歌声喫茶“ひかり”ではいつものメンバーが“ロシア、我が祖国”を合唱していた。
場の空気と、人前での歌唱にすっかり慣れた明照は誰の目から見ても
明らかに堂々としていた。暫く前の面影は何処にも無かった。
「では本日はこれまで。気をつけて御帰り下さい」
「御疲れ様でした。御忘れ物に御注意下さい」
主宰者である寛司・英子夫妻の一言を合図に
皆が帰り支度を始めるる中、明照は唯一残っていた。
皆が信頼してくれている以上、もっと上達しないと
申し訳ないと考えた末の行動だった。そんな明照の
膝の上に、主宰者の孫娘、稲葉杏果は何の躊躇も無く
鎮座した。
「今日も一生懸命頑張っているね。でも疲れたままやっても
良い結果は出せないよ。バラライカの弦だって、余り強く
張り過ぎると切れるもの。分かるよね?」
「え、あ、うん・・・」
年下ながら自分より遥かに聡明な杏果に、明照はいつも
ドキドキしていた。自分の心の内まで全て
見透かされているかも知れない。
「折角居るんだし、一緒におやつ食べようよ」
「良いの?」
「明照君は何時でも大歓迎だよ」
一瞬、自分より年上の人の姿の幻影が見えたが
損得勘定抜きに自分を無邪気に慕う杏果は矢張り
疑うことを全く知らない子供だった。
「それじゃ、行こうか!」
「あ、うん」
人前での歌唱はもう平気だが、杏果の積極的な攻勢は
相変わらず明照をドキドキさせた。とは言っても
初めて会った時よりは大分マシなのだが。
「いっぱい有るから幾らでも食べてね」
「何かすいません。こんなに良くしてもらって」
「何を言うんだ。明照君はうちの家族も同然だぞ」
明照が何か一つ食べると、英子と寛司が五つ出す。
数えた訳ではないがそんな気がした。
「おじいちゃんとおばあちゃん、お客さんをもてなすのが
生き甲斐なんだよ。深く考えないでね」
耳元で杏果が囁いた時、明照は一瞬またキスされるかと
思ったが、幸か不幸か予想は外れた。
色々御馳走になった後、明照は杏果に手を引かれ
廊下を進んでいた。
「この先だよね、杏果ちゃんの部屋」
「あれとは別だよ。あたしの部屋は2つ有るから」
聞き返す間も無く通された部屋には様々な動物の
縫いぐるみが所狭しと並んでいた。
物は違えども明照にとっては珍しい物が多く
目線を彼方此方に動かしていた。
「皆から色々贈られてね。正直言ってこんなに
増えるとは思わなかったよ」
「へ、へぇ・・・・・・」
大熊猫や小熊猫は未だしも、中には三葉虫だの恐竜だの
変わった物も有り、明照はツッコミを入れるべきか否か
分からなくなった。そんな中、杏果は、明照が最も恐れていた
質問を口にした。
「明照君、良ければ話してくれないかな。人前で歌うのが
怖くなったきっかけは何?」
何時か必ず聞かれると頭では分かっていた。しかし、いざ
その時が本当に来ると、矢張り掌が汗塗れになっていた。
「大丈夫。嫌なものを強要する事はないよ。断ったからって
あたし達が歳の離れた大親友じゃなくなる訳ないんだから」
「いや、話すよ。杏果ちゃんには何度となく
御世話になってきたからね」
そうして明照が話し始めたのは重苦しい内容だった。
ここで、時は1年前に戻る。当時、中学1年だった明照は
校内で行われる音楽コンクールの練習の最中だった。当時から
明照は声変わりの時期をとっくに過ぎた筈なのに、ずっと
声が高いままだった。どれ程かと云うと、何も知らない人が
声だけ聞いたら女性と間違える程の高音だった。
同級生達は、明照の高音が異質な存在に映った。そうして
迫害へと繋がっていった。普段の音楽の授業なら、明照1人が恥をかけば済む。
しかし、優勝がかかっている音楽コンクールとなると話は別だ。
男子からは“お前女かよ”と罵られ、女子からは“男の癖に声高いなんて”と
忌み嫌われ、明照は人前で声を出すのが怖くなってきた。
思い詰めた明照は当時の担任に、勇気を振り絞って申告した。
「先生、今度の音楽コンクール、僕だけ棄権させて下さい。御願いします」
前例の無い申し掛けに、当時の担任
工藤俊子は目玉が飛び出そうになった。
「明照君、エイプリルフールの予行演習なら未だ気が早過ぎるわよ。
それとも、これは新手のアネクドートなの?」
だが、明照の、何かを思い詰めた様な目は、それが
冗談でも悪戯でもないと雄弁に物語っていた。
丁度職員室に校長、教頭、学年主任も居たので急遽
事情聴取が行われた。話を聞き終えた俊子は何時しか
夜叉の如き形相になっていた。
翌日の道徳の授業は“裁判”の為に使われることになった。
担任の気迫に誰もが正直に何もかも白状せざるを得なくなった。
最終的に、学級の、何と91%もの生徒が明照の高音について
罵っていたことが判明した。極少数の、明照の悪口を言わなかった
生徒を明照と共に図書室へ避難させた後
俊子は冷静に、然し冷徹に言い放った。
「自己批判と明照君への謝罪は勿論だけど
それだけでは済まないわよ。
音楽コンクール、如何するのか選択肢をあげるわ。
1つ:うちのクラスは不参加
2つ:明照君のソロステージにする
3つ:悪口言った面子は全員他所の学校に転校
さぁ、どれが良い?」
普段、とても穏やかで、笑顔が可愛いと評判の
俊子から究極の選択を迫られ、皆頭を抱えた。
「断っておくけど、明照君に口パクさせるのは
無しだから。明らかに人権侵害よ」
逃げ道を完全に絶たれ、一部の女子は泣き出していた。
それが俊子の怒りを更に増幅させた。
「何であなた達が泣いているの。一番悲しいのは
誰か分からない? 人の痛みや苦しみが分からない者は
獣にすら劣るわ! 狼だって我が子を守る為ならどんな
危ない事でも積極的にするわよ」
容赦無く責め立てられ、一部の男子すら涙をこぼした。
「・・・まぁ、急には即答出来ないわよね。暫く考える時間
与えるから、皆で徹底的に話し合いなさい。何か有ったら
図書室へどうぞ」
最初よりは幾分優しい口調で告げると、俊子は教室を出ていった。
約20分後、俊子が明照及び悪口を言わなかった同級生と
共に戻ってくると、話し合いは丁度終わっていた。
「良い時に戻った様ね。では、如何なったか教えて頂戴」
皆を代表して、三つ編みの女子生徒、山田道子が挙手した。
「明照君に誠心誠意謝り、一緒に歌います。誰が欠けても絶対
後悔する事は目に見えています」
「成る程。それがあなた達の出した結論なのね。悪くないわ。
尤も、最終的な決定権は明照君にあるんだけどね。もし
拒まれたら私ですら口出しは出来ないのよ」
一緒に戻ってきた明照はずっと無表情のままだったが
神経を常に研ぎ澄ませていた。誰かがまた悪口を言ったら
直ぐ気付ける様にしなくてはならない。だが、そんな気配は
無かった。意を決した明照は俊子と目が合うと、教壇に上った。
「明照君、君が裁判長よ。判決は?」
「・・・・・・受け容れます。本当に二度と声の事で何も
言わないと全員が約束するのなら」
“温情判決”に皆一度は安堵した。だが、それで終わりではなかった。
「あなた達が本当に反省しているか否か調べなくてはならないわ。
今から1人ずつ前に出て、自己批判をしなさい。それから、帰りの
ホームルームの時間で原稿用紙を配るから、反省文を書くこと。
これは明照君も読むから、その事を忘れないで」
一同はまたも恐怖に震え上がったが、誰も逆らわなかった。
この日以降、明照の声の事を罵る者は居なくなった。しかし
クラスでは腫れ物に触る様な扱いが始まった。
また、明照は自分の声に自己嫌悪を覚え、1学年が終わるまで
筆談に頼る事が増えた。
「・・・こんな長話聞いても面白くなかったかな」
「とんでもない。寧ろ、話してくれて凄く嬉しいよ。有難う。
心の痛みは今も有る?」
後ろから杏果にあすなろ抱きをされ、明照は何故か涙腺が緩んだ。
「もう無くなったと思ったけど、未だ有ったみたい・・・」
「良いよ。残らず吐き出しちゃって。受け容れるから」
小さく頷いた直後、明照は堰を切った様に泣き出した。
元々喜怒哀楽が薄い明照にとって、これは慣れない事だった。
しかも、年下の女の子の前で号泣するなど想像出来なかった。
そんな明照を、杏果は嘲りも見下しもせず、只々
優しく後頭部を撫で、落ち着くまでじっくり待ち続けた。
漸く冷静になった時、明照は自分が無様な姿を見せたと感じていた。
「御免ね。昔の愚痴を延々垂れ流した挙句
情けない姿を見せて。格好悪いなー・・・」
「格好悪い?誰が?」
杏果から思わぬ事を問われ、明照はキョトンとした。
「何か勘違いしている様だね、明照君。
格好悪いのは、明照君をこんなに追い詰めた連中だよ。
声が高いからって、それは意地悪して良い理由にならないよ」
「いや、それは僕が堂々としていれば良かったんじゃ・・・」
「自分を責めないの。明照君は何も悪くない。何も間違ってない。
高い声だからって酷い事を言った人達が完全に悪いよ」
普段笑顔が輝く杏果が自分の為に激怒している。明照はこの
現象をどう受け止めて良いか分からなかった。
「だからって、年下の女の子の前で泣くなんて
恥ずかしい事して・・・
やった後で言ってもしょうがないのかも知れないけど」
「年下の女の子の前で泣くのが恥ずかしい?
誰から言われたの? 真っ赤な嘘だよ。
それに、あたしの前では本音を隠さず、何でも
話して欲しいな」
頭を撫でられ、明照は自分が幼児還りした様な
感覚を覚えた。
「杏果ちゃん・・・・・・」
「明照君の嬉しさも悲しさも、あたしは一緒に
分かち合いたいな」
また泣きそうになった時、明照の視界に偶然
時計が入った。それは16:40と時を示していた。
「あぁ、もうこんな時間。大分遅くなっちゃった」
「その事なら心配無いよ」
首を傾げていると、呼び鈴が鳴った。
英子が迎えに出たのでついて行ってみると、両親と
祖父母が明照の荷物を持ってきていた。
「これは何事!?」
金魚の様に口を動かす明照の前で、靖彦と千枝は
寛司と英子に頭を下げた。
「今日は息子が御世話になります」
「何か御座いましたら何でも仰って下さい」
情報処理が追いつかない明照の前で、均と清美も
同じ事をした。
「何卒宜しく御願い申し上げます」
「えぇと・・・あぁ、孫が御世話になります」
丁寧に挨拶をする4人に、寛司と英子は大らかな態度で臨んだ。
「そう堅苦しくなる必要は有りません。
皆さん、どうか面を上げて下さい」
「明照君が居ると私達も嬉しいんですよ。そんな訳で
明照君、今日明日はうちに泊まりなさい。どうせ
連休だし構う事ないわ」
「え、あ、その・・・」
超展開が相次ぎ、明照はオーバーヒート寸前だった。
帰ろうとした千枝は慌てて踵を返し、早口で
重要な事を告げた。
「宿題は一挙に済ませた方が後々
心置きなく遊べるわよ」
嵐の如く去った家族を見送りながら、明照は
未だポカンとしていた。一方、杏果は目が爛々と
輝いていた。何せ大好きな明照が2日間
自分の家に泊まるのだから。
「明照君、一緒に御風呂入ろうね」
「え、あ、うん・・・」
オーバーヒート寸前の明照はこの時は半ば
機械的に返答した。
明照が漸く理性を取り戻した時、2人は既に
風呂場で体を洗い合っている最中だった。
場の空気と、人前での歌唱にすっかり慣れた明照は誰の目から見ても
明らかに堂々としていた。暫く前の面影は何処にも無かった。
「では本日はこれまで。気をつけて御帰り下さい」
「御疲れ様でした。御忘れ物に御注意下さい」
主宰者である寛司・英子夫妻の一言を合図に
皆が帰り支度を始めるる中、明照は唯一残っていた。
皆が信頼してくれている以上、もっと上達しないと
申し訳ないと考えた末の行動だった。そんな明照の
膝の上に、主宰者の孫娘、稲葉杏果は何の躊躇も無く
鎮座した。
「今日も一生懸命頑張っているね。でも疲れたままやっても
良い結果は出せないよ。バラライカの弦だって、余り強く
張り過ぎると切れるもの。分かるよね?」
「え、あ、うん・・・」
年下ながら自分より遥かに聡明な杏果に、明照はいつも
ドキドキしていた。自分の心の内まで全て
見透かされているかも知れない。
「折角居るんだし、一緒におやつ食べようよ」
「良いの?」
「明照君は何時でも大歓迎だよ」
一瞬、自分より年上の人の姿の幻影が見えたが
損得勘定抜きに自分を無邪気に慕う杏果は矢張り
疑うことを全く知らない子供だった。
「それじゃ、行こうか!」
「あ、うん」
人前での歌唱はもう平気だが、杏果の積極的な攻勢は
相変わらず明照をドキドキさせた。とは言っても
初めて会った時よりは大分マシなのだが。
「いっぱい有るから幾らでも食べてね」
「何かすいません。こんなに良くしてもらって」
「何を言うんだ。明照君はうちの家族も同然だぞ」
明照が何か一つ食べると、英子と寛司が五つ出す。
数えた訳ではないがそんな気がした。
「おじいちゃんとおばあちゃん、お客さんをもてなすのが
生き甲斐なんだよ。深く考えないでね」
耳元で杏果が囁いた時、明照は一瞬またキスされるかと
思ったが、幸か不幸か予想は外れた。
色々御馳走になった後、明照は杏果に手を引かれ
廊下を進んでいた。
「この先だよね、杏果ちゃんの部屋」
「あれとは別だよ。あたしの部屋は2つ有るから」
聞き返す間も無く通された部屋には様々な動物の
縫いぐるみが所狭しと並んでいた。
物は違えども明照にとっては珍しい物が多く
目線を彼方此方に動かしていた。
「皆から色々贈られてね。正直言ってこんなに
増えるとは思わなかったよ」
「へ、へぇ・・・・・・」
大熊猫や小熊猫は未だしも、中には三葉虫だの恐竜だの
変わった物も有り、明照はツッコミを入れるべきか否か
分からなくなった。そんな中、杏果は、明照が最も恐れていた
質問を口にした。
「明照君、良ければ話してくれないかな。人前で歌うのが
怖くなったきっかけは何?」
何時か必ず聞かれると頭では分かっていた。しかし、いざ
その時が本当に来ると、矢張り掌が汗塗れになっていた。
「大丈夫。嫌なものを強要する事はないよ。断ったからって
あたし達が歳の離れた大親友じゃなくなる訳ないんだから」
「いや、話すよ。杏果ちゃんには何度となく
御世話になってきたからね」
そうして明照が話し始めたのは重苦しい内容だった。
ここで、時は1年前に戻る。当時、中学1年だった明照は
校内で行われる音楽コンクールの練習の最中だった。当時から
明照は声変わりの時期をとっくに過ぎた筈なのに、ずっと
声が高いままだった。どれ程かと云うと、何も知らない人が
声だけ聞いたら女性と間違える程の高音だった。
同級生達は、明照の高音が異質な存在に映った。そうして
迫害へと繋がっていった。普段の音楽の授業なら、明照1人が恥をかけば済む。
しかし、優勝がかかっている音楽コンクールとなると話は別だ。
男子からは“お前女かよ”と罵られ、女子からは“男の癖に声高いなんて”と
忌み嫌われ、明照は人前で声を出すのが怖くなってきた。
思い詰めた明照は当時の担任に、勇気を振り絞って申告した。
「先生、今度の音楽コンクール、僕だけ棄権させて下さい。御願いします」
前例の無い申し掛けに、当時の担任
工藤俊子は目玉が飛び出そうになった。
「明照君、エイプリルフールの予行演習なら未だ気が早過ぎるわよ。
それとも、これは新手のアネクドートなの?」
だが、明照の、何かを思い詰めた様な目は、それが
冗談でも悪戯でもないと雄弁に物語っていた。
丁度職員室に校長、教頭、学年主任も居たので急遽
事情聴取が行われた。話を聞き終えた俊子は何時しか
夜叉の如き形相になっていた。
翌日の道徳の授業は“裁判”の為に使われることになった。
担任の気迫に誰もが正直に何もかも白状せざるを得なくなった。
最終的に、学級の、何と91%もの生徒が明照の高音について
罵っていたことが判明した。極少数の、明照の悪口を言わなかった
生徒を明照と共に図書室へ避難させた後
俊子は冷静に、然し冷徹に言い放った。
「自己批判と明照君への謝罪は勿論だけど
それだけでは済まないわよ。
音楽コンクール、如何するのか選択肢をあげるわ。
1つ:うちのクラスは不参加
2つ:明照君のソロステージにする
3つ:悪口言った面子は全員他所の学校に転校
さぁ、どれが良い?」
普段、とても穏やかで、笑顔が可愛いと評判の
俊子から究極の選択を迫られ、皆頭を抱えた。
「断っておくけど、明照君に口パクさせるのは
無しだから。明らかに人権侵害よ」
逃げ道を完全に絶たれ、一部の女子は泣き出していた。
それが俊子の怒りを更に増幅させた。
「何であなた達が泣いているの。一番悲しいのは
誰か分からない? 人の痛みや苦しみが分からない者は
獣にすら劣るわ! 狼だって我が子を守る為ならどんな
危ない事でも積極的にするわよ」
容赦無く責め立てられ、一部の男子すら涙をこぼした。
「・・・まぁ、急には即答出来ないわよね。暫く考える時間
与えるから、皆で徹底的に話し合いなさい。何か有ったら
図書室へどうぞ」
最初よりは幾分優しい口調で告げると、俊子は教室を出ていった。
約20分後、俊子が明照及び悪口を言わなかった同級生と
共に戻ってくると、話し合いは丁度終わっていた。
「良い時に戻った様ね。では、如何なったか教えて頂戴」
皆を代表して、三つ編みの女子生徒、山田道子が挙手した。
「明照君に誠心誠意謝り、一緒に歌います。誰が欠けても絶対
後悔する事は目に見えています」
「成る程。それがあなた達の出した結論なのね。悪くないわ。
尤も、最終的な決定権は明照君にあるんだけどね。もし
拒まれたら私ですら口出しは出来ないのよ」
一緒に戻ってきた明照はずっと無表情のままだったが
神経を常に研ぎ澄ませていた。誰かがまた悪口を言ったら
直ぐ気付ける様にしなくてはならない。だが、そんな気配は
無かった。意を決した明照は俊子と目が合うと、教壇に上った。
「明照君、君が裁判長よ。判決は?」
「・・・・・・受け容れます。本当に二度と声の事で何も
言わないと全員が約束するのなら」
“温情判決”に皆一度は安堵した。だが、それで終わりではなかった。
「あなた達が本当に反省しているか否か調べなくてはならないわ。
今から1人ずつ前に出て、自己批判をしなさい。それから、帰りの
ホームルームの時間で原稿用紙を配るから、反省文を書くこと。
これは明照君も読むから、その事を忘れないで」
一同はまたも恐怖に震え上がったが、誰も逆らわなかった。
この日以降、明照の声の事を罵る者は居なくなった。しかし
クラスでは腫れ物に触る様な扱いが始まった。
また、明照は自分の声に自己嫌悪を覚え、1学年が終わるまで
筆談に頼る事が増えた。
「・・・こんな長話聞いても面白くなかったかな」
「とんでもない。寧ろ、話してくれて凄く嬉しいよ。有難う。
心の痛みは今も有る?」
後ろから杏果にあすなろ抱きをされ、明照は何故か涙腺が緩んだ。
「もう無くなったと思ったけど、未だ有ったみたい・・・」
「良いよ。残らず吐き出しちゃって。受け容れるから」
小さく頷いた直後、明照は堰を切った様に泣き出した。
元々喜怒哀楽が薄い明照にとって、これは慣れない事だった。
しかも、年下の女の子の前で号泣するなど想像出来なかった。
そんな明照を、杏果は嘲りも見下しもせず、只々
優しく後頭部を撫で、落ち着くまでじっくり待ち続けた。
漸く冷静になった時、明照は自分が無様な姿を見せたと感じていた。
「御免ね。昔の愚痴を延々垂れ流した挙句
情けない姿を見せて。格好悪いなー・・・」
「格好悪い?誰が?」
杏果から思わぬ事を問われ、明照はキョトンとした。
「何か勘違いしている様だね、明照君。
格好悪いのは、明照君をこんなに追い詰めた連中だよ。
声が高いからって、それは意地悪して良い理由にならないよ」
「いや、それは僕が堂々としていれば良かったんじゃ・・・」
「自分を責めないの。明照君は何も悪くない。何も間違ってない。
高い声だからって酷い事を言った人達が完全に悪いよ」
普段笑顔が輝く杏果が自分の為に激怒している。明照はこの
現象をどう受け止めて良いか分からなかった。
「だからって、年下の女の子の前で泣くなんて
恥ずかしい事して・・・
やった後で言ってもしょうがないのかも知れないけど」
「年下の女の子の前で泣くのが恥ずかしい?
誰から言われたの? 真っ赤な嘘だよ。
それに、あたしの前では本音を隠さず、何でも
話して欲しいな」
頭を撫でられ、明照は自分が幼児還りした様な
感覚を覚えた。
「杏果ちゃん・・・・・・」
「明照君の嬉しさも悲しさも、あたしは一緒に
分かち合いたいな」
また泣きそうになった時、明照の視界に偶然
時計が入った。それは16:40と時を示していた。
「あぁ、もうこんな時間。大分遅くなっちゃった」
「その事なら心配無いよ」
首を傾げていると、呼び鈴が鳴った。
英子が迎えに出たのでついて行ってみると、両親と
祖父母が明照の荷物を持ってきていた。
「これは何事!?」
金魚の様に口を動かす明照の前で、靖彦と千枝は
寛司と英子に頭を下げた。
「今日は息子が御世話になります」
「何か御座いましたら何でも仰って下さい」
情報処理が追いつかない明照の前で、均と清美も
同じ事をした。
「何卒宜しく御願い申し上げます」
「えぇと・・・あぁ、孫が御世話になります」
丁寧に挨拶をする4人に、寛司と英子は大らかな態度で臨んだ。
「そう堅苦しくなる必要は有りません。
皆さん、どうか面を上げて下さい」
「明照君が居ると私達も嬉しいんですよ。そんな訳で
明照君、今日明日はうちに泊まりなさい。どうせ
連休だし構う事ないわ」
「え、あ、その・・・」
超展開が相次ぎ、明照はオーバーヒート寸前だった。
帰ろうとした千枝は慌てて踵を返し、早口で
重要な事を告げた。
「宿題は一挙に済ませた方が後々
心置きなく遊べるわよ」
嵐の如く去った家族を見送りながら、明照は
未だポカンとしていた。一方、杏果は目が爛々と
輝いていた。何せ大好きな明照が2日間
自分の家に泊まるのだから。
「明照君、一緒に御風呂入ろうね」
「え、あ、うん・・・」
オーバーヒート寸前の明照はこの時は半ば
機械的に返答した。
明照が漸く理性を取り戻した時、2人は既に
風呂場で体を洗い合っている最中だった。