この日の放課後、俺は岡ちゃんに言われた通り律儀に社会科準備室に向かった。廊下を歩きながら、こんな手伝いをやる義理なんてないんだからバックレてしまおうとも一瞬考えたけれども、あの岡ちゃんの穏やかな笑顔を思い出すと実行に移すのはさすがに気が引けた。
社会科準備室に着き、扉を開くとまず部屋の両サイドにある本が隙間なく詰まり、天井まで届くような高さの二つの大きな本棚に目が留まった。そんな本棚のせいで大人一人が横になれるかわからないような狭い部屋の中央には長机が置かれ、その上は無造作に置かれた書類やファイルが無造作に散らかっており、床はぎっしりと中身の詰まったダンボール箱が所狭しに山積みになっていた。そんな部屋には今開けた入り口の他に通気口のような小さな窓が一つ奥についているだけであり、映画で見た刑務所の懲罰房のような圧迫感を覚えた。
部屋の入口でこれから行う作業の面倒さに立ち尽くしていると、部屋の隅っこの方でしゃがみこんでいた岡ちゃんが立ち上がりこちらを見た。
「来てくれてありがとうね」
小柄な岡ちゃんがすっかり見えなくなるような散らかり具合に唖然とした。ああ、このまま回れ右をして帰ってしまいたい。
「いくら何でも散らかりすぎじゃないですか?」
「そうだねえ。前任者が大分適当な人だったみたいなんだよ」
「それなら岡ちゃんじゃなくてその人にやらせるべきだったんじゃないですか?」
「それがだねえ。その人は定年退職しちゃって僕が担当になってしまったんだよ」
岡ちゃんは苦笑いを浮かべ、先ほどまで中身を確認していたであろう重そうなダンボール箱を指差して「来てごらん」と手招きをした。
「この箱に入っている一番上の書類を見てごらん」
その端っこが黄ばみがっているホチキス留めの書類には「政治経済の指導要領改訂について」と書かれていた。
「これがどうしたんですか?」
「問題はこの下の書類だよ」
先ほどの書類を取り出し、その下のものを見ると今度は「W大学世界史論述問題の傾向について」という分厚い書類が出て来た。まさかと思い、さらにその下の書類を見ると今度は「(校外秘)弊校中等部社会科入学試験問題解答」と書かれていた。
「お気づきかもしれないけど書類が全部ありえないぐらいバラバラなんだよ…」
あまりの前任者の適当さに言葉を失った。教師というのは生徒を指導し、お手本となるような存在であるものではないのか。もちろん全ての教師がそんなわけではなく個人差はあるはずだ。だけれども、共用のものをひどく無下に扱わない、他の人に気を使うような部分。最低限の人としての常識は保証されているという幻想が打ち砕かれた。
「でも、岡ちゃん。もう使われていないようだし全部捨てちゃっていいんじゃないんですか?」
「僕もそうしたいんだけどもね。校長と社会科の主任が捨てるなってね…」
「もしかして、これを全部整理するんですか…?」
岡ちゃんは俺の方を憐れみの目で見つめ、ゆっくりと首を縦に振った。
「いくら何でもやってらんないですよ!」
バカ野郎の前任者への怒りと呆れを吐き出すように嘆いた。こんな資料室として最悪の状態を整理するのは俺がこの学校を卒業するまでに終えることができるのかさえ怪しいレベルだ。
「貧乏くじを引いた者同士がんばろうじゃないか」
岡ちゃんは俺の肩を叩いて励ました。バックレてやりたいという思いが最高潮に達したのと同時に岡ちゃんの小柄なヒョロヒョロとした体形を見ると同情の気持ちも同じぐらいに高まった。
「わかりましたよ。やりますって…」
岡ちゃんじゃなければ迷わずバックレていた。頼まれた相手が岡ちゃんだから俺は引き受けたんだ。半ば自棄になったようにそう心の中で自分に言い聞かせた。
まずは本格的な移転作業の前に無造作な書類を種類ごとにファイルにまとめることにした。教育委員会からの通達、大学入試対策、この学校の入試に関する資料、等々。これら科目ごと、さらには年度ごとにまとめることになった。途方もないような作業にため息を吐いた。
とりあえず一つのダンボール箱を開け、書類を科目と内容ごとに分け始めた。二人で単純作業を続けていくうちに無言になっていった。沈黙が気まずくなったのか岡ちゃんが話し始めた。
「そういえば今日の授業はどうだった?」
漠然とした質問を投げかけられ、作業の手を止め岡ちゃんと目を合わせた。相変わらず穏やかな表情を浮かべている。少し考えてから俺は言う。
「興味深い内容でしたよ」
「そっかあ。興味を持ってくれて良かったよ」
無難でありきたりな感想を述べたにも関わらず、岡ちゃんは嬉しそうに話す。
「毎年ね。この単元をやるときは生徒たちにどう伝えていいか悩ましいところだからね」
「そんなにアイデンティティでしたったけ?他の内容よりも授業するのに苦労するんですか?」
「やっぱりね。若者に対して自分は何者であるかっていう話は難しいよ」
「そうなんですね」
そんな返事をしてお互いに会話が途切れた。そして、黙々とそれぞれの作業に戻り、しばらく間を置いたところで岡ちゃんは「あのさ」と切り出した。
「ちなみに君にとってのアイデンティティは何だい?」
俺は作業の手を止めて岡ちゃんの顔を見た。相変わらず人の良さそうな表情をしている。少し考えても何て言ってよいのかわからずとりあえず俺は言う。
「わからないです」
岡ちゃんは授業のときと同じようにうんうんと頷いた。
「そうか。そうか」
そう言うと、今日はこれ以上倫理の話はしなくなり、最近のテレビ番組の話題やプロ野球の話で盛り上がった。二人で適当な雑談をしながら作業をしているとチャイムが鳴った。ポケットからスマホを取り出し時刻を見るともう六時であった。そんな時間になっていることに気づかなかった。通気口のような小窓を見上げると太陽の光は差しておらず、曇りガラスが夕暮れ色に染まっていた。
「もう遅い時間だ。今日はこの辺までにしておこう。手伝ってくれてありがとうね」
「お疲れ様です」
と、荷物をまとめて、頭を軽く下げて社会科準備室を後にした。昇降口を出ると、西の空は橙色に染まっていた。
あのほとんど壁だけの狭い部屋にいると時間の感覚がわからなくなってしまう。今日は慣れないことをして疲れた。今夜はいつもより早く寝よう。
社会科準備室に着き、扉を開くとまず部屋の両サイドにある本が隙間なく詰まり、天井まで届くような高さの二つの大きな本棚に目が留まった。そんな本棚のせいで大人一人が横になれるかわからないような狭い部屋の中央には長机が置かれ、その上は無造作に置かれた書類やファイルが無造作に散らかっており、床はぎっしりと中身の詰まったダンボール箱が所狭しに山積みになっていた。そんな部屋には今開けた入り口の他に通気口のような小さな窓が一つ奥についているだけであり、映画で見た刑務所の懲罰房のような圧迫感を覚えた。
部屋の入口でこれから行う作業の面倒さに立ち尽くしていると、部屋の隅っこの方でしゃがみこんでいた岡ちゃんが立ち上がりこちらを見た。
「来てくれてありがとうね」
小柄な岡ちゃんがすっかり見えなくなるような散らかり具合に唖然とした。ああ、このまま回れ右をして帰ってしまいたい。
「いくら何でも散らかりすぎじゃないですか?」
「そうだねえ。前任者が大分適当な人だったみたいなんだよ」
「それなら岡ちゃんじゃなくてその人にやらせるべきだったんじゃないですか?」
「それがだねえ。その人は定年退職しちゃって僕が担当になってしまったんだよ」
岡ちゃんは苦笑いを浮かべ、先ほどまで中身を確認していたであろう重そうなダンボール箱を指差して「来てごらん」と手招きをした。
「この箱に入っている一番上の書類を見てごらん」
その端っこが黄ばみがっているホチキス留めの書類には「政治経済の指導要領改訂について」と書かれていた。
「これがどうしたんですか?」
「問題はこの下の書類だよ」
先ほどの書類を取り出し、その下のものを見ると今度は「W大学世界史論述問題の傾向について」という分厚い書類が出て来た。まさかと思い、さらにその下の書類を見ると今度は「(校外秘)弊校中等部社会科入学試験問題解答」と書かれていた。
「お気づきかもしれないけど書類が全部ありえないぐらいバラバラなんだよ…」
あまりの前任者の適当さに言葉を失った。教師というのは生徒を指導し、お手本となるような存在であるものではないのか。もちろん全ての教師がそんなわけではなく個人差はあるはずだ。だけれども、共用のものをひどく無下に扱わない、他の人に気を使うような部分。最低限の人としての常識は保証されているという幻想が打ち砕かれた。
「でも、岡ちゃん。もう使われていないようだし全部捨てちゃっていいんじゃないんですか?」
「僕もそうしたいんだけどもね。校長と社会科の主任が捨てるなってね…」
「もしかして、これを全部整理するんですか…?」
岡ちゃんは俺の方を憐れみの目で見つめ、ゆっくりと首を縦に振った。
「いくら何でもやってらんないですよ!」
バカ野郎の前任者への怒りと呆れを吐き出すように嘆いた。こんな資料室として最悪の状態を整理するのは俺がこの学校を卒業するまでに終えることができるのかさえ怪しいレベルだ。
「貧乏くじを引いた者同士がんばろうじゃないか」
岡ちゃんは俺の肩を叩いて励ました。バックレてやりたいという思いが最高潮に達したのと同時に岡ちゃんの小柄なヒョロヒョロとした体形を見ると同情の気持ちも同じぐらいに高まった。
「わかりましたよ。やりますって…」
岡ちゃんじゃなければ迷わずバックレていた。頼まれた相手が岡ちゃんだから俺は引き受けたんだ。半ば自棄になったようにそう心の中で自分に言い聞かせた。
まずは本格的な移転作業の前に無造作な書類を種類ごとにファイルにまとめることにした。教育委員会からの通達、大学入試対策、この学校の入試に関する資料、等々。これら科目ごと、さらには年度ごとにまとめることになった。途方もないような作業にため息を吐いた。
とりあえず一つのダンボール箱を開け、書類を科目と内容ごとに分け始めた。二人で単純作業を続けていくうちに無言になっていった。沈黙が気まずくなったのか岡ちゃんが話し始めた。
「そういえば今日の授業はどうだった?」
漠然とした質問を投げかけられ、作業の手を止め岡ちゃんと目を合わせた。相変わらず穏やかな表情を浮かべている。少し考えてから俺は言う。
「興味深い内容でしたよ」
「そっかあ。興味を持ってくれて良かったよ」
無難でありきたりな感想を述べたにも関わらず、岡ちゃんは嬉しそうに話す。
「毎年ね。この単元をやるときは生徒たちにどう伝えていいか悩ましいところだからね」
「そんなにアイデンティティでしたったけ?他の内容よりも授業するのに苦労するんですか?」
「やっぱりね。若者に対して自分は何者であるかっていう話は難しいよ」
「そうなんですね」
そんな返事をしてお互いに会話が途切れた。そして、黙々とそれぞれの作業に戻り、しばらく間を置いたところで岡ちゃんは「あのさ」と切り出した。
「ちなみに君にとってのアイデンティティは何だい?」
俺は作業の手を止めて岡ちゃんの顔を見た。相変わらず人の良さそうな表情をしている。少し考えても何て言ってよいのかわからずとりあえず俺は言う。
「わからないです」
岡ちゃんは授業のときと同じようにうんうんと頷いた。
「そうか。そうか」
そう言うと、今日はこれ以上倫理の話はしなくなり、最近のテレビ番組の話題やプロ野球の話で盛り上がった。二人で適当な雑談をしながら作業をしているとチャイムが鳴った。ポケットからスマホを取り出し時刻を見るともう六時であった。そんな時間になっていることに気づかなかった。通気口のような小窓を見上げると太陽の光は差しておらず、曇りガラスが夕暮れ色に染まっていた。
「もう遅い時間だ。今日はこの辺までにしておこう。手伝ってくれてありがとうね」
「お疲れ様です」
と、荷物をまとめて、頭を軽く下げて社会科準備室を後にした。昇降口を出ると、西の空は橙色に染まっていた。
あのほとんど壁だけの狭い部屋にいると時間の感覚がわからなくなってしまう。今日は慣れないことをして疲れた。今夜はいつもより早く寝よう。