★★★

 中学入学した僕が、次に彼女の名前を聞いたのは、六月に入って最初に行われた全校集会だった。
 ジメジメとした湿気が肌に張り付くようで不快な全校集会。
 全校集会が開かれた時は決まって、先生からの所連絡とか、委員会の発表。あと、表彰が長々と行われる。萩上千鶴は、とある企業が主催した作文コンクールで優秀賞を獲得したので、名が呼ばれたのだ。
 名前を呼ばれて壇上に上がる彼女を見て、僕は「またか」と思っていた。またあいつだ。入学式の時に、壇上で物怖じせずにあいさつしたあの女だ。
 彼女が優秀賞を獲得したその作文コンクールは、強制的に書かされるものではなく、廊下の掲示板の隅に募集要項がひっそりと貼られた、つまり、「やってもやらなくてもいい」ものだった。やってもやらなくてもいい。別に、成績への影響だって微々たるものだろうに、わざわざ原稿用紙を使って書く気が僕には知れなかった。
 萩上は、大きな表彰状を校長先生から受け取り、スカートを翻して僕たちの方を振り返り、そして、まとまりのある髪の毛を揺らして一礼する。
 彼女が見ている景色を想像したら、胸がすっと寒くなるような気がした。
 僕には無理だな。こんな六百人近い生徒の前に立つ度胸なんて持ち合わせいない。
 ふと、周りを見渡すと、校長の話の時は、眠そうに下を向いていたやつらが、一斉に首を上げて壇上の萩上を見上げていた。ぼそぼそと、「あの子、可愛いよな」と言い合う男子の声が聞こえた。
 確かに、萩上は可愛い。僕も素直に認めた。一緒のクラスじゃないからわからないが、頭だっていいに決まっている。中間テストの順位は気にしたことが無いが、きっと彼女は上位に入っているのだろう。だけど、「天は二物を与える」という言葉を肯定しているみたいで、少しだけ、食道の辺りがむずむずした。
 それからも、萩上は全校集会の表彰の度に、その名前を呼ばれて壇上に立った。受賞の内容はいつも違う。作文コンクールであったり、ピアノコンクールであったり、絵画コンクールだったり、あと、俳句コンテストでも彼女は優秀賞を獲得した。芸術的な分野に優れていたのかもしれない。
 しゃべったこともない。顔を突き合せたこともない僕だったが、教頭先生のしわがれた声から呼ばれる「一年二組、萩上千鶴」という言葉が、鮮明に耳に焼け突くようになった。
 表彰式で彼女の名前が呼ばれないと、給食の牛乳が出なかった時のような、物足りなさがあった。



        ※


「ほら、買ってきたよ」
 炎天下の中、僕は近くのコンビニに走り、おにぎりや飲み物を適当に見繕って買った。若い店員が、僕の了承も得ないまま、レシートを捨てようとしたので、少しだけ焦った。あとで経費を明日香に請求しないといけないから必要だった。
 萩上は新聞の切れ端の山の中に埋もれていて、僕が帰ってくると、春先の熊のように、そこから出てきた。
 髪をぼさぼさにしたまま僕に聞いた。
「なにを買ったの?」
「ああ、おにぎり」
 高菜のおにぎりを渡す。
「あと、緑茶いる?」
「いる」
「プリンも買ってきてるけど」
「いらない」
「手拭きは?」
「それはいる」
 萩上千鶴は僕の手から手拭きを奪い取った。
 おにぎりの味を見て、顔を顰める。
「おかか無かったの?」
「ああ、多分あったと思う」
「おかかがよかった」
 高菜味を頬張りながら、僕のおにぎりの具材のチョイスについて文句を言う萩上千鶴。
「買いなおしてこようか? コンビニ、すぐ近くだし」
「いい。いらない」
「そう」
「麦茶は無かったの?」
「あったと思う」
「麦茶がよかった」
「そう」
 何なら、買いなおしてこようか? と言おうと思ったが、どうせ「いらない」と言われるんだろうな。
「買いなおしてきて。アパートのすぐ前に自販機があるから、そこで買ってきて」
「あ、ああ、そう」
 僕はすぐに麦茶を買いに戻った。
 自販機で買って、表面に結露が浮いている麦茶を受け取ると、萩上は、口の中の白飯を流し込むようにして飲んだ。そして、半分くらい飲んだ緑茶のボトルを僕に投げる。
「それ、要らないから、捨てておいて」
「ああ、うん」
 萩上は、高菜おにぎりと昆布のおにぎりを平らげ、結局、プリンもスプーンですくって食べた。喉が渇いていたのか、麦茶のボトルは一瞬で空になった。
 手拭きで口を拭った彼女は、ぼそりと「ありがとね」と言った。それだけで、暑い中買いに行った甲斐があるものだ。
「喜んでもらえて何より」
 僕はコンビニのナイロン袋に、彼女が出したゴミを入れると固く結んだ。
「じゃあ、僕はこれで帰るから。また機会があればね」
 そう言って、部屋から出ていこうとした。
 しかし、彼女の不機嫌そうな声が、再び僕を引き留めた。
「ねえ、何処に行くの?」
「え?」
 どこって言われても。
「帰るんだけど?」
「なんで?」
「なんでって」
 それは、お前が「世話役なんていらない」って言ったから。
 萩上千鶴は新聞紙や広告の切れ端の山の中にちょこんと座っていた。そして、顎であたりのものを指し示す。
「桜井正樹君だっけ?」
「ああ、うん」
「世話人なんでしょ?」
「まあ、明日香に頼まれたから」
「だったら、ここ、片づけて」
「え?」
「なによ。世話人なんでしょ?」
 萩上は、乱れた髪をかき上げて、上から目線で言った。
「仕方ないから、世話をさせてあげるわ」
 僕が「わかったよ」と頷いても、彼女は俯き加減に、ぶつぶつと「契約はフェアじゃないといけないわね」とか「せっかくだから、お願いするわね」と、言い訳染みたことを言っていた。
 僕の頭の中には、真っ先に「きまぐれ」という言葉が浮かんだ。
 この女。気まぐれだな。気分がコロコロと変わる。

 まるで猫みたいだ。いや、わがままなお嬢様の方がいいだろうか?
「ゴミ袋は、戸棚の所にあるから、この部屋を埋め尽くしている新聞紙と広告を全部詰めていって」
「ああ」
 僕は彼女に言われるがまま、部屋の片づけに入った。
 戸棚から、地区指定の白いゴミ袋を取り出し、散乱した新聞や広告の切れ端を適当に詰めていく。
「本当に捨てていいのか?」
 一応聞いた。すると、萩上は眉間に皺を寄せて、心底不快な顔をした。
「目が腐ってるんじゃない? そんな新聞紙が大事なわけないでしょ?」
「だって、さっきも新聞紙に埋もれて寝ていたじゃないか」
「そこに新聞があるからよ」
 と、どこぞの暴君のようなセリフを吐く萩上。
 分別の必要が無いからすぐに終わると思っていた。しかし、新聞の量は思ったよりも多くて、しかも、かさばるから、一枚一枚小さくくしゃくしゃにして入れないと入り切らなかった。
 一時間ほどで、僕はゴミ袋を三袋一杯にした。
 僕が片づけをしている間、萩上は部屋の隅に蹲り、僕の動く様子を眺めていた。そして、いつの間にかその場にころんと横になり、すやすやと昼寝を始めていた。
「終わったよ」
 新聞紙と広告を取り除いただけで、彼女の部屋は「何も無い」と言っても過言ではないくらいに綺麗になった。服を入れるための小さなプラスチックケース一つ。あとは何も無い。強いて言うなら、フローリングには、灰色の絨毯が敷かれていたことぐらいだ。
「燃えるごみはいつだっけ?」
「今日」
 萩上は寝転んだまま、半目を開けてそう呟いた。
「今日?」
「今日の…、八時まで」
「ってことは、もう過ぎているじゃないか」
「うん。過ぎてる」
「じゃあ、来週まで持ち越しだな」
 僕は三つのゴミ袋を、部屋の隅に重ねて置いた。萩上は特別文句を言うようなことは無かった。
 再び目を閉じて、すうすうと眠る。
「…、僕は、何をすればいい?」
「……」
 聞こえているだろうに、何も答えてくれなかった。このまま黙って帰るのも何故か憚れて、僕は部屋の隅にしゃがみ込み、自分のナップサックから参考書を取り出した。
 そして、彼女が起きるまでの時間を潰した。
 数時間後。
 冷気を吐き出していたエアコンの電源が、プツンと切れた。部屋の温度が一度上がったのを感じた僕は、柱に取り付けられた操作パネルに目を向ける。「タイマー」の部分がチカチカと点滅していた。
 僕はもう一度電源を点けようと、参考書を傍らに置いて立ち上がる。
 その、立ち上がった時の小さな振動で、萩上はぱちりと目を覚ました。
 僕がエアコンの操作パネルを弄っているのを見て、「なんでまだ帰ってないの?」という。
「帰ったらダメだろ?」
「うん。だめ」
 設定温度は二十五度。道理で寒いわけだ。
 起きるや否や、萩上は僕に命令した。
「お腹空いた」
「もう?」
「一時間後にはお腹が空く予定なの。だから、買ってきて」
「わかったよ」
 窓から、オレンジ色の陽光が差し込んでいた。まだ明るいとはいえ、もう十八時を回っている。思ったよりも時間が経っているな。腹が減るのも無理はない。
 僕は、再び外に出た。
 昼間、あれだけ熱線を放射していた太陽だが、今は西に傾いて、穏やかな光を放っている。頬を撫でる風が心地よくて、僕はスキップでも踏みそうな勢いでコンビニに向かった。
 おかかのおにぎり。麦茶に、スイーツ。あとサラダと、自分用の食事を籠に入れて、レジに向かう。昼間とは別の店員が接客していて、今度は「レシートは要りますか?」と聞いてくれた。僕は「はい、要ります」と強調して言ってやった。
 コンビニを出ると、なるべく急いでアパートに戻った。
 階段を上って、萩上の部屋に入る。
「遅い」
 扉を開けるなり、不機嫌そうな声が聞こえた。
「お腹空いた。餓死しそう」
「ああ、ごめんな」
 餓死は大げさじゃないか? と思ったが、玄関で仁王立ちしていた萩上を立ち姿は、「餓死」という言葉が似合うほどにやせ細っていた。
「おかか買ってきたよ。食べたかったんだろ?」
「いらない」
「え」
「高菜はないの?」
「ああ、買ってきたよ」本当は自分用だったが仕方ない。「適当に見繕ったから、好きなものを食べるといい」
 いちいち説明するのがめんどくさくて、ナイロン袋ごと彼女に渡した。
 萩上は袋を受け取ると、ダイニングの方に戻って、中のものを絨毯の上にぶちまけていた。おにぎりとお茶を適当にとる。「餓死しそう」と言ったくせして、すぐには食べず、自分の分だけを確保して横になってしまった。
「僕もいいかな?」
「好きにすれば? あなたが買ってきたものなんだし」
「じゃあ、いただきます」
 僕は遠慮気味に萩上の向かい側に腰を下ろして、彼女が「いらない」と言ったおかかのおにぎりに触れた。
「それはダメ。私が食べるから」
「ああそう」 
 本当にわがままだな。
「これならいい」
 そう言って、萩上は家畜に餌を与えるみたいにして、焼きそばパンとメロンパンを放り投げてきた。
「ありがとう」
 いや、ありがとうなのか? これ。僕の金で買った食料だぞ?
 一時間後、萩上はのそっと起き上がり、おにぎりを黙々とおにぎりを食べた。時々、喉に詰めてお茶で流し込んでいた。
 僕は彼女が食べる様子を、壁にもたれてぼーっと眺めた。
 沈黙が続く。
 いくらバイトとは言え、このぎくしゃくとした空気は耐えがたいものだった。
 彼女が二つ目のおにぎりに手を伸ばしたタイミングで、この張りつめた雰囲気を何とかしようと口を開いていた。
「趣味とかはあるの?」
 やや軽い口調で。
 ぎろりと睨まれた。
「特にない」
「ああ、そう」
 ダメだ。会話のターンをここで終わらせてはいけない。
 僕は、中学の頃の萩上の記憶をたどりながら、何とか言葉を絞り出した。
「萩上って、ピアノやってたよな。もう弾いてないの?」
 そう言えば萩上は、ピアノの演奏が上手かった。ピアノだけではない。歌も上手かったし、音楽室にある楽器は一通り演奏することが出来た。文化祭の時に、バンドを組んでベースを演奏したときは、皆の度肝を抜かせたものだ。
 これで会話の糸口をつかもうとした。
 しかし、萩上は「弾いてない」とつんけんと言って、また、僕をぎろりと睨んだ。
「なに? いつの話をしてるの?」
「いや、ほら、中学の時だよ。あの年、文化祭の合唱コンクールで萩上が課題曲のピアノを担当してくれたじゃないか。そのおかげで、僕たちのクラス、優勝できただろ?」
「そうだったかしら」とぼけているのか、それとも本当に忘れているのか、萩上は眉間に皺を寄せたまま首を傾げた。「そんな昔の話、覚えていないわよ」
「そうか」
 胸の内に、落胆の感情が染みだした。
 中学の時の萩上は、例え本当に忘れていようが、相手を落胆させないために、「どうだったっけ?」とかと言って、話を繋げようとする少女だった。その話の繋げ方が本当に上手くて、彼女と話していて、不快になる人間なんていなかったのだ。
 まともなコミュニケーション能力を持ち合わせているというのに、僕との会話を成立させようとしない萩上に、僕は妙にムキになってしまった。
「高校は何処に行ったんだっけ?」無理に彼女と会話をしようとした。「萩上のことだから、いい高校に進学したんだろ? 模試とか定期テストでいっつも上位だったもんな」
「……」
 答えない。
「もしかして、斉明高校か? あそこは偏差値高かったから」
「うん」
「ああ、やっぱり」頷いてくれただけで僕は勝ったような気になった。「さすがだな。僕なんて、自宅から徒歩五分の底辺高校だよ」
「…炭田高校だっけ?」
「知ってるのか? ほんと、つまらない場所だよ」
 お茶を一口飲んで口の中を湿らせた。
「馬鹿しか揃っていない高校。今だから言えるけど、少し後悔している。もう少し勉強を頑張っていれば、斉明高校くらいは行けたんじゃないかってな」
 偉そうな言葉が、口を滑り落ちた。
「まあ、三年間必死に勉強して、今は何とか、国立の大学に通えている」
「そう…」
「萩上は、大学はどうしたんだ? 斉明に行っているんだから、いいところに進学しているんだろ?」
 顔を上げて、萩上の方を見た瞬間、何かが飛んできて僕の顔面に直撃した。
 思わず「うわ!」と叫んで、顔を引く。
 磯の香りと、塩っ気のあるシーチキンの香り。べったりとしたおにぎりの白米が頬に張り付いている。
「何するんだ」
 僕はおにぎりを顔から剥がして、萩上を睨んだ。
 萩上も僕を睨んでいた。

「なんだよ」
 僕は文句を言ってやろうと思った。
 いくら給料が出るとは言え、僕は彼女の「世話役」とは言え、調子に乗り過ぎだ。人を顎で使うのは百歩譲っていいとして、顔におにぎりを投げるのはいくら何でも常識を疑う。
「さっきからなんだよ! こっちは場の雰囲気を和ませようと気を使ってんだよ! お前ももう少し気を利かせて、愛想笑いくらいしろよ!」
 そう叫んでから、僕はすぐに口を噤んだ。
 萩上の目が、真っ赤に充血していたからだ。
「……」
 萩上は肩を竦めて、腹の底から込み上げてくる震えを必死で抑えているようだった。コトコトと怒りが沸騰して、それが今にも爆発しそうになり、それを、奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばって耐えている。
 あふれ出した怒りは、目に溜まっていき、きらりと光って彼女の頬を滑り落ちた。
「な、なんだよ…」泣き顔を見せられたら、僕も怒りの持っていく場所を見失ってしまう。「怒りたいのはこっちだよ…」
 その瞬間、彼女は未開封のおにぎりを握り締めた。
 ぐちゃっと、彼女の握力でおにぎりがつぶれる。
 それを、思い切り投げつけてきた。
「うわ!」
 脳天に潰れたおにぎりが直撃。意外に痛かった。 
 怯んだ僕は、情けなく腰を打ち付ける。
 その上に萩上が馬乗りになった。
 萩上は言葉にならない叫び声をあげて、僕の頭に爪を突き立てる。
 ガリッと鋭い痛みが走った。
「何するんだよ!」
 僕は反射的に、彼女の手を振り払って、突き飛ばしていた。
 あまりにも軽い彼女の身体は、いとも簡単に吹き飛び、部屋の壁に激突した。喉の奥から、カエルの鳴き声のような呻き声を発する。
 取っ組み合いで、萩上のパジャマのボタンが数個ちぎれたようで、下着も着けていない彼女の白い胸がはだけた。
 そんなのも気にせず、萩上は手をついて身体を起こす。そして、上体をのけ反らせると、思い切り、絨毯の敷かれた床に頭突きをした。
 ゴツン!
 と鈍い音が響く。
「うう…、うう、、ううううう…」
 獣のような唸り声をあげる萩上。間髪入れず、数回、頭蓋を床に叩きつける。その度に、ゴツン、ゴツンと耳を塞ぎたくなるような音が部屋に響いた。
「おい、やめろ」
 彼女の自傷行為をすぐに止めに入った。
 しかし、頭に血が上っているのか、萩上は手をめちゃくちゃに振って僕の頬を引っ掻いた。
「っ!」
 頬が熱くなり、思わず身を引く。
 萩上は、床への頭突きを辞めた。だが、まだ蹲って獣のように唸っていた。髪の毛をガリガリと掻きむしり、ぶつぶつと何かを呟く。
「萩上?」
 僕の声は聞こえていないようだった。
 萩上は蹴り飛ばされたように立ち上がると、部屋の押入れの扉を勢いよく開けた。
 押入れの奥に手を突っ込むと、中から何かを握って取り出した。
 萩上が押入れから取り出したもの。
 それは、カッターナイフだった。
「萩上!」
 僕は彼女がこれから何をしようとしているのか予想ができた。
 萩上は、チキチキとカッターナイフの鈍い色をした刃を出すと、それを自分の首に押し当てて、一気に喉を掻っ切る。
 とはならなかった。
「あああ!」
 ナイフを、思い切り絨毯に突き刺したのだ。
「うう、うう! ああ! うううう!」
 ガリガリ、ガリガリと、絨毯をカッターナイフで切り裂く。
 絨毯は適度な厚さを持っていたため、刃がフローリングに届くことは無かった。しかし、表面のポリエステルの繊維が切り裂かれて、綿のように掻きだされていた。
「おい、萩上。絨毯が痛むぞ」
「うるさい!」
 僕の心配を一蹴すると、萩上は、傍に置いてあった僕の大学の参考書を手に取った。
「おい!」
 僕の静止の声も無視して、萩上はナイフを振り上げる。
 そして、参考書の表紙に勢いよく突き刺した。
 それを見た瞬間、僕の胸はチクリと痛くなった。
 あーあ、あの参考書、高かったんだけどな。
「萩上…」
 萩上は相変わらず、獣のように呻きながら、ガリガリと参考書の表紙を切り裂いていった。絨毯と同じように、シュレッダーのように細かく切り刻まれた紙が、くるくると巻かれながら飛び出してくる。一瞬で、僕の参考書の表紙はズタズタにされ、使い物にならなくなった。
 その時、先ほど僕が片づけた新聞紙の切れ端のことが頭に過った。
 ああ、そうか。
 部屋を埋め尽くしていたあのゴミは、彼女のこれが原因で出たものなのか。
 彼女は十分ほど、僕の参考書と絨毯をナイフで傷つけた。
 そして、僕の参考書が見る影もなく粉々に切り裂かれたころになると、ことんと動きを止めた。
 ナイフが手から落ちる。強く握りしめていたおかげで、手の中は鬱血して青くなっていた。
 顔は紅潮し、肩で息をする萩上。
 僕はそっと手を伸ばして、落ちたカッターナイフを拾い上げた。
 その時、彼女の手から血が流れ落ちていることに気が付く。
「手、切ってるよ?」
「うるさい!」萩上は金切り声を上げた。「帰って! 来るな!」
 ズタズタになった参考書を掴むと、思い切り投げてきた。紙一重で躱す。
 参考書は、壁に当たって、ごとっと落ちた。僕はソレを拾い上げて、ため息交じりに頷く。
「……わかったよ」
 しぶしぶ頷いて、僕は彼女に背を向けた。そして、そのまま部屋を出ていった。
 アパートへの帰り道、僕はナップサックから、「萩上千鶴取扱説明書」を取り出すと、もう一度読み返した。

 第三十二条「萩上千鶴が万が一癇癪を起こした場合、新聞紙等の『破壊してもよいもの』を与えること。それを常備することを忘れないこと」

「……」
 最初は何のことを言っているのかさっぱりだったが、合点が言った。
「明日香…、もう少し口頭で説明してくれないか…」
 おかげで参考書が犠牲になった。
 まあ、いいか。
 僕はちらりと、萩上のアパートの方を振り返った。
 もう二度と来ることは無い。

       ★★★


 二年生に進級して、最初の登校日。
 僕が自転車で校門を潜った頃には既に、校舎の前に新しいクラス編成の紙が貼られて、そこに大勢の生徒が集まっていた。
 駐輪場に自転車を停めて、欠伸を噛み殺しながら新しいクラスの確認に行くと、集まって話していた男子の誰かが「やった! 萩上と同じクラスじゃん!」と言ったのが聞こえた。表彰式以外で彼女の名前を聞くのは滅多に無かったので、新鮮な気分だった。
 そして、やってきた僕に男友達の一人が気づいて、手を振りながら近づいてきた。
「おーい、正樹。やったな!」
「何がやったの?」
 僕はぼんやりと聞いていた。
「萩上と同じクラスだぜ?」
 その日、僕は初めて萩上千鶴と同じクラスになった。
 有名人に会うって気分は、こんな気分なのかと、思った。
 階段を上り、二年三組の教室に入った時、彼女は一番前の席に腰をかけていて、既に沢山の人間に囲まれていた。「萩上さんと一緒のクラスなんて幸せ」とか、「今年の合唱コンクールは勝ったも同然だね!」とか言われていた。
 壇上に上がった萩上しか見たことがなかった僕は、純粋に、「ああ、萩上って、実在したんだ」と隣の友人に洩らしていた。彼は大笑いしていた。「言いたいことはわかるぜ」と言われた。
 彼女の評判は、この一年で十分わかっている。五度の定期テストで、三回、学年一位を獲得。合唱コンクールではピアノを担当して、そのクラスを優勝に導いている。そして、話しかけられたら爽やかに返すあの人の良さ。
 全て現実だとわかっているのに、どうも、アニメの中の登場人物と対峙しているような気分に駆られた。
 これから、一年間、僕は萩上千鶴と同じ教室で同じ時を過ごす。定期テストの成績が中の下のような僕と同じ空気を吸い、同じ給食を食べて、合唱コンクールや体育祭、グループマッチ等、クラスの行事を萩上と行う。
 周りは「うれしい」とか言っているけど、僕は「嫌だな」と思った。別に、萩上と一緒にいることが嫌なのではない。僕みたいな平凡な奴が、彼女のような優秀な人間の足を引っ張ることが目に見えていたからだ。
 僕は多分、萩上の荷物になる。そして、クラスの邪魔になる。
 めんどくさいなあ…。
 そう思いながら、僕は席に着いた。


 次の日、朝の七時。

 僕がアパートの近くの公園に向かうと、ラジオ体操を終えた小学生たちが賑やかに出ていくところだった。
 もう少し遅くしたらよかったかな?
 そんなことを思いながら、ブランコに腰を掛けて、適当にゆらゆらとする。
 日はまだ高くなく、路地を抜けて公園までやってくる風が爽やかだった。青々と葉を生い茂らせる桜の木で鳴く蝉も、どこか寝ぼけているように思えた。
「おーい! 正樹!」
 相変わらず、ノースリーブのワンピースと、露出の多い格好をした明日香が、手を振りながら公園に入ってきた。僕が呼び出した。
「どしたのよ、こんな朝早くに」
「いや、、わかるだろ」
「ああ、ちーちゃんのこと?」
「わかっているじゃん」
「どうだった?」
 昨日のことを聞いてくる明日香の目は、心なしかにやにやと笑っている。
 僕は、明日香に文句を言ってやろうと思って、鞄の中に入れていた参考書を取り出して見せた。ズタズタに裂かれたそれを見た瞬間、明日香は何が起こったのか察したようだ。ため息交じりに「ちゃんと取り扱い説明書読んだの?」と聞いてくる。
「読んだけど…」僕は言葉を濁した。「あそこまで凶暴だとは思わないじゃないか」
「凶暴かな?」
「あれは凶暴だよ。猛獣だ」
 今年二十歳になる大学生が、公園の遊具に腰を掛けて話している姿はシュールだった。
「ちーちゃん、怒ると乱暴になるからなあ」
「明日香。その言葉足らずなところを治した方がいい」
 そうは言っても一番悪いのはあの女だ。
「ああくそ、あの女…」
 ブランコの背後にあった自販機の横のゴミ箱に、僕はズタズタの参考書を投げ入れた。
「人の参考書を何だと思ってんだよ。自分は引きこもっているから勉強なんか目にも留めない日々を送っているんだろうが…、こっちは単位と就職で切羽詰まっているんだよ」
 ぶつぶつと文句を垂れる僕のこめかみと頬には、大きめの絆創膏が貼ってあった。
 その絆創膏を、明日香が指で突いて聞いた。
「その傷、やられたの?」
「やられた」
 今更、腹の底からふつふつと熱いものが込み上げてきた。
 それが溢れないように、何とか抑え込んで、僕は明日香に手を差し出した。
「おら」
「ん? なに?」
「金だよ。金」
「え、何のこと?」
「とぼけるなよ。日給一万って言ってたじゃないか」
「ああ、そのことね」
 そのことね。って…。しっかりしてくれよ。僕はあの女に参考書を切り刻まれて、頭に傷を負わされたんだ。もらえるものはもらっておかないと、僕のやられ損になってしまう。
 明日香は、僕の手をぱしっと払いのけた。
「あげられないよお。だって、ちーちゃんを怒らせちゃったんだもん」
「あ?」
 なんだそれ。話が違うぞ?
 僕は明日香を睨みつけると、彼女は「おお怖い」と大げさに肩を竦めた。それから、足元に置いていた僕のナップサックを奪い取ると、中を漁る。
「何やってんだ?」
「あ、あった」
 取り出したのは、明日香が僕にくれた「萩上千鶴取扱説明書」だった。
「ほら、ここ見て」
 六ページ目の、第二十六条を見る。

 第二十六条…萩上千鶴を不快にさせた場合、賃金は入らない。

「ちゃんと書いてるでしょ? 読まなかったの?」
「もういい」
 僕は明日香から説明書をひったくり、それも、背後のゴミ箱に放り投げた。
「あ、何やってるの!」
「もういらん」
 ナップサックの肩紐を掴み、ブランコから立ち上がる。
「正直、納得いかない部分が数多だが…、取扱説明書をよく読んでいなかった僕も悪い。この話は無かったことで頼むよ」
「えー。もうやめちゃうの?」
 明日香はゴミ箱を漁って、取扱説明書だけを取り出した。
「もうちょっと粘ってみようよ。まともにやればお金になるのよ? ってか、私も仲介料であんたの半額入るんだから、一緒にぼろもうけしてやろうぜ!」
「それが本心かあ…」
 僕は明日香をつっぱねた。
「信用できない」
 それは本当のことだった。
「どれだけ日給がよかろうが、これは割に合わないよ。あの凶暴娘のアパートに行くたびに、ご機嫌取りをして気を煩わせることはしたくない」
 それに、行くたびに参考書をズタズタに裂かれるのも、額を引っ掻かれるのも御免だ。
「じゃあ、お金はどうするのよ。学費、支払うの大変なんでしょ?」
「他のバイトを探せばいい」
 これ以上は話したくないとばかりに、僕はつかつかと歩き始めた。
「朝早くに悪かったな。規則正しい生活を送れよな」
 そのまま、足早に公園を去る。明日香が何か言っていたような気がしたが、聞こえていないふりをした。
「…萩上千鶴か…」
 寝ぼけた蝉の鳴き声を聞きながら、僕はぼんやりと考えた。
 人間は一度忘れても、脳に少し刺激を与えてやれば、それを糸口にして一気に思い出す。という事がある。原理はよくわからないが、それが、今、僕の頭の中で起こっているので事実なのだろう。
 何かのタイミングで、僕は中学生二年のころを思い出していた。
 学級委員だった萩上千鶴。
 僕の学校は、各クラス、年に二度、各クラスから委員会活動に参加する者を選出していた。委員の仕事は、一週間に一度は放課後の貴重な時間を返上して会議に出席しなければならい。これが結構大変なのだが、意外にも志願する人間は多かった。委員会の経験は、内申書に書かれるから、皆それが目当てだったのだ。
 じゃあ、萩上千鶴もそうだったのか。と聞かれればそうではない。
 彼女は、自ら…、いや、周りに推薦されて学級委員になった。皆が満場一致で「萩上千鶴さんが学級委員にふさわしいです」と言ったのだ。
 買いかぶりなのか、はたまた、押し付けただけなのか。そんな疑問が通じないほどに、萩上千鶴は、皆から信用されていた。好かれていた。
 確かに、萩上千鶴以外にも、優秀な生徒はいた。だが、彼女が二年生の前期と後期共に務めたということは、彼女の委員としての手腕が天と地ほどに他とかけ離れていたのかを語っていた。
 ほんと、あいつはすごかったよ。
 体中に目が付いているみたいに、いろいろなことに気が付くんだ。クラスメイトの不調は見逃さない。教室の戸締りもきっちりと済ませるし、朝は誰よりも早く来て花の水替えをする。先生に頼まれたことは、「わかりました」と張りのある声で頷いて、敏腕のビジネスマンみたいにこなす。テストで九十点以下をとったことが無いことだけが、彼女の唯一の可愛げのないところだった。
「………」
 喉の渇きを覚えながら歩く。頬にじとっとした汗がつたう。この季節は、防水の絆創膏を貼っていないと、汗で剥がれ落ちることがあった。
 先ほど公園ですれ違った子供たちが、道の端にたむろして、民家から伸びる木の枝に手を伸ばしていた。指の先に、小さなカブトムシがいた。
 この時代、カブトムシを触れる小学生が生き残っていたことに安堵しながら、僕は歩を速めた。
「………」
 あいつ…、変わったな。
 髪の毛がすごく伸びていた。身長も伸びた。雪原に立たされたみたいに血の気の無い顔をしていた。何処にも、中学時代の萩上千鶴の面影は無かった。
 まあ、親しかった奴が変わることなんてよくあることだ。
 僕が中学三年生の頃に同じ班だった女子なんて、高校に在学中に妊娠。そして中退。結婚して、三人も子供を産んだ。周りからはあまりいい話は聞かないが、少し前に同窓会で再会した時の彼女は、子供を連れて結構幸せそうだったよ。
 人生、何が起こるのかわからないものだから、人が変わる事に対して特別な感情は抱かないが…、萩上千鶴は、彼女が変わってしまったことだけは、肌を這うような衝撃があった。
 そこまで考えた時、僕は反射的に額の絆創膏に触れていた。
 ぐっとガーゼの部分を押せば、彼女の爪に裂かれた傷がチクリと痛む。
 あの時だけ、顔を真っ赤にして激情した萩上。肩を震わせながら、絨毯や参考書にカッターナイフを突きつける萩上。癇癪を起こした子供みたいな姿は、あまり見たくなかった。
 上着のポケットに入れていたスマホが震えた。
 僕は汗ばんだ手でそれを取り出す。
 メッセージの送り主は、中学の友人の兵頭からだった。
『今度の日曜日、遊びに行こうぜ』
 とだけ綴られていた。
 僕は「おけ」とだけ返信して、スマホの電源を落とした。



        ※



 次の日曜日の朝。アパートを出る前に見ていたニュースが「本日は猛暑となりますので、熱中症対策をしっかりとしてからお出かけください」と言っていた。
 熱中症対策って何だろうな。
 僕はアパートの通路に差し込む直射日光に目を細めながらそんなことを考えた。とりあえず、百均で雑に買ったスポーツキャップを被り、首筋にひりひりとしたものを感じながら外に出る。
 駅に着くと、兵頭はもう到着していて、僕の姿を見るや否や、「遅いぞ」と首筋に浮かんだ玉の汗を拭いながら言った。
「ごめんごめん」 
 僕は心の籠っていない謝罪をしておいた。
 兵頭は、中学二年と、三年生の時に同じクラスだった奴で、成人した今でも定期的に連絡を取り合う、数少ない友人だ。
「どこ行くの?」
「隣町」
「なんの用?」
「新作のゲームが出るだろ?」
 そんなことを話ながら、駅の構内に入る。光の加減で目がちかちかと眩んだ。
 二人で券売機の前に並び、隣町への往復切符を買った。
 一か月ぶりの再会だと言うのに「暑いな」とか「そうめん食べたいな」みたいなくだらないことを話しながら、僕たちはホームに上がる。
 電車はすぐにやってきた。
 日曜ということもあってか、心なしか空いている。寒いくらいのクーラーの冷風が足元から吐き出されていた。
「お前、ゲームなんてしたっけ?」
「するわけねえだろ」兵頭はにやっと笑って、指でお金の形を作った。「ショップの開店が十一時からだから、十時に着けば間に合うよな。ちゃんと整理券を確保しとけよ」
「原価はいくらだっけ?」
「メーカー小売り価格が六〇〇〇円。だけど、早朝販売もされたみたいで、もう値段が吊り上がってるぜ」
 フリーマーケットアプリを起動して、今回買いに行く商品のページを見せてくる兵頭。
 なるほど、一つ八千円か…。
「このゲーム、こんなに人気だったっけ?」
「ハードが変わってから人気がバク上がりしたからな。メーカー側の生産が追い付いていないから、稼ぎ時だぜ」
 まだ買ってもいないのに、まだ売れてもいないのに、ほくほくとした顔でスマホの画面を見つめる兵頭。
 僕は「お前のメンタルに感服するよ」と、半ば呆れながら、シートに腰を落ち着かせた。
 兵頭は、転売をして金を稼いでいる。バイトもしているから、一応副業の扱いなんだろうけど、これが結構稼げるらしい。
 兵頭は僕の隣に座る。首元で、金色のネックレスがきらりと光った。
「この前、いくら稼いだんだっけ?」
「ああ、ゲーム売りさばくだけで十万よ」
「うわあ」
 彼いわく、現在、転売ビジネスは稼ぎ時らしい。
「恨まれるだろ」
「恨まれるね。個数制限を付けていない店側が悪いのに、買い占めたら、後ろに並んでいた女が怒鳴ってきやがった」
「一つくらい譲ってやればいいのに」
 そういう僕も、共犯者だった。
 人気のある商品とかになってくると、個数制限を付けられる場合がある。この前、とあるアニメのコラボストラップが発売された時は「おひとり様三個まで」と制限されていたので、僕も兵頭の仕入れに同行させられた。
 そして、今日もだ。
「調べたら、ツーバージョンあるから、一人二つまでらしい。オレとお前で、四個は手に入るな」
「アコギだなあ」
「稼いだもん勝ちだよ」
 隣町で電車を降りると、僕たちは炎天下の中、ゲームショップに向かって歩いた。日差しがとにかく強くて、スポーツキャップを被っていても、和らぐことは無かった。
 途中、喉の渇きを覚えて、自販機で水を買って飲んだりしていると、ショップに着いたのは開店時間の三十分前だった。
 物好きもいるものだ。
 すでに店の前には、二十人ほど並んでいて、各々、この暑さにうなだれて開店を待っていた。
「あー、もう少し余裕を持って来ればよかったな」
「この程度の人数なら買えるだろ」
「ワンチャン、並びなおしをしたかったんだよ」
「無理だろ」
 開店までの三十分間、僕たちは適当に駄弁りながら時間を潰した。店が開けば、即刻、兵頭がお目当てとしているゲームソフトを購入。ワンチャンスにかけて、もう一度並びなおしたが、間もなく売り切れてしまった。
 クーラーの効いた店内で涼んでから、外に出る。
「もう少し入荷すればいいのにな」
 そう言うと、兵頭は「これでいい」と、ナイロン袋に入ったゲームソフトのパッケージを眺めて、にやっと笑った。
「ちょうどいい供給量だから、値段も吊り上がる」
「そう…」
 目が完全に商人の目だった。
 それから、僕は、リサイクルショップやアニメショップを回って、兵頭の仕入れに付き合った。一つの商品を買うだけでも、あいつはかなり悩んだ。ネットの相場や、供給量、発売日などをよく確認して、慎重に買うのだ。アニメのラバーストラップを買うだけでも、三十分は費やした。
 そして、店を出るときは「いい買い物をした!」と、世間の冷たい視線を向けられる転売屋とは思えないほどのすがすがしい笑顔を見せるのだ。
「じゃあ、もう帰るか」
 自分の用事だけは済ませ、後はお構いなしの兵頭は、くるりと踵を返して、駅の方へと歩いていく。
 僕も彼の半歩後ろを歩いた。
 思わず「変わったな」と呟く。
「ん? 急にどうした?」
「いや、変わったな。って…」
「何のことだよ」
「お前が、転売に手を染めるとは思わなかったってことだよ」
「そりゃ、中学の頃は、まだフリマアプリは出ていなかったからな」
「いや、違うよ」
 中学の頃の兵頭は、一言で言えば「馬鹿」だった。定期テストの成績も下の下で、ゲームやら漫画やらを教室に持ち込んでは先生に没収され、返してもらっても、懲りずにまた持ってきて。休み時間中は同じ馬鹿どもとふざけ合って、窓ガラスを割って怒られて。
 悪い奴じゃないが…、見ていて痛々しい奴だった。
「なんか…、悪い意味で賢くなったよな」
「そうか?」
 照れ臭そうに頬の汗を拭う兵頭。別に誉めてないのに。
「まあ、確かに転売はいい目で見られないよな」
 大学に入学してから、会うたびにこれだ。「今はこれの値が吊り上がっている」とか「これが高値で売れるから買いに行くぞ」とか。アコギなことしている割には、ちゃんと物価の変動を見極めているから、損をすることがほとんどない。稼いだ金で、ラーメンをおごってくれる。その情熱を他のことに注げないのか?
「お前も転売始めたら? 儲かるぞ?」
「あいにく、僕は『あの人転売屋よ』って後ろ指さされながら転売するほど器用でも無いし、メンタルも強くないんだ」
「でも、大学の学費、高いんだろ?」
 明日香と同じことを言う。
「奨学金で何とかなるさ」
「なんだよ。奨学金って、結局借金じゃねえか。ちゃんと稼いだ方がいいって!」
「転売って、『ちゃんと稼ぐ』ことの分類に入るんだ」
 初耳だ。
「俺と一緒に、一儲けしようぜ」
「なんか、すっごく胡散臭い…」
「まあ、お前は大学に行っているもんな。世間体を気にするのもわかる! さすが、高校の時に生徒会長だった正樹様は違うぜ!」
「あのね」
 生徒会長と言ったって、底辺校の生徒会だ。あまりすごくない。
 手汗が滲んで、持っていたナイロン袋の感触が悪い。
 僕は何も言わず、それを兵頭に渡した。兵頭も「サンクス」といって受け取る。
 身軽になった僕は、兵頭の半歩前に出た。
「なあ、兵頭」
「どうした?」
「お前…、萩上って覚えてるか?」
「萩上?」
「うん、萩上千鶴。中学の時の」
 兵頭は「うん?」と首を傾げた。
 歩きながら天を仰いで記憶をたどり、ようやく「ああ、萩上ね」と思い出す。
「あいつ、可愛かったよなあ。胸もなかなかでかいし、プールの授業一緒にできた奴は羨ましいよな」
 不可抗力で見てしまった萩上の胸の形を思い出した。兵頭は萩上の記憶が中学の時で止まっているから、あの程度の大きさを「でかい」と言えるのか。いや、思い出補正か。
 あいつについて知っていることを聞こうと思ったが、見当違いだったようだ。仕方が無いか。萩上の進学した高校と、こいつの進学した高校の偏差値は、月と鼈だったから。
「で、萩上がどうかしたのか?」
「いや…、何でもない」僕は適当は嘘をついてごまかした。「そろそろ、同窓会があるだろ? そうしたら、不意に、思い出しただけだよ」
「ああそう」
 兵頭はそれ以上聞いてこなかった。
 汗だくになりながら駅に戻り、切符を買ってホームに戻ろうとしたとき、不意に、ポケットのスマホが震えた。
「どうした?」
「いや、メッセージが入った」
 見ると、明日香からだった。
『今からでもいいから、千鶴の所に行ってくれない? ちゃんと日給は出すからさ』
 とのこと。
 僕は汗ばんだ指で、「無理」と返信した。
「誰から?」
「母さんから。『熱中症に気を付けろ』だってさ」
「あっそ」
 スマホを再びポケットに仕舞う。ホームに電車がやってくる。
 二度と行くかよ。
 僕は心の中でそう吐き捨てると、兵頭と共に電車に乗り込んだ。

 電車は心地よく揺れながら走った。

 暑い中歩き回って、疲れていた僕は、いつの間にかうとうととして、シートに座った状態で首を上下に揺らしていた。兵頭は隣でにやにやとしながらスマホを弄っていた。
 十分ほど走った頃。
 突如、ガクンと、電車全体が大きく揺れた。
「うわ」
 思わず声が洩れる。それから、電車はゆっくりと減速をしながら進んだ。そして、田畑や民家が密集する場所に停止した。
 僕は「着いたのか?」と立ち上がって窓の外を眺めた。しかし、駅は無い。
 見れば、他の乗客も、何事かと言いたげな顔で窓の外を眺めていた。
 車内アナウンスが入る。
『停電が発生しましたので、緊急停車いたしました。お急ぎのところ申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちください』
 停電か。そりゃそうか。電車だもんな。
 僕は横目で兵頭を見た。
「だ、そうだ」
「なんだよ」誰が悪いというわけでもないのに、兵頭は眉間に皺を寄せた。「帰ってすぐに出品しようと思ってたのに」
「すぐに復旧するだろ」
 僕は悠長に構えると、再びシートに腰を沈めた。
 早く家に帰りたいが、停電なら仕方がない。このまま再発進を待つとしよう。
 たかが十数分の待機だと思っていた。しかし、三十分経っても、電気が復興する事は無かった。
 場所が障害物の無い場所なので、太陽光が容赦なく電車を照らし、中を暖炉のように熱する。息を吸い込んだだけで、むしむしとした空気が肺に流れ込んだ。
 車掌が窓を開けてくれたが、気休めにしかならない。
「暑いなあ…」
 シャツをパタパタと仰ぎながら、兵頭が言った。首筋に玉のような汗をかいている。
 僕も頬を伝う汗を拭った。
 暑い。ただそれだけ。電気が無いだけで、こんなに暑いんだな。暖房も冷房も無い時代に生きた人たちを尊敬する。
 そう思うと同時に、視界にかぶさるようにして、萩上の姿がフラッシュバックした。
「……」
 あいつ…、大丈夫かな?
 そう思った瞬間、慌てて首を横に振って、その考えを振り払った。
 兵頭がびっくりして僕を見る。
「急に何やってんの? 気持ち悪い」
「ああ、ごめん」
 田んぼの上を滑り、湿気を含んだ風が車内に入り込んできた。土臭さと、水の生臭さが混じった、野性的な香り。頬を撫でれば、すうっと涼しくなる。
 車内アナウンスが「電気が復旧しましたので、安全確認を行い次第発射します」と言った。
 それから三十分後、電車は動き出した。