その頃、バン爺とシアンはアイリス伯領に向けて旅路を引き返していた。
道中の岩山でバン爺はシアンに言った。
「もしかしたら、穏便にいかんこともあるかもしれん」
「……。」
「お前さん、ヒーリングとテイマー以外には、何の術式を使えるのかね?」
シアンは周囲を見わたすと目を閉じた。
「ふむ……。」
シアンの術式はすぐに分かった。ふたりの周りを風が取り巻き始めた。風の術式だった。
「……親父さんにこれを身につけるようにと?」
「……うん」
「アイリス伯らしいのう。風の術式は応用すれば天候を操ることができる。あくまで理論上はじゃがな。汎用性も可能性も高い、戦前も今も志望者が絶えん分野じゃ」
バン爺は空を見上げた。空を厚い雲が覆い始めていた。マナの異常な変動を感じた馬が、なき声をあげて騒がしくなる。
「……なんと」
バン爺が“理論上は”と言ったその場でシアンは実践に移っていた。
「予想通りと言うか、図抜けた力じゃのう……。もうええよ」
バン爺がそう言うと、シアンが術式を解除し、空の雲は生き物のように散っていった。
「凄まじい力じゃが、細かいコントロールがまだと見える」
バン爺は周囲を見わたす。
「……お前さん、オドの放出でここの岩を、どれかひとつ破壊できるかね?」
シアンはうなずくと、目についた岩に右の手のひらを向けた。
シアンが目をつぶると、シアンの蒼色の長髪がなびき始めた。再び馬たちが騒がしくなる。
「……ふむ。見てるだけでオドのみなぎりが分かるわい」
目を開き、オドを解放するシアン。すると、シアンから20メートルほど離れたところにあった、大人の背丈ほどの大きさの岩石が轟音と共に砕け散った。小さな破片がバン爺の胸元を打った。
「ほっほ、たいしたもんじゃのう。……じゃが、ちぃと効率が悪いかのう」
シアンは不思議そうにバン爺を見る。破壊力としては申し分なかったはずだ。
バン爺もシアンのように目を閉じる。シアンと違い周囲に変化はなく、馬も大人しかった。
バン爺は右手の人差し指をたてた。その指先が青白く光る。
岩石を指さすバン爺。その方向、5メートル先にあったのは、シアンが破壊したものよりも大きい岩石だった。
バン爺の人差し指から、一筋の光線が放たれた。光線が岩石を貫く。
岩石には小さな空洞がポッコリと空いていた。
「……ふむ」
オドを放出し終えたバン爺を、キョトンとした表情で見るシアン。貫通力はすさまじいのかもしれないが、破壊とまではいかなかった。
しかし、そんなシアンの困惑を気にする様子もなくバン爺は岩石を見ている。
「……バン爺さん、どうしたの?」
「そろそろかの」
「そろそろ?」
すると、岩石がぴしりぴしりと音を立て始めた。
「え?」
貫通した穴からひびが入り、やがてそのひびは岩石全体に広がり始めた。そして、岩石はがらがらと音を立てて崩壊した。
「……すごい」
「何がすごいかね?」
「えっと……何がって……。」
「ふむ。まずお前さんの壊した石よりも大きかったな。じゃが、それはワシが壊れやすい石の種類を選んだからじゃ。次に、お前さんよりずっと小さなオドを使うた。じゃが、ワシはオドを一点集中させたんじゃ。……ただそれだけの事じゃな」
「……。」
「じゃが、結果は結果じゃ。……シアンや、数日前にワシがアッシュとやりおうた時のことを覚えておるかね?」
シアンはうなずいた。
「正直、オドの総量でいえば、奴はワシなど比べ物にならんほどの力を持っておった。じゃが、結果はあの通りじゃ。……天地人じゃの」
「てんちじん?」
「天の時、地の利、人の和、戦いの時にはこれを意識しなければならん。戦うべき時を知り、そうでない時は戦いを避ける。状況を知り利用し、相手には利を取られないようにする。相手を良く知り、自分の事は知られないようにする。三つそろえば勝利は確実、力量の差があっても二つがそろえば五分五分と言ったところじゃろう。……そうじゃなければ、とっとと逃げることじゃな」
そう言って、バン爺はか細い声で笑った。
説得力しかなかった。シアンはバン爺がアッシュを倒すのを目撃している。父親に命じられて目指しているだけだった魔術師。ただ恐怖から逃れたい一心だった。しかしこの瞬間、少年は初めて師というものを知ったように思った。
「じゃが、天の時も地の利も向こうに握られとる。せめて相性じゃが、アイリス伯はワシのことなど、もうとうに感づいとるじゃろうからなぁ……。」
「……どうするの?」
「人生ままならぬもんじゃなっ」
バン爺は笑った。不思議な趣のある笑顔だった。
──
マゼンタは地下室に監禁されていた。身ぐるみをはがされ下着姿で天井から鎖で吊されるマゼンタの顔には、拷問をされたわけではないが疲労の色が強く出ていた。
扉の開く音がして、うなだれていたマゼンタが顔を上げる。アイリス伯が入ってきていた。昼間と違い、アイリス伯は上機嫌だった。どうやらかなり酒が入っているらしかった。しかし、法の外の世界に生きていたマゼンタの鼻は、別のものも嗅ぎ当てていた。
──クスリやってんのか
「先は取り乱して恥ずかしい所を見せてしまったな」
「現在進行形じゃなくって?」
「……分かるぞ。そうやって強がるのは、不安のあらわれなのだろう」
「まあね。裸にされて吊るされて、目の前に自信満々のおっさんが現れたら、あんたを産んだお袋さんだって不安になるさ」
「……まぁいい、お互い冷静に話し合おうじゃないか。……私が知りたいのは、お前たちの計画だ」
「計画?」
「そうだ。バーガンディ・ローゼスが私からシアンを奪い去り、お前の様な小娘の色香を使って息子を惑わせようとしたことは分かってる。……いったい、いつから計画されていた?」
「……なに言ってんの? あたし達がシアンくんと出会ったのは偶然だよ。つか、あんたがシーカーのギルドに懸賞金出してたんじゃないのさ」
「偶然、私を王宮から追い出したあの年寄りがシアンを見つけただと? 嘘も休み休み言え。分かってるんだ。私の事を脅威に思っていたバーガンディは、私を王都から追い出した後も、1級魔術師を辞めてまでして私を監視していたのだろう? そしてシアンの才能に恐れを抱き、ダンデリオンでの試験中に私から息子を奪うことを企てた。さしづめ、お前は金で雇われた娼婦あがりだろう。そしてシアンを王都に連れて行き、私を完全に世間から抹殺しようとしたのだ。……そう考えればすべてがつながる」
「……おっさん、小説家志望だったりする?」
「……なるほど、お前は計画の全容を聞かされていないというわけか。まぁそれはそうだろう。魔術師でもなんでもない、赤の民の小娘だからな」
「……いや、シアンくんを探すのをバン爺に持ちかけたのはあたしなんだけど?」
「そうするように仕向けられたんだ。奴のことだ、人の心を操る術式くらいは心得ているはずだ」
「……大賢者が言ってたとおりだね、“鳥が鳴けば人はその意味を考える”って」
「なんだそれは? 初めて聞くぞ?」
「初めて言ったからね」
「……けむに巻こうとしても無駄だ。私も人の心理を長年にわたって勉強しているからな、心の動きの仕組みなど、手に取るように分かる」
アイリス伯はマゼンタに近寄る。
「そして、お前がシアンに対してどう思っているのかもな……。」
「へぇ、じゃあ当ててみなよ、乙女の胸の内を」
「どうせ玉の輿を狙っているのだろう。どうだ?」
「……おっさん、違うって言っても嘘をつくなって言うでしょ?」
「やはり図星か」
「……シアンくんの苦労が分かったよ」
「なにぃ?」
「あんたは人の事なんて見ちゃいない。シアンくんの事はもちろん、きっと奥さんの事もそうなんだろうね。勝手に自分でいい思い出にしてるだけで、本人はどう思ってたことか──」
「お前がグレイスを語るなぁ!」
アイリス伯はマゼンタの髪をつかんだ。
「……また取り乱してんじゃん」
「私達は愛しあっていた! 頭にカビの生えた王都の魔術師どもが私を追い落とした時も! かつて仲間と信じた奴らが去った後も、妻は私を見捨てることはなかった! 私達の研究が世界を変えると信じていた! 物の本質を知ってる女だったんだ!」
「どうせ、こんな風に髪をつかんで自分を愛してるか訊いたんでしょ?」
「分かったような口をきくな!」
「大体さぁ、あんたの奥さんの話って、自分に何をしてくれたかってことばっかりじゃん。奥さんの事なんて何も言ってない。あんたは自分を評価する人間を評価してるだけだよ。あんたは奥さんに何をしてあげてたのさ。大切な息子の体に傷をつけること? 自分の子供にあんなことをされて喜ぶ母親なんているもんかっ」
「言ってろ、お前には私の、私たちの崇高な目的など知りはすまい。私の悲願が成就すれば、すべてを取り戻すことができるのだからなっ」
「失ったものは戻らないよ、それが自然の摂理じゃん」
「自然の摂理とやらが人をあざ笑うのならば、私がそれをねじ伏せてみせる」
「そんな啖呵きったくらいで、死んだ奥さんが満足できると思ってんならおめでたいね」
アイリス伯はマゼンタの髪から手を放し、不敵に笑った。
「……そうだとしたらどうする?」
「……なに言ってんの?」
「妻を生き返らせることができるとしたらどうする?」
「……そんなことが」
「妻のオドは保存してある。後は入れ物を探すだけだ」
「……。」
マゼンタはバン爺がかつて言っていた、アイリス伯の禁呪法の話を思い出した。生き物そのものをエネルギーに変えるというあの術式を。想像以上のアイリス伯の邪悪さに、マゼンタは息がつまりそうになっていた。
「……ふさわしい依り代が見つかれば、すぐにでも妻をこの世に戻すことができる。そのためには、ふさわしい女が必要だ。だからこそ、シアンにはオールドブラッドの女しか認めん」
「……あのさぁ、少しは現実的に考えたら? シアンくんが自分の思い通りの相手と結婚して、都合よく女の子作って、そしてあんたの魔術が成功して奥さんが生き返るとか本気で考えてんの? 妄想と願望が強すぎて気持ち悪すぎるんだけど。いい歳こいた大人のやることじゃないよ」
マゼンタは鼻で笑った。
「いつだって、夢を持たない奴は夢を持つ者を否定するものだ」
アイリス伯は鼻で笑った。
「……状況が違えば良い台詞なのにね」
──
最後の山を越え、アイリス伯領が一望できる場所に到着すると、バン爺は驚愕した。
「……何という事じゃ」
荒廃した大地、死にかけた山々、枯れた川、そこはおおよそ人が住めるような土地ではなかった。
「……シアンや、ここはいつからこんな有様じゃったんじゃ?」
過去に、バン爺はこのアイリス伯領に足を運んだことがあった。アイリス伯を処分するために選ばれたこの土地を、他の魔術師たちと調査するために訪れたのだ。しかしバン爺の記憶する限り、ここは未開の土地ではあったが、その反面、緑は豊かなはずだった。
「……昔はもっと綺麗だったんだ」
そう言ったシアンにさらにバン爺は驚く。
「ということは、こうなったのはここ最近という事か?」
シアンはうなずいた。
バン爺は靴を脱いで、さらに地面に手を当てる。大地のマナがとても弱かった。
「……まいったのう」
大地の術式を使用するには不利。時も地も活かせそうにない。さらにあれから30年、禁呪法の研究をつづけたアイリス伯が、どんな術式を使用するのか見当がつかなかった。
そして、そんなバン爺の心配をシアンは感じ取っていた。
「……さて、どうしたものか」
「……バン爺さん」
「なんじゃ?」
「正面から行けばいいんじゃないかな?」
「なに?」
「父さんは、ぼくが帰ればマゼンタさんを解放するって言ってるから……。」
「……それを、信じるのかね? その後はどうする?」
「その後は、ぼくが自分で父さんに伝える。別々に暮らそうって……。」
「……しかし」
「もし、父さんがダメだって言ってきたら、その時はバン爺さんたちが協力してくれればいいから」
「……う、うむ」
ふたりはアイリス伯の城へと、まっすぐに向かって行った。
地下室にいるアイリス伯の下へ、執事のゼニスが訪れた。
「……旦那様、シアン様がお戻りになられました」
アイリス伯がふり返る。
「ああ、そうか……。」
マゼンタが小さく歯噛みする。そんなマゼンタをアイリス伯があざ笑う。
「当り前だろう。子は父のもとに帰るのが当然だ。父あっての子なのだからな」
大広間に通されたシアンとバン爺はアイリス伯を待っていた。
汚い屋敷だった。使用人もろくにおらず、手入れをする人間がいないのだろう。
「お~シアンく~ん。久しぶりっちゅうか、そこまで前でもないかぁ」
しかし、廊下の向こうから現れたのはアイリス伯ではなくアッシュだった。
「……お主は」
「その節はずいぶん世話になりましたなぁ。何やおじいちゃん、元1級やったんやて? そりゃ、俺も敵いませんわぁ」
一度は命のやり取りをした相手だというのに、アッシュはずいぶんと親し気に話しかけてくる。
「まま、俺ももう今回の件からは手を引いとりますけぇ、安心しとってください」
「……じゃったら、何の用じゃね?」
「いやねぇ、もっかいくらい、俺が手も足も出ぇへんかった相手と会っときたかったってのと、久しぶりに甥っ子ちゃんとお話しようと思いましてねぇ」
「お前さんが思うほど、ワシらには差はないよ。たまたまワシが有利につけただけじゃ」
「やめてくださいよぉ、勝ったもんに謙遜されても惨めになるだけやないですかぁ」
アッシュはシアンの方を向いた。
「シアンく~ん、何でお父ちゃんの所から逃げ出したん?」
シアンはうつむく。
「……お前さんは、この子が父親にどういう仕打ちを受けていたか知ってたのかね?」
「俺はよその家庭の事には口を出さんタチですから」
「甥っ子じゃろう?」
「せやから、逃げたら追いかけるんと違います? ねえシアンくん、お父ちゃんのいう事をちゃあんと聞いとかんと、死んだねぃちゃんも悲しむでぇ」
「死者は泣きもせんし、笑いもせんよ」
「……そりゃそうですがね」
「そういえば、シアンの母君はどうして亡くなったんじゃ? ご病気かね?」
「おじいちゃん、意外とデリカシーあらしまへんなぁ、シアンくんの前でっせ」
「先に母親の話を持ち出してシアンに説教入れようとしたのは、お前さんじゃ」
「……やりづいらいですなぁ。なんか俺、おじいちゃんのこと苦手ですわ。教えてもええですけど、それやったら、俺にも何か面白いことひとつ教えてくれへん? 例えば……どうしておじいちゃん、1級魔術師やめなはったんですか?」
「高齢なうえに家族に不幸があってな、精神的に持たんかった」
アッシュが意外そうな表情で眼を見開く。
「あら、適当に流されるんかと思ったら、けっこう真実味があるお話やな。ええでしょ、それやったら俺もきちんと答えんといかんね。まぁ、俺の知っとる限りですけど、術式の研究中に事故に巻き込まれたらしいですわ」
「術式の……。」
「そ。あんたら勘違いしとるかもしれませんけど、ねぃちゃんが事故った時はおっちゃんもえらい悲嘆にくれてましてねぇ、そん時思いましたわ、“ああ、この人はこの人なりにねぃちゃんのことを愛しとったんやなぁ”って。で、それからおっちゃんは一層研究に没頭するようになったんですわ。シアンくんの訓練も、そりゃあ行き過ぎかと思いましたけど、あの人なりにねぃちゃんに報いたいところがあるんやろな。何だかんだ言って、俺は身内やから、そりゃあ協力はしますわな」
「……お前さんは、それが姉君の望みと思うとるのかね」
「俺は好きやないけど、あのおっちゃんはねぃちゃんが選んだ人やからね」
バン爺はシアンの顔を見る。そこに迷いの色があった。母親の話にのったのは悪手ではなかったかとバン爺は思った。シアンを縛っていたのは父だけではなかったいう事実、シアンにからむ鎖は思いの外ふかく心に食い込んでいそうだった。
そこへ、アイリス伯がやってきた。
バン爺とアイリス伯はしばらく無言で見つめ合っていた。中年の男と老人の無言は雄弁だった。男たちの辿ってきた人生の確執、まるで視線と呼吸が衝突しているようだった。
薄笑いを浮かべていたがアッシュだったが、思わずストールに手をかけそれを緩めた。
先に口を開いたのはアイリス伯だった。
「……お久しぶりですな、ローゼス卿」
「久しぶりじゃな、アイリス伯」
「ご壮健そうで……。」
「お前さんもな……。」
「……この度は、愚息がご迷惑をおかけしました」
「……“愚息”というのは、愚かな息子という意味かね。それとも……愚か者の息子という意味かね」
「……相変わらず、ご冗談がお上手だ」
お互いに肩をゆらせて笑う。目は笑っていなかった。
アイリス伯はシアンに目をやる。
「……心配したぞ、シアン」
「……すみませんでした」
バン爺の表情が変わった。
「大人の話がある、お前は自室に行ってろ」
「……はい」
シアンは立ち上がって応接間を出ようとする。
バン爺も立ち上がり、そんなシアンの背中に声をかける。
「……シアンや」
「……これで、良いんです」
「お前さん、最初から……。」
「家族の問題に赤の他人が口を出すのはやめていただこう。例えそれが、かつての1級魔術師であっても、その権利はない」
アイリス伯は静かにだが、勝ち誇ったように高揚した口調で言った。
バン爺はアイリス伯を見る。大地のマナから切り離され、まさに徒手空拳の状態だったが、その瞳は戦闘の心構えをしていた。
「目論見が外れましたな」
「……目論見じゃと?」
「おやめください、もうとうに気づいていることです。かつて貴方が私を追い落とそうと手を回した事も、そして今回、私の悲願を邪魔するためにシアンをさらった事も」
「……なんじゃ、30年前の件は、ワシが中心になったと思っとるんか」
「それしか考えられない」
「それしか考えんからじゃろ。お前さんは禁呪法を研究しとったんじゃぞ、温厚で知られる陛下が激怒なさったくらいじゃ」
「貴方が陛下に色々と吹き込んだからでしょう。今回もどうせ、色々シアンに吹き込んだと見える。けれど無駄ですよ、私とシアンは一心同体なのですから」
「変わらん奴じゃのう、相変わらず思い込みが激しいわい」
「反論に苦しくなったからと言って、論点をずらすのはやめていただきたい。……で、例の物はお持ちですかな?」
「……ああ。その前にマゼンタを返してもらおうか」
アイリス伯が目配せをすると、執事のゼニスは頭を下げ、ドアの向こうへ消えていった。しばらくして、執事は縛られたマゼンタを連れて戻ってきた。
「……マゼンタ、無事かね」
マゼンタはうなずいた。
「クリスタルはどこです?」
バン爺は胸元からクリスタルのペンダントを取り出した。その様子を見ただけで、アイリス伯の顔が歪んだ。
クリスタルを手に収めながら、バン爺が首を傾げる。
「……このクリスタル、なにか妙じゃのう。まるで……人間のオドのようなものを感じるが」
その一言は、その場にいたマゼンタとアッシュの注目を集めた。
「余計な詮索をするなッ!」
突然のアイリス伯の怒号に室内は静まり返った。
「それ以上さわるな、そしてテーブルの上に置け!」
「……。」
バン爺はクリスタルをテーブルの上に置いた。
アイリス伯はつかつかとバン爺の前に歩み寄ると、クリスタルを奪い取り、白いハンカチでそれを包んで懐にしまった。
再びアイリス伯が目配せをすると、執事のゼニスはマゼンタの拘束を解いた。マゼンタは先ずゼニスを睨むと、次にアイリス伯を睨みながらバン爺のもとへ行った。
「……さて、お互いに要求していたものは帰ってきました。久しぶりにお会いしたローゼス卿をおもてなしいたしたいのですが、あいにく御覧の通りその余裕がこの屋敷にはない。心苦しいですが、このままお帰りいただいてよろしいですかな?」
「……シアンをどうするつもりじゃ?」
「……シアンを? 不思議なことをおっしゃいますね。父として子を育てるだけのことですよ?」
「ワシが聞いとるのは、あの子をお前さんの個人的な野心の道具にし続けるのかということじゃ。お前さんがあの子の体に何をしとるのか、ワシが知らんとでも思うとるのか?」
「……私の研究は革命をもたらし、この国を、やがては世界を発展させるのです。私には大義がある。それは個人的な心情で左右されるべきものではない」
「大義の話などしとらん。ワシゃあの子の一回こっきりの人生の話をしとるんじゃ」
アイリス伯は忌々し気にため息をつく。
「だから貴方はダメなんですよ。大事の前の小事ばかりを気にして、技術の進歩に目を向けようとしない。新しい芽をいつもそうやって摘み取ろうとするのだから。分かりませんか、これはやむを得ない犠牲なんですよ」
「あんたの子供でしょ?」
マゼンタが言った。
「むしろ、私のような男こそが評価されるべきだ。赤の他人ではない、自分の血を分けた、自分の半身こそを差し出すその決意と覚悟にっ」
「お前さんの話には、いっさいシアンの意志は入っとらんな……。」
「まだ社会の事も分からない子どもの意志が、いったい何だというんです。大人になったらきっと私に感謝しますよ。……ゼニス、おふたりをお見送りしろ」
執事は頭を下げると「こちらへ……。」とバン爺とマゼンタに退室を促した。
マゼンタはバン爺を見る。バン爺は小さくうなずいた。
退室しようとするふたり、アイリス伯の前を通り過ぎようとしている時にマゼンタが言った。
「……最後にシアンくんに会わせてくんない?」
「なんだ小娘、まだ玉の輿をあきらめきれないのか」
「……てめぇ!」
マゼンタはアイリス伯につかみかかった。
「やめんか、マゼンタっ」
バン爺と執事がマゼンタを抑えようとする。
「こ、この、あばずれがぁ……!」
アイリス伯は裏拳でマゼンタの横っ面を殴りつけた。吹き飛んで地面に倒れるマゼンタ。
「……っつ」
マゼンタは頬をさえうずくまる。
「まったく、シアンから早めに離しておいて正解だったな。お前の様な下賤の女と一緒にいたら、あいつにどんな悪影響があった事か……。」
「……ほれ、帰るぞ」
バン爺はマゼンタの手を引いて立ち上がらせた。
「う、う……ちきしょう……。」
マゼンタは声を上げて泣きじゃくった。必要以上に惨めな声を上げて。
「……アイリス伯よ、シアンの事に関してはワシにはもう何も言うことはない。じゃが、お前さんの禁呪法の研究に関しては報告させてもらうぞ。ワシにもワシの大義がある」
「……どうぞご自由に。私の研究を求めているのは、この国だけではありませんから」
「……大義が聞いてあきれるわい」
「負け惜しみは出し尽くしましたかな?」
アイリス伯の嘲笑を背中に浴びながら、バン爺とマゼンタは応接間を出ていった。
しかし、3人はその前にいつの間にかいなくなっていた男の存在を気にかけていなかった。
シアンは自室で事が終わるのを待っていた。誰も見ていないというのに、椅子の上で行儀正しく座って待つシアンは、哀しいほどに良く訓練された犬のようだった。これで良かったのだと少年は自分に言い聞かせる。自分が心を押さえること、それが苦しむ人間が一番少ない手段なのだと。
バン爺たちとの旅の中で心を解放していった少年は、生まれ育った場所に帰るにつれ、再び心に鎖をかけ重しを乗せていた。
「……シアンくん」
父の登場を予想していたシアンだったが、現れたのは意外にもアッシュだった。
「……叔父さん」
「何や、寂しそうな顔して」
アッシュは窓から外を眺める。アイリス伯領を去って行くバン爺とマゼンタの姿があった。
「……きちんと、お別れ言わんでよかったんか?」
どの口で言っているのかと思った少年は、しかし意見することなく、冷ややかな表情でアッシュから目をそらした。
「君はいっつもそうやねぇ」
アッシュは苦笑する。
「……ねぃちゃんも、よぉそんな顔しとったわ」
シアンはアッシュを見た。
「そおやって、嫌なもんからは顔をそらして、何でもないように取り繕うんや。……けど、それは俺も同じことやったんかもなぁ」
アッシュはシアンに近づいた。
「シアンくん、あのクリスタルのこと、ホンマは何か知っとるんやないの?」
「……え?」
アッシュの瞳が怪しく光っていた。
それからしばらくすると、バン爺たちとの話を終えたアイリス伯がシアンの部屋に入ってきた。
「……シアン」
シアンは立ち上がる。
「……父さん」
「……ハンカチを持っているか?」
「あ……はい」
シアンはポケットから白いハンカチを出した。
「口はそれでふいておけ」
「……え?」
アイリス伯はシアンの顔を平手で殴った。
「とんだ手間をかけさせてくれたな」
「……すみませんでした」
白い肌が赤くなり、口からは血が流れていたが、シアンは表情を崩さなかった。何も言わずにシアンは口をハンカチでぬぐう。
「……お前は、あの年寄りにそそのかされて私のもとから逃げ出したのだろう?」
シアンは困惑する。何かを言いたくても、父の前では父の望むこと以外を口に出すことができなかった。そう生きてきた。
「あの年寄りとあの女に何を吹き込まれたか知らんが、言っておこう、それはすべて間違いだ。考えてみろ、私を追い落とすことに人生を捧げた姑息な老人と、金目当てでお前に近づいたふしだらな淫売だ。奴らの事など信じるに値しない」
これまで、父親の言葉はすべて受け入れてきたシアンだった。しかし──
「……どうした? 何を黙っている?」
「……いえ」
「いえ、じゃないだろう。お前は騙されてあいつらと一緒にいたんだろうと聞いてるんだ、答えろ」
「……。」
「……お前、まさか自分から進んでついて言ったというわけではないだろうな。なぜ奴らを庇う? 袖の下で成り上がった三流魔術師と、どんな病気を持ってるか分からんような赤の民の売春婦だぞ?」
父に逆らう勇気はない。だが、バン爺たちを否定しないのが少年のせめてもの抵抗だった。その言葉は絶対に口にしてはならない。少年は拳をにぎりしめ、肉体の痛みと心の痛みに耐え忍ぼうとする。
「……お前、自分が何をやってるのか分かってるのか? 私たちには崇高な目的があることを忘れたのか? なにより、お前は私だけではない、母を、グレイスさえも裏切ったんだぞ。グレイスがお前のためにどれだけ苦労したのか、分かってるのか?」
その時、少年に初めて父に対して敵意が芽生えた。バン爺とマゼンタへの侮辱、さらに母を理由にされたことに。
「……母さんは違います」
「……なに?」
「母さんは……父さんに研究をやめてほしかったんです」
平手が再びシアンの頬を打った。少年の口から血が飛び散る。
殴っておいてからアイリス伯は訊ねる。
「何だと?」
「母さんは、父さんに危険な研究を辞めてほしかったんです。でも、それを言うと父さんがぼくに暴力をふるうから……。」
アイリス伯は再びシアンを殴った。
「お前が何を知ってるというんだ?」
「……母さんが死んだのは事故なんですか?」
「……なに?」
「……あの日の事──」
──7年前
アイリス伯と妻のグレイスは地下室で研究を続けていた。その研究室の中央には多くの大小のクリスタルが並んでいた。家畜から生成されたクリスタルは、そのオドの総量から大豆よりも小さいものだったが、中央に鎮座するクリスタルは小ぶりのスイカほどあった。彼が自治領のマナを吸い取って精製したクリスタルだった。多くの動物実験と、環境破壊をくり返して、アイリス伯はマナやオドからクリスタルを生成する方法は確立させていた。次の課題は、そのクリスタルの力をどうやって放出するかだった。下手をすると暴走する可能性もあった。
「……容物が必要だ。それも、オドを持った生物の容物。そうすれば、マナは暴走することなく、その力を発揮することができる」
牝鶏から精製したクリスタルを雌犬に埋め込み、卵を産む犬を作り出すという実験には成功していた。生き物の特性を別の生き物に移し替えるという奇跡。問題としては、その犬が数週間で死んでしまったという事だった。
「私の理論は正しかった。しかし、実験に耐えられる容れ物はどう用意すれば……?」
「より大きな動物、例えば象のような生き物がいれば……。」
「象などにクリスタルを入れてどうする? 私がやっているのは家畜の研究ではない。乳が搾れる象でも作るのか?」
グレイスは何も言わず、申し訳なさそうにほほ笑んだ。自分の意見が否定されることは本人にも分かっていた。夫が求めいているのは意見する女ではないことは知っている。仮に求められた場合には、取るに足らないことを言ってお茶を濁すのが最善なのだ。
「やはり、オドの弱い家畜ではダメなんだ。……グレイス、シアンはいくつになった?」
「……え?」
「シアンはいくつになったと訊いてるんだ?」
「……今年で5歳になります」
「……まだ、5歳か」
「……あの、どういう意味で?」
「喜べグレイス。もう少し大きくなれば、才能のないあいつに、私達は世界最強の力を与えてやることができる……。」
「……あの子に……研究を手伝わせるという事ですか?」
実験台にするつもりなのかとは言えなかった。
「手伝いではない、あいつには最高の栄誉を与えると言っているのだ。私の悲願の集大成としてな」
それは、自分の考えにいっさいの疑問を持たない男の顔だった。
その夜、グレイスは王都に手紙をしたためた。夫が敵視するバーガンディ・ローゼスへの書簡だった。世の中に疎い彼女でも、1級魔術師であるバーガンディの名は聞いた事があったからだ。グレイスはその書簡を翌朝に使い烏の足にくくりつけ王都に飛ばした。
そしてアイリス伯の予定を執事から聞き出し、夫が所用で領外に出る、数少ない時を待ち続けた。
決行の日──
「お母さん、どうしてお出かけの用意するの?」
物心がついたばかりのシアンは、母の様子がおかしいことに気づいた。少年が見る初めての長旅の準備だった。
「……お父様の所に行くのよ。忘れ物をしてしまったみたいだから、届けてあげるの」
「……ふぅん」
「それと……。」
グレイスはバーガンディへの手紙に記していた、禁呪法の研究の証拠を持ち出そうと地下室へ降りていった。
研究によって安定しているため、持ち出している最中にクリスタルが暴発するという事はないだろう。グレイスは一番小さなクリスタルと、研究過程が記されているノートを鞄に入れた。
「……これで十分かしら」
「……何が十分なんだ?」
思わずグレイスは悲鳴を上げた。研究室の入り口にはアイリス伯が立っていた。
「……あ、あなた」
「何をしている?」
「いえ、あの……研究室のお掃除を……。」
「よそ行きの恰好でか?」
「終わったら……せっかくいいお天気なので、シアンとハイキングにでもと……。」
アイリス伯は懐から書簡を取り出した。バーガンディ・ローゼス宛にグレイスが書いた手紙だった。グレイスは心臓が止まったように感じた。
「グレイス、お前もそうだったのか?」
「……どういう意味です?」
「お前もやはり奴の、ローゼスの手のものだったのかという事だ」
「そ、違います、誤解ですわ。わたしは……。」
アイリス伯は手紙を見る。
「あいつ宛の手紙のようだがな」
「……あの方に、相談をと」
「相談? 何のだ?」
「シアンを……助けてくれるようにと……。」
「シアンを助ける? 言っている意味が分からないぞ?」
「あ、あなたはシアンを危険な実験に巻き込もうとしているではありませんかっ。シアンの体にクリスタルを埋め込むおつもりなのでしょう?」
「何を言ってる? お前もさんざん見てきたはずだ。私の研究は成功している。理論上は間違っていない、後は実践に移すだけだ」
「万に一つという事があるではないですかっ」
「……お前は、私を信じていないのか?」
「あなたの研究は素晴らしいと思ってますわ。けれど、それとこれとは話が別です」
アイリス伯は小さく舌打ちをする。
「……これだから女というのは、最後の最後でつまらん情けを出してくる。そういう話をしてる場合か?」
「わたし達の子供の話ですよ。どんな時だってそうであるはずですっ」
アイリス伯はため息をついた後、穏やかな顔つきになった。顔つきは穏やかだったが、目には軽蔑の色があった。
「……グレイス、お前は疲れてるんだ。ゆっくりと夫婦で話をしよう」
笑顔になるアイリス伯。しかし、妻は夫のその顔に一切油断することはなかった。
「……あなたがシアンには手を出さないと約束していただけるなら」
「……分かった。約束しよう」
「それなら、シアンはわたしの実家に預けてもいいですね?」
「……なに?」
「シアンを実験に使わないのならば、そうしても問題はないはずです」
アイリス伯の口が歪んだ。
「そんなのはダメに決まっている!」
「なぜです! やっぱりシアンを実験台にするおつもりでっ?」
「シアンは私のものだ! あいつのことは私が決める!」
「わたしの子供でもあります!」
「なぜだ! 今まで私の研究に尽くしてくれたお前が、なぜこの期に及んで!?」
「研究のお話ではありません、シアンの安全のためです!」
「……まさかお前が、物の優劣が分からん女だったとはな」
「分かりますともっ、シアンの優劣のお話ならっ」
アイリス伯は肩を大きく上下させ深呼吸する。
「……分かった。今後の研究にもお前が必要だ」
アイリス伯はさらにグレイスに近寄り、肩を抱いた。
「……分かっていただけましたか?」
「ああ、よく分かった。……このローゼスの手先め」
「え?」
「……地震?」
母を待っていたシアンは床が揺れるのを感じた。
それからしばらくしても、母は戻ってこなかった。代わりに現れたのは、憔悴した様子の父・アイリス伯だった。
「あれ? お母さんは? それに父さんは出かけてたんじゃないの?」
父のそばに、母のグレイスはいなかった。
「……私は……出かけてはいないぞ」
「……母さんは?」
目の前で訊ねているのに、アイリス伯は上の空のようだった。
「……父さん?」
「……シアン」
その日のうちに、シアンは母が研究中の事故で亡くなったと父に教えられた。
魔術の実験のせいで激しく損傷しているということで、葬儀の場所にはグレイスの遺体はなかった。親子は空の棺桶を担ぎ、それを墓地に埋葬し墓を建てた。
親族が葬式から帰った後、アイリス伯はシアンにクリスタルを見せた。
「……これはなぁに?」
「……グレイスだ」
「……?」
シアンは父のいう事が理解できずに困惑する。
「グレイスは偉大なる研究の過程でこの姿になった。だがこれは悲劇ではない。グレイスは私の研究の正しさを証明するために自らを犠牲にしたのだ」
シアンはそのクリスタルをそっと手に取った。
「研究に捧げた母の思いを無駄にするな。この姿になっても、いや、この姿になったからこそ、グレイスのオドはお前と共にある。お前がグレイスの意志を継げば、きっといつの日にか再会できる日が来るはずだ」
※
「母さんは、あの日、ぼくを連れてここから逃げようとしていたんだ。それを、父さんが邪魔したんじゃないの?」
「……な、何を言ってるんだ?」
「俺も詳しく知りたいですねぇ」
「……貴様」
部屋の入り口にはアッシュが立っていた。
「あのおじいちゃんの言ってたことが、かなり気になりましてねぇ。シアンくんに軽ぅく俺の術式使わせてもろうたんですわ」
「……シアン、くだらない言葉に惑わされるな。思い出せ私たちの目的を──」
「父さんだけの目的だよっ」
「……このっ」
再びアイリス伯はシアンを平手で殴った。しかし、シアンはびくともしなかった。代わりにアイリス伯は手が押さえてうずくまる。体を術式で硬化させていたのだった。
「あ……つ……。」
アッシュが小さく口笛を吹く。
「き、貴様、父親に向かって術式を使ったのかっ?」
「父さんがぼくに教えたんだよ」
「私のおかげで身につけた術式だ!」
「ぼくは頼んでないっ!」
「……シ、シアン」
「ぼくはずっと嫌だった!」
「なんだと?」
「術式の訓練も、大事な友達を実験に使われたのも、全部嫌だった! ずっと、ずっと我慢してきたんだ! 母さんへの想いだとか、世界のためだとか言って、ぼくの気持ちがなかったことにしないでよ! 初めて好きな人ができたんだ! 尊敬できる人を見つけたんだ! ぼくだけの想いだ! 父さんに否定されるいわれなんてないっ!」
シアンは呼吸を荒げると、机からナイフを取り出した。そして長く青い自分の髪をつかむと「この髪だって、父さんが母さんみたいに伸ばせっていうから……」と、ナイフで髪を切り落とした。
アイリス伯はアッシュを見る。ここまでシアンが気持ちを吐露するのは、アッシュのテンプテーションの作用があってのものだった。アッシュは肩をすくめて微笑みで答える。
「……き、さま」
「シアンくんの気持ちはホンマモンですよ。俺はちょいとシアンくんの背中を押してあげただけやで?」
「……シアン、落ち着け。お前は長旅から帰って疲れてるんだ。少し休んでから話をするぞ」
「疲れてなんかない! ぼくはずっと父さんが嫌いだったんだよ! 母さんを苦しめちゃいけないって、自分の父親なんだから喜ばせなきゃいけないって、ずっと良い子にならなきゃって頑張ってたけど、本当はずっと嫌いだった! ぼくを傷つけたことも、マゼンタさんを侮辱したことも、絶対に許さないっ!」
「……聞き分けの無い奴だ」
アイリス伯はクリスタルを取り出そうと懐に手を入れる。しかし、すぐに違和感に気づいた。
「……?」
慌てて懐をまさぐり、次にポケットをまさぐった。だが、どこにもクリスタルはなかった。
「……どうしたんでっか? ……お?」
シアンの体が緑色に発光しだしていた。激情によってオドが解放されつつあった。
「シ、シアン、落ちつけ……。」
室内に、オドで発生した風が吹き荒れていた。
「……あちゃあ」
城を追い出されたマゼンタとバン爺、バン爺は失意で落ち込み、マゼンタは納得いかない様子だった。
「……なんで黙って行っちゃうわけ?」
「……仕方あるまい。結局は家族の問題じゃからな。それに、シアンが選んだことじゃ」
「選んだんじゃなくって、選ばされたんでしょ?」
「……人間、必ずしも自分の意志を自由にしとるわけじゃあないじゃろ」
「それにしてもあきらめるのが早いよっ」
「……計算外じゃった。シアンが気がかりにしとったのは、親父さんだけじゃあなく、お袋さんの事情まであったんはな。ああなると、部外者がどうこう言うても通用せんよ」
「……てっきり、力づくでもシアンくんを助けるもんだと思ってたよ」
「よその家庭の事のことを、そこまで引っかき回す権限なんぞワシにはないよ」
「じゃあ、どうしてここまで来たのさ?」
「……ワシはあの子を助ければ、自分の中でのけじめをつけられると思うとった。かつては何もしないで見殺しにしてしまった命を、今度こそはと。そうすれば、死なんですんだ命があったのだと、そう思える気がしてな……。せめて、やれるだけの事はやろうと……。」
「……バン爺」
「結局、ワシもアイリス伯も、やっとることは同じじゃった。過去に囚われて、それを埋め合わせようと現在をないがしろにしとる。奴は手に入らなかった栄光と事故死した妻、ワシは自殺した息子……情けないのう、思い出と戦っても勝てはせんというのに」
「……違うよ」
「……何じゃ?」
「バン爺の息子さんは自殺したんじゃあないよ……。」
「……どういう意味じゃ?」
※
「あなた、あの人を知ってるの!?」
それまで見知らぬ人間に警戒をしていた、川辺に献花をしていた女は、今では血相を変えてマゼンタに迫っていた。
「えっと、いや、何て言うか、知り合いというか、知り合いの息子さんというか……。」
女の思わぬ反応に、マゼンタはしどろもどろに答える。
「……良かったぁ。ようやく……見つかった……。」
女はマゼンタの目の前で地面に座り込むと、深くため息をついた。
「……あの、おねえさんは一体、その人とどういう……?」
女は顔を上げる。目尻には涙のしずくがあった。
「命の……恩人なんです」
「え?」
女はゆっくりと立ち上がり、思い出をふり返るように川を見る。
「……15年前、川でおぼれてた私を助けてくれたんですよ」
マゼンタは川を見る。そこまで流れの激しい川には見えなかった。
「……昔、増水したって話を聞いたんだけど。……その時に?」
女は首をふって言った。
「……その少し前。……あの頃、うちは父が借金を抱えたまま亡くなってしまって、母は毎日のように借金取りに取り立てを受けてて……。母も働いてはいたんですが、全然返済に追いつかなくって……。だんだん母はやつれて、子供ながらにそんな母がどうかなってしまうんじゃないかと心配してました。ある夜、頬がこけて顔も蒼白していた母が、夕涼みに行こうとわたしを外に連れ出して……。母の様子がおかしかったのは気づいてたけれど、毎日忙しい母の気分転換になればと、一緒に出かけたんです……。」
※※
少女は母と一緒に川辺に立っていた。楽しいものではなかった。ただ、夜の川を母と一緒に眺めているだけだったのだから。雨は降っていなかったが、空は厚い雲に覆われ月明りがなく、川は闇色に染まっていた。
「……母さん、川なんて見てても面白くないよ。……そろそろ帰らない? ……母さん?」
母は少女の体に縄を結びつけていた。
「……何してるの?」
しかし、母は何も答えない。鬼気迫る勢いで娘の体をきつく縛り続けていた。
「……ねぇ、ちょっと、何?」
そして母は自分の体も縄で縛り始める。
「……ねぇ、怖いよ、やだよ、母さんどうしたの?」
少女は体を引いて母から逃げようとする。しかし、やせ細った母の体だったが、決意が彼女の体に作用しているのか、びくともしなかった。
さらに、母は石をポケットに入れ始めた。
「ねぇ、どうしたの? ねぇ、おかしいよ、母さんっ」
母は少女に言った。その顔の白さは、暗闇だというのに少女に鮮明に見えた。
「……お父さんのところに行きましょう」
「……え?」
そして母は川に飛び込んだ。
「きゃああ!」
母に引きずり込まれ、少女も川の中に落ちていった。
「た、助け……て……。」
少女は川岸に戻ろうとするが、心を決めている母はより深い場所へと進んでいく。
「が、がぶっ、だ、誰か……!」
水位が肩まで及び、少女は叫ぼうとしても水を飲み込みうまくできない。
意識が遠のいていき、少女から生の執着も消えようとしていた時に、遠く声が聞こえてきた。
「何やってるんだ!」
──誰?
激しい水しぶきと体のゆれる衝撃、おぼろげな意識の中で少女は男の顔を見た。30歳くらいの男だった。
男は少女をわきに抱えると川岸に泳ぎ始める。しかし、うまく前進しない。男が引っ張っているのは、少女の体だけではなかった。縄でくくられている少女の母、しかも川の深淵に向かおうとしている体だった。
「がぶぅあ、がばぁ!」
男も水を飲み込みながら、想像以上の体力を使用して少女を引っ張る。
「邪魔しないでぇ!」
「く、くそ、あんた何やってんだよぉっ」
男と少女の母は、川の中で少女を綱引きのように引っ張り合っていた。
このままでは埒があかない、そう思った男は術式で少女の縄を切ろうと試みた。
消耗した体力、死が迫る緊急性、水の中という不安定な状況下、術式を使うには難しい状況だったが、男は川底の小石を拾うと術式を開始した。
父を目指して身につけた大地の術式、その力を使って、小石を金属製の刃に作り替えたのだ。
「う、くそ……。」
男は刃で少女の体に食い込む縄に切れ目を入れ、ついに少女の体を解放した。少女は一気に浅瀬までたどり着いた。
「おにいさん!」
解放された少女は浅瀬から男に手を伸ばす。男はその手を握ろうとしたが、不十分な状況でのオドの使用で、男には体力が残されていなかった。
「あ……あ……。」
そして、男の姿は真っ暗な川の中に消えていった。
川辺に上がった少女は呆然と座り込んでいた。その隣には、男が脱ぎ捨てた靴が置かれていた。
少女がその靴に手を伸ばそうとすると、突然、川の中からジャバっと水の音がした。少女は男が無事だったのかとその方向を見る。
しかし、そこに立っていたのは少女の母親だった。
「き、きゃあああ!」
母親は鬼気迫る顔で川の中から少女に迫る。少女はたまらずに川辺から逃げ出した。
※※
「……どうして今になって?」
「故郷を飛び出してから、ずっとここには戻らなかったんです。母に見つかるのが恐ろしかったから……。でも、もうこの歳だし母を恐れる必要もないから、命の恩人を探そうと思って……。それに今は夫も一緒だから……」
女は土手の上を見た。マゼンタもその方向を見る。そこには男がいた。
「……それと」
女は自分のお腹に手を当てた。
※
マゼンタから話を聞き終わった後、バン爺は道端にあった大きな石にへたり込み頭を抱えた。
「……息子は、自殺したんじゃあなかったんか」
「……それどころか、見ず知らずの少女を助けたんだよ」
バン爺はひとりごとのように言う。
「ワシが勝手に……息子が絶望しとったと思うとったのか……。」
「……それとね、そのおねえさんが息子さんを探してた理由が他にもあるの」
「……何じゃ?」
「そのおねえさん、お腹に子供がいるんだって。それでね、もし男の子が生まれたら、その子に自分の命の恩人の……バン爺の息子さんの名前をつけようって……。」
バン爺は深くうなだれた。
「……そうか」
「……バン爺、息子さんは自分を犠牲にして人を助けたんだよ。バン爺はそのお父さんでしょ? だったら、まだやることがあるんじゃないの?」
バン爺は顔を上げる。
「……うむ、あの世で息子に叱られてしまうのう」
バン爺は立ち上がった。
「……行くかの、マゼンタ」
「うん」
そうしてふたりはふり返り、アイリス伯の城を見た。
すると城が爆発した。
「「え?」」
上部が爆発した城はすぐに自らを支えることができなくなり、そしてガラガラと崩壊を始めた。
「た、大変! どうしちゃったの?」
「むぅ……。」
バン爺とマゼンタは急いで城に向かう。城に近づくと、ふたりは異変に気づいた。崩壊した城の真ん中、爆心地とみられるところが緑色に光っていた。
「……あれは」
バン爺とマゼンタはその見覚えのある光に戦慄する。それは、シアンがマゼンタの村で暴走した時の光だった。すでに空には雷雲が立ち込めていた。
「あの男……またクリスタルを使ってシアンを暴走させたのか?」
「……えっと、それはないかもよ?」
「……どうしてそう思うんじゃ?」
マゼンタは懐からクリスタルを取り出した。
「……なんと」
マゼンタは帰り際、アイリス伯につかみかかった時にクリスタルをスッていた。
「……だったら、あれって」
「うぅむ……。」
マゼンタたちがかつて城だった瓦礫の山に着き、光の元まで行くと、そこには術式で体を守ったアイリス伯とアッシュの姿があった。
そして、その正面には暴走している全裸のシアンが。背丈は倍ほどに伸び、筋骨は雄々しく発達し、しかし白い肌と蒼い髪は美しく輝いていた。
「……アイリス伯、大丈夫かっ?」
バン爺が訊ねると、アイリス伯はバン爺たちを見た。
「き、貴様、バーガンディっ! クリスタルはどうした!?」
「あたしが持ってるよ」
マゼンタはクリスタルを出して見せた。
「この、女狐め! とっととそれをこちらに渡せ!」
「はぁっ? こんなの使って自分の子供を操るような奴に渡せるもんかっ」
「言ってる場合か!? 状況を見ろっ!」
「……見とるさ、セレスト・アイリス」
「何だと?」
「道具に頼らんで、自分の子供のことぐらい、自分で何とかせんか」
「い、今のシアンにそんなことを言ってる余裕は……。」
シアンが咆哮した。衝撃でアイリス伯が吹き飛ばされ、瓦礫の壁に叩きつけられた。
バン爺は「あちゃあ」と自分の頭をぺしりと叩いた。
「……確かにそんな状況じゃないかもしれん」
「う……ぐぁ……。」
アイリス伯はずるりと倒れる。
「……シアンや」
バン爺の呼びかけに反応して、シアンが振り向いた。鬼のようなシアンの形相。あの美少年がこの姿に変身しているなどとは誰も思わないだろう。ただ以前の暴走と違うのは今のシアンには感情の片鱗があることだった。
「う、う、うるあああああ……。」
「ええ顔しとるのう……。ようやく自分の気持ちを吐き出したかい」
犬歯が伸びたシアンの顔を感慨深く見るバン爺。アッシュに対してさえ構えなかったが、ここに来て初めてバン爺は構えを取った。
「……来なさい。お前さんの思い、ジジイが全部受け止めちゃろう」
「るがぁああああああっ!」
シアンは猛スピードでバン爺に迫る。
──こええ……。
バン爺とシアンは衝突した。激しい衝撃音と共に突風が二人を中心に巻き起こる。
打ち負けたのはバン爺だった。さしもの彼も人智を超えたシアンのオドを受け流しきることはできず、後方に猛スピードで飛んでいく。
「バン爺!」
50メートルほど飛ばされたバン爺を見てマゼンタは叫んだ。
異常に吹き飛んだのは、バン爺は自分からも後方に飛んだからだった。バン爺は空中で減速すると、すとんと地面に着地した。そして体をくねらせオドの流れを調整する。
「……ごぶっ」
しかし、流しきれずにバン爺は咳払いと同時に口から血を吐いた。バン爺は血のついた手を見る。
「もって、あと2分といったところか……。」
周囲を見渡すバン爺、彼が落ちたのは生命力を奪われたハゲ山だった。何とかまばらに木々が残っている。
──ほんのわずかにマナが再生しつつあるのか……。
「……ん?」
バン爺が空を見上げると、雷雲が発光していた。
「……あかん」
バン爺は地面に手を当てる。
「……間に合ってくれい」
シアンが術式で起こした雷が落ちてくる。強烈な稲光。しかし雷はバン爺に落ちることなく、彼から逸れて周りの木々に落ちた。バン爺の周りに閃光が走り、次に炎の柱が立ち上がった。
直前にバン爺がオドを流し込み、木々を避雷針代わりにしたのだった。
「やれやれ、心臓に悪いわい……。ん?」
風に乗ってシアンがバン爺の前に降り立った。ゆっくりと風を起こしながら降りてくるその姿は、魔神の降臨であるかのように禍々しかった。
「ぐるるるる……。」
獣のように、今まさに襲いかからんと両手を広げるシアン。
バン爺はボクシングのように拳を握って構える。
「来んかい」
「がぁ!」
シアンが大ぶりでバン爺を殴りつける。
パンチはバン爺に当たるが、バン爺は衝撃を受け流し体を回転させ、シアンの首に回転蹴りを叩き込んだ。だが、シアンの太くなった首には老人の蹴りは効果を成さない。
シアンが力まかせの前蹴りを打つ。
バン爺は紙一重で蹴り脚を避け軸足を払う。シアンが尻もちをついた。
シアンは激高し、雄たけびを上げながら立ち上がる。
──ええぞ……。
バン爺は足元の小石を拾うとシアンに投げつけた。
それを片手でキャッチするシアン。
バン爺が指でスナップを打つ。
すると石が破裂した。
「がぁっ!」
石の破片が目つぶしになり、シアンは目を閉じた。
目をこするシアン、再び視界が戻ると目の前にはバン爺が立っていた。
「根競べといこうや」
右手をシアンの胸に当て、左手で右の手首をつかむバン爺。バン爺のローブがオドで逆巻く。
「かぁ!」
バン爺はオドを直接シアンの体内に流し込んだ。
「ぐるぉおおおおお!」
「かぁああ!」
体のオドを放出し続けるバン爺、耐えるシアン。それぞれの声がこだまする。
「……く、か……はぁっ」
しかし、老齢の体から発せられたオドは間もなく尽きてしまった。
「がうぁ!」
シアンがバン爺の体をつかんだ。そしてシアンの蒼い髪がオドで逆巻く。自分がやられたことをやり返そうとしているのだった。
──来たのう……。
「があああああああ!」
シアンはバン爺に直接オドを流し始めた。攻撃をすかされて怒らされ、体にオドを流され怒らされていたシアンの攻撃は、強烈だが単純だった。
「お、お、おおおおおおっ!」
体に尋常ではない量のオドが流れこんでくる。果たして、これほどのオドの流れを体験する魔術師がかつていただろうかというくらいの、強大で強力なオドだった。それを心を乱さずにバン爺は地面に流し続けていた。
一方、離れた場所でふたりの様子を見ていたマゼンタはある異変に気付いた。
「……ん、なに?」
マゼンタは自分が立っている地面を見る。地面が細かく震えていた。
「……あのおじいちゃん、俺とやった時と同じことをやるつもりやろうな」
マゼンタの後ろにはアッシュがいた。
「……あんた」
「せやけど規模が違うわ……。」
シアンは力が流されるもどかしさで、ますますオドを強める。
「がるぁああああああああ!」
「ほっほっほ、どうしたね? まだまだジジイにはなぁんも堪えとらんぞ?」
「うがぁあああああああ!」
バン爺の挑発でシアンの体が強烈に光る。まるでエメラルドグリーンの太陽のようだった。
「きゃあっ」
強い光に思わずマゼンタは腕で顔を覆った。目を閉じながら、マゼンタは足に振動を、そして耳にざわざわと物がこすれる音を聞いていた。
「がああああああああああーーーーーッ!」
シアンの咆哮がアイリス伯領にこだました。
「──────……!」
「……ん……う……。……え!?」
そして次に目を開いた時、マゼンタは目の前の光景に自分の目を疑った。もしかしたら、自分はあの光に巻き込まれて死んでしまったのかもしれないとさえ思った。
「うっそ……。」
「……ほ、ほんまでっか?」
荒廃していたアイリス伯領に、緑が戻っていた。大地は潤い、地面には草花が顔を出し、やせ細っていた木々は太い大木となり葉をつけていた。
「こ、こんなことが……。」
「ありえへんやろ……。」
「そういえば、バン爺たちは……?」
「あ、ちょいっ!」
マゼンタはバン爺たちが戦っていた場所へ駆けて行った。
「……バン爺! シアンくん!」
バン爺とシアンが戦っていたハゲ山は、今では緑豊かな森になっていた。
「シアンくん、どこ!? バン爺、生きてたら返事して!」
ふたりの名を呼びながら森を歩くマゼンタ。すぐにふたりは見つかった。少年の姿に戻っているシアンは木を背にして気を失い、バン爺はうつぶせで地面に倒れていた。
「シアンくん! バン爺!」
マゼンタはまずバン爺に駆け寄った。倒れ方が洒落になっていなかった。
「バン爺っ! 大丈夫!? 生きてる!?」
バン爺を抱き起し、気付けをするマゼンタ。死んでいるように見えたが、幸い脈も呼吸もあった。
「バン爺、バン爺っ」
マゼンタはバン爺の頬をひっぱたき始めた。
「バン爺、死なないで!」
必死でバン爺を叩き続けるマゼンタ。
「……痛い痛い、お前さんがとどめさしとるぞ」
バン爺が目を覚ました。
「バン爺!」
マゼンタはバン爺に抱きついた。
「大丈夫なんだねっ?」
「あ~なんとかのう。おかげで寿命が10年縮まったがのう」
「じゃあ、あと100年は生きるね」
「はっはっ、お前さんの軽口も生きていればこそじゃのう……。」
マゼンタはシアンを見る。
「……シアンくんも、もう大丈夫なの?」
「ふぅむ……。」
バン爺は周りを見渡す。シアンの異常なオドをすべて体の外に流したことを確信した。
「声をかけてみたらどうじゃ?」
「……うん」
マゼンタは裸で気を失っているシアンのもとへ行った。
「……シアンくん、大丈夫?」
マゼンタはシアンの体を抱き上げると優しくなでさする。
「……待遇に違いがあり過ぎやせんか?」
「……う……ん」
「シアンくん!」
シアンが目を開いた。嵐の後の晴天のような瞳がマゼンタを見る。
「……マゼンタ……さん」
「良かったぁ!」
マゼンタはシアンを抱きしめる。シアンも心を預けるようにマゼンタの体に手を回し、赤い髪に顔をうずめた。しばらくして、自分が何をしているのか理解して慌ててマゼンタの体から手を離した。
「どうしたの?」
「あ、いや、だって……。」
「……シアンや、体の方は平気かね?」
「……うん」
「ちょいと……。」
バン爺はシアンの体に手を当てて、オドの様子を探った。
「……ふむ、オドは安定しとる」
バン爺はシアンを見て笑う。
「年相応の力になったの」
「ねぇ、シアンくん……。」
「なに、マゼンタさん?」
「……はい」
マゼンタははにかみながら持ってきた服を渡した。
シアンもはにかみながらそれに袖を通す。
「……今さら照れとるんかい」
バン爺たちは瓦礫になった城に戻った。そこには体を回復させたアイリス伯がいた。
「……ローゼス卿」
「……終わったよ、アイリス伯」
「……どういう意味だ?」
「この子の、シアンの体の中にあったコアのオドは、すべて外に流させてもらった……。もう、どっからどう見ても普通の12歳じゃよ」
「……美人過ぎるけどね」と、マゼンタが言った。
「ば、ばかな……。」
アイリス伯は足をよろめかせながらシアンに詰め寄る。
「わ、私の研究の集大成が……。」
「……親なら、無事に生まれて健康に育っとるだけで感謝せんかい」
「……私と、妻の長年の努力が」
アイリス伯は頭を抱えて膝をついた。
「……ねぇ、おっちゃん」
アイリス伯が顔を上げると、そこにはアッシュが立っていた。
「……アッシュ」
「ホンマにねぃちゃんが死んだんは、研究中の事故やったん?」
「……何だと?」
「シアンくんとねぃちゃんが家出しようとした矢先やん、事故が起きたの。何か不自然やありません?」
「……お前、私がグレイスを手にかけたとでも言いたいのか?」
「いやぁ、そこまでは言いませんけど……でも、おっちゃんの研究って、事故が起きた頃には成功しとったっていう話しですやん? せやのに、ねぇちゃんの遺体が見つからんくらいの事故が起きるって、おかしないですか?」
「……研究は……成功してなどいなかった」
悔しさを滲ませた声でアイリス伯は言った。
「……え?」
「どういう事じゃ?」
「……研究は私が成功させたのではない」