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「お前、全部知ってたろ?」
 その深夜、萩上から大体のことを聞いた僕は、眠っていた明日香に電話で問い詰めた。
 マイクの向こうから、寝ぼけた声が返ってくる。
『ごめんごめん』
「いや、ごめんじゃなくて…」
『確かに、正樹の日給を出したのはちーちゃんのお母さんだよ。私はそれを知っていて、正樹にお願いしたの』
「なんで、僕に言わなかった?」
『口止めされてたんだよ。わかるでしょ? あの人、見栄っ張りなんだから、まだ信用できていない正樹に、家の事情べらべらと話して、他の人間に言いふらされるのは嫌でしょ」
「まあ、そうだけど…』
 だから、わざわざ自分の素性を明かさずに、萩上を経由していたのか…。
『私だって、あまり詮索はしたくなかったよ。だって、ちーちゃんママの言うことを正樹に伝えて、正樹の報告をちーちゃんママに伝えるだけで、私はお金がもらえるんだから。何事も上手くやらないとね』
 明日香が薄情に言った。
 僕の感情を察してか、明日香は電話越しに鼻で笑った。
『ちーちゃんのことは大切だけど、我が身の方が可愛いからね。みなくていい現実には目をつぶるのよ。私』
 それから、「あ、そうそう」と付け加えた。
『ちーちゃんのママ、怒ってたよ? 「初期に比べて回復したって報告を受けたから、レストランに行ったのに全然治っていない」って』
「ああ、そう」
 そりゃそうだろ。
『もう少し、ちーちゃんが精神状態が治って、ママと会話できるようになったら、また連絡してほしいってさ。ちゃんと、今回、レストランにちーちゃんを連れていった報酬も入るし、これからも日給はくれるって言ってた!』
 マイクの向こうから、明日香の嬉々とした声が聞こえた。
『よかったじゃん、ちーちゃんの家、金は本当にあるからね。このまま行けば、私も正樹も、後期の学費完済できるかもね』
「ああ、そうだな」
 頷いて、壁際ですうすうと眠っている萩上を見た。
 
暴れまわり、泣き疲れた萩上は熟睡して、傍らで僕が会話をしているというのに全く起きないでいた。タオルケットからはみ出した彼女の手首には、痛々しいリストカットの痕。
「……、ごめん、明日香」
『え?』
「多分、お前の学費は、自分で払わないといけなくなるとおもう」
『え? え? へ?』
「じゃあな」
『え、なに言ってんの? 正樹! あんた変なこと考えているんじゃないでしょうねえ!』
 危険を察知した明日香がスマホ越しに叫んだが、もう遅い、僕は通話を切った。
 眠っている萩上の隣に、僕も横になり、その冷たい手のひらに自分の手を重ねていた。
「なによ」
 萩上が目を開ける。僕の手を握り返した。
「なんだ、起きてたの?」
「寒いのよ、離れないでよ」
 萩上は猫のように、僕の胸元に頭を押し付けてきた。
 胸のあたりに、ぼんやりと萩上の体温がある。そのぽかぽかした感触に、僕は微睡んだ。
 萩上は言った。
「再会したとき、私、桜井君のことを『覚えていない』って言ったでしょう?」
「うん」
「あれ、嘘なのよ」
「そう、よかった」
 忘れられていなくて、よかった。
「意地になっちゃったの。私は変われず、むしろ退化したのに、明日香ちゃんも、桜井君も、変わってしまっていて…」
 それから、「ごめんなさい」と言った。
「今の今まで、卒業式に言ったことなんて忘れていたわ。だって、社交儀礼だったんだもの」
「まあ、そうだよな」
 社交儀礼か。そうだよな。
「僕は、頭の片隅でうっすらと覚えていた。それが、僕が頑張る理由になったんだ」
「嫌なものね。うわべの励ましだったのに」
「あの頃のお前に『頑張れ』なんて言われたら、どんな男子も頑張るさ」
「買いかぶりすぎよ。お母さんに言われて、自分を偽ってただけだし…」
 萩上の肩がぶるっと震えた。
「ずっと、嫌だった。本当は可愛いものが好きなのに、みんな、私に聡明なイメージを押し付けてくる…。本当は頑張りたくなかった。ピアノも弾きたくなかった。こうやって、部屋の隅にじっとして、眠っていたかったのに…」
 自分が思うように、彼女は生きることができなかったのだ。
 僕は赤子でもあやすかのように、彼女の肩を抱いて、ぽんぽんと撫でた。
「大丈夫だ。僕が何とかする」
 なんとか、してやる。
「明日、お母さんのところに行こう」