夢を見ていた。
萩上の夢だ。
僕は暗闇の中に立っていて、萩上はその先、ぼんやりと光った場所で蹲っている。
膝に顔をうずめて、何かに怯えるように肩を震わせる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
と、誰かに対して、必死に謝っていた。
蹲る彼女の周りには、今までに彼女が壊してきたものが散らばっていた。
粉々に割られた、窓ガラスや食器、カッターナイフで切ったと思われる、財布や本、学校の教科書に、リクルートスーツまで。テレビやスマホなどの機械類。箸や鉛筆、シャーペンも綺麗に半分に折られていた。
萩上は自分がしたことを後悔し、髪の毛を掻きむしり、手の甲に爪を突き立てて、ガリガリと引っ掻いていた。当然、手の甲や頭には血が滲んでいて、痛々しい姿だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ニ十歳になった萩上。
蹲る彼女の姿を見ていると、着ている服や、その奥の肌がぼんやりと透けて、身体の中に誰かが入っていることに気が付いた。
ニ十歳の萩上の中に、十四歳の萩上がいた。
幼い萩上も、大人になった萩上も、言っていることは同じ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ひたすら、震えて、泣きながら、その言葉を呟いていた。
ああ、そうか、一緒なのか。
こんな時に場違いかもしれないが、兵頭と転売するゲームを買いに行った時のことを思い出した。
そのゲームは、ゲームボーイが流行したころに発売されたRPGのリメイク版で、グラフィックもやり込み度も格段に上がったものだった。しかし、発売前の評価は最悪。「昔のドット絵でプレイするからこそ至高なんだ!」という意見が目立ったのだ。兵頭はその意見にうんざりしたように言った。「古参め! 思い出だよ! 思い出! みんな思い出を美化しすぎるんだ! 結局、昔のゲームは今のゲームに勝てないんだ!」と。
僕の思い出の中の萩上は、今でも、僕を導く女神のような存在だ。
だけど、結局、あの頃の萩上は「十四歳」だ。
なんでもできるように見えて、できないことだって多かったのだ。
働くことも、一人暮らしをすることも、炊事洗濯も、きっと十分にすることはできない。だって、十四歳だから。
萩上さんって、本当にすごいね。
萩上さんって天才だね。
萩上さんはきっと大物になるよ。
萩上さんと一緒のクラスになれて光栄だよ。
あの学校にいた奴らが、萩上に投げかけた言葉、羨望の眼差し。
そのすべてが、十四歳の彼女の身には重すぎた。
僕が憧れていたのは、ただの「十四歳の少女」だ。
「萩上…」
僕は夢だとわかっていながら、泣きじゃくる十四歳の萩上と、二十歳の萩上に向かって手を伸ばしていた。
手の中に、ひんやりとした感触が残る。
そこで、僕は目を覚ました。
※
目を覚ました時、僕は冷たいアスファルトの上に倒れていて、無意識の内に、僕を見下ろしている萩上の頬を撫でていた。
僕が目を覚ましたのを見た瞬間、迷子の子犬のような萩上の目に、また涙が浮かんだ。
「よかった、目を覚ました…」
「萩上…」
萩上は、僕の手を握り返して言った。
「救急車は、呼んだから…、隣の人が、呼んでくれた…」
首を回して見ると、アパートの壁に、Tシャツに半ズボンの女性が背をもたれて立っていた。
煙草を咥えて、ライターで火を点ける。煙を吐いてから、不機嫌そうに言った。
「ったく、痴話げんかなら他所でやってくれないか? こっちは寝ようと思っていたんだよ」
「すみません」
辺りに、割れた窓ガラスとか、ぐにゃりと曲がったアルミの手すりがそのままにされていた。この惨状を見て「痴話げんか」と呼ぶか?
女性は煙草を吸いながら続けた。
「安心しなよ。私、前は看護師やってたから、軽く触診はしておいた。頭には異常が無いよ。あばらも、首の骨も問題は無いね。脚の骨が折れているだろうけど」
道理で痛いわけだ。
「萩上は? 萩上は、大丈夫なのか?」
「私は大丈夫…、桜井君が庇ってくれたから」
「そんなことをしたっけな?」
覚えがない。やっぱり脳の検査はしてもらおう。
とにかく、萩上が無事であることを確認した僕は、深いため息をついた。
「お前が無事で良かったよ」
「………」
その後、僕はやってきた救急車によって、救急病院に搬送された。
精密検査を受けたが、あのお隣さんの言っていた通り、脳や、首の骨には異常がない。ただ、右足のふくらはぎの骨がぽっきりと折れていた。
萩上にやられた額の傷も、手の甲の引っ掻き傷も、全て落下したときに付いたものになった。
とにかく、軽傷だ。
僕は脚にギプスを巻いてもらい、松葉杖を借りると、その日の内に萩上のアパートに戻った。
「ごめんなさい」
アパートに戻ると、隣で気まずそうにしていた萩上が言った。
「傷つけちゃって、ごめんなさい」
「ああ、別に、こっちこそ」
「それと、これも…」
萩上が差し出したのは、僕を殴った時に破損したヘッドホンだった。
彼女がビーズやスパンコールを使って施した装飾はほとんど剥がれ落ち、マイクの部分のカバーに亀裂が入っている。その隙間から、針金が飛び出していた。
「あーあ」
僕はヘッドホンを指で摘まんだ。
「これじゃ、もう聞けないな」
「ごめんなさい」
萩上はまた泣き出した。
部屋を見渡す。
彼女が砕いた皿や窓ガラスの破片が散らばり、その上に、カッターナイフで切り出した絨毯の毛が雪のように積もっている。殴ったのか、壁は凹み、天井には、包丁が綺麗に突き刺さっていた。
「時々、感情が高ぶると、こうなっちゃうの…、頭の中が真っ赤に染まって…、気が付いたら、何もかも壊しちゃっているの…。今までに、何度も壊してきた…、卒業アルバムも、賞状とかも、目に映るもの全てに、攻撃をしちゃうの…」
萩上は震える我が身を抱いた。
「ごめんなさい…、あなたがくれた大切なものを…」
「うん、いいよ、ものはいつかは壊れるものだから」
萩上の頭を撫でる。十四歳の少女を撫でている気分だった。
「ぼくこそ、悪いことをした。これで恨みっこ無しにしよう」
「でも…」
「ほら、片づけだ」
僕は松葉杖を突きながら、部屋の中に入った。
「ガラスに気を付けろよ?」
「うん」
その後は、特に言葉を交わすことはせず、一心に部屋の片づけをした。
突進して突き破った扉は、凹みはしたものの、大きな損傷は無く、とりあえず蝶番をドライバーではめなおして応急処置とした。
割れた窓ガラス。へこんだ壁に、切り裂かれた壁紙は、さすがに直すことができなかった。弁償代、高いだろうな。
ガラス片をゴミ箱の中に入れて、細かく散らばる破片は、ガムテープを使って吸着した。
小一時間ほどで、足の踏み場がある程度には片づけることができた。
萩上を一人にするわけにはいかず、その日は彼女の部屋に泊まった。
割れた窓から、肌寒い風が吹き付け、びりびりに破れたカーテンを揺らす。
僕と萩上は、タオルケットを分け合って傷だらけの絨毯の上に横になった。
萩上はまだ震えていた。
「さっきの話の続き」僕は彼女の手のひらの上に、自分の手のひらを重ねて言った。「それと、五年前の話の続きだ」
「………」
「あの時、お前は僕に言った、『小さな目標を持つといい』って。お前にとっちゃ、社交儀礼の一環だったのかもしれないけど…、僕にはそのアドバイスが、衝撃的だったんだ」
大げさかもしれないけど、頭の上に隕石でも降ってきたみたいに。
「次に会うときは、頑張れる自分になれているといいね。そう言ってくれたお前に応えるために、次にお前に会うときは、もう少しマシな自分になってやろうって、小さな努力を積み重ねたんだ」
「…………」
「ほとんど、中学二年の時のお前の生き様をまねただけだ。勉強を頑張る。人に好かれるようにする。運動を頑張る。さすがに、芸術の才は無かったけど…、まあ、それなりにやったよ。高校の時は、生徒会に立候補した。馬鹿な奴らばっかりだったから、簡単になれたけどな」
それから、粘っこい唾を飲み込んで言った。
「僕は、なれたかな? 頑張れる自分に…」
萩上は首を横に振った。
「ごめんなさい…」
霧雨のような謝罪を聞いた。
「私は、桜井君が思っているほど、立派な人間じゃない」
「うん…」
「全部、作ってたの…。本当は、勉強なんてしたくなかった。運動だって…、絵も好きじゃないし、ピアノも大っ嫌い…。だけど、そうしないとお母さんに怒られちゃうし…、たくさん叩かれる…。なにより、私のことを尊敬してくれる皆の期待を裏切って…、失望されるのが、一番怖かったの…」
萩上は、泣きながら全てを話してくれた。
萩上の母親は、いわゆる、毒親だった。
自分がとある有名大学卒業、有名企業に就職しているというキャリアを持っているため、娘にはさらに上を目指して欲しかった。勉強、運動、芸術、人間性、何もかも一位じゃないと気が済まず、彼女が幼稚園に入園した頃から、その英才教育は始まった。
家庭教師を雇い、毎日勉強。それだけじゃない、スイミングスクールや、習字の稽古など、学校に入学してから必須となることは全てやらせた。
そして、少しでも失敗すると、鬼の首をとったように怒った。
例え、萩上がテストで学年一位をとったとしても、一問でも間違えていれば許さない。「小さなミスの積み重ねが、人をダメにする」なんて言って、彼女を叱りつける。百点以外は認めないのだ。
体育祭や、運動会でもそうだ。
運動会の日になると、母親は、優秀選手をスカウトする監督のような眼差しで会場に赴き、娘の活躍を見る。もしも彼女の所属している組が負けたり、徒競走で一位以外をとろうものなら、自宅に帰ってから罵声罵倒を浴びせ、家の周りを何周も走らせた。
中学三年の文化祭の時、合唱コンクールにて、彼女のクラスが優勝することができなかったことがあった。萩上の伴奏は完璧で、歌い手の力量が足りていなかっただけなのだが、母親は「負けたのはあなたのせいだ!」と萩上を叱った。優勝することができた二年の時は、褒められたのかというと、そうでも無い。「調子に乗るな」「調子に乗るやつは成長しない」「常に謙虚でいなさい」と叱りつけた。
これらの言動が、単なる嫌がらせなら、まだ可愛い方だ。
母親はこの教育が正しいと考えていた。 飴なんていらない。鞭だけの力で支配する教育だ。
「油断するな」
「常に気を引き締めろ」
「向上心を持て」
「親のいうことを聞け」
「謙虚でいろ」
母親が特に重要視したのが、「人望」だった。
常に周りの反応を気にして、萩上が信頼に足る人間になれるようにした。
容姿は清楚に。言葉遣いは丁寧なのが前提だが、硬い印象を持たれないように、時々、気さくな言葉を発するように指示した。
萩上は自分の上に、「母親がいう人物像」を上塗りした。
成績が優秀だからと言って、人を見下したりしない。困っている人には手を差し伸べ、話を振られたら、軽い冗談を交えて気さくな返事をする
母親はさらに、努力は人の目に見える場所でしなさい。と教え込んだ。
あの時、夏休みや冬休みに学校で勉強をしていたのは、先生たちにそういう印象を与えるためだった。
萩上は、休みの日でも学校に来る努力家だ。
そう、懇談会で先生に言われるのがたまらなく心地よかったらしい。
萩上の母親の教育への情熱は、例えるなら、育成ゲームのようなものだ。
自分の子供を、自分が思うまま願うままに育てて、社会に出し、結果を残させる。
萩上が結果を残した時、母親はたまらない快感を覚えていた。
「お宅の娘さん、優秀ですわね」
「きっと親御さんの教育のたまものですわね」
「一体、どうしたらあんな優秀な子が育てられるのかしら?」
近所の人間はそうやって、母親の教育を褒めたたえた。
それから、萩上は周りから絶大な指示を受けて、中学校を卒業した。進学先は、県内でも随一の進学校。そこでも結果を残すために、母親は萩上にさらに邁進するように強要した。
勉強をしろ。
学年で一番になれ。
人から尊敬されろ。
萩上も、母親の期待に応えるために頑張った。
夢の無い話になるかもしれないが、勉強も才能が勝る場面が多々ある。
勉強漬けで優秀な成績を収めていた萩上に対し、その進学校には、才能のあるやつらがごろごろといた。ちょっと勉強しただけで要領を理解し、簡単にテストで高得点をとってくるのだ。
最初の学力テストで、萩上は初めて九十点以下をとった。順位も、二百人中、二十五位。それでもいい方なのだが、彼女の母親はその結果を見て、卒倒しそうになったという。
なんでこんな点しか取れないんだ。
勉強が足りないのではないか?
努力が足りないのではないか?
高校に行くことがゴールじゃない、そこから順位を落とさずに頑張ることが大切なんだ。
気が抜けている。
と萩上を叱りつけた。あまりに怒られ過ぎて、萩上は途中から鼻血を流していたそうだ。
いくら頑張っても、才能のあるやつはその上を行く。
高校の合唱コンクールで、彼女は伴奏を任されることはなかった。
体育祭で、彼女はリレーのアンカーを任されることはなかった。
土日に学校に行けば、席の大半が埋まっていて、むしろ、休みの日に学校に出てきて勉強をするのが当たり前の風潮が漂っていた。
学力も全く伸びず、宙ぶらりんの状態が続いた。
母親は今までより、彼女を叱りつけた。
叱って、叱って、叱って、叱って、叱って、叱って、叱りつけた。
目標が達成できないと、深夜まで拘束して勉強をさせた。
そのうち、彼女は精神的な負担からやつれていき、学校にいるときもふらふらとすることが多くなった。
それでも、母親に言いつけられた「信頼される人物像」は崩そうとはせず、話しかけられたら笑顔で応対、気さくな返事、おしとやかな仕草をした。すると、クラスメイトから「キャラクターをつくっているみたい」と気づかれ、陰口を言われるようになった。
追いに追い詰められた萩上は、夏休み明けに行われた学力テストの日、学校に行かなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、今日こそは一番を取るのよ?」
と母親に言われていたにも関わらず、駅を下りてから、ローファーのつま先を学校に向けることができなかった。
ブレザーのまま、教科書の類が入った重い重い鞄を肩にかけて、町の中を放浪した。
当然、誰かに目撃されて、学校をさぼったという事実は学校と母親に知れ渡った。
両者の反応は様々だったという。
母親は、顔面蒼白。
「信じられない! うちの子がそんなことするはずがない!」と、最期の最期まで彼女が学校に行かなかったことを信用しなかった。
対して、担任の先生は「まあ、そろそろすると思ってたよ」と、嘲るように言った。
「お前は、なんでもかんでも完璧にこなそうとしすぎなんだよ。底辺の奴らを見てみな? 別にテストの成績が落ちたって気にせず、のほほんと学校に来てるぜ?」
それは、追い詰められている萩上に対して、担任なりの優しさだったのかもしれない。
辛いなら、テストの成績なんて気にするな。底辺に落ちて、気楽に生きればいい。よっぽどのことが無い限り、卒業はできるのだから。
だが、今まで母親に「一番になりなさい」と言われ続けた萩上にとって、そんな考え、認められるわけがなかった。
一番をとらないと。
一番じゃないと、母親に怒られる。
言うことを聞こうとしない萩上に、担任は言った。
「お前には無理だ。諦めろ」
と。
その時、萩上の頭の中で、今まで彼女が頑なに護ってきた何かが切れた。
胃の奥から込み上げた怒りが、溶岩のように、ごぼっと粘り気のある音を立てる。身体中の関節が工事現場の足場のように、キイキイと軋み、耳の奥に響いた。
手の甲に焼けるような痛みが走る。一度じゃない。何十回も、焼けては消えて、焼けては消えてを繰り返した。
気が付くと、萩上はめちゃくちゃに荒れた職員室で、何人もの先生に押さえつけられていた。
目の前には、顔面をぼこぼこに殴られた担任が倒れていた。歯が折れて、鼻は右に具にゃりと曲がっている。
ストッパーが弾け飛んだ瞬間だった。
それから、萩上は感情が高ぶると、何かに八つ当たりをしないと気が済まなくなった。
なんでもいい。何かを壊すことができれば、それでいい。目に入るもの、手あたり次第壊した。学校の教科書も、鞄も、制服も。壊したところで、彼女は高校を退学になったので、困ることはなかった。
萩上のしたことは一瞬にして広まり、母親は「乱暴な娘を育てた」なんて後ろ指を指されるようになった。
名誉が大好きで、恥が大っ嫌いの萩上の母親は、憤慨し、嘆いた。どうにかして、炎天下にさらされた植物のようにぐったりとした彼女を元に戻そうかと模索した。
勉強ができなくなったのは環境が悪かったからだと、有名な家庭教師を呼んでみたり、ピアノが上達しなくなったのは練習用のピアノがダメになったからだと、高い金を支払って調律をしたり、的外れなことばかりをした。
次第に、母親のことを信用できなくなった萩上は、何度も家出をするようになった。だが、一人で生きる術を知らなかった彼女は、何処に行くこともできず、すぐに母親に捕まった。母親は、家出をした萩上を何度も叱りつけた。「家出をするなんて、不良のやることだ」と。
萩上は懲りずに、次の日も家出をした。だが、直前でやはり恐怖が勝り、母親に捕まった。そして、「お母さんをこれ以上困らせないで」と叱られた。
それでも、家出をした。
先に折れたのは、母親だった。
「それだけ、私のことが嫌なら、出ていくといいわ」
これでようやく萩上も自由の身になれたのかと思いきや、母親は萩上のために、あのおんぼろアパートを借り、当面の家賃を支払った。わかっていたのだ。このまま萩上を自由にすれば、彼女はどこかで必ず問題を起こす。そうすれば、必ず母親の教育方針を疑われると。
母親は、萩上が恥をさらして、自分の顔に泥を塗ることを許さなかった。
「あのアパートで、他人に迷惑を掛けずに、静かに暮らしなさい。お母さんは、もうあなたに干渉しないから」
不本意だったが、彼女はそれを受け入れた。
静かに、クーラーの効いた部屋で何もせず、植物のように生きているだけ。
時々、昔のことを思い出して感情が高ぶった時は、新聞紙を裂いて気を紛らわせた。それでも落ち着かないときは、身の回りにあるものを片っ端から破壊して回った。
もう干渉はしない。と言ったものの、母親は萩上のことを諦めていなかった。彼女が再び社会に出て生きていけるように、模索した。
最初に声を掛けたのが、中学時代に萩上と仲が良かった明日香だった。明日香を萩上のところにけしかけて、萩上の閉じ切った心を開こうと考えたわけだ。
だが、明日香は萩上の地雷ばっかり踏んでしまい、失敗。そのため、明日香と同じ大学で、萩上のアパートの近くに住んでいる僕に矛先が向けられたのだ。
※
「お前、全部知ってたろ?」
その深夜、萩上から大体のことを聞いた僕は、眠っていた明日香に電話で問い詰めた。
マイクの向こうから、寝ぼけた声が返ってくる。
『ごめんごめん』
「いや、ごめんじゃなくて…」
『確かに、正樹の日給を出したのはちーちゃんのお母さんだよ。私はそれを知っていて、正樹にお願いしたの』
「なんで、僕に言わなかった?」
『口止めされてたんだよ。わかるでしょ? あの人、見栄っ張りなんだから、まだ信用できていない正樹に、家の事情べらべらと話して、他の人間に言いふらされるのは嫌でしょ」
「まあ、そうだけど…』
だから、わざわざ自分の素性を明かさずに、萩上を経由していたのか…。
『私だって、あまり詮索はしたくなかったよ。だって、ちーちゃんママの言うことを正樹に伝えて、正樹の報告をちーちゃんママに伝えるだけで、私はお金がもらえるんだから。何事も上手くやらないとね』
明日香が薄情に言った。
僕の感情を察してか、明日香は電話越しに鼻で笑った。
『ちーちゃんのことは大切だけど、我が身の方が可愛いからね。みなくていい現実には目をつぶるのよ。私』
それから、「あ、そうそう」と付け加えた。
『ちーちゃんのママ、怒ってたよ? 「初期に比べて回復したって報告を受けたから、レストランに行ったのに全然治っていない」って』
「ああ、そう」
そりゃそうだろ。
『もう少し、ちーちゃんが精神状態が治って、ママと会話できるようになったら、また連絡してほしいってさ。ちゃんと、今回、レストランにちーちゃんを連れていった報酬も入るし、これからも日給はくれるって言ってた!』
マイクの向こうから、明日香の嬉々とした声が聞こえた。
『よかったじゃん、ちーちゃんの家、金は本当にあるからね。このまま行けば、私も正樹も、後期の学費完済できるかもね』
「ああ、そうだな」
頷いて、壁際ですうすうと眠っている萩上を見た。
暴れまわり、泣き疲れた萩上は熟睡して、傍らで僕が会話をしているというのに全く起きないでいた。タオルケットからはみ出した彼女の手首には、痛々しいリストカットの痕。
「……、ごめん、明日香」
『え?』
「多分、お前の学費は、自分で払わないといけなくなるとおもう」
『え? え? へ?』
「じゃあな」
『え、なに言ってんの? 正樹! あんた変なこと考えているんじゃないでしょうねえ!』
危険を察知した明日香がスマホ越しに叫んだが、もう遅い、僕は通話を切った。
眠っている萩上の隣に、僕も横になり、その冷たい手のひらに自分の手を重ねていた。
「なによ」
萩上が目を開ける。僕の手を握り返した。
「なんだ、起きてたの?」
「寒いのよ、離れないでよ」
萩上は猫のように、僕の胸元に頭を押し付けてきた。
胸のあたりに、ぼんやりと萩上の体温がある。そのぽかぽかした感触に、僕は微睡んだ。
萩上は言った。
「再会したとき、私、桜井君のことを『覚えていない』って言ったでしょう?」
「うん」
「あれ、嘘なのよ」
「そう、よかった」
忘れられていなくて、よかった。
「意地になっちゃったの。私は変われず、むしろ退化したのに、明日香ちゃんも、桜井君も、変わってしまっていて…」
それから、「ごめんなさい」と言った。
「今の今まで、卒業式に言ったことなんて忘れていたわ。だって、社交儀礼だったんだもの」
「まあ、そうだよな」
社交儀礼か。そうだよな。
「僕は、頭の片隅でうっすらと覚えていた。それが、僕が頑張る理由になったんだ」
「嫌なものね。うわべの励ましだったのに」
「あの頃のお前に『頑張れ』なんて言われたら、どんな男子も頑張るさ」
「買いかぶりすぎよ。お母さんに言われて、自分を偽ってただけだし…」
萩上の肩がぶるっと震えた。
「ずっと、嫌だった。本当は可愛いものが好きなのに、みんな、私に聡明なイメージを押し付けてくる…。本当は頑張りたくなかった。ピアノも弾きたくなかった。こうやって、部屋の隅にじっとして、眠っていたかったのに…」
自分が思うように、彼女は生きることができなかったのだ。
僕は赤子でもあやすかのように、彼女の肩を抱いて、ぽんぽんと撫でた。
「大丈夫だ。僕が何とかする」
なんとか、してやる。
「明日、お母さんのところに行こう」
地元に戻るのは、一か月ぶりだった。
脚を骨折していたので、移動は電車だ。慣れない松葉杖で歩くのには一苦労で、駅のホームの段差で何度も転びそうになった。しかし、無人駅のために、支えてくれたのは萩上だけだった。
たった一か月帰らなかっただけで、青々しく噎せ返るような香りを漂わせていた田園は乾いた色に染め上げられ、その上を蜻蛉たちがはしゃぎ合いながら飛んでいた。
平日の、喉かな田舎道。吹き付ける風はからっと乾燥し、秋のその先、冬の気配を孕んでいる。これよりもっと寒くなったら、コートを買いたいな。焦げ茶色で、首元にもこもこがついているやつがいい。あと、風を通さなければ完璧だ。
萩上にも買ってやろう。
そんなことを考えながら、僕は松葉杖を使って歩いた。
そして、とある一軒家の前に到着した。
「ここが、私のお母さんの家」
ここが、萩上の母親の家だった。
「綺麗な家だな」
レゴブロックを積み重ねたみたいに、四角い外観。黒を基調としているので、重厚感がある。建物の周りは、赤茶の煉瓦を積み重ねて作った塀で囲まれ、敷地に入るための鉄柵は洋風に仕上がっていた。
「お母さん、見栄えがいいものしか買わないの。だから、この家を買うときは本当に揉めたんだって」
「そうか…」
鉄柵を開けて、敷地内に踏み入る。
サクサクと生い茂った芝生の中に、大理石の渡り石が玄関まで続いていた。
右手に見えるのは、家庭菜園用の畑。と言っても、植えられていたトマトの苗は夏が過ぎて萎れている。
ここでも飛び交う蜻蛉に若干嫌気が差しながら、松葉杖で身体を支え、渡り石の先の扉に向かって歩き出した。
ふと、萩上がついてきていないことに気が付く。
振り返れば、萩上は鉄柵にしがみついて、ガタガタと震えていた。
「萩上…」
僕は彼女の元に歩み寄る。両手が塞がっているために、その手を取ることができなかった。
「大丈夫、私は大丈夫…」
萩上は自分に言い聞かせると、掴んでいた鉄柵から手を離した。
そして、二人で支え合いながら、扉まで歩いていき、インターフォンを鳴らした。
※
萩上の母親は、相変わらずだった。
「あら、いらっしゃい!」
と、尋ねてきた僕たちを応対用の、鼻に抜けるような声で出迎えた。
「嬉しいわ、千鶴ちゃんから来てくれるなんて、ほら、上がって!」
昨日、萩上に反抗されて取り乱した顔は何処へやら、顔に作り笑いをべったりと貼りつけて、僕と萩上を中に誘った。
「あら、正樹君、その足は…」
「ああ、昨日萩上を追いかけて、階段から転げ落ちたんです」
適当な嘘をついておいた。
「あら、千鶴のために、身体を張ってくれたのね、ごめんね、後で治療費は払ってあげるから」
この人、やりにくいな…。
十四歳の頃、自分を偽っていた萩上がそのまま成長したかのようだった。
自分の腹の内を隠して、相手に当たり障りの無いことを言う。
「そのまま上がってきていいわよ」
「ああ、はい」
僕は靴を脱いで、外を歩いた松葉杖をワックスがかかったフローリングの上に着いた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
萩上に支えてもらいながら、母親の背中を追って、リビングに通された。
リビングの光景を見た時、僕は身体が引きつるのを感じた。隣の萩上は、「ひっ」と、小さく悲鳴をあげて、僕のジャケットの裾を強く掴む。
「ああ、いいでしょ?」
萩上の母親は満面の笑みで、部屋の奥の棚に飾られたものを自慢した。
壁際に置かれた、五段から成る大きな棚。下から上の段全てに、萩上に関連するものが飾られていた。
萩上が今までに描いてきた絵や、書道、獲得した賞状。一つ一つ、金縁の額の中に収められ、所せましと並んでいる。トロフィーも、メダルも、窓から差し込む、陽光を反射して鈍く光っていた。
「座りなさいよ、立っているとしんどいでしょ?」
「……」
僕と萩上は目を合わせて、すぐ近くのソファーに腰を下ろした。
母親は座らず、棚に飾られたものを愛おしそうに眺めた。
ある、風景画を手に取る。
「これはね、千鶴が小学一年生の時に、初めてもらった賞状ね。読書感想画だったっけ? もう、お母さん、すごく嬉しかったの。『この子には才能がある』って確信したわ!」
それから、トロフィーを手に取る。
「これもすごく印象に深いわね。何のものかわかる?」
「ピアノコンクール」
「そうよ、小学四年生の時よ。今までは銀賞ばっかりだったのに、この年は、金賞がとれたよな? これも、ママとの特訓の成果よね?」
「………」
「成果よね?」
「……はい」
「これもいいわね」
そう言って母親は、他の賞状に隠れて見えにくくなっていた、額を棚から取り出した。
それは、賞状でも、絵でも書道でもなかった。
一枚の、答案用紙だった。
「中学校三年生の、最期の期末テストの時よ。覚えてる? 千鶴ちゃん、このテストで、五教科全部満点だったね。中学生最期の集大成だったから、お母さん、嬉しくて泣いちゃったわ!」
萩上が、僕にしか聞こえない小さな声で、「嘘つき」と言った。
気が高ぶっているのか、母親は僕たちのことなんて目もくれず、萩上の賞状や作品を手に取っては、思い出を語っていった。
隣に座っている萩上が、冷たい手で僕の手を握った。
「お母さん、普段は、私の賞状なんて、部屋に飾らない」
「………」
「過去の栄光に縋りつくな、次の目標を持てって言って、クローゼットの中にしまってたのに…」
そう言われると、母親の言葉がいかに芝居臭いかわかった。
白ける僕たちを放って、母親はさらに言った。
「ほら、これなんてどう? 読書感想文コンクールの時にもらった盾! あと、副賞の図書カードも残しているのよ。あの頃の千鶴ちゃん、本をたくさん読んで頑張っていたもんねえ」
「あの、お母さん」
僕は母親の口を塞ごうと話しかけた。
萩上の母親は止まらない。
「ねえ、見てよ。これ、これ全部、あなたがとった栄光なのよ?」
充血した目で、僕じゃない、萩上だけを見た。
天井までに届くような高い棚。下から上まで並んだ萩上の栄光。
「最近の千鶴ちゃん、ちょっと、嫌々モードに入っちゃっているからねえ」
口はにこっと笑っているが、目は作り物のように無機質だった。
「どうかしら? もう一度、頑張りたくなったでしょ? 努力って、楽しいことだものねえ。努力したくなったよね。ね? ね? ね? ね?」
「……」
この異様な圧に、僕は思わず目を背けた。
ふと、ソファーのすぐ前にあるガラスのテーブルの上に、大量の広告が置いてあることに気が付いた。何枚か手に取って見ると、その全てが、家庭教師や、映像授業、対人制の塾の案内だった。
「それ、千鶴ちゃんのために、沢山集めたの!」
母親は声だけ嬉々として言った。
「千鶴ちゃんが高校で頑張れなかったのは、多分、勉強のやり方が間違っていたと思うの。そりゃそうよね? 中学と同じ勉強の仕方じゃ、高校ではついていけないよね? お金は気にしなくていいから、千鶴ちゃんの好きなところを、好きなだけ選んでいいからね! ああ、問題集とか参考書も、好きなだけ買ってあげる」
僕の手を握る萩上の力が、さらに強くなった。
見れば、萩上は顔を段ボールのような色にして、首筋には玉のような汗をかいていた。
これ以上、萩上を追い詰めるわけにいかないか。
「ね? 千鶴ちゃん? もう十分休んだでしょう? 正樹君にもこれ以上迷惑は掛けちゃだめだから、もうそろそろ、本腰入れて頑張らない? まずは高校を受けなおそうか! それが嫌なら、高校卒業認定試験でもいいよ! 大丈夫よ! 千鶴ちゃんならきっとできる! 上手くいくよ! そうしたら、大学も受けていこうね! 千鶴ちゃんの頑張れる性格なら、私、医学部でも良いと思うの! ○○大学とか、△△大学とかいいんじゃないかな? 女医って、かっこいいと思うなあ」
「あの、お母さん」
僕は母親の話を遮った。萩上の手を握り締めたまま続ける。
「今日は、そういう話をしに来たんじゃありません」
弱みを握られないように、なるべく凛とした態度で接する。
「今日は…」
「なんで君が口を開くの? 私は千鶴ちゃんに話をしているのよ?」
「……」
笑顔の圧に、一瞬で喉に込み上げていた言葉が消し飛ばされていた。ああ、だめだ。人と仲良くすることは覚えていたけど、人と対立することには慣れていない。
萩上の母親は、彼女に歩み寄る。
「ね? ね? ね? ね? ね? そう思うでしょ? ね? 千鶴ちゃん、もうそろそろ、頑張ろうね? 私の誇りになってくれるよね? ね? ね?」
「やめてください」
僕は言葉を振り絞った。
次は遮られないように、一気にまくし立てる。
「今日はそんな話をしにきたんじゃない。萩上、いや、千鶴さんから手を引いてくださいと、言いに来たんです」
「私が、千鶴ちゃんから手を引く?」
母親は首を傾げて、何を言っているのか理解しがたいような顔をした。
「なんで? 私はこの子の母親よ? 家族なんだから、手を引くってのは、無いんじゃない?」
「だから、もう、やめてください。これ以上やったら、萩上が壊れてしまいます」
「私の子供よ? 疲れることはあるだろうけど、壊れることは無いわ。大体、この程度で『壊れる』なんて、人間として甘いんじゃないかしら? 成功を収めた人間は、これ以上に努力しているのよ? 千鶴ちゃんも、正樹君も、まだまだね」
母親は「それに」と付け加えた。
「私があなたに頼んだのは、千鶴ちゃんのお世話よ? おかげで、千鶴ちゃんの心が回復したのは感謝するわ。だけど、私に指図するのはダメよ? 家族の問題なの。他人は口出ししたらだめなの」
萩上の母親は、にいっと笑って、また、萩上に顔を近づけた。
「ね? 千鶴ちゃんもそう思うでしょ? 正樹君のいうことに流されたらダメよ? ダメな人間になっちゃう。ね? 私のいうことを聞いていたら、間違いないんだから…」
まあ、言いたいことはわかる。
僕はまだ学生で、萩上同様、誰かの力を借りていないと生きていけない。対して萩上の母親は、性格はあんなだが、一応成功している。有名企業に勤めて、豪華な家に住み、金には一生困らないだろう。この母親についていれば、彼女は生活に困窮することは無い。それなりに勉強して、それなりの大学に行き、それなりに就職すれば、きっとそれなりに生きていくことができるだろう。
だけど、僕たちはまだ若い。それなりに生きていった先にあるものが本当に、僕たちが欲するものなのか、わかるわけがなかった。
「ね? 今の苦しみは、未来への投資なの! いつかは報われるわ。今は辛いかもしれないけど、一緒に乗り越えて行こうね! ね? ね? 千鶴ちゃんなら、できるわ!」
いつかは報われる。そんな漠然とした甘い言葉に釣られるほど、僕たちの心は寛容にできていないのだ。
いつかっていつだ?
「………」
僕は、萩上の手を離した。
松葉杖をついて、そっと立ち上がる。
急に動き出した僕を見て、母親は気圧されたように後ずさった。
カツン、カツンと、松葉杖をつきながら、棚に歩いていく。
上から下まで、賞状、賞状、賞状、賞状、賞状、トロフィー、トロフィー、賞状、盾、賞状、盾、トロフィー、賞状、盾、賞状、盾、メダル、メダル、賞状、盾、メダル、書道、絵、絵、絵、絵…。
これらの栄光を、十四歳の萩上は、あの小さな身体、甲冑のように身に纏っていた。
重かっただろうな。
脱ぎたいと思っただろうな。
辛かっただろうな。
「萩上!」
僕はなるべく笑顔で、萩上の方を振り返った。
迷子になり、雨に濡れるしかない子犬の目。
今、ようやくお前の気持ちがわかった気がしたよ。
息を吸い込み、まるでダンスに誘うかのように言った。
「壊そう!」
「壊そう!」
その一言に、萩上ははっとした。
曇天が晴れるかのように、顔をぱっと明るくする。
目に涙を浮かべて、僕の方に駆け寄った。
「うん!」
次の瞬間、僕は折れていない左脚を軸に立ち、松葉杖を棚に向かって振り下ろしていた。
母親が悲鳴を上げるのと同時に、棚の上の額が激しい音を立てて砕けた。
空中に、キラキラとしたガラスの破片が飛び散る。
カランと、乾いた音を立てて破片が床に散らばった。
萩上が僕の袖を引っ張った。
「私も!」
「じゃあ、一緒にやろう!」
萩上は僕を支える代わりに、もう一本の松葉杖を手に取った。
二人で息を揃えて、凶器代わりにした松葉杖を振り下ろす。
何度も、振り下ろす。
ガシャンッ!
パリンッ!
バキッ!
ドカンッ!
ボゴンッ!
激しい音を立てて、棚のものが壊れていく。
あははははは! って、腹の底から笑いあって。
その時の僕たちは、母親以上に狂っていた。
彼女が過去に手にした栄光の全てに、松葉杖を振り下ろし、跡形も残らぬように砕いた。
額を割って、中から賞状や絵を取り出し、びりびりに破った。
トロフィーは表面がプラスチックだったので、何度も殴り、凹ませ、床に叩きつけた。
大理石でできた盾は、壁に投げつけるだけで簡単に粉々になった。
遊園地で遊ぶように、心の底から笑いあった。
一撃で、どれだけ粉々に砕けるか競争した。
萩上は「見て見て!」と、賞状を紙飛行機にして飛ばした。
僕も負けじと紙飛行機を折って、部屋の向こうに飛ばした。
ぐしゃぐしゃにする。
トロフィーが凹む度に、盾が砕ける度に、額が割れる度に、パキリ、パキリと音を立てて、萩上を覆っていたものが剥がれ落ちるようだった。
壊せ。
壊すんだ。
萩上を縛り付けていた過去を。
僕が憧れていた聖女を。
何度も何度も松葉杖を振り下ろして、なぶり殺しにした。
一時間後、僕と萩上は汗まみれになって、ガラス片、大理石、木の破片、紙の切れ端が降り積もった床の上に座り込んで「あはははは!」と笑いあっていた。
「萩上、お前、顔が真っ赤だぞ? もっと運動しろよ」
「桜井くんこそ! 人のこと言えないんじゃない? 息がすっごく切れてる」
「いいなあ、身体を動かすっていいなあ」
「そうねえ、すっきりしたわ!」
そうやってじゃれ合う僕たちの横で、彼女の母親は顔面蒼白で立ち尽くしていた。
「なんて、ことを…!」
「ということです、お義母さん」
僕は隣の萩上の骨張った肩を抱き寄せた。
家族の問題に手を出すな?
他人だから発言権は無い?
くそくらえだ。
目の前で苦しんでいる少女がいるって言うのに、それを助けられないなんて、男として失格じゃないか。
息を吸い込み、今までに出したことが無いくらいの清々しい声で言った。
「娘さんを! 僕にください!」
それから、母親が呼んだ警察に、僕は逮捕された。
器物破損。
執行猶予がついて、すぐに牢屋からは出られたものの、高校の三年間苦労して合格した大学は退学処分となった。
母親と兄貴から連絡が入り「親不孝者」とだけ言われた。これで実家に帰る理由はなくなったな。
萩上のアパートの修理代。萩上の実家で暴れて壊したもの弁償金で、かなりの金が僕の懐から出ていった。その金も大学の学費に使うために置いておいたものなので、あまり関係は無かった。
悪事千里を走るとはこのことか。誰かに言ったわけでは無いのに、路地を歩く僕に向けられる視線はどこか冷たかった。
前科者が、アパートに戻ると、萩上が待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
当面の生活費を得るために、漫画やゲームを売り払った僕の部屋はがらんとしていた。
「あーあ、やんなっちゃうよ」
僕は冗談交じりに言った。
萩上も冗談交じりで返した。
「だったら、あんなことしなければよかったのに」
「楽しかったなあ」
「楽しかったね」
「スカッとした」
「スカッとしたね」
笑いあった後、萩上が声のトーンを落として言った。
「ごめんなさい」
「気にするな」
「だけど、桜井君まで…、生きるのが難しくなっちゃって…」
「難しいだろうなあ…」
前科持ちになってしまった。
せっかく合格した大学も退学処分。親からは勘当されて、ちまちまと貯めていた金も一瞬で無くなった。今日のご飯を食べるのにも一苦労だった。
「まあいい。あるべき姿にもどっただけだよ」
中学の頃、何のやる気も起きないままに生きていった僕が、必ず通る道に立っただけだ。
部屋のインターフォンが鳴らされた。
出てみると、眉間に皺を寄せた明日香が立っていた。
部屋には萩上がいるので、一度外に出る。
開口一番、彼女は「よくもやってくれたわね」と、恨みがましく言った。
「私、お金もらえなくなったんだけど?」
「仕方な。世の中、そんな甘くないってことだ」
「甘いのはどっちよ、感情に任せて犯罪犯しちゃってさ」
「なんで知っているの?」
「悪事千里を走るってことよ。大学のみんな噂している。もう、高校、中学時代の友人
にも知れ渡っていると思うけど?」
「ははは、有名人だ」
笑う僕に、明日香はため息をついた。「こいつはもう駄目だ」と言いたげだった。
「とにかく、食べ物無いんでしょ? ほら」
そう言って、持っていたナイロン袋を僕に渡した。中には、インスタントラーメンや、缶詰、ミネラルウォーターなどが入っていた。
「正樹のこと、馬鹿にするけど、でも、同情はするよ? そりゃあ、女の子が困っていたら、助けたくなるもんね」
僕の気持ちを汲み取ったのか、そんなことを言った。
「だけど、正樹、将来必ず後悔するよ?」
後悔か…。
明日香は、くるっと踵を返す。去り際に、首だけで振り返って言った。
「またね、形だけでも応援しておく」
「うん、ありがとう」
したたかな明日香は、秋の肌寒い風にスカートを揺らしながら階段を下りていった。
部屋に戻ると、萩上が僕からナイロン袋を取り上げながら「明日香ちゃん、なんて言ってたの?」と聞いた。
「怒られたよ。僕のしたことが馬鹿だって」
「うーん、確かに」
萩上は、袋の中からミネラルウォーターとサバの缶詰を取り出し、無言で僕に寄越した。「開けろ」ということらしい。
鯖缶を二つ開けて皿に移し、二人で食べた。
夕方になると、外に出て、近所の人たちの刺すような視線を背に、軽い散歩をした。
暗くなると、テレビのドキュメンタリーをぼーっと見て、日付が変わった頃に、一枚の布団を分け合って横になった。
「後悔していない。と言ったら嘘になる」
僕は、萩上の手を握りながら言った。
「きっと、僕たちはこの先、苦労をすることになると思う。そして、少なからず、今回の選択を後悔するだろう」
「うん、そうだろうね、ごめんね」
「そうなることを悟った、二十歳の餓鬼の言い訳を聞いてほしい」
「うん」
「幸せは、金じゃないと思うんだ。学力とか、経歴とか、そういうのじゃないと思う。何かに向かって努力しているときとか、美味しいものを食べた時、楽しいことをしている時に、人は幸せになれるんだと、僕は思っている」
「うん」
「幸せに無頓着だった昔の僕なら、きっとこの考えは浮かんでいないだろうよ」
萩上の頭を撫でた。
「僕にとっての幸せは、萩上とこうやって一緒にいるときだ」
「なんか、照れるな」
頭の中を、いろいろな感情が渦巻いていた。
僕のしてきたことは、本当に正しかったのか。
ただ感情に突き動かされただけの愚かな行為だったのではないか?
この先、僕たちは生きていくことができるのか。
一寸先の闇の前に立たされた気分だった。
「何が起こるかわからないんだ、僕たちの選択が正しかったのかどうかもわからない」
萩上の頬に赤みが差す。彼女が身に纏っていた、見栄や虚構が、ぺりぺりと剥がれ落ちていようだった。
「僕たちの選択が、正しいと思えるように、生きていこうじゃないか」
「…はい」
萩上は強く頷いた。
ゆっくりでいい。
ゆっくりでいいのだ。
「ゆっくりと、幸せになっていこう」
これから僕たちを待ち構える嵐の中に身を投じるように、二人は眠った。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
翼を失った天使は、地上にしたたかに腰を打ち付けた。
一度は雲を仰いで、涙を流す。しかし、鼻を掠める爽やかな香りに目を向ければ、そこには天界と見まがうくらいの、爽やかな花畑が広がっていた。
草木をサクサクと踏みしめて、飛び交う蝶々に手を伸ばす。
静かに、それでも、淑やかに息をする命を見た時、「これでいいや」と天使は思うのだ。
これでいい。
これでいいのだと。
完