それからというもの、僕はいじめられることもなく、どことなく腫れ物に触れられるような扱いを受けることとなった。
 まあ、どこぞやのチャラ男が二股かけましたーとかならよくある話で済みそうだけど、大して人気もない僕が、真面目で通っている梓と、地味な印象が強い所沢さんと二股しようとしたってなると、もうガチにしか思われないだろうし。仮に僕がクラスメイトの立場だとしてもそう思う。
 正直なところ、そんな風評を否定するリソースは僕には残っていなかった。梓のことでいっぱいいっぱいだったから、僕自身、他人からなんて言われようがどうでもよかった。
 ……でも、羽季の言ったことは、正鵠を得ていた。
 わかりやすい異変は、夏休みが明けてから二週間程度で露見した。
 例によって、梓が晩ご飯を作りにきた。僕もその手伝いを一緒にしていたのだけど、この日は珍しく、色々と梓がドジをしてしまうことが多かった。
 調味料の分量を間違えたりとか、味噌汁の味噌を溶かしすぎて味が濃くなってしまったとか、ド定番だけど、砂糖と塩を間違えたとか。
 元から僕の前ではそういう一面を見せることはあった。そもそも、僕が梓のことをただの幼馴染として見なくなったきっかけが、まさに炊飯器のスイッチを入れ忘れたときなのだから。
 でも、今日のそれは、中学生のときのそれとは異質な気がした。
 今日の梓は、心ここにあらず、って感じで、地に足がついていないように見えたから。
「……梓、どうかした?」
 だから、洗いものの途中、隣で食器を拭いている梓に僕は尋ねた。僕の知らないところで、何か起きていたら嫌だと思って。
「え、どっ、どうもしないよ……? 私は」
 僕の質問に、梓は少しだけ動揺したけど、何もないように取り繕ってみせる。そして、
「……凌佑のほうこそ、最近、大丈夫?」
 反対に、僕が梓に聞き返されてしまう。
「……色々、影で言われてるけど……」
 最近の、クラスに腫れ物扱いされていることについてだと思うけど、
「……梓がわかってくれてるなら、僕は別に」
 なんでもない、大丈夫だと決めているので、気丈に返事をしたつもりだった。
「私はわかってるけどっ! ……それじゃあ、意味ないよ……」
 刹那、普段滅多に聞かない梓の大きな声を、僕は耳にした。僕らふたりしかいない家のなかで、遠くから電車の走行音が微かに流れてくる。右手に握るスポンジから零れた水が、シンクを叩く小さな音さえ、確かに聞こえる。
「……ねえ、凌佑。なんか、ここのところ、ずっと機嫌悪くない? 側にいて、……ちょっと、怖いっていうか、張り詰めているっていうか」
 けど、きっと僕の内面に隠している恐怖心でさえ、幼馴染にとってはお見通しみたいで、
「……私といて、凌佑、楽しい?」
 彼女は、不安そうに瞳を揺らしては、右手で左腕をそわそわと触っていた。
「そっ、そんなことないって、全然、梓と過ごして楽しくないなんてことないし──」
「──凌佑。嘘、つかないでいいよ。何か私に不満でもあった? 言ってくれたら、私、できる限り直すから」
 ああ、痛い。
 こんなにも梓が、僕のことを想ってくれているのが、痛いくらい伝わる。
「違うよ、別に、梓に不満なんて全然」
「じゃあ、なんで……私といるときだけ、特別疲れた顔しているの? 夏休みにしたデートだって、凌佑、全然笑ってなかった、楽しそうじゃなかった」
「いや、それはっ……」
 本当のことを言えたら、どれだけ楽になれるだろう。
 実は何度も過去をやり直していることも。
 何度も何度も梓が不幸になっていることも。
 僕がそれをどうにかして回避しようとしていることも。
 全部、言えたら楽になれるだろうけど。
 言ったところで、こんな非現実的なこと、信じてもらえるかわからない。自分が過去の世界で死んでいるなんて話、冗談だとしても気分が悪い。
 ……それに、仮に信じてくれたとして、梓ならきっと、それに責任を感じてしまう。
 何ひとつとして悪いことをしていないのに、自分が悪いって思ってしまう。
 高野梓とは、そういう女の子だ。
「……楽しくないとか、そういうことじゃなくて……」
 今ここで、本当のことを言うのは、何の解決にもならない。僕はその場しのぎの言い訳をなんとか編み出す。
「……わかるよ。十年以上の付き合いだよ? 見ていれば、なんとなくわかるよ」
 だがしかし、どんな言い訳だって、梓には通用しない。最後の食器の水滴を丁寧に拭き取り終えたかと思うと、
「……ごめんね、言いたくないなら、もういいよ。凌佑にだって、私に隠したいことのひとつやふたつ、あるよね。私にだってあるし」
 切なそうに肩で息をつき、目を細めては、困り眉を浮かべて無理に作った笑顔で、
「もう、帰るね。また明日。寝坊したら駄目だよ?」
 言い残すと、そそくさと僕の家を後にした。
 心に感じていた痛みが、じわじわと、バケツに落とした水彩絵の具みたいに、溶け広がっていくように、思えた。