萩上の母親は、いわゆる、毒親だった。
 自分がとある有名大学卒業、有名企業に就職しているというキャリアを持っているため、娘にはさらに上を目指して欲しかった。勉強、運動、芸術、人間性、何もかも一位じゃないと気が済まず、彼女が幼稚園に入園した頃から、その英才教育は始まった。
 家庭教師を雇い、毎日勉強。それだけじゃない、スイミングスクールや、習字の稽古など、学校に入学してから必須となることは全てやらせた。
 そして、少しでも失敗すると、鬼の首をとったように怒った。
 例え、萩上がテストで学年一位をとったとしても、一問でも間違えていれば許さない。「小さなミスの積み重ねが、人をダメにする」なんて言って、彼女を叱りつける。百点以外は認めないのだ。
 体育祭や、運動会でもそうだ。
 運動会の日になると、母親は、優秀選手をスカウトする監督のような眼差しで会場に赴き、娘の活躍を見る。もしも彼女の所属している組が負けたり、徒競走で一位以外をとろうものなら、自宅に帰ってから罵声罵倒を浴びせ、家の周りを何周も走らせた。
 中学三年の文化祭の時、合唱コンクールにて、彼女のクラスが優勝することができなかったことがあった。萩上の伴奏は完璧で、歌い手の力量が足りていなかっただけなのだが、母親は「負けたのはあなたのせいだ!」と萩上を叱った。優勝することができた二年の時は、褒められたのかというと、そうでも無い。「調子に乗るな」「調子に乗るやつは成長しない」「常に謙虚でいなさい」と叱りつけた。
 これらの言動が、単なる嫌がらせなら、まだ可愛い方だ。
 母親はこの教育が正しいと考えていた。 飴なんていらない。鞭だけの力で支配する教育だ。
「油断するな」
「常に気を引き締めろ」
「向上心を持て」
「親のいうことを聞け」
「謙虚でいろ」
 母親が特に重要視したのが、「人望」だった。
 常に周りの反応を気にして、萩上が信頼に足る人間になれるようにした。
 容姿は清楚に。言葉遣いは丁寧なのが前提だが、硬い印象を持たれないように、時々、気さくな言葉を発するように指示した。
 萩上は自分の上に、「母親がいう人物像」を上塗りした。
 成績が優秀だからと言って、人を見下したりしない。困っている人には手を差し伸べ、話を振られたら、軽い冗談を交えて気さくな返事をする 
 母親はさらに、努力は人の目に見える場所でしなさい。と教え込んだ。
 あの時、夏休みや冬休みに学校で勉強をしていたのは、先生たちにそういう印象を与えるためだった。
 萩上は、休みの日でも学校に来る努力家だ。
 そう、懇談会で先生に言われるのがたまらなく心地よかったらしい。
 萩上の母親の教育への情熱は、例えるなら、育成ゲームのようなものだ。
 自分の子供を、自分が思うまま願うままに育てて、社会に出し、結果を残させる。
 萩上が結果を残した時、母親はたまらない快感を覚えていた。
「お宅の娘さん、優秀ですわね」
「きっと親御さんの教育のたまものですわね」
「一体、どうしたらあんな優秀な子が育てられるのかしら?」
 近所の人間はそうやって、母親の教育を褒めたたえた。
 それから、萩上は周りから絶大な指示を受けて、中学校を卒業した。進学先は、県内でも随一の進学校。そこでも結果を残すために、母親は萩上にさらに邁進するように強要した。
 勉強をしろ。
 学年で一番になれ。
 人から尊敬されろ。
 萩上も、母親の期待に応えるために頑張った。 
 夢の無い話になるかもしれないが、勉強も才能が勝る場面が多々ある。
 勉強漬けで優秀な成績を収めていた萩上に対し、その進学校には、才能のあるやつらがごろごろといた。ちょっと勉強しただけで要領を理解し、簡単にテストで高得点をとってくるのだ。
 最初の学力テストで、萩上は初めて九十点以下をとった。順位も、二百人中、二十五位。それでもいい方なのだが、彼女の母親はその結果を見て、卒倒しそうになったという。
 なんでこんな点しか取れないんだ。
 勉強が足りないのではないか?
 努力が足りないのではないか?
 高校に行くことがゴールじゃない、そこから順位を落とさずに頑張ることが大切なんだ。
 気が抜けている。
 と萩上を叱りつけた。あまりに怒られ過ぎて、萩上は途中から鼻血を流していたそうだ。
 いくら頑張っても、才能のあるやつはその上を行く。
 高校の合唱コンクールで、彼女は伴奏を任されることはなかった。
 体育祭で、彼女はリレーのアンカーを任されることはなかった。
 土日に学校に行けば、席の大半が埋まっていて、むしろ、休みの日に学校に出てきて勉強をするのが当たり前の風潮が漂っていた。
 学力も全く伸びず、宙ぶらりんの状態が続いた。
 母親は今までより、彼女を叱りつけた。
 叱って、叱って、叱って、叱って、叱って、叱って、叱りつけた。
 目標が達成できないと、深夜まで拘束して勉強をさせた。
 そのうち、彼女は精神的な負担からやつれていき、学校にいるときもふらふらとすることが多くなった。
 それでも、母親に言いつけられた「信頼される人物像」は崩そうとはせず、話しかけられたら笑顔で応対、気さくな返事、おしとやかな仕草をした。すると、クラスメイトから「キャラクターをつくっているみたい」と気づかれ、陰口を言われるようになった。
 追いに追い詰められた萩上は、夏休み明けに行われた学力テストの日、学校に行かなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、今日こそは一番を取るのよ?」
 と母親に言われていたにも関わらず、駅を下りてから、ローファーのつま先を学校に向けることができなかった。
 ブレザーのまま、教科書の類が入った重い重い鞄を肩にかけて、町の中を放浪した。
 当然、誰かに目撃されて、学校をさぼったという事実は学校と母親に知れ渡った。
 両者の反応は様々だったという。
 母親は、顔面蒼白。
「信じられない! うちの子がそんなことするはずがない!」と、最期の最期まで彼女が学校に行かなかったことを信用しなかった。
 対して、担任の先生は「まあ、そろそろすると思ってたよ」と、嘲るように言った。
「お前は、なんでもかんでも完璧にこなそうとしすぎなんだよ。底辺の奴らを見てみな? 別にテストの成績が落ちたって気にせず、のほほんと学校に来てるぜ?」
 それは、追い詰められている萩上に対して、担任なりの優しさだったのかもしれない。
 辛いなら、テストの成績なんて気にするな。底辺に落ちて、気楽に生きればいい。よっぽどのことが無い限り、卒業はできるのだから。
 だが、今まで母親に「一番になりなさい」と言われ続けた萩上にとって、そんな考え、認められるわけがなかった。
 一番をとらないと。
 一番じゃないと、母親に怒られる。
 言うことを聞こうとしない萩上に、担任は言った。
「お前には無理だ。諦めろ」
 と。
 その時、萩上の頭の中で、今まで彼女が頑なに護ってきた何かが切れた。 
 胃の奥から込み上げた怒りが、溶岩のように、ごぼっと粘り気のある音を立てる。身体中の関節が工事現場の足場のように、キイキイと軋み、耳の奥に響いた。
 手の甲に焼けるような痛みが走る。一度じゃない。何十回も、焼けては消えて、焼けては消えてを繰り返した。
 気が付くと、萩上はめちゃくちゃに荒れた職員室で、何人もの先生に押さえつけられていた。
 目の前には、顔面をぼこぼこに殴られた担任が倒れていた。歯が折れて、鼻は右に具にゃりと曲がっている。
 ストッパーが弾け飛んだ瞬間だった。
 それから、萩上は感情が高ぶると、何かに八つ当たりをしないと気が済まなくなった。
 なんでもいい。何かを壊すことができれば、それでいい。目に入るもの、手あたり次第壊した。学校の教科書も、鞄も、制服も。壊したところで、彼女は高校を退学になったので、困ることはなかった。
 萩上のしたことは一瞬にして広まり、母親は「乱暴な娘を育てた」なんて後ろ指を指されるようになった。
 名誉が大好きで、恥が大っ嫌いの萩上の母親は、憤慨し、嘆いた。どうにかして、炎天下にさらされた植物のようにぐったりとした彼女を元に戻そうかと模索した。
 勉強ができなくなったのは環境が悪かったからだと、有名な家庭教師を呼んでみたり、ピアノが上達しなくなったのは練習用のピアノがダメになったからだと、高い金を支払って調律をしたり、的外れなことばかりをした。
 次第に、母親のことを信用できなくなった萩上は、何度も家出をするようになった。だが、一人で生きる術を知らなかった彼女は、何処に行くこともできず、すぐに母親に捕まった。母親は、家出をした萩上を何度も叱りつけた。「家出をするなんて、不良のやることだ」と。
 萩上は懲りずに、次の日も家出をした。だが、直前でやはり恐怖が勝り、母親に捕まった。そして、「お母さんをこれ以上困らせないで」と叱られた。
 それでも、家出をした。
 先に折れたのは、母親だった。
「それだけ、私のことが嫌なら、出ていくといいわ」
 これでようやく萩上も自由の身になれたのかと思いきや、母親は萩上のために、あのおんぼろアパートを借り、当面の家賃を支払った。わかっていたのだ。このまま萩上を自由にすれば、彼女はどこかで必ず問題を起こす。そうすれば、必ず母親の教育方針を疑われると。
 母親は、萩上が恥をさらして、自分の顔に泥を塗ることを許さなかった。
「あのアパートで、他人に迷惑を掛けずに、静かに暮らしなさい。お母さんは、もうあなたに干渉しないから」
 不本意だったが、彼女はそれを受け入れた。
 静かに、クーラーの効いた部屋で何もせず、植物のように生きているだけ。
 時々、昔のことを思い出して感情が高ぶった時は、新聞紙を裂いて気を紛らわせた。それでも落ち着かないときは、身の回りにあるものを片っ端から破壊して回った。
 もう干渉はしない。と言ったものの、母親は萩上のことを諦めていなかった。彼女が再び社会に出て生きていけるように、模索した。
 最初に声を掛けたのが、中学時代に萩上と仲が良かった明日香だった。明日香を萩上のところにけしかけて、萩上の閉じ切った心を開こうと考えたわけだ。
 だが、明日香は萩上の地雷ばっかり踏んでしまい、失敗。そのため、明日香と同じ大学で、萩上のアパートの近くに住んでいる僕に矛先が向けられたのだ。