大地全体を日の光が照らすようになり、一行がマゼンタの村からかなり距離を取った頃、マゼンタが誰に訊ねるでもない様子で言った。
「……追手はあれだけかな」
「何とも言えん。……じゃが、ワシらがどこに向かっとるか知られん限り、追いかけようもなかろう」
「でも、あのアッシュって奴はあたしらの居場所が分かってたじゃん?」
マゼンタはシアンの顔を見て、「ねー」と言った。
「もしかしたら、相手の居場所が分かる魔術とかじゃ? そういうのってあるの?」
「あるには、あるがのう」
「じゃあ、あいつ、その魔術を使ったとか」
「それはないじゃろ。あのあんちゃんが使ってた術式は、テンプテーションと肉体強化じゃ。まぁ、持ち前の気質と楽な修行に頼った結果じゃろうて。例えオールドブラッドでも、そんなに複数の術式を使えるわけじゃあない」
「そのさ、オールドブラッドってなんなの?」
「おや、もう知らん世代が出て来とるわけか。……シアンは等級試験で勉強しとるじゃろうから知っとるの?」
シアンがうなずく。
「ほ、じゃあ復習といこうか」
マゼンタがシアンを見た。シアンは小さく咳払いをして話し始める。
「……え~と、もともと魔術はオールドブラッドが発明したものなんだよ。魔術を使って、彼らは大きな帝国を作ったらしいんだ。ずっと昔の事だけどね。でも、彼らの支配はそう長くは続かなかった。植民地から抵抗が始まって、次第に帝国は植民地の言い分を受け入れるようになったんだ。植民地の文化、宗教を受け入れて、植民地の方でも積極的に帝国の文化を受け入れたんだけど、そうしていくうちに元々はオールドブラッドしか使えなかった魔術の中で、特別な民族じゃなくても使える術式が開発されるようになって、どんどん彼らは社会的な優位を失っていったんだ。彼らしか使えない術式もあったんだけど、それでもやがて帝国はオールドブラッドだけのものではなくなって、自然と国々が独立して今の国の形になったって……。」
「素晴らしい。満点じゃ」
「それじゃあ帝国を失った今、彼らはどうしてるの? 滅んじゃったの?」と、マゼンタは訊ねた。
「帝国が滅びた理由のひとつに、彼ら自身が他の民族と同化したというのがあっての。文化もさることながら、多くの血と交わり、そして民族としての特性を失って行ったのじゃ」
「……じゃあ、あのアッシュって奴は、奇跡的なオールドブラッドの生き残りってわけ?」
「今は“オールドブラッド”とは、部族や人種ではなく、稀に生まれてくる彼らの特性が強い人間のことを指して言うんじゃよ」
「ぼくのお母さんもオールドブラッドだったんだ」
「ほぉ、そうか? ならば、お前さんの突出した力は、母君ゆずりといったところじゃろうか?」
「……でも、ぼくはオールドブラッドじゃないって父さんが言っていたよ」
「言うたじゃろう、特性の強弱じゃと。1かゼロかじゃありゃせんよ」
「……じゃあ、バン爺的には追手が来る可能性は低いってこと?」と、マゼンタは言った。
「ワシはそう思う。どうやってワシらの居場所を知ったかは分からん。じゃが、あのあんちゃんの拘束が解けたとしても、ワシらをすぐには追ってこんじゃろ。ワシにあんだけこっぴどくやられた後じゃ。仲間を呼ぶにしても時間がかかろうて。近くに仲間がいるのなら、はなっから一緒に来とるよ」
「ふ~ん」
バン爺はシアンをそれとなく見る。どうやら、本人はアッシュの語っていた、アイリス伯が自分を追跡できる理由を知らないようだ。父親に見えない首輪をされているという事実、それをそのまま伝えて良いものか、老人は苦慮していた。
そして、3人がダリア伯の領地に入るまで、本当に追手はやってこなかった。もちろん、各々がその理由を違う形で考えていた。
さらに領地を進み、ダリア伯の屋敷の前に着いた頃には夕方になっていた。
1日歩き続けたシアンを気づかってマゼンタが言う。
「……あんまり休まなかったけど、昨日と違って、今日はずいぶん体調が良かったね? 何だったんだろ?」
「うん、たまにああなるんだ」
「……たまに?」
「前触れもなくああなったと思ったら、急に何もなかったみたいに平気になるんだよ」
その意味を知るバン爺は、懐のクリスタルを握りしめていた。
「あっ」と思い出したように言うと、シアンはふたりに深々と頭を下げた。
「昨日は、ご迷惑かけて申し訳ありませんでした」
「だから、あやまらなくていいんだって」
「でも……。」
「お前さんが言わんかったら、ワシらだって忘れとったぞ」
「そうだよ」
「……すみません」
「またあやまる」
「シアンや、人はただ生きとるだけで、それだけで誰かに迷惑をかけるもんなんじゃ。しかし、迷惑をかけとっても、たいして当人は気にしとらんもんじゃよ。もし、いちいち腹を立てとる奴がおったら、そいつが単に、自分が人に迷惑をかけとることを忘れとるだけじゃて」
「そうだよ、あたし何て普段から迷惑かけすぎてるから、人に迷惑かけられても何とも思わないんだから」
そう言って、マゼンタが胸を張った。
「お前さんはちったぁ気にせんかい」
「……それよりバン爺、立派なお屋敷に着いたけど、これからどうすんの?」
「……本当に気にせんのじゃな。まぁええわい、お前さんたちはここで待っとれ」
「ここで?」
バン爺はふたりを留めると、ひとりで屋敷の前に行った。残されたマゼンタとシアンは顔を見合わせる。
門の前まで行ったバン爺は、やはり番兵に止められていた。しかし、バン爺が何かを番兵に伝えると、番兵のひとりが屋敷に入っていき、しばらくして執事が現れバン爺に頭を下げた。
その光景を見ていたマゼンタが「え?」と声を上げる。
バン爺は何かを執事に説明すると、マゼンタたちに向かって手招きを始めた。
「……行こうか?」
マゼンタたちがバン爺の下へ行くと、執事はマゼンタたちにも「お連れ様ですね」と頭を下げた。禿げ上がった頭の光る60代半ばの男だった。うりざね顔で、口には白髪交じりのちょび髭があった。
「どうぞこちらへ」
そうして、3人は屋敷の中に通された。
3人が執事の案内で屋敷の石畳の廊下を歩いていると、中年の男が遠くから早歩きでこちらに向かってきた。薄くなった髪を坊主頭に刈り込み、太く真っ黒い眉毛の下の目は、加齢のたるみで涙袋が大きくなっていたが、それでも眼光の鋭さは遠くからでも見てとれる、厳めしそうな男だった。真っ黒な詰襟姿は、男が高貴な身分であることをうかがわせる。
その男が近づいてくると、執事は廊下の隅に移動し小さく頭を下げた。
軍人のような厳しいその男も、バン爺の前に到着すると執事と同じように恐縮した顔になった。
「ローゼス卿ではありませんか」
男の声も、顔に似合わず聞き心地の良い声をしていた。
「……久しぶりじゃな、ダリア伯」と、バン爺は少しぎこちない様子で笑顔を作った。
「まったく、お人が悪いっ。事前に知らせていただければ、ご足労いただかなくとも使いの者をお迎えに上がらせましたのにっ」
「なに、急な用事じゃったからな……。」
「ささ、こちらへどうぞ。恥ずかしながら、まともなおもてなしはできませんが……。」
「どうか気を使わんでくれ、突然お邪魔したんじゃから」
「何をおっしゃいます。あなたの事です、きっと何か事情があったのでしょう」
ダリア伯は執事に言う。
「おい、この方たちのお部屋を用意しろ。そして今すぐ夕食の準備もな。私に恥をかかせるなよっ」
「はっ、ただいま」
執事は「こちらへどうぞ」と、3人を来客の部屋に案内した。部屋は十分広かったが、ベッドはふたつしかなかった。
「ローゼス卿のお部屋はまた別に用意します。お食事の用意ができるまでこちらでお待ちください」
執事はうやうやしくお辞儀をすると部屋から出ていった。
マゼンタはベッドに腰を掛けると、足を組み腕を組んで、窓辺にたたずむバン爺を睨んだ。
「……ローゼス卿」
そう言うマゼンタに、バン爺は左肩を小さく上げ首を傾けた。
「ロ・オ・ゼ・ス・きょ・う」
「何じゃい、くどいのう」
「……シアンくん、“卿”って何?」
バン爺とシアンはずっこけた。
「……やっぱり、おかしいと思ってました」とシアンは言った。
「シアンくん?」
バン爺はふたりから目をそらし、窓の外から見える星空を眺めていた。
「最初に見せていただいた術式もそうだし、叔父さんを退けた時もそうです。あの強力な術式。何より、“卿”の敬称があなたにはついてる。……バン爺さん、ローゼス卿は上位の等級をお持ちの魔術師なんですよね?」
バン爺は外から視線を戻したが、ふたりに合わせることはなかった。
「……嘘はついとらんかったぞ。かつては持っとっただけでな」
「……“かつて”?」
「後にも先にもおらんじゃろうな、自分から1級を捨てた魔術師は」
「……それって誰さ?」
「話の流れからしたらバン爺さんしかいないよ……。」
「マジで!? なんで!? てか1級!? マジですごくない!? てか何で!? てか捨てた!?」
「語彙が馬鹿になっとるな」
「あのダリア伯が、あなたに恐縮する理由もうなずけます。1級魔術師、それは王の隣で国政に携わっていたという事ですから……。」
「妙にかしこまった口調はやめんかい。今はただのジジイじゃ。等級は更新せずに無効になっとる」
「どうして1級をやめちゃったのさ? それに、その白い腕輪は?」
バン爺は右手の腕輪を見た。
「これは息子の形見じゃよ」
「……へぇ。じゃ、何で等級を捨てたの?」
「あれやこれやと疲れてしもうてな。まぁ、ええじゃろ。ジジイの昔話何ぞ」
「なに言ってんのさ、みんなこの旅でお互いの事を知るようになったんだから、バン爺だけ身の上を隠すなんて、そりゃないよ」
「だてにジジイじゃない。長い上に退屈じゃぞ」
「墓に入る前に全部吐き出しちゃいなよ」
「とどめを刺す時みたいに言うな」
「ぼくからもお願いします」
「シアン……。」
「ぼくと父が目指そうとしてる場所が、いったいどういうところなのか知っておきたいんです」
バン爺が咳をしたように乾いた笑いを上げる。
「参考になりゃせんぞ、それでも聞くかね?」
シアンはうなずいた。
バン爺は木製の丸椅子に座ると静かに語り出した。
「……ええじゃろ。……ワシはただ本当に運が良かったんじゃよ。何十年も前に戦争があったのは知っとろう。激しい大戦でな。その時にめぼしい魔術師が命を落としてしもうて、ワシがバリバリの現役じゃった頃には、上の世代がほとんどおらんかった。しかし制度上は、定められた数の等級魔術師を置く必要があった。そこで、そこそこの研究で成果をだして数人の弟子の育成をしておったワシが2級に任命されての。ワシからすればそれだけでも身に余る評価じゃったんじゃが、それから数年すると、今度は国政に関わる1級魔術師をどうしても決めんといかんようになった。当時の現任者がたて続けに寿命でくたばったんじゃよ。で、わずかな上級魔術師とアカデミーの会員が集まって審査会が開かれてのう。もちろん、2級のワシも出席したよ。数日間会議は続いたが、ワシの世代は不作の世代と言われるくらい、ワシを含めてめぼしい人間はいなくての、なかなか結論が出らんかった。そんな時、きっかけは忘れたが、誰かがふとワシを推挙したんじゃ。ワシにはそんな野心は全くなかったんじゃが、それが逆に評価になったようでの。不思議なことに、皆がワシならばよいだろうと次々に同意し始めたんじゃ。無難という理由でな。結局、ワシも断る理由もないもんで、そのままなし崩し的に1級になってしまったんじゃ。まあつまり、“掃き溜めに鶴”“棚からぼた餅”が重なっての1級じゃよ。……どうじゃ、参考にならんじゃろう?」
話し終えたバン爺は自嘲気味に笑った。
「どうして1級をやめたんですか?」
「器じゃったからな。実際は二流ていどのワシが、この国の最高の魔術師と称えられるのも申し訳なくってのう」
「……父さんは、1級魔術師は本当の実力があるものが成るものだ、と昔から言ってました。そうじゃないと、国が乱れてしまうと」
「アイリス伯ならばそう言うじゃろうな」
「父さんを……知ってるんですか?」
「まぁのう。野心に溢れた男じゃったよ。お前さんの親父さんが等級魔術師だった頃にはもうワシも1級じゃったから、あまり関わりはなかったかな。たぶんあの男からすれば、ワシみたく運と談合で1級になったモンは気に食わんかったろうな。……シアンや、お前さんは今の話を聞いても、まだ1級を目指そうと思うかね」
「……それは」
「お前さんにとって、そんなにも価値のある事かい?」
「1級魔術師は……父さんの目標なんです。そのためにぼくは物心ついた頃か父さんから指導を受けて……。もし、ぼくが1級を目指さないなんて言い出したら、父さんの努力が……。」
「前にも言ったかもしれんがのう、これはお前さんの人生なんじゃぞ? そのためにおまえさんの人生をないがしろにするのかね?」
「……でも、ぼくが成功すれば……父さんも喜んでくれるし」
「シアンくんって、意外とお父さんのことが好きなんだね」とマゼンタが言った。
「好きっていうか……。やっぱり喜んでほしいっていうか……。その、父さんはそんなに悪い人じゃないんだ。お酒を飲むのも、ぼくが上手く魔術を使えなかったりする時だけだから……。」
「手をあげるのも?」
バン爺は口の過ぎるマゼンタを嗜めるように見た。マゼンタは何が問題あるのかという顔をする。
「それは……。」
「シアンや、どれだけ才気があろうと、お前さんはまだ子供じゃ。自分の気持ちには正直に向かい合いなさい。子供の内にしっかり子供をやっとかんと、大人にはなれんぞ」
「……はい」
マゼンタは、さっきの会話の中で気になっていた事をふと思い出した。
「そういえば、さっきシアンくん変なこと言ってなかった?」
「変なこと?」
「あのアッシュって奴の事、叔父さんとか……。」
「アッシュはぼくの本当の母さんの弟なんだ」
ふたりは驚愕して口が開きっぱなしになった。
「……早く言いなよ」
「あ、ごめんなさい……言う機会がなくて……。」
「まぁ、そうじゃが……のう……。」
そうこう話しているところへ執事が入ってきた。
「ローゼス卿、お食事の準備が出来ました」
「おお、そうか。……では行くとしようかの」
──
アイリス伯直轄領
城ではアイリス伯が、広間で酒を飲みながら部屋の壁に大きく飾られた絵画を眺めていた。シアンがいなくなってからというもの、彼の飲酒量は増えるばかりだった。
「アイリス様、アッシュ殿が戻られました」
背を向けているアイリス伯は何も答えなかったが、執事は長年の経験から主人が聞いていることを察してアッシュを部屋に通した。
部屋に入ったアッシュは促されてもいないのに、部屋の隅の椅子を音を立てて引きずり、それにどかっと足を組んで座った。
「……なぜひとりで戻ってきた? よくも手ぶらで帰ってこれたものだな」
重苦しい声でアイリス伯は言った。
「……聞いとった話しとちゃうやないですか」
しかし、そんなアイリス伯の声色にアッシュも気圧された様子はなかった。
「……なんだと?」
アイリス伯はようやくふり返った。
「おっちゃん、シアンくんを連れて帰るだけのお仕事言いはりましたよね? そないやのに、あのおじいちゃんは何でっか? めちゃ強力な魔術師がお供におるやないですか」
「……魔術師が?」
「坊やだけなら、俺のテンプテーションで何とかなりますわ。いくらおっちゃんの秘蔵っ子ちゅうても、子供なんやから抵抗する方法は身につけとりませんでしょうから。けど、俺の術式がまるで通用せん、バケモノじみた爺さんまでおるっちゅうのはどういうことでっか?」
「シアンだけじゃなかったのか?」
「ありゃどう考えても上位の等級持っとりますよ。子供やけど強力なオド持っとる魔術師と、じいさんやけど術式の使い方がめちゃうまい魔術師、ふたりを相手にさすんは俺でも無理ですわ」
「……いったい何者なんだ、その老人は?」
「こっちが教えてほしいくらいですわ。バン爺言われとりましたけどねぇ」
「バン爺……。」
「土の術式使うてはりましたけど、それだけやないやろなぁ。空飛んだり俺の体を引き寄せたり。何がひとつしか術式は使うてへんや。嘘バレバレやん」
「……その魔術師は、具体的にどんな術式を?」
「まぁ……俺のテンプテーション効かんかったんは、オドで打ち消したからやろうけど──」
アッシュはアイリス伯にバン爺との戦いの様子を説明した。放ったオドをことごとく逸らされ、あまつさえそれを利用して反撃された事、体の一部の石化や空中戦を仕掛けられた事などを。
アッシュが話している間、アイリス伯は何かを考えながらテーブルを眺め、|顎に手を当てていた。
「……無茶苦茶や。あんなんがひとつでできるかっちゅうねん」
「……いや、おそらく使用したのはひとつ、大地の術式だろうな」
「……んなアホな?」
「土や木に働きかけて、成長を促したり意のままに操るのが基本的な術式だが、あの術式は応用すれば土の成分を変えて鉱物を作ることも可能だ」
「せやけど、空を飛び回るのは何ですの? あんなん、風の術式がないと無理ですやん」
「……磁石だ」
「……へ?」
「大地の磁力を操れば、磁石のようにモノを浮かせたりすることができる。高度な術式だがな……。」
アッシュが口をあんぐりと開ける。
「そないな術式……聞いたことあらしまへん」
「理論としては確立している。だが、あくまで理論上だ。お前の様な在野の魔術師は知りもせんだろう。……それを実践で使用するとなると、その術式を開発した──」
アイリス伯は目を見開いて立ち上がった。椅子が音を立てて倒れる。
「何ですの急に……。」
「……バン爺。もしかして、70くらいの茶の民の男か?」
「あ、ああ……せやで」
アッシュが思わず、組んだ腕と足を解いて身じろぎをする。
「……バーガンディ・ローゼスっ」
「……誰ですの、それ?」
アイリス伯は片手で顔を覆い笑い始めた。
「すべての元凶だ! この国を腐らせた権力欲の化身! 伏魔殿の魑魅魍魎! そうか奴が絡んでいたという事か! 道理でおかしいと思った! く、くくく、そうか、そういうカラクリか! すべてが繋がったぞ!」
「な、何がですの?」
「すべては仕組まれていたという事だ! シアンの脱走も、何もかもな! おのれ、あの老害め! 私を王都から追い出しただけでは飽き足らず、あれからもずっと監視していたのか! 自分の家族を破滅させても、なおも私を追おうというのだからな! よほど私の事が気に入らんと見える!」
「何や因縁のあるお方なんですか、おっちゃんとあのおじいちゃんは?」
アイリス伯は室内を歩き回る。
「かつて王都で使えていた頃、私の昇級をことごとく邪魔した男だ。あげく、私を王都から追い出すよう画策したなっ」
「何でそんなことしなさったんで?」
「私が気に入らなかったのだ。蒼の民という私の出自と私の革新的な研究が、自分の1級の座を危うくすると踏んだのだろう」
「へ、へぇ……。」
アッシュは何気なくアイリス伯の口から出た「1級という」言葉にたじろいだ。
「なるほど、奴がついているのなら、お前の手には余るかもしれん……。」
アッシュが気に入らなさそうに口を歪めた。
「……なめんといてくださいよ。策くらいはありますわ」
「……なんだと?」
アッシュは得意げに言う。
「俺の術式、ただ人を操るだけやないですから。ちぃとあの娘の頭ん中覗かせてもろうとりますわ。
ダリア伯の屋敷ではささやかな宴が始められていた。
貴族の食事に招かれているということで、マゼンタはマナーが分からず苦労していたが、シアンはテーブルマナーをしっかりと身につけていた。
そんなシアンを見ながら、ダリア伯は「感心な少年ですなぁ」と頬をゆるませる。シアンの美しい容姿に完ぺきなマナーが併せられると、大人は見てるだけで機嫌が良くなるようだった。
しかし、そんなシアンをバン爺をダリア伯と同じようには見ていなかった。そのシアンの落ち着きぶりに不自然さを感じていた。
ダリア伯はナプキンで口をぬぐって言った。
「……それで、これからローゼス卿はどちらまで向かうご予定なので?」
「うむ……そのことなんじゃが……。今回お前さんの所に足を運んだのは、ちぃとばかし頼みごとがあったからなんじゃ」
「……はて、何でしょうか?」
「実は……王室に口添えを頼みたくての」
ダリア伯はテーブルの上のナプキンをたたみなおした。
「……どういった事をでしょうか?」
バン爺はシアンを見る。それを合図に、食卓の視線が一斉にシアンに集まった。
「この子の後見人を王室の者に頼みたいんじゃ」
「……あえておうかがいしませんでしたが、この子とローゼス卿とはどういったご関係で?」
「……この子、シアンはアイリス伯の子息じゃ」
バン爺がその名を口にしたとたん、部屋の雰囲気が一変した。後ろにいた執事の顔にも驚きの表情があった。
「……なんと、あのアイリス伯ですか?」
「そう“あの”アイリス伯じゃ」
「しかし……いったい、なぜローゼス卿とアイリス伯の子息が……?」
「ありていに言うと、まったくの偶然じゃ。たまたまこの子と知り合う機会があっての。言ってしまえば何の縁もゆかりもない。じゃが、この子は有望な魔術師での。このまま父親の下におったら将来をつぶされかねん。父親以外身寄りがおらんようじゃが、王室で後見人をたててしまえばこの子を守れると思うての」
「なぜ……その……赤の他人ともいえるような子にそこまで?」
「ワシの責務じゃろうて」
「責務ですと?」
「かつて、1級魔術師の職務を投げ出した……な。ワシはこの国の魔術師の未来に責任があったはずじゃった。それを自分の都合でやめてしもうたからのう」
「……。」
「なにより、ワシは父親としての仕事も投げ出してしもうた」
「……あれは、ローゼス卿のせいではありません」
「どうじゃろうな」
バン爺は鼻で笑った。そんなバン爺を、マゼンタは白パンをかじりながら見ていた。
ダリア伯は気まずそうに杯のぶどう酒を飲むと、口をぬぐって態度を改めた。
「ローゼス卿、そうお考えであるならば、1級魔術師に復帰なさってはいかがか? 王都には貴方の復帰を待ち望んでいるアカデミー会員も多いのです」
「もう、ワシの等級は失効になっとるよ」
「そこは特例で何とかしてみせます。私や他の、ローゼス卿の支持者が手を回せば……。」
「権威で黙らせるか。若い魔術師の中には不満を持つ者が出てくるだろうな。……アイリス伯のように」
「そ、それは……。」
バン爺は両手を差し出した。老人らしい、細くしわが入った手だった。
「ジジイのこのちっぽけな手で何とか出来るのは、子供ひとりの人生がやっとじゃよ。それでも手に余るわい」
ダリア伯は目を落とす。
「……分かりました。王室への書簡を用意させます」
「助かるよ、ダリア伯」
「その書簡を、今は退任されたといえ、ローゼス卿が直々に王室へ持っていけば、よほどのことがない限り、要望が通らないという事はありますまい」
「だと良いがの。……ああそれとダリア伯」
「なんでしょう?」
「ちょいと……後で話せんか?」
「……よろしいですが──」
ダリア伯はどんな話をするのか問おうとしたが、バン爺の表情を見て、それは言及すべきではないと直感的に思った。しかし、テーブルにはもうひとり直観に優れた者がいた。
食事が終わり3人は部屋に戻った。各々割り当てられた部屋に向かおうとしていたが、先ほどの会話で気にかかることがあったマゼンタはバン爺に訊ねる。
「ねぇバン爺」
「何じゃ?」
バン爺は荷物を整理していた。
「バン爺が1級を放棄したのは聞いてたけど、父親の仕事も投げ出したってのはどういう意味?」
「……そんなこと、言うとったけな?」
「……とぼけてる?」
「いやいや、歳じゃからのう。あんまり会話の細かいところは覚えられんよ」
「……じゃあ、あたしの事を自分の情婦だって言ったことも?」
「そりゃ言っとらん」
「覚えてんじゃん」
バン爺の荷物を整理する手が止まった。
「……あまり詮索はせんといてくれ。ただ、王宮の仕事にかまけて、家庭をないがしろにしただけじゃよ。よくある話じゃ」
「ふぅん」
その後、3人はダリア伯の用意した寝室へ移動した。
しばらくしてシアンが寝ついたあと、用を足すためにマゼンタは部屋を抜け出した。しかし、トイレの場所を侍女に聞いていたものの、広い屋敷なうえに部屋からの道順ではなかったため、マゼンタは屋敷の中で迷ってしまった。ようやくトイレを見つけたと思ったら、次は戻り方が分からなくなっていた。
ふと、通り過ぎようとした部屋の前でマゼンタは足を止めた。中からバン爺とダリア伯の会話が聞こえてきていた。
「……なんと、それは本当ですか?」
「あくまで、今のところはワシの見立にしか過ぎんがのう……。」
「ローゼス卿がそう言われるならば、信用するには十分でしょう。……しかしあの男め、等級をはく奪されただけでもまだ温情ある処置だったというのに……。なんという奴だ」
「……ワシはあの子を王都に連れて行くのは、魔導医に見てもらおうとも思っとるからでな。あの子の体が心配じゃ」
「……ローゼス卿、私がすべて手配します。引退なされた貴方がそこまでなさる必要は……。」
「……老い先短いジジイの最後の未練じゃ、ワシにやらせてくれんかの」
「ローゼス卿……その、ご子息は自ら命を絶ったとは……。」
「気休めはよさんか。そうとしか、思えんじゃろう……。」
マゼンタはまわりまわって、宴が開かれていた広間に戻っていた。そこでは、執事が飲み残しの酒と食べ残りの料理で、役得とばかりに独り飲みをしていた。
「……独りで飲んでてつまんなくない?」
突然のマゼンタの登場と、主人に内緒の息抜きを見られた執事は狼狽する。丸メガネがズレ落ち、肘があたりテーブルの上の空の杯が倒れてしまった。
「あ、貴方様は……。なぜこちらに? お、お休みになられてのでは?」
「慌てなくていいよ、チクったりしないから」
マゼンタは執事の横にどかっと座った。そして杯を執事の前に出した。
「あたしも飲み足りないの。注いでよ」
堂々と隣に座る若い女性にたじろぎながら、執事は酒を注いだ。マゼンタはその酒を一気飲みする。
主人の大切な客人、さらにその若い女性が豪快に酒を飲む様に、執事は恐縮しながらも呆気にとられる。
「ささ、おじさまも飲みなよ」
マゼンタは執事の杯になみなみと酒を注いだ。
「あ、ありがとうございます……。」
すでにかなり飲んでいた執事だったが、マゼンタの勢いにおされ、杯を大きく傾けて酒を飲む。
「へぇ、良い飲みっぷりだねぇ。やっぱり男は性格が飲みっぷりに出るよね」
脚を組み、頬杖をついてマゼンタは艶めかしい目で執事を見る。
「は、はは、恐縮でございます……。」
さらにマゼンタは顔を執事に近づける。執事は息をのんで身じろぎをする。
「おじさまって、けっこうあたしの好みなんだよねぇ」
「へ?」
「あたしが食事中もずっとおじさまのこと見てたの、気づいてた?」
「そう……でございますか?」
「なぁんだ、けっこういけずなんだなぁ」
マゼンタは執事の膝に指を這わせた。執事の体がぴくりと反応する。
「ご、ご冗談を、こんな年寄りを……。」
「え? 知らなかった? あたし、バン爺のこれなんだよ?」
マゼンタは小指をたてて見せた。執事は思わず目を丸くして「へぇ」と間抜けた声を上げる。
「でもさぁ、やっぱりお爺ちゃんだから、あんまり相手してくんないんだよねぇ」
「ま、まぁ、そもそもローゼス卿は、昔から身持ちの硬いお方でしたから……。」
「へぇ、おじさまもバン爺の事知ってるんだ?」
「それはもう、あの方は1級の魔術師でしたし……お、お?」
マゼンタは再度、執事の杯になみなみと酒を注いだ。
「ねぇ、あの人の事、もうちょっと詳しく聞かせてくれない?」
「詳しくと……申しますと?」
「あの人ってさぁ、自分の昔のこと話したがらないのよぉ。1級の時どんな活躍してたとかぁ、家族の事とかぁ。なんだか曖昧な答えばっかりなの」
「あ、まぁ……。」
執事がそそくさと顔をそらす。
「好きな男の事って、知りたくなるものでしょ?」
マゼンタは執事の逸らした顔をのぞき込む。
「なっ」
「今は……おじさまの事を知りたいかも……。」
「ははは……。」
「さ、飲んで」
執事はマゼンタに促されて執事は杯を傾けた。飲み干した執事の焦点が合わなくなり始めていた。頭髪の後退した頭は真っ赤になっている。
マゼンタは横目でそんな執事を見ながら自分も杯を傾ける。そして大きくため息をついてうつむいた。急なマゼンタの消沈ぶりに執事が困惑する。
「……どうなされました?」
「あの人ね……きっと昔の家族の事を気にかけてるから、あたしの相手をしてくれないんだと思う。……きっと息子さんの事よね」
マゼンタが顔を上げ執事を見ると、執事は慌てて目をそらした。マゼンタは手ごたえを感じる。
「ねぇ、あの人の息子さんって、どうして亡くなったの?」
「あ、いや……それは……。」
マゼンタは執事の手を取った。
「お願い、誰にも言わないから。好きな人が、どういう人生を送ってきたのか知りたいだけなの」
「は、はあ……。」
マゼンタは執事の手を強く握る。目が少しうるんでいた。酔いの回った執事の頭は、こんなマゼンタの願いを無下にした方が気の毒であろうという結論に至った。
「……誰にも言わないと約束していただけますかな?」
「もちろん」
そう言ったものの、執事はのどに声が引っ掛かっているように、何度も語り出しそうにしてはためらい、マゼンタから目をそらしたりしてようやく話し出した。
「……あくまで聞いた話ですし、その話も噂話の域を出ないのですが……その、世間で言われているのは、ローゼス卿のご子息は自ら命を絶ってしまった……“らしい”という事でございます」
「……自殺? どうして?」
そこまで大きな声でないにもかかわらず、慌てて執事はマゼンタの声のトーンを抑えるように両手をふった。
「あくまで噂です。……ご存じのように、ローゼス卿は1級魔術師でございました。しかし、ご子息はあまり才能がなかったと申しますか、まぁお父上が類まれな方だったということだったということなのですが、幾度も等級試験を受けて、30近くにしてようやく受かったのが7級だったと……。」
マゼンタはバン爺の腕にある、白い腕輪を思い出していた。
「1級のお父上をお持ちだというのに、自身が7級で限界だという事実がよほどショックであられたのでしょう、等級を受けてしばらくして……ローゼス卿のご子息は川に身を投げられてしまったのです……。」
「本当に? だって、事故で川に落ちたのかもしれないよ?」
「川辺に、脱ぎ捨てられたご子息の上着と靴が残されておりました。それに……。」
「それに?」
「川に身を投げる前に、自室にあった魔導書の類に火をつけて燃やしていたという……。」
「……そりゃあ」
身辺整理だな、とマゼンタは言いかけた。
「……それ以来、ローゼス卿は王室勤めを休むようになりまして……。とうとう最後には1級魔術師としての職をお辞めになられたのです……。」
「……そう、なんだ」
「人格者として名高いローゼス卿のことです、きっとご子息に厳しい言葉をかけたわけではないのでしょう。しかし、やはり偉大な親を持つと、子は苦労するものなのでございましょうな……。世間の目というものもございますし……。」
酩酊していた雰囲気は今ではしらふになっていた。マゼンタは残った杯の酒を飲み干した。執事の杯にまた注ごうとしたが、執事は「結構です」と、杯の上に手を当てた。
「……ありがとう」
マゼンタは立ち上がり部屋を後にする。
「くれぐれもこの話はご内密に……。」
マゼンタはふり返った。
「大丈夫、すごく酔ってるから明日の朝には忘れるよ。……あなたもでしょ?」
翌朝、3人はダリア伯の屋敷を出発した。
ダリア伯は馬車やお供の提供を申し出たが、目立つと追手に足取りをつかまれる可能性があるため、バン爺は馬を2頭だけダリア伯に用意するよう頼んだ。
王都へ向かう3人の旅路、空には彼らを遮るものがないかのように、晴れ晴れとした蒼穹が広がっていた。秋口の風はまだ夏の余韻を残して、寒さはまだはるか遠くにあるようだった。
バン爺とシアンが同じ馬に乗り、その先に後ろにひとりで馬に乗るマゼンタがいた。
「……ねぇバン爺、ここから王都まではどれくらいかかるの?」
「ええ馬を借りたからのう。それにこれからはこの広い街道沿いにいくわけじゃから、なんの問題も起らんかったら、おそらく……3日じゃろうかなぁ」
バン爺の言うように、王都へと続く街道は広く整備されていた。馬も疲れることなく旅を続けられるだろう。
「3日かぁ……。」
「まぁ、子供とジジイの旅じゃから、何事もないと楽観するわけにはいかんが」
「……ジジイって、そんなに歳でもないでしょ」
バン爺はマゼンタをふり返った。
「どうしたの?」
「何じゃい、急に気を使うような物言いしおって」
「……そう? あたしはいつだって人に優しいよ?」
マゼンタはバン爺の後ろにいるシアンに「ねー」と言った。
陽が傾く頃、バン爺は「先を急ぎたいが、無理も禁物じゃ」と、街道沿いにある村を地図で探し始めた。
「……もう休む場所を探すんだ?」
「素直に受け入れてくれるかどうかも分からん。基本、どこの村もよそ者には厳しいと考えた方が良いじゃろうからな」
「まぁそうだね」
しかし運が良いことに、最初に訪れた村でバン爺たちは屋根を貸りることができた。その村は行商人がよく通るため、外部の人間が珍しくなかったのだ。村人に案内されたのは、住んでいた老夫婦が亡くなり、近々村で取り壊す予定のあった空き家だった。
「感じの良い村だね」
「ふぅむ」
のどかな風景だった。種まきが終わった村では早めの冬の支度が始まり、男たちは建物の整備を、女たちは糸巻き車で糸を紡いでいた。村の中央では、家の手伝いを終えた子供たちがボール遊びをしていた。
そんな村の子供たちを、夕日に照らされたシアンが遠くから眺めていた。元々、長い髪に真白い肌のシアンは見た目から他の子供たちとは違うが、今のシアンの姿はさらに、見えない壁で隔離されているかのようだった。
「行ってきなよ」
はっとしてシアンがふり返る。そこにはマゼンタがいた。
「……でも」
村の子供たちをうらやましそうに見ていたシアンは遠慮がちに目をそらす。
「ダリアのお殿様からもらったのがあるから食料の調達しなくていいし、特に明日の朝までやることないからね。あたしもバン爺もぶっちゃけ暇だよ。仕事があるとしたら、村の人たちに良い顔するくらいぐらいでさ。シアンくんも暇だったら遊んでおいでよ」
「……ぼくは、いいよ」
「もしかして、どうやって入れてもらったら良いか分からないとか?」
恥ずかしさと悲しさでうっすらと頬を赤らめてうつむくシアンは、夕日もさしている効果もあって実に絵になる姿だった。
そんなシアンに一瞬ほうっと見とれてしまっていたが、いかんいかんとマゼンタは首をふって子供たちのもとへ颯爽と歩いていった。
「ねぇ、おねえさんも混ぜてよ」
突然のよそ者に面を食らっていたが、遊びの人数は多ければ多いほど良いという子供ながらの原理が働き、リーダー格の子供の「いいよっ」という一言でマゼンタは遊びに加わった。
初めて訪れる村の遊びとはいえ、ただ単に鬼が逃げる相手にボールをぶつけ、ぶつかったらその子供が次に鬼になるという単純な遊びだった。年長のマゼンタは本気になることなく、適度にボールにぶつかったり、軽く投げるなどして彼らに程度を合わせていた。
頃合いを見て、マゼンタは遠くで見ているシアンの方へボールをわざと飛ばした。転がってきたボールをどうしたらいいか分からずに、シアンは足元のボールを見るばかりだった。
「おーいっ、ボールこっち持ってきて~」
マゼンタは手をふってシアンを呼ぶ。シアンはボールを拾うが、困惑した顔でただマゼンタたちを見ていた。
マゼンタは自分を遊びに入れるよう促したリーダー格の子供に目配せをする。その子供はシアンの方へ走って行ってボールを受け取った。言葉が通じない外国の子供でもあっても遊びに誘いそうなほどに人見知りの無い少年は、シアンの手を引いて仲間の輪に戻ってきた。
シアンが輪に入ってくると、子供たちは一斉にシアンに質問を浴びせかけた。歳が近いものの、見た目が明らかに毛並みの違うこの少年は子供たちの好奇の的だった。男なのか女なのか分からない中性的で美しい風貌に、生まれながらに漂う気品、例え子供だとしてもシアンが普通ではないことは直感で分かった。
シアンが質問攻めから解放されると、子供たちはボール遊びを再開した。どうやらシアンは遊ぶという行為そのものに慣れていないようで、ボールの投げ方もぎこちなく、投げれば避けられ投げられれば当たってしまっていた。
しかし、そこはまたこの少年の独特の気質がなせるものなのだろう、男の子たちはまるで少女に物を教えるかのように優しくなり、女の子たちはまるで王子様に仕えるように丁寧になった。
マゼンタはこっそりと子供たちの輪を抜けると、遠巻きからその微笑ましい光景を眺めていた。
やがて日が完全に沈むと、子供たちは解散し自分たちの家へ帰っていった。シアンはまだ遊び足りないようだったが、一緒に遊ぶ子供がいなくなってしまってはどうしようもなく、マゼンタたちのいる空き家に戻っていった。
夕食時、3人は寝床代わりにござを敷き、そこに座って食事をしていた。ダリア伯からもらった、パンや干し肉、果物に加えて、ダリア伯はシアンに気を使ってブリオッシュなどのお菓子も用意していた。
「ずいぶん楽しんどったようじゃの」
バン爺は数時間前のシアンの様子を思い出していた。
「……。」
しかし、シアンは村の子供たちと遊んでいた時が嘘であるかのように、大人しい表情になっていた。
「あ、ほらシアンくん。ブリオッシュがあるよ、あたし、これ、すごい好きなんだよね」
マゼンタはブリオッシュを手に取って一口かじると、「おいし~」と、感動のあまり目をうるませた。貴族の家で作られる菓子である。彼女がこれまで食べたブリオッシュに比べ、砂糖とバターの使用量が違っていた。甘い菓子に舌鼓を打つマゼンタは、本来の年齢の18歳よりも子供っぽく見える。
「ほらほら、腐らせたらもったいないよ。シアンくんが食べないと全部食べちゃうから」
「ブリオッシュはそんなに早く腐らんよ。意地きたない真似はやめんかい」
「……ぼくはいいから、ぜんぶ食べてよ」
「え?」
マゼンタはあくまでカマをかけただけだったので、さすがに全部食べて良いと言われると面を喰らった。
「おや、お前さん甘いものは嫌いかね?」
「あ、そうじゃないけど……。」
「じゃあ、遠慮はいらんよ。たぶん、ダリア伯はお前さんが食べると思うてこれを入れとるんじゃから」
「うん、でも……ぼくは……いいや。みんなで食べて」
「いや、あたしもこれ以上は太っちゃうから」
ふたりの視線は自然とバン爺に向かった。
「……そんなもん食べたら翌朝まで胃もたれをおこすわい」
「そうだよシアンくん、バン爺は体の半分が腐り始めてるんだから」
「お前さん、また口が悪くなっとるぞ……。」
「サービス期間は終わったから」
「なんじゃい。……シアンや、必要のないところで遠慮などしても美徳になりゃせんぞ。もし、お前さんが遠慮することでアイリス伯の機嫌を取っていたのなら、それはアイリス伯だけの事じゃ。ワシのようなジジイは子供がのびのびと自分の感情を見せとる方が嬉しいもんじゃよ。昼間のお前さんのようにのう」
「まぁね、自分を押し殺してる子供を見てると不安な気持ちになるしね」
「自分の気持ちの出し方を子供の内に学んどらんとな、大人になってから自分の感情で自分を殺してしまうような人間になってしまうぞ」
マゼンタはバン爺を見る。その言葉の意味の向こうに、マゼンタは川に身を投げたバン爺の息子の事を想像していた。
「……なんじゃい?」
「ううん、なんでもない……。じゃあシアンくん、あたしと半分こしようよ。それだったら良いでしょ?」
シアンはうなずいた。
マゼンタはブリオッシュを半分ちぎってシアンに渡した。シアンは手に取ったブリオッシュを最初はじっと見ていたが、やがておずおずとそれを口に入れ始める。
「……おいしい?」
シアンは「うん」と返事をし、最初はゆっくりと食べていたが、やがてすぐに勢いよく平らげた。
マゼンタはそのシアンの様子を見て微笑んで見ていた。そしてシアンと目が合うと、「はい」と自分が持っていた残りのブリオッシュを渡す。シアンは頬を赤らめてそれを受け取ると、ぱくぱくとそれも平らげた。
「シアンが美味そうに食べるから、ワシも食べたくなってきてしまったわい。まだブリオッシュはあるかね」
「おじいちゃん? ブリオッシュはさっき食べたでしょう?」
「バカにするでない、覚えとるわそれくらい」
マゼンタは悲し気に小さく首をふった。
「……え? 本当かね?」
「……自信がなくなってきた?」
マゼンタは手を叩いて笑った。
「ジジイ相手にその冗談はやめてくれ、最近心配になっとるんじゃ」
「ごめんって」
「だいたい、毎回その手の冗談を言いよるが、そもそも面白くもなんとも──」
言いかけていたバン爺だったが、マゼンタの顔を見て喋るのをやめた。マゼンタの視線の方を見ると、そこには笑っているシアンの姿があった。
「……おお」
「シアンくん……。」
3人が出会って、初めて見た少年の笑顔だった。その笑顔は、今までの少年の憂い顔よりも、はるかに人の心を打つものだった。
次の日の早朝に3人は出発した。
村を発つ前に、昨日シアンと遊んだ村の子供たちが見送りに来ていた。自分の宝物の騎士の人形を贈る子や、秋の花で編んだ首飾りを贈る子もいた。
そんな人生で初めてできた友達に、少年は何と言っていいか分からなかったが、マゼンタは「ありがとうって言えばいいんだよ」と耳元で囁いたので、シアンはおぼつかない口調でその想いを口にした。
そして出発し、見送る子供たちが解散した後も、それでもシアンは名残り惜しそうに村を見ていた。
その後、昼頃になると、空はあいにくの雨模様になった。ダリア伯の用意した雨合羽を着ていたが、秋の初めの雨は想像以上に人の体から体温を奪っていた。
「……シアンくん、もうちょっとくっつきなよ、寒いでしょ?」
マゼンタは馬上で自分の前に座っているシアンに言った。
「……ダメだよ」
「……どうして?」
「……父さんが、女の人に近づくとオドが弱くなるって」
「そんなのは噓じゃよ」
バン爺が即座に否定した。
「じゃあ気にすることないね」
そうしてマゼンタは背後からシアンに身を寄せた。少年の長髪からのぞく両耳が真っ赤になっていた。
それからほどなくして、3人は王都に到着した。そびえ立つ城門の前で、門番にダリア伯から手配された通行手形を見せると、何のトラブルもなく王都への中へ通された。
「……すっご」
ただでさえ、門構えから圧倒されていたマゼンタだった。王都の中に入ると、人生で3階建て以上の建物は見たことがなかった彼女は、まるで異世界とも思える都の様子にただただ驚くばかりだった。
遠くから見える王の城は、まるで巨大な火山のようだった。あまりの現実離れしたその巨大さのせいで遠近感に支障をきたし、マゼンタは見ているだけで酔いを起こしそうになっていた。
「お前さんたちは初めてかね」
「あたしはもちろんだけど……シアンくんも?」
「うん」
シアンも好奇心を輝かせながら街の様子を見ていた。
「ほっほっ、シアンは等級試験を受けるなら、最終試験は王宮じゃから、今のうちに慣れとったが良いかものう」
「おお……。てか、1級魔術師だったってことは、バン爺も元々ここに住んでたんだよね? じゃあ、もうここは自分の庭みたいなもんだったりする?」
「そう言えればかっこええんじゃがのう。あいにくワシは出不精だったもんで、近所のことしかようわからんのじゃ。……ということで、宿に関してはワシが住んどったとこの近くになるが、問題ないかのう?」
「問題ないも何も、バン爺に任せるしかないしね」
「ほっ、そりゃそうじゃ」
バン爺は繁華街をぬけて、住宅地に入っていった。しばらく歩いていると、とある川の前でバン爺は足を止めた。大きな川で、川幅は100メートルはありそうだった。その川を見ている間、バン爺の時間が止まったようだった。
「……どうしたの、バン爺?」
「……いや、なんでもない」
それから、バン爺の見知った人間が営業している宿屋にたどり着いた。しかし、残念なことに、そこの主人はバン爺の知り合いではなくなっていた。数年前の川の増水で、近隣が流されてしまったのが原因だという。
3人が部屋で荷物を下ろすと、シアンがトイレのために部屋を出た。
「……ねぇバン爺」
「なんじゃ?」
「これから、どうするの?」
「ダリア伯の所で言ったように、王室に援助を頼もうと思うてな」
「……シアンくんを医者に見せるみたいなことも言ってなかった?」
バン爺が驚いてマゼンタを見る。
「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど……トイレに行こうとしてる時にたまたま……。」
「……うむ。あくまで、もしかしたらその可能性もあるという事じゃ」
「シアンくんには何が起きてるの?」
「恐らく、アイリス伯が等級をはく奪された原因になった禁呪法じゃろう」
「……それってどういうものなの?」
「気の人為的な操作じゃよ。外気や内気を結晶化する技術。そうやって水のマナで火をおこし、大地のマナを生き物に注入したり、|挙句は生き物そのものを結晶化するという外道の術じゃった。奴はそれを魔術革命だと主張しておったがな。確かに、うまくやれば資源の乏しい土地に潤いをもたらし、才能の無い人間を優秀な魔術師にすることもできるかもしれん。じゃが、自然の均衡で初めて抑えられるマナに人の手を加えたら、どんな予想のつかない暴走が起きるのか想像もつかんのじゃ。実際、アイリス伯と同じ研究をやっておった研究者の施設が山ごと吹き飛んで、周囲の町まで消した事件も起きてての。神をも恐れぬ所業じゃよ」
「じゃあ、バン爺が言ってた、シアンくんの不自然な力ってのは……。」
「ああ、その可能性が高いのう」
「……その、シアンくんは医者に見せれば何とかなるの?」
「……何とも言えん。研究を禁じられとる術なもんで、対処法があるかどうか……しかし王都の魔術師ならば、何らかの解決方法を見つけ出すかもしれん。一縷の望みに賭けようと思ってな……。」
「そっか……。」
そうこう話していると、シアンが戻ってきた。
「戻ってきたね、シアン。せっかく来たんじゃから、王都の見学とも行きたいが、事は急ぐ。さっそく出発しようか」
「はい」
「マゼンタや、お前さんはワシらが帰ってくるまでこの近辺でのんびりしといてくれ」
「なにさ、あたしは用済みだから置いてけぼりってわけ? ひどいよ、みんな一緒にここまで頑張ってきた仲間じゃん? 言っとくけどね、あたしだって、ちったぁ役には立つんだよ?」
「王都の堅苦しい連中とつまらん話を延々とするだけじゃよ? それでも来たいかね?」
「じゃあいいや」
「……行こうか、シアン」
「はい」
バン爺はシアンを連れて「いってくるわい」と部屋を出ようとする。
「……マゼンタさん」
部屋を出る前にシアンは言った。
「なぁに?」
「……その、いままで……ありがとう……ございました」
マゼンタは微笑む。
「……ありがとう」
「……え?」
「ごめんなさい、何て言われるより、ありがとうって言われる方が、人ってずっとうれしいもんだからさ。……すごくうれしいよ」
「……はい」
「それに……。」
「はい?」
「シアンくん、はじめてあたしの名前を呼んでくれたね」
シアンの顔が真っ赤になった。
「……行くぞい」
シアンとバン爺は宿を出ていった。
部屋の窓からマゼンタが手を振る。
「まっすぐ帰ってくるんだよぉ」
「……母親かいね」
バン爺とシアンは馬車を借り、王宮へ行くよう頼んだ。
シアンは馬車の外から見える風景を、身を乗り出して眺めていた。
出会った頃は表情の乏しかった少年のそんな姿を見ながら、バン爺は久しぶりに到来した感情に心を潤わせた。バン爺は王宮へと続く道のりを見る。それはかつて失意のうちに背を向けた道のりだった。
「……着いたの」
城の前に到着したバン爺たちは例のごとく門の前で番兵に止められた。ダリア伯から預かった書簡を番兵に渡すと、それからほどなくしてバン爺たちは城の中に通された。
応接間で待たされていると、そこに大臣が現れた。受け口の老人で、ロマンスグレーの頭を七三分けにしていた。詰襟の軍服を着てるため、老人だが背筋がしゃきっとしていた。
「ローゼス卿、お久しぶりです」
折り目正しいお辞儀と折り目正しい声、折り目正しい微笑みの男だった。
「おお、お主が大臣になったのかね。たいしたもんじゃ」
「いえいえ、他に務まる者がいませんで……。」
「ほっほ、ワシだってそんなもんじゃったよ」
「またまた、ご謙遜を……。」
「ふむ、それで……書簡でも伝えておったと思うんじゃが……。」
「はい、陛下にお伝えしたところ、全面的に協力していただけるということでして……。」
「それはそれは、何だか注文が多くて申し訳ないのう」
「何をおっしゃいますか、陛下も若き日にはローゼス卿に導かれた者の一人、貴方様は陛下の師でもあらせられます」
「ほっほ、恩はあちこちに売っとくもんじゃ」
ふたりの高齢者は上品に笑いあった。
その頃、マゼンタは暇を持て余していたので、宿の周辺を探索していた。
最初は買い物をしようと思っていたが、いざアーケードのくり出すと、王都の物価は建物と同じく天井知らずで、マゼンタの持ち金では手の出ないものばかりだった。
仕方なく例の川の近くまで立ち寄り散歩をするマゼンタ、ふと川辺に花が添えてあるのに気づいた。
「……なんだろ?」
近くに寄ってみると、それは鉢に植えられた秋菊だった。鉢に植えられているということは、栽培用に置いてあるのではなさそうだった。
たまたま歩いてきた地元住民の男にマゼンタは訊ねる。
「ねぇおじさん」
「……ん、なんだい? 俺に何か用かい?」
「うん、ちょっと聞きたいんだけどさ、あそこに飾られてる花って何なの? この土地では川に花を捧げる風習があるとか?」
「ん、ああ……俺も良く分からんが、日暮れごろになると、あそこに献花してる女がいるみたいなんだ」
「……誰かここら辺で亡くなったとか?」
「あ~そりゃあ分かんないなぁ。ここいらは一度増水で流されちまってね。だから今いる住民は、俺も含めて新しい人間ばかりなんだ」
「ああ、宿屋の人も言ってたね。……じゃあ、その人はその時に亡くなった誰かに花を捧げてるってことなのかな?」
男は困った顔をして頭をかく。
「いやぁ、その時の慰霊碑はきちんと建ててあるんだ。だから、その時に縁者が亡くなった人はそこに花を捧げるはずなんだよ。なのに何でその女があそこに花ぁ捧げてるのか、皆目見当がつかないねぇ……。」
「ふ~ん。とりあえず、その人はいつも夕暮れに来るんだね?」
「ああ、ここ最近はそうだ」
「“最近”?」
「そ、2週間前くらいかなぁ……突然、花が置かれるようになったんだよ。しかし妙なもんだ、献花なら命日とかで済みそうなもんだがな?」
「そうだよね……。」
マゼンタは男に礼を言って別れた。
──夕方か……。
その頃、バン爺は城勤めの医師にシアンの容態を診せていた。シアンには体が頻繁に衰弱する理由を調べてもらうためだとはぐらかしていた。父親に体内に異物を埋め込まれているという事実を、12歳の少年が受け止められるという確信がなかった。
「……ふぅむ」
医師は聴診器を当てながら、シアンの心音を注意深く探る。
「……まぁ、歳の割には発育が遅いようですが、特にどこか悪いところがあるというわけではなさそうですな。きちんと食事をとれば問題はありますまい」
「……そりゃよかったわい」
「……念のためにローゼス卿も診ておきましょう」
「ワシもかね?」
「どちらかというと、貴方様の方が不安ですよ。そのお歳でずいぶん無理をなさったのでしょう?」
「ん、まぁ……。ならばシアン、少し待っとってくれんかの? さっきワシらがおった応接間でな。多分大臣たちがお前さんから話を聞くこともあろうから」
「はい」
そうして、シアンは診察室を出ていった。
シアンの気配が完全になくなってから、バン爺は医師に訊ねる。
「……で、正直なところ、どうじゃったね?」
医師は呻いた。
「あの男、よくも自分の子供にあんな真似を……。」
バン爺はシアンにまだ事実を告げなくて正解だと思った。
「ふむ……。で、処置できそうかい?」
さらに医師は深く呻いた。
「アイリス伯が王宮を去ってからというもの、当然ながら我が国で禁呪法を研究することはありませんでした」
「そりゃあそうじゃろうな……。」
「……しかし、あくまで“表向きは”ということです」
「……お主、そりゃどういう意味じゃ?」
バン爺の様子の変化に医師は慌てる。
「あ、いや、妙な意味ではありません。アイリス伯の研究は大変危険でしたが、あの研究から生まれた、マナの流動学は盛んにおこなわれておりまして。例えば炎のマナを調べ、火災の原因や燃え広がり方を研究して消防に役立てたり、人の病気をマナから探るという研究をやっております。平和利用ですよ」
「……ふむ、それをどうやってシアンのために?」
「今申しました研究の成果で、体内のオドの正常化というものがあります。生まれついてオドが乱れている人間のオドを、正しい方向に流して正常化させるやり方ですな。呪いの解除にも役立つ研究でして……。」
「ワシがおらん間に、魔術もずいぶんと進んだもんじゃ」
「はい、簡潔に言ってしまえば、溜まったものを外に流すという理論ですが」
「なんじゃ、なんだかんだいって原始的じゃのう。……つまり、シアンの異常な魔力を作り出しとる原因のコア、その力をすべて外に出してしまおうという事かね?」
「さすがローゼス卿、お話が早い」
「確かに、無限のオドなどありえんからな……。じゃが、あの子に流れとるのは、そんじゃそこらの力じゃないぞ?」
「問題はそこです。あの子がどれだけ自分の力をコントロールできるか、またそのオドはどこに流されるべきかです。破壊のエネルギーに換えるわけにはもちろんいきませんが、かといって自然界に過剰にエネルギーを還元しては、どんな天変地異が起こることやら……。」
「適切に、慎重に、さらに長い時間を使って、あの子の体を元に戻していく必要があるという事か……。」
「……まさに。長い……道のりですが」
バン爺は深くため息をついて天井を見上げた。
「いっぺん辿ってきた来た道を変えるのには、何にせよ時間のかかるもんじゃ……。」
バン爺が応接間に戻ると、大臣に加え、他の宮廷の高官たちもシアンの周りに集まっていた。シアンは待たされている間に見知らぬ大人たちと一緒にいたせいでかなり不安だったらしく、バン爺の顔を見ると、分かりやすく顔が明るくなった。マゼンタでなくても、この少年には庇護欲が生まれそうだった。
「またせたのう、シアンや」
「バン爺さんっ」
かつて、この国の最高の魔術師のひとりとして誰もが疑わなかったバーガンディ・ローゼスをあだ名で呼んだことに、一同はぎょっとした顔をする。
バン爺はそれに対し気にするな、といった具合に手を小さく振った。
バン爺がシアンのもとに行くと、高官たちは口々に挨拶をする。ある者は久しぶりの再会を懐かしみ、ある者は初めて会うかつての1級魔術師に敬意を表した。
そんなバン爺の姿を、魔術師といえば父しか知らないシアンは尊敬のまなざしで見ていた。
「ええ子にしとったか?」
シアンはうつむいた。しかし、表情が見えなくても少年が感情の出し方が未だ不器用なだけであることがバン爺には分かっていた。
「ローゼス卿、今回の件、我々も最大限の援助を惜しみません」
バン爺がやめる直前に指導していた弟子のひとりが言った。今では、彼は2級魔術師として王宮に仕えていた。
「うむ、助かるよ、こんなジジイのために、こんなに大勢が集まってくれるとは……。」
「何をおっしゃいます。我々はまだローゼス卿に恩を返してはおりません」
「ほっほ、泣かせてくれるわい」
バン爺はシアンを見る。
「シアンや、何も心配することはない。もう、ここまでくれば安全じゃ。お前さんの新しい道のために、これだけの人間が集まってくれとるんじゃから」
バン爺は念を押す。
「ここは大丈夫なんじゃ」
シアンはうなずいた。目から涙がこぼれているのを見て、バン爺は少年を抱き寄せた。
日も暮れ始めた頃、マゼンタは川辺に再び足を運んだ。まだ、そこには例の女の姿はなかった。
マゼンタは土手から降りて川辺を歩く。
マゼンタには違和感があった。確かに外面の良い男が、家では家族に暴力をふるうという話はよく聞く。自分の父親もそうだった。しかし、バン爺が息子を自殺に追い込むような人間だとは思えなかった。仮に職務で手いっぱいで家族に構えなかったとして、子供が自ら命を絶ってしまう事があるのだろうか。
バン爺が家族の話を無難な程度でしている時も、彼には後悔の色が見え隠れする。もしかしたら、マゼンタやその他の人間にも話していない真実があるのかもしれない。
そういえば、とマゼンタは思う。バン爺は妻の話を一切しなかった。現在、独り身というのは先立たれたのか、それとも……。
──やっぱり、人って見かけにはよらないってことなのかなぁ……。
マゼンタが石切りなどをして時間を潰していると、そこに件の女と思しき人影が、土手から川辺に降りてきた。
女は川辺に立つと花を捧げて祈り始めた。マゼンタはそんな女を遠巻きに見る。
──ほんとに来た……。
用事を終えた女は立ち上がり、そのまま帰路につこうと土手に向かう。
「……ねぇっ」
マゼンタに声をかけられ女はふり返る。二十代後半の女だった。
「……なにか?」
「ごめんね、突然話しかけて。ここの人たちに聞いたんだけど、おねえさんってここ最近、この川辺に花を捧げてるんだって?」
「……ええ」
「ちょっと気になってることがあって、あゴメン、迷惑なら別に答えてくれなくていいんだけど、もしかして、おねえさんってここで亡くなった人と関係ある人なの?」
女は怪訝な顔でマゼンタを見る。そして面倒に巻き込まれたくないとばかりに「あなたには関係ありません」と、背を向けた。
「そっか……ごめん。あたしの知り合いがここで死んじゃったもんだから、つい……。」
女が驚いてふり返った。
「……え?」
「あなた、あの人を知ってるのっ?」
女はマゼンタに駆け寄ってきた。
シアンはビオラ伯のもとで保護されることになった。ビオラ伯の娘が、かつてバン爺の推挙で2級魔術師になったこと、またアイリス伯の領地から一番遠いことが理由だった。
その帰り道、馬車の中でふたりは上機嫌だった。
「さぁて、話もまとまったことじゃし、マゼンタに土産でも買うて帰ろうかのう。あの娘の事じゃ、待たされて機嫌をそこねとるじゃろう」
「自分が待つっていったのに?」
「そういうもんなんじゃよ」
バン爺は奮発してケーキなどを買って行こうと言った。
「……ねぇ、バン爺さん」
「なんじゃ?」
「その……ぼくがビオラ伯のところにお世話になることになったら、バン爺さんたちはどうするの?」
「……そうじゃのう、ビオラ伯が迷惑じゃなかったら、ワシは客人として世話になるかものう」
「……その、マゼンタさん……は?」
バン爺はシアンを見る。からかうような笑いを浮かべていた。
「……なに?」
「あの娘と一緒に行きたいんか?」
「え、だって……これまで……。」
シアンはしどろもどろ答える。
「もちろんそう思うじゃろうな。ワシもお前さんの立場ならそう思うじゃろう。じゃが、こればっかりは本人が決めることじゃて」
「……一緒に来てくれるかな」
「……難しいのう。あの娘は自分から根無し草を選ぶような女じゃ。思いつきで色々変わりよるし。こう言っちゃなんじゃが、どれだけお前さんが言葉を尽くして熱心に誘おうが、たまたま虫の居所が悪いというだけであの娘は断るじゃろう。じゃが、上機嫌なら仮にお前さんが断っても勝手についてくるじゃろうな」
シアンは難しそうな顔をする。
「ほっほ、得てして、男と女は自分にないものを持った相手に惹かれよる」
「え、惹かれるって、別に、そういう意味じゃ……。」
「照れんでええわい。あの娘に言うと図に乗るから言わんがな、ありゃあワシがあと何十年か若かったらほっとかんかったぞ」
シアンが意外そうな顔でバン爺を見る。
「……今だから言える事じゃが、実はワシらがあの日あの森でお前さんと出会ったのは偶然じゃあない」
「……。」
「マゼンタとワシは、懸賞金目当てでお前さんに近づいたんじゃ。じゃが、すぐにあの娘はそれを放棄してお前さんを助けようと言い出した。ワシに関しては、お前さんの親父の処分にワシが関わっておったという、けじめみたいなもんがあったんじゃが、あの娘には何もなかった。それなのに、お前さんの境遇を知るや、自分の安全を顧みずそう言い出したんじゃ。いっけん軽率とも見えるが、人並み外れて正直で勇気があるともいえる。なかなかおらん女じゃよ」
バン爺のマゼンタ評を聞きながら、シアンは自分がほめられているかのように嬉しそうな顔になっていた。
その頃、マゼンタは急いで宿に帰ろうとしていた。自分が女から聞かされた真実をいち早くバン爺に教えなければならない。マゼンタの目には涙も浮かんでいた。
「……ん?」
マゼンタは立ち止まる。3人の子供たちが、橋の向こうの路地裏の入り口で泣いていた。奇妙な泣き方だった。ただその場に立ち尽くし、お互いに顔を合わせながら泣いているのだ。
心配になったマゼンタは、橋を渡って子供たちに近寄った。
「……どうしたの?」
しかし、答えずに子供たちは泣くばかりだった。
「どうしたの? こんな時間に? 何があったの?」
子供たちが泣きながら、路地裏を指さす。
「……この向こうが、どうかしたの?」
マゼンタは路地裏の暗闇を見る。しかし、日も落ちかけ、路地裏は闇におおわれて何も見えない。
「何も……見えないけど……。この向こうに友達がいるの?」
マゼンタは子供たちに振り向く。
「……かったぁ」
子供がようやく口をきいた。
「……え?」
「……いたかったぁ」
泣きじゃくりながら子供が言う。
「痛い? あんたたち、どっか怪我してるの?」
「……いたかったぁ」
「どこ? おねえさんに見せてみな?」
子供たちが一斉にぴたりと泣き止んだ。
「……どうしたの?」
子供たちは視線の狂った目でマゼンタを見た。
「あいたかったぁ!」
「え?」
マゼンタの口を、背後の路地裏の暗闇から伸びた手が抑えつけた。
「会いたかったでぇ、おねぇさん」
「むぐぅ!?」
アッシュだった。
アッシュはマゼンタの肩をつかむと、マゼンタを自分に振り向かせた。
間髪入れず、叫ぼうとするマゼンタ。しかし……。
「黙らんかい」
アッシュの瞳に睨まれ、マゼンタは言葉を発せなくなった。
「あ、あ……。」
体をアッシュの術で拘束されたが、それでもマゼンタは意志の力で何とか抗う。力の抜けた手でなぐり、さらにアッシュの体を押し返そうとした。
そんなマゼンタの抵抗を、愛おしい彼女との戯れのように眺めるアッシュ。
「やっぱええわぁ、おねえちゃん。魔術師でもないのに俺の術にここまで逆らえるんは、あんたが初めてやで? なんでや?」
「ふ、ふざけん……なよ……。」
マゼンタはアッシュの顔をつかみ爪を立てる。
「なんや、まだ抵抗する気かいな。可愛らしゅうおますなぁ、せやけど……。」
「ひっ?」
アッシュはマゼンタを抱き寄せた。強い抱擁。さらに耳を噛むほどの近い距離でマゼンタに囁いた。
「直はさすがに耐えられへんやろ?」
「……あ、く」
マゼンタから、みるみる抵抗する力が失われていく。
「おねえちゃん、めっちゃ好みやねん。こういう時じゃあなかったら、じっくり楽しみたいところやけど、あいにく俺も仕事やねんなぁ」
マゼンタの顔は完全に呆けていた。顔はたるみ、目はとろんと垂れて涙を流している。体は立っているのがやっというくらいに左右にふらふらと揺れていた。
「ほな、いこか?」
「……うん」
「悔しいけど、シアンくんとあのおじいちゃんを一緒に相手するんは俺でも無理や。せやけど、ちょうどいい弱点があって助かったわ」
バン爺とシアンが宿に戻ると、部屋には誰もいなかった。用を足しに部屋を空けているわけではなさそうだった。ランプの灯はついておらず、部屋には長い時間人がいた気配がしない。
「……何じゃ? 出かけとるんか?」
バン爺は部屋を出て廊下を見渡した。人影は見当たらない。
シアンは机の上に、1枚の便せんが置いてあるのを見つけた。
「バン爺っ」
バン爺が振り向く。
「……どうしたね?」
「……これ」
バン爺はシアンにさし出された便せんを受け取る。書かれている内容を読むや否や、バン爺の手が震えた。
「……な、なんということじゃっ」
便せんにはマゼンタの身をアイリス伯の下で預かっているということが書かれていた。そしてマゼンタの解放の条件として、シアンがアイリス伯の下へ戻ることとクリスタルの返還《へんかん》が要求されていた。