「なんだよ」
僕は文句を言ってやろうと思った。
いくら給料が出るとは言え、僕は彼女の「世話役」とは言え、調子に乗り過ぎだ。人を顎で使うのは百歩譲っていいとして、顔におにぎりを投げるのはいくら何でも常識を疑う。
「さっきからなんだよ! こっちは場の雰囲気を和ませようと気を使ってんだよ! お前ももう少し気を利かせて、愛想笑いくらいしろよ!」
そう叫んでから、僕はすぐに口を噤んだ。
萩上の目が、真っ赤に充血していたからだ。
「……」
萩上は肩を竦めて、腹の底から込み上げてくる震えを必死で抑えているようだった。コトコトと怒りが沸騰して、それが今にも爆発しそうになり、それを、奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばって耐えている。
あふれ出した怒りは、目に溜まっていき、きらりと光って彼女の頬を滑り落ちた。
「な、なんだよ…」泣き顔を見せられたら、僕も怒りの持っていく場所を見失ってしまう。「怒りたいのはこっちだよ…」
その瞬間、彼女は未開封のおにぎりを握り締めた。
ぐちゃっと、彼女の握力でおにぎりがつぶれる。
それを、思い切り投げつけてきた。
「うわ!」
脳天に潰れたおにぎりが直撃。意外に痛かった。
怯んだ僕は、情けなく腰を打ち付ける。
その上に萩上が馬乗りになった。
萩上は言葉にならない叫び声をあげて、僕の頭に爪を突き立てる。
ガリッと鋭い痛みが走った。
「何するんだよ!」
僕は反射的に、彼女の手を振り払って、突き飛ばしていた。
あまりにも軽い彼女の身体は、いとも簡単に吹き飛び、部屋の壁に激突した。喉の奥から、カエルの鳴き声のような呻き声を発する。
取っ組み合いで、萩上のパジャマのボタンが数個ちぎれたようで、下着も着けていない彼女の白い胸がはだけた。
そんなのも気にせず、萩上は手をついて身体を起こす。そして、上体をのけ反らせると、思い切り、絨毯の敷かれた床に頭突きをした。
ゴツン!
と鈍い音が響く。
「うう…、うう、、ううううう…」
獣のような唸り声をあげる萩上。間髪入れず、数回、頭蓋を床に叩きつける。その度に、ゴツン、ゴツンと耳を塞ぎたくなるような音が部屋に響いた。
「おい、やめろ」
彼女の自傷行為をすぐに止めに入った。
しかし、頭に血が上っているのか、萩上は手をめちゃくちゃに振って僕の頬を引っ掻いた。
「っ!」
頬が熱くなり、思わず身を引く。
萩上は、床への頭突きを辞めた。だが、まだ蹲って獣のように唸っていた。髪の毛をガリガリと掻きむしり、ぶつぶつと何かを呟く。
「萩上?」
僕の声は聞こえていないようだった。
萩上は蹴り飛ばされたように立ち上がると、部屋の押入れの扉を勢いよく開けた。
押入れの奥に手を突っ込むと、中から何かを握って取り出した。
萩上が押入れから取り出したもの。
それは、カッターナイフだった。
「萩上!」
僕は彼女がこれから何をしようとしているのか予想ができた。
萩上は、チキチキとカッターナイフの鈍い色をした刃を出すと、それを自分の首に押し当てて、一気に喉を掻っ切る。
とはならなかった。
「あああ!」
ナイフを、思い切り絨毯に突き刺したのだ。
「うう、うう! ああ! うううう!」
ガリガリ、ガリガリと、絨毯をカッターナイフで切り裂く。
絨毯は適度な厚さを持っていたため、刃がフローリングに届くことは無かった。しかし、表面のポリエステルの繊維が切り裂かれて、綿のように掻きだされていた。
「おい、萩上。絨毯が痛むぞ」
「うるさい!」
僕の心配を一蹴すると、萩上は、傍に置いてあった僕の大学の参考書を手に取った。
「おい!」
僕の静止の声も無視して、萩上はナイフを振り上げる。
そして、参考書の表紙に勢いよく突き刺した。
それを見た瞬間、僕の胸はチクリと痛くなった。
あーあ、あの参考書、高かったんだけどな。
「萩上…」
萩上は相変わらず、獣のように呻きながら、ガリガリと参考書の表紙を切り裂いていった。絨毯と同じように、シュレッダーのように細かく切り刻まれた紙が、くるくると巻かれながら飛び出してくる。一瞬で、僕の参考書の表紙はズタズタにされ、使い物にならなくなった。
その時、先ほど僕が片づけた新聞紙の切れ端のことが頭に過った。
ああ、そうか。
部屋を埋め尽くしていたあのゴミは、彼女のこれが原因で出たものなのか。
彼女は十分ほど、僕の参考書と絨毯をナイフで傷つけた。
そして、僕の参考書が見る影もなく粉々に切り裂かれたころになると、ことんと動きを止めた。
ナイフが手から落ちる。強く握りしめていたおかげで、手の中は鬱血して青くなっていた。
顔は紅潮し、肩で息をする萩上。
僕はそっと手を伸ばして、落ちたカッターナイフを拾い上げた。
その時、彼女の手から血が流れ落ちていることに気が付く。
「手、切ってるよ?」
「うるさい!」萩上は金切り声を上げた。「帰って! 来るな!」
ズタズタになった参考書を掴むと、思い切り投げてきた。紙一重で躱す。
参考書は、壁に当たって、ごとっと落ちた。僕はソレを拾い上げて、ため息交じりに頷く。
「……わかったよ」
しぶしぶ頷いて、僕は彼女に背を向けた。そして、そのまま部屋を出ていった。
アパートへの帰り道、僕はナップサックから、「萩上千鶴取扱説明書」を取り出すと、もう一度読み返した。
第三十二条「萩上千鶴が万が一癇癪を起こした場合、新聞紙等の『破壊してもよいもの』を与えること。それを常備することを忘れないこと」
「……」
最初は何のことを言っているのかさっぱりだったが、合点が言った。
「明日香…、もう少し口頭で説明してくれないか…」
おかげで参考書が犠牲になった。
まあ、いいか。
僕はちらりと、萩上のアパートの方を振り返った。
もう二度と来ることは無い。
僕は文句を言ってやろうと思った。
いくら給料が出るとは言え、僕は彼女の「世話役」とは言え、調子に乗り過ぎだ。人を顎で使うのは百歩譲っていいとして、顔におにぎりを投げるのはいくら何でも常識を疑う。
「さっきからなんだよ! こっちは場の雰囲気を和ませようと気を使ってんだよ! お前ももう少し気を利かせて、愛想笑いくらいしろよ!」
そう叫んでから、僕はすぐに口を噤んだ。
萩上の目が、真っ赤に充血していたからだ。
「……」
萩上は肩を竦めて、腹の底から込み上げてくる震えを必死で抑えているようだった。コトコトと怒りが沸騰して、それが今にも爆発しそうになり、それを、奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばって耐えている。
あふれ出した怒りは、目に溜まっていき、きらりと光って彼女の頬を滑り落ちた。
「な、なんだよ…」泣き顔を見せられたら、僕も怒りの持っていく場所を見失ってしまう。「怒りたいのはこっちだよ…」
その瞬間、彼女は未開封のおにぎりを握り締めた。
ぐちゃっと、彼女の握力でおにぎりがつぶれる。
それを、思い切り投げつけてきた。
「うわ!」
脳天に潰れたおにぎりが直撃。意外に痛かった。
怯んだ僕は、情けなく腰を打ち付ける。
その上に萩上が馬乗りになった。
萩上は言葉にならない叫び声をあげて、僕の頭に爪を突き立てる。
ガリッと鋭い痛みが走った。
「何するんだよ!」
僕は反射的に、彼女の手を振り払って、突き飛ばしていた。
あまりにも軽い彼女の身体は、いとも簡単に吹き飛び、部屋の壁に激突した。喉の奥から、カエルの鳴き声のような呻き声を発する。
取っ組み合いで、萩上のパジャマのボタンが数個ちぎれたようで、下着も着けていない彼女の白い胸がはだけた。
そんなのも気にせず、萩上は手をついて身体を起こす。そして、上体をのけ反らせると、思い切り、絨毯の敷かれた床に頭突きをした。
ゴツン!
と鈍い音が響く。
「うう…、うう、、ううううう…」
獣のような唸り声をあげる萩上。間髪入れず、数回、頭蓋を床に叩きつける。その度に、ゴツン、ゴツンと耳を塞ぎたくなるような音が部屋に響いた。
「おい、やめろ」
彼女の自傷行為をすぐに止めに入った。
しかし、頭に血が上っているのか、萩上は手をめちゃくちゃに振って僕の頬を引っ掻いた。
「っ!」
頬が熱くなり、思わず身を引く。
萩上は、床への頭突きを辞めた。だが、まだ蹲って獣のように唸っていた。髪の毛をガリガリと掻きむしり、ぶつぶつと何かを呟く。
「萩上?」
僕の声は聞こえていないようだった。
萩上は蹴り飛ばされたように立ち上がると、部屋の押入れの扉を勢いよく開けた。
押入れの奥に手を突っ込むと、中から何かを握って取り出した。
萩上が押入れから取り出したもの。
それは、カッターナイフだった。
「萩上!」
僕は彼女がこれから何をしようとしているのか予想ができた。
萩上は、チキチキとカッターナイフの鈍い色をした刃を出すと、それを自分の首に押し当てて、一気に喉を掻っ切る。
とはならなかった。
「あああ!」
ナイフを、思い切り絨毯に突き刺したのだ。
「うう、うう! ああ! うううう!」
ガリガリ、ガリガリと、絨毯をカッターナイフで切り裂く。
絨毯は適度な厚さを持っていたため、刃がフローリングに届くことは無かった。しかし、表面のポリエステルの繊維が切り裂かれて、綿のように掻きだされていた。
「おい、萩上。絨毯が痛むぞ」
「うるさい!」
僕の心配を一蹴すると、萩上は、傍に置いてあった僕の大学の参考書を手に取った。
「おい!」
僕の静止の声も無視して、萩上はナイフを振り上げる。
そして、参考書の表紙に勢いよく突き刺した。
それを見た瞬間、僕の胸はチクリと痛くなった。
あーあ、あの参考書、高かったんだけどな。
「萩上…」
萩上は相変わらず、獣のように呻きながら、ガリガリと参考書の表紙を切り裂いていった。絨毯と同じように、シュレッダーのように細かく切り刻まれた紙が、くるくると巻かれながら飛び出してくる。一瞬で、僕の参考書の表紙はズタズタにされ、使い物にならなくなった。
その時、先ほど僕が片づけた新聞紙の切れ端のことが頭に過った。
ああ、そうか。
部屋を埋め尽くしていたあのゴミは、彼女のこれが原因で出たものなのか。
彼女は十分ほど、僕の参考書と絨毯をナイフで傷つけた。
そして、僕の参考書が見る影もなく粉々に切り裂かれたころになると、ことんと動きを止めた。
ナイフが手から落ちる。強く握りしめていたおかげで、手の中は鬱血して青くなっていた。
顔は紅潮し、肩で息をする萩上。
僕はそっと手を伸ばして、落ちたカッターナイフを拾い上げた。
その時、彼女の手から血が流れ落ちていることに気が付く。
「手、切ってるよ?」
「うるさい!」萩上は金切り声を上げた。「帰って! 来るな!」
ズタズタになった参考書を掴むと、思い切り投げてきた。紙一重で躱す。
参考書は、壁に当たって、ごとっと落ちた。僕はソレを拾い上げて、ため息交じりに頷く。
「……わかったよ」
しぶしぶ頷いて、僕は彼女に背を向けた。そして、そのまま部屋を出ていった。
アパートへの帰り道、僕はナップサックから、「萩上千鶴取扱説明書」を取り出すと、もう一度読み返した。
第三十二条「萩上千鶴が万が一癇癪を起こした場合、新聞紙等の『破壊してもよいもの』を与えること。それを常備することを忘れないこと」
「……」
最初は何のことを言っているのかさっぱりだったが、合点が言った。
「明日香…、もう少し口頭で説明してくれないか…」
おかげで参考書が犠牲になった。
まあ、いいか。
僕はちらりと、萩上のアパートの方を振り返った。
もう二度と来ることは無い。