このたび、(仮)許嫁と婚前旅行する羽目になりました

 あれだけ自由行動にこだわっていたのに、今は駿人さんが隣にいないことが心細い。

 そういえば昔、まだ子供だった頃も駿人さんとはぐれたことがあった。
 ふと、頭の中に小さいころの思い出が蘇った。

 ドイツ語で声を掛けられたのはそんなとき。
 びっくりして顔を上げると、目の前には男女二人の姿があった。年齢はわたしよりも年上だろうか。堀の深い顔立ちをしている彼らがわたしに向かって英語で話しかけてくる。

 旅行英会話くらいならなんとかなりそうなものだけれど、早口でまくしたてられたわたしは反射的に後ずさる。
 彼らは一体、何を言っているのだろう。紙切れを取り出してわたしに何かを訴えている。

「あー、えーとっ」

 わたしは日本人特有の愛想笑いを顔に浮かべた。
 だいぶ引きつってはいるけれど、この場でどう振舞っていいのかわからない。

 女性の方がわたしに紙を押し付けようとする。わたしのすぐ隣には彼女の相棒の男性がぴたりと張り付いていて。
 ひやりと恐怖心が足元からせりあがってくる。

 何これ、怖いかも。
 すぐにその場から離れればいいのに、こういう時に限って足は動いてくれない。
 それに、追いかけられたらとか、ホテルまで付いてこられたら、とか色々なことが頭の中をよぎってしまう。

「Ist es etwas f?r meinen Begleiter?」

 第三者の声にわたしたち三人は一斉に声の方へ顔を向けた。
 強張っていた身体が弛緩する。その途端に、自分が想像以上に怖いと感じていたことを思い知る。

「駿人さん」

 彼は険しい顔のまま、わたしに話しかけていた男女二人組にドイツ語で詰問する。

 何度目かの会話の応酬のあと、二人組はどこかへ歩き出した。
 それを見届けたわたしはようやく肩の力を抜いた。
 一体、彼らは何だったのだろう。
 二人組の背中を睨みつけていた駿人さんはわたしのほうに向きなおった。
 彼はため息をひとつ吐いた。

「まったく。人を撒いておいて、詐欺に引っかかりそうになっているんだから世話ないね」
「なっ……」

 わたしは絶句した。駿人さんの口から出た言葉についていけなかったからだ。

「自分勝手な行動して、俺がどれだけ探したと思っているんだ」
 駿人さんは険しい目つきのままわたしを見下ろす。

「人を困らせて楽しい?」

 一方的な決めつけに、わたしの心が凍り付く。
 わたしは呆然と駿人さんを見上げた。彼と目が合う。ガラスのような農茶の瞳が、わたしの姿を映している。

「……そ、んな、言い方しなくても」

 一瞬でからからに乾いた喉から、かろうじて漏れた言葉。
 それを、駿人さんは鼻で笑った。
 彼はわたしが一人行動をしたくて意図的に姿を消したと決めつけている。

「じゃあどういう言い方ならいいわけ。言い方を代えても一緒だろ。サヤちゃんが悪いんだから」
「なっ……」

 心臓が音を立てたような気がする。
 たしかにわたしも悪かった。前方不注意だったし、通り沿いのお店に気を取られていた。

 けれど、駿人さんから逃げたくて姿を隠したわけではない。
 なのに彼は一方的にわたしを悪者にした。
 再会してから積もっていた、彼に対する小さな不満が体の中で弾けていく。
 だったら、あなたの方はどうなの。

「とにかく、こういう子供っぽいことはもうしないって――」

「きらい」
「え?」

 お腹の奥からふつふつと何かが沸き上がった。

「駿人さんなんか、大嫌いっ! わたしの言葉も聞かないで一方的に決めつけて。自分だって、人のペースも確認しないで勝手に歩いて行ったじゃない。フランクフルトからずっとそうだった。わたしはいつもあなたを後ろから追いかけるだけ。一度でも後ろを振り返ったことあった? ないよね。せっかくドイツに来たんだもん。ちょっとくらい歩くのゆっくりになるじゃい。そ、そりゃあ、わたしも不注意だったけど、一方的に言われたくない」

 敬語なんて頭からすっ飛んでいた。
 気が付けばわたしは子供みたいな癇癪を起していた。大きな声で、言いたいことを一方的に喚いて、最後は鼻の奥がつんとした。

 ばかみたい。駿人さんと離れて、一人になって心細く感じていただなんて。

「結局、あなたの中でわたしはずっと子供で。だから、偉そうに全部勝手に予定も何もかも決めちゃうし。上から目線の態度だし、そんな人と結婚したってうまくいくはずないじゃん。あなた、わたしのことずっと子供としかみていないんだもん」

 わたしは肩で息をして、それから足を動かした。
 対する駿人さんは何も言わずにその場に留まっていた。

 気持ちが収まりきらなくて、わたしは大股で歩いて、地下鉄に乗ってホステルに戻った。
 後ろから駿人さんが付いてきているとか、ミュンヘン観光とか、そういうのはどうでもよくなっていた。
 わたしはホステルの自分の部屋に無言で駆けこんだ。

 * * *
 わたしは二段ベッドで自己嫌悪に陥りながら悶々と過ごし、空腹に逆らえず結局起き上がることにした。

 やってしまった。何をって、子供のように癇癪を起してしまった。
 考えてみれば、わたしにだって非はあったのに。わたしだって、よそ見をしながらのんびり歩いていた。彼がすたすたと歩いて行ってしまうことなんて、いつものことだったのに。

 それでも、一方的に悪者扱いされて、保護者目線で説教されることに我慢ならなかった。

「……ごはん、買いに行こ」

 わたしは荷物を持って外に出た。
 午後七時を回っているのに、ミュンヘンの街はとても明るい。この時期、確か日没は午後八時過ぎだとガイドブックに書いてあった。

 どこか店に入って食事する気にもなれなくて、わたしはホステル近くの大通りを歩いて、目についたケバブスタンドで夕食を調達するとにした。
 それを持ってホステルに戻って、フロント隣の共有スペースで一人でケバブを胃の中に収めた。

 その間中考えるのは駿人さんのことばかりで。きっと彼はわたしの幼稚な行動に呆れているのだろうなと考えた。

 もしかすると、もう旅行は終了かもしれない。
 付き合いきれなくて、彼はフランクフルトに戻ってしまうかもと頭をよぎる。

 すると、胸の奥がずきんと痛んで、わたしは慌ててその考えを振り払う。もともと、これは一人旅の予定だったのだ。

 元に戻るだけで、どうして悲しまないといけないの。
 向こうだってせいせいしているはずなんだから。

 やっぱり、駿人さんとの結婚なんて無理な話だったのだ。だって、彼はわたしのことなんて昔から単なる子供としか思っていなかったわけなのだし。

 って、だから違う。わたしはぶんぶんと頭を左右に振った。
 振りすぎてくらくらした。
 結局この日はもやもやを抱えたままホステルの部屋に引き籠った。

 * * *

 翌日、わたしは予約済みの列車の時間に合わせて起床した。
 顔を洗って、化粧をして、荷物をまとめてチェックアウトをする。

「おはよう」

 日本語が聞こえてきて、どきりとした。

「……」

 そこには、出発の準備を終えた駿人さんの姿があった。彼の挨拶は普段通りで、そのうえ笑顔で。
 対するわたしは、彼に何を言っていいのか分からずに、返事もできずにいた。
 こういうところが子供だと自分でも思うのに、幼なじみというには拗らせすぎているわたしの表情筋は油切れの機械のように動いてくれない。

 結果、中央駅からフュッセン行きの列車に乗ってもまだ駿人さんと会話が出来ないでいた。

 どうやら彼は律儀にわたしの旅行にまだ付き合うらしい。
 わたしの両親への責任もあるのだろう。わたしだっていい大人なのだから、もう見切りをつけてしまえばいいのに。

 こういう、可愛くないことを考えるのがだめなんだろうな。
 わたしは乗車前に買った朝ご飯のサンドウィッチを食べることにした。パンにチーズとハムを挟んだだけの簡単なものがとても美味しい。

 それはこんなときでも変わらなくて。わたしは夢中になって咀嚼する。
 列車はいつの間にか市街地を抜け、田舎ののどかな風景の間を走り抜けている。

 緑色の牧草地帯と、遠くに見える集落と尖塔。どこまでも広がる空。
 心地の良い揺れに誘われて、わたしはいつの間にか眠っていたらしい。

 小さなころのわたしが泣いていた。あれは何歳の頃のことだったか。
 夏だった。家族と一緒に、軽井沢かどこかに旅行に行った。わたしのおじいちゃんが軽井沢に別荘を持っていて、毎年夏になるとみんなで泊まりに行くのが習慣だった。
 軽井沢ではおじいちゃんのお友達と合流して、バーベキューや釣りやらを楽しむのが常だった。

「ん……あれ?」
 わたしはぼんやりとあたりを見渡した。

「おはよう」
「ん、おはよう」

 どうやら眠っていたらしい。昨日は少し寝つきが悪かったせいだろうか。
 窓の外はまだのんびりとした田舎の風景が流れている。たた寝していたのは短い時間だったらしい。

「って、駿人さん!」

 隣にはいつの間にか駿人さんが座っていた。さっきまで別の座席にいたのに、どうして。

「沙綾、寝てたし。一応心配になって」

 わたしが心底驚いた声を出したのに、彼はまったく落ち着いた声だった。
 ん、ちょっと待って。今、わたしのことを何て呼んだ?

「い、い今、あなたわたしを沙綾って」

 驚きすぎてどもってしまった。
 この人、昔からずっとサヤちゃんとしか呼ばなかったのに。いきなり呼び捨てって、一体どういうことですか。

「昔さ、沙綾迷子になったことあっただろ」

 わたしの質問には答えずに、駿人さんが突然にそんなことを言い出した。
 一体いつの話だと訝しんだのも一瞬で、そういえばさっき夢に見たことを思い出す。
「俺、あのとき中学生でさ。ただでさえ家族旅行なんて恥ずかしく思うような年ごとになったっていうのに、蓮見家の小さな女の子の遊び相手を押し付けられて」

 その小さな女の子が今あなたの隣にいますけれど。

「大人たちの手前、放っておくのもアレだから、適当に散歩させるかって思って、別荘の周りを歩いたんだよね」

 そうしたら、と彼は続ける。わたしも覚えている。迷子になって、心細くてべそをかいていたら、駿人さんが見つけてくれて、わたしは慌てて彼のTシャツの裾を掴んだ。

「あのときと今の俺は一緒だな。あのとき、沙綾は俺に謝ったんだよ。きれいな花を見つけてついそっち行ってしまったって。俺は、沙綾のしたいことをくみ取れていなかった。ただ散歩をさせておけば満足するだろうって。今もあんまり変わっていなくて愕然とした。有名な観光地を一緒に巡っていればそれでいいだろうって」

 駿人さんは懺悔のように言葉を続けた。

「悪かった。俺はもっと沙綾のしたいことや行きたいところに気を掛けるべきだった」
 駿人さんの声が小さくなった。

「……俺の方こそ、一方的に色々と言ってごめん。でも、沙綾の姿が見えなくなって本当に心配した。外国でもしも何かあったらと思うと、気が動転して、メールするとかそういうことすら浮かばなくて。いや、スマホは立ち上げたんだけど、そういえば番号も何も知らないって気が付いて」

 それから彼は説明してくれた。
 昨日わたしに声を掛けてきた人たちは、署名詐欺と呼ばれる人なのだと。観光地に出没をして、物慣れない外国人に声を掛け、一人が気を引いている隙に相方がターゲットから財布などの貴重品を擦るのだそう。

 ガイドブックにも注意喚起が書いてあったはず。まさか、自分が標的にされるだなんて思いもよらなくて、わたしは今更ながら愕然とした。

「……わたしのほうこそ、ごめんなさい。ちょっと、ううん、だいぶ前方不注意だった」

 今までとは違って、駿人さんの声に反省の色が乗っていたから、わたしも自分の非を彼の前できちんと認めることができた。

「……LINE交換する?」
 ぼそぼそと付け足したのは、わたしも昨日心細い思いをしたから。
「今更だな」
 スマホを取り出すと、彼が口元を緩めた。わたしもおかしくなってしまう。

 IDを交換して、駿人さんが友達に追加される。ついでに番号も交換した。
 でも、まだ会話を続けるにはぎこちなくて。わたしは駿人さんの出方を窺う。

「これからはちゃんと隣を見て歩くし、多少の自由行動も互いに必要だよな」
「どうしたの? 急に」

 わたしは目をぱちくりと瞬いた。
 あれほど頑固だったのに、態度が軟化するにもほどがある。まあ、わたしにしてみれば嬉しい提案ではあるのだけれど。

「俺の中で沙綾はずっとあの頃の、それこそ迷子の子どものままだったのかもしれない」
「ふ、複雑……」

 思わず本音が口から出てしまう。
 さすがにそれはないんじゃないの。あれから一体何年経っていると思っているの。

「でも、もう沙綾も大人なんだよなって、昨日分かった。俺の結婚相手でもあるわけだし」
「よく同じ口でいけしゃあしゃあと言えますね」

 子供としてしか見れなかったんじゃないの。

「まさかロリ……」
「じゃないから」

 わたしが口にした懸念事項を、彼が瞬殺した。その返しに、わたしは内心ホッとして、それからふるふると頭を振る。

「ま、沙綾ももう二十五歳こえたアラサーなわけだしサヤちゃんって年でもないしね」
「し、失礼な! わたしはまだ二十五歳だもん」
「四捨五入したら立派な三十だから。ようこそ、三十歳」

 それはもういい笑顔で言われてしまい、わたしの口元がぴくぴくと引き攣った。

 絶対に、この間の会話を根に持っている!
 結局このあと、不毛な舌戦が繰り広げられた。でも、それがちょっと楽しいと思ってしまったのは、彼には絶対に内緒なのだった。
 駿人さんと和解らしきものをしたわたしたちは、その二日後ドイツからオーストリアに入った。

 一部地域を除いて国境審査のないヨーロッパ。同じドイツ語圏内ということもあって、ザルツブルクの駅構内の表示はドイツとそう変わらず、けれどもスーパーにはモーツァルトの肖像が描かれたお菓子がたくさん売っていたりして。

 そういう些細な変化でわたしはようやくオーストリアに来たのだと実感した。

「ここからは約束通り自由行動でしょう。わたしはこれからカフェに行くんだ」
「へえ、どこの?」

「ガイドブックに載っているカフェに行きたくって。とっても可愛い内装で、ケーキも美味しいんだって。なんでも、ピスタチオ味のマジパンの入ったチョコレート菓子発祥の地として有名なんだって」

 わたしは鼻息荒く説明した。
 午前中にザルツブルクへ到着をしたわたしたちはその足でミラベル宮殿やザンクト・ペーター教会と墓地や大聖堂などを見て回った。

 そのあと、昼食は旧市街のレジデンツ広場に面したカフェレストランに。ヨーロッパは一皿がとても大きくて、このときばかりは駿人さんがいてくれると助かる。

 そしてこれからは待ちに待った自由行動。

 フュッセン行きの列車の中で和解したわたしたちは穏やかに旅を続けている。
 約束事は、お互いを尊重すること。プライバシーの尊重だ。ようするに、適度な個人行動を認めるということ。

 だって、さすがにずっと誰かと行動すると息が詰まっちゃうから。宿泊部屋は別々なんだけど、ゆっくり買い物だってしたいのだ。

「俺も行く」

 わたしはじとっと駿人さんを見つめた。
 この人、まだわたしのことを子ども扱いするのか。

「いや、俺もちょうど小腹が減ったし。ほら、有名な店なら同僚に土産を買うのもやぶさかではないし」
「……しょうがないなあ」

 たしかにモーツァルトクーゲルンというお菓子はザルツブルクでは定番のお菓子だ。発祥の地の店ならば駿人が興味を持ってもおかしくない。
 ゲトライデガッセ通りは観光客も多い目抜き通り。左右には土産物店が並び、つい目移りしてしまう。

「見てく?」

 あんまりにもわたしが注意散漫になっていたのか、駿人さんが口元を緩めながら尋ねてきた。

「ううん。あとでいい。カフェ、人気みたいだから先に行く」

 到着をしたカフェはこじんまりとした小さな店。家庭的な内装は女の子らしさで溢れていて、わたしの中にかろうじて残っている乙女心がくすぐられた。
 あいにくと店内は満席で、待ち時間を使ってショーケースののケーキをじっくりと吟味した。どのケーキも美味しそうで、どれを選ぶべきか。うーん、迷ってしまう。

「やばい。どれも美味しそうで決められない」
「俺も」

 なんて、駿人さんもまんざらでもなさそうで、二人して数々のケーキに目を奪われていたら、待ち時間も苦にならなかった。

 しばらくして二人掛けの席に案内されて、わたしが迷いに迷ってオーダーしたのはチョコレートケーキ。素朴な飾りつけのケーキだけれど、スポンジとクリームが何層にも重なっていて断面が可愛らしい。

「ん、美味しい。もっと甘いのかなって思っていたけど、そこまででもないね。やーん、美味しくって幸せ」
「うまいな。さすが人気店。オーストリア、クオリティ高いな」

 駿人さんが満足そうに目を細めた。
 彼の前にもわたしとは違う種類のチョコレートケーキが置かれている。

「わたし、オーストリアではわたしできるだけカフェに行こうって決めているんだ」

 何しろオーストリアといえばカフェだ。数日後に向かうウィーンでも、行きたいカフェはたくさんある。何しろザッハトルテ発祥の地なのだ。これはもう行くっきゃない。

「俺も付き合うよ」
「え、でも……。駿人さんこういうところあんまり好きじゃないでしょ」

 とは言うものの、実はわたし駿人さんの嗜好をよく知らない。二人きりで出かけたことなんてなかった。

 ケーキをもう一口。やっぱり美味しくってほわんと頬が緩んでしまう。
 それにしても、駿人さんはいったいどういうつもりだろう。まだ保護者面をするつもりなの? それとも……ケーキが好きだとか?

 わたしは駿人さんの頼んだケーキを見つめた。すでに八割方なくなっている。

「……俺だって、食べたいんだよ」

 ぼそりと声が聞こえてきた。少々ぶっきらぼうに聞こえるのは、気のせいか。

「何を?」
「……ケーキ」

 観念したかのように、駿人さんが口を開いた。
 ええと、要するにこれって、わたしの保護者というよりもむしろ……。

「駿人さん甘いもの好きなんだ」
「悪いか」
「いや、別に」

 わたしはきょとんとした。今どきスイーツ男子なんて珍しくもない。会社でもチョコレートバーをバリボリ食べていた男性社員とか普通にいたし。いや、あれは本能が糖分を欲していただけかもしれないが。

「普通、男が甘いものに執着するとかカッコ悪く見られたりするだろ」
「そうかな?」
「そうなんだよ」
「ああ、もしかして歴代のカノジョに何か言われた?」
「ノーコメント」

 ここで余計なことを聞いてしまうのがわたしという生き物らしい。
 そして、彼の反応から図星だと察した。

 彼はまだばつが悪そうにしている。どうやら相当恥ずかしがっているようだ。

 もしかしたら、一見クールそうに見える外見に惹かれた女性には、彼の甘いもの好きががっかりポイントだったのかもしれない。
 ……別に、駿人さんがどんな女性と付き合っていたかなんてわたしには関係ないけど。

「わたしは気にしないけどな」

 普段完璧な彼の一部に触れることができてほんのり嬉しくなる。彼でも照れ隠しをするらしい。
「甘いものが好きだなんて、駿人さんも可愛いところあるじゃん。一人が寂しいなら、仕方ないからわたしのカフェ巡りに呼んであげる」

 いつの間にか、わたしは昔のように駿人さんとため口で話すようになっていて。
 わたしのちょっと澄ました声を聞いた彼は少し間を置いた後「可愛いところって失礼だからな」と言って、それから「呼んでくれるなら喜んで」とにこりと付け加えた。

 * * *

 ザルツブルク二日目は朝から雨が降っていた。霧雨とかしとしと降りとかではなくて豪快にざあざあと本降りである。

「うわぁ……これはまたやる気をなくす天気……昨日は晴れていたのに」

 昨日の夜、駿人さんと二人で旧市街のライトアップを見ながらホテルに帰ってきたことを思い出す。
 ザルツブルクを流れるザルツァッハ川を挟んで、旧市街と新市街に分かれているのだ。川越しに浮かび上がる旧市街はうっとりするほど幻想的だった。

 隣を歩く駿人さんが夜景のせいか、割増しに精悍に見えてしまい……と思い出したかけてわたしは慌てて頭の中から彼を追い出す。

 これから一緒に朝食を食べに行くのに、どんな顔をしたらいいのだ。
 本降りの中、ブログでお勧めされていた川沿いのカフェでモーニングを頼んで、本日の予定を確認。

「せっかくのバスツアーなのに……雨あがるといいね」
 クロワッサンをちぎりながらわたしは窓の外の重たい雲を見上げた。
「こればかりは俺たちの力じゃどうしようもないからな」
「だよね……」

 クロワッサンもヨーグルトも美味しいのに、天気が悪いと心が沈んでしまう。

 今日はザルツブルク郊外をめぐるバスツアーを申し込んでいたのに。自然現象に文句を言っても仕方がないとはいえ、やる気も沈んでしまう。

 集合時間までは自由行動にして、わたしたちは解散した。
 といっても、この雨では何もする気は起きない。
 わたしはホテルの部屋に戻って荷物の整理をすることに。スーツケースの中身をひっくり返していると、スマホが鳴った。

「げっ……」

 表示されているのはお母さんの名前。

 後ろ暗いことのあるわたしはできれば母とは話したくないのだけれど、旅行中一度は連絡を取っておかないと、帰った後面倒なことになる。

「もしもし」

 わたしは通話ボタンをタップして、時差約七時間の日本との通話を開始した。

 わたしの生存確認をした母は、明るい声で近況報告をしていく。習い事のフラダンスの発表会が近く、練習のため最近よく家を空けていることを言われたため「頑張ってね」と返しておいた。

『それでね、沙綾ちゃん。あなた、会社辞めたでしょう。今住んでいるアパートいつ解約するの? お引越しの準備とか、こっちにも予定があるからちゃんと日程決まったら教えてね』

「え、ちょっと待って。わたし今住んでいるところ解約する予定はないよ?」
『あら、だって。帰国したら部屋解約してドイツに引っ越すんでしょう? 駿人くんと住むために』

 お母さんのおっとりとした声にわたしの頬が引きつった。
 これはちゃんと説明しないとだめだ。

「ちょっと! 何か勘違いしているようだけど、わたしは蓮見さんと付き合ってないからね。今回わたしが蓮見さんに会いに行ったのは、おじいちゃんが勝手にきめた許嫁の件を無かったことにしたいって言いに行くためなんだよ。てゆーか、ドイツに引越しとか、絶対に無いし!」

 わたしは一気にまくしたてた。ちょっと酸欠気味になってしまった。

『あら、まあ……そうだったの。お母さんてっきり今回のドイツ行きは結婚の前準備だとばかり……』

「いやいやいや。まさか。そんなことあるわけないじゃん。大体、わたしたち付き合った記憶もないし。お母さんも知っているでしょ? わたしたちこの数年ろくに会ってもいないんだよ」

『沙綾ちゃん忙しく働いていたものね。でも今はスカイプもあるし、相手の顔をみて電話もできる時代だから、いまどきのカップルってそういうものなのね、って。てっきり……』

「んなわけなぁぁぁいっ!」
『大きな声出さないの。でも、ヨーロッパ一緒に回っているんでしょう』

「それは……まあ、大人の都合ってやつで」

 本当は一人旅の予定だったんだけどね。あまり余計なことを言うと、心配性なお母さんから要らぬ説教を貰うことになるかもしれない。わたしは口を濁した。

『わざわざ駿人くんは休みまで取ってくれたんだから、迷惑かけないようにするのよ。沙綾のわがままに付き合ってヨーロッパ周遊だなんて、ほんとうにいい人ねえ。そんな人なかなかいないわよ。駿人くんならわたしたちも良く知っているし、今は立派に働いているでしょう。ドイツ暮らし、楽しそうじゃない。わたしたちも遊びに行けるし、沙綾ちゃんそのまま結婚したらいいじゃない』

「よくない!」
 わたしの親も大概だ。どうして本人の意思を丸無視して外野が盛り上がるのか。

『お母さんからも、もう一度お礼を言わなくちゃいけないわね。あ、そうだわ。今度、駿人くんになにか差し入れでも送ろうかしら。たしか昔から大福が好きなのって蓮見さんの奥さんから聞いたことがあったわねえ』

 ねえ、ドイツに大福って送れるのかしら、と呑気な質問を受けたので「知らないよ」と答えた。

「とにかく、わたしは日本に戻ってもアパートは解約しないし。ていうか普通に転職活動するし」

『変な意地張っていると駿人くんを違う女の人に盗られちゃうわよ。だいたい沙綾ちゃん昔は駿人くんのこと大好きだったじゃない。ほら、中等部の制服が出来上がってきたときも、駿人くんに見せたいなんてわくわくした声出しちゃって』

「ぎゃぁぁぁっぅ!」
『もう。さっきからうるさいわねぇ』

「お、お母さんが変なこと言い出すからでしょう! と、とにかく、わたしと駿……蓮見さんとはほんっとうにこれっぽっちも何にもないから。そろそろ切るからね!」

『あ、ちょっと。あなた元気にしているのならいいけれど。お野菜もちゃんと食べるのよ。あと、遅い時間まで出歩かないように。駿人くんの言うことをちゃんと聞いて行動するのよ』

 母特有の注意事項を延々垂れ流しそうな気配を察したわたしは通話を終了した。
 そのままベッドにダイブして悶絶。

 お母さんのせいで余計なことまで思い出してしまった。身内は厄介すぎる。わたしの黒歴史を簡単に掘り起こしてしまうのだから。

 確かに……駿人さんはわたしの初恋だ。
 いや、違う。初恋ではない。断じて違う。ちょっといいなあと思っていたくらい。

 小学校から女子校に通っていたせいもあって、なんていうか、身近に憧れる対象がいなかった。それで五歳年上のお兄さんが現れたらちょっと浮かれてしまうのも道理というもので。

だからあれはアイドルのような……いや、そういうのではなくてちょっと近くにいる頼りになるお兄さん的存在。

 断じて初恋ではない。
 だいたい、あの男、わたしがせっかく中等部の真新しい制服姿を見せに行ったのに「ふうん」としか言わなかったし。

 今思い出しても腹立つ……。ちょっとは、感想くらい言ってくれてもいいじゃない。

 小学生から中学生への進学はとても大きな変化だった。ランドセルから学生カバンに代わるし、制服も校舎も違う。
 ずっと憧れていたお姉さんの証でもある中等部の制服にそでを通して、それから駿人さんに認めてもらいたくなった。

 当時の彼は高校生で、わたしと顔を合わせてもあんまりおしゃべりをしてくれなくなっていた。まあ、わたし自身も自分が子どもだと自覚していたから何を話していいのか分からなくなっていたというのもあるけれど。

 だから、あの日は浮足立っていた。大人に一歩近づいて、それは駿人さんにも近づけるということでもあって。

 なのに、真新しい制服姿のわたしを見ても彼は何の反応もしてくれなくて。
 結果、駿人さんのお母さんの方が必死になってフォローをしてくれた。
 今思い出してもしょっぱすぎるエピソードだ。
 ああもう。今こんなことを思い出してどうしろというの。

 * * *

 ウィーン初日の晩餐は全会一致でヴィーナーシュニッツェルに決まった。
 市内中心部に立地する、ウィーン風カツレツの有名店は、年代物の木のテーブルとどこかレトロで歴史を感じさせる内装で、否が応でも期待が高まった。
早い時間に訪れたため、予約なしでもなんとか席を確保することができた。

「うわ。大きい……。これ、一人で食べられるかな」

 給仕されたヴィーナーシュニッツェルは皿からはみ出るほどの大きさ。薄く伸ばした肉を細かいパン粉でまぶしてきつね色にこんがりと揚げた一品だけれど、想像以上のボリュームでもあった。

「薄いし大丈夫だろ」

 一人一皿、大人の顔よりも大きそうなヴィーナーシュニッツェルを前にそんああっさりと。
 一緒に頼んだスープもサラダもボリューム満点だ。

「おいしいっ。レモンだけでいけるかな、って思ったけど案外下味付いてるね。さっぱりしてておいしい」
「ウィーンに来たって気がする。あと肉食べてるって気も」

 下味が付いているため、レモンをかけただけでも十分に美味しいし、あっさりとしている。

 きゅっきゅっと噛みしめると肉汁が口の中に広がって頬が緩んでしまう。さすがに肉ばかりだと飽きるので間にサラダを挟んで口休め。サラダは酸味の聞いたドレッシングのおかげでさっぱりしている。

「こうして伝統料理ばかり食べていると、オーストリアを満喫してるって実感する」
 昨日まで滞在していたザルツブルクでもレバークヌーデルズッペというレバーを使った肉団子のスープを食べた。ローストポークや牛肉の煮込み料理など、駿人さんと一緒だと色々な料理を試すことが出来てその点は、リリーの指摘道理一人よりもリーズナブルだし充実している。

「俺、出張以外だとドイツから出ることもなかったし、隣の国なんて似たようなものだろとか思っていたけど、こうして出かけてみると楽しいな」

「駿人さんせっかくヨーロッパで暮らしているのにね」
「けっこうもったいないことしていた」

 どうにかヴィーナーシュニッツェルを完食したけれど、おかげでお腹ははちきれそう。

 うう、苦しい。でも、旅行先で名物料理を食べるのも旅の醍醐味。
 とはいえ、体重計に乗るのは怖い。明日もしっかり歩こう。うん、そうしよう。

 店から出ても、まだ外は明るい。
 お酒が入っていることもあって、わたしは気分よく歩く。

「まだこんなにも明るいんだから、ヨーロッパの春っていいねえ」

 適度な気温と七時を過ぎても明るい屋外。瀟洒な建物はパステルカラーで、表通りにはカフェのテラス席が並んでいて、とってもおしゃれ。

「そうだな。冬が長い分、俺もこの時期が一番楽しみ」

 駿人さんがしみじとした声を出す。
 冬は日照時間が短く、ドイツに赴任した年は本気で太陽が恋しくなったとのこと。

「もうすこし歩いていくか?」
「腹ごなししないとね~」

 のんびり歩いていると、トラムが走って行くのが見える。
 通り沿いのショウウィンドウに、わたしが映っている。その隣には駿人さん。

 彼はちゃんとわたしに合わせて歩いてくれるようになった。
 今日のわたしはブルーのカットソーに薄いブラウンのパンツというラフな格好。可愛さよりも動きやすさ重視なコーディネートだけれど、隣を歩く駿人さんとの年の差はあまり感じない。

 小さいころの五歳差は高い壁のようにわたしの前に立ちはだかっていたけれど、大人になって社会に出ればたかだか五歳差になる。
 同じテーブルについて、一緒にワインリストだって眺められちゃうのだから、月日というものは偉大だ。

 お酒を飲める年だからこその楽しみもあって、わたしはほわほわした気分のまま、えいやっと駿人さんと手を繋いだ。
 わたしよりも大きな手。大人の男の人だなあって思うけど、小さいころ繋いでもらったんだから、なんだか不思議な気持ちになる。

「……酔ってるだろ」
「酔ってないよ~」

 わたしは思い切り笑い転げた。

「いや、酔ってる」
「あはは」

 少しだけひんやりとした風がわたしの肌をくすぐっていった。

 * * *

 たかだかグラスワイン二杯ごときでわたしの記憶がぶっ飛ぶことはない。
 もちろんわたしは昨日、酔っぱらった勢いで駿人さんと手を繋いだことを覚えている。

 そしてそのお返しを貰ったのはシェーンブルン宮殿へ向かう道すがら。彼がさりげなく、本当に自然にわたしの指に自分のそれを絡めてきたときのこと。

「うっわひゃぁ」

 駅を降りて他の観光客に混じって歩いているときのことで、わたしは素っ頓狂な声を出してしまった。

「なんて声を出すんだよ」
 隣から不満そうな声が聞こえてきた。
「だって。だって。駿人さんが急に手を繋ぐから」

 しかも恋人繋ぎだなんて。

 いや、わたしだって手を繋ぐことくらいで驚いたりはしない。大学時代に彼氏がいたことだってある。あいにくとブラック企業でこき使われていたから社会人になってからはいなかったけれど。

 とにかく、わたしだって世間の人々が考える男女交際というものは一通り経験してきた身。とはいえ、相手は駿人さん。

「昨日沙綾が手を繋いできたから。いいのかな、って」

 わたしは昨日の行いを猛省した。彼はあっけらかんとした口調で他意はないように見える。
 体中の血液が熱くなるような感覚に陥って沙綾はこの次なんて答えていいのか分からなくなってしまう。

「嫌なら離すけど」

 駿人さんはあっさりと絡めていた指を離した。離れたとたんに指の隙間を風が通り抜ける。心まで妙に寂しくなってしまう。

 そっと彼を窺うと、涼しい顔をしている。
 一体何を考えているのだろう。問いただしたくなるけれど、わたし自身ゃあどうしてほしいのかと問われるとなんて答えていいのか分からなくなる。

 会話をするでもなく宮殿まで歩き、チケットを購入して入場。

「わあ。すごい」

 世界遺産で、かの有名なマリー・アントワネットが生まれ育った宮殿はオーストリア観光のハイライト。
 目の前に豪華な内装に目を奪われ、直前までの複雑な心境が瞬時に吹き飛んだ。

「生まれたときからこれだと、そりゃあパンが無ければケーキを食べたらいいんじゃなくって? とか言っちゃうのかな」

 大ギャラリーの美しすぎる天井画を見上げての感想。
「いや。あれは本人が言ったわけではないらしいよ」
「そうなの?」

「当時はフランス中がマリー・アントワネットをディスってたって話だから。新聞とかで色々と話の誇張やねつ造もあったらしい」
「SNSもない時代なのに炎上していたなんて、大変だったんだね」

 この宮殿で生まれ育ったマリー・アントワネットはフランスへ嫁ぐことになる。当時は列車なんて存在していないのだから馬車での移動だ。毎日馬車に乗っての移動だなんて大変だったんだろうな。

 建物内を見て回った後、わたしたちは庭園の丘に建つグロリエッテまで登った。丘まではそれなりに距離と傾斜があって、昨日沢山食べ多分のカロリー消費が出来そう。
 今日はこのあと、ザッハトルテを食べる予定だし、しっかり歩いておかないと。

「ちょっと曇り空だけど、いい眺めだね」

 丘の上からはウィーン市街が一望できる。スマホを取り出して写真を撮って、来た道を戻る。

 移動前にお手洗いを済ませて戻ってくると駿人さんの姿が無かった。
 きょろきょろしつつ、わたしは土産物店を冷やかすことにした。まあ、そのうち戻ってくるだろう。

 店内の商品を何とはなしに見ていると「本当に助かりました」という日本語が聞こえてきて、つい反応してしまった。

 外国で聞こえる日本語だ。耳が勝手反応してしまう。世界的観光名所でもあるわけだし、日本人だっているだろうと顔をそちらに向けてびっくり、駿人さんが見知らぬ女性と並んで歩いてくる。

 春らしい軽やかな花柄スカートやヒール付きのパンプスに小ぶりのショルダーバックを肩から下げている女性二人が駿人さんを挟んでいる。

 えっと、どういう状況だろう。
 その場に佇んでぼんやりと眺めていると、駿人さんの方がわたしに気が付いた。

「沙綾」
 彼が女性二人組に会釈をしてわたしのほうに向かって歩いてくる。
「お連れさん?」
 どうしてだか女性二人までもが駿人さんの後ろをついてきた。

「ああ、俺の彼女」
「!」

 駿人さんが何の気負いも無しに、流れるように言うものだから、わたしのほうがびくりとしてしまう。

 というか、その前に彼女たちはいったいどなたなのだ。
 返事が出来ないでいると、女性二人組はわたしをじろじろと眺めてくる。年頃はわたしと同世代といったところ。二十代中ごろで、上品に染めた茶色の髪の毛はつやつやだし、可愛らしくアレンジされている。隙のない化粧といい東京の丸の内や品川を闊歩していそうなキラキラOLのよう。

「ええと?」
「彼女、スマホを落としたみたいで困っていたようだから、インフォメーションに一緒に付き合ってきた。同じ日本人同士だし」
「それは大変でしたね。見つかったんですか?」

 異国の地でスマホを失くすなど一大事だ。わたしが尋ねると、二人のうち一人が柳眉を下げた。

「いま、探してくれているとのことです。わたしたち、英語もそこまでできるわけでもないから、助かりました」
 それで、と一人が心細そうに付け足す。

「できれば一緒に待っていてほしいんです。ほら、わたしの英語力じゃスタッフの話とか聞き取れないし、聞きたいことだってなかなか聞けないし。その点蓮見さんならさっきもドイツ語話していたし」

 彼女の主張に、駿人さんはうっと詰まってしまい、そしてわたしに視線を向けた。

 困っているときはお互い様だ。
 わたしはゆっくりと頷いた。

「よかったぁ。もう、心細くって」

 女子二人はきゃっきゃと喜び合う。
 それからただ待つだけではつまらないから、宮殿の外を散歩しようということになって、女子二人、しっかりと駿人さんの両側をキープ。わたしはその後ろを付いて歩くという微妙な立ち位置になった。

 二人は東京在住で、現在二十四歳。会社の同期で休みを合わせて旅行に来たのだという。五月に一週間も休みがもらえるとは羨ましい。夏休みにしては早いよね、と思ったのだが、保険会社に勤めている彼女たちは夏休みとは別に一週間お休みを取れるらしい。

 なにその羨ましい環境。つくづく、わたしは辞めた会社のブラック加減を思い知る。

 それから誓った。帰国したら、ホワイトな会社に再就職しようと。

 二人は駿人さんからそれとなく個人情報を聞き出そうとしている。彼女たちが自分たちの情報を晒したのもその一環だ。
 ドイツ在住ということで、ちょっと落胆していたけれど、めげずに質問攻めをしている。

 ていうか、一応わたし彼女ってことになっているんだけど。
 そのわたしを無視して甘い声を出すのだから、これが肉食女子なのかといっそ感心してしまうほど。

 適度に時間を潰してインフォメーションまで戻って、駿人さんがスタッフと何やら話し込んでいる。
 どうやらまだスマホは見つからないらしい。
「二人とも個人で全部手配したの? それともどこか旅行代理店経由?」

 不安そうな二人は駿人さんに問われて、日本でも有名な旅行代理店の名前をあげた。

 その後駿人さんがその代理店に連絡するようスマホを失くした子にてきぱきと指示をした。これからすることを順番に説明をしていくさまはどちらかというと教師か上司のようでもある。

 もう一人の子のスマホからウィーンにある旅行代理店の支店に連絡を入れ、そちらのスタッフと通話している間、わたしたちは少し離れたところから見守っていた。

「なんだかごめんな」
「ううん。旅行中に困っていたら、お互い様でしょ」

 自分の身に置き換えたら心細くなってしまう。わたしがそう言うと、駿人さんが頭をぽんぽんと撫でた。

「沙綾は優しいな」
「そうかな。普通のことだと思うけど」

 頭の上がくすぐったい。さっきまで、なんとなく疎外感を感じていたのに、心の奥を綿毛でくすぐられたかのよう。
 通話を終えた二人がわたしたちのほうにやってきて「できればウィーンの旅行代理店まで付き合ってほしいです」と懇願する。

 ここまで来たら乗り掛かった舟だと思うことにする。
 帰る道すがら、今度は駿人さんはさりげなくわたしの手を握ってきて、わたしはずっと彼の隣をキープしていた。

 朝は振りほどいてしまったのに、今はこの手のぬくもりが心強くて。隣にいるのがわたしでいいのだと思わせてくれる。
 そんなわたしを見て、一人が「本当は蓮見さんの牽制役の妹さんとかじゃないんですかぁ?」と尋ねてきた。

 悪気のない声と表情だけれど、悲しいかな、わたしは女子特有のマウント取りの気配を察してしまう。
 たしかに今日のわたしは、というかこの旅行中ずっとだけれど、カジュアルすぎる格好をしている。化粧だって薄いし、気合の入った二人がわたしを侮るのも無理はない。

「いいや。俺の婚約者」
「え、本当に?」

 わたしが何かを言う前に駿人さんが即答するから、二人はぽかんとした。

「え、あの」

 違うと言おうとすると、駿人さんがわたしの手を握る手を強めた。何も言うな、ということらしい。

 わたしは仕方なく黙った。彼もぐいぐいくるこの二人の質問攻めに辟易したのかもしれない。今更ながらに駿人さんはモテるのだと感じてしまい、わたしはもやもやとしてしまった。

 * * *

「んん~美味しいっ」
「これが老舗の味か」

 夕食前のひと時、わたしたちはようやく名門ホテルのカフェにてザッハトルテにありつくことが出来た。

 高級ホテル内のカフェということもありクロークがあったり内装も豪華で、薄手のブラウスにパンツスタイルというわたしは、ドレスコードに引っかかったらどうしようと内心冷や冷やしていたけれど、スタッフはみんな親切でホッとした。

 ちなみに駿人さんは綿素材のジャケットに黒いパンツとこぎれいにまとめている。

「やっぱり、せっかくオーストリアに来たんだから、これだけは絶対に食べたかった」
「昨日はヴィーナーシュニッツェルにも同じこと言ってなかった?」
「そうだっけ」

 とにかく、食べたいものがたくさんありすぎるという結論に落ち着く。

「この旅行で俺、いろんなケーキ食べれているからマリー・アントワネットの気持ちが少しわかった」
 駿人さんがしみじみした声を出す。

「毎日ケーキ食べれるって最高だなって。パンよりもケーキ食っとけって、俺的には全然あり」
 わたしはぷっと噴き出してしまった。彼の感想も大概だ。

「だって、それマリー・アントワネットの発言じゃないんでしょ」
「まあ、そうだけど。俺は今幸せだってこと」
「ヨーロッパ在住ならオーストリアだってしょっちゅう来られるじゃない」
「男一人だとこういうカフェはまだ敷居が高いんだよ」

 駿人さんが少し口をとがらせる。

「駿人さんって案外に子供っぽいところあるよね」
「そうかな」

 彼が心外そうに眉を持ちあげる。
 わたしはそんな彼のしぐさに、ふふっと笑った。
 今日は色々あったけれど、最後はこうして二人でお茶ができたのだからよしとする。

「こうして二人でお茶したりお酒飲んだり。ご飯の好みを言い合ったり。ここに来て急に仲良くなったよね」
「そうかもな。改めて考えると俺たちって二人で行動したことってこれまでなかったしね」

 駿人さんが目をやわらかく細めた。じっと見つめられたわたし妙にこそばゆくなって視線を逸らせてしまった。

 * * *