メロンパンも食べ終わり、音楽プレイヤーも次の曲に差し掛かりそうになったとき、玄関の扉が開く音が聞こえた。そのまま階段を上る足音が聞こえてきたと思ったときには自室の扉が開かれた。リクルートスーツを着て長い髪を後ろに結った就活スタイルの秋穂が入って来た。
「ただいまー。玄関に靴あったから来たけど早退したの?」
「ああ。熱っぽくて」
急いでイヤホンを耳から外しそう言うと、秋穂は訝し気な目で俺を見つめた。
「本当?その割には元気そうだけどね」
ベッドで寝てないで椅子に座り耳にイヤホンを付けていたら疑うのは無理がないだろう。秋穂はしばらく俺の方を見つめてどうしたものかと考えているようだが、気だるげに結っているヘアゴムを外して言う。
「まあでも、あんたもあんまりサボりすぎるんじゃないよ」
普段は口うるさい姉だが、今日は珍しくそれ以上の追求はなかった。恐らく秋穂は就活で疲れているのだろう。数ヶ月前から連日休みなくスーツを着て多くの企業に出向いているのだが、肝心な内定は未だに一つもない。面接の通過や不採用通知のメールが来る度に一喜一憂していて気が休まるときがないのだ。
そのため家に居るときに弟のことを気に掛ける余裕もないに違いない。今の俺にとっては好都合ではあるが、そんな口うるさい姉が俺のことを問い詰めなければならない仮病という重罪を見逃そうとしているぐらいに疲労していることに少し心配になった。
秋穂が部屋から出ると再びイヤホンを耳に付けた。部屋の壁に立てかけられている時計を見ると時刻はちょうど午後一時であった。もうそろそろ午後の授業が始まるころだろうか。体育館での教師への反抗で帰ろうとしたとき、クラスメイトたちはざわめき、教師からの怒鳴り声が背中から聞こえていたのを思い出す。
あのときはちょっとした騒ぎにもなり、きっと昼休みにはクラスで俺の行動の話題で持ち切りだっただろう。けれど、昼休みが終わればそんな事件の騒ぎも収まって気にしなくなるはずだ。明日の朝、俺が登校すれば思い出したかのように再び騒ぎ出すけれどもそれは一瞬で収まり再びいつも通りの日常に戻るだろう。
結局は「繰り返し」なのだ。朝起きて学校で授業を受けて帰宅して寝る。一人ひとりがそれを行い、それがクラスで、そして学校全体に広がりその「繰り返し」が巨大な波となっているだけだ。俺一人が「例外」を行ってもそんな当たり前の波は消えることはないし、ほとんどの人間はその波から溢れた俺を気にかけることはないだろう。
音楽をストリーミングしながらグダグダしている内に日は暮れて夕食時になった。一階のリビングに降りると、テーブルには二人分のご飯と味噌汁と焼き魚が置かれていた。
「もうできてるから座って食べて」
そうキッチンで立っている秋穂に言われて席に座り、しばらくして秋穂も向かい側に座るとお互いに「いただきます」と言って食べ始めた。
先ほどのこともあってお互いに無言で食べ進め、リビングではテレビのバラエティー番組のひな壇芸人の大きな笑い声が聞こえているだけだった。しばらくしてから秋穂は俺の方を見つめて伺うように「あのさ」と話を切り出した。
「あんたが今日ずる休みしたかどうかは聞かないけどさ、天国のお母さんを悲しませることするんじゃないよ」
秋穂は亡くなった母さんのことを持ち出し、俺の良心に訴えかけるように語りかけた。「ああ、わかったよ」と反駁することなく短く返事をして、黙々と夕食を食べ続けた。
今回は素直にするという選択肢を取った。もちろん後悔はなかった。後悔がなければ体育の授業のときだって素直に謝れば良かったのかもしれない。あのときの行動を後悔しているわけではない。けれども、しばらく真面目に大人しく過ごそうと思った。
次の日の朝、正門をくぐると校舎の渡り廊下にかけられている巨大な懸垂幕がいつものように目に入った。「難関国立大学現役合格32名」「最難関私立大学現役合格47名」と赤色で進学実績を誇示するようなことが大きく書かれている。
俺には関係のないことだが入学してから今日に至るまで登校の度に目に入るこの懸垂幕はどうも好きになれない。
昇降口を抜け、教室の扉を開くとすでに登校しているクラスメイトたちが黙って俺の方を若干睨むように見た。そしてすぐに何事もなかったかのように目を逸らして各々の談笑に戻った。
教室に入り、自分の座席に座ると「おはよう」と横から肩を叩かれた。顔を上げると友人の忠之が立っていた。
「昨日はすごかったな」
忠之は人当たり良く笑ってはいたが心配そうに言った。
「俺が帰った後なんかあったのか?」
そう聞くと忠之はため息を吐いた。
「飛鳥が昨日帰ったせいで、とばっちりで僕たちが体育の授業中この学年は締まりがないってキレられたんだからな」
「俺の代わりにみんなが怒られたのかよ」
「本当に授業の半分は体育座りで過ごしたよ」
笑いながらも恨みごとを言う忠之に「ごめん」と小さく謝った。
「だから今日は朝から顰蹙を買っているのか」
「さすがにみんなドン引きだよ」
ヒソヒソとそんなことを話していると担任教師の斉藤が鋭い目つきで威嚇するように教室に入って来た。
「みんな座れ!ホームルームだ」
いつもよりドスの効いた声で皆を座らせると教室の生徒たちを睨むように見渡した。二十代の熱血男性教師のその迫力に教室は一瞬で静まり返り、緊張が走った。
「誰とは言わないが、最近態度が悪い生徒がいるらしい。さっきも俺が来るまでべらべら喋って怒鳴らないと席に着けない。そういう甘ったれた空気が態度に出て来るんだ!」
やはり説教か。心の中でため息を吐いた。
「お前らは今、二年生で来年はもう受験だぞ?いい加減自覚持てよな。お前ら社会を舐めるんじゃねえぞ?そういう和を乱すやつはいらねえからな!」
檄を飛ばし、その後も社会の厳しさの話やこの学校は進学校だからこそ全員一致団結して団体戦で受験を乗り切らないといけないんだと長々とホームルームの時間を目一杯使い切り、説教を終えると先ほど「誰とは言わない」と言っておきながら俺のことを睨みつけた。
きっと斉藤は昨日の一件を知っていて、俺だけの問題にするのではなくクラス全体の問題にすることで皆を牽制しているのだろう。そのせいで一部のクラスメイトの視線を感じていた。
重苦しいホームルームを終え、次の倫理の授業が移動教室なので教材を持って廊下を歩いていると隣の忠之がわき腹を小突いた。
「みんなの前で怒ってたけど、内容は飛鳥へのお説教だな」
「公開処刑もいいところだ」
「少しぐらいは反省してるかと思ったよ」
「まあ、してますよ」
そう言うと忠之は「社会を舐めるんじゃねえぞ」と先ほどの斎藤の真似をしてみせて俺たちは笑いながら教室に着いた。自分の座席に座り、ノートと教科書を置いてしばらく待っていると、倫理担当の岡ちゃんが教材と一緒に大きめの箱のようなものを抱えて入って来た。
「はい。それじゃあ始めるよ」
大荷物を教卓に置いた岡ちゃんは低い声でありながらも穏やかさのある声でまだ立っている生徒を席に座らせた。
担任の斉藤は若々しさを武器に威圧的な態度で生徒に対して接するけども、岡ちゃんは小柄で頭に白髪が混じっているような頼りない見た目だ。
どんな生徒にも物腰が低いけれども、みんなは岡ちゃんが話すし出すとどんなにうるさい教室でもピタリと静かになるような不思議な魅力を持った人だ。
「今日は授業に入る前にちょっとお願いがあってね。今度の校舎の改修工事で社会科準備室の資料の移転作業をしないといけなくて、これからしばらくお手伝いさんを生徒から一人選びたいんだ。やりたい人はいるかな?」
岡ちゃんが教室全体を見回しても誰一人として手を挙げない。そんな明らかに面倒な肉体労働を何の対価もなく引き受けるやつなんているわけがない。岡ちゃんはこの沈黙を予想していたようで「それなら」と先ほどの箱を皆に見せた。
「この中にみんなの出席番号が書いてある紙が入っているんだ。僕が中を見ないで引くから引かれた番号の子がお手伝いさんね」
教室では「ええー」とブーイングが起こり、
「ひどいよ、岡ちゃん」
「やだよー」
「それはずるいよ」
といった声があちらこちらから上がった。
「はいはい。落ち着いて。確率的に見たら当たりを引くのは三パーセントぐらいだからそんな心配することはないよ」
生徒たちの抗議の声を笑って受け流し、無慈悲に岡ちゃんは箱の中に手を入れ、一枚の紙を取り出した。
わざわざ放課後に無賃でキツイ仕事の手伝いをさせられるのは勘弁だ。頼むから当たらないでくれ。そんなことを祈ったが、まあ、岡ちゃんも三パーセントと言っていたし、俺になる可能性はないだろうと思わずあくびをしていた。けれど、その油断がいけなかったのか。
「出席番号二十七番。えーと。武蔵飛鳥くんがお手伝いさんになりました。みなさん拍手!」
岡ちゃんの言ったことにあくびで空いたままの口が塞がらない中、俺は昨日の体育のときから恨まれているみんなからのある意味では心からの祝福の拍手を受けていた。
「それじゃあ、今日の放課後からお手伝いよろしくね」
岡ちゃんは穏やかな笑顔を浮かべて俺の顔を見てそう言う。その悪意のない表情を前に、そして平等なクジで決まったことに抗議することはさすがにできなかった。昨日の体育教師への反抗の天罰なのだろうか。だとしても、罪に対して罰が重すぎやしないか。面倒な役目を任されたことに頭を抱えた。
「じゃ、授業に入るよ」
そんな俺をよそに岡ちゃんは黒板に板書を始めた。
「本日の授業のテーマはこれです」
そこには「アイデンティティ」という文字が白のチョークで大きく書かれていた。
「もしかしたらもう既にこの言葉を知っている人もいるかもしれませんね。知っている人は手を挙げてみてください」
俺自身はその言葉を知らなかったが、教室の三分の一ぐらいが手を挙げた。
「それでは田中くん。どういう意味だか答えてくれるかな?」
岡ちゃんが忠之を指名すると、忠之は少し考えるような素振りを見せた。
「自分らしさといったニュアンスですか?」
忠之は少し自信なさげにそう発言すると、岡ちゃんはうんうんと頷いた。
「田中君の言うように自分らしさという意味で合っていますね。でも、この言葉は結構複雑で『自分は何者であるか』といったような問いかけに繋がっていくような大切な概念です」
黒板に端的に岡ちゃんは板書しつつ生徒一人ひとりの顔を伺うように話した。その言葉の一つひとつを丁寧に紡ぐような喋り方に俺を含め全員がいつの間にか聞き入っていた。授業なんて普段は聞き流しているけれども、岡ちゃんの授業だけは他の教科より不思議と聞きたくはなるのだ。
「今、『自分は何者であるか』という話をしましたがその答えがわからない。自分らしさを見失う状態をアイデンティティの喪失と言います。この言葉は教科書だけの言葉ではなく、実際に皆さんのような十代の若者たちはアイデンティティの喪失に悩んでいる人が多いです。今日の授業をきっかけに少しでもこのアイデンティティについて考えてくれると幸いですね」
岡ちゃんの解説を自然と俺はノートに書いていた。もし、倫理の教師が岡ちゃんでなければノートを取るなんてことをしない。
他の科目の担当も岡ちゃんであれば俺は真面目に受けているのだろうか。
この日の放課後、俺は岡ちゃんに言われた通り律儀に社会科準備室に向かった。廊下を歩きながら、こんな手伝いをやる義理なんてないんだからバックレてしまおうとも一瞬考えたけれども、あの岡ちゃんの穏やかな笑顔を思い出すと実行に移すのはさすがに気が引けた。
社会科準備室に着き、扉を開くとまず部屋の両サイドにある本が隙間なく詰まり、天井まで届くような高さの二つの大きな本棚に目が留まった。そんな本棚のせいで大人一人が横になれるかわからないような狭い部屋の中央には長机が置かれ、その上は無造作に置かれた書類やファイルが無造作に散らかっており、床はぎっしりと中身の詰まったダンボール箱が所狭しに山積みになっていた。そんな部屋には今開けた入り口の他に通気口のような小さな窓が一つ奥についているだけであり、映画で見た刑務所の懲罰房のような圧迫感を覚えた。
部屋の入口でこれから行う作業の面倒さに立ち尽くしていると、部屋の隅っこの方でしゃがみこんでいた岡ちゃんが立ち上がりこちらを見た。
「来てくれてありがとうね」
小柄な岡ちゃんがすっかり見えなくなるような散らかり具合に唖然とした。ああ、このまま回れ右をして帰ってしまいたい。
「いくら何でも散らかりすぎじゃないですか?」
「そうだねえ。前任者が大分適当な人だったみたいなんだよ」
「それなら岡ちゃんじゃなくてその人にやらせるべきだったんじゃないですか?」
「それがだねえ。その人は定年退職しちゃって僕が担当になってしまったんだよ」
岡ちゃんは苦笑いを浮かべ、先ほどまで中身を確認していたであろう重そうなダンボール箱を指差して「来てごらん」と手招きをした。
「この箱に入っている一番上の書類を見てごらん」
その端っこが黄ばみがっているホチキス留めの書類には「政治経済の指導要領改訂について」と書かれていた。
「これがどうしたんですか?」
「問題はこの下の書類だよ」
先ほどの書類を取り出し、その下のものを見ると今度は「W大学世界史論述問題の傾向について」という分厚い書類が出て来た。まさかと思い、さらにその下の書類を見ると今度は「(校外秘)弊校中等部社会科入学試験問題解答」と書かれていた。
「お気づきかもしれないけど書類が全部ありえないぐらいバラバラなんだよ…」
あまりの前任者の適当さに言葉を失った。教師というのは生徒を指導し、お手本となるような存在であるものではないのか。もちろん全ての教師がそんなわけではなく個人差はあるはずだ。だけれども、共用のものをひどく無下に扱わない、他の人に気を使うような部分。最低限の人としての常識は保証されているという幻想が打ち砕かれた。
「でも、岡ちゃん。もう使われていないようだし全部捨てちゃっていいんじゃないんですか?」
「僕もそうしたいんだけどもね。校長と社会科の主任が捨てるなってね…」
「もしかして、これを全部整理するんですか…?」
岡ちゃんは俺の方を憐れみの目で見つめ、ゆっくりと首を縦に振った。
「いくら何でもやってらんないですよ!」
バカ野郎の前任者への怒りと呆れを吐き出すように嘆いた。こんな資料室として最悪の状態を整理するのは俺がこの学校を卒業するまでに終えることができるのかさえ怪しいレベルだ。
「貧乏くじを引いた者同士がんばろうじゃないか」
岡ちゃんは俺の肩を叩いて励ました。バックレてやりたいという思いが最高潮に達したのと同時に岡ちゃんの小柄なヒョロヒョロとした体形を見ると同情の気持ちも同じぐらいに高まった。
「わかりましたよ。やりますって…」
岡ちゃんじゃなければ迷わずバックレていた。頼まれた相手が岡ちゃんだから俺は引き受けたんだ。半ば自棄になったようにそう心の中で自分に言い聞かせた。
まずは本格的な移転作業の前に無造作な書類を種類ごとにファイルにまとめることにした。教育委員会からの通達、大学入試対策、この学校の入試に関する資料、等々。これら科目ごと、さらには年度ごとにまとめることになった。途方もないような作業にため息を吐いた。
とりあえず一つのダンボール箱を開け、書類を科目と内容ごとに分け始めた。二人で単純作業を続けていくうちに無言になっていった。沈黙が気まずくなったのか岡ちゃんが話し始めた。
「そういえば今日の授業はどうだった?」
漠然とした質問を投げかけられ、作業の手を止め岡ちゃんと目を合わせた。相変わらず穏やかな表情を浮かべている。少し考えてから俺は言う。
「興味深い内容でしたよ」
「そっかあ。興味を持ってくれて良かったよ」
無難でありきたりな感想を述べたにも関わらず、岡ちゃんは嬉しそうに話す。
「毎年ね。この単元をやるときは生徒たちにどう伝えていいか悩ましいところだからね」
「そんなにアイデンティティでしたったけ?他の内容よりも授業するのに苦労するんですか?」
「やっぱりね。若者に対して自分は何者であるかっていう話は難しいよ」
「そうなんですね」
そんな返事をしてお互いに会話が途切れた。そして、黙々とそれぞれの作業に戻り、しばらく間を置いたところで岡ちゃんは「あのさ」と切り出した。
「ちなみに君にとってのアイデンティティは何だい?」
俺は作業の手を止めて岡ちゃんの顔を見た。相変わらず人の良さそうな表情をしている。少し考えても何て言ってよいのかわからずとりあえず俺は言う。
「わからないです」
岡ちゃんは授業のときと同じようにうんうんと頷いた。
「そうか。そうか」
そう言うと、今日はこれ以上倫理の話はしなくなり、最近のテレビ番組の話題やプロ野球の話で盛り上がった。二人で適当な雑談をしながら作業をしているとチャイムが鳴った。ポケットからスマホを取り出し時刻を見るともう六時であった。そんな時間になっていることに気づかなかった。通気口のような小窓を見上げると太陽の光は差しておらず、曇りガラスが夕暮れ色に染まっていた。
「もう遅い時間だ。今日はこの辺までにしておこう。手伝ってくれてありがとうね」
「お疲れ様です」
と、荷物をまとめて、頭を軽く下げて社会科準備室を後にした。昇降口を出ると、西の空は橙色に染まっていた。
あのほとんど壁だけの狭い部屋にいると時間の感覚がわからなくなってしまう。今日は慣れないことをして疲れた。今夜はいつもより早く寝よう。
次の日の昼休み、俺は五時間目の体育をサボろうと心に決めていた。先日の早退騒動でしばらくは真面目に過ごそうと考えていたが、その意思を曲げる出来事があったのだ。
三時間目と四時間目の休み時間、情報の授業のため情報処理室に向かっていたときだった。情報処理室に向かうには職員室の前を通らなくてはいけなく、何気なく職員室の前を歩いていると半開きの扉から担任の斉藤の声が聞こえてきた。
「武蔵の奴を今日反省させるんですか?」
斉藤の口から俺の名前が出て来たので、思わず立ち止まり耳を澄ました。
「あいつは一昨日私をコケにしたんでね。やり返してやりますよ」
会話の相手は内容と声から察するにあの体育教師だ。やり返す?一体何を話しているんだ?
「今日の五時間目の体育であいつをみんなの前に引きずり出して怒鳴り散らして、全員に向けて大声で謝らせてやるんですよ」
「それはいいですね。あの武蔵も少しはまともになるんじゃないですかね」
一連の会話を聞いた俺は面倒なことだと思い舌打ちをした。その場から立ち去ろうとしたときだった。半開きの扉から斉藤が愚痴を吐くように言った。
「あいつは生意気で嫌いなんですよね。特にあの目つき。大人をバカにしてるように睨んでいるような。もう退学にさせたいですよ」
半開きの職員室の扉を蹴飛ばして閉めると、あの二人が気付いて廊下に出て来る前にと急ぎ足で俺は情報処理室に向かった。
今さら斉藤に嫌われていることは俺にとってはどうでも良かった。ただ、あの二人の教師の思い描く俺を反省させるための罰、自分の知らないところで書かれた台本に踊らされてあいつらを愉悦に浸らせることが腹立たしかった。
忠之と昼食を食べ終え、時計を見ると五時間目の体育が始まるまで三十分ほどであった。クラスメイトたちはちらほら更衣室で制服から体育着に着替え終えている者もいた。やるなら今の内だ。自動販売機で買っておいたオレンジジュースの缶を片手に昼休みの賑やかな教室を人知れず抜け出した。
クラスメイトや巡回の教師に見つからないように階段を上り、埃の溜まった踊り場の錆びついた屋上への扉を開けた。本来であれば屋上は生徒の出入りが禁止されており、扉にも鍵がかかっているのだが、以前、扉をガチャガチャと動かしたら年季が入っているせいか開いてしまったのだ。それ以来、手ごろな隠れ場所として時折利用している。
扉を開けると、雲一つない快晴の空の下フェンスに囲まれた屋上出た。そのまま屋上の中央まで歩くき、その場に座りこんだ。持って来た缶ジュースのプルタブを開け一気に喉の奥へ流し込んだ。美味い。柑橘の甘さと酸っぱさ以上にしがらみからの解放感がその味を引き立てているようだ。飲み干すと俺は横になった。ごつごつした床の寝心地はお世辞にも良いとは言えないが、静かに一人きりになれるのは幸いであった。気持ちの良い天気にあくびを一つした。身体が沈むように目を閉じた。
風が吹き、屋上を取り囲んでいる朽ちたフェンスの軋む音が耳に届き、目を覚ました。快晴の太陽の眩しさにもう一度目を瞑った。
やはり昼食後はどうも眠くなってしょうがない。仰向けになりながらまどろみの目を擦ると制服のズボンのポケットに手を突っ込み、タバコと百円ライターを取り出した。
出の悪いライターと少しばかり格闘するもタバコに火をつけゆっくりと吸い込んだ。喉が焼けるような気がしたが、またゆっくりと煙を吐き出した。
授業を威風堂々サボるにはやはり屋上は丁度良い場所であった。ここは教師の巡回もなく、平然と軽犯罪を行うことができるのだから。しかも、朝の天気予報では梅雨なのに奇跡的に一日晴れの予報だ。
薄目を開けながらもう一度煙を吐き出した。その煙を見て、発射された核ミサイルから景気よく吐き出された真っ赤な炎とおどろおどろしい噴煙を想起した。なぜこんなことを想像したのかはわからない。けれども青空から放物線を描いた弾頭が大地に突き刺さった瞬間、何が起きたかわからないまま強烈な光と熱風に包まれ死んでゆくイメージが頭に浮かんだ。
だけど、そんな妄想がすぐにバカバカしくなってきた。そして、再び眠くなってきたため転がっているジュースの空き缶を灰皿にしてタバコの火を消し、目を閉じ眠りに落ちようとしたときだった。
「武蔵飛鳥くん。いけないんだ!屋上は生徒立ち入り禁止だよ!」
自分の名前を呼ばれてまさか教師が巡回で来たのかと思い、寝ぼけたまま声のする方を向くと、制服に身を包み長い髪をなびかせた見知らぬ女子が一人。
周囲を見ても俺ら二人以外はこの屋上には誰もいない。なんだ、教師じゃないか。声の主はいたずらな笑顔を浮かべながらこちらを見ている。誰だろうか。てか、あんたも生徒だろ。まあいい、気にせずもう一度眠ろうと目を瞑ったときだった。
「あ、そうだ」
と彼女は声を上げた。
「今日はこれから雨が降るらしいね」
晴れの天気予報でこんな雲一つない快晴の空の下、何を言っているんだろうか。「天気予報の見間違いじゃないのか」と反論しようと思ったけれども、眠さと気だるさが勝り、そんな疑問をぶつけず、見知らぬ女子に「ああ、わかったよ」と面倒くさそうに言うと、この女子はいたずらな笑顔から急に澄ました表情を浮かべて空を仰ぎ見た。
「ねえ、もし世界が終わるとしたら君はどうする?」
何を意図して聞いてきた質問かわからなかったが、さっきの核ミサイルの妄想のせいか適当にあしらうわけでもなく少し考えてから答えた。
「いや、わかんねえわ」
そう呟くと彼女は声を上げて笑い出していた。
その朗らかな笑い声で俺はうつつにやっと戻され、はっきりとその女子の顔を見た。白く透き通り、艶やかな顔。大きな瞳は真っ直ぐこちらを見ているがその奥は白刃の光沢が隠れているような鋭さを持っていた。「誰だ?お前」と聞こうとした瞬間。キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り響いた。
「予鈴が鳴ったからバイバイ!」
そう言って、その見知らぬ女子は手を振りながら屋上の入り口に駆けていき、どこかへ行ってしまった。
彼女が立ち去り、青空とアスファルトの間に独りポツリと取り残されて起き上がり、天に向かって背筋を伸ばした。
「そういえば何であいつ俺の名前知ってるんだ?」
今さらになってそんなことを呟き、しばらく考えていると再びキーンコーンカーンコーンと今度は五時間目開始を告げる本鈴のチャイムが鳴り響いた。
今日のホームルームか遅くとも明日の朝には教師たちの筋書きから逸れるようなことをしたからこっぴどく怒られるんだろうな。どうせ怒られるのであれば、毒を食らはば皿まで。いっそ六時間目もサボってしまおう。
そんな小さな覚悟を決め、もう一度寝心地の悪いアスファルトの上に横になった。
午後の授業を全てサボった俺は律儀に帰りのホームルームだけは参加した。斉藤はサボりのことには触れずホームルームを進行した。まだ、五時間目と六時間目の教師からは報告を受けていないのだろう。ということは噴火は明日か。
どうせ怒られるのならば今この場で自首をすれば情状酌量で少しはマシかもしれないが、やつらに恐れおののいて脱線させた筋書きの本線に自ら戻ろうとするのはやつらに屈服したような気がしたのでそのまま下校の途についた。
自分は割かし合理的な性格だとは思っていたが、案外そうでもないようだ。昇降口を出てすぐ雲の合間から太陽が照り付け、首筋が汗ばんだ。あの女は天気予報を見間違いたに違いない。傘なんて持って来ていないから少し不安であったがどうやら杞憂のようだ。自宅は高校から徒歩十分ほどの近場だ。いつもどおり、俺は正門を抜け、商店街に着いた。
商店街に人通りはなく、開いている店もほとんどないシャッター街であった。開いている店も客足はほとんどない。古着屋の店主の爺さんはレジのカウンターに頬杖をついて眠っているほどだ。
小学生のころはたくさんの店が営業していて、多くの人がこの通りを歩いていた。俺も賑やかな商店街を秋穂に手を引っ張られて駄菓子屋にお菓子を買いに行っていた。
店主のおばあちゃんは優しく「いつもこれおまけだよ」と飴をくれた。今はもうその駄菓子屋は閉店している。あの優しいおばあちゃんは今どうしているのかわからない。お互いに顔だけは知っていて名前なんてものは一度も聞いたことなんてないし、聞かれたこともなかった。
閉店に気がついたのは中学校に上がってからだった。そのときは駄菓子屋に行くことはなくなり、おばあちゃんのことも忘れていた。シャッターのかかった思い出の駄菓子屋を見ても俺は悲しくはならなかった。「ああ潰れたんだ」と思っただけだった。そのときに駄菓子屋での出来事はノスタルジーな思い出ではなくただの記憶の一つに過ぎないんだと自覚した。自分の中ではおまけをもらう度に笑顔で心からお礼を言っていたと思う。それなのに悲しさを感じなかったのは思っているほどに他人に無関心に生きていたんだなと。
今まで一緒に遊んでいた友達が転校して「また会おうね」という約束が果たされることのないように親密に見せかけた希薄な関係をその事実に気づかないまま、あるいは気づかないフリをして生き続けているのだろうということをそのときに知ってしまったのだ。
そんなことを思い出しながら寂れた通りを歩いているとポツリと雫が頭に落ちたのに気づいた。その水滴を皮切りに激しく雨が降り出した。先ほどまで快晴の空はいつの間にか雲に覆われていた。
おい、ふざけんなよ。晴れの予報を信じていたから傘などは持っていない。寝ていた古着屋の店主は目を覚まし、大慌てで軒先に出している売り物の服を店内にしまいだした。急いで近くのシャッターの閉まった店の軒先に入って雨を避けた。
ポケットからハンカチを取り出し濡れた頭と顔を拭いた。濡れたワイシャツが気持ち悪い。最悪だ。一向に降り続ける雨を見ながらあの屋上の女を思い出した。
何であの女は雨が降るってわかったのだろうか。テレビやネットの色んな天気予報に差異は多少あれど、どれもが晴れを予報するだろう。あの女はツバメが低く飛んでいるのでも見えたのか。あるいは田舎の方には「雨の匂い」がわかる人が多いと言う。あいつもそういう「特殊能力」を持った類なんだろうか。
そんなことをしばらく考えている内に雨が止んだ。家に帰って濡れた服を脱いでしまいたい。俺は軒下を出ると、駆け足で帰途についた。学校をサボって帰った日のずぶ濡れは気にはならなかったけども今日は早く帰ってしまいたかった。
自宅に着くと濡れたワイシャツを洗濯機に入れた。適当な部屋着に着替えると前回と同じように部屋の暖房を入れて、雨で冷えた身体を温めるように太陽のぬくもりの残ったシーツに沈むように寝転がり毛布にくるまって目を閉じた。
目を覚ましたときには陽は完全に落ち、夜の暗闇に部屋は包まれていた。部屋着のポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと時刻はもう夜の八時だった。
三時間ぐらいか。大分寝ていたな。中途半端に眠り、身体が怠い。だらけたい気持を抑え、無理矢理にベッドから起き上がり一階に降りた。リビングの扉を開けるとカレーの香りが漂い、電気がついていた。キッチンを見ると秋穂が鍋でカレーをかき回してた。
「あんたさ、学校から帰って来たなら電気ぐらいつけたらどうなの?」
怪訝そうな表情でこちらを見つめる秋穂に一瞥して、「ごめん悪い」と告げテーブルの椅子に座った。つけっぱなしのテレビからは都心のビル群の夜景をバッグにしたスタジオで日本のどこかで起きた殺人事件についてのニュースが読まれていた。
改めてもうそんな時間かと思いながら秋穂の料理ができるまで漫然とテレビを観ていた。キッチンから絶えずするカレーの香りに腹が減った。行方不明の児童のニュースが読まれているときだった。
「ほら、できたよ」
そう言って秋穂は皿に盛りつけられた湯気の出ているカレーライスをテーブルに並べ、俺の対面に座った。「いただきます」と言ってカレーライスを口に運ぶと、甘ったるいような味が口の中に広がった。香辛料の風味は完全に死んでいる。不味い。何でこんな味がするんだ。秋穂は辛いものが食べられないとわかっていた。だから甘口のカレーがいつも出されてその度に自分で一味唐辛子を振って好みに辛さに調節するのでけれども、今日のは格別に甘い。明らかに市販のカレールーの甘口の範疇を超えている。
「ねえ、美味しい?」
反射的に「不味い」と言いかけたが、作ってもらっている身でこの姉に文句を言うと後が恐いのはわかっていた。
「ああ、うまいよ」
姉の機嫌を悪くしないように思ってもいないことを告げた。けれども、秋穂には感情のこもっていないこの感想が見破られたのだろうか。
「本当?」
と聞き返してきた。察しが良いならこれ以上聞いてくるなよ。なるべくオブラートに包んだことを言わなければならない弟の身にもなってくれよ。
「うーん。もう少し辛い方がいいかな俺は」
「やっぱり、あんた嘘言ってた」
「いや、傷つけると思って」
「そんなこと気にしなくていいのに。さすがに鍋に直接ガムシロ入れまくったのはよくなかったかな」
「おお、マジか…」
この甘ったるいカレーの狂気の作り方に開いた口が塞がらない。文句がマシンガンの如く吐き出されそうになったが押し込んで黙った。
今さえ我慢すれば良いんだ。姉との喧嘩を起こすと長引くのが辛いと自分が一番よくわかっている。
「そういえば、今日私最終面接だったんだ。それでね、中々手ごたえあったんだよ」
俺の抑えている不満が顔に表れたのか秋穂は露骨に話題を変えた。激マズカレーの冷戦はすぐに終わりを告げた。
「そうなんだ。よかったじゃん」
「うん。役員の人に私の熱意すごい聞いてもらえたんだ」
「役員ってことは今日最終面接だったんだ」
「そうなの。で、その役員の人たちにすごい褒められたからさ、これは内定確定だよね?」
秋穂は身を乗り出して自身ありげな笑みを見せ、念押しの確認をするように聞いた。
「うーん。まあ、そうじゃねえの。知らんけど」
就活に関しては全くの無知であるけども秋穂がそわそわしながらも喜んでいることに水を差すのも悪いと思い、同調した。
「大学でも私以外はみんな内定貰っててね。すごい焦ってるんだ」
秋穂は乗り出した身を元に戻し、少ししょんぼりとした素振りを見せて、ちびちびと再びカレーに手をつけだした。
「まあ、手応えあったなら大丈夫でしょ」
「そう信じたいね。あ、そうだ。今日のことちゃんとお母さんにも伝えなくちゃ」
秋穂は食事の手を止めて立ち上がり、リビングの母さんの仏壇の遺影に手を合わせた。
「今日ね。面接うまくいったんだ。もしかしたら私も社会人になって人の役に立てるんだよ。お母さんも嬉しい?」
秋穂の報告を横目にすっかり冷めてしまった甘ったるいカレーを掻き込んで、水で流し込むように飲み込み、「ごちそうさま」と言って皿を片付けた。
今日はそのままシャワーを浴びた。時刻を見るとまだ十時であったけど、この日は何だか疲れたのでもう寝よう。布団に入ったときに明日提出の課題があったのを思い出した。けれど、そんなことはどうでもよかった。明日授業をサボったことも含めてまとめて怒られればいい。
激マズのカレー、秋穂の面接がそこそこ上手くできたこと、忘れていた課題。今日は色んなことがあり、「雨の匂い」のわかるあの女のことはもう忘れていた。
朝、学校に行き、教室を覗くと斉藤が教卓の前に仁王立ちで立っていた。普通であれば朝のホームルームが始まるまでは教室に担任は来ないはずだ。全体の半分ぐらい登校しているクラスメイトに何か用があるわけでもなさそうだ。ということは目当ては俺だな。
昨日の一件をホームルームが始まる前に片付けるつもりだろう。避けられる困難なら避けようと思い、踵を返して教室を後にしようとしたときだった。
「おい、武蔵。何こそこそしてるんだ?」
二十代男性の若々しくも荒々しい声が教室に響き渡る。教室からはひそひそと「また、武蔵くんかあ」と女子たちが俺を噂する声が聞こえてきた。
「体育の村田先生が職員室にお前を呼んでいるぞ」
そうして職員室のジャージ姿の村田の座っているデスクまで連れていかれた。職員室までの道中、斉藤からは何も言わずに無言で俺の腕を引っ張っていくだけだった。さすがにあの熱血教師の無言は少し不気味だった。
「連れてきました。後はお願いします」
そう言って斉藤は職員室を出ていった。村田は座ったまま上目遣いで睨みつけていた。
岡ちゃんと同い年ぐらいらしいのだが、村田は弱々しさとは程遠いぐらいに屈強な男だ。その年齢の深みとガタイの良さの凄み、そして厳格な性格にこの学校の生徒はこいつの顔を伺って生活を送っているほどだ。
「お前、昨日の体育サボっただろ?」
荒げた声が職員室に響く中、周辺の他の教師たちが自分たちの事務作業を黙々とこなしている。けれども、それはこの気まずい状況に我関せずの立場を保つためのもので、その動きはあまりにも機械的すぎてこんな状況にも関わらず思わず吹き出してしまいそうだった。
「はい。サボりました。すみません」
なるべく反省していそうな模範的な表情と口調で謝ったつもりだった。けれども、村田の顔は依然険しいままだ。
「サボりましたじゃねえよ!」
デスクを拳で叩き、あまりの音の大きさに職員室が完全に静まった。面倒なパターンになった。「誠実」な対応も今日だけは効果はないようだ。早く終わらねえかな。
「お前さあ自分の成績わかってるのか?今年は二年に進級できてるけどさあ、大分ギリギリだよな?こないだの中間も国語と英語以外赤点だったらしいな?学年で最も留年しそうなのはお前なんだぞ。それなのに授業をサボるとは何事だ?」
「すみません」
そう言うと村田は立ち上がったかと思うといきなり俺の胸ぐらを掴んだ。殴るような勢いで掴まれ、胸を強く押され思わず咳き込んだ。
「おめえ反省してねえだろ?クズが」
村田はこれまでにないくらいに大きい声を上げ、掴んでいる胸ぐらを激しく揺らした。抵抗することもなく、されるがままでいると、村田は掴んだワイシャツを思いっきり床に投げ落とすように引っぱった。ワイシャツのボタンが弾け飛び、バランスを崩して床に叩きつけられ顎を打った。脳に響くような痛みに声が出なかった。
さすがにここまでくると無関心を決めていた他の教師も床に倒れている俺に目を向け始めた。立ち上がろうとしたきに血の味がすることに気づいた。口の中が切れたようだ。汚い床の埃の臭いを吸いながらゆっくりと立ち上がり周囲を見渡すと他の教師たちはまた目を背けだした。
村田を真っ直ぐ見つめるとあいつは今にも俺を殴ろうとするように拳を振り上げていた。服を破かれ、床に叩きつけられたにも関わらず不思議にも怒りは暴発しなかった。胸の内に溢れ出す怒りが心臓の鼓動の度に血流に乗って静かに全身を包み込むようだった。
きっと村田よりもそして心配そうにこちらを見つめたり無関心を決め込んでいる他の誰よりも冷静だったと思う。感情に支配されずに拳を強く握りしめたときだった。
「失礼します。二年五組の日直です。横山先生いらっしゃいますか?」
一触即発の剣呑な雰囲気の職員室の扉が開かれ、一人の女子生徒が入って来た。その瞬間俺も村田も扉の方に目を向けた。その女子に俺は見覚えがあった。屋上でまどろみの中で捉えたあの容姿。間違いない。屋上であの予言をしたあの女子だ。この女子の一声で極限まで張り詰めた職員室中の空気が緩んだ。
「せっかく来てくれたのにごめんね。横山先生グラウンドの整備で今いないの」
扉の近くにいた四十代ぐらいのおばさん教師が応えた。
「そうですか。ありがとうございます。失礼しました」
そう言ってあの屋上で見た女子は職員室を後にした。職員室の誰もが一連の出来事に釘付けになっているときだった。
「ったくよ。次は容赦しねえからな」
村田は突然の部外者の訪問に怒りと戦意が削がれたのか、椅子に座り「あっちに行け」と言うように手で払いのけるような仕草をした。
「失礼しました」
と、律儀に言うと俺も固く握られた拳を解き、職員室を後にした。
村田からやっと解放されて廊下に出ることができた。あのときの「雨の匂い」の女子は二年五組だと言っていた。俺と同級生だったのか。同級生だとしても一度も関わりのないやつが屋上で俺に声をかけたのか。
そういえば何か訳のわからないことを聞かれたことを思い出した。「世界が終わるとしたらどうする?」と。そんなことを考えながら教室に向かった。