目元に血が流れてきて、視界が真っ赤に染まった。  
 生まれて初めての全力疾走に、肺と心臓は鞭を打たれたかのように絶え間なく動き、酸素を指先、足先まで運んだ。
 喉の奥に込み上げた鉄の味を飲み込み、ひたすらに走る。
「萩上…」
 裏切られたと感じた萩上が最初にとる行動は難なく予想できた。
 路地を全力で駆け抜けた僕は、萩上のアパートの前に辿り着いていた。
 階段を上り、彼女の住む部屋の扉の前に立つ。
 鍵は閉まっていたが、部屋の奥で彼女が暴れる音が聞こえた。
 パリンッ! と何かが割れる。
 ガシャンッ! と何かが砕ける。
 ビリビリッ! と何かが破れる。
 そして、萩上の悲鳴が聞こえた。
 隣の部屋の扉がゆっくりと開き、隣人の女性が「何事?」と、顔を出した。顔が血まみれの僕を見るや否や、ただ事ではないと気づき、すぐに部屋の奥に引っ込んでしまった。
 僕は扉を激しく叩いた。
「萩上!」
 しかし、萩上には届かない。
「お願いだ! 萩上! 話を聞いてくれ!」
 また、何かが割れた。
「萩上! もう、辞めてくれ!」 
 何か、硬いものを床に叩きつける音が聞こえる。
 壁に叩きつける。
 ガラスが粉砕する音が響いた。
 扉の向こうの萩上の姿が、まるで透視しているかのように脳裏に浮かんだ。
 僕に裏切られたと思った萩上は、悲鳴を上げ、髪の毛を振り乱し、部屋のあらゆるものを破壊していく。自分の手の甲を引っ掻き。頭皮に爪を立てて、ガリガリと毟る。
 絨毯にカッターナイフを突き立て、毛を引きずり出し、そこに、自分の額を何度も叩きつける。
 ガンガン、ガンガン、ガンガン。
 脳が揺れようが、額から血が出ようがお構いなし。
 怒りが、彼女の痛覚を鈍くした。
「もう、辞めてくれ…」
 僕は懇願するように、扉に爪を立てた。
 破壊をする音は止まない。 
 何かが割れ、何かが砕け、何かが破れる。
「萩上!」
 叫んだ瞬間、視界の隅が白く染まった。
 しまった。と思い、脚に力を込めるが、すぐにその場に膝まづいてしまった。
 酸欠。
 額からは絶えず血が流れ落ち、足元のコンクリートに赤黒い斑点を付ける。
「萩上…」
 そうこうしている間にも、萩上は部屋の中で暴れ、数多のものを壊している。
 ダメだよ。萩上。
 壊したら、ダメだ。
 大切なものを、壊したらダメだ。
 次の瞬間、僕は酸欠の脚に鞭を打って、扉に向かって突進していた。
 蝶番がミシッと軋む。しかし、すぐに押し返された。
 よろめいて、通路の手すりに背中を強打。肺の辺りに響き、息が詰まった。
「くそ…」
 怯んだらダメだ。
 僕はもう一度、扉に突進した。
 だが、跳ね返される。
 もう一度。
 はじき返される。
「萩上!」
 全身全霊を込めて、突進した。
 その瞬間、バキンッ! と蝶番がはじけ飛んだ。 
 僕は扉と共に、前に倒れこんだ。
「萩上!」
 腹の辺りをしたたかに打ち付けた痛みに耐えながら、すぐに立ち上がる。
 時すでに遅し。
 廊下には、彼女が壊して回ったものが散乱していた。
 風呂場の窓ガラス、僕と萩上の皿や、調理に使うフライパン。箸やスプーンも、一本一本丁寧に折られていた。散り散りになった一万円札もあった。
 僕は破片で足を切らないように注意しながら、そっと、部屋の奥に足を踏み入れた。
 そこには、さらなる惨状が広がっていた。
 窓ガラスが粉々に割れ、カッターナイフで切り付けられた壁紙が捲れ上がっている。絨毯の中央に、獣が食らいついたような大きな傷が走り、焦げ茶色のダイニングが顔を見せていた。
 新聞や広告も、めちゃくちゃに切られ、破られ、綿雪のように辺りを舞っている。
 萩上は部屋の隅に蹲り、唸り声を上げながら、自分の頭を掻きむしっていた。
「萩上…」
「来ないで…」
 見れば、彼女は血まみれだった。ナイフを振り回した時に、自分までも傷つけてしまったのだろう。
「ごめん」
「信じられない…、お母さんとグルだったなんて…」
「ごめん、言い訳のつもりじゃないけど…、僕も、こうなるとは思わなかった」
「うるさい、何も聞きたくない…」
「聞いてくれよ」
 しどろもどろになりながら、萩上に説明する。
「確かに、お金に釣られたのは事実だ。お前をあのレストランに連れていくだけで五万円なんだ、乗らない手は無いと思っていた」
 まさか、お前のお母さんが手を引いているとは思わなかった。と言ったところで、彼女は納得しないだろう。
「だけど、別に、お前を金を稼ぐための道具として見ていたわけじゃない」
 舌先に、鉄の味が込み上げてきた。
「お前と、一緒に行きたかったんだよ」
「うるさいっ!」
 萩上は振り向きざまに、握っていたカッターナイフを僕に向かって投げつけた。
 咄嗟に、僕は顔を覆う。
 ナイフは僕に当たらず、すぐ横の壁に突き刺さった。
 萩上が悲鳴を上げながら僕に飛びつき、ガラスの破片やら、新聞の切れ端やらが散乱する絨毯の上に押し倒した。
「あああああ! ああああ! あああああああッ!」
 めちゃくちゃに叫びながら、僕の頭に爪を立てて、ガリリと引っ掻く。
 なるべく、僕は痛みに耐えるようにした。悪気は無かったとは言え、彼女を嵌める結果となってしまったのだから。
「信じてたのに! 信じてたのに!」
 萩上は目に涙を浮かべてそう訴えた。
「結局、あんたも! あの母親と一緒だったじゃない!」
「ごめん…」
 興奮した萩上は、冷静な判断を失っていた。
 僕に向かって、罵声罵倒を投げつけ、僕の胸を、その細腕でめちゃくちゃに殴り、服を引っ張り、破った。
 そして、すぐそばに落ちていたものを拾い上げる。
「あああああああああっ!」
 叫んで振り上げた。
 彼女が拾い上げたものを見た瞬間、心を無にして痛みに耐えていた僕は思わず叫んだ。
「萩上! やめろ!」
 萩上は止まらない。
 そのまま、握り締めたものを僕の頭に叩きつけた。
 萩上が拾い上げたもの。それは、二か月前に彼女にプレゼントした、ヘッドホンだった。レストランに行く前に、彼女が嬉々として、デコレーションしたものだった。
 それで、僕の頭を殴ったのだ。
 バキンッ! と乾いた音が響き、ボディを覆っていたビーズやスパンコールがはじけ飛ぶ。
 僕の頭から吹き出した血と共に、それはまるで空の星々のように宙で煌めいた。
 これで、気を失えたらどれほどよかったか。割れた額から、血が顔に垂れてくる。その生温かさに、思わずぞくっとした。
 僕を殴った後で、萩上ははっとした。
「あ…」
 頭から血を流す僕。手には、僕からもらったヘッドホン。
 音楽を聴くとき、彼女が肌身離さず持っていた、大切なヘッドホンだ。
「あ、ああ…、ああ…」
 萩上は目から涙をぼろぼろとこぼしながら、散らばったヘッドホンの破片を拾い上げ始めた。
「ああ…、ああ。ああああ…」
 ビーズとスパンコールは、もう修復ができないほどにバラバラになっていた。
「ああ…」
 萩上は、ヘッドホンを手から落とし、頭を抱えた。
 そして、また、頭皮を爪でガリガリと引っ掻き始める。
 脳震盪を起こした僕は、嘆く萩上の姿が見えているのに、動けないでいた。
「ああ、なんで、なんでこうなるんだろう…、ああ、だめだ…、いやだ…」
 そんなことをぶつぶつと呟く。
 そして、立ち上がった。
 ふらふらとした足取りで、絨毯の上に散らばったガラス片を踏みしめながら窓際に向かう。
「ああ、ああ…」
 割れた窓を開けてベランダに出ると、アルミの手すりから身を乗り出す。
 あ。
 と思った。
 動け。身体よ、動け。
 そう必死に、自分の四肢に命令したが、途中の神経を切断されたみたいに、ぴくりともしなかった。
 動けよ、このままだと、萩上が…。
 そう必死になって呼びかける。
 そんな時に限って、僕は昔のことを思い出していた。