「──────……!」
「……ん……う……。……え!?」
そして次に目を開いた時、マゼンタは目の前の光景に自分の目を疑った。もしかしたら、自分はあの光に巻き込まれて死んでしまったのかもしれないとさえ思った。
「うっそ……。」
「……ほ、ほんまでっか?」
荒廃していたアイリス伯領に、緑が戻っていた。大地は潤い、地面には草花が顔を出し、やせ細っていた木々は太い大木となり葉をつけていた。
「こ、こんなことが……。」
「ありえへんやろ……。」
「そういえば、バン爺たちは……?」
「あ、ちょいっ!」
マゼンタはバン爺たちが戦っていた場所へ駆けて行った。
「……バン爺! シアンくん!」
バン爺とシアンが戦っていたハゲ山は、今では緑豊かな森になっていた。
「シアンくん、どこ!? バン爺、生きてたら返事して!」
ふたりの名を呼びながら森を歩くマゼンタ。すぐにふたりは見つかった。少年の姿に戻っているシアンは木を背にして気を失い、バン爺はうつぶせで地面に倒れていた。
「シアンくん! バン爺!」
マゼンタはまずバン爺に駆け寄った。倒れ方が洒落になっていなかった。
「バン爺っ! 大丈夫!? 生きてる!?」
バン爺を抱き起し、気付けをするマゼンタ。死んでいるように見えたが、幸い脈も呼吸もあった。
「バン爺、バン爺っ」
マゼンタはバン爺の頬をひっぱたき始めた。
「バン爺、死なないで!」
必死でバン爺を叩き続けるマゼンタ。
「……痛い痛い、お前さんがとどめさしとるぞ」
バン爺が目を覚ました。
「バン爺!」
マゼンタはバン爺に抱きついた。
「大丈夫なんだねっ?」
「あ~なんとかのう。おかげで寿命が10年縮まったがのう」
「じゃあ、あと100年は生きるね」
「はっはっ、お前さんの軽口も生きていればこそじゃのう……。」
マゼンタはシアンを見る。
「……シアンくんも、もう大丈夫なの?」
「ふぅむ……。」
バン爺は周りを見渡す。シアンの異常なオドをすべて体の外に流したことを確信した。
「声をかけてみたらどうじゃ?」
「……うん」
マゼンタは裸で気を失っているシアンのもとへ行った。
「……シアンくん、大丈夫?」
マゼンタはシアンの体を抱き上げると優しくなでさする。
「……待遇に違いがあり過ぎやせんか?」
「……う……ん」
「シアンくん!」
シアンが目を開いた。嵐の後の晴天のような瞳がマゼンタを見る。
「……マゼンタ……さん」
「良かったぁ!」
マゼンタはシアンを抱きしめる。シアンも心を預けるようにマゼンタの体に手を回し、赤い髪に顔をうずめた。しばらくして、自分が何をしているのか理解して慌ててマゼンタの体から手を離した。
「どうしたの?」
「あ、いや、だって……。」
「……シアンや、体の方は平気かね?」
「……うん」
「ちょいと……。」
バン爺はシアンの体に手を当てて、オドの様子を探った。
「……ふむ、オドは安定しとる」
バン爺はシアンを見て笑う。
「年相応の力になったの」
「ねぇ、シアンくん……。」
「なに、マゼンタさん?」
「……はい」
マゼンタははにかみながら持ってきた服を渡した。
シアンもはにかみながらそれに袖を通す。
「……今さら照れとるんかい」
バン爺たちは瓦礫になった城に戻った。そこには体を回復させたアイリス伯がいた。
「……ローゼス卿」
「……終わったよ、アイリス伯」
「……どういう意味だ?」
「この子の、シアンの体の中にあったコアのオドは、すべて外に流させてもらった……。もう、どっからどう見ても普通の12歳じゃよ」
「……美人過ぎるけどね」と、マゼンタが言った。
「ば、ばかな……。」
アイリス伯は足をよろめかせながらシアンに詰め寄る。
「わ、私の研究の集大成が……。」
「……親なら、無事に生まれて健康に育っとるだけで感謝せんかい」
「……私と、妻の長年の努力が」
アイリス伯は頭を抱えて膝をついた。
「……ねぇ、おっちゃん」
アイリス伯が顔を上げると、そこにはアッシュが立っていた。
「……アッシュ」
「ホンマにねぃちゃんが死んだんは、研究中の事故やったん?」
「……何だと?」
「シアンくんとねぃちゃんが家出しようとした矢先やん、事故が起きたの。何か不自然やありません?」
「……お前、私がグレイスを手にかけたとでも言いたいのか?」
「いやぁ、そこまでは言いませんけど……でも、おっちゃんの研究って、事故が起きた頃には成功しとったっていう話しですやん? せやのに、ねぇちゃんの遺体が見つからんくらいの事故が起きるって、おかしないですか?」
「……研究は……成功してなどいなかった」
悔しさを滲ませた声でアイリス伯は言った。
「……え?」
「どういう事じゃ?」
「……研究は私が成功させたのではない」
※
「放して!」
「落ち着けグレイス!」
グレイスは、自分をバーガンディのスパイだと信じて疑わない夫の手を振りほどく。
「落ち着くのはあなたじゃありませんか!」
「私は冷静だ!」
「そうやって怒鳴るのはやめてください!」
アイリス伯は落ち着こうとするが、呼吸が上手く整わない。
「……グレイス、いい加減にしろ。お前は自分が何をやろうとしているのか分かっていない。お前が……お前がここから消えたら、今までの研究がすべて無駄になるんだ」
「……知ってます。だからこそ、わたしはここを出たいんです」
「なにぃ?」
「わたしがいなければ安定しない術式なら、これはもう失敗している様なものではありませんかっ」
「ち、違う、もっと研究を進めていけば必ず……。」
「もう限界なんですっ。わたしを、わたしとシアンをいつまで縛り続ければ気が済むんですかっ?」
「このっ」
「ああっ?」
思わずアイリス伯はグレイスの顔を平手で打っていた。グレイスは地下室の石畳の上に倒れる。
「あ、グレイス、す、すまん……これは、違うんだ……。」
感情に任せて妻を殴ったことにアイリス伯はうろたえる。額からは大粒の汗が流れていた。
倒れたグレイスは泣き声も上げなかった。その沈黙が、女が激しく怒っていることをうかがわせる。
「グ、グレイス……?」
グレイスの感情に反応して部屋の中のクリスタルが緑色に光り始めた。
「お、おい、グレイス、落ち着け……。」
しかし、アイリス伯がそう言うものの、光はより強くなるばかりだった。
「グレイス! 逃げろ! 今すぐ部屋を出るんだ!」
出口へ走り、アイリス伯は研究室の入り口の扉を開け妻を呼ぶ。
うずくまった状態から、グレイスは顔を上げた。
「……グレイス」
最後に見たグレイスの表情の意味をアイリス伯は分からなかった。しかし、最後に妻が発した言葉は何とか聞き取れた。
「……シアンを」
広い地下室の研究所から強烈な緑色の光が放たれた。アイリス伯は吹き飛ばされ、出口から廊下の壁に叩きつけられた。
「……ぐぁ!」
衝撃でアイリス伯は気を失いかけていたが、朦朧とする頭を手で押さえながら研究室へ戻ろうとする。
「……グレイス?」
砕け散ったクリスタルが光る研究室の真ん中で、妻が倒れていた。
「グレイス!」
グレイスのもとに駆け寄るアイリス伯。妻の身を起こすが、すでに意識も呼吸もなかった。激しいマナの暴走に体を貫かれ、外傷はないものの生命機能が停止していた。
「グレイス、頼む! 目を開けてくれ! わ、私はこんなつもりじゃ……!」
悲嘆にくれて、激しくアイリス伯は泣きじゃくり始めた。夫として、妻を目の前で亡くしたならばそれは当然の反応だった。しかし、長年魔術の研究者として人生を費やしてきたアイリス伯は、悲しむ気持ちを切り替え、すぐに異変に気付いた。
「……どういうことだ?」
クリスタルの反応がおかしかった。グレイスの術式によってはじめてクリスタルは出力を安定させる。もし、グレイスが術式を解くか、あるいは死亡したならばこの研究室にあるクリスタルはすべて暴走して爆発していたはずなのに、爆発したのはグレイスの周りにあるクリスタルだけだった。アイリス伯は妻の脈や呼吸ではなく、体内のオドを調べ始めた。
「これは……。」
生命機能は停止している。それにもかかわらず、グレイスの体の中にはオドが生前の時のように充満していた。
この時、アイリス伯の耳元で悪魔が囁いた。動植物に対してのみ使用していた術式を人体に対して使用するという禁忌。妻を救いたいという夫の気持ちと、自分をあきらめられない男の野心が歪に結びついていた。
※
「なんじゃ、術式の研究を完成させとったんは、お前さんじゃなくて奥方じゃったんか……。」
バン爺は「もとい、完成したように見えとっただけじゃな」とため息まじりに言った。
「……おっちゃんが直接手を下したんとは違うとは思いますけど、やっぱり俺としては容認はできひんな。事故の原因作ったんはおっちゃんなんやから」
「アイリス伯よ、もうええじゃろ」
「もう、良いだと?」
「全部が偽りじゃ。お前さんは目的地を見失っとる。研究を完成させたんじゃない。完成させたと信じたいだけじゃ、お前さんは」
アイリス伯はぶつぶつと独り言のように言う。
「完成はするんだ。……するはずなんだ。もう少しなんだ……。」
「これまで投げうったものを考えたら、なかなか退けんじゃろうがな」
「ここであきらめるわけにはいかない……。すべてが……無駄になる」
「もう十分台無しにしとるぞ」
「……黙れ」
「アイリス伯……。」
「黙れ黙れ黙れ! 私の研究は完成する! 貴様らが理解できないだけだ!」
アイリス伯は立ち上がった。そして上着を破り、上半身をむき出しにする。
「何をやっとるん……アイリス伯っ、それはっ……」
アイリス伯の胸元が緑色に光っていた。
「おっちゃん、まさか、自分まで……。」
「当り前だ! 息子だけを危険な目に合わせるわけがないだろう!」
胸元の光がさらに強くなり、アイリス伯から強烈なオドの解放が始まった。アイリス伯を中心に風が吹きすさぶ。
「う、うお……。こりゃまずいの……。お、おい、アイリス伯、ちぃと落ち着かんかっ」
「終わらない、終わらせられない……。」
アイリス伯の体が変異し始めていた。体が巨大化するところはシアンの変身にも近いが、左右の腕の長さが違い、目も左右で大きさが違う。それどころか、こめかみに新しい目が発生していた。アイリス伯は別の生き物になろうとしていた。
「奥方の力がないとクリスタルの出力は安定せんのじゃろ? アイリス伯よ、そんなことをしたら、お前さんの仲にあるコアが暴走するんじゃないのかっ?」
「あ……が……うぁ……。」
「……イっちゃってんじゃん」とマゼンタが呟く。
体を変身させながらアイリス伯が叫ぶ。
「夢は、あきらめなければ、きっと叶うんだーーーーッ!」
「うわぁあああああ!」
「きゃあ!」
アイリス伯の絶叫と共に衝撃波が発生し、バン爺とアッシュは吹き飛ばされた。シアンはマゼンタの前に立ちはだかり、衝撃波を背中で受け止めてマゼンタを守った。
「……大丈夫? マゼンタさん」
「あ、ありがとう……。シアンくんこそ……。」
シアンの衣服の背が破けていた。辛うじて残った前の部分もはらりと落ち、少年の上半身がむき出しになる。
「……シアンくんと結婚するなら、裁縫覚えても追いつかないね」
マゼンタは何気ない軽口のつもりだったが、少年はプロポーズされたのかと思い、この状況で慌ててマゼンタから体を離した。
シアンは振り向くと、父の姿の変化に驚愕した。
「……父……さん?」
そこにいるのは、人間どころか理性の通じる生き物に見えなかった。皮膚はうす緑色に変色なり、筋肉のつき方は歪で、目は3つあった。歯並びの異常に悪い口からは、黄色いよだれが垂れている。
「……やれやれ、人間、追い詰められるとろくなことをせんのう」
シアンの隣にバン爺が立った。
「……バン爺さん」
「……危なくなったら、おじちゃんは逃げるでぇ。一番かわいいんは自分やからな」
さらにその隣にはアッシュの姿も。
「……マゼンタやお前さんはここから──」
バン爺がふり返ると、そこにはもう誰もいなかった。
「がんばってぇ~」
遠くの物陰から、マゼンタは手をふっていた。
「……うむ」
アッシュは両手を合わせて術式を展開する。
「ほなっ」
アッシュの体が膨れ上がり、筋肉の鎧に包まれた。
「いくでぇ!」
前かがみの地を這うようなダッシュでアイリス伯に挑むアッシュ。
「ぐべぇっ」
アッシュはアイリス伯の剛腕から繰り出される裏拳で吹き飛ばされた。
回転して飛んでいったアッシュは、瓦礫の上をバウンドしながら転がり、瓦礫の壁にぶつかって動かなくなった。
「え、もうひとりやられちゃったの!?」
マゼンタが絶叫する。
「ひとりずつ行ってはならんっ。シアン、一緒に行くぞっ」
「分かった!」
シアンが両手を前に出し術式の準備を、バン爺は目の前で印を組んで術式を開始する。
シアンが術式で風を起こす。アイリス伯の体を四方から風が取りかこむ。
バン爺の術式でアイリス伯の足元に雑草が伸び、そして草の茎がアイリス伯を拘束した。
「ちぃと痛いぞっ」
アイリス伯の体を風が作り出した空気の刃、鎌鼬が切り裂いた。アイリス伯の皮膚から鮮血が飛び散る。
バン爺はそのあいだ地面に手をそえ、さらに大地のマナのコントロールを試みる。
「う、ぐぅあああああ!」
アイリス伯がオドの力で強引にまとっていた風を吹き飛ばした。さらに、アイリス伯の足に絡んでいた草も枯れ始めていた。
「なんと、あ奴、土の術式も使いよるのかっ?」
変身したシアンが複数の術式を使っていたので、予想できないことではなかった。しかし、同じ術式を自分より強大なオドで使用されることまではバン爺も考えていなかった。
アイリス伯が足を上げる。枯草は虚しく千切れてしまった。上げた足をドスンと落とすと、バン爺たちの周囲に長いツタが生え、そしてツタはふたりを襲い始めた。
「ぬぅっ」
バン爺は押し返すように、ツタの成長を自分の術式の力で抑える。
シアンは伸びてきたツタを風の刃で切り裂くが、量が追い付かない。
「う、うわぁあ!」
「い、いかん、シアン!」
バン爺が懸念していたことだった。体内のクリスタルの力を失ったシアンは、ほんの少し優秀な12歳の少年ていどだという事を。
バン爺はアイリス伯に石を投げつけた。老人の力で投げられる石は心もとない威力だったが、石は空中で速度を上げ、アイリス伯の側頭部にぶつかった。磁力で石の速度を加速させたのだった。
「ぐぅあ!」
アイリス伯がひるんだことにより、シアンを襲い掛かっていたツタの動きが止まった。
「シアン、難しいことは考えんでええっ。ワシと同じことを風の術式でやるんじゃっ」
「わかったよ!」
バン爺は磁力をあやつり、瓦礫をアイリス伯にぶつけ始めた。四方から飛びかかってくるイシツブテに、アイリス伯は困惑する。
「ぐ、ぐおおおおお……。」
さらに、シアンも風を使いアイリス伯に瓦礫をぶつける。
「……見た目は同じじゃが、風と土の術式での攻撃じゃ。いくら複数の術気を使えるといっても、同時に使いこなせはせんじゃろう?」
バン爺の言うように、アイリス伯はイシツブテに防戦一方だった。魔術というものは術式を理解をしなければ反撃ができない。ただでさえ理性を失ったアイリス伯は、反撃に転じることができなかった。
「……シアンや、道中でワシに見せた術式、使えるかのう?」
「やってみる!」
シアンは両手を空にかざした。空の雲が少しづつ集まり、雷雲を形成し始める。
──ちぃと時間がかかりそうじゃな
「……時間稼ぎするぞい」
バン爺は肩をならしながらアイリス伯の方へ向かった。
「バン爺さんっ」
ひとりアイリス伯に向かうバン爺にシアンが驚く。
「集中せぇ」
そう言うや否や、バン爺がアイリス伯の方へ飛んでいった。
「……ぐぉ?」
イシツブテに気を取られているアイリス伯の目の前にバン爺が現れた。そして加速した状態での右の拳での一発、アイリス伯の首が曲がった。石化した拳での一撃だった。
「ぐるぁ!」
アイリス伯は裏拳を放つ。しかし裏拳は当たらない。いくらアイリス伯が腕をふり回しても、ふわりふわりとバン爺は予備動作もなく攻撃を避けていく。バン爺はお互いの体を磁石にし、アイリス伯が近づくと反発しあうように仕向けていた。
そして隙を見つけると、今度は磁石を引き合わせ飛び込んでアイリス伯の顔に打撃を加えていく。地面を滑走しながら、バン爺は一方的にアイリス伯を殴り続けた。
「や、やるぅ……。」
物陰で見ていたマゼンタがつぶやいた。
しかし、見た目ほど有利ではなかった。バン爺は殴りながらも、自分の攻撃がほとんどアイリス伯に効いていないことを実感していた。加えて、石化しているはずなのに、少しづつバン爺の拳は悲鳴を上げ始めていた。
アイリス伯は肉弾戦をあきらめたらしく、瞳を緑色に光らせた。
「……むぅ?」
「ふぼぁ!」
アイリス伯は口から光球を吐き出し、バン爺にぶつけた。
バン爺の胸部に直撃する光球、バン爺は体をくねらせオドの流れを制御し、光球を自分の拳の先に移動させた。
「返すぞいっ」
青白く光る拳をアイリス伯の腹部にぶつける。すると、アイリス伯も体をくねらせオドの流れを制御した。
「なんじゃとっ?」
アイリス伯の右の拳が緑色に光り、バン爺に殴りかかった。
バン爺は前かがみになりその拳を避け、拳を振り切ったアイリス伯の腕の付け根に自分の腕をひっかけた。そしてバン爺が勢いをつけて腕をふり抜くと、アイリス伯は肩の関節を極められながら後方に投げられた。
さらにバン爺は倒れたアイリス伯の右の手首を握り、肩の関節に手を置いて動きを封じる。
「少し大人しくせぇ」
「う……ぐ……。」
魔術師同士の戦いでなければ、完全に動きを制した状態だった。しかし、バン爺は体を押さえながらアイリス伯のオドの流れの変化に気づいた。
──この状態から術式を?
「……なっ?」
バン爺はアイリス伯の手首を握っている左手の異変を感じて、慌ててアイリス伯から手を離した。
だが遅かった。
「な、なんちゅうことじゃ……。」
バン爺の左の手首から先が凍っていた。
「おんしゃあ、水の術式まで……?」
「ぐ、ぐるるるる……。」
アイリス伯は立ち上がりながら笑っていた。理性を失ったバケモノだったが、笑うことはできるらしい。
「ゆ、夢を持たなぁいやつの体にはぁもるぉいなぁ……信念が足りなぁいかるぁ」
アイリス伯は奇妙な呂律で話す。
「凍ったら信念もくそもあるかいな」
再びバン爺に襲いかかるアイリス伯。先ほどと同じく、体を磁石にして攻撃から逃げ続けるバン爺だったが、すでに術式をアイリス伯に見破られ対応され始めていた。攻撃は次第に当たりつつあった。
「ぐぁあ!」
攻撃の当たったバン爺の左手が砕け散った。グロテスクな赤い氷の破片が飛び散り、バン爺は左手首を押さえうずくまる。
「バン爺さん!」
術式の準備をしていたシアンがうろたえて叫んだ。思わず術式を解除しかける。
「集中せんかっ」
「もういけるよ!」
「よし!」
「私の夢は永遠に終わるぁない!」
叫ぶアイリス伯。
「じゃったら永遠に夢見せたるわい!」
バン爺は磁力で地面を滑りながらアイリス伯から距離を取った。
アイリス伯は追いかけようとするが、バン爺が地面を磁石にしてその場にとどめる。
「今じゃシアン!」
「はい!」
「ぐるぉ?」
アイリス伯の周りが白く光った。空を見上げるアイリス伯、すると彼の脳天に雷が落ちた。
閃光と轟音と衝撃、バン爺とシアンは思わず顔をそむける。
落雷の中心となったアイリス伯の周りには、花火のように火の粉が舞い散っていた。
「……。」
黒焦げになったアイリス伯は膝をつき、そして地面に倒れた。
バン爺も極度の疲労と緊張から解放され、その場にへたり込んだ。
「……やったみたいじゃのう。……ん?」
バン爺がシアンを見ると、シアンが倒れていた。その傍らにはマゼンタもいた。
「……もう、これくらいの術式を使うたら限界ということか」
バン爺は立ち上がり、倒れているシアンの安否を確認する。
「バン爺、その手……。」
バン爺の左手首の先はピンク色に凍っていた。痛ましい姿だった。
「あ、ああ……。凍っとるから出血はまだみたいじゃのう……。」
マゼンタは自分の服の一部を破ると、バン爺の二の腕を縛り始めた。
「……助かるわい」
「……これくらいしかできないからね」
ふたりが話していると、瓦礫がからりと音をたてた。びくりと体を緊張させ、ふたりは音がした方を見る。
「あ、俺ですわ。驚かせてえらいすんません」
アッシュが手を挙げて立っていた。しかし、ふたりは驚いたままアッシュを見ている。
「……何ですの?」
アッシュがふり返ると、そこには息を吹き返したアイリス伯がいた。
「うぉお!」
雷に打たれ体の所々が焼き焦げて出血し、目の一つが潰れて中身が流れ出しているアイリス伯の姿はあまりにも衝撃的で、思わずアッシュは腰をぬかした。
「ま、まだ生きとるやんかっ」
「ぐ……ぐ……あ……。」
「いかん……。」
バン爺はすでに満身創痍、シアンもオドを使い果たし倒れている。戦闘の続行は不可能だった。
「ぐおおおおおおおおっ!」
アイリス伯が雄叫びとよだれと血液をまき散らしながら襲いかかってくる。どれほどの力を残しているのか不明だったが、今のバン爺とシアンならば素手でやられてしまいそうだった。
「やめんかセレストっ、お前さんの子供じゃぞっ?」
藁にもすがる思いでバン爺はアイリス伯を説得にかかる。しかし──
「ぐぅうおお!」
アイリス伯にはまったく通用しなかった。アイリス伯のグローブのような大きな手が振り上げられた。叩かれただけでも体が吹き飛びそうだ。
「くそっ」
バン爺がアイリス伯の前に立ちはだかった。
アイリス伯はそんなバン爺の胸ぐらをつかんで投げ飛ばし、壁に叩きつけた。
「ぐぅあ!」
「バン爺!」
バン爺は気を失い、ずるりと壁に背中をこすらせて倒れた。バン爺を片づけたアイリス伯は、次にマゼンタに手を伸ばす。
「くっそ! こっち来んじゃないわよ!」
マゼンタはダガーを取り出し、やみくもに振り回す。アイリス伯はすぐにマゼンタを攻撃せずに、ゆっくりと追い詰めようとする。
「ぐ、が、グルゥエイス、返せ、グルェイスを……。」
「……グレイス? クリスタルのこと?」
「ぐうぅうっ!」
マゼンタを瓦礫の壁に追いやると、アイリス伯はマゼンタに襲いかかった。マゼンタは思わず目をつむる。
しかし攻撃は来なかった。マゼンタが目を開けると、そこにはアイリス伯に背後から抱き着くアッシュの姿があった。すでにアッシュは術式を使用し、体が再び大きくなっていた。
「……あんた」
「ここは俺が抑えとくから、マゼンタちゃんはシアンくんたち連れて早ぉ逃げぇや」
「ぐぅあ……あっしゅううぅ」
「そぉるあ!」
アッシュはアイリス伯を抱え上げ、バックドロップで後方に投げ捨てた。アイリス伯の後頭部が地面に埋まった。
「おっちゃん、そないなボロボロの体で、元気いっぱいの俺とやれますぅ?」
「うがぁ!」
アイリス伯は猛スピードで立ち上がると、アッシュに体当たりをかました。
「うおおおおおっ!?」
相撲の取り組みのように押し合うアッシュとアイリス伯、すぐにアッシュがずるずると押し負けて後方に押しやられる。
「……な、なんや、俺ここ最近やられてばっかやん。自信喪失してまうわ」と、アッシュが苦笑いをする。
「ぐるるるぉおおお……。」
「正気やないということで……ゴメンやで!」
アッシュはアイリス伯の顔面に頭突きを入れた。アイリス伯が鼻血を出してのけ反る。
「ぐお!」
「もういっちょ!」
右ストレートを放つアッシュ。顔面にヒットする、そう見えた瞬間、アイリス伯が大口を開けた。
「な!?」
アッシュの右の拳がアイリス伯の口の中にすっぽりと納まった。
「ぎぎぎぎぎっ」
アッシュの拳を噛み砕こうと牙をたてるアイリス伯。アッシュの拳からは血が流れる。
「いだだだだだ!」
アッシュはアイリス伯の噛みつきから逃れようと、慌てて手を引っ張るが、牙が肉に食い込んでなかなか抜けない。
「くそったれ!」
アッシュはアイリス伯の股間を蹴り上げた。
「ごぶっ!?」
アイリス伯の口の力が弱まり、何とか手を引き離すことに成功したアッシュ。しかし、手の甲の皮がべろりと向けてしまっていた。
「……やってくれましたなぁ」
アイリス伯は返事をせずに、獣ようにアゴをがきがきと噛み合わせる。
「あんまおっちゃんに触りたないから……!」
アッシュは右手をアイリス伯に向ける。
「これでどうやっ?」
アッシュの右手からオドの青白い光球が放たれた。光球はアイリス伯の胸元にぶつかる。だが、光球はアイリス伯の体に吸収されアイリス伯の左手から緑色の光球となって放たれた。アッシュとアイリス伯のオドを合わせた光球がアッシュに襲いかかる。
「そう来るんは……。」
アッシュは両手を組んで、ハンマーのように両腕を振り回す。
「想定済みや!」
アッシュは緑色の光球を打ち返した。さらに加速した光球がアイリス伯の胸元にぶつかる。
「おじいちゃんに負けてから、俺もオドの使い方を意識したんやっ」
「ぐがぁ!」
光球が破裂し、アイリス伯が怯んだ。
「ダメ押しや!」
アッシュは飛びかかり、アイリス伯と正面から殴り合いを始めた。術式で強化された肉体でノーガードでの殴り合いに挑むアッシュだったが、1発喰らって1発殴り返すというペースが、次第に2発殴られて1発殴り返すペースになり、やがて3発喰らって1発殴り返すというペースに落ちていった。
「な、なんでや……おじいちゃんとシアンくん相手にした後やないか……。」
ついにはアッシュはアイリス伯に一方的に殴られ始めた。
「あ……ぐ……。」
アッシュが両膝をつく。そんなアッシュの顔を、アイリス伯が両手でつかみ高々と持ち上げた。
「ぐぐぐぐぐっ!」
「あ、あ、やめ……。」
馬鹿げた力で、アイリス伯はアッシュの頭を圧迫してつぶそうとしていた。アッシュは自分の頭の骨がみしみしと危険な音を立てているのを聞く。
「あ、あかんて、洒落にならんて、おっちゃん……。」
アッシュは死を悟った瞬間、突然アイリス伯の力が弱まるのを感じた。さらに力を弱めるどころか、アイリス伯はアッシュを投げ捨てた。
「……な、なんや」
投げ捨てられたアッシュは、朦朧とした意識でアイリス伯を見る。その視線の先にはマゼンタがいた。
「……マゼンタちゃん?」
アッシュを完全に無視するアイリス伯、その視線の先にはマゼンタの掲げられた手が、そしてそこにはクリスタルが握られていた。
「こっちよ、こっちに来なさいバケモノ!」
「う、う、か、返せぇ! グレイスうぉお!」
マゼンタの方へ向かうアイリス伯、マゼンタは背を向けて全力で逃走する。
「や、やめぃ、あ……あぶないでっ」
「へへ~ん、伊達にシーカーやってないんだからっ。危なくなった時は、この逃げ足で何とかしてきたんだ!」
確かに、そこそこマゼンタの足は速かった。しかし──
「……こっちまで来てみなよっ。……え?」
はるか後方にいたと思っていたアイリス伯が、マゼンタの目の前にいた。驚異の跳躍力で一気に距離を縮め、さらにマゼンタを飛び越えていたのだった。
「……あれ?」
アイリス伯はマゼンタを捕まえようと両手を広げ、そして抱きしめるように閉じた。
マゼンタは横っ飛びで地面を転がりそれを避ける。
「ぎ、ぎざまっ」
「ちきしょうっ、デカブツのくせに何てスピードっ?」
マゼンタはアイリス伯の捕捉を逃れようと、ちょこまかと動き続ける。横っ飛びで避け、前転でアイリス伯をくぐり抜け、側転ですり抜けていた。
しかし、魔術師でもない人間の限界があった。マゼンタはアイリス伯のビンタを肩にくらい、ぐるぐると回転して飛んでいった。
「きゃあっ!」
瓦礫の上に倒れたマゼンタにアイリス伯が迫る。
「ぐ、ぎ、小娘……手間を……かけさせてくるぇたな」
マゼンタはよろよろと起き上がる。
「……あ、あんたさ、人間までやめて、何がしたいのさ? 今のあんた見て、奥さんがどう思うと思うの? あんたの中では、いったい誰が幸せになってんの?」
アイリス伯はマゼンタの髪をつかんで持ち上げた。
「す、すべてうぉ取るぃ戻すんだぁ! 妻を、グレイスを、かつて夢見た栄光うぉ! そうしなけるぇば、私の人生は……人生はぁっ!」
「へ、へへ……いつまで過去に囚われてんだい。大賢者が言ってたよ? “思い出と戦っても勝てやしない”って」
「ふん! 誰だそるぇはぁ!?」
マゼンタは人差し指をぴんと立てて笑った。
バーガンディ・ローゼス
「……。」
アイリス伯は異変に気づいた。マゼンタの手にも胸元にも、クリスタルはなかった。
マゼンタは決めポーズを取っているのではなかった。何かを指さしていた。
その方向をふり返って確認するアイリス伯。後方には、意識を取り戻しクリスタルを手にしたバーガンディ・ローゼスがいた。立ち回りの最中、マゼンタはクリスタルを仲間にパスをしていたのだった。
「貴様っ」
「終わりにしようや、セレスト・アイリス。お前さんとワシの因縁も、すべてを」
「や、やめるぉおおおお!」
狂乱してアイリス伯が迫る。
バン爺はクリスタルを握りしめ、オドの力で握りつぶして破壊した。
「あ、あ、ああああああ!」
バン爺の手の中でクリスタルが砕け散ると、鮮やかな青の光の粒子が辺りを包んだ。光の粒子は意志を持っているかのように波打ち、そして渦巻いた。
「こ、こりゃあ……。」
そこにいるすべての人間がその幻想的な光景に心を奪われていた。
やがて光の粒子はゆっくりと1か所に集まり、それは人の形を成し始めた。おぼろげだったその人の形は、次第に表情も分かるほどにくっきりとしたものになる。
「……母さん」
意識を取り戻していたシアンが言った。
そして光の粒子は再び霧散すると、風に流されるようにすぅっと消えていった。
「う、うぐぅおおおおお!」
すると、アイリス伯が胸を押さえて苦しみ始めた。妻のクリスタルで安定していたコアの出力が暴走し始めていた。
「父さん?」
「あ、ぎ、ぎぃああああああああ!」
アイリス伯の胸が緑色に光り始めていた。体はさらに奇妙にゆがみ、このまま体ごと砕け散ってしまいそうだった。もうこの男は救えない、誰もがそう思っていた。ひとりをのぞいては。
「……シアンや、お前さんヒーリングはまだ使えるかね?」
「……大丈夫だと思う」
「……うむ」
バン爺はなくなった左手首の傷口を地面に押し付けた。
「……バン爺さん?」
そして手を引き上げると、そこには金属でできた義手が形成されていた。
バン爺はすたすたと苦しんでいるアイリス伯の前に立つ。
「……今解放してやるぞ、アイリス」
そして義手となった左手の手刀でアイリス伯の胸を貫いた。
「ごぶっ」
アイリス伯の胸から手を引き抜くバン爺、その手にはコアが握られていた。
バン爺はコアに術式を使用すると、それを自分の真上に、天高く投げ捨てた。
コアは空で四散した。そのコアの力はシアン作り出した厚い雲に吸収され、空からオドを含んだエメラルドグリーンの小雨が降り始めた。
倒れたアイリス伯は、しゅぅっという音を立てながら体が縮ませ、次第に元の体に戻っていった。
そんなアイリス伯を見ながらバン爺が言う。
「……急所は外しとる。じゃがほっとけば失血で助からんじゃろう。……シアン、やれるかね?」
「うん」
「……もとい、やりたいかね?」
「……うん」
「ええじゃろ」
バン爺は「疲れたぁ」と言うと、瓦礫の上に座り込んだ。
「……大丈夫?」
マゼンタがそんなバン爺をねぎらう。
「まったく、また寿命が5年くらい縮まったわい……。」
「……明日死ぬじゃん」
「洒落にならんて」
シアンは無言で父親の傷を治し始めた。胸元に当てた手が青白く光る。
息が絶え絶えのアイリス伯は、辛うじて開いた目で自分を癒す息子を見る。
「……シアン」
「……良かったのう、お前さん、息子に命を救われたぞ」
「う……く……。」
アイリス伯は首を上げ何かを言おうとするが、言葉にならない。
「じゃがそんなもんじゃ。子供に生を与えるのは親じゃが、親に人生を与えるんが子供なんじゃよ」
「……シアンくん、もし余裕があったらバン爺の傷も治してあげて。こっちもけっこう深刻だから」
上腕部の太い動脈を縛って押さえているが、バン爺の左の手首の先からは血が流れ始めていた。
アッシュもマゼンタたちの側で腰を下ろした。
「シアンくん、もっと余裕があったらでええんやけど、俺も見てくれんやろか」
そう言って、アッシュは骨折しているかもしれない自分の頭を指さした。
「あんたのは唾つけときゃ治るでしょ」
アッシュは面を喰らった顔をするが、すぐにいつもの笑顔の戻った。
「へへ、そうやなぁ、マゼンタちゃんの唾やったら治るかもしれへんねぇ」
「ぺっ」
マゼンタはアッシュの顔に唾を吐きつけた。
「どう? 治った?」
唾をおでこから垂らしながらアッシュは言う。
「……俺、そんなに嫌われるようなことしましたっけ?」
「……傷は塞がったよ」
シアンが言った。アイリス伯の出血は止まっていた。
「おお、そうか……。」
「バン爺さんも傷を見せて」
そうしてシアンはバン爺の左手首を取った。もう戻ってこない左手だった。
バン爺の手先は戻らなかったが、治療の甲斐あって傷は塞がった。
全員の傷の手当てが終わった後、シアンは父に旅立つことを告げた。
「……そうか」
瓦礫の上に座り込み、夕日を背にしてうなだれるアイリス伯の姿は、彼の人生の終焉を表しているようだった。
「たまに……便りを送ります」
「……いらん」
アイリス伯は顔を上げる。
「それと、2度とここには帰ってくるな。……グレイスの墓参りも許さん」
「……そういうやり方はやめんか」
アイリス伯は無言でバン爺を睨む。
「父として、息子に旅立たれるのはしんどいとだけ言っとけ。別にシアンとてお前さんを捨てようというわけじゃあない。時がたって落ち着いた頃に、また関係を見直せばいいじゃろ。親子なんじゃ、どれだけ離れていようと、何らかの形でつながるもんじゃよ」
アイリス伯はうなだれた。
シアンはそんな父に何か別れの言葉を告げようとしたが、しばらく考えても適切な言葉が見つからず、何も言わずにシアンは父から、そして故郷から去って行った。
マゼンタとバン爺も今の状況のシアンにどういう言葉をかけて良いのか分からず、陽が落ちて、野宿する場所を見つけ寝る時になって、ようやくマゼンタが「おやすみ、シアンくん」と言った。
数週間後、バン爺の丘の上の家に滞在していたシアンは、予定されていた通り、ビオラ伯のもとへと出発することになった。
すでにバン爺の家の前にはビオラ伯の使いの者が馬車で到着していた。バン爺とシアンは、長旅とビオラ伯のもとで生活するための品をその馬車に運び込んでいた。
しかし、旅支度をしながらシアンは事あるごとに上の空になっていた。
「……どうしたね?」
「……あ、うん、何でもないよ」
そうは言うものの、シアンは丘の下を気にしていた。
「……思いを伝えようかどうか、迷うとるのか?」
「……え?」
驚いてシアンはバン爺を見る。
「……ほっほっ、ワシャなんでもお見通しじゃ」
「……。」
「恥ずかしいにしても、怖いにしても、どちらでお前さんが納得するかじゃろうて」
「納得?」
「そう、納得じゃ。後悔するかもしれんが、それは大切なことじゃあない。後悔して納得するか、後悔はせずに納得するか。お前さんはどちらかのう」
「納得……。」
自分の気持ちへの向き合い方を少しづつ学んだ少年はすぐにどちらか判断がついた。
「まぁ、別に、ワシがマゼンタについて行かんかと聞けばいい気もするがな」
「だ……ダメだよ、それは……。」
「ほぅ……。」
「おまたせぇっ」
そこへ、マゼンタが帰ってきた。
「へへ、けっこうもらっちゃったよ」
マゼンタは籠いっぱいの卵を抱えてていた。
「おお……ザビさんに礼を言わんとな」
「それとぉ……。」
「なんじゃ?」
マゼンタはもう片方の手に抱えていた籠からソーセージを出した。
「じゃーん、シアンくんの大好きなソーセージーっ」
「もらい過ぎじゃないかね……?」
「食べ物は多くても困らないからねぇ」
マゼンタはシアンの荷物の中に食料を詰め込んだ。
作業をしているマゼンタの背後に立つバン爺とシアン。バン爺がシアンを見る。シアンは小さくうなずいた。
「あ、あの……マゼンタさん」
「ん~、なぁに~?」
「これから、マゼンタさんはどうするの?」
荷物を包みながらマゼンタは空を見上げて考える。
「ん~、そうだね~、シーカーの仕事をこつこつ頑張ってこうかなぁ。今回はダメだったけど、何とかして一獲千金で人生大逆転っていきたいから」
「……そうなんだ」
しどろもどろするシアン。地面に視線を落として心を整理する。再び視線を上げた時、目の前にマゼンタがいた。
「あ」
「……どうしたの?」
きょとんとした顔でマゼンタはシアンを見る。無垢な視線が、せっかく落ち着いた少年の心を乱した。
「えと、あの……マゼンタさん」
「うん」
「ぼく……これから……ビオラ伯のところにいくんだ……。」
「そうだね」
「あそこって、とっても遠いから……その……このまま行っちゃったら、マゼンタさんとめったに会えなくなっちゃうと思うんだ……。」
「だよね、さみしくなっちゃうよね」
「う、うん、そうだよね……だから……。」
「手紙とかちょうだいよ、待ってるから」
「え? あ……うん……。手紙……そうだね……。」
「もし何かあったらすぐに連絡ちょうだいね。あたし、飛んでいくから」
「あ、だったら……。」
マゼンタはシアンの両肩をがっしりと掴んだ。
「シアンくんは、あたしにとって、もう弟みたいなものなんだから。できることは何だってするよっ」
まっすぐに自分を見つめる瞳、その意味を知ってシアンは微笑んだ。
「……うんっ」
「……ローゼス卿そろそろ」と、使いの者が言った。
「おお、そうか」
使いの者が荷物を馬車へ乗り込み、シアンも後に続いた。
動き出す馬車、客車の窓から身を乗り出してシアンが手をふる。
「じゃあねぇマゼンタさんっ。きっとまた会おうねっ」
マゼンタも手をふる。
「うーん! 約束だよぉシアンくん!」
バン爺は何も言わずに微笑んで手をふっていた。
そうして馬車が見えなくなった頃、マゼンタは大きなため息をついた。
バン爺はマゼンタを見る。
「あ~どうしよう。シアンくん、どんどんいい男になってくじゃん。ロングも良かったけど、髪切ったら男らしさまで出てきちゃって……。もう、あたし恋しちゃいそうだったよ」
「……。」
「バン爺、やっぱりさぁ、王都って綺麗な女の人がいっぱいいるんだよね? どうしよう、そのままシアンくん、都会の女の子とか、貴族のご令嬢とかと一緒になっちゃうのかな。そうだよね、女の子がほっとくわけがないもんね。あ~シアンくんから彼女が出来たとか無邪気な手紙きたら、あたしショックで寝込みそうだよぉ……。」
マゼンタは呻きながら頭を抱えてうずくまった。
「……マゼンタや」
「……なに?」
「お前さん、ダメじゃあ……。」
バン爺はがっくりと肩を落とした。
「……え、なんで?」
その後、バン爺は村の住民に手伝ってもらい、自宅の補修を手掛けていた。家の中の整理しながら、バン爺は次々と木箱に不要なものを放り投げる。
木箱が満杯になり、農夫のマッソが運び出そうとすると、処分する品の一番上に白い腕輪があるのに気づいた。マッソはそれを取り出し、背中を向けているバン爺に訊ねる。
「……バン爺さん、これっていいのかい?」
バン爺はふり返って微笑んだ。
「ああ、ワシにはもう必要ない」
──了