重苦しいホームルームを終え、次の倫理の授業が移動教室なので教材を持って廊下を歩いていると隣の忠之がわき腹を小突いた。
「みんなの前で怒ってたけど、内容は飛鳥へのお説教だな」
「公開処刑もいいところだ」
「少しぐらいは反省してるかと思ったよ」
「まあ、してますよ」
そう言うと忠之は「社会を舐めるんじゃねえぞ」と先ほどの斎藤の真似をしてみせて俺たちは笑いながら教室に着いた。自分の座席に座り、ノートと教科書を置いてしばらく待っていると、倫理担当の岡ちゃんが教材と一緒に大きめの箱のようなものを抱えて入って来た。
「はい。それじゃあ始めるよ」
大荷物を教卓に置いた岡ちゃんは低い声でありながらも穏やかさのある声でまだ立っている生徒を席に座らせた。
担任の斉藤は若々しさを武器に威圧的な態度で生徒に対して接するけども、岡ちゃんは小柄で頭に白髪が混じっているような頼りない見た目だ。
どんな生徒にも物腰が低いけれども、みんなは岡ちゃんが話すし出すとどんなにうるさい教室でもピタリと静かになるような不思議な魅力を持った人だ。
「今日は授業に入る前にちょっとお願いがあってね。今度の校舎の改修工事で社会科準備室の資料の移転作業をしないといけなくて、これからしばらくお手伝いさんを生徒から一人選びたいんだ。やりたい人はいるかな?」
岡ちゃんが教室全体を見回しても誰一人として手を挙げない。そんな明らかに面倒な肉体労働を何の対価もなく引き受けるやつなんているわけがない。岡ちゃんはこの沈黙を予想していたようで「それなら」と先ほどの箱を皆に見せた。
「この中にみんなの出席番号が書いてある紙が入っているんだ。僕が中を見ないで引くから引かれた番号の子がお手伝いさんね」
教室では「ええー」とブーイングが起こり、
「ひどいよ、岡ちゃん」
「やだよー」
「それはずるいよ」
といった声があちらこちらから上がった。
「はいはい。落ち着いて。確率的に見たら当たりを引くのは三パーセントぐらいだからそんな心配することはないよ」
生徒たちの抗議の声を笑って受け流し、無慈悲に岡ちゃんは箱の中に手を入れ、一枚の紙を取り出した。
わざわざ放課後に無賃でキツイ仕事の手伝いをさせられるのは勘弁だ。頼むから当たらないでくれ。そんなことを祈ったが、まあ、岡ちゃんも三パーセントと言っていたし、俺になる可能性はないだろうと思わずあくびをしていた。けれど、その油断がいけなかったのか。
「出席番号二十七番。えーと。武蔵飛鳥くんがお手伝いさんになりました。みなさん拍手!」
岡ちゃんの言ったことにあくびで空いたままの口が塞がらない中、俺は昨日の体育のときから恨まれているみんなからのある意味では心からの祝福の拍手を受けていた。
「それじゃあ、今日の放課後からお手伝いよろしくね」
岡ちゃんは穏やかな笑顔を浮かべて俺の顔を見てそう言う。その悪意のない表情を前に、そして平等なクジで決まったことに抗議することはさすがにできなかった。昨日の体育教師への反抗の天罰なのだろうか。だとしても、罪に対して罰が重すぎやしないか。面倒な役目を任されたことに頭を抱えた。
「じゃ、授業に入るよ」
そんな俺をよそに岡ちゃんは黒板に板書を始めた。
「本日の授業のテーマはこれです」
そこには「アイデンティティ」という文字が白のチョークで大きく書かれていた。
「もしかしたらもう既にこの言葉を知っている人もいるかもしれませんね。知っている人は手を挙げてみてください」
俺自身はその言葉を知らなかったが、教室の三分の一ぐらいが手を挙げた。
「それでは田中くん。どういう意味だか答えてくれるかな?」
岡ちゃんが忠之を指名すると、忠之は少し考えるような素振りを見せた。
「自分らしさといったニュアンスですか?」
忠之は少し自信なさげにそう発言すると、岡ちゃんはうんうんと頷いた。
「田中君の言うように自分らしさという意味で合っていますね。でも、この言葉は結構複雑で『自分は何者であるか』といったような問いかけに繋がっていくような大切な概念です」
黒板に端的に岡ちゃんは板書しつつ生徒一人ひとりの顔を伺うように話した。その言葉の一つひとつを丁寧に紡ぐような喋り方に俺を含め全員がいつの間にか聞き入っていた。授業なんて普段は聞き流しているけれども、岡ちゃんの授業だけは他の教科より不思議と聞きたくはなるのだ。
「今、『自分は何者であるか』という話をしましたがその答えがわからない。自分らしさを見失う状態をアイデンティティの喪失と言います。この言葉は教科書だけの言葉ではなく、実際に皆さんのような十代の若者たちはアイデンティティの喪失に悩んでいる人が多いです。今日の授業をきっかけに少しでもこのアイデンティティについて考えてくれると幸いですね」
岡ちゃんの解説を自然と俺はノートに書いていた。もし、倫理の教師が岡ちゃんでなければノートを取るなんてことをしない。
他の科目の担当も岡ちゃんであれば俺は真面目に受けているのだろうか。
「みんなの前で怒ってたけど、内容は飛鳥へのお説教だな」
「公開処刑もいいところだ」
「少しぐらいは反省してるかと思ったよ」
「まあ、してますよ」
そう言うと忠之は「社会を舐めるんじゃねえぞ」と先ほどの斎藤の真似をしてみせて俺たちは笑いながら教室に着いた。自分の座席に座り、ノートと教科書を置いてしばらく待っていると、倫理担当の岡ちゃんが教材と一緒に大きめの箱のようなものを抱えて入って来た。
「はい。それじゃあ始めるよ」
大荷物を教卓に置いた岡ちゃんは低い声でありながらも穏やかさのある声でまだ立っている生徒を席に座らせた。
担任の斉藤は若々しさを武器に威圧的な態度で生徒に対して接するけども、岡ちゃんは小柄で頭に白髪が混じっているような頼りない見た目だ。
どんな生徒にも物腰が低いけれども、みんなは岡ちゃんが話すし出すとどんなにうるさい教室でもピタリと静かになるような不思議な魅力を持った人だ。
「今日は授業に入る前にちょっとお願いがあってね。今度の校舎の改修工事で社会科準備室の資料の移転作業をしないといけなくて、これからしばらくお手伝いさんを生徒から一人選びたいんだ。やりたい人はいるかな?」
岡ちゃんが教室全体を見回しても誰一人として手を挙げない。そんな明らかに面倒な肉体労働を何の対価もなく引き受けるやつなんているわけがない。岡ちゃんはこの沈黙を予想していたようで「それなら」と先ほどの箱を皆に見せた。
「この中にみんなの出席番号が書いてある紙が入っているんだ。僕が中を見ないで引くから引かれた番号の子がお手伝いさんね」
教室では「ええー」とブーイングが起こり、
「ひどいよ、岡ちゃん」
「やだよー」
「それはずるいよ」
といった声があちらこちらから上がった。
「はいはい。落ち着いて。確率的に見たら当たりを引くのは三パーセントぐらいだからそんな心配することはないよ」
生徒たちの抗議の声を笑って受け流し、無慈悲に岡ちゃんは箱の中に手を入れ、一枚の紙を取り出した。
わざわざ放課後に無賃でキツイ仕事の手伝いをさせられるのは勘弁だ。頼むから当たらないでくれ。そんなことを祈ったが、まあ、岡ちゃんも三パーセントと言っていたし、俺になる可能性はないだろうと思わずあくびをしていた。けれど、その油断がいけなかったのか。
「出席番号二十七番。えーと。武蔵飛鳥くんがお手伝いさんになりました。みなさん拍手!」
岡ちゃんの言ったことにあくびで空いたままの口が塞がらない中、俺は昨日の体育のときから恨まれているみんなからのある意味では心からの祝福の拍手を受けていた。
「それじゃあ、今日の放課後からお手伝いよろしくね」
岡ちゃんは穏やかな笑顔を浮かべて俺の顔を見てそう言う。その悪意のない表情を前に、そして平等なクジで決まったことに抗議することはさすがにできなかった。昨日の体育教師への反抗の天罰なのだろうか。だとしても、罪に対して罰が重すぎやしないか。面倒な役目を任されたことに頭を抱えた。
「じゃ、授業に入るよ」
そんな俺をよそに岡ちゃんは黒板に板書を始めた。
「本日の授業のテーマはこれです」
そこには「アイデンティティ」という文字が白のチョークで大きく書かれていた。
「もしかしたらもう既にこの言葉を知っている人もいるかもしれませんね。知っている人は手を挙げてみてください」
俺自身はその言葉を知らなかったが、教室の三分の一ぐらいが手を挙げた。
「それでは田中くん。どういう意味だか答えてくれるかな?」
岡ちゃんが忠之を指名すると、忠之は少し考えるような素振りを見せた。
「自分らしさといったニュアンスですか?」
忠之は少し自信なさげにそう発言すると、岡ちゃんはうんうんと頷いた。
「田中君の言うように自分らしさという意味で合っていますね。でも、この言葉は結構複雑で『自分は何者であるか』といったような問いかけに繋がっていくような大切な概念です」
黒板に端的に岡ちゃんは板書しつつ生徒一人ひとりの顔を伺うように話した。その言葉の一つひとつを丁寧に紡ぐような喋り方に俺を含め全員がいつの間にか聞き入っていた。授業なんて普段は聞き流しているけれども、岡ちゃんの授業だけは他の教科より不思議と聞きたくはなるのだ。
「今、『自分は何者であるか』という話をしましたがその答えがわからない。自分らしさを見失う状態をアイデンティティの喪失と言います。この言葉は教科書だけの言葉ではなく、実際に皆さんのような十代の若者たちはアイデンティティの喪失に悩んでいる人が多いです。今日の授業をきっかけに少しでもこのアイデンティティについて考えてくれると幸いですね」
岡ちゃんの解説を自然と俺はノートに書いていた。もし、倫理の教師が岡ちゃんでなければノートを取るなんてことをしない。
他の科目の担当も岡ちゃんであれば俺は真面目に受けているのだろうか。