わたし、逢坂沙綾はこの春会社を辞めた。
新卒で入社をしたIT系企業で働くこと数年。二十六歳になるこの年、わたしは会社の洗脳から解けたというか、このままこの会社にいたら潰される未来しかないかも、ということに気が付いて逃げ出した。
辞めるまでに三カ月ほど要したけれど、渋る上司に「ドイツに住む婚約者のもとに行きます」と言って辞表を受諾させた。
まあ、嘘は言っていない。ただし、会いに行くといってもいよいよ結婚する、というわけでもない。
むしろ、その逆。親族が意気投合して勝手に婚約者ということにさせられた、この不毛な関係を終わらせるために、彼に会いに行くことにした。
ゴールデンウイークが終わり、人々が日常生活に舞い戻るころ、わたしは単身フランクフルト行の飛行機に飛び乗った。
機内映画を三本くらい観て機内食を食べてうとうと眠って、それにも飽きたという頃、ようやく私の乗る飛行機はドイツのフランクフルトへ無事着陸を果たした。
「ああ、いたサヤちゃん」
入国手続きを無事終えて、スーツケースをピックアップして、入国ロビーへと続く自動ドアをくぐったわたしの耳が日本語を拾った。
黒髪の男性が近寄ってくる。
平均的な日本人男性よりも高い背は、ぎり百八十センチには届かなかったと昔皮肉気に言っていたのを思い出す。
すっと通った鼻梁に薄い唇。長くもなく短くもない黒髪をスタイリング剤で無造作に整えている。仕事を休んでいるためか、ジャケットにシャツというカジュアルな格好がまた妙に様になっている。内心数年ぶりに会うのだし老けているかも、と思っていたのだがまったくそんな気配はない。
「蓮見さん、お久しぶりです」
わたしは大人の女性らしく丁寧にお辞儀をした。
二人きりで会うのは何年ぶり……もしかしたら、大人になってからは初めてかもしれない。
久しぶりに会うのに、相変わらず洗練されていて、わたしは急に落ち着かなくなった。
「昔みたいに名前で呼んでくれていいのに」
急に緊張してきたわたしと違って彼、蓮見駿人さんは涼しい顔をしている。
「勝手知ったる古なじみなんだし」
彼はさらに言葉を重ねた。
「……じゃあ駿人さんで」
名前を口に乗せると、胸の奥がほんの少しだけざわついた。べつに、この年になってここまで初心でも無いはずなのに。もしかすると、これから彼に言うべき事柄のせいで、少しセンシティブになっているらしい。
「学生の時は駿人って呼び捨てだったのに。その前は駿人お兄ちゃんだったね」
「社会人になって、年上の相手に呼び捨てはちょっと……」
「最後に会ったのはおととしの年始だっけ?」
「たしか去年、いえ今年の年末年始は駿人さん帰って来なかったのでそうだと思います」
「あれ、責められている?」
「いいえ。別に」
二人の間に沈黙が降りた。
次に口を開いたのは駿人さんの方。
「飛行機疲れただろ。眠れた?」
「ま、まあ……」
と、ここでわたしははたと気が付いて顔を下に向けた。
何しろ、乾燥した機内に十二時間半もいたのだ。軽くメイク直しをしたとはいっても、すっぴんに近いナチュラルメークだ。
それに、快適さ重視で選んだ本日の服装はネイビーのロングワンピース。その上にオフホワイトのカーディガンを羽織るというラフすぎるかっこう。
今更ながらにわたしは、羞恥に顔を赤らめた。もう少しおしゃれに気遣えばよかった。
いや、こいつに会うのに気合など入れる必要は無いと判断したのは過去のわたしだ。
駿人さんはわたしの心情など気にするそぶりも見せずに、さりげなくスーツケースを奪って歩き出した。
勝手知ったるという風に入国ロビーをすたすたと歩きだす。
わたしも慌てて彼を追う。
到着したのは電車の線路だった。改札も無しに、ホームに降り立ったわたしに、彼が切符を手渡してくれた。
「検閲官、回ってきて切符持ってなかったら罰金だからね。無くさないように」
「慣れてますね」
「ま、かれこれ五年目だしね。ああ、あと敬語はいらないよ」
「でも」
一応年上だし、と承諾を躊躇っていると電車到着のアナウンスが響いた。
そこで会話が途切れてしまう。
ホームに入ってきた電車は一部が二階建てになっていて、当たり前だけど車内アナウンスも掲示されている路線図もドイツ語で。
改めて異国に来たのだと実感した。
ちらりと駿人さんを盗み見る。カジュアルダウンした格好だが、妙にドイツに馴染んでいる。なんだか悔しくてわたしは彼から視線を外した。
新卒で入社をしたIT系企業で働くこと数年。二十六歳になるこの年、わたしは会社の洗脳から解けたというか、このままこの会社にいたら潰される未来しかないかも、ということに気が付いて逃げ出した。
辞めるまでに三カ月ほど要したけれど、渋る上司に「ドイツに住む婚約者のもとに行きます」と言って辞表を受諾させた。
まあ、嘘は言っていない。ただし、会いに行くといってもいよいよ結婚する、というわけでもない。
むしろ、その逆。親族が意気投合して勝手に婚約者ということにさせられた、この不毛な関係を終わらせるために、彼に会いに行くことにした。
ゴールデンウイークが終わり、人々が日常生活に舞い戻るころ、わたしは単身フランクフルト行の飛行機に飛び乗った。
機内映画を三本くらい観て機内食を食べてうとうと眠って、それにも飽きたという頃、ようやく私の乗る飛行機はドイツのフランクフルトへ無事着陸を果たした。
「ああ、いたサヤちゃん」
入国手続きを無事終えて、スーツケースをピックアップして、入国ロビーへと続く自動ドアをくぐったわたしの耳が日本語を拾った。
黒髪の男性が近寄ってくる。
平均的な日本人男性よりも高い背は、ぎり百八十センチには届かなかったと昔皮肉気に言っていたのを思い出す。
すっと通った鼻梁に薄い唇。長くもなく短くもない黒髪をスタイリング剤で無造作に整えている。仕事を休んでいるためか、ジャケットにシャツというカジュアルな格好がまた妙に様になっている。内心数年ぶりに会うのだし老けているかも、と思っていたのだがまったくそんな気配はない。
「蓮見さん、お久しぶりです」
わたしは大人の女性らしく丁寧にお辞儀をした。
二人きりで会うのは何年ぶり……もしかしたら、大人になってからは初めてかもしれない。
久しぶりに会うのに、相変わらず洗練されていて、わたしは急に落ち着かなくなった。
「昔みたいに名前で呼んでくれていいのに」
急に緊張してきたわたしと違って彼、蓮見駿人さんは涼しい顔をしている。
「勝手知ったる古なじみなんだし」
彼はさらに言葉を重ねた。
「……じゃあ駿人さんで」
名前を口に乗せると、胸の奥がほんの少しだけざわついた。べつに、この年になってここまで初心でも無いはずなのに。もしかすると、これから彼に言うべき事柄のせいで、少しセンシティブになっているらしい。
「学生の時は駿人って呼び捨てだったのに。その前は駿人お兄ちゃんだったね」
「社会人になって、年上の相手に呼び捨てはちょっと……」
「最後に会ったのはおととしの年始だっけ?」
「たしか去年、いえ今年の年末年始は駿人さん帰って来なかったのでそうだと思います」
「あれ、責められている?」
「いいえ。別に」
二人の間に沈黙が降りた。
次に口を開いたのは駿人さんの方。
「飛行機疲れただろ。眠れた?」
「ま、まあ……」
と、ここでわたしははたと気が付いて顔を下に向けた。
何しろ、乾燥した機内に十二時間半もいたのだ。軽くメイク直しをしたとはいっても、すっぴんに近いナチュラルメークだ。
それに、快適さ重視で選んだ本日の服装はネイビーのロングワンピース。その上にオフホワイトのカーディガンを羽織るというラフすぎるかっこう。
今更ながらにわたしは、羞恥に顔を赤らめた。もう少しおしゃれに気遣えばよかった。
いや、こいつに会うのに気合など入れる必要は無いと判断したのは過去のわたしだ。
駿人さんはわたしの心情など気にするそぶりも見せずに、さりげなくスーツケースを奪って歩き出した。
勝手知ったるという風に入国ロビーをすたすたと歩きだす。
わたしも慌てて彼を追う。
到着したのは電車の線路だった。改札も無しに、ホームに降り立ったわたしに、彼が切符を手渡してくれた。
「検閲官、回ってきて切符持ってなかったら罰金だからね。無くさないように」
「慣れてますね」
「ま、かれこれ五年目だしね。ああ、あと敬語はいらないよ」
「でも」
一応年上だし、と承諾を躊躇っていると電車到着のアナウンスが響いた。
そこで会話が途切れてしまう。
ホームに入ってきた電車は一部が二階建てになっていて、当たり前だけど車内アナウンスも掲示されている路線図もドイツ語で。
改めて異国に来たのだと実感した。
ちらりと駿人さんを盗み見る。カジュアルダウンした格好だが、妙にドイツに馴染んでいる。なんだか悔しくてわたしは彼から視線を外した。