★★★


 ここで一つ、昔の話をしようと思う。
 文化祭が終わって、二か月が経った頃。
 冬休みも近づき、クラスの皆が浮足立っている頃、僕は先生に呼び出された。
 呼び出されることは今までにも何度もあったので、僕は気おくれすることなく職員室に入り、先生の席につかつかと歩いていった。
 堂々と来た僕を見て、先生は頭を抱えて嘆いた。
「お前はどうしてそこまで誇らしげなんだろうな?」
「何事も慣れですから」
「あのなあ、もう少し頑張ろうや」
 先生の椅子のすぐ近くに、薄汚れた石油ストーブが置いてあり、ぼんやりとした赤い光から、ごつごつとした熱を放出している。上に、湯が入ったやかんが置かれていて、白い湯気が立ち上っていた。
 美術の先生が「おっす! 桜井!」と元気に言ってやってくると、ストーブの上のやかんを手に取り、持っていたカップラーメンに注いだ。熱々の湯が注がれたカップは、くつくつと、まるで生きているかのような音を立てた。
 なんか、ポットで沸かすよりも美味しそうだな。
 横目で美術の先生の手元を見てぼんやりとしていると、担任が机をぱしっと叩き、僕を現実に引き戻した。
 もう一度言う。
「もう少し、頑張ろうや」 
 机の上に置かれていたのは、先日の期末テストの答案だった。
「何点ですか?」
「国語と社会が赤点だ」
「へえ」
「何が『へえ』だよ」
「いや、赤点くらいは回避できていると思っていました」
「あのなあ」
 先生は怒っている。というよりも、呆れて、机を指でトントンと叩いた。
「学年が上がって、勉強は難しくなっているんだよ。今まで通りのやりかたじゃ、ついていけないぞ?」そして、痛いところを突いてくる。「このままだと、高校、怪しいぞ? 私立には行けないことも無いけど、お前のとこ、母子家庭だろ?」
「……」
「二者面談の時にも言われたんだ。『金が無いから、絶対に県立に行かせてください』って」
「そうですね、家でも、口が酸っぱくなるほど言われています。そして、僕の耳にはたこです」
「こんなことを言うのも教育者としてどうかと思うけど、お前のことは見捨てられないんだよ」
 教育者がそんなことを言うとは思わなかった。
 僕は意地悪な質問をした。
「じゃあ、見捨てた生徒はいるんですか?」
「いるさ。名前は言わないけど、想像できるだろ?」
 確かに、想像がついた。
 中学二年と、多感なこの頃は、学年全体が揺れている時期だった。一人、高校生と性交渉をして妊娠した。五人、他校の生徒と殴り合って警察沙汰になった。クラスのニ、三人は授業に出てこなくなった。
 授業中もざわざわとうるさく、先生も手をこまねいて、質ががくっと落ちた。
 まともに授業が受けられない中、萩上のように相変わらず満点近い点数をとってくる者もいたし、僕のように、知らず知らずと影響を受ける者もいる。そして、最初から勉強を諦めて、答案に名前すら書かない者も。
 ちなみに、兵頭は「おれ! 答案に名前書かずに出してやったわ!」と、何がかっこいいのか、晴れ晴れと語っていた。
 先生は後者のことを言っているのだ。
「お前はまだ救いようがある。勉強すれば、十分に頑張れるさ」
「………」
「な? それに、お母さんだって、お前に勉強してほしいと思っている。だから、県立の高校に行けるくらいは頑張ってくれや。オレも、協力するから」
「……はい」
 僕はなぞるようにして頷いた。
 追試の日程と範囲が書かれたプリントをもらった僕は、ほかほかとしていた職員室を惜しみながら廊下に出た。
 教室に戻ろうと廊下を歩き始めると、前方から萩上が歩いてくることに気が付いた。
 しなやかな脚をつかつかと踏み出し、肩までの黒髪が柔らかく揺れる。脇に、生徒名簿を抱えていた。
 僕に気が付いた萩上は、にこっと笑って手を振った。
「桜井君、職員室に用事があったの?」
「あ、ああ」
 やっぱり、不意に話しかけられると、心臓がびくついた。
「テストで、赤点とったから」
「ええ、またあ?」冗談ぽく笑う萩上。「ダメだよ。ちゃんと勉強しなきゃ」
「したつもりだったんだけどね…」
「結果がでなければ、したうちに入らないんだよ?」 
 努力が足りないだけ。
 萩上は当たり前のことを言った。それなのに、妙に胸のあたりがちくっとした。
 なんだろう、萩上がそんなことを言うとは思わなかった。前のように、「頑張ったことは大事だよ!」とか、「次はもっと頑張ろうね」とか、前向きなことを言うのだと思った。
 萩上も、言った後ではっとする。すぐに言い直した。
「だけど、頑張ったっていう気持ちは大事だからね。次はもっと頑張ろうよ」
「ああ、うん」
「なんなら、私が教えてあげようか?」
「いや、いいよ」
 何度も萩上の世話になるわけには行かなかった。
 先生にもらったプリントをひらひらと振る。
「こんな馬鹿な人間の相手をしてないで、お前は自分のことをしていてくれ」
 自虐のつもりだったが、彼女に対して、少し失礼なことをいってしまったかもしれない。
 僕は慌てて口を噤み、くるりと彼女に背を向ける。
 萩上が何かを言ったような気がしたが、聞こえないふりをした。
 鼻の奥に、爽やかな石鹸の香りが残っていた。
 八月に入り、お盆が近づいてきた頃、僕は萩上にある相談をした。

「親に呼ばれてね、お盆の間は、実家に帰ることになったんだ」
「ああ、そう」

 案の定、萩上は眠たげな目をして、興味の無さそうに頷いた。
「勝手にすればいじゃない」
「とりあえず、食べ物と着替えとかは用意しておくから、その間だけは凌いでくれ」
 そう言って、僕はぱんぱんに膨れ上がったナップサックを彼女の前に置いた。
 八月十三日から十六日までの四日間分の食料が入っていた。きっと、レトルト食品を温めることも、カップ麺に湯を注ぐことも萩上には億劫だろうから、エネルギーゼリーとか、固形食糧を中心に買った。
 萩上は目を細めて、ナップサックの中を覗き込む。
「なにこれ、まるで冬越えじゃない」
 僕の買ってきた味気の無い食料に指摘を入れながら、エネルギーゼリーを一本取りだす。そして、ちびちびと吸い始めた。
 僕がいなくなる十三日から食べてほしかったが、まあいい。食べた分は買い足せばいいか。
 それから、僕はユニクロで買ったレディースのTシャツとジャージを萩上に渡した。
「それで、こっちが着替え。クーラー効いているから不必要かもしれないけど、汗をかいたら着替えるといい。三着用意したから。もしも足りなかったら、ベランダの洗濯機を使うといい。洗剤は、まあ、スプーン一杯分が目安かな? 洗濯ものを入れて、スタートボタンを押すだけで洗濯してくれるから。洗えたらすぐに取り出せよ? 生乾き臭くなるから。ベランダの物干し竿で乾かしてくれ。もし人の目が気になるなら、部屋に取り込んでもいい」
 コインランドリーの使い方も教えておこうか? いや、たったの四日間だから、別にいいか。
 くどくどと説明していると、萩上の顔がみるみる不機嫌になるのがわかった。
 そろそろ怒りそうだから、簡潔的に言うか。
「ゴミは、袋の中に入れるだけでいい。帰ったら僕が捨てに行くから」
「長い」
 萩上はエネルギーゼリーをきゅうっと飲み干すと、そのゴミを、僕の額に投げつけた。
「めんどくさいから、私もついていく」
「ああ、そうか」
 絨毯の上に落ちたゴミを拾い上げて、かさばらないように小さく折り曲げた。
「え?」
 自分で頷いたあとで、間抜けな声を洩らす。
 思わず萩上の顔を凝視すると、彼女は相変わらずの不機嫌顔で「なに?」と食い気味に言った。
「いや、さっき、なんて言ったの?」
「だから、めんどくさいから、私もついていく」
「いやいやいや」
 さすがに、実家に萩上を連れていくことはできない。
「勘弁してくれよ。実家には母親がいるんだ」
「なに? なんでダメなの? 母親がいたらダメなの?」
「いや、ダメだろ」
「なんで?」
「なんでって…」
 そりゃあ、恥ずかしいだろ。それに、息子が同い年の女の子を連れて帰省するんだぞ? いろいろ勘違いされても困るじゃないか。
「とにかく、来るのだけはやめてくれ」
「だったら殴る」
「殴るのもやめてくれないかなあ」
 萩上はナップサックの中に手を入れて、固形食料を取り出した。それを、パッケージの上から、指で砕く。絨毯の上に置いて、拳を叩き込んだ。
 パンッ! と、圧迫された拍子に封が破れて、粉々になった固形食糧が飛び散った。
「あー、もう、やめてくれよ。掃除大変なんだからさ」
「連れてって、連れてって、そうしないと、このナップサックごと壊すから」
 これ以上固形食糧を粉々に砕かれて、部屋の中を粉塗れにされるのも敵わないので、僕は折れた。
「わかったよ」
 頷くと、萩上は壊すのをやめた。
「帰省は一日だけにしよう。母さんには適当に話をつけるから、萩上は粗相の無いようにしろよ」
「うん」
 えらく素直に頷いたな。
 その日の内に、僕は母さんに電話して、萩上を連れていくことを連絡した。「友達を泊める」「泊まる場所が無くて困っているみたいなんだ」と、小学生が考え付きそうな言いわけをしたものの、やはり変な勘違いをしたようで、電話を奥の声はにやにやと笑っていた。「一日だけじゃなくて、いつまでもいなさいよ」と言われた。
 勘弁してくれよ。
 僕は通話を切ってから、深いため息を着いた。
 振り返ると、萩上は押入れの中に上半身を突っ込んで、何かを探していた。
「なにしているの?」
「探しているの」
「いや、それはわかるんだけど。何を探しているんだ?」
「服」
「服?」
 僕が首を傾げると、萩上が顔を埃塗れにして振り返った。
「なに? この格好で行ってほしいの?」
 萩上は、よれた薄紅のパジャマを一張羅としていた。
 僕は、萩上がこのパジャマ以外の服を着ているところをほとんど見たことが無かった。洗濯するときは、しぶしぶ僕が用意したジャージに着替えてくれるのだが、乾くとすぐに脱ぎ捨てて、そのパジャマを着てしまうのだ。
 確かに、その恰好のまま外を出歩かれるわけにはいかない。
「ったか、萩上お前、他の服は持っているの?」
「失礼ね。持っているわ」
 萩上はむすっとして、再び、押入れに身体を滑り込ませた。
 「あった、あった」と言いながら、服を引きずり出す。
 彼女が取り出したのは、黒いワンピースだった。しかし、ナイフでズタズタに裂かれていた。これでは、着ても、何も隠すことができないだろう。
「………」
「忘れていたわ。前にナイフで切ったことを」
 ワンピースを放り出して、萩上はさらに押入れの中を探った。ジーパンやスカート、カットソーに、ブランド物のTシャツなど、意外にも、彼女は多くの衣服を所持していた。
 しかし、そのすべては、昔の彼女の手によって、ズタズタに引き裂かれていた。
「………」
「…………」 
 これには、二人とも腕組みをして黙りこくった。
 まともに着れるものが一つも無い。
「買いに行くか」
「そうね」

        ★★★



 期末テストで赤点をとってしまった僕は、追試を受けることになった。本来なら、テスト終了一週間以内にするものだったが、先生の都合が合わず、終業式を終えて冬休みに入っても、明確な予定が立たなかった。
「いつ呼び出されてもいいように、勉強はしておけ」
 そう言われていたので、僕は暇々で勉強をした。少し時間を掛けてやるだけで、問題文の意味くらいはわかるようになった。
 それでも、なかなか呼び出されないので、てっきり、もうやらないのだと高を括っていた。
 完全に安心して、家でモンハンを始めようとした時、学校から電話が掛かってきた。
「二十三日、できるか?」
 できます。というしかなかった。
 クリーニングに出して帰ってきたばかりの学ランを着て、その上にウインドブレーカーを羽織った僕は、筆記用具だけを持って学校に向かった。
 冬休みでも、運動部は練習をしているし、職員室にはほとんどの先生がいた。ただ、多感で反抗期の生徒を相手にしなくてもいいので、いつもピリピリとしている先生の気も緩み、どこか喉やかな雰囲気が漂っていた。
 職員室に入って来た僕を見て、担任は「おう」と気だるげに手を振った。
「来たか」
「もう、忘れられたと思っていましたよ」
「忘れるわけないだろ。それともなんだ? 油断して勉強していないのか?」
「連絡があと二日遅かったら、勉強した内容を忘れていたかもしれません」
「勉強は定着しないとダメなんだよなあ」
 夏休みと同様に、先生は僕に追試のプリントを渡した。
「これ、教室で解いてきな。終わった声かけろ」
「鍵は?」
「開いている。萩上が勉強しているんだ」
「萩上が?」
 デジャブな気がして、僕は思わず聞き返していた。
「なんで?」
「優秀な生徒はな、ああやって勉強しているんだ」
「凄いや、僕にはできません」
「お前は、せめて県立の高校に進学してくれたらそれでいい」
 ほらいけ。そう言って先生は、僕の胸をどんっと押した。
「本当にわからないなら、萩上にでも教えてもらえ。まあ、自分で解く努力はしろよ?」
「……はい」
 職員室を出ると、廊下に漂う冷気が僕の身体を縮み上がらせた。
 先生たちはずるいや。自分たちだけ、暖房の効いた部屋にいるんだから。
 と、先日誰かが言っていた文句を心の中でなぞりながら、教室に向かった。
 半開きになった窓から中を覗き込むと、萩上が机に向かって、勉強をしていた。よっぽど集中しているのか、普段の授業の時よりも少し前のめりになって、結っていない黒髪が紙の上に垂れていた。
 普通に開けたはずなのに、扉はいつもよりも重く、そして大きな音を立てた。
 食い入るようにノートに向かっていた萩上が、はっとして顔を上げる。
 僕を見るや否や、いつもの女神のような微笑みを浮かべた。
「どうしたの? 桜井君」
「前に言ってた、追試」
「ああ、今日だったんだ!」
「急に呼び出されてな。勉強したことなんてほとんど忘れてるよ」
 萩上に対して、好意なんて抱いているつもりは無かったが、その綺麗な顔で、鈴を鳴らすような声で話しかけられたら、心臓は勝手に暴れ始めていた。
 少しでも気を抜けば、口から飛び出してしまいそうなくらいに。
「ああ、めんどくさい」
 お前に話しかけられたって平気ですよ。
 お前のことなんて何とも思っていませんよ。
 くだらない意地を張って、萩上が視界に入らない席に腰を掛ける。
「お前は凄いよ」
 そんな言葉が、口をついて出ていた。
 萩上がどんな顔をしていたのかはわからない。でも、少し驚いた声で「凄い?」と聞いた。
 そんなに驚くことだろうか? あいつには聞きなれた言葉だろう?
「なんで、そう思うのかな?」
「だって、そうだろう? 冬休みなのに、わざわざ学校に来て勉強するか? 家で十分だろう? それか、暖房の効いた図書館とか…」
「ううん、ここじゃないとダメなの」
「だめ?」
 なにかルーティンのようなものがあるのだろうか?
 萩上の声が、震えた。
「ここじゃないと、ダメなの」
「だから…、どういう」
 振り返ると、萩上は前髪をだらんと垂らして俯いていた。
 顔は見えないが、彼女が今、どんな顔をしているのかが、わかるような気がした。
 僕が茫然としていると、萩上は顔を勢いよく上げた。彼女の黒髪が、翼を広げた鴉のようになる。
 彼女は、笑っていた。
「ここじゃないと、落ち着かないからね!」
「そうか、そんな理由か」僕は適当に頷いた。「わかるよ。僕だって、家で勉強ができない。ちょっとやってたら、すぐに漫画とかゲームに手を出す。教室でやるほうが、一番効率が良いのかもしれないな」
「うん、そうだね。ここだと、頭に入りやすいんだよ」
 萩上は一呼吸置いて、続けた。
「なんなら、桜井君もここで勉強してみない? 一緒に勉強しようよ」
「ああ、いや、いいよ」
 学年のマドンナからの誘いを、僕は即決で断っていた。
 言ったあとで、すぐに後悔が襲ってきて、僕は頭を抱えた。嫌では無い。彼女からお誘いが来るなんて光栄なことだった。自信が無かっただけだ。彼女は、僕の成績を心配して言ってくれている。彼女の手を借りて勉強する以上、僕はその期待に応えなければならなかった。
 聖女の期待を浴び続けていたら、僕のような汚れた人間は、消し墨になってしまうような気がしたのだ。
「ごめんな」
 すぐに謝る。格好悪いことをした。
 萩上は意に介さず首を横に振った。
「いいの、気にしないで。桜井君は桜井君の用事があるもんね」
「本当に、ごめん」
 その後、僕は追試のプリントを解いた。わからないところがあれば、萩上に聞いた。彼女は先生よりもわかりやすく教えてくれた。
 その日の追試は、満点だった。

        ※


 実家にパジャマの萩上を連れていくわけにはいかなかった。
 彼女は、「ピンクが入っていればなんでもいい」と言ったが、さすがに、女用の服を男の僕が買うのは気が引けたので、彼女に懇願してジャージに着替えてもらい、二人で近くのブティックに買いに行った。
 僕を顎で使う時と同じように、萩上は、アルバイトの若い男の店員に向かって、「私に似合う服を選んで」と頼んでいた。美人からのお願いということもあり、男の店員は張り切って店を走り回り、彼女の服を選んだ。
 萩上のイメージカラーが黒なので、店員が持ってきたのは黒基調のものばっかりだった。それを見た萩上はむすっとして、「黒は嫌い」と言った。
 店員はまた店をかけずり回り、白基調の服を選んで持ってきた。ワンピースとか、フリルのスカートとか、花の装飾が入ったカットソーとか。しかし、萩上は「動きにくそうだからやだ」と断った。
 その後も、店員は萩上のわがままに振り回されて、店の中をマラソンするかのように走り回ったのだった。
 自動ドアを潜って店の外に出た時、萩上はVネックのTシャツに、伸縮性の高いジーパンを着ていた。
「それ、二時間も悩む必要あった?」
「普段、外に出ないから、わからないの」
 結局、無難な物を選んだらしい。
 だが、バイクに乗っての移動なので、こういう身軽な格好の方がありがたかった。
「似合っているよ」
「お世辞?」
「うん」
 殴られた。
        ※
 電車で移動することも提案したのだが、人混みが嫌いな萩上は断固としてそれを拒否した。人混みは嫌いらしい。
 仕方なく、僕はアパートの下の駐輪場に放置していたバイクを整備し、ガソリンを入れ、タイヤの空気圧を測った。
 準備が出来次第、最低限の荷物だけを持ち、ホームセンターで買ったヘルメットをかぶった萩上を後ろに乗せて出発した。
 最初はびくびくとしながら走ったが、前に一度明日香を乗せて町中をかけずり回ったことがあったので、二人乗りの感覚はすぐに戻った。法定速度を護って、快調に道路を駆け抜ける。
 実家には、予定よりも三十分ほど早く到着した。
 裏の駐車場に回る。
「ここが僕の実家」
 邪魔にならないスペースにバイクを停車させ、ヘルメットを脱いでから言う。
 田舎なら何処にもある、築三十年の平屋だ。半年前の法事で帰ったきりだったが、前よりも廃れたような気がする。外塀には、野生の朝顔の蔦が絡みつき、外壁は雨風にさらされて黒ずんでいた。見上げれば、屋根瓦がところどころ崩れて落ちている。いつ、小学校から「子供の通学路なので修理してください」と文句が入ってもおかしくない状態だった。
「あまり暴れないでくれよ」
 そう先に釘を刺そうとすると、萩上は脱いだヘルメットを僕に投げつけて、くるりと踵を返して歩き始めた。
「おい、そっちじゃないぞ?」
「夕方になれば帰るから」
「え…」
 萩上は細い路地を歩いていく。途中、ぴたっと立ち止まり、振り返った。
「口実が欲しかったのよ。地元に帰る口実が」
 そう言い残すと、路地の先に消えてしまった。
 そうか、この地域は僕の地元でもあり、彼女の地元でもあったな。
 僕は萩上の好きにさせることにして、実家の扉を叩いた。


        ※


「ただいま」
 扉を開けた瞬間、埃と木の混ざった香りが、僕の鼻を掠めて、高校までの僕の人生を想起させた。
 前に帰った時よりも、少し頬の辺りが太った母さんがエプロン姿で僕を迎えた。
「おかえり」
「ただいま」
「あれ、彼女は?」
「彼女じゃないよ。別行動をとっている」
「そう」あからさまに残念そうな顔をする母さん。「まあいいや、みんな集まっているから、あんたも食べな」
 廊下を行った居間から、男共の「がははは」っていう下品な笑い声が聞こえた。
「誰を呼んだの?」
「みんな呼んだよ」
 にやっと笑う母さん。対して、僕は顔を顰めた。
 タイル張りの風呂場で、汗ばんだ足を洗ってから居間に入ると、長机を取り囲んで、叔父に伯父、母方の爺ちゃんに、父方の爺ちゃん。さらには、去年就職したばかりの兄貴までもが昼間からビールを突き合せて呑んでいる。さらに、煙草をふかしているので、台所と居間の空気の色が明らかに違った。
 一瞬で部屋に立ち入る気が失せて後ずさると、伯父さんが赤らめた顔で僕を呼んだ。
「おい! 正樹じゃねえか! ほら、こっち来て一緒に呑めや!」
 その言葉で、居間の男たちが一斉に僕の方を見る。
「おお! 正樹!」「大きくなったなあ!」「もう二十歳やろ!」「大学はどんなだ?」「なんや、陰気臭い顔しとうの!」
 酒に酔った男達が一斉にしゃべるものだから、誰が何を言っているのか聞き取れなかった。
「うるさいなあ」
 この、べたべたした感じが嫌いだった。ただ、息子が帰ってくるだけじゃないか。
 母さんがおしぼりを持って僕の後ろに立っていた。
「みんな、あんたの帰りを楽しみにしとったんよ」
「いや、酒を楽しみにしていただけだろ」
「違うよ。あんたが遅いから、待ちくたびれて呑み始めただけやん」
「いや、予定時刻よりも早く着いているんだけど?」
 僕はおしぼりを受け取り、手を拭き、顔を拭いた。
 長机の上には、そうめんとか、刺身とか、夏らしい清涼感のある食べ物が並べてある。が、ほとんど食べつくされていた。残ったのは、酒屋で買ってきたスルメとか、チーかまのみ。
 とりあえず、長い運転で疲れた僕は、伯父さんと母方の爺ちゃんの間に座った。
 母さんが目の前に、結露の浮いた、麦茶のグラスを置く。
「ほら、みんなあんたの話聞きたがっているんよ?」
「残念ながら、土産話は無いな」
「嘘つけえ」
 兄貴が顔を赤くして言った。
「お前、彼女おるんやってな!」
 僕はイエスともノーとも答えず、母さんを睨んだ。萩上のことは、母さんにしか言っていない。つまり、兄貴や他の親戚の人がそれを知っているってことは、この人が嬉々として語ったに違いなかった。
「母さん、ボケたの?」
「なんでよ。ボケとらんよ」
「いや、ボケただろ、僕は『友達と行く』って言っただけだよ?」
「恥ずかしがらんでええって!」
 背中をバシバシと叩かれた。
「将来のお嫁さんなんやから、ちゃんと私らに話さんと!」
「だから、彼女じゃないって…」
 だから、帰省は嫌なんだよ。帰るたびに、「彼女できた?」とか「もう初体験はしたか?」とか、高校の時は聞いてこなかった癖に、僕が巣立った瞬間、遠慮なしに僕の領域に踏み込んでくる。その図々しさにうんざりだった。
 だけど、ここで「彼女じゃないって言っているだろ!」と怒鳴って、この楽し気な雰囲気をぶち壊すのも大人げない気がした。
「彼女じゃないから。たまたま帰省の日が被って、泊まる場所が無いって言うから、泊めてやっているだけだから」
 余計それっぽくなってしまった。
 それからも、親戚や母さん、兄貴は、萩上のことをしつこく聞いてきた。「もうキスはしたの?」とか、「いつ出会ったんか?」とか、「孫の名前はどうするんだ?」とか、冗談だとしても笑えない。
 その質問には一切答えず、僕は残りの刺身やそうめん、おつまみをコーラと一緒に食べて、空腹を紛らわせた。
 ふと、萩上のことが気になった。
 あいつ、「夕方には帰る」って言ってたけど、飯はどうするんだろう? 
 一応、金は持たせているから心配は無かったが、念のために、カルパスとチーズをジーパンのポケットの中に忍ばせることにした。
 大学生活とか、生活はちゃんとやれているのか、そう言った質問には、閊えることなく答えた。まあ、半年前も親戚一同集まった時に同じ話をしたけど。
 萩上の話抜きにして、一人暮らしのことを語っているだけで、時間は飛ぶように過ぎていった。
 何時間と口が疲れるまで話し続けたころ、叔父さんが酒をを一口呑み、しみじみと言った。
「正樹、お前は本当に、親孝行な息子だよ!」
 呂律が回っていなかった。
 壁にもたれて、親戚たちの話に耳を傾けていた母さんが「うんうん」と、感慨深く頷いた。
「正樹は、親孝行な息子。ほんと、産んでよかったわ」
「なんで?」
 まさか「親孝行」と言われるとは思わなかった僕は、素直に母さんに聞いた。
「なんで、そう思うの?」
「そりゃそうでしょう。中学の時、あれだけ成績が悪くて、高校も大したところ行けなかったのに、今は国立大学に行ってくれているんだから」
 と、母さんは誇らしげに言った。
 カルパスを齧っていた兄貴が「本当だよ」と頷く。
「お前が国公立大学に行ってくれたおかげで、金に余裕ができたんだよ。あーあ、こんなことなら、オレも大学に行けばよかったよ」  
 兄貴は冗談ぽく言ったが、僕の胸の辺りがちくっと傷んだ。
 父親が早くに死んで、母さんは一人で僕と兄貴を支えなくてはならなくなった。親戚の支えは無いわけではなかったが、それでも、僕と兄貴の二人も大学に進学させる余裕は無い。兄貴は、進学することを諦めて就職し、僕に大学に行くチャンスを譲ったのだ。
 地元では、「国公立大学に行くやつは偉い!」という風潮があった。学費が私立に比べて掛からないし、就職率が高いと言われているからだ。
 中学の頃は頭が悪くて、親に迷惑ばかり掛けていた息子が、国公立大学に進学。
 こんな親孝行な話は無いというわけか。 
 母さんの目にきらっと光るものがあった。
「あの高校で、よく大学に行ってくれたよ」
「まあ、確かに、あの学校の奴らは勉強してなかったからな」
 僕の進学した高校は、生徒のほとんどが、卒業をしたら無職になるか、近くのスーパーや工場に就職するような底辺校だった。中には、妊娠して中退したやつだっていた。
 その中で、僕は一人勉強をして、大学に進学したのだ。
 今更だけど、あの頃の自分はよくやったと思うよ。
 まだまだ元気な母方の爺ちゃんと、父方の爺ちゃんが同時に手を伸ばして、僕の頭をわしわしと撫でた。 
 声を揃えて、
「「末は博士か大臣か!」」
 と今の若者にはわからないであろうことを言った。

        ※


 日が暮れるまで、僕は親戚たちとの話を表面上は楽しんだ。
 話して、笑って、呑んで、食べて、そして、また話して呑んで。
 用意していたおつまみが無くなる頃、十年前に買い替えて今でも現役の壁掛け時計が、十七時を知らせる。
 夕方。
 萩上のことを思い出した。
 まだ夜も来ていないのに、親戚と兄貴は、その場に仰向けになって幸せそうにいびきを立てていた。これなら、抜けても大丈夫だと思い、僕はおもむろに立ち上がった。
 キッチンで食器を洗っている母さんに「ちょっと、散歩してくる」と一声をかけてから、埃塗れのサンダルを履いて家を出た。
 夕方にまでは帰る。
 彼女はそう言っていたが、どこか心配が拭えなかった。僕が迎えに行かないと。という、謎の使命感に襲われたのだ。
「………」
 田舎の日照時間は短い。見れば、西の空が血のような陽光に浸食されていた。その内、後を追うようにして黒が上空を埋め尽くすだろう。
 山から吹き下ろす風が頬を撫でるのを心地よく感じながら、僕はサンダルを履いた足をぺたぺたと踏み出した。
 ざあっと、視界の隅にノイズが走った。
 さっきの母さんの顔がフラッシュバックする。
 母さんは、泣きはしなかったが、目をうるうるとさせて、親孝行な息子を想う慈愛に満ちた顔をしていた。まだ反抗期真っただ中の僕には、母親のあの姿はただただ違和感だった。
 親孝行?
 僕は、いつ親孝行をしただろうか?
 金の掛からない大学に進学して、親への負担をやわらげようなんて、微塵と思っていなかった。ただ、いつの間にか心血注いで勉強をしていて、大学に合格しただけだった。
 自分のためにとった行動が、結果的に親への孝行になっただけだ。それを、「親孝行な息子で」と、涙を浮かべながら周りに言いふらされたら、手柄を横取りされたような気分がしてならなかった。
 悪い母親ではないことはわかっている。
 ああ、そう言えば…。
 立ち止まった時、田んぼを吹き抜ける風が、青臭い香りを運んできた。
 帰ってこない萩上を探して、薄暗くなった路地を歩いていると、背後から眩い光で照らされた。振り返ると、黒いプリウスがエンジン音を立てずに、のそのそと近づいている。
 車一台が通れるくらいの隙間は開けているんだけどな。 
 そう不思議に思いながら、路地の塀に背中を貼りつけて道を譲る。しかし、プリウスは僕の前の前で停車した。
 ウインカーが開いて、見知った男が顔を出した。 
「よお! 正樹!」
 思わず「あ」と声が洩れた。
 プリウスを運転していたのは、中学時代に仲が良かった友人だった。高校を中退して、地元のホームセンターに就職したと聞いていたが、まさかここで再会するとは思っていなかった。
 久しぶりの再会を、友人は笑いながら喜んだ。
「正樹、久しぶりだなあ!」
「なんで僕だってわかったんだ?」
「お前の母ちゃんが近所中に言いふらしてたんだよ。『息子が彼女を連れて帰ってくる!』って、そしたら、見覚えのある後ろ姿だったから、まさかなって!」
 くそ、母さん、絶対に文句言ってやる。
 友人はにやつきながら僕を見た。
「あれ、彼女さんは?」
「全部母さんの妄言だよ」
「あは! そうか! そうだよな! お前みたいな奴に彼女ができるわけないか!」
 事実だが、失礼な奴だな。
 田舎と言えど通行人はいるので、僕たちは手短に話を終えた。
「じゃあ、オレは帰るわ。またいつでも寄ってくれな」
「うん、また今度」
「今日は変な日だぜ、萩上も見かけるし、正樹とも再会するし」
「え…」
 不意に友人が洩らした言葉に、僕は食いついた。
「萩上が? 何処にいたの?」
「ん? ああ、公園だよ」
「ありがとう」 
 公園か。
 友人はにやっと笑った。
「まさか、あいつを見るとは思わなかったよ。高校でやらかして、引きこもっているってうわさもあったからな」
「高校で?」
 高校で何をしたの?
 そう聞こうとした時、友人の上着のポケットに入れていたスマホが震えた。彼は液晶に表示された相手を見ると、わざとらしく舌打ちをした。
「おっといけねえ、親からだ。じゃあな!」
 聞く暇も無く、友人は走り去ってしまった。
 取り残された僕は、とりあえず、彼が萩上を見たという公園に走った。

        ※

 昔は仲間と集まって馬鹿騒ぎして、先生を呼ばれるはめになった公園も、この五、六年の内にすっかり廃れてしまった。
 ジャングルジムは、子供の落下事故をきっかけに撤去。鉄網も、子供の逆上がりの失敗を理由に撤去。サッカーゴールもあったのだが、一度蹴り損ねたボールが民家の窓を割ったために撤去された。
 残ったのは、錆の目立つブランコと、カメムシが寄ってたかる自販機のみ。
 萩上は、ブランコに腰を掛けて、ぼーっとしていた。俯き加減のために、黒髪がだらんと垂れて、ブランコの振動と連動してゆらゆらと揺れる。遠目から見たらただのホラーだった。
「萩上!」
 声を掛けると、萩上はむすっとした顔を僕に向けた。
「おそい、早く迎えに来てよ」
「いや、『夕方には戻る』って」
「私が、あんな親戚だらけの空間に入れると思ったの?」
「思っていない。配慮が足りなかったな。ごめん」
 僕は萩上に駆け寄り、彼女の細い手首をとった。外にいたのに、冷たい腕だった。
「帰ろう。うるさい親戚は酔いつぶれた」
「……」
 萩上は僕と目を合わさずにブランコから立ち上がった。
「どこに行っていたんだ?」
「別に、ただふらふら歩いてただけ」
「暑かっただろう。昼は食べたの?」
「自販機でスポットドリンク買っただけ」
「そうか、じゃあ、夕飯は食べるな? 母さんが作ってくれる」
「……」
 なんか嫌そうな顔をした。
「もしかして、他人が作る料理、嫌いなタイプ?」
「別に、ただ、桜井君の料理に慣れただけ」
「母さんの料理は美味いよ。僕みたいに、材料を適当に放り込んで炒めるのとは違う。長年の経験だろうな」
「桜井君は、何で料理が作れるの?」
「そりゃあ、大学生になったんだから、自炊はしないとな」
 言った後で、萩上の地雷を踏みぬいたことに気が付く。
 身構えたが、何もしてこなかった。
 なんだ、大丈夫か。と思った瞬間、脇腹を殴られた。
「あのね、フェイントはやめてくれ」
「うるさい」
「ああ、そうだ」
 僕はポケットに入れていたチーズとミニカルパスを取り出して、萩上に渡した。
「食べなよ。小腹満たし」
「…ありがと」
 萩上はそれを受け取り、封を切ってちびちびと食べた。
「美味しい?」
「まずい」
 つまり、美味しいということだ。
 萩上の手を引いて実家に戻ると、親戚は既に帰っていた。母さんと兄貴が、食べ散らかした長机の上を掃除している。萩上は充満する煙草の臭いを嫌って、僕の後ろに隠れてしまった。
 僕が帰ってきたことに気が付いた母さんと兄貴が一斉に振り返った。
「お、帰ってきたか」
「彼女さんも一緒?」
「だから、彼女じゃないって」
 僕は背中に隠れた萩上を二人に見せて、彼女の頭をポンポンと撫でた。
「友達の萩上。とりあえず、今晩だけ泊めさせてよ。明日の朝には帰るから」
 少しだけ期待していた。
 萩上の容姿を見て、母さんと兄貴がどんな反応を見せるのか。
 兄貴は予想通り、「おお!」と声を声を上げた。
「お前、こんな可愛い彼女がおるんか! オレの弟ながら憎いのお」
「だから、彼女じゃないって」
 まんざらでも無いように頷く。
 しかし、母さんだけは違った。
 萩上の容姿を見るや否や、喉の奥で、引きつるような声を上げた。だが、すぐに微笑み、「あら、可愛らしいこと。よろしくね」と言った。
 微笑むまでの微妙な間に、僕は違和感を感じながら、萩上と一緒に頭を下げた。
 萩上は蚊の鳴くような声で「よろしくお願いします」と言った。
 夕飯は、母さんが作ったカレーを四人で食べた。
 兄貴は美人の萩上に鼻の下を伸ばし、「どこ出身だ?」とか「正樹とは何処で知り合った?」とか、遠慮なしに質問した。その中に、萩上の地雷となるものが多々混じっていて、僕は身体中に冷や汗をかきながら代わりに答えていった。
 母さんはと言うと、ずっと気が気でないような顔で、萩上のことを見ていた。時々、優しく微笑むも、それが作り笑いであることくらい見抜くことができた。
 十時を過ぎると、萩上はシャワーを浴びて、高校まで使っていた僕の部屋に布団を敷き、さっさと眠ってしまった。持参したヘッドホンを装着して、周りの音を完全にシャットダウンしていた。
 僕も、昼間に酒臭い親戚たちを相手にして、疲労が出たので、萩上が眠ってから三十分後くらいに、彼女の横に布団を敷いて眠った。兄貴は、「さすがに、実家でヤルのはやめとけよ?」と冗談交じりで言われた。ほんと、そういう冗談は嫌いだよ。
 萩上千鶴取扱説明書にもある通り、僕は彼女を襲うことはせず、ただただ、疲労を軽減させるために眠った。
 そのまま夜が明けるまで熟睡かと思いきや、深夜の二時頃、僕は隣の萩上が苦しそうな声を上げていることに気が付き、目を覚ました。
 部屋の中は真っ暗で何も見えない。しかし、横を見れば、萩上が荒い息を立てて唸っている。
「萩上?」
 そっと聞いてみたが、彼女から返事は無かった。
「萩上…?」
 もう一度聞く。
 しかし、相変わらず、喉の奥から、寒風が吹き抜けるような息を吐く。
 体調でも悪いのかと思った僕は、枕元で充電していたスマホを手に取り、液晶の明かりで彼女を照らした。
 案の定、萩上は額に玉のような汗を浮かべて、頬を紅潮させて唸っていた。ヘッドホンは無意識の内に外していて、久石譲のSummerが洩れている。
「萩上」
 彼女の肩に触れる。
 その瞬間、萩上は目をカッと見開いて、跳ね飛ばされたように上体を起こした。
 汗を吸収したTシャツが、彼女の身体にべったりと張り付いている。
 萩上は息を切らしながら僕を見た。
「桜井、くん?」
「ああ、ごめん、凄く苦しそうにしてたから」
「うん…、凄く苦しかった」
「変な夢でも見たか?」
「そうね…」いつにも増して素直に頷いた萩上は、頬をつたう汗の雫を手の甲で拭った。「それに、この部屋、暑いのよ」
「ごめん、お前のアパートみたいにエアコンが無いから」
 夏は暑く、冬は寒い。それが僕の部屋だ。いつもエアコンが効いた部屋で眠っている萩上には、この熱帯夜は地獄だろう。
「どうする? 水を持ってこようか?」
「うん、お願い」
 僕は部屋を出て、キッチンに向かい。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して萩上の元に戻った。
「ほら」
「ありがとう」
 萩上はミネラルウォーターをがぶがぶと飲んだ。
 ボトルを枕元に置く。
 彼女は唐突に、こんなことを言い始めた。
「昔の夢を見た」
「昔の夢?」
「うん、中学二年生の頃の夢」
「どんなだった?」
「凄いの。私。勉強もできて、運動も、ピアノも、絵も描けた。書道も…、多分、顔も良いんでしょうね」
 当たり前のことを、彼女は物珍しそうに語った。
「不思議ね、今の私は、勉強もできないし、料理も作れない。何もできないの」
「………」
「それと、桜井君の夢を見たわ」
「僕の夢を?」
「うん、あなたはいつも、教室の隅っこで寝ぼけたような顔をして、何をするにしても、楽しそうじゃなかった…。怒られたって意に介さないし…、なんて言えば良いんだろう…、人形みたいで、気持ち悪かった」
「…うん、まあ、そうかもしれないな」
 母さんにも言われたことだ。
 今の僕と、中学の僕とでは、印象がまるっきり変わったこと。
 勉強を全くせず、親に心配を掛けていたクソガキが、今じゃ、国立大学に進学して、成功への道まっしぐらの親孝行息子というわけだ。
「不思議ね、ひとは、良くも悪くも変わるものね」
 萩上のぼんやりとした目が僕を見る。
 僕は喉に刺さった小骨を抜くようにして、口を開いた。
「それは、多分…」
 だが、言葉が出てこなかった。
 舌先まで出かかったのに、僕は急に恥ずかしくなって、首を横に振った。
「何でもない」
 明かり代わりにしていたスマホの電源を落とす。
「もう寝よう。明日は日が昇る頃には家を出たい」
「うん」
 萩上は、Tシャツの胸元を掴んでパタパタとして、空気を取り込んだ。それから、もう一口だけ水を飲み横になった。
 ぼそりと言う。
「料理、やっぱりあなたが作る方が美味しかったわ」
 初めて褒められたような気がした。
 僕は「うん」とだけ頷いて、横になった。
 次の日の六時ごろ、僕は萩上に腹を蹴られて目を覚ました。

 アパートにいるときと変わらず、彼女は「お腹空いた」と不機嫌そうに言った。母さんや兄貴もまだ眠っていたので、台所を借りて朝食を作った。白ご飯と、味噌汁、目玉焼きとかなり簡素な朝食だったが、彼女は「マズイ」と言いながら完食してくれた。
 シャワーを浴びて、身支度を整えると、居間に敷いた布団の中で熟睡している母親と、仕事のために起きてきた兄貴に一声掛けて家を出た。
 バイクに跨り、出発する。
「どうだった?」
 東の太陽に目を細めながら、後ろに跨っている萩上に聞いた。
 萩上は僕の胴回りに枝のような腕を回して言った。
「楽しくなかったわ」
「そうだろうな」
「ねえ、早く帰ってよ。エアコンのある部屋で眠りたいわ」
「あと一時間くらいかなあ」
「電車を使えば良かったのに」
「お前が『人混みは嫌だ』って言ったのに」
「言ってない」
 言ったくせして、萩上は否定した。そして、八つ当たりと言わんばかりに、僕の右肩にガリッと噛みついた。
「あのね、痛いんだよ」
 甘噛みとかじゃなくて、彼女は本気で歯を突き立てていた。
 萩上はむすっとして、もう一度「言ってない」と呟いた。
        ※


 それから、二十日ほど経った。
 九月に入り、昨日までの猛暑が嘘のように、からっとした涼しさが訪れた。
 ジャージに半袖というラフすぎる格好でアパートを出た僕は、吹き付ける風の肌寒さに後悔しながら、大学に向かった。
 講義室に入るとさっそく、灰色の長袖を着た明日香が僕のところに駆け寄ってきた。
「おっす! 正樹! おひさしゅう!」
「ああ、久しぶり」
 久しぶりと言っても、一週間ほど会っていないだけだ。もちろん、その間も、メールや電話を使って、明日香に萩上のことは報告していた。
 僕の活動内容によって、その日に渡される給料が変動した。ちなみに、実家に帰省した二日間は、最高額を上回る三万円をもらった。普段の日は、大体一万五千円ほどだ。
 毎日一万円以上の金をもらい、僕の懐は潤っていた。だからと言って僕の胸が踏ん反り返るようなことはなく、むしろ「こんなにもらっていいのかな?」と、使うことに気が引けた。もらった金は萩上に食べ物を買ったり、服を買ったりするのに利用した。後は貯金だ。
「最近、どうなの?」昨日も電話越しにしたような質問を、明日香はしてきた。「ちーちゃんとの関係」
「悪くないと思う」
「そうなんだ。最初の頃に比べたら、結構打ち解けたよね?」
「いや、今でも地雷を踏みぬいたら殴られるし、蹴られるし…、一昨日は皿を投げられて死にかけた」
「最初の頃と比べて、変化とかあった?」
「………」
 明日香は時々、こういう質問をする。「食べ物はどうだ?」とか、「癇癪は和らいだか?」とか、後は「このまま行くと、人前に出られると思う?」などと、萩上の変化をしつこく聞いてくるのだ。
 こっちが、「給料を出しているのは誰だ?」と聞いても、「あんたは心配しなくて良いんだよ」とはぐらかすくせして。
 まあ、別に聞かれてまずい質問ではなかったので、僕は素直に答えた。
「最初に出会った頃に比べたら、まあ、心は開いてくれたと思うよ。料理作っても、文句言わずに食べてくれるようになったし、この前なんて、『カレーの作り方を教えてくれ』って言ってきてさ」
「へえ」
 明日香の目がきらっと光ったような気がした。
「他には?」
「前に、実家に帰省しただろ? あれを期に、外に出るようになった。まあ、人気の無い夜に、僕と一緒に散歩する程度だけど」
「うんうん」
 頷く明日香。
「他には?」
「苛立ったら物を壊す癖があったけど、あれも、最近は結構減ったと思う。僕を殴ったり蹴ったりするくらいかな? そこまで痛く無いし、本気でやってはいないと思うが」
「うんうん」
「さっきからなに?」
 そのわざとらしい頷きが鬱陶しくなって、僕は食い気味に聞いていた。
「ってか、いい加減教えてもいいだろ? お前が僕に渡す金は、何処から出ているんだ?」
 なんだかんだ、萩上との日々が楽しくて考えないようにしていたが、毎日、萩上の世話をすることでもらえる日給の出所は未だによくわからないままだった。
 すると、明日香は「ごめんごめん」と、手を上げて降参のポーズをとった。
「本当に、言えないんだよ」
「言えない? お前、後から『金返せ』って変な輩が押し掛けてくるのは御免だぞ?」
「そういう変な人じゃないから安心して」
「安心できないんだよな」
「私だって、詳しくは知らないよ? その人がどうして、人を雇ってまで、ちーちゃんの世話をしようとするのか」
 だってそうでしょ? と明日香は言った。
「最初は、私がちーちゃんの世話をしてくれって任されたんだけど…、もう、ちーちゃんの地雷を踏みまくっちゃって…、嫌われちゃって…」
 明日香は照れ臭そうに頭を掻いた。
「それで、僕に頼んだのか?」
「うーん、まあ、そうかな?」
 なんだ? その歯切れの悪い答え方は。
「その人も承諾してくれたよ? ちゃんと、私と正樹の二人分のお金を出してくれてるし」
「そう言えば、お前も給料もらっていたな。何もしてないくせして」
 嫌味っぽく言うと、明日香は頬を膨らませた。
「失礼な、逐一、ちーちゃんの様子をその人に報告しているから! 電話代とか、手間賃だから、半額しかもらってませんよーだ!」
 半額かよ。ってことは、三万もらった日はこいつ、一万五千円もせしめたのか。
「なんか納得いかない…」
「世の中稼いだ者勝ちよ!」
 明日香はボリュームのある胸をぐっと張って、そう宣言した。
「それで、ちーちゃんの相手をしている正樹に質問」
「なんだ?」
「給料出してくれている人、つまり、依頼人が聞いているんだけど、今の状態でちーちゃんを外に出せると思う?」
「は?」
 なんだ、その質問は?
「その依頼人が、萩上に会いたいって言っているのか」
「うん」
「いや、どうなんだろうな?」僕は顎に手をやって考えた。「確かに、会った頃に比べたら、他人とも会話できるようになった気もするけど…」
 この前、一緒にコンビニに行った時、店員に、「お弁当温めて」と一人で言うことができた。また別の日は、「ちゃんとおしぼりつけてよね」と、言っていた。確実に、他人と会話ができるようになっているが、「他人と会う」とは少し違うような気もする。
 悩んでいると、明日香が指を五本立てて、こんなことを言った。
「ちーちゃんを、駅前のレストランに連れていってくれたら、五万円くれるって言っているの」
「五万?」
 胸の奥で、僕の心が「ゴトッ」と音を立てて動いた。
「五万か?」
「うん、お金を出してくれている人がそう言ってたんだ。ちなみに、私は二万もらえるらしい」
「五万かあ…」
 五万ね。
 その時、僕も明日香も、安易に物事を考えていた。
 あまり「金! 金!」と言いたくないが、萩上を、その、駅前のとあるレストランに連れていくだけで五万円もらえるのだ。もしそれが本当なら、萩上に何か買ってやれるかもしれない。
 明日香も、金に目が眩んでこう言った。
「とにかく、ちーちゃん、外に出られるようになったんでしょ? レストランに連れていくだけなんだから、さっさと連れていって、お金もらっちゃおうよ!」
「うーん…」
 今まで、僕は萩上を優先して行動してきた。給料は二の次だった。
 だが、その時初めて、萩上よりも金を優先してしまったのだ。
「じゃあ、そうするか。それっぽく言って外に連れ出してみる」
「うん、そうして。多分、ちーちゃんも正樹のこと信用しているから、出てくれると思う」
 明日香はさっそく、ピンクのカバーのスマホを取り出すと、メッセージアプリを使って、その「依頼人」とやらに連絡をつけていた。
 返信はすぐに返ってきたようだ。
「ちーちゃんの都合がいい時間でいいらしいよ」
「萩上の都合がいい時間? それなら、夜だろうな。あいつ、昼間はあまり出かけたがらない」
「じゃあ、日曜の八時頃でいいかな?」
「とりあえず、それで」
「無理なら、変更可能らしい」
「寛容な人だな」
 まあ、萩上の性格を理解して言っているのかもしれないが。
 一か月後の日曜日、午後八時に、駅前のレストランに萩上を連れていく。
 それだけで、五万円が手に入るのだ。
 連れていくだけならすぐに終わる。それに、彼女とデートをしているような気になって、少しだけ楽しみになった。
 全て、浅はかな考えだった。