実際リリーはロンドンによく馴染んでいる。英語もスピーディーに口から出るし、歩き方に迷いが無い。かっこいいなあとほれぼれしてしまうほど。
「本当はもっとサーヤにロンドン名所とか案内したいんだけど、課題とかあって平日はなかなか時間取れなくって」
リリーは美術大学に通っているのだ。美大というところは毎日何かしらの課題がでるのだろうとはわたしでも想像つく。
「気にしないで。大学忙しいんでしょ。コッヅウォルズ連れて行ってくれただけで充分」
「わたしとしてはもっともっとサーヤにロンドンのお勧めどころを紹介したいんだけど。土日遊ぶためにも平日はあんまさぼってもいられなくって」
こっちの大学は進級するのも大変なんだよ、真面目にやっていないと容赦なく落とされる、とリリーはぼやいた。
「そうそう、フラット生活には慣れた?」
「うん。ロンドンに住んでるって感じがする。かっこいいね」
「みたいじゃなくてサーヤもロンドンの住人の一員だよ」
「だといいなあ」
そんな風に言われるとほわんと心が弾む。
いまはまだ土地勘も無くて観光客丸出しだけどさすがに四週間もいたらもっと颯爽と風を切ってロンドンの街を歩くことができるかもしれない。
「でも、せっかくのヨーロッパなのにロンドンばかりでいいの? 四週間いるのは、もちろん大歓迎だけど、ちょっと勿体ないなって」
「旅行のアレンジしていた時ってまだ働いていたから。なんかもうスペインまでで力尽きた」
普段旅行代理店に任せることを全部自分で手配した。いくらネットで簡単に取れるとはいえ、数が増えるとそのうち面倒になってくるのだ。
「サーヤ、ほんと働きすぎだったよね。ようやく解放されてわたしとしては一安心。ロンドンでゆっくりしなよ。あ、あと。駿人との旅行。これが本題。それで、どうだったの?」
リリーがぐいと体を前に乗り出してきた。
わたしとしては内心、来たかという心境。きっとリリーはずっとうずうずしていたのだ。その証拠に今ものすごく目が輝いている。
「え、ええと……」
わたしは目を泳がせた。
「まあ、ほら。ここはおねーさんに全部吐いちゃいなさい。ていうかさ、昔好きだった相手と三週間も一緒だったんでしょ。うちらだってもういい大人じゃん? 何も起きなかったわけ?」
「あるわけないじゃん。だって駿人はわたしのこと単なる幼なじみくらいにしか思っていないんだよ?」
カフェラテに口をつけながら慎重に言う。ほんの少しだけ低い声になったのは気のせいだと思うことにした。
「でもいまは二十五歳と三十歳じゃん」
「ほんとに無いって」
「でも楽しかったんでしょ?」
リリーがずばり言うから、わたしはうっと言葉に詰まって、もう一度カフェラテのカップを口元へ運ぶ。飲み物が無いと間が持たない。
自分の気持ちがとても複雑で、毛糸がいくつも絡まっているような心地なのだ。しかし自力でほどけるほどわたしは器用ではない。けれども、どこから話せばいいのか分からない。
「そりゃあ、まあ……。最初は仲たがいもしたけど、仲直りしてからは普通に話せるようになったし」
リリーとは旅の途中何度か電話で話していた。だから、話すことはスペインでのわたしの失態と今の整理のつかない気持ちだけ。
わたしは少しだけ長く息を吐いた。気持ちを落ち着けて、覚悟を決める。
どのみち、話は聞いてもらいたいのだ。こういうとき、友だちっていいなあと思う。
「実はね……」
わたしはスペイン最後の日に、勢い余って駿人が初恋だったと本人に暴露してしまったことを打ち明けた。
「うわぁ。時間差で言っちゃったんだ。わたし、墓場まで持って行くものだと思っていた」
当時同じクラスの友人たちによって炊き付けられた側面もあったけど、リリーとは違うクラスだったため事後報告で、休みの日に会ったときに慰めてもらった。
「……あの時に戻れるなら殴ってでも止めさせる」
「で、駿人は何て言ったの?」
「何も言わないでって言ったから、そのことについては何にも。わたしも今更ごめんなさいとか言われても困るだけだし」
「んー、まあ。それは……そうだけど」
リリーが腕組みをして首を横に傾けた。
「それで、婚約は解消?」
「それも分からない」
「どうして?」
「だって、結局駿人何にも言わなかったし。わたしから……念押ししたほうがよかったのかな」
とは言いつつ、わたしの言葉に力はない。飛ばした紙飛行機が途中から徐々に低く飛んで行くように最後はすとんと言葉が小さくなった。自分でもどうして、と思う。
「じゃあまだ脈ありじゃん」
「脈って……」
リリーの声が力強くなる。
「だって、サーヤはまだ駿人のことが好きなんでしょ?」
「ちょ、待って。ほんっとうに違うから!」
わたしはここがカフェの中ということも忘れて叫んだ。がたんとテーブルも叩いてしまい、店員と目が合った。わたしは申し訳なさから体を小さく竦ませた。
「でも、沙綾は駿人のことずっと気にしていたでしょう?」
「どうしてよ」
「んん~、なんていうか。沙綾の作る彼氏ってどこか駿人みたいな、年上で自分のことを引っ張ってってくれそうな人っていうか。とりあえず年上でえらそうな人が多かったから」
リリーの駿人さんへの評価が多大に現れた言葉だ。
わたしとしては無自覚だったため、納得できかねる。これまで、二人の男性と付き合った。確かに二人とも年上だったけれども。わたしは彼らを駿人さんに重ねたことは無かったと思う。
大学生の頃付き合った彼氏とはどちらも続いて一年くらいだった。なんとなく波長が合わなくて別れを切り出されたり、自然消滅したり。
周りも似たようなもので、別れたり出会ったりしていたから、わたしは男女交際とはそういうものだと思っていた。
「なんかさ、今の駿人とならいい友達になれるとは思うんだよね。一緒にご飯食べに行ってお酒飲んで、それで仕事の愚痴とか言い合って。昔はわたしのほうばかり追いかけていたけれど、大人になって世代間の差があんまりなくなったっていうか」
「友達って……。友達でいいの?」
「うん。楽しいもん。それに、わたしドイツには行けない」
遊びに行くのはいいけれど、暮らすための移住はできない、という意味だ。
「ドイツも楽しいと思うよ。海外生活だよ」
「日本でもう一度再就職したいんだよね。わたし新卒で入った会社でそれはもう一生懸命働いて、他の友達が会社のあとに自分磨きをとか恋とか、飲み会をしていたのに、わたしだけ取り残されて。今度はちゃんとワークバランスを考えて生活してみたい」
「でも、会社辞めてドイツまで飛行機乗って会いに来ようって思うくらいには駿人のこと心の隅っこでずっと気にしていたんでしょう?」
「そりゃあ、勝手にこの人と結婚すれば万事オーケーとか決められちゃったら、というか期待されちゃったらね。ここをクリアにしておかないと次の機会も無くなっちゃう」
わたしはあえておどけた声を出した。
リリーは小難しい顔をしたままルイボスティーをごくごくと飲む。話に夢中になっていてカップの中にはすっかり冷めてしまっていた。
「それにさ、結婚と恋愛は違うとか言われるとさ……。わたしと結婚すればお互いの両親を紹介する手間も省けるし、おじいちゃんも喜ぶ、とか。そういうことばっかり言うんだもん」
結局そこなのだ。
彼の態度が冷めているから、わたしはそんな駿人さんのためにドイツで暮らすイメージがわかない。語学に自信が無いというのもあるけれど、それを何とかしてやるという情熱を燃やす気持ちが湧いてこない。
バルセロナで会ったオリヴィアに突っ込んだ質問をした。違う国で、遠距離恋愛をしている彼女に聞いてみたくなったのだ。
どちらか一方の拠点に移動することになったらどうするのかと。
彼女はあっさりと、エミールが移動する選択肢を乗せた。
わたしには、たぶんその選択肢を駿人さんに突きつけることはできない。彼は別にわたしじゃなくてもいいのだ。ただ、身近に手頃な女性がいた。それだけでわたしを選んだのだから。
「あの年になったら割り切って結婚する人も多いんじゃない? こっちにも多いよ。そういう人」
リリーが割り切ったように言う。彼女も案外にさっぱりしている。
わたしは少しだけ眉間にしわを寄せてリリーに尋ねる。
「例えば?」
「アジア人が好きな男性とイギリス国籍の人と結婚したい日本人女性とか」
「なにそれ」
「イギリスに永住したいならイギリス人と結婚するのが一番手っ取り早いから」
住みたくてもビザが無いと外国には住み続けられない。労働ビザの取得条件は年々厳しくなっていくばかりだから、とリリーは続けた。
「なるほど」
「だからわたしもたまにほかの日本人に会うと言われたりするんだよね。芸術家ってビザ取るのが難しいから。ダニエルと付き合ってるのってようするにそういうことでしょうって。ムカつくから、わたし顔が可愛いからもてるんですぅとか言ってやるけど。ダニエルは別にアジア人専門でもないし」
「それをしれっと言っちゃうリリーもすごいよね」
目鼻立ちのはっきりしていて美人な彼女だから言えることだ。二人は共通の友人が主催するハウスパーティーで知り合ったと以前聞いた。
「だいたい、リリーはどうなのよ。彼氏と同棲してるっておばさんもおじさんもちゃんと知っているの?」
「わたしのは同棲じゃなくてフラットシェアだって。現にベッドルームは分けてるもーん」
互いにプライベートは大事だということで、リリーとダニエルはベッドルームを分けて借りている。
リリーは美大の課題を夜遅くまですることもあるから会社勤めをしているダニエルと微妙に生活時間が違うらしい。
「結婚とか大学を卒業した後のこととか、考えているの?」
今度はわたしがリリーに話を振ると、彼女は唇を引き結んだ。
「……うーん、どうだろう。わたしは別にイギリスに住むことにこだわってはいないし、実はベルリンもいいなって思っているんだよね」
「ベルリン……またどうして?」
「んー、なんかいまベルリンが面白いって良く聞くし。アートな雰囲気なんだって。まだ行ったことはないんだけどね」
そういう情報って大学で仕入れてくるのだろうか。
それに、と彼女は悩まし気な顔を作る。
「両親も大学を卒業したら一度は帰って来いって言っているし。そのことでダニエルと喧嘩することは多いかな。彼、わたしみたいな子と付き合ったことなかったみたいで」
「リリーみたいな子って?」
「風船みたいな子」
「自分で言うんだ」
「うん。たぶんこれからもそんな感じだと思う。だからダニエルとも最近喧嘩ばっかり。正直どうしよっかなって感じ。彼はまじめな勤め人だし。そもそもカムデンに住むのも嫌みたいだし。イーストエリアはもっと嫌みたいだし」
リリーも色々溜まっているらしい。ふうっと長い溜息を吐いて「イーストエリアに引っ越したいって言ったら大げんかになった」と漏らした。
「ダニエルは住むところにこだわりある人なの?」
「生粋のイギリス人には色々とあるみたい。ま、日本でもそうじゃん。下手に東京で生まれ育つと東京でもどこそこには住みたくないとかそういうの」
「あー、なるほど」
「サーヤはさ、わたしみたいに面倒な女じゃないんだから、もうちょっと素直に自分の気持ち見つめた方がいいと思うよ。今、イギリスに一人でいて、駿人と会いたいって思わない?」
「友達としては会ってもいいけど……」
とはいえ、スペインでお別れしてから一度もメールが来ていない。いや、一度は来た。無事にロンドンに到着したと報せたら「了解」とめちゃくちゃ簡潔な二文字のみ。それはどうなのよ、とあのとき思ったくらいには寂しくなった。
「ちゃんと会いたいんじゃん。素直じゃないなぁ」
知らずに渋面を作っていたらしい。
「別にそういうわけじゃ……」
その後もわたしたちはガールズトークに花を咲かせた。
* * *
その週末はカンタベリに日帰り旅行をして、週が明けた月曜日からわたしは語学学校に通うことにした。せっかくの長期滞在だし、この機会に英語に触れてみようと思った。オリヴィアやエミールとはSNSで繋がっていて、もっとちゃんとコミュニケーションを取りたいと思ったのだ。
リリーに相談すると、彼女の留学仲間に色々聞いてくれて、エンジェルにある語学学校を紹介してくれた。
こちらの学校は週単位で料金設定がなされており、短期でも通いやすい。午前中の文法の授業と午後の会話の授業を取ることにしたため、しばらくの間規則正しい生活を送ることになった。
正直、会話の授業にまったくついていけずに初日から心が折れそうになったけれど。
つい話す前に頭で文法を考えてしまうわたしとはちがって、他の国の生徒たちはまず話す。とにかく話すのだ。そのためあっという間に話題が移ってしまい、わたしは余計にわたわたするばかり。
先生にも「サーヤ、もっと話して」と言われてしまう始末。
わたしは日本食材店に所狭しと並べられているお馴染みの製品にうるっと来てしまう。
気分転換にカレーでも作ろうと思って寄ったそこで納豆まで見つけてしまい、つい懐かしくて買ってしまった。
ロンドンセントラルからわたしの滞在先フラットのあるカムデンタウンまで戻って、駅近くの大きなスーパーで野菜と肉を調達。
パンクファッションのお店やマーケットが有名な観光地だけれど、にぎやかさに慣れれば住みやすい。それにカムデンマーケットをぶらぶらと冷やかすのも楽しかったりする。
ただし、夜は酔っぱらい含めてのにぎやかさなので、一人では出歩かないようにしているのだが。
カレーを作っているとリリーとエリックが帰宅した。
リビングダイニングルームの扉を開けたとたんにエリックが「いい香り! カレー?」と尋ねてきた。
「日本風のカレーを作ってみたの。食べる?」
「いいの?」
「もちろん」
「ありがとう! サーヤ、きみはなんて素晴らしい女の子なんだろう」
そこまで大げさにお礼を言われるほどのものはつくっていないはず。味の決め手は大手メーカーのルーなわけだし。
「サーヤ、わたしも? わたしも食べていいの?」
テーブルの上に両手をついてぴょんぴょん飛び跳ねるのはリリー。
もちろん、とうなづくと「わぁい!」と万歳した。エリックと二人でハイタッチをしている。なんか、一気に二人の子持ちになった気分。
「インドカレーもおいしいけど、やっぱり日本のカレーも食べたくなるんだよね。あとシチューとハッシュドビーフも。あと単純に誰かが作ってくれた料理って最高」
そんなわけでカレーパーティと相成った。
三人で食卓に着き、各自カレーを盛って食べ始める。
ダニエルはまだ帰宅していない。彼は忙しいそうで、帰り時間もまちまちなよう。あと、同僚とパブに寄ってくることもあるのだとか。さすがはイギリスだ。わたしも今度パブに行きたい。
カレーは結構な量が出来たため、今日ダニエルがまっすぐ帰宅すれば食べてくれるだろうか。色々とお世話になっているのでお礼がしたい。
「そういえばダニエルもカレーは好きなの?」
「あ、彼もカレーは好きだよ。日本のルーで作るクリームシチューは駄目みたい」
なんでもヨーロッパのシチュー的なスープと違う代物らしく、先入観があるから駄目とのこと。
「二人とも日本語で話してる。駄目だよ、共用部分での日本語は禁止。サーヤも英語を話さないと上達しないよ」
リリーと日本語で話をしていたらエリックから注意を受けてしまった。
その後、リリーが語学学校での様子を英語で質問してきたので、わたしも頑張って英語で話した。
会話の授業についていけないと答えるとエミールが「俺が先生になってあげるよ」とウィンクをしてリリーが「サーヤにはボーイフレンドがいるんだから」と目を尖らせる一幕もあった。
団欒のはずの夕食の時間が即席英会話教室になってしまった。エミールが主導する形で、わたしに質問をしてくる。ロンドンで行った場所を答えるとそれに対して再び質問が繰り出され、気が付けば会話のキャッチボールが成立している。
なんでもいいから声に出してと、エミール先生にも指摘を受け、わたしはとにかくしゃべりまくった。
英会話教室は食後の片付けの間も続行で、これを続けていれば確かに上達しそうだと感じるほど。
ダイニングテーブルを上を付近で拭いていると、スマホが震えた。
着信相手の名前がディスプレイに浮き上がっているのを見て、わたしの心臓が飛び上がる。
わたしはドキドキしながらスマホをタップした。
「も、もしもし?」
『ハロー沙綾。一週間ぶり』
耳元に、低いけれど懐かしい声が届いた。なんだか泣きそうになって慌てて背筋を伸ばした。
電話越しに聞こえる駿人さんの声。スペインで別れてからまともに連絡を寄越さなかったのに、一体どうしたのだろうと思う反面、心の奥から湧き上がる嬉しさを止めることができなかった。
「え、ええと。久しぶり。仕事復帰ちゃんとできた?」
平静に、と心に言い聞かせて口を開けば存外に素っ気ない口調になってしまう。
『先週一週間は休みボケで大変だった。それよりも、沙綾いま家?』
「そうだけど」
『表、出てこれない?』
「どうして?」
『さあ、どうしてだと思う?』
どこか面白がった返答に、まさかと思って慌てて自分の考えを否定する。なにしろここはロンドンで駿人さんの住まいはフランクフルト。
とはいえ、表に出て来いと言うには何か理由があるはず。わたしは逸る心に待ったをかけて玄関に向かう。
「あれー、サーヤ、出かけるの? 相手誰?」
凛々衣に見咎められたが「んー、ちょっと」と言葉を濁してわたしは玄関扉を開けてフラットの内階段を下りていく。
表玄関の扉を開くと、目の前の道にはスーツ姿の駿人さんの姿があった。
「え、うそ!」
わたしが叫ぶと、駿人さんはいたずらが成功したような顔、要するに笑顔になって「驚いた?」と返事をした。
「え、ちょっと待って。どういうこと?」
「今日からロンドン出張。週末までの予定」
「うそ!」
「前から決まっていたことだし」
「聞いてない」
「言わなかったから」
駿人は笑顔のまましてやったりというふうに胸を反らす。
だったら最初から教えてくれればいいのに。また会えることも知らずに彼のことでもやもやを抱えていたことを思い返して、自然と眉根を寄せてしまう。
「ていうか、どうしてこの場所分かったの?」
「幸子さんから聞いた」
なるほど、わたしの母経由というわけか。一応、ロンドンでの滞在先は教えておいたわけだし。家族ぐるみで付き合いがあると、色々なことが筒抜けというわけだ。
「あー、駿人だ。うわ。どうしてここにいるのよ。さてはサーヤのストーカー?」
と、背後から日本語が聞こえた。リリーの声だ。
「人聞きが悪いな。俺はサーヤの……、なんていうか親しい間柄だ。会いに来たら悪いか」
駿人さんが答えた。
ふうん……婚約者って言わないんだ。
どうしてだろう、彼の言葉に過敏に反応してしまう自分がいる。白い絹のハンカチに飛んでしまったインクのように、彼の言葉はわたしの心の中に落胆という名の雫を落とした。
* * *
「お待たせ。ごめん、待たせて」
トッテナムコートロード駅近くの指定された場所で待っていると、スーツ姿の駿人さんが急いた足取りでこちらに向かってきた。
英語だらけのロンドンで、日本語が聞こえると普段よりも余計に耳がキャッチしてしまう。
そう思うことにして、わたしは彼の声だから余計に反応したわけではないと心に言い聞かせる。
「別に。わたしの授業は午後の早い時間に終わるから」
「どっかで時間潰していた?」
「うん。大英博物館に行った」
よかった。普通に話せている。平常心は大切……なのだけれど、駿人さんのスーツ姿に早くも視線が迷子になってしまいそう。
フランクフルトからスペインまで、彼の私服ばかり眺めてきたから、ビジネススタイルは初めて見る。いや、日本で一度くらいは見たことがあったかもしれない。
「どうした?」
駿人さんが怪訝そうな声を出してわたしの顔を覗き込む。
「べ、べつに。何でも」
「じゃあ行こうか」
駿人さんが歩き出したため、わたしもすぐ隣に並んだ。
一昨日、駿人さんと電撃再会をして、彼から夕食でも一緒に、とお誘いがLINEに届いたのが昨日の晩。
待ち合わせ場所が地図とともに送られてきて、わたしは、まあ暇だしという体でやってきた。
「今日の沙綾の格好は、俺初めて見る?」
クリーム色の足首丈のワンピースはロンドンで買ったものだ。
「ロンドンで買ったの。さすがに日本から持ってきた服ばかりじゃ飽きちゃって」
こうして気が付いてくれるのは嬉しいけれど、駿人さんのために買ったのだと思われそうで気恥ずかしい。
歩きながらわたしは駿人さんの出張に水を向けてみる。
「出張ってしょっちゅうあるの?」
「そんなしょっちゅうでもないけど、ロンドンとかアムスには定期的に。オンライン環境が整っているんだから、時間の無駄だと思うけど。今回はそのおかげで沙綾とも会えたし、それを思うと悪くないな」
「ふうん……」
出張が入っていたのに、ヨーロッパ旅行に付き合わせてしまって、なんとなく申し訳ないなと考えた。旅行から帰って一週間後に再びビジネストリップだなんて、けっこうしんどいと思う。
「それはそうと、どうしてエミールと繋がっていて、俺にはアカウント教えてくれないんだよ」
「え?」
「え、じゃなくて」
それから駿人さんから愚痴を聞かされた。どうやらインスタでエミールとオリヴィアと繋がったことを言っているらしい。そもそもわたしは駿人さんがインスタにアカウントを持っていること自体知らなかった。
それを言うと「いや持ってない」と言い放ち、フェイスブックなら持ってると主張を始めた。
なんてことを話しているとあっという間に目的地へ到着した。
トッテナムコートロードの駅からほど近い場所にあるガラス張りのスタイリッシュなレストラン。ガラス越しに見えるのはカウンターとテーブル席。店内はそう広くはないが、そこそこの人でにぎわっている。
ロンドンには、いや、ヨーロッパにはそれこそ世界中の国の料理店がある。
ここは何料理を出す店のだろう。
「……なんか、日本語っぽいのが書いてある」
なんと、書かれていたのは日本で名の知れたラーメン店の店名。
「俺、ロンドンに来たとき絶対一回はここに来るんだよ。この店がロンドンに進出してきたときはマジでうれし泣きしたね。こっちでもうまいラーメン食えるって」
「うわあ。ラーメンだ。すごいおしゃれな店だけどラーメン店だ。豚骨ラーメンもある。あ、味玉も。やばい、この写真だけでお腹空いてきた。ああああ、餃子食べたい……」
ロンドンでなぜにラーメンという突っ込みはどこかへ消えてしまった。
いや、ラーメン最高ではないか。だって、ラーメンと餃子もある。
お腹が急激にラーメン色に染まっていく。
店内に入るとテーブル席は満席だった。昨今の日本食ブームのお陰でラーメンの認知度も高いらしい。
カウンター席に並んで座ると、何となく距離が近くてくすぐったくなる。
座るなり、駿人さんが何かを取り出してわたしに手渡した。
「フランクフルト土産」
「え、いいの?」
反射的に尋ねると、彼は笑いながら「もちろん」と頷いた。中から出てきたのはお菓子だった。駿人さんの説明によると、フランクフルトの人気店とのこと。
ドイツに帰ってからもわたしのことを考えてくれていたのかなと思うと、むず痒くて、でも頬が緩むのを止められなくて。
「ありがとう」
ぱっと明るい顔を作ったら、駿人さんが一瞬呆けて、それからすぐに視線をメニューに移した。
わたしたちは旅行中と同じようなテンションでオーダーするものを決めていく。
「なんか、日本のラーメン店なのにそうじゃないみたい。おしゃれだし」
「メニューも豊富だよ。枝豆とか揚げ出し豆腐とかサラダもあるし。あ、餃子頼みたいけどいい?」
「もちろん! そろそろ餃子恋しいなあって思っていたの」
写真付きのメニューはどれも醤油味を連想させるものばかり。久しぶりの日本の定番おつまみメニューに二人で盛り上がる。なんだか、日本の居酒屋にいるみたい。
餃子は日本で食べるあの味そのままで、薄い皮はぱりっとこんがり焼けていて、中はとってもジューシー。
「そういえば、沙綾のシェアメイト男がいるんだって?」
「男女ミックスのフラットシェアってこっちでは一般的だってリリーが言っていたよ」
「……そうかもしれないけど……」
今住んでいるフラットの様子を伝えると、なぜだか駿人さんが面白くなさそうな声を出した。
「エリックの英語教師ぶりが厳しくって。いい勉強なんだけど、まだ会話が拙いから毎日心が折れてる」
「俺とも英語で話すか?」
「……それはいい」
それはそれでもっと心が折れそう。
ちょっとだけ拗ねた声を出すと、彼がふわりと口元を和らげた。
「やっぱ、いいな」
なんて、ぼそりと呟くから。わたしは何に対しての「いいな」なのか、その先を訪ねることができない。
でも、隣に駿人さんがいることにホッとしてしまうわたしもいて。
少し会えなかっただけなのに、ただの友だちの距離のはずなのに、こんなにも今、わたしはドキドキしている。
これってデート? などと考えそうになって、いや場所はラーメン店だし、とか慌てて否定をして。でも、ラーメンを一緒に食べて楽しいって思うのも地に足が着いていていいなあとか肯定してしまう自分がいる。
「あーもう。チャーシュー美味しいっ! 餃子も最高。体重増えたのに……って、いまの無し。忘れて」
「そんな変わらないと思うけど」
「わーすーれーてー」
うっかり口を滑らせた台詞に自己嫌悪。
駿人さんは慰めるようにわたしの頭の上にぽんっと手のひらを置いた。
「よし、明日からもっと歩こう。あと腹筋する」
顔を赤くしないように、わたしは敢えて決意表明をする。
「ね、もしかして……駿人?」
隣から半信半疑の声が聞こえたのはそんなとき。つい先ほど隣に客が案内されてきていたな、と思い出した。
わたしは隣に顔を向ける。
そこには、黒髪を顎のラインで切りそろえ、黒のパンツスーツ姿の女性。彼女は身を乗り出して、わたしを飛び越えて駿人さんに視線をやっている。
その瞳がゆっくりと喜色に染まっていくのをわたしは認めた。
「もしかして、真子か?」
駿人さんの声がやけに遠くに聞こえた。
* * *
ソーホー地区の外れにあるバーはまだ時間が早いせいか客もまばらで、三人で窓際のテーブル席に座った途端、真子さんが明るい声を出す。
「久しぶりだね、駿人。いつ以来だろう?」
「最後に会ったのが二十三、四の時じゃないか」
「そっかあ。そんなになるんだあ」
自己紹介によると彼女の名前は安城真子さん。駿人さんとは大学時代の友人でゼミが同じだったとのこと。卒業後は日本のエネルギー関連企業に入社し、今年の四月からロンドンへ赴任してきたそうだ。わたしなんてまだまだよ、なんて微笑み交じりに謙遜をしているけれど、駿人さんにへの近況報告でちらりと話した仕事内容が、なんていうかわたしの知っているそれとはまったく違っていて、世界を股にかけている感が半端なかった。
さすがは駿人さんと同じ大学出身なだけある。男性と肩を並べて順調にキャリアを積んでいるのだと感じさせるオーラをまとっている。
「まさか駿人とロンドンで会えるとは思わなかったなー。フランクフルトにいるって、ゼミ仲間が話していたから。落ち着いたら連絡とってみようかなって思っていたんだよ。ロンドンとフランクフルトなら近いじゃない」
ラーメン屋での再会のあと、せっかくだからと誘ってきたのは真子さんのほうだった。
駿人さんはわたしに気を使ったのか、一度は断ろうとしたけれど、彼女が「お連れさんも一緒でいいし」と気を回してくれたため、どうしてだかわたしも一緒に同じ席に着いている。
別に二人の仲が気になるから、とかいうわけではない。
というか、さすがにわたしでも察するものはあるわけで。
同じゼミの友人という間柄にしては駿人さんの態度はどこか素っ気ないというか、よそよそしい。反対に真子さんの方は駿人さんともっと話をしたいという気持ちを隠しきれていない。
「四年過ごして、今五年目。移動の話、そろそろ出るかもな。俺勤務地限定してないから」
駿人さんは真子さんの連絡云々に触れずに返事をした。
「さすが外資系。わたしはさ、日本企業だし、古い体質も残っているからなかなか外(かいがい)に出しては貰えなくて。やっとよ。やっと順番が回ってきたの」
「やっとって、俺たちまだ三十だろ」
「わたしは来月で三十一だからね。それに、同期で早くに海外赴任が決まった男性は二十七だったんだから」
悔しそうに唇を尖らせた真子さんはそれから一転、元ゼミ仲間の近況に話題を移した。誰それが結婚したとか、誰に第一子が生まれたとか、二人にしか分からない会話を続けていく。
彼女の弾んだ声の中に優越感が混じっていると考えてしまうのは、わたし思考回路がひねくれているからだろうか。
駿人さんは真子さんの言葉に「へえ、あいつが」とか「三津も父親になったのか」とか感想を漏らしていく。
「日本にいたときは定期的にみんなと飲み会したりしているんだけどね。わたしもしばらく参加できそうもないから帰ったら置いてきぼり感半端ないかも」
わたしは二人の会話を聞きながらピムスをちびちび飲んでいく。
「駿人はよくロンドンには来るの?」
「年に二、三度かな」
「次の出張の時教えてよ。ごはん一緒に行こう。わたしまだこっちに知り合いいなくて」
「結構忙しいから、時間が取れたら連絡する」
「あ、じゃあ名刺渡しとくね」
真子さんが鞄の中から名刺入れを取り出した。そこから即席名刺交換が始まった。といっても彼女が欲しいのは駿人さんのものだけだろう。
彼女はわたしにもついでとばかりに名刺をくれた。CMで流れている有名なエネルギー会社の名前が印字されている。
「ありがとうございます。でもわたしいまは何も持っていなくて」
「あら、そうなの。ええと、沙綾さんだったわよね」
一応、わたしの名前を憶えてくれていたらしい。彼女の興味がわたしに移ったのを敏感に感じ取った。
「沙綾、それうまい?」
ふいに駿人さんが話しかけてきた。それどころか彼はわたしの返事も待たずにグラスを抜き取って自身の口元に持って行く。
「甘いけど後味さっぱりだな。きゅうりは余計だけど」
わたしが今飲んでいるピムスはイギリスのお酒で、夏場になるとスライスされたきゅうりとレモンが入って供されるらしい。細長いグラスの中では確かにレモンときゅうりが同居している。
「やっぱり。ちょっと変だよね」
駿人さんと同じ感想でちょっとだけ嬉しくなる。
「ああそれ、どこの店でも頼むと大体きゅうりが入っているみたい。名物らしいわよ」
真子さんがさらりと会話に加わった。
「そういえば、まだ聞いていなかったんだけど、沙綾さんと駿人って何繋がりなの?」
口調はやわらかくてさりげないのに、わたしをじっと見据える瞳には妙な迫力があった。
「沙綾は俺の婚約者」
何の気負いもなく、駿人さんはさらりと口にした。明日のロンドンは晴れのち雨だと報告するような口調だから、わたしのほうがびっくりして固まってしまう。
目の前では真子さんが中途半端に口を開けて、同じく硬直している。
「……あら、そうなの。おめでとう」
真子さんはすぐに笑顔を取り繕い、形式ばった言葉を口にする。
「じゃあ、こっちには旅行というより駿人の元へ引っ越してきたのかしら。でも駿人、いまフランクフルトに住んでいるんだよね?」
まさか彼の出張にまでついてきたの、と言いたげに真子さんは少し大げさに眉根を寄せた。
「沙綾は今ロンドンに住んでいる友人の元に居候しているんだよ」
「失礼ね。ちゃんと家賃は払って、正当に住んでいます!」
「留学しているの?」
「いえ。単に旅行です。春に会社を辞めたので」
とそこまで言って、わたしは慌てて「もちろん日本に帰ってからちゃんと転職活動しますから」と付け加えた。
わたしは、駿人さんがその台詞を聞いて、一瞬苦い薬を飲んだような顔をしたことに気が付かなかった。
「沙綾」
「なによ」
彼がわたしを諫めるような声を出すから、反射的に警戒心丸出しの声になってしまう。
あれほど、婚約のことはどうなったのだろうとか、悩んでいた癖に、いざ彼の口からその言葉が出ると反発してしまいたくなる。
わたしたちの視線が絡み合う。彼の真意は読めない。いつだってそうなのだ。
彼の本音なんて、わたしには読み取ることなんてできない。
「あらやだ。訳あり?」
わたしたちを観察していた真子さんが少し面白そうに身を乗り出した。
* * *
「どうしてあそこで否定するんだよ」
真子さんと別れたあと、二人で歩き出した途端駿人さんが不機嫌そうな声を発した。
「そっちこそ、どうしてわたしのこと婚約者、だなんて紹介するのよ。わたし、一度だって承諾していないのに」
「あれは……、なんていうか。真子の手前そっちのが楽だったというか」
言い方にカチンとして、わたしは無言で歩幅を広めた。
まだロンドンの土地勘はあまりないけれど、カムデンタウンへ帰るならノーザンラインのトッテナムコートロード駅かレスタースクエア駅に出れば乗り換えなしで帰ることができる。
「駅、こっちだ」
「……」
定期的にロンドン出張に来ている駿人さんの方が中心部の道に詳しかった。
彼に駅までの道案内をしてもらうのが少々悔しくて、わたしはつい尖った声を出してしまう。
「名刺交換したんだから今度一緒にご飯行けばいいじゃん。ヨーロッパに駐在する者同士話も弾むでしょ」
「俺は別に真子と食事に行くつもりもないよ」
「友達なんだから行けばいいじゃん」
「沙綾が気にすることは、俺はしたくない」
「別に、彼女と昔何があったかなんて、わたしは気にしないし。同じヨーロッパ在住なんだから、友好でもなんでも深めればいいじゃん」
つい反射的に答えてしまう。しかもだいぶ可愛くない言い方だ。
わたしが何について言ったのか彼は理解したらしい。しばし視線を宙に彷徨わせ、そのあと口を開く。
「俺と真子は大学の時付き合っていた。卒業してからも少しの間続いていて、お互い仕事が忙しくて疎遠になってフェードアウトした。そういう相手と沙綾の知らないところで会うのは違う気がする」
「わたしにいちいち説明してくれなくていいよ」
そうだろうな、とは思っていたけれど、いざ本人の口から聞くと自分でも驚くほど胸が痛んだ。
「だって沙綾機嫌悪いだろ」
「別に機嫌悪くない。駿人の元カノが何人出てこようともわたしには関係のないことだし」
「じゃあなんで」
「わたしが怒っているのは、真子さんにわたしたちのこと婚約者同志だとか、祖父同士が決めた縁談だとかそういうの全部言っちゃったってことに対して」
本当は、真子さんへのけん制の材料に自分が使われたことも面白くなかった。
わたしへの気持ちなんてないくせに、その場でこうしたほうが上手く収まるから、という理由で彼はわたしを理由に使ったからだ。
真子さんの前でわたしたちが婚約云々の話を始めてしまったこともあり、駿人さんは尋ねられるままに、わたしたちの馴れ初めや許嫁について話してしまった。
確かに家族公認の間柄ではあるけれど、そこにわたしの意思なんてないのに。
「今更秘密にすることもないだろう。ここで隠しておいて、真子が妙な気起こしてもお互いに気まずいだけだし」
「うっわ。そういう自意識過剰なところ、さすがもてる男は考えることが違うよね」
駅にたどり着いてもわたしたちの口論は続いていた。
電車がプラットホームに滑り込んでくる。
「送ってくれなくていいよ。外はまだ明るいし」
この時期、夜十時近くまで日は沈まない。
「駄目だ」
保護者だから? と口から出そうになる。ああだめ。真子さんの存在がどうしても頭の片隅でチラついてしまう。
「沙綾。せっかくロンドンで会えたんだから機嫌直せ」
「わたしはいたって平常です」
「沙綾」
それからは無言だった。
カムデンタウンに到着して、改札を出てフラットまで、駿人さんは律儀にわたしを送り届けてくれた。
フラットはもうすぐ目と鼻の先。こんな風に口論するはずじゃなかった。
昨日駿人さんから連絡貰ったとき、本当はとても嬉しかった。今日だって、朝からずっとそわそわしていた。
何を着ていこうって、ううん。新しく買ったワンピースのことしか頭になかった。旅行中はずっとラフな格好ばかりだったから、少しは違う雰囲気のわたしを見てもらいたかった。
駿人さんがわたしのことを単なる幼なじみくらいにしか思っていないことくらいちゃんと理解しているはずなのに。
彼の結婚相手に求めるものだって、最初から分かっていたし、元カノを牽制するためにわたしを使ったことだって理解していた。
けれども、わたしの中の、もう一人のわたしが駄々を捏ねる。
わたしはあなたにとって都合のいい許嫁ではない。
「……沙綾」
フラットの玄関の目の前で、駿人さんに呼ばれた。
「送ってくれてありがとう。おやすみ」
わたしは早口でお礼を言って玄関を開けて中へ入った。彼の顔は見なかった。
「……ばかだな、わたし」
内廊下にずるりと座り込み、それだけ呟いた。
* * *
翌日もわたしの心は晴れないままだった。
些細なことで嫌な態度を取ってしまって、そのまま彼とは連絡を取っていない。
自分が大人げないことくらい十分承知している。
人のことを突然婚約者みたいに扱った駿人さんに戸惑って、それから真子さんの存在にも心を揺さぶられた。彼女はわたしの知らない駿人さんを知っている。
同級生というだけでわたしのコンプレックスを刺激するには十分なのだ。彼女は、簡単に駿人さんの隣に立つことができるのだから。
それは、幼いころのわたしが欲しくてたまらなかったもので、けれどもうんと背伸びをして限界まで手を伸ばしても手の届かないものでもあった。
「お好み焼き、久しぶりだなあ」
待ち合わせ場所に向かう最中、隣を歩くリリーが弾んだ声を出した。
わたしたちはコヴェントガーデン近くの路地を歩いていた。このあたりには小さな雑貨店が多く普段ならわたしのテンションもダダ上がりだけれど、昨日から心の中は曇り空が続いている。
だめだ。せっかくリリーたちと外食なのに。気分を変えないと。
「お好み焼き、自分では作らないの?」
ロンドンに来て意外に思ったことの一つが、リリーが自炊をしているという事実だった。お嬢様の彼女のことだから外食ばかりかと思っていたのだが、スーパーで買い物をして自分で料理もすると胸を張られた。
「自分でも作るよ。でも材料をそろえるのが面倒だからたくさんの種類は作れない。大体いつもキャベツとチーズとベーコンとコーンになる」
薄切り肉は普通のスーパーでは売っていないし、日本食材店は高いからあんまり買わないしパスタが多いかもと話が続いていく。この話ぶりとキッチンの調味料のストックから鑑みても彼女はまめに料理をしているということだ。
「それにしてもロンドンにお好み焼き屋さんがあるなんて、世界は狭いなあ」
「ロンドンの日本人社会も狭いよぉ。もしかしたら店内で知り合いに会うかも」
「そんなにも狭いの?」
「駐在員と学生とだとあんまり被らないんだけどね。ワーホリと学生はよく被るよ、交際範囲が。駐在はリッチだから遊ぶところが被らない。あ、でも日本人ネットワークはどこでつながっているか分からないから怖いよねー」
などと話しているとお好み焼きレストランに到着をした。会社帰りのダニエルと合流するので待ち合わせは十九時だが、太陽はまだはるか高い位置に居座っている。つくづく時間間隔が分からなくなってしまう夏のヨーロッパ。
店の中は日本でよく見るタイプのお好み焼き店そのままで、テーブル席の真ん中にはそれぞれ鉄板が備え付けられている。テーブルに案内されて日本式に暖かなおしぼりが供され、ほっと息を吐く。
ダニエルが到着するまで日本語でおしゃべりを続ける。
「それよりも、駿人を誘わなくてよかったの? 出張中で寂しい夕飯を食べていそうだから呼んであげたらよかったのに」
「いいの。わたしは別に駿人とずっと一緒にいないといけないってわけでもないんだから」
もしかしたら、真子さんと飲みに行っているかもしれないし。別に、わたしが着にする必要もないわけだし。
「やっぱり元カノのこと、気になる?」
「駿人が誰と付き合っていたとしてもわたしには関係ないし。わたしだって彼氏いたしね」
わたしの攻撃的な口調に、リリーが上を見上げた。駿人さんとのごはんどうだった、と聞かれて心がささくれ立ったまま彼女に色々とぶちまけたのだ。
「それよりも、今日はどういう会なの?」
今日はダニエルが友人を連れてくると聞いている。
「んー、単にみんなでお好み焼き食べようの会。ダニエルの友だち、アーサーっていうんだけどその人とは会ったことあるよ。アーサーが日本人連れてくるって。なんか職場の同僚らしいよ」
「へえ?」
要するにご飯は大勢で食べたほうが賑やかで楽しいよね、ということらしい。
どんな人が来るのだろうとぼんやりと考えていると、店内に客が入ってきた。店員が客をこちらへ連れてくる。顔をそちらに向けて一拍後、わたしは口を中途半端に開けて「あ……」と言って固まった。
「あなた」
対する女性も、立ち止まり同じように中途半端に口を開けた。
一緒に歩いて来た男性が突如立ち止まった女性、真子さんに顔を向けて、どうしたんだと言わんばかりに眉を持ち上げた。
「はあい、アーサー」
リリーが陽気な声で話しかける。ダニエルと同世代に見える彼は恰幅の良い身体を少し揺らしながら「Hi, LiLiy」と返事を返した。ということは彼がダニエルの友人で、職場の同僚の日本人が真子さんということらしい。
こわ。ロンドン日本人社会、聞いていた以上に狭い。昨日の今日でもうもう再会とか。なにそれ。どれだけ狭いの。
固まったわたしを見たリリーは何かを察したらしい。
アーサーは側に立つ真子さんに「ほら、マコ座って。俺お好み焼き楽しみ」と呑気に宣った。
* * *
あれからほどなくして合流したダニエルを加えて、お好み焼きパーティーは無事決行と相成った。
ビールで乾杯をしたあと、ダニエルが「アーサーは日系企業に勤めていて、俺とは高校の頃からの友人」と説明をした。
相変わらず淡々とした口調だけれど、これが彼の標準なのだとわたしもすっかりなじんでいる。