分の為に激怒している。明照はこの
現象をどう受け止めて良いか分からなかった。
「だからって、年下の女の子の前で泣くなんて
恥ずかしい事して・・・
やった後で言ってもしょうがないのかも知れないけど」
「年下の女の子の前で泣くのが恥ずかしい?
誰から言われたの? 真っ赤な嘘だよ。
それに、あたしの前では本音を隠さず、何でも
話して欲しいな」
頭を撫でられ、明照は自分が幼児還りした様な
感覚を覚えた。
「杏果ちゃん・・・・・・」
「明照君の嬉しさも悲しさも、あたしは一緒に
分かち合いたいな」
また泣きそうになった時、明照の視界に偶然
時計が入った。それは16:40と時を示していた。
「あぁ、もうこんな時間。大分遅くなっちゃった」
「その事なら心配無いよ」
首を傾げていると、呼び鈴が鳴った。
英子が迎えに出たのでついて行ってみると、両親と
祖父母が明照の荷物を持ってきていた。
「これは何事!?」
金魚の様に口を動かす明照の前で、靖彦と千枝は
寛司と英子に頭を下げた。
「今日は息子が御世話になります」
「何か御座いましたら何でも仰って下さい」
情報処理が追いつかない明照の前で、均と清美も
同じ事をした。
「何卒宜しく御願い申し上げます」
「えぇと・・・あぁ、孫が御世話になります」
丁寧に挨拶をする4人に、寛司と英子は大らかな態度で臨んだ。
「そう堅苦しくなる必要は有りません。
皆さん、どうか面を上げて下さい」
「明照君が居ると私達も嬉しいんですよ。そんな訳で
明照君、今日明日はうちに泊まりなさい。どうせ
連休だし構う事ないわ」
「え、あ、その・・・」
超展開が相次ぎ、明照はオーバーヒート寸前だった。
帰ろうとした千枝は慌てて踵を返し、早口で
重要な事を告げた。
「宿題は一挙に済ませた方が後々
心置きなく遊べるわよ」
嵐の如く去った家族を見送りながら、明照は
未だポカンとしていた。一方、杏果は目が爛々と
輝いていた。何せ大好きな明照が2日間
自分の家に泊まるのだから。
「明照君、一緒に御風呂入ろうね」
「え、あ、うん・・・」
オーバーヒート寸前の明照はこの時は半ば
機械的に返答した。

明照が漸く理性を取り戻した時、2人は既に
風呂場で体を洗い合っている最中だった。
田中明照は人生で気まずい瞬間の最高記録を更新していた。
何せ自分の真後ろでは小さい女の子が体を洗ってくれているのだ。
「あ、あのぉ〜、杏果さん?」
「如何したの? 何処か痒い?」
「えっと、あぁ、今手を触れている所から左上が丁度
痒くて・・・って、ちが〜う! いや、確かに痒いことは痒いけど」
「分かったー」
何の躊躇も無く痒い所を掻いてくれる
杏果の優しさと無邪気さが明照にとっては嬉しい一方
凄まじい罪悪感の源でもあった。

遡ること30分前、両親、靖彦と千枝
並びに祖父母である均と清美は明照の荷物を
届けに来た。明照が何か言う前にお泊まりが確定した。
「明照君、一緒に御風呂入ろうね」
「え、あ、うん・・・」
目の前で次々起こる超展開についていけず
オーバーヒート寸前の明照はこの時は半ば
機械的に返答した。

「明照君、熱くない?」
「大丈夫だよ。有難う」
杏果と共に湯船に入っても、明照は未だ
考える余裕が無かった。それどころか
今の状況は極普通と考えていた。

やがて、湯船から出て体を洗う段階に入った時
明照は漸く自分が今何しているか理解した。
「え!? 僕、何で杏果ちゃんと一緒に・・・!?」
「何言っているの? あたしが“一緒に入ろう”って言ったら
ついて来たのは明照君だよ」
「僕、そんな事言ってた? 本当に?」
「本当だよ。分かったら体洗わせて」
あっと思った時には時既に遅く、杏果の
小さな手の感触が明照の背中に伝わってきた。
こうなると最早逃げられず、明照は観念して
杏果に体を委ねることになった。
「そうだ、折角だから・・・」
明照がキョトンとしていると、杏果は
肩揉みを始めた。小さな手からは想像もつかない力に
明照は思わず吐息を漏らした。
「あ、そ、それ、良い・・・」
「そう? 良かった。リラックスしてね」
肩を揉んでもらいながらも明照は自問自答を繰り返していた。

何で自分はこんな事をしているんだ。
小さい女の子に肩を揉んでもらうなんて情けないんじゃないのか。
抑々、一緒に御風呂に入っている時点でどうなんだ。
否、待て。そんな事を考えると云う行為自体が
間違っているんじゃないのか。子供と一緒に御風呂に入る事を
邪推する奴の方が間違っているんじゃないのか。
勝手に有りもしない事を想像して暴走しているだけじゃないのか。

散々考えた末、明照は漸く結論を出した。

一緒に御風呂に入るのは至って真っ当な事だ。事実
疚しい事なんて何一つ無い。体を洗ってくれたのも
肩を揉んでくれたのも、杏果ちゃんの好意だ。
悪い様に言う奴は、腹の中で良からぬ事を考えている。
こんな場面を変な方に結び付ける奴こそが真の変態だ。

自分が出した結論に納得すると、明照は大きく頷いた。

御互い体を洗い終えた後、明照が目線を杏果から
逸らす事は無かった。
「考えてみると、誰かと一緒に御風呂入ったのは久しぶりかも」
「明照君が望むなら、あたしは今後も付き合うよ」
「本当? そりゃ嬉しいな」
「なら、今度はあたしが泊りに行く番だね」
また一騒ぎ起こると確信した明照は思わず苦笑した。
それを知ってか知らずか、杏果は不意に思わぬ事を言い出した。
「明照君、さっきの御礼しないとね。辛かった過去
話してくれた以上、あたしも話さないと不公平だからね。
あたしは嘘吐き・不公平・恩知らず・飲食物を粗末にする輩が
昔から物凄く大嫌いで堪らないんだよ」
「え、良いの? じゃあ・・・お願いしようかな」
そうして杏果が話し始めた内容もまた、真っ暗な内容だった。
「結論から言うとね、あたしにはパパとママとお兄ちゃんが
“居た”。こう言えば想像つくんじゃないかな」
考えてみると、今まで両親とは一度も会ってない。まして
兄の存在など考えもしなかった。
「話して辛くなったら何時でも止めて良いからね」
「有難う。その時はそうするね。あたしの部屋が2つ有る理由
今ので分かったよね。縫いぐるみの間、あれは元々
お兄ちゃんが使ってた部屋なんだよ。本人の私物はもう
一つも残ってないけどね」
思い返せば、男児の持ってそうな物は何も無かった。
「永遠の命なんて無い事はあたしも知っているよ。
何せ幼稚園の時、パパの方のおじいちゃんとおばあちゃん
病気で死んだからね」
「そうだったんだ・・・」
明照はこの時思い出した。そう言えば、未だ入ってない
部屋が有った。仏壇や位牌が有るとしたらそこだろう。
「続けるね。パパとママとお兄ちゃんが生きていた頃って
言ってみれば、仮面舞踏会だったんだよ」
小3とは思えない程高い語彙力に明照は感服しながらも
杏果の話を聴いていた。
「今、もしかして、仮面を被って、ドレス着て
踊っているとでも思った?」
「ま、まさか!」
「冗談。でも、大好きな明照君と一緒に踊るのは
全力で大歓迎だから安心してね。
・・・話、戻すね。はっきり言って、パパとママは
あたしよりお兄ちゃんを可愛がってた。そんな様子
見せない様にしていたけどね。事実
誕生日・クリスマス・授業参観で差別されたことは
無かったし。だけど或る時聴いたんだよね。
知りたくなかった真実を」


ここで時は3年前に戻る。
「それじゃ、お休み」
「お休みー」
杏果は兄の慶喜(よしのぶ)と共に、両親に挨拶を済ませ
各自の寝床に向かった。慶喜は直ぐに自分の
部屋に入り、熟睡した。しかし、杏果は不意に
便所へ行きたくなり駆け込んだ。

「あぁもう・・・眠気が今ので吹き飛んでないよね?」
洗面所で手を洗い終えた杏果が自室に戻ろうとすると
両親の話し声が聞こえた。
「杏果も遂に小学生ね」
「本当、早いもんだな」
最初は何も疑っていなかったが、2人の話は
徐々に思わぬ方向へ進んでいった。
「親父とお袋が去年死んだのは大きな痛手だな。
御蔭で俺の良き理解者が一気に2人も居なくなった。
2人目が女と知った時、俺達は本当にがっかりしたよ」
幼いながら、杏果は大体話の内容を理解していた。
「ちょっとあなた、聞かれているかも知れないわよ」
「こんな時間に起きている訳無いだろう。産んだ
御前が悪い訳じゃない。種を仕込んだ俺にも責任が有る。
正直な、慶喜と同じだけ愛することが出来るか、自信
無いんだよな。まぁ、露骨に差別するとお義父さんと
お義母さんにバレた時が怖いからな。なるべく表では
全く同じ様に接するけど」
「やれやれ。あなたって人は。でも、そうね。
今だから言うけど、女と分かってたら中絶してたかも。
世間体が有るからしなかった、否、出来なかったけど」
「御前の方が余程怖い事考えているじゃないかlololol」
2人がこちらに気付いてない間に杏果は忍び足で
自室に戻ると、全身布団に潜り込み、嗚咽した。
「嘘だよ・・・こんなの・・・・・・寝惚けてたんだよね?・・・」
間違い無く自分の耳で聴いた事ではあったが、杏果は
現実を認めなかった。


「それ以降、あたしは何も知らないふりして
偽りの笑顔の仮面を被って過ごしてた。パパとママと
お兄ちゃんも、あたしへの本心を隠して過ごしてた」
「それで仮面舞踏会って訳か・・・」
風呂場に敷いたマットに寝かされた明照は、足を
揉んで貰いながら一連の話を聴いていた。
「まぁ、ここまでは序ノ口だよ。
ここから先はあたしの運命を動かした話。あの日
あたし達はバスに乗ってたんだよね。断っておくけど
ダブルデッカーでもボンネットバスでもないからね。
「あはは、そんな誤解はしてないよ」
「冗談だよ。続けるね。あの日、パパはお兄ちゃんを
膝の上に座らせてた。ママはその横。確か真ん中ら辺だったよ。
あたしが座ったのは一番後ろの列の、端。
この段階で明らかに異常だって分かるよね?」
「確かにね。杏果ちゃん1人だけぽつんだから」
澱み無く話す杏果は意図的に壁に向かって話していた。
その行動の意味を理解した明照は、何も言及せず
話を聴いていた。


「久しぶりだな、家族皆でお出掛けなんて」
「本当ね。今日は何して遊ぼうかしら」
「俺、観覧車乗りたーい」
路線バスの中で杏果の両親は慶喜を膝の上に乗せ
駅前のデパートで何して過ごすか想像していた。
一方、杏果は最後列の端の席でぼんやり外の
景色を眺めていた。
「どうせまた何時ものパターンだよね。1万円
渡され“これで今日1日好きに過ごしなさい”。
普段のお小遣いとは別にお金増えるから、全く
嬉しくないとは流石に言わないけどね」
しかし、この時の杏果は全く知らなかった。
何度となく見てきたこの風景が数秒後、世にも恐ろしい
地獄絵図となる事を。

信号が青に変わり、車が一斉に動き出した。
杏果達を乗せたバスが交差点を通過した時
猛スピードで突進してくるタンクローリーが見えた。
杏果は咄嗟に手すりを握り、姿勢を低くした。これが
功を奏し、激突しても大して衝撃を受けずに済んだ。
しかも、暴走タンクローリーがぶつかった位置は
路線バスの真ん中ら辺であった。杏果が座っていた
所から離れていた点も明暗を分けた。
「・・・・・・っ・・・! パパ、ママ、お兄ちゃん・・・?」
恐る恐る目線を上げてみると、そこには赤い海が広がっていた。
両親と兄は、未だ息が有った。とは言え虫の息だった。
どうしようかと考えていると、頭から血を流した
バスの運転手が姿を現した。
「大丈夫ですか・・・あぁ、良かった。未だ生きてたか」
唯一無傷だった杏果を見た運転手は、自分も酷い激痛に苦しむ中
非常口を開く手伝いをしてくれた。
「・・・よし。今の内に逃げるんだ。そこの公衆電話から119番
掛け方は分かるかい?」
「はい。教えてもらったことが有ります」
「よし。それじゃ、任せるぞ」
車が通り過ぎたタイミングを見て杏果は一足先にバスから降りて
公衆電話に駆け込んだ。電話口で事情を話している最中
杏果が今まで一度も聞いたことがないであろう轟音が響いた。
何事か大体想像は出来たが、杏果は振り返らなかった。
否、振り返れなかった。見てしまったら残酷極まりない現実を
嫌であろうとなかろうと認めざるを得なくなる。

約5分後、杏果達と運転手は現場に着いた救急車に
乗せられ、病院へと運ばれた。
杏果本人は外傷も無く、臓器も平常通りだった。
運転手は、重傷でこそあったものの、致命傷には至らなかった。
しかし、あの時虫の息だった両親と兄は爆発に呑まれ
真っ黒になった。
後で警察から聞いた話によると、両親は兄を庇う様にして
硬直していたらしい。
「・・・やっぱり。あの人達にとって、あたしより
お兄ちゃんの方が大事だったんだ。もしちょっとでも
あたしに愛情残っていたならどっちかが守りに来た筈だよ。
だってあたしが何処に座ったかは分かっているんだから」
歪んだ顔を見せたくなかった杏果は何時もの様に
壁に向かって独り言を呟いた。そんな様子を見て
警察官は何と声を掛けて良いか分からなかった。
「・・・何か他に知りたい事は有る?」
「特に有りません」
杏果にとっては、家族の死そのものよりも
誰も自分を気にかけてくれなかったという現実の方が
重苦しかった。


体を洗い終え、湯船に入った2人はお互い
違う所に目線を向けていた。
「・・・とまぁそんな訳。これは余談だけど、事故を起こした
タンクローリーは盗まれた物だったんだって。しかも
運転手は酒を飲んでた上に免許も持ってなかったらしいよ。
おまけに何か危ない薬やってたって」
「うわ、酷いなそれ・・・警察特番に有りそう」
「明照君もそう思うよね。それでね、あの時
他にお客さん誰も居なかったから、唯一
無傷で生き残ったあたしはマスコミによって
悲劇のヒロインに祭り上げられたんだよ。しかも
パパとママがどちらもあたしを放っておいて
お兄ちゃんを庇った事が知れた後、あたしが
可哀想って声が余計大きくなってね。賠償金とは別に
確か・・・義援金って言うんだっけ。それも沢山
集まったんだよ。それに、縫いぐるみ・魔法少女グッズ
文房具・お菓子・ジグソーパズル等も送られてきてね。
おじいちゃんとおばあちゃん、一時期忙しいって困ってた」
送られてきた荷物の仕分けをする場面を想像して、明照は
少しだけ可笑しくなった。
「仕分け、杏果ちゃんも手伝った?」
「勿論。大変だったよ〜。でも、それは大した事じゃないよ。
パパとママがあたしを本当は愛してなかった事だけじゃなく
悪い事をしたと認めさせることが永久に出来なくなったのが
悔しくてたまらなくてね。悪い事をしといて謝りもせず
勝手に遠くへ行って・・・・・・!」
壁を向いたまま体を震わせる杏果は不自然に咳をしていた。
どうしようかと迷った末に明照はとある決断を下した。
「杏果ちゃん、言ってくれたよね。“本音を隠さず、何でも
話して欲しい”って。“嬉しさも、悲しさも、一緒に分かち合いたい”と
言って貰えた時、僕は凄く心強かった。だから、言わせて貰うね。
僕は誰よりも大好きな杏果ちゃんの悲しみと苦しみを分かち合いたい。
どんな表情をしていても、杏果ちゃんが別の誰かに変わる訳じゃないから
僕だけにでも、素顔を見せて欲しいな」
母方の祖父母を除けば世界一信頼出来る明照から言われては
拒否する正当な理由など何も無かった。
「今のあたしは酷く顔が歪んでいるよ。それ見たら
百年の恋も冷めるかも知れない。それでも本当に見たい?
一度見たらもう引き返せないんだよ」
「分かっているよ。分かった上で御願いしているんだ。
杏果ちゃん、僕に素顔を見せてくれ」
数秒固まった後、杏果はゆっくり振り返った。
その表情は、激怒・悲しみ・怨念・妬み・後悔等の
集合体であり、既存の言葉では到底表現出来なかった。
「・・・これを見ても未だ同じ事を言える?」
「言えるよ。杏果ちゃんこそ、何時迄も泣いて良いよ。
恥ずかしい事じゃないんだよね?」
抱き寄せられ、大きな手で背中を撫でられると、最早
我慢など出来なかった。杏果は既に不自然な咳で
誤魔化すのを止めていた。そんな必要は無いと悟っていた。
「御免ね。明照君が辛かった過去を話してくれた御礼と
言っといて、何時の間にかあたしの恨み言になってたね」
「自分を責めなくて良いよ。杏果ちゃんは何も悪くない。
何も間違ってない。女の子だからって理由で杏果ちゃんを
愛さなかったパパとママが完全に悪いよ」
少し前、明照に言った事が自分に返ってきて、何時しか
杏果は笑いを堪え切れなくなった。
「特大ブーメランとはこの事なのかな?」
「そうかも知れないけど、気分は悪くないよね?」
「まぁね」
杏果の涙は未だ乾いてはいなかったが、風呂場なので
見分けがつかなかった。

風呂上がり、英子が用意した麦茶を飲み終えると
杏果は膝の上に乗っかり何時もの笑顔を見せた。
「明照君、裸の付き合いって良いね」
「本当だね。誘ってくれて嬉しいよ。1人だと味気無かっただろうね」
最初は小さい女の子と一緒に御風呂に入ったと云う
事実に半ばパニックだった。然し、大分リラックス出来た明照は
杏果の優しさを理解し、感謝する余裕が出来た。
「杏果ちゃん、辛かっただろうに正直に話してくれて
有難う。僕を信頼してくれたんだね」
「会った初日からしているよ。只、言うチャンスが中々
無かったけどね。そうだ、何か教えて欲しいなら
何でも言ってよ」
例によって思わぬ申し出を受けたが、明照は冷静だった。
「魔法少女について教えてくれる? この前
入った部屋に色々有って、興味持ったんだよね」
明照は極普通に答えたが、杏果にとっては違った。
「そういう意味じゃないよlololololol
まぁ、知りたいと言うのなら教えるけどねlolololol
あたしが言ったのは歌声喫茶の事だからlolololol」
大笑いしながらも、杏果は親友の御願いを快諾した。
一方、盛大に勘違いしてた明照は苦笑しながらもタブレットの
画面を見せ、とある動画を再生した。
「歌声喫茶という事なら、丁度これが気になったんだよ」
杏果が覗き込んでみると、そこには自分が上げた
動画が載っていた。
「あたしの動画を選ぶとは、明照君
見る目が有るね。そして選曲も最高。夕飯まで
未だ時間が有るから魔法少女の間で練習しようか」
「え、えぇ!?・・・・・・この子って・・・杏果ちゃん!?」
「気付いてなかったんだね。そうだよ。
“マジカル九尾狐(クミホ)”はあたし」
SongTuber(ソングチューバー)も掛け持ちしている杏果は、自分が
東ドイツの国歌“|Auferstanden aus Ruinen《廃墟からの復活》”を
歌う動画が選ばれてすっかり上機嫌だった。
狐のお面を被っているので誰だか分からなかったが
まさかこんなに近くに居たとは。
Chang(チャン) Yuehui(ユエホイ)に続き、憧れのSongTuberが増えたので
明照は思わず欣喜雀躍した。

この日の夕食の前後、明照は杏果から新たな歌曲を教わった。
杏果の部屋はどちらも二重窓に防音壁である為
余程の大暴れでもしない限り
外を通る通行人には何も聞こえなかった。
今日もまた杏果の家に招かれ、果物を御馳走になっていた
明照は思わぬ話に飛び上がりそうになった。
「コンサートですか!?」
主宰者、小野田寛司の提案は正に寝耳に水だった。
「年に数回やっているんだ。宣伝も兼ねてな。
明照君にとってもこれはまたとないチャンスだよ」
「これって、ネット上で生配信しますか?」
一番恐れていた事を明照は尋ねた。99%以上の確率で答えは
Ouiだろう。しかし、運良く残りの1%が当たる可能性は理論上
否定出来ない。明照は目線を逸らさなかった。
「勿論よ。沢山の人に知って貰いたいわ」
あの祖父母にしてこの孫有り。どんだけ自由過ぎる
発想力を持っているんだ。唖然とはしたが、嫌とは
最初から考えていなかった。
「楽曲選ぶの手伝わせて下さい」
何かを決心した明照の言葉は寛司と英子にとって
杏果の成長と同じ位素晴らしい事だった。
「じゃあ、任せてみようかな」
「明照君、宜しくね」
期待されているなら応えないと云う選択肢など無かった。

当日、何時もの会場は普段より賑やかだった。
明照の両親をはじめとする、大勢のオーディエンスが
開演の時を待ち望んでいた。
舞台袖から見ていた明照は流石に恐怖を覚えた。
「如何しよう。今になって怖くなってきた。
杏果ちゃん助けて」
最早情けないなんて言っていられなかった。万一しくじれば
赤っ恥を晒すのは自分1人だけではない。それに
もしかすると同級生も見ているかも知れない。だとすれば
悪い噂が学校で広まった場合、それは社会的な死を意味する。
「良いよ。さぁ屈んで」
素直に従い、屈むと、杏果は明照の耳朶を弄り始めた。
心地良い感触に耽っていると、明照は邪念を捨て去ることが出来た。
「助かったよ。有難う」
「朝飯前だよ。他に何しようか?」
「これ位で十分だよ。一緒に頑張ろうね」
「勿論だよ。皆に良いところ見せないと」
再び立ち上がった後、遂に開演時間が5分前に迫った。
明照は、以前杏果から教わった事を思い出した。


数日前、皆が帰った後明照が1人で“聞け万国の労働者”を歌っていると
杏果が横でじっと聴いていた。
歌い終えるのを待って、杏果は声を掛けた。
「明照君、オーディエンスの前だとやっぱり怖い?」
「そりゃ怖いよ。何せ誰が来るのか全く分からないから。
もしかすると、僕の通う学校の同級生や先生かも知れない。
或は、杏果ちゃんが通う学校の同級生や先生かも」
少し考えた後、杏果は手を打った。
「オーディエンスを人間だと思うから怖くなるんだよ。
果物のオブジェだと催眠術を自分にかけるのは如何?
嫌なら代わりに野菜のオブジェって事でも全然良いけど」
全く予想外の提案に、明照は目を丸くした。
考え込んでいると、何時の間にか姿を見せた清美が
明照の背中を撫でていた。
「良い考えね。流石は杏果ちゃん」
一足違いで現れた寛司もまたこの案に乗った。
「確かに、果物のオブジェ相手に怖がる要素は無いな」
「そうまで仰るならやってみます」
試しに想像してみたところ、不思議と緊張感は消え失せた。
これにより明照は確信した。これなら確実にいける。


「そうだよ。何で忘れてたんだ。果物のオブジェ。
客席に居るのは果物のオブジェなんだ・・・・・・」
ゆっくり深呼吸しつつイメージを固めた結果、大分
緊張感が薄れた。
開演のブザーが明照の意識を現実から切り離した。
最早客席には人間など1人も居なかった。
「大丈夫。必ず成功する。落ち着いてやれ」
誰にともなく呟いた明照は“ともしび”をロシア語で合唱した。
歌い終えた後、拍手を浴びながら明照は実感していた。
人前で歌うのを怖がる性分を克服して本当に良かった。

「本日は私達のコンサートへようこそいらっしゃいました。
歌声喫茶“ひかり”の主宰者、小野田寛司です」
「進行役を務めます、小野田英子です」
「助役を担当する、稲葉杏果です」
老夫婦に続き、不意に可愛らしい女の子が姿を見せたことで
オーディエンス達は思わずほっこりした。
懐古厨の年寄りの茶番だろうと高を括っていた者も中には居たが
杏果の存在により、バケツ1杯分の冷や水を
頭からぶっかけられた様な気がした。
「それでは、私達のハーモニーをどうか御楽しみ下さい」
杏果の言葉を合図に次の歌が始まった。
これまたロシア語で歌われた“トロイカ”が会場内に響き渡った。
続いて歌われた“モスクワ郊外の夕べ”に至っては、偶然
ロシア語の歌詞を知るオーディエンスが一緒に歌う一幕も有り
場をより一層盛り上げた。

時は流れ、遂に最後の曲の番となった。
「最後は皆で一緒に歌いましょう。只座って聴いているだけなんて
面白くないでしょうから」
杏果の一声を合図に、メンバー達は客席に歌詞カードを配りに行った。
その間、待機用BGMとして、この後歌う“聞け万国の労働者”が只管
流れていた。これで少しでも馴染めるだろうという計算だった。
「初めての方もいらっしゃると思うので暫くの間
練習する時間を設けます。御手洗へ行きたい方も
今の間にどうぞ。場所は右奥の扉を開けて直ぐです」
清美の言葉を聞き、数名のオーディエンスは
待ってましたとばかりに席を立った。

全員戻った後、この日最後の楽曲が歌われた。
老若男女・国籍・出身地等の立場を超えて
皆が一緒に“聞け万国の労働者”を朝鮮語と日本語で歌う姿は
圧巻そのものだった。

皆が帰った後、後片付けを済ませた会員達はテーブルを
囲んでいた。そこにはクッキーとミルクティーが有り
労をねぎらう用意がされていた。
「よく頑張ったな、明照」
「土鳩からフェニックスと英子さんが仰ったのは
冗談でも誇大広告でもない、揺るぎない真実ね」
仁と清美を筆頭に、皆が明照の頑張りを絶賛していた。
幼稚園の頃から詳しく知っている味の御菓子も
何故か今日は味が何時もと違う様な気がした。
「おじいちゃんとおばあちゃんが僕をここへ連れて
来てくれた事が全ての始まりでした。今では隣に
僕を慕ってくれる親友が居ます」
不意に自分の事に言及され、杏果は一瞬
驚いたものの、嫌な気はしなかった。
「明照君、本当は果物のオブジェだって思い込んでも
未だチムドンドン(ドキドキ)してたよね? 気にしないで。
何もおかしな事じゃないから」
「やっぱりバレてたのか。杏果ちゃんには敵わないな」
照れ臭そうに笑う明照と、得意そうな顔の杏果に
誰もが表情筋を緩めた。

小規模の打ち上げが終わった後、明照は
杏果の部屋に呼ばれた。
「明照君、とてもよく頑張ったから御褒美に
素敵なものを見せるよ」
「素敵なもの? 何だろう。楽しみ」
会って間も無い頃の明照ならこう言われると萎縮していた可能性が高かった。
しかし、裸の付き合いと本音の吐露を経た今なら何も怖くない気がした。
縫いぐるみの()に入った後、杏果は体操服に着替え始めた。
何と、それは幼稚園の頃に着ていた物だった。
「あたし、年長さんの頃から身長伸びてないんだよ。
だから今でも普通に着ることが出来るって訳」
「こんな事って有るんだねぇ」
明照はこの時猛省した。

自分の見立ては予想以上に甘過ぎた。
杏果ちゃんは自分が何を予想しても、常にその斜め上を行く。
もしかすると何も予想しない方が楽なのかも知れない

考えていると、杏果は準備運動を終えた。
「それで、その格好に着替えて、何を見せてくれるのかな?」
「動画サイトで見たんだけど、昔、小銭チョコのCM
話題になったのが有るんだってね。あれを再現するよ。勿論
100%同じとはいかないけどね」
何処迄も自由過ぎる杏果が、今の明照には愛らしく思えた。
「♪お尻をフリフリ小銭チョコ 皆でフリフリ小銭チョコ♬」
リアルタイムでは見たことが無かったものの
楕円を描く様にお尻を振っている杏果の姿は
明照を萌えさせるには十分過ぎる要素だった。
杏果は自分1人だけの為に目の前で体を張ってくれている。
これはどれ程感謝しても十分ではない。そんな気がした。
前屈みになり、お尻を自分に向けて突き出した瞬間でさえ
明照は不思議と邪念を抱かなかった。

たった1人のオーディエンスの為に開かれたショーが終わった後
明照は初めて杏果をお姫様抱っこした。
「明照君・・・?」
キョトンとする杏果を他所に、明照は上ずった声で
耳元で囁いた。
「これは他の人の前では絶対しないで。その代わり
僕の前でならどんな事でもやってくれて良いから」
「あれ、もしかてやきもち? 可愛い事言うね。
良いよ。他でもない明照君の御願いだから。
後、何かリクエスト有ったら言ってね」
「それなら、僕、勇気を出してやらせてもらうよ」
杏果が何か聞き返す前に明照は唇を交えた。以前
完全に不意を突かれたので意趣返しの機会を待っていたのだった。
「あ、明照君・・・・・・」
「驚いた? 僕だって本気を出せば出来るんだ。
・・・全く怖くないと言ったら嘘になるけど」
思わぬ展開に、杏果は一時的にフリーズした。しかし
直ぐに何時もの調子に戻った。
「良いよ、明照君。凄く素敵だね。今ので一挙に
20段階レベルアップしたよ」
予想以上の好成績に思わず笑みを浮かべると、明照は一旦
杏果を地に下ろしたと思うと、自ら膝の上に座らせ頬を撫でた。
今は亡き両親が一度もしてくれなかった事をして貰い
杏果は涙をこぼしながらも、笑顔を浮かべていた。
1年前の某日、明照が通う学校の裏口では
血の臭いが漂っていた。
顔に幾つか痣を作っていた明照は、うっすら褐色の皮膚が
特徴の、大柄な男子生徒に介抱されていた。
その横では、同じ皮膚の色と体格の女子生徒が
明照に怪我をさせた破落戸達を血の海に沈めていた。
「くぬやなわらばー。また同じ事してみろ。くるさりんどー!」
夜叉ですら泣きながら逃げ出さんばかりの勢いに
破落戸達は必死で御免なさいを連呼しつつ逃げていった。

後始末を終えた後、男子生徒は明照を担ぎ上げた。
「明照、大丈夫か? 保健室まで運ぶぞ」
「御免。また助けられたね・・・」
弱々しく応える明照は、既に泣く元気も無かった。


放課後、明照が帰り支度をしていると
大きな人影が2つ、足音も立てず迫ってきた。
「あぃ、明照ー、一緒に帰ろう」
「丁度話したい事も有るからさ」
一瞬驚きはしたが、嫌がる気配は微塵も無かった。
「一緒に帰ろうか」
何時も無表情な明照がこの時は極僅かとは言え
喜怒哀楽の内、喜の表情を浮かべた。

根路銘(ねろめ)(たかし)赤嶺(あかみね)美娜(みな)。うっすら褐色の皮膚と
中学2年生とは到底思えない程の巨体を持つこの
カップルは、一見すると明照とは住む世界が違う様に見えた。
しかし、この2人は明照の、学校での数少ない親友の代表格である。
1年の時も同じクラスだった崇と美娜は、高い声問題で傷付いていた
明照に寄り添い、共に怒り、涙したことが有った。しかも
先生に告げ口をしたからと報復として痣が出来る程酷い暴力を振るった輩に対し
夢にまで出る程のトラウマを植え付ける位には強い力と正義感を持つ。


明照は以前、こんな事を口にした。
「2人の結婚式の時、僕が仲人と司会を引き受けようか」
冗談か本気か、自分でもはっきり分かっていなかった。
だが、気立ての良い2人は笑顔でこれを快諾した。
じゅんにな(本当に)? にふぇー・どー(有難う)
「そうなった時はゆたしくねー」
祖父母の住む島の訛りを交えつつ、崇と美娜は太陽の如き笑顔を見せた。


帰り道、明照は案の定先日のコンサートの事で色々聞かれた。
「これ、聞いたことない言葉だな」
「英語じゃないよね?」
予想はしていたので別に驚きも苛立ちもしなかった。
「そうだよ。ロシア語。ここに来なければ、もしかすると
一生触れなかった可能性が高いね」
物珍しさに目を丸くしている崇と美娜に
明照は前から言いたかった事を口にした。
「一緒に歌声喫茶“ひかり”に行こうよ。紹介したい子も居るし」
普段消極的な明照から招待された事自体も驚いたが
それ以上に、紹介したい子の存在が気になった。
「歌声喫茶なんて知らなかったし、行ってみるか」
「学校でもカラオケボックスでもない所で歌うって
緊張するけど、面白そうでもあるね」
「有難う。それじゃ、2人の事は事前に先方に知らせとくから」
崇と美娜があっさり招待を受けてくれたので、明照は胸を撫で下ろした。
「そうだ。僕の大親友について詳しく教えとくね。
会って1日で仲良くなれるから」
明照が杏果について教えると、2人は猛スピードでノートを取るのであった。

当日、遅刻したくないからと早く目的地に着いた3人は
時間潰しにSongTubeの動画を見ていた。
金色の仮面で顔を覆い、鮮血の様に真っ赤なドレスを着た
小学3年位に見える女の子、Chang(チャン) Yuehui(ユエホイ)
“三大規律 八項注意”を歌っていた。
字幕が有るので歌詞の意味は分かるものの、歌曲自体
初めて聴いたので3人には新鮮に映った。
「この子、外国人なのか?」
「如何なんだろうね」
「まぁ、可愛いから良いけどね」
3人があれこれ考えていると、主宰者の孫娘が一足先に姿を見せた。
「初めまして。稲葉杏果だよ。根路銘崇君と赤嶺美娜ちゃんだね?」
厳つい見た目の所為で怖がられた経験が多い崇と美娜にとって
6歳前後の女の子が笑顔で接してくれるのは、魂の洗濯に他ならなかった。
「初めまして。根路銘崇とは俺の事だよ」
「赤嶺美娜です。君が杏果ちゃんなんだね」
視線を合わせた2人の表情は、明照でさえ1度たりとも見たことがなかった。
例えるなら、孫が遊びに来てすっかり機嫌を良くした祖父母だった。
明照から事前に杏果の好きな物を聞いていたので崇と美娜は
杏果への手土産を選ぶのに何の苦労もしなかった。
「あー、すごーい。あたしの好きな物、よく分かったね。
にふぇーでーびる!」
思いがけずウチナーグチの“奇襲”が有り、崇と美娜の
魂は、うっかり天高く昇るところだった。
「おーい、戻って来ーい!」
明照の大声により、2人はギリギリのところで我に返った。
「い、今、ニライカナイが見えなかったか?」
「本当だね。梯梧の花がいっぱい咲いてた」
予期してなかった事態に、明照は苦笑するしかなかった。
そうしている間に主宰者夫妻も到着した。
「初めまして。小野田清美です。2人の事は
明照君から聞いているわよ」
「小野田寛司です。歌声喫茶“ひかり”へようこそ」
2人の姿を見て崇と美娜は丁寧に一礼した。
「初めまして。明照君の紹介で伺いました。根路銘崇です」
「赤嶺美娜です。本日は宜しく御願い致します」
明照に似て行儀が良い2人を見て、寛司は大きく頷いた。
「類は友を呼ぶと言うけど、本当だね」
「そう仰って頂けて嬉しい限りです」
友人を肯定され、明照は自分も褒められた気がした。

開始の時刻が迫り、場内には何時ものメンバーが揃っていた。
明照は祖父母にも崇と美娜を紹介した。
「紹介するね。根路銘崇君と赤嶺美娜さん。2人共
幼馴染で、尚且つおじいちゃんとおばあちゃんが
沖縄の人なんだって」
孫が同年代の友達を紹介しに来た事が均と清美にとっては
喜ばしい事だった。
「初めまして。吉野均です。明照が御世話になっている様だね」
「吉野清美です。仲良くしてくれて有難う・・・あら、名前
何だったかしら」
元々ウチナンチュの名前は独特なので仕方ない事だと
褐色カップルは受け入れていた。
「大丈夫ですよ。ゆっくり覚えて下さい」
「内地の人が聞いたら吃驚するのも無理ないです」
2人の気配りに、明照は、今後一生足向けて寝られないと考えた。

会が始まり、寛司と英子は壇上に上がった。
例によって、杏果は明照の膝の上に鎮座していた。
「今日は見学の方が2名いらっしゃるので“一週間”を歌います」
「御手元の歌詞カードを御覧下さい」
タイトルだけ聞いても崇と美娜はピンと来なかった。
しかし、実際に聞いてみると情報が繋がった。
「あ、あれロシア民謡だったのか」
「全然分からなかった」
楽曲の正体は分かったものの、2人もロシア語は全然
分からないので練習に苦労した。
「明照はこんな難しいのを歌っているのか」
「誰でも出来る事じゃないよねー」
前にも聞いた覚えの有る言葉に、明照は苦笑した。
「父さんが全く同じ事言ってた」
思わぬ反応に崇と美娜は不覚にも盛大に噴いた。

実際歌い終えた後、崇と美娜は口の周りの筋肉が
痙攣した様な感覚を覚えた。
「下手な早口言葉より余程大変だぞこれ」
「本当。こんなに難しいなんて思わなかった」
頭を抱えていると、杏果は明照の膝の上からピョンと飛び降り
2人に駆け寄った。何事かと思い目線を向けると、年相応の
笑顔を見せ、2人の手を優しく握った。
「たーかーにーにー、みーなーねーねー、ちばりよ(頑張れ)ー」
何で知っているのかは謎だったが、何れにせよ
杏果の言葉は2人にとって、どんな経文より有難かった。
「おい、こんな所に天使が居るぞ」
「今頃天界では、この子が居なくなったと大騒ぎの最中かも?」
流石に今度は魂が抜けそうにはならなかったが
身も心も蕩けるには十分だった。
御蔭で、時間が余ったからと序に歌った“カリンカ”の時は
最初より大分上手く歌えた。

「御疲れ様。初めてでこんなに出来るとは、才能有るね」
「然も孫がよく懐いている上礼儀正しい。あなた達が気に入ったわ」
皆が帰った後、寛司と英子は本日のゲストに挨拶しに来た。
「全ては、明照君が誘ってくれた御蔭です」
「こんなに楽しいとは思いませんでした」
最初に見た時、粗暴な性格だと勝手に思い込んだ事を主宰者夫婦は大いに恥じた。
「崇君、美娜ちゃん、良かったら今日はうちでおやつ
食べようよ。勿論、明照君も一緒。
おじいちゃん、おばあちゃん、良いよね?」
杏果からの思わぬ招待は崇と美娜を天にも昇る心地にさせた。
「みーなー、俺ら天界へ誘われたぞ」
「大丈夫? 現世に帰れなくなりゃしないよね?」
余りにも締まりの無い顔でにやけるので明照は失笑を禁じ得なかった。
「2人共何やってんだよ・・・まぁ、間違った事は言ってないけど」
一方、寛司と英子は来客が3人に増えて機嫌を良くした。
「また賑やかになるな」
「杏果ちゃんの御蔭でね」
楽しみが増えたと思うと、後片付けの手伝いも苦痛ではなかった。

明照・崇・美娜は会場の裏に有る
杏果達の自宅で果物を御馳走になっていた。
褐色カップルは極上の果実に舌鼓を打つ一方
目の前で起きている現象に目線が釘付けになっていた。
「あたしの可愛い明照君、今日は素敵な御友達
連れて来てくれたね。これからも御願いね」
「あ、うん・・・・・・」
膝の上に乗っかり、明照の背中を撫でている杏果は
一般的によく有る、子供が甘える風景とは何かが違っていた。
どちらかと言うと、年上の人が幼子を甘えさせている様にも見えた。
背伸びしたい年頃と言われて仕舞えばそれまでだが、何故か
他にも何か有る様に見えた。
「明照よー、御前、杏果ちゃんとはどんな仲なんだ?」
「何か、よく懐かれているってのと違う気がするんだけど」
多少は慣れたとは言っても、未だドキドキしながら
明照は答えた。
「初めて来た日、何でか凄く気に入られて。会って1秒で
年の離れた大親友だって認定されたんだ」
何とも変わった現象に、褐色カップルは目を丸くした。
「こんな事って有るんだねー」
「御前、そんなにモテるなんて知らなかったぞこの野郎」
2人の反応を聞いて、杏果は明照の膝から降り、顔を上げた。
「その事なんだけど、続きが有ってね。この前うちに
泊まった時、あたしは大親友からガールフレンドに進化したんだよ」
崇と美娜は勿論、明照もこれは初耳だったので危うく
麦茶を吹くところだった。
「ど、どういう事!?」
慌てふためく明照とは対照的に、杏果は平常運転だった。
「裸の付き合いをした上、御互い昔の辛い事打ち明け合ったんだよ。
その上、泣き顔まで見たから、ただの大親友じゃなくなったって訳」
全く予想してなかった内容に、明照はツッコミが思い浮かばなかった。
杏果は、2人が共有している辛過ぎる過去を崇と美娜に話した。
事情を聞き崇と美娜は目を細めた。
「杏果ちゃんにも悲しい過去が有ったんだな」
「嫌じゃなければ仏壇に御線香あげて良い?」
杏果は少し迷った。確かに自分にとって両親と兄は忌々しい存在だ。
だが、この2人には関係の無い事情。そう考えると答えは一つだった。
「案内するからついて来て。明照君も一緒にどうぞ」
杏果に導かれ入った部屋には、杏果の両親・兄・父方の祖父母の
遺影が並んでいた。簡易祭壇は手入れが為されていて、極最近
掃除したばかりである事が一目で分かった。
4人は順番に線香を上げ、手を合わせるのであった。

紅葉が色付き始めた頃、明照の通う中学校では体育祭・文化祭に並ぶ
行事の下準備が始まっていた。
「これより音楽コンクールに関する話し合いを始める。
去年やったから基礎的な流れは分かっているな?」
社会科の担当であるクラスの担任、仙石聡(せんごくさとし)の言葉に
男子生徒の大半は露骨に嫌な顔をして見せた。
人前で歌うというだけでも十分嫌で嫌でたまらない。
その上更に、皆と声を合わせるなんて想像しただけで生き地獄だ。
勿論、ここで騒ぐと先生が怒るので何も口にはしなかったが
露骨に非協力的な態度なのは心理学者でなくても簡単に分かった。
「先ず課題曲のパート分けから始めるぞ。自分が去年どの
音域だったか覚えているか? 余程の事が無い限り、原則
同じで良いとは思う。只、問題が有るなら名乗り出てくれ」
明照は直ぐに嫌な記憶が蘇ったが、よく考えてみると、当時
明照に嫌な事を言った連中は殆ど別のクラスになった。まして
先生に告げ口した事で逆ギレして暴力を振るった輩は全員
転校して居なくなっていた。
「未だ忘れられないか・・・でも良いんだ。前より酷くなった訳じゃない」
ものの数分もせず課題曲のパート分けは終わった。
「次、自由曲だが、候補は・・・」
この言葉を聞いた瞬間、明照はビリー・ザ・キッドが拳銃を抜くより早く
手を挙げ、立ち上がったと思うと大声で名乗り出た。
「はいっ!! 丁度良い楽曲を知っています! 音源も持ってきました!」
普段は存在感が殆ど無い明照の突飛な行動に、根路銘崇と赤嶺美娜以外
誰もが仰天せずにはいられなかった。
勿論、聡もまた、ただでさえ大きい目を更に大きく見開いた。
何せ1年の時の担任、工藤俊子から“普段は寡黙”と聞いていたので
一瞬、明照ではない、全く別の誰かに見えた。
「田中明照、随分凄い勢いだな。音源が有るなら先ずはそれを聴こう」
聡に促され、明照は前に出るとタブレットに収録された音楽を再生した。
楽曲自体も全く知らないが、それ以上に、言語も謎だった。
楽曲が終わると、聡は腕を組み大きく頷いた。
「誰か、この曲を1度でも聴いたことが有る者は居るか!?」
数秒待ったが誰も手を挙げなかった。
「誰も居ないか。田中明照、この曲について解説を頼む!」
「はい。この歌のタイトルは“国際学生連盟の歌”です。
原爆を以てしても絶たれない熱い友情がテーマです」
「熱い友情か。気に入った! して、この言語は何だ?」
聡の圧にドキドキしながらも明照は答えた。
「これはロシア語です。何でかというと、今迄
英語の歌は有ったものの、他の外国語は未だ誰も
やってなかったので、またとないチャンスだって考えたからです」
「よく調べたな。その通りだ! しかも、問題はこれだけではない。
未だ決まった訳ではないが、音楽コンクールは今年が最後になる
可能性が有る。それを思うと、尚更最後に凄い物をやりたくなるな」
聡が乗り気になる一方、同級生の何人かは益々やる気を削がれていた。
合唱自体が嫌+聴いたこともない歌+知らない言語と、三重苦なのだ。
とある男子生徒が挙手した。
「あの、前例が無い事に挑むって考え自体は素晴らしいけど
皆英語だって余り分からないのにロシア語って・・・どうなの?」
これを皮切りに反対派が口々に騒ぎ出した。
「他に無かったのかよ」
「そうでなくても合唱ってだけで嫌なのに」
「巫山戯るなよ」
最初の内は未だ比較的まともな意見も有った。然し
後半から、単純に明照本人への中傷に変わっていた。
「大体陰キャの癖に何出しゃばってんだよ」
「地味な癖に生意気だぞ。身の程を弁えろ」
「去年御前の所為で私ら無茶苦茶怒られたんだから」
罵倒の大嵐に晒されている間、明照は視界が暗くなってきた気がした。
あぁ、結局去年と全く同じ事の繰り返しなのか。勇気を出して
皆の前に立ったのは間違いだったのか。
明照の耳に入ってくる言葉は最早只の雑音でしかなかった。
そんな時、低く、それでいて威圧感の有る声が耳に入った。
「おい、今明照に地味だの生意気だのほざいた奴
正直に名乗り出るなら決して悪いようにはしねーぞ」
恐る恐る目線を向けると、赤嶺(あかみね)美娜(みな)は一見冷静に見えた。
然し、本性を熟知する明照と、根路銘(ねろめ)(たかし)は理解した。
下手な事言うと火に油を注ぐ結果になる。
暴走すれば教室が血で染まると判断した崇は
牽制も兼ねて立ち上がった。
「反対するならするでも良いけどよ、それと
明照本人への悪口は違うだろうが。分からないのか?」
次の瞬間、大部分の生徒は静かになった。
崇と美娜は、普段はとても情深いが、キレさせたら
誰も止められない暴れ者として非常に有名だった。
しかし、それを知ってか知らずか、数名は未だ食い下がった。
「だってこいつ去年クラスを引っ掻き回したんだろ」
「何でこんなキモい奴なんかの肩を持つんだよ」
「さては何か弱みを握られているの? 助けるよ?」
警告しても無駄だったと悟った美娜は崇に目線を向けた。
小さく頷いたのを見ると、美娜は前に出てきた。
「貴様等さっきから聞いていれば明照への人格否定ばっかりして。
そんな大それた事が出来る程偉いのかよ! 自分が阿羅漢だとでも
言うのかよ! 或は阿闍梨だとでも言うのかよ!」
「いや、そんな話はしてない・・・」
「喧しいわ!!!」
余りの怒声と剣幕に、明照すら震え上がった。
「貴様等ここへ何しに来たんだよ! 建設的な議論だろうが!
違うのか! 大体な、明照が去年何やったのかちゃんと分かってる奴
居るだろうがよ! 何で本当の事言わないんだよ! 明照を陥れて
小遣い稼ぎでもするのかよ!」
美娜の本気の激怒に誰も何も言えなくなった。
体を震わせているのを見て、聡は漸く口を開いた。
「うむ、よく言った。後は俺に任せて席に戻るんだ。
田中明照、この音源を転送したい。良いか?」
「どうぞ」
聡は自分のタブレットにデータを転送すると再び顔を上げた。
「途中から話が逸れたが、改めて尋ねる。
他に自由曲、候補が有るなら聞こう」
またしても水を打った様に静かになった。
散々好き勝手騒いだ癖に誰も良い代案を用意していなかった。
「誰も候補を挙げないのならこのまま確定だぞ」
数秒待ったが矢張り沈黙が続いた。
「よし、これでこの話はお終いだな。田中明照、この曲の
歌詞を印刷したい。何処にアクセスすれば良い?」
「そう来ると思って用意しました」
明照は聡のタブレットに何やら入力し、とあるページを開いた。
「分かった。ルビが振ってあるとは実に用意周到だな!
・・・おっと、もうこんな時間か。では本日はこれまで!」
丁度チャイムが鳴ったので聡はそのまま職員室へ戻った。
それを見るや否や、生徒達も一斉に教室を去った。
一足遅れて帰り支度を済ませた明照は、崇と美娜の机に向かった。
来るのを分かっていたとでも言わんばかりの様子で2人は
明照に目線を向けた。
「明照、よく頑張ったな。偉いぞ」
「最初に1歩踏み出すって勇気が要るよね」
先程迄の羅刹の如きオーラは既に何処にも無かったのを見て
明照は表情を緩め、話し始めた。
「崇君、美娜ちゃん、僕の為にあれ程怒ってくれて有難う。
家族ですらこんな事してくれた経験は一度も無かったから
凄く嬉しいよ。2人には一生頭が上がらないよ」
いじらしい姿を見て、崇と美娜は思わずほっこりした。
「気にすんな。俺等は小さい頃から何度となく
オジーとオバーから教わってきた事が有るんだ」
「折角だから明照にも教えるよ。
“イチャリバチョーデー ユイマール”」
初めて聞いたウチナーグチに明照は一時的に固まった。
「あぁ、御免よ。えぇとね、直訳すると“行き合えば兄弟 助け合い”。
古くから伝わる金言だよ。初耳?」
「初耳だね、うん」
漸く意味を正しく理解した明照の肩を、崇は数回叩いて
白い歯を見せて笑った。
「明照、御前は本来優秀なんだ。あんな奴等の戯言なんか
何も聞く必要は無いぞ」
心から気を許せる親友に恵まれていると知り、明照は
涙を隠す為、思わず壁を凝視するのであった。
明照は、何時しか自分が杏果と同じ事をしていると
気付き、心に変化が生じていると感じた。

一旦帰って宿題を済ませた後、明照は杏果の所を訪ねた。
歌声喫茶“”自体は休みだったが杏果は家に居た。
初めての事に驚きはしたが、杏果は年の離れた
ボーイフレンドが自ら来たので思わず飛び上がった。
「こんな事って初めてだよね!? 凄い! 如何してかは知らないけど
凄く嬉しいよ。今日はどっちの部屋に入る? 明照君が選んで」
例によってグイグイ来る杏果に明照は相変わらず気圧されていたが
それすらも今となっては楽しみの一つと化していた。
「そうだな・・・じゃあ、魔法少女の間にする」
「はい喜んで!」
何処で覚えたのか、飲食店の様なノリで応えると
杏果は明照を自室へ招き入れた。

「・・・成る程ね。明照君、凄いよ! 初めて会った日とは
大違いだね。例えるなら、猫が白虎に進化した様なものだよ」
「あ、あはは・・・・・・そんなに凄いとは自覚してなかったな」
小さな手で頬を撫でて貰いながら、明照は今日有った事を
杏果に話して聞かせた。
「よし。明照君、凄く頑張った御褒美に良い物を・・・」
「わわっ・・・待って! 未だ心の準備が・・・」
またキスされるのかと思い、明照は慌てふためいた。
ところが、杏果は目が点になっていた。
「何の話?」
「え・・・・・・?」
数十秒、時が凍りついた。やがて、先に杏果が沈黙を破った。
「御褒美に、面白い物を見せるって言おうとしたんだけど」
「え? あ、あぁー・・・そうだったんだ」
明照は、1人で勝手に盛大な勘違いをしていた自分が惨めになった。
「明照君、一体何を想像したのかなぁ?」
不意に杏果は真正面に来ると、ニヤニヤしつつ顔を近付けた。
「いや近い近い。何って言われると、それは・・・・・・」
また暫く2人は固まった。今度も先に動いたのは杏果だった。
「何かして欲しい事が有るなら遠慮しないで言うんだよ。
あたしは明照君のガールフレンドなんだからさ」
「えっと、うん・・・有難う。それで、良い物って本当は何?」
杏果はタブレットを弄っていたと思うと
とある音源のデータを呼び出した。
再生出来る事を確認すると、杏果は幼稚園の頃
着ていた体操服に着替えた。
「あたしが年中さんの時にやった御遊戯だよ。当時
年少さんと年長さんも面白がって真似してたんだよね。
余りに流行るから、次の年から全員やることになったんだよ」
杏果が幼稚園の頃はどんな具合だったか色々想像して
明照は思わず笑みを浮かべた。
「杏果ちゃんが幼稚園の頃の話、聞いてみたいな」
「勿論だよ。あ、良かったらビデオ撮る? 良いよ。
長さはそうだね・・・5分も有れば十分だよ」
思わぬ申し出に一度は躊躇ったが、別に拒む必然性も無いので
好意に甘えることにした。
「5分か。じゃあ撮らせてもらおうかな」
明照がカメラを用意し、杏果が再生ボタンを押すと、何とも
コミカルなBGMが流れ始めた。思わぬ展開に明照は危うく
吹き出すところだった。
やがて、風変わりな歌詞が聞こえた。

『︎今日も悪戯頑張るぞ。落書きいっぱいしてみよう
先ずはおうちの外にある 大きな壁に書いてみよう』

杏果の可愛い声は耳に心地良かったが、それ以上に
意味不明な内容の歌詞に、明照は何からツッコミを入れるべきか分からなかった。
やがて、この意味不明な歌は、悪戯がバレるくだりへ突入した。

『︎悪い子は、如何なるの? 可愛いお尻をペンペンペン
お膝の上に乗っけたら、幾ら泣いてもペンペンペン』

杏果は明照に向けお尻を突き出したと思うと、自ら右手で
軽く叩いてみせた。明照は、唖然としながらも、一方で
可笑しさと愛おしさを同時に覚えていた。

『︎どんなに泣いても許しません。きちんと反省しなさいね
痛いよ痛いよエンエンエン 御免なさーいもうしません』

怒っているママと泣いている子供を体いっぱいに表現し
尚且つ、一瞬で演じ分けをこなす杏果は、明照には
一端のエンターテイナーに映った。

演目が終わると、明照は撮影を終えた旨を示すハンドサインを出した。
杏果はタブレットを操作すると、再び明照の膝の上に鎮座した。
「こんなのが流行ってたって想像出来る? 凄いよね」
「本当。これ作詞作曲した人、ぶっ飛んでいるよ。
誰か恥ずかしがってなかった?」
杏果の頭を撫でつつ明照は疑問を投げかけた。
「勿論だよ。只、恥ずかしがってたのは殆ど男の子だったね。
女の子の方が堂々としてたよ。全員がそうって訳じゃないけど」
この話を聞き、明照は自分が中学1年の時も、更には小学生の時も
合唱コンクールや演劇の練習では大抵男子の方が不真面目だったと
思い出した。
「そう言えば明照君、さっきはビデオ忙しくてあたし自身は
余りよく見てなかったよね? もう1回やるよ」
「え、いや、悪いよ。疲れてないの?」
「余裕だよ。てか、これ踊ってたら楽しくなってきた。
一緒に踊ろうよ。上手でも下手でも良いからさ」
「い、1度お手本を見せてもらいたいかな」
先延ばしにしたい一心で明照は慌てて頭を回転させた。
時間が経てば覚悟も決まるだろうと判断したのだった。
「そう? 良いよ。それじゃ、しっかり見ていてね」
こうしてセカンドステージが始まった。暫くはニコニコしつつ
見ていたが、悪戯がバレてお尻叩きのお仕置きの場面は
矢張りどうしても平常心の維持に苦労した。

「如何かな? あたし、可愛いでしょ。さぁ、一緒に踊ろうか」
2度目が終わり、明照は逃げ道を完全に絶たれた。
「あの、これ何処にも公開しないよね?」
「勿論。公開するとしたらあたし1人の分」
望み通りの答えが聞けて、明照は安堵した。

然し、それでも結局お仕置きの場面は恥ずかしさを隠せなかった。
2年A組の面々は、音楽室で“国際学生連盟の歌”を練習していた。
音楽教諭の佐竹(さたけ)陽子(ようこ)は、自分の教員人生で初の体験をしており
生徒達が今正に味わっているのと同じ緊張感に浸っていた。
「それまで。皆、大分纏まりが出てきたんちゃうかな。
この調子やったら何かしら賞は獲れるで」
陽子の言葉に一同は緊張感を緩めた。


遡ること1週間前、自由曲が決まった翌日、2年A組では
歌詞カードが配られていた。見たこともない文字の羅列に
明照・根路銘(ねろめ)(たかし)赤嶺(あかみね)美娜(みな)以外は全員唖然としていた。
「何じゃこりゃ」
「所々に英語と同じ文字も有るね」
「これ鏡文字じゃね?」
「これ逆さまにしたら・・・意味無かった」
皆の驚きはやがて不満へと変化していった。
「こんなの無理」
「覚えられないー」
「見ただけで頭痛くなる」
懲りずに騒ぎ出したのを見て美娜はまたも羅刹に変身した。
「おい、貴様等、試す前からそんな事言って如何するんだよ。
明照より良い曲を選べなかった癖に生意気ぬかしてんじゃねーぞ」
この前は食い下がった連中も、流石に2度も同じ間違いは繰り返さず
直ぐに静まり返った。
「余り大声で喚き散らすなよ。喉を傷めたら後が大変だろ」
変身を解除した美娜に崇が小声で声を掛けると、一瞬
目を細めた。
「堪忍して。文句ばかり一丁前で、建設的な事
何も言えない奴が私は大嫌いだから」
崇に宥められ、美娜は落ち着きを取り戻した。
それを確認してから明照は話し始めた。
「確かに、これ全部となると難しいよね。では、仮に
皆が覚える部分が後半4行だけだとしたら?
然も、この部分は1番から3番まで歌詞が全く同じだよ」
そう言われてよく読んでみると、1文字も違っていなかった。
「まぁ、これなら何とか・・・」
「何十回も延々聞けばいけるかも」
「本当にこれだけで良いの?」
またも皆が口々に意見を述べた。
「勿論、自信が有るから全部覚えるって言うのならそれは歓迎するよ。
本当に出来るならの話だけど」
傍で話を聞いていた担任、仙石聡は頃合を見て口を開いた。
「成る程、これなら確かに楽だな。それで、最初の2行は如何するんだ?」
「音源聴いた時分かったと思いますが、ソロパートになっていましたね。
これを模倣します。他の皆はこの間は休みです」
この提案には皆複雑な表情を浮かべた。
確かに楽出来るのは嬉しいが、これだと半分は明照の
独演会も同然だ。皆がまた好き勝手に意見を出し合う中
崇が不意に手を挙げた。
「だったらよー、1番は美娜、2番は明照、3番は俺がソロパートやる。
これなら特定の1人に偏らないだろ?」
不意に出てきたアイデアに誰もが息を呑んだ。想像だが
他のクラスはこんな事はしてない筈だ。ならば
大きく差別化する絶好のチャンスではないか。
「ほほぅ、それは気が付かなかった。面白い!
前例が無い事に果敢に挑戦するのは良い事だ!」
こうして自由曲の練習の方針は簡単に決まった。


音楽室にチャイムが鳴り響く数分前、明照が不意に前に出た。
皆が何事かと注目する中、明照は思わぬ提案を持ち掛けた。
「皆、休日返上してでもやるって言ってたよね。それなら
歌声喫茶“ひかり”でやろうよ。エアコンもきいているし
機材だって良い物がふんだんに有る。加えて、僕なら
講師とコネが有る。勿論、あくまで任意だから強制はしない。
只、来るなら手抜きは一切許されないよ」
この頃になると皆は明照・崇・美娜の統率力を認めていた。
「面白い。乗った」
「表彰される為なら何だってするわ」
「どんな先生が来てくれるんだろうな」
一心団結する姿に、陽子はえびす顔になった。
「歌声喫茶“ひかり”か。えぇやん。皆
行くんやったら最後の瞬間迄全力やで」
チャイムが鳴っても、一同は後1回だけと粘り
音合わせを行なった。

翌日、歌声喫茶“ひかり”に集まった一同の前に明照が立った。
「皆、僕の提案を受けてくれて有難う。では早速
講師を招くから、決して粗相の無い様にね。
先生、出番です。御願いします!」
その声を合図に、奥の扉が開いたと思うと
歌声喫茶“ひかり”の主宰者夫妻及びその孫娘が姿を見せ
壇上に上がった。直後、少し遅れてもう1人現れた。
Здравствуйте(こんにちは), товарищ(同志). 今回、皆様の担当講師となりました
アナスタシア・ヴラディーミロヴナ・タルコフスカヤです。
凄く長い名前なので“アナスタシア”で結構です」
産まれて初めて見るロシア人美女に、男子は勿論、女子も心を奪われた。
「凄い。氷の妖精だ」
「あれじゃ嫉妬する気にもなれない」
「完全に違う世界に住んでいるよね」
「逆立ちしたって勝てやしない」
呆然とする中、主宰者一家も挨拶をした。
「初めまして。歌声喫茶“ひかり”の主宰者をしています
小野田寛司です。今日は宜しく御願いします」
「小野田英子です。皆様を迎え入れられて嬉しいです」
「初めまして。稲葉杏果です。主宰者の孫娘です。
皆にこの歌声喫茶を紹介した、田中明照君のガールフレンドでもあります」
思わぬ爆弾発言にその場は騒然となった。
「おい、どういう事だよ」
「何時の間にあんなに可愛い子と知り合ったんだ」
「どっちから言い出した訳?」
芸能人に群がるパパラッチの如く同級生達は矢継ぎ早に質問を投げかけた。
そんな流れを大きく変えたのは、例にとって崇と美娜だった。
「御前等、歌声喫茶の方々に迷惑掛けるなって再三再四
言われてただろうが。忘れたのか?」
「それに、杏果ちゃんと明照は一緒に御風呂に入り
互いの過去を打ち明け合い、家にまで泊まった程の仲だよ。
貴様等の入る隙間は1mmも無いから潔く諦めな。
仲を応援するなら結婚式には呼んでもらえるかも」
衝撃の事実が何度も相次ぎ、同級生達はツッコミを
入れる気が失せた。そして、本来の目的も思い出した。

漸く静かになったところで、アナスタシアによる講義が始まった。
「日本人にとってはЛとРの区別は難しいでしょう。
Лは英語のLに近い一方、Рは英語と日本語のどちらにも無い
音なので、コツが要ります・・・・・・」
歌声喫茶の常連である照明、並びに数回来たことが有る
崇と美娜は比較的早く順応出来ていた。
然し、他の生徒達は悪戦苦闘していた。
「なまじ英語が出来ると却って難しいな」
「確かに」
「えぇと・・・あぁ、英語だとSに当たる文字か」
「これ、数学の授業で似た文字見たかも」
2年A組は既に友情と努力は揃った。今や勝利を掴む段階に入っていた。
しかし、それこそが最後にして最大の難関だった。何せ他のクラスは
自由曲に何を選んだか分からない。加えて、歌唱力も全く不明である。
そんな様子を見て、杏果は、以前崇と美娜に掛けた魔法をもう1度使った。
「皆なら出来るよ。諦めないで☆」
次の瞬間、明照以外の全員の魂が体から抜けそうになった。
後に明照は“漫画とかアニメとかゲームによく有る、魂が浄化される瞬間を
まさかリアルで見ることになるとは夢にも思わなかった”と語った。


そうして迎えた当日、2年A組は最大級の緊張感に包まれていた。
課題曲の時は未だ比較的気が楽だった。嫌な表現をすると
気に入っていようがいまいが、学校から無理矢理押し付けられた
楽曲なので、どのクラスも露骨にやる気が無かった。だから
特に大した差は見られなかった。
しかし、自由曲になった途端猫も杓子も覚醒した。ここぞとばかりに
派手なパフォーマンスをしてみせたり
楽器が得意な者は腕前を披露したりと、創意工夫に富んでいた。
今更ながら緊張する一同に向かい、明照は最後のアドバイスを贈った。
「皆、客席に並んでいるのは全て果物のオブジェだ。苦手なら代わりに
野菜のオブジェでも構わない。兎に角、人間じゃないって事を忘れるな」
今やクラスの領導者となった明照の勢いは、崇と美娜でも止められなかった。
「あいつ、守宮から青龍に進化したな」
「杏果ちゃんの前で良いところ見せたいんだね。
尤も、それは皆同じだけど」
やがて、前のクラスの自由曲の披露が終わった。
「続きまして、2年A組による自由曲で“国際学生連盟の歌”です」
実行委員長、井上(いのうえ)沙也加(さやか)のアナウンスは皆の気を引き締めさせた。
同時に、全員一斉に自分の好きな果物を思い浮かべ始めた。


ここで時はコンクールの前日に遡る。
音楽室で自由曲の練習をしていたA組の面々は
明照のブリーフィングを聞いていた。
「緊張するなと言ったって、そんなのが無理である事は
最初からよく分かっているよ。寧ろ、全く緊張しないのも
其れは其れで良くない。でも、緊張し過ぎも論外。そこで
杏果ちゃん直伝の奥義を教えるよ」
明照はホワイトボードに以下の内容を書き記した。それを見ると
同級生達は一斉にノートを取り始めた。

*練習の時は自分が世界一の下手くそだと思い込む
*本番の時は自分が世界一の歌い手だと思い込む
*軍楽隊の一員になりきるのも有り
*緊張はするのが当たり前
*客席に並んでいるのは※果物のオブジェ
人間じゃないから怖がる要素は無い

※苦手なら、代わりに野菜のオブジェでもOK

ホワイトボードマーカーのキャップを閉め
元の位置に戻した後、明照はブリーフィングを再開した。
「僕達はともすれば緊張するのは悪い事であると思い込み易いよね。
それでは何時まで経っても良い歌にはならないよ。だから発想を
逆転させようって訳。緊張している自分自身を受け入れるんだ。
何か質問が有るなら答えるよ」
その瞬間、1人の男子生徒が勢い良く手を上げた。
「早いね。どうぞ」
指名された生徒、川端(かわばた)宏明(ひろあき)は後ろの列に居たので
太った体を揺らしつつ前に出てきた。
「果物または野菜って言うけど、他の物
例えば豚カツとか寿司とかでも良いのか?」
予期せぬ内容に、クラスの大半が失笑した。しかし唯一
明照だけは笑わずに疑問に答えた。
「どんなに小さな疑問でも決してほったらかしにはしないとは
良い心掛けだね。皆も見習うべきだよ。
それで、今の質問の答えだけど、結論から言うと“やって良い”。
当然、歌詞を忘れるような事は決して許されないけど
自分の好きな物のオブジェを思い浮かべることで
本当に士気が上がるならそれは実に素晴らしい事だよ」
一見すると愚問にしか思えない事にも丁寧に答えてくれる
明照の方針は、他の生徒達に“自分も質問しよう”と思わせた。
こうして皆の礎は確実に固まった。


皆が好物のオブジェを思い浮かべる中
遂に音楽が始まった。最初のソロパートを担当する
明照は、杏果と行なった地獄の訓練の日々を思い出していた。
少しでも不自然だと直ちに“ニェット”と言われ、何百回も
心が折れそうになった。それでも、レッスン終わりには
マッサージをしてくれたり、キスしてくれたりしたので頑張れた。

明照から引き継いだ同級生達はここぞとばかりに
団結力を皆の前に見せた。その凄まじい迫力に
審査員の先生は勿論、他の生徒達と保護者も気圧された。
それは2番で美娜から、3番で崇から引き継いだ時も一緒だった。

全学年、全クラスの発表が終わった後、審査員による評議が
行われた。今年はイレギュラーが有り、例年以上に時間が
掛かった。また、表彰状を書く担当の書道部員も
今年は枚数が多く、手間取っていた。

かなり待たされた後、漸く結果発表が始まった。
今年はどうした事か1年の後、3年の分を先に発表した。
この瞬間、全員が悟った。これは一波乱有る。
その予想は正しかった。2年の分の発表を聞いていると
どのクラスも何かしら賞を貰っていた。その中には
“面白かったで賞”をはじめとする、明らかに御情けで
与えられた物も少なからず有った。
何故かクラス順ではなくランダムに発表された事も
皆の思考回路をオーバーヒートさせた。
そして、最後に2年A組の番が来た。
「2年A組、先ずはクラス全体に対してです。
アイデア賞と敢闘賞、獲得おめでとうございます」
その瞬間、本日最大級の拍手が起こった。
クラス代表で明照が舞台上に上がると、待ち構えていた
校長はゆっくり表彰状の文面を読み上げた。
「アイデア賞、2年A組。あなた達は、音楽コンクール始まって以来
前例の無い、ロシア語の歌曲を選びました。その、素晴らしい発想力を
讃え、ここに表彰します。
敢闘賞、2年A組。あなた達は、慣れない言語、ロシア語の歌曲を
練習してきました。不慣れな事に勇ましくぶつかる、その敢闘精神を
讃え、ここに表彰します」
2枚の表彰状を受け取ると、明照は最敬礼を行い、舞台を去ろうとした。
その時、井上沙也加のアナウンスが響いた。
「2年A組は、クラス全体だけでなく、個人への特別賞も有ります。
根路銘崇君と赤嶺美娜さん、舞台へどうぞ。田中明照君は
引き続き待機していて下さい」
呼ばれた褐色カップルと明照は事情が理解出来ず
ポカンとしていた。何せ個人宛の表彰も前例が無かったのだから。
3人が揃った後、校長はまたも表彰状の文面を読み始めた。
「リーダーシップ賞、田中明照君。あなたは2年A組を見事に
引っ張り、クラス全体を纏め上げました。その成果を讃え
ここに表彰します。
友情賞、根路銘崇君、赤嶺美娜さん。あなた方は田中明照君の
支えとなり、原爆の力でも絶たれぬ友情を以て助け合ってきました。
その尊い友情を讃え、ここに表彰します」
誰も全く予想してなかった内容に、3人は思わず視界が霞んだ。
最優秀賞こそ他のクラスが獲得したが、最早大した問題ではなかった。
表彰状を受け取る際、校長の前で涙を見せるのは流石に良くない
気がしたが、本人は態々マイクの電源を切り小声で呟いた。
「構いませんよ。私だって嬉しければそうもなります」
3人は無言で頷いた後、本日最大級の最敬礼をしたのだった。

後日知ったのだが、3人への個別の特別賞を推薦したのは
普段無表情で厳格な事で悪名高い数学の教諭、乾義文だった。
授業の後3人で御礼を伝えると、知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
しかし、顔を逸らした時に窓ガラスに映った顔は普段と違い
恥ずかしさを必死で隠そうとする、中高生の様な顔だった。

コンクールを終えて家に帰った明照が自分の部屋で目にしたのは
クラッカーを鳴らす体制に入った杏果及び小野田寛司・英子夫妻だった。
国旗が飛び出す、散らからないタイプのクラッカーが鳴った後
最初に祝辞を述べたのは寛司だった。
「おめでとう! 流石は明照君。君を信じて良かった」
「有難う御座います! この表彰状は僕の生涯の宝です」
一度は乾いた筈の涙が再び溢れるのを明照は自覚していた。
「おめでとう。友情と努力が勝利に結び付いたわね」
「有難う御座います・・・あれ? 何処かで聞いた様な・・・まぁ良いか」
英子の祝辞に微かに違和感を感じたが、そんな事を考える暇は無かった。
杏果は子守熊の様にしがみ付いたと思うと、唇を重ねてきた。
2度目ではあったが、全く予測出来ない行動に、明照はドキドキした。
「明照君、おめでとう! これがあたしからの御褒美だよ」
「あ、有難う・・・・・・。本当に杏果ちゃんは僕が大好きなんだね」
しがみ付いて離れない杏果を抱っこしていると
小野田夫妻は、或る意味予想通りの事を言い出した。
「将来は必ず明照君と結婚するんだと張り切っていたよ」
「新婚旅行はモスクワに行きたいんですって。最初は子供特有の
絵空事かと思ったけど、レーニン廟とか軍事博物館とか
行きたい所が具体的だから、これは本気と見なしたわ」
何かにつけて誰よりも大好きと言う杏果の言葉の重みは
予想以上と知り、明照は自分の認識が違っていたと感じた。
「御両人としては如何なんですか? 僕と結婚したいって話」
「そりゃ勿論大歓迎よ。杏果ちゃんに言われてやった事とは言え
あの子の両親と兄と、父方の方のおじいさんおばあさんに御線香
上げたじゃないの。あれ見て分かったわ。明照君は人格者」
「私達としては明照君なら何の心配も無いと考えているんだ。
生真面目で正直、それでいて親切。何で反対しなきゃならないんだ?」
明照はこの瞬間悟った。外堀も内堀も既に完全に埋まっている。
後は両親と祖父母だが、姿が見えない。
不安になったのを見て、寛司は口を開いた。
「御家族なら私達の家に居るよ。何せ大人達だけで
話さなきゃならない大事な話が有ってね。どちらの家でしても
良かったんだが、成り行きで結局うちでする事になったんだ。
明照君、今日は孫娘のことを宜しく御願いします」
何という事だ。互いに泊まりに行ったことは何度も有ったが
2人きりは、それこそ前例が無い。まごついていると英子は
帰り仕度を始めた。
「食事の手配と、必要な物の用意は既に全部
私達がしたわ。掛かった経費は1円単位で正確に教えて頂戴。
掛かった分だけ払うから。何か有ったら私達の携帯にどうぞ」
呆然としている間に、2人は居なくなり、杏果だけが残された。
車の音が消えたのを確認すると、杏果はゆっくり地に下り
家から持ってきた、幼稚園の体操服に着替え始めた。
「今日は何見せてくれるの?」
半ば開き直った明照は、杏果の出し物を見て平常心を取り戻そうと考えた。
「1人で3つもの表彰状を獲った明照君への御褒美。
あたしが年少さんの時にやった御遊戯だよ。
タイトルは“おしりの山はエベレスト”」
そう言えば昔何処かで聞いた気がする。そんな事を考えている間
杏果は撮影の用意を始めた。
「明照君、そのカメラは緑のボタンを押すと録画開始で
赤いボタンは終了。押したらハンドサインで伝えてね」
「任せといて」
杏果が音源を再生した直後、明照は
指示通りボタンを押し、ハンドサインを送った。
数秒後、何ともユーモラスな音楽が再生された。
以前見せてもらった“良い事悪い子の歌”の時と同様
体全体でダイナミックな表現を披露し、時には
お尻を振ったり叩いたり強調したりする姿を見ながら
明照は考えた。今見せている、光り輝く笑顔に至るまでに
何回泣いたんだろう。

撮影が終わった後、杏果は、鑑賞に集中出来なかっただろうからと
もう1度踊ってくれた。明照は今度は余計な事を考えず純粋に楽しんだ。



只、3度目で一緒に踊った時、前と内容は全然違うものの
矢張りお尻を用いた表現のパートでは恥ずかしさの余り
卒倒しそうになった。