まるで猫みたいだ。いや、わがままなお嬢様の方がいいだろうか?
「ゴミ袋は、戸棚の所にあるから、この部屋を埋め尽くしている新聞紙と広告を全部詰めていって」
「ああ」
僕は彼女に言われるがまま、部屋の片づけに入った。
戸棚から、地区指定の白いゴミ袋を取り出し、散乱した新聞や広告の切れ端を適当に詰めていく。
「本当に捨てていいのか?」
一応聞いた。すると、萩上は眉間に皺を寄せて、心底不快な顔をした。
「目が腐ってるんじゃない? そんな新聞紙が大事なわけないでしょ?」
「だって、さっきも新聞紙に埋もれて寝ていたじゃないか」
「そこに新聞があるからよ」
と、どこぞの暴君のようなセリフを吐く萩上。
分別の必要が無いからすぐに終わると思っていた。しかし、新聞の量は思ったよりも多くて、しかも、かさばるから、一枚一枚小さくくしゃくしゃにして入れないと入り切らなかった。
一時間ほどで、僕はゴミ袋を三袋一杯にした。
僕が片づけをしている間、萩上は部屋の隅に蹲り、僕の動く様子を眺めていた。そして、いつの間にかその場にころんと横になり、すやすやと昼寝を始めていた。
「終わったよ」
新聞紙と広告を取り除いただけで、彼女の部屋は「何も無い」と言っても過言ではないくらいに綺麗になった。服を入れるための小さなプラスチックケース一つ。あとは何も無い。強いて言うなら、フローリングには、灰色の絨毯が敷かれていたことぐらいだ。
「燃えるごみはいつだっけ?」
「今日」
萩上は寝転んだまま、半目を開けてそう呟いた。
「今日?」
「今日の…、八時まで」
「ってことは、もう過ぎているじゃないか」
「うん。過ぎてる」
「じゃあ、来週まで持ち越しだな」
僕は三つのゴミ袋を、部屋の隅に重ねて置いた。萩上は特別文句を言うようなことは無かった。
再び目を閉じて、すうすうと眠る。
「…、僕は、何をすればいい?」
「……」
聞こえているだろうに、何も答えてくれなかった。このまま黙って帰るのも何故か憚れて、僕は部屋の隅にしゃがみ込み、自分のナップサックから参考書を取り出した。
そして、彼女が起きるまでの時間を潰した。
数時間後。
冷気を吐き出していたエアコンの電源が、プツンと切れた。部屋の温度が一度上がったのを感じた僕は、柱に取り付けられた操作パネルに目を向ける。「タイマー」の部分がチカチカと点滅していた。
僕はもう一度電源を点けようと、参考書を傍らに置いて立ち上がる。
その、立ち上がった時の小さな振動で、萩上はぱちりと目を覚ました。
僕がエアコンの操作パネルを弄っているのを見て、「なんでまだ帰ってないの?」という。
「帰ったらダメだろ?」
「うん。だめ」
設定温度は二十五度。道理で寒いわけだ。
起きるや否や、萩上は僕に命令した。
「お腹空いた」
「もう?」
「一時間後にはお腹が空く予定なの。だから、買ってきて」
「わかったよ」
窓から、オレンジ色の陽光が差し込んでいた。まだ明るいとはいえ、もう十八時を回っている。思ったよりも時間が経っているな。腹が減るのも無理はない。
僕は、再び外に出た。
昼間、あれだけ熱線を放射していた太陽だが、今は西に傾いて、穏やかな光を放っている。頬を撫でる風が心地よくて、僕はスキップでも踏みそうな勢いでコンビニに向かった。
おかかのおにぎり。麦茶に、スイーツ。あとサラダと、自分用の食事を籠に入れて、レジに向かう。昼間とは別の店員が接客していて、今度は「レシートは要りますか?」と聞いてくれた。僕は「はい、要ります」と強調して言ってやった。
コンビニを出ると、なるべく急いでアパートに戻った。
階段を上って、萩上の部屋に入る。
「遅い」
扉を開けるなり、不機嫌そうな声が聞こえた。
「お腹空いた。餓死しそう」
「ああ、ごめんな」
餓死は大げさじゃないか? と思ったが、玄関で仁王立ちしていた萩上を立ち姿は、「餓死」という言葉が似合うほどにやせ細っていた。
「おかか買ってきたよ。食べたかったんだろ?」
「いらない」
「え」
「高菜はないの?」
「ああ、買ってきたよ」本当は自分用だったが仕方ない。「適当に見繕ったから、好きなものを食べるといい」
いちいち説明するのがめんどくさくて、ナイロン袋ごと彼女に渡した。
萩上は袋を受け取ると、ダイニングの方に戻って、中のものを絨毯の上にぶちまけていた。おにぎりとお茶を適当にとる。「餓死しそう」と言ったくせして、すぐには食べず、自分の分だけを確保して横になってしまった。
「僕もいいかな?」
「好きにすれば? あなたが買ってきたものなんだし」
「じゃあ、いただきます」
僕は遠慮気味に萩上の向かい側に腰を下ろして、彼女が「いらない」と言ったおかかのおにぎりに触れた。
「それはダメ。私が食べるから」
「ああそう」
本当にわがままだな。
「これならいい」
そう言って、萩上は家畜に餌を与えるみたいにして、焼きそばパンとメロンパンを放り投げてきた。
「ありがとう」
いや、ありがとうなのか? これ。僕の金で買った食料だぞ?
一時間後、萩上はのそっと起き上がり、おにぎりを黙々とおにぎりを食べた。時々、喉に詰めてお茶で流し込んでいた。
僕は彼女が食べる様子を、壁にもたれてぼーっと眺めた。
沈黙が続く。
いくらバイトとは言え、このぎくしゃくとした空気は耐えがたいものだった。
彼女が二つ目のおにぎりに手を伸ばしたタイミングで、この張りつめた雰囲気を何とかしようと口を開いていた。
「趣味とかはあるの?」
やや軽い口調で。
ぎろりと睨まれた。
「特にない」
「ああ、そう」
ダメだ。会話のターンをここで終わらせてはいけない。
僕は、中学の頃の萩上の記憶をたどりながら、何とか言葉を絞り出した。
「萩上って、ピアノやってたよな。もう弾いてないの?」
そう言えば萩上は、ピアノの演奏が上手かった。ピアノだけではない。歌も上手かったし、音楽室にある楽器は一通り演奏することが出来た。文化祭の時に、バンドを組んでベースを演奏したときは、皆の度肝を抜かせたものだ。
これで会話の糸口をつかもうとした。
しかし、萩上は「弾いてない」とつんけんと言って、また、僕をぎろりと睨んだ。
「なに? いつの話をしてるの?」
「いや、ほら、中学の時だよ。あの年、文化祭の合唱コンクールで萩上が課題曲のピアノを担当してくれたじゃないか。そのおかげで、僕たちのクラス、優勝できただろ?」
「そうだったかしら」とぼけているのか、それとも本当に忘れているのか、萩上は眉間に皺を寄せたまま首を傾げた。「そんな昔の話、覚えていないわよ」
「そうか」
胸の内に、落胆の感情が染みだした。
中学の時の萩上は、例え本当に忘れていようが、相手を落胆させないために、「どうだったっけ?」とかと言って、話を繋げようとする少女だった。その話の繋げ方が本当に上手くて、彼女と話していて、不快になる人間なんていなかったのだ。
まともなコミュニケーション能力を持ち合わせているというのに、僕との会話を成立させようとしない萩上に、僕は妙にムキになってしまった。
「高校は何処に行ったんだっけ?」無理に彼女と会話をしようとした。「萩上のことだから、いい高校に進学したんだろ? 模試とか定期テストでいっつも上位だったもんな」
「……」
答えない。
「もしかして、斉明高校か? あそこは偏差値高かったから」
「うん」
「ああ、やっぱり」頷いてくれただけで僕は勝ったような気になった。「さすがだな。僕なんて、自宅から徒歩五分の底辺高校だよ」
「…炭田高校だっけ?」
「知ってるのか? ほんと、つまらない場所だよ」
お茶を一口飲んで口の中を湿らせた。
「馬鹿しか揃っていない高校。今だから言えるけど、少し後悔している。もう少し勉強を頑張っていれば、斉明高校くらいは行けたんじゃないかってな」
偉そうな言葉が、口を滑り落ちた。
「まあ、三年間必死に勉強して、今は何とか、国立の大学に通えている」
「そう…」
「萩上は、大学はどうしたんだ? 斉明に行っているんだから、いいところに進学しているんだろ?」
顔を上げて、萩上の方を見た瞬間、何かが飛んできて僕の顔面に直撃した。
思わず「うわ!」と叫んで、顔を引く。
磯の香りと、塩っ気のあるシーチキンの香り。べったりとしたおにぎりの白米が頬に張り付いている。
「何するんだ」
僕はおにぎりを顔から剥がして、萩上を睨んだ。
萩上も僕を睨んでいた。
「ゴミ袋は、戸棚の所にあるから、この部屋を埋め尽くしている新聞紙と広告を全部詰めていって」
「ああ」
僕は彼女に言われるがまま、部屋の片づけに入った。
戸棚から、地区指定の白いゴミ袋を取り出し、散乱した新聞や広告の切れ端を適当に詰めていく。
「本当に捨てていいのか?」
一応聞いた。すると、萩上は眉間に皺を寄せて、心底不快な顔をした。
「目が腐ってるんじゃない? そんな新聞紙が大事なわけないでしょ?」
「だって、さっきも新聞紙に埋もれて寝ていたじゃないか」
「そこに新聞があるからよ」
と、どこぞの暴君のようなセリフを吐く萩上。
分別の必要が無いからすぐに終わると思っていた。しかし、新聞の量は思ったよりも多くて、しかも、かさばるから、一枚一枚小さくくしゃくしゃにして入れないと入り切らなかった。
一時間ほどで、僕はゴミ袋を三袋一杯にした。
僕が片づけをしている間、萩上は部屋の隅に蹲り、僕の動く様子を眺めていた。そして、いつの間にかその場にころんと横になり、すやすやと昼寝を始めていた。
「終わったよ」
新聞紙と広告を取り除いただけで、彼女の部屋は「何も無い」と言っても過言ではないくらいに綺麗になった。服を入れるための小さなプラスチックケース一つ。あとは何も無い。強いて言うなら、フローリングには、灰色の絨毯が敷かれていたことぐらいだ。
「燃えるごみはいつだっけ?」
「今日」
萩上は寝転んだまま、半目を開けてそう呟いた。
「今日?」
「今日の…、八時まで」
「ってことは、もう過ぎているじゃないか」
「うん。過ぎてる」
「じゃあ、来週まで持ち越しだな」
僕は三つのゴミ袋を、部屋の隅に重ねて置いた。萩上は特別文句を言うようなことは無かった。
再び目を閉じて、すうすうと眠る。
「…、僕は、何をすればいい?」
「……」
聞こえているだろうに、何も答えてくれなかった。このまま黙って帰るのも何故か憚れて、僕は部屋の隅にしゃがみ込み、自分のナップサックから参考書を取り出した。
そして、彼女が起きるまでの時間を潰した。
数時間後。
冷気を吐き出していたエアコンの電源が、プツンと切れた。部屋の温度が一度上がったのを感じた僕は、柱に取り付けられた操作パネルに目を向ける。「タイマー」の部分がチカチカと点滅していた。
僕はもう一度電源を点けようと、参考書を傍らに置いて立ち上がる。
その、立ち上がった時の小さな振動で、萩上はぱちりと目を覚ました。
僕がエアコンの操作パネルを弄っているのを見て、「なんでまだ帰ってないの?」という。
「帰ったらダメだろ?」
「うん。だめ」
設定温度は二十五度。道理で寒いわけだ。
起きるや否や、萩上は僕に命令した。
「お腹空いた」
「もう?」
「一時間後にはお腹が空く予定なの。だから、買ってきて」
「わかったよ」
窓から、オレンジ色の陽光が差し込んでいた。まだ明るいとはいえ、もう十八時を回っている。思ったよりも時間が経っているな。腹が減るのも無理はない。
僕は、再び外に出た。
昼間、あれだけ熱線を放射していた太陽だが、今は西に傾いて、穏やかな光を放っている。頬を撫でる風が心地よくて、僕はスキップでも踏みそうな勢いでコンビニに向かった。
おかかのおにぎり。麦茶に、スイーツ。あとサラダと、自分用の食事を籠に入れて、レジに向かう。昼間とは別の店員が接客していて、今度は「レシートは要りますか?」と聞いてくれた。僕は「はい、要ります」と強調して言ってやった。
コンビニを出ると、なるべく急いでアパートに戻った。
階段を上って、萩上の部屋に入る。
「遅い」
扉を開けるなり、不機嫌そうな声が聞こえた。
「お腹空いた。餓死しそう」
「ああ、ごめんな」
餓死は大げさじゃないか? と思ったが、玄関で仁王立ちしていた萩上を立ち姿は、「餓死」という言葉が似合うほどにやせ細っていた。
「おかか買ってきたよ。食べたかったんだろ?」
「いらない」
「え」
「高菜はないの?」
「ああ、買ってきたよ」本当は自分用だったが仕方ない。「適当に見繕ったから、好きなものを食べるといい」
いちいち説明するのがめんどくさくて、ナイロン袋ごと彼女に渡した。
萩上は袋を受け取ると、ダイニングの方に戻って、中のものを絨毯の上にぶちまけていた。おにぎりとお茶を適当にとる。「餓死しそう」と言ったくせして、すぐには食べず、自分の分だけを確保して横になってしまった。
「僕もいいかな?」
「好きにすれば? あなたが買ってきたものなんだし」
「じゃあ、いただきます」
僕は遠慮気味に萩上の向かい側に腰を下ろして、彼女が「いらない」と言ったおかかのおにぎりに触れた。
「それはダメ。私が食べるから」
「ああそう」
本当にわがままだな。
「これならいい」
そう言って、萩上は家畜に餌を与えるみたいにして、焼きそばパンとメロンパンを放り投げてきた。
「ありがとう」
いや、ありがとうなのか? これ。僕の金で買った食料だぞ?
一時間後、萩上はのそっと起き上がり、おにぎりを黙々とおにぎりを食べた。時々、喉に詰めてお茶で流し込んでいた。
僕は彼女が食べる様子を、壁にもたれてぼーっと眺めた。
沈黙が続く。
いくらバイトとは言え、このぎくしゃくとした空気は耐えがたいものだった。
彼女が二つ目のおにぎりに手を伸ばしたタイミングで、この張りつめた雰囲気を何とかしようと口を開いていた。
「趣味とかはあるの?」
やや軽い口調で。
ぎろりと睨まれた。
「特にない」
「ああ、そう」
ダメだ。会話のターンをここで終わらせてはいけない。
僕は、中学の頃の萩上の記憶をたどりながら、何とか言葉を絞り出した。
「萩上って、ピアノやってたよな。もう弾いてないの?」
そう言えば萩上は、ピアノの演奏が上手かった。ピアノだけではない。歌も上手かったし、音楽室にある楽器は一通り演奏することが出来た。文化祭の時に、バンドを組んでベースを演奏したときは、皆の度肝を抜かせたものだ。
これで会話の糸口をつかもうとした。
しかし、萩上は「弾いてない」とつんけんと言って、また、僕をぎろりと睨んだ。
「なに? いつの話をしてるの?」
「いや、ほら、中学の時だよ。あの年、文化祭の合唱コンクールで萩上が課題曲のピアノを担当してくれたじゃないか。そのおかげで、僕たちのクラス、優勝できただろ?」
「そうだったかしら」とぼけているのか、それとも本当に忘れているのか、萩上は眉間に皺を寄せたまま首を傾げた。「そんな昔の話、覚えていないわよ」
「そうか」
胸の内に、落胆の感情が染みだした。
中学の時の萩上は、例え本当に忘れていようが、相手を落胆させないために、「どうだったっけ?」とかと言って、話を繋げようとする少女だった。その話の繋げ方が本当に上手くて、彼女と話していて、不快になる人間なんていなかったのだ。
まともなコミュニケーション能力を持ち合わせているというのに、僕との会話を成立させようとしない萩上に、僕は妙にムキになってしまった。
「高校は何処に行ったんだっけ?」無理に彼女と会話をしようとした。「萩上のことだから、いい高校に進学したんだろ? 模試とか定期テストでいっつも上位だったもんな」
「……」
答えない。
「もしかして、斉明高校か? あそこは偏差値高かったから」
「うん」
「ああ、やっぱり」頷いてくれただけで僕は勝ったような気になった。「さすがだな。僕なんて、自宅から徒歩五分の底辺高校だよ」
「…炭田高校だっけ?」
「知ってるのか? ほんと、つまらない場所だよ」
お茶を一口飲んで口の中を湿らせた。
「馬鹿しか揃っていない高校。今だから言えるけど、少し後悔している。もう少し勉強を頑張っていれば、斉明高校くらいは行けたんじゃないかってな」
偉そうな言葉が、口を滑り落ちた。
「まあ、三年間必死に勉強して、今は何とか、国立の大学に通えている」
「そう…」
「萩上は、大学はどうしたんだ? 斉明に行っているんだから、いいところに進学しているんだろ?」
顔を上げて、萩上の方を見た瞬間、何かが飛んできて僕の顔面に直撃した。
思わず「うわ!」と叫んで、顔を引く。
磯の香りと、塩っ気のあるシーチキンの香り。べったりとしたおにぎりの白米が頬に張り付いている。
「何するんだ」
僕はおにぎりを顔から剥がして、萩上を睨んだ。
萩上も僕を睨んでいた。