ディパーテッド~最強魔術師は毒親育ち~

──その頃

 アイリス伯の領地では、アイリス伯が昼間から広間で酒を飲んでいた。広間の椅子やテーブル、絵画や燭台(しょくだい)といった家具や装飾品は彼によって滅茶苦茶に破壊されていた。

「くそ……シアン、いったいどうして……。」

 頭を抱え込んでアイリス伯は酩酊(めいてい)していた。

「……あなた」

 アイリス伯の妻・ラピスが夫をいたわって、背中に手を乗せた。

「きっとあの子は戻ってきますよ……。」
「なぜ、なぜあいつは……。」
「きっと、あの子にも考えがあるのでしょう」
「……考えだと?」

 アイリス伯は立ち上がった。

「え、ええ、そうです。あの子だってもう12歳ですよ? 自分なりの考えというものが……。」
「……考え? 検定試験の直前で逃げ出すのに……いったい何の考えがあるというのだっ?」
「あ、あの子にも言い分があったはずです。それを、今まで無視ししてきたから……。」
「……なるほど。お前が、お前があいつに余計なことを吹き込んだのか。おかしいと思った!」
「な、何をおっしゃいますか。あなたがシアンの気持ちを()もうとしないから……。」
「黙れ!」

 アイリス伯はラピスの顔を殴りつけた。

「きゃあ!」

 ラピスは床に倒れ、小さなうめき声を上げる。

「私はシアンの為だけに生きてきた! このクソみたいな辺境の地で、あいつを最高の魔術師に育て上げるためにあらゆる手を尽くしたんだ! あいつのために私がどれだけのものを犠牲にしたと!?」

 アイリス伯はうずくまっているラピスの腹を蹴り上げた。

「ああっ!?」
「何がアイツの考えだ! 私が、私こそが誰よりもあいつの事を考えているんだ! あいつ自身よりもっ!」

 アイリス伯はラピスの髪をつかんで顔を持ち上げた。

「教育係として結婚してやった後妻(ごさい)が口答えしおって! 貧乏貴族の妾腹(めかけばら)の分際で!」
「あ、あ……。」
「おやめください旦那様!」

 そこへ、見かねた執事が駆け込んでアイリス伯を止めに入った。

「お、奥方様も、奥方様なりにシアン様の事を案じておるのです!」
「何が奥方だ、こいつはもうただの年増女だ!」
「……え? ど、どういうことで……。」
離縁(りえん)だ! 今すぐ荷物をまとめて私の城から出ていけ!」
 アイリス伯はラピスに杯を投げつけて言った。

 ラピスはよろめきながら立ち上がると、涙を流しながら広間から出ていった。

「……旦那様、いったいこれで何人目でございますか」
「ふん!」

 アイリス伯はテーブルの上の酒瓶をぶん取って酒をラッパ飲みする。

「あいつもいい年だ、母親などもういらん! おい、ゼニス!」
「は、はい、何でございましょうか?」
「例のモノを持って来い!」
「かしこまりました!」
「まったく……あの反応以来、全く音沙汰(おとさた)がないとは。やはりシーカーなんぞの食いつめどもでは務まらんか……。」

 執事は深々と頭を下げると、広間から出ていった。

──
「それで……どうするんじゃ?」

 シアンと移動を始めたマゼンタにバン爺が耳打ちをする。後ろにいるシアンは、畑の作物のまわりを飛び回る蝶々を、まるで初めて見るかのように夢中になって(なが)めていた。

「あの子を親元に返すなら、どちらかが連絡を取る必要があるが……。」
「……ねぇ、バン爺」
「なんじゃい?」
「あの子、絶対に返さないと……ダメかな?」
「……何かあったんか?」
「うん……実は今朝、あの子の裸を見てから、家には帰したくないなって思ってさ……。」
「……お前さん、要点をはしょって多分とんでもない話をしとることになっとるぞ」
「え、まじ?」
「……まぁ、何を見たかは予想はつくがのう」
「きっとあの子、親父さんの所に戻ったら(ひど)い目にあうんだと思う……。」
「ふむ……。とはいえ、ワシらは赤の他人じゃ。やれることもやって良いことも限られとるがな……。」
「そうかもしれないけど……。」
「お前さん、下手をしたら伯爵の子供を誘拐したとして、お(たず)ね者になるかもしれんのじゃぞ?」
「それは……困る」
「じゃろう?」

 マゼンタとバン爺は後ろを振り返った。シアンは次は遠くに見える牧場の牛を眺めていた。

「……動物が好きなの?」
 マゼンタが言う。シアンは小さくうなずいた。
「……そうなんだ。ところで、バン爺はどこに向かってるの?」
「ワシの家じゃ。しばらくそこで今後の事を考えよう」
「……分かったよ」


 マゼンタたちは、丘の上のバン爺の家に到着した。

「……うわぁ」

 驚くマゼンタたち、そこは廃屋(はいおく)と呼んだ方が良いような酷いありさまだった。

「仕方ないじゃろ、じじいの独り暮らしじゃ、家の手入れ何ぞろくにできん」
「なんで村から遠いところに住んでるわけ? 集落(しゅうらく)のすぐそばに住んでたら、手伝いとかしてもらえるんじゃ?」
「……まぁ、ワシは最近こちらに移り住んできたからのう」
「そうなんだ?」
「さ、お入んなさい」

 マゼンタたちは家に入ると、バン爺に(うなが)され奥の部屋に荷物を置いた。

「……ここって」

 そこは、ある時から時間が止まったような奇妙な部屋だった。服や小物は、老人の私物にしては若者趣味であるものの、長い時間それに誰も触れていないようだった。

「物が多くてすまんな」
「あ、いや、別に……。」
(せがれ)のもんじゃ」
 バン爺は荷物を(あご)でしゃくって説明する。
「へぇ……。息子さんは今どうしてるのさ? バン爺をこんなところに残して」
「死んだよ」
「……ごめん」
「やめんか、がらにもない。……さぁて、久しぶりの来客じゃ。もてなしをせんとのう」
「別に、気ぃ使わなくったっていいのに」
「ほっ、どちらかというと、じじいがそうしたいんじゃよ。若いもんがいるだけで嬉しくてのう」

 マゼンタは、こういうところは本当にただのじいさんなんだなと思った。

「さて、村へ降りるか」
「見た所、お店もないような村だったけど、どうすんの?」
「まぁ、物々交換かのう。それか村の手伝いじゃ。こんなじじいでも、頼ってくれる人もおる」
「ふぅん」

 マゼンタたちは丘の上から村へと降りていった。
 村では農夫が畑を耕し終えたところだった。

 バン爺たちに気づいた農夫が言う。
「おや、バン爺じゃないか。そちらの若いのは? お孫さんかい?」
「親戚の子供たちが、さびしいジジイのために遊びに来てくれたんじゃよ」
「はは、そうかい。バン爺にも身寄りがいたのか」
「のう、マッソさん、何か手伝えることはないかね?」
「おお、ちょうどよかったよ。たった今、畑仕事が終わったところなんだ。以前やってくれたアレ、また頼めるかな」
「ほっほ、お安い御用じゃ」

 バン爺は畑の前に座り、地面に手を置いた。

「マッソさん、植えたのは小麦かね?」
「ああ、そうだよ」
「……ふむ」

 そうしてバン爺は目を閉じた。ぶつぶつと独り言のような声も聞こえる。
 遠巻きにその光景を眺めながら、マゼンタはシアンに訊ねる。

「ねぇ、あれ何やってんの?」
「……多分、術式」
「術式? これから魔術を使おうっての? いったい何で?」
「この土地の……精霊と……話したり……。それで、多分……。」
「あ~、まぁ、ようするに、魔術師同士なら分かることをやってるってことね」

 バン爺の服が風に吹かれたようになびいた。バン爺は大きく肩で息をすると、さらに深く手を地面に押し付ける。

「……ん?」

 マゼンタは足元を見る。風もないのに、草が緩やかにざわめいていた。

「え……これって、もしかして……。」
 シアンが「すごい……。」とつぶやいた。

 座っているバン爺の体が、激しくゆれ始めた。

「こぉおおおおおおっ! こぉおおおおおおっ!」

 バン爺は体中を使って勢いよく呼吸をくり返す。はた目から見ると、気がふれているようだった。

「こぉあっ!」

 力をふりしぼるようにして両手を地面に押しつけるバン爺。すると、バン爺の座っている地面がもっこりと隆起(りゅうき)した。

「すっげぇでっかい屁ぇ……。」
 マゼンタはドン引きしてシアンを見る。シアンは首を(かたむ)けてマゼンタを見た。
「あ、違うよね……。」
「こんなことができるなんて……。」と、シアンは言った。
「バン爺は何をやったの?」
「農作物の育ちを良くしてくれるよう、大地の精霊にお願いしたんだと思う。ここら辺の地面のマナが、少しづつ畑に集まってたから……。」
「魔術師ってそんなこともできちゃうの?」
「上級の人なら……できると思う」
「バン爺って確か7級なんだよね。7級でもそんなことができるんだねぇ……。」
 シアンは驚いてマゼンタを見た。
「……なに?」
「いやぁ、ありがとうバン爺。これで今期もうちの畑は安泰(あんたい)だよぉ」
 農夫のマッソは上機嫌に言った。
「お安い御用、と言いたいところじゃが、さすがに疲れたのう」
「無理をさせちまったね。何か必要なものがあったら用立てるよ」
「ほ、そりゃ助かる。それじゃあ、あの子たちをもてなしたいんで、今晩食べるもんを恵んでくれるとありがたいんじゃが」
「それこそお安い御用さ。今晩だなんていわずに、あの子たちがいる間はウチを頼ってくれよ」
「これはこれは」

 すると、遠くからまた別の農夫が手を振りながら歩いてきた。農夫は足を軽く引きずっていた。

「おお~いっ」
「何だいザビさん?」と、マッソは言った。
 足の悪い農夫のザビが言う。
「バン爺さん、ちょうどよかったよ、ちょっとウチの家畜(かちく)を見てくれないかな?」
「ほ、どうしたね?」
「豚が病気にやられちゃってさぁ」
 バン爺は顎に手を当てて考える。
「家畜の病気……。まぁ、専門分野じゃないんじゃが、見るだけ見ておこうかね」
「助かるよぉ」

 バン爺たちは農夫のザビの後をついていく。

「ねぇバン爺、獣医さんに見せた方が早いんじゃないの?」とマゼンタが訊ねる。
「こんな辺ぴな村じゃあ、町まで医者を呼びに行って戻ってくる頃には夜になっとるよ」
「ふ~ん。じゃ、また魔術で何とかするわけ?」
「ま、見るだけ見ておこう」
 ザビの家の豚小屋に着くと、彼の言うように豚が倒れていた。大きなメスだった。

「昨日からこの調子さ、病気だと思うんだけれど、他の豚は大丈夫だし……。」
「……ほう」

 バン爺は(さく)の中に入ると、動けなくなっている豚の容態(ようだい)を確認する。体の病気の兆候(ちょうこう)が出る所には何もなかった。

疫病(えきびょう)というわけでもなさそうじゃし……。」

 すると、シアンが柵の中に入ってきた。

「おや、シアンどうしたね?」

 シアンは豚のおでこに手を当てた。そして目を閉じ、静かな声で豚に語りかけた。苦しそうにあえでいた豚が穏やかな目でシアンを見る。

 シアンが目を開けて言う。
「……この子、たぶん妊娠してる」
「ほぉ」
「そんな。だってウチは繁殖(はんしょく)のとき以外、雄と雌をしっかり分けて飼育してるんだぜ? 妊娠するなんてありえないよっ」
 ザビは驚いて言った。
「……確かかね、シアン?」
「……うん」
「しかし、いったいどうして……。」ザビは困惑する。

 バン爺は立ち上がった。そして豚小屋を出ると農場の囲いに目をやった。そこには補修された跡があった。

「……そういえば最近、村で害獣(がいじゅう)被害が出とったのう。ありゃ、猪だったかね?」
「ああ、バカでかい猪さ。農作物を食い荒らすわで大変だったよ」
「お前さんとこも被害を?」
「まぁね、ウチの農場の柵を破って保存してた食料を食い荒らしやがった」
「もしかして、豚小屋にも入ったんじゃないか?」
「ああ、そういえば……。」
「……あの豚のお相手は、そのならず者かもしれんのう」
「え? 猪が?」
「そうじゃ。イノシシと豚なら普通に交雑(こうざつ)しよる。逃げ出したり捨てられたりした豚が、猪との間に子供を作るっちゅうことはままあるぞ。イノブタ言うてな」
「くっそぉ、ウチの豚に手ぇ出しやがって!」
「まぁ、ええじゃないか。イノブタは結構な珍味なんじゃぞ。売ればそこそこ高い値がつく」
「……ふぅ。ま、過ぎたことを嘆いても仕方ないか。……ありがとよバン爺。危うく無駄に町から獣医を呼び寄せるところだった」
「ほっほ、礼ならこの子に言うんじゃな。ワシは土と植物の術式しか知らん」
「おう、ありがとよ坊や。坊やも魔術師なのかい?」
 シアンは目をそらしてうなずいた。
「そうかいそうかい、たいしたもんだ」

 ザビはシアンの頭をなでた。シアンの内気さは人に不快さを与えない。むしろ人は純粋さを覚えるのだった。

「お前さん、テイマーの術式を使えるんかね?」
「……うん」
「ええじゃないか。魔術師っちゅうのは、ええとこの家の人間ばかりじゃから、家畜なんぞ触りたがらん。おかげで、魔術師で獣医をやれるもんは数えるくらいしかおらんからのう。きっと多くの人々の助けになるぞ」

 バン爺に()められて、シアンは顔をそむける。
 そして、シアンは表情を見られないようにしてザビの下へ行く。

「ほ?」
 シアンは左の足首を見る。
「おじさん、足をケガしてるの?」
「……あ、ああ。屋根の修理中に落ちて(ひね)っちまってな。養生(ようじょう)したかったんだが、仕事が忙しくてなかなか治らないんだ」
 シアンは「座って」と言う。
「え? ああ、かまわないが……。」

 ザビが座ると、シアンも座って左の足首に手を当てた。目をつぶり呼吸を整えると、シアンは患部(かんぶ)(いた)わるように優しくなでさする。

「……坊や、いったい何をしてるん……お?」

 シアンがなでていると、ザビは痛めている足が暖かくなり始めているのに気づいた。

「バン爺、あの子、何やってるの?」

 マゼンタに訊ねられたものの、バン爺は顎に手を当てて驚いた様子で答えない。
 しばらく足をなでた後、シアンは顔をあげてザビを見た。

「もう大丈夫」
「大丈夫……て?」
「立って歩いてみて」

 ザビは立ち上がった。そして恐る恐る左足を地面につける。

「……お?」

 ザビは最初はよろよろとしていたが、数歩あるくと、ケガなどがまるでなかったかのように、まっすぐに進み出した。

「お、おい、嘘だろ? 足が、足が治ったぞ? あ、ありがとう坊や!」
 ザビはシアンに駆け寄って手を握った。
「もしかしたら、もうダメかもしれないって思ってたんだ! それを……。」
「そ、そんなに(ひど)いケガじゃなかったよ……。」
「いやいや、酷いケガじゃないっても、こんなすぐに治せるもんかいっ」
「……うっそ」
 後ろで見ていたマゼンタも驚いていた。
「むぅ……。」
 しかし、バン爺はどこか難しい顔をしてその光景を見ていた。
「カミさんに見せてくるよ!」

 そう言って、ザビは走り出して豚小屋から出ていった。

「すごいじゃんシアンくん!」

 マゼンタはシアンに抱きついた。

「え? え?」
「もう、こんなに可愛くて動物と話せてケガまで治せるなんて、シアンくんマジ天使!」
「あ、いや……。」

 シアンは顔を真っ赤にして、マゼンタの胸の圧迫から顔を解放しようとした。

「……ヒーリングかね」
 バン爺が言った。
「あ……はい」
「ふぅむ、ヒーリングはそもそも術式の適性を持つ者が少ない。その上、お主はテイマーまで……。」
「つまり、シアンくんが大天才ってことなんでしょ?」
「いや、まぁ、そういうことになるが……。」

 バン爺が言いたかったのはそれだけではないようだった。

 するとザビが戻ってきた。
「おおい! なぁ、坊や来てくれないか!」
「なんじゃい?」

 シアンたちが外に出ると、そこには村の人間が集まってきていた。

「坊やの事を話したんだよ! そしたら、みんな居ても立っても居られなくなっちゃってさ!」
「なんと……。」

 村の住民たちは目を輝かせてシアンを見ていた。

「アタシは腰が悪いんだっ」
「胸の調子がおかしくて……。」
「ウチの牛の様子をみとくれよ!」

 村の住人たちは口々に体の悪い場所や、家畜の不調をシアンに告げ始めた。村人は、ざっとみただけでも20人以上はいた。

「ちょ、ちょっと待っとくれ」
 口をはさんだのはバン爺だった。
「何だいバン爺?」
 ザビが言った。
「ええか? 魔術を使うのはかなりの体力を消耗(しょうもう)するんじゃ。特に、ヒーリングやテイマーみたいな術式は、外気(マナ)を使えんから他の魔術よりも術者の内気(オド)を多く必要とする。こんな数の人間に対して魔術を使うたら、坊やがぶっ倒れてしまうぞ」
「え……そうなのかい?」

 住人たちは顔を見合わせる。

「申し訳ないが、一日で診てやれる数はせいぜい……。」
「大丈夫だよ」
 シアンが言った。
「……シアン」
「大丈夫、このくらいの数なら……。」
「シアン、無理はいかんぞ。ちょと寝たら回復するなんて生やさしいもんじゃないんじゃ。下手をしたら、後遺症を抱えることだってあるんじゃぞ」
「大丈夫、まかせて」

 シアンは村人の方へ行った。表情に(とぼ)しい少年は、やせ我慢をしているのか本当に平気であるのか読みづらかった。
 シアンの言うように、シアンは村人のケガや病気を治し、さらに家畜の容態も診察(しんさつ)し続けた。シアンが治療をしている間にも人は増えたが、それでもシアンはその全ての村人の相談を解決していた。シアンが治療を終える頃には、陽は傾きかけていた。

「……本当に平気かね?」
 バン爺はシアンを気づかって言った。
「うん」

 その言葉に偽りはなかった。シアンには疲労の色はなかった。

「マゼンタさんとバン爺さんにはどこか悪いところは無いの?」
「老いは病気じゃないしねぇ」
「性格の悪さばかりはどうにもならん」

 マゼンタとバン爺はほんの一瞬だけ沈黙した。

「え、バン爺、自分の性格悪いと思ってんの?」
「お前さんこそ、その歳でもう若返りたいんか?」

 ふたりは冷ややかに睨み合った。
 シアンはどういう顔をして良いか分からずに、その場に立っていた。
──
 
 その頃、アイリス伯の領地ではアイリス伯が夕食を取っていた。妻を追い出したその食卓では、50代の男がさびしく独りでテーブルを囲み、もそもそと料理を口に運んでいた。

「……ん?」

 アイリス伯がテーブルの隅に置いていある、手の平ほどのクリスタルの変化に気づいた。クリスタルがうっすらと光を放ち始めたのだ。
 アイリス伯は慌ててそのクリスタルをひっつかんだ。そして自分の前に置かれた料理を腕で弾き飛ばしてクリスタルを置き、その中を注意深くのぞき込む。

「……どこだ、そこは?」

 アイリス伯はクリスタルに手を置く。そして目を閉じ呪文を唱えだした。

「う、く……」

 しばらく呪文を唱えていると、アイリス伯の額からは大粒の汗が流れ始め、その目は白目をむいていた。
 部屋の隅にいる執事は、自分の主人を心配しながらもオロオロと様子を見るだけだった。長いつき合いから、執事は彼の邪魔をすれば自分でさえも何をされるか分からないことを知っていた。
 ついには、アイリス伯の鼻から血が流れ始めた。

「だ、旦那様……。」

 さすがに見ておられず、執事がアイリス伯を止めようとした時、アイリス伯の目がかっと開いた。

「……シュだ」
「……はい?」
「アッシュを呼べ!」
「……え?」

 アイリス伯は執事の方を振り向いた。

「アッシュを呼べと言ってるんだ!」
「は、はい、ただいま!」
「気に食わん奴だが、こういう仕事には奴が適任だろう!」

 執事が去った後、アイリス伯は鼻に違和感を覚え、手で鼻をぬぐった。

「……くそ」
 手の甲についた鼻血を見て、アイリス伯は忌々(いまいま)し気に(つぶや)いた。
「慣れん術式を使えばすぐにこれだ……。」

──
 その晩には、バン爺の家には三人では食べ切れないほどの食糧が運び込まれていた。
 食料を持ってきた村の住人の中には、感謝のあまりシアンにずっといてほしいと頼んだり、シアンに手を合わせ拝む者さえいた。

「いやいや、(ほどこ)され過ぎるというのも困ったもんじゃ。食べきれんで腐らせてしまうかもしれんぞ」

 家の外にまであふれた食料に囲まれ、三人は夕食を始める。

「そうだねぇ……。」

 シアンはもくもくと食料を食べていた。特にシアンが気に入っているのは、ベーコンとソーセージのようだった。

「シアンくん、ソーセージ好きなんだ?」
 シアンは口いっぱいにほおばりながら言う。
「……家では食べさせてもらえなかったから」

 マゼンタとバン爺はさりげなく目を合わせた。

「……のう、お前さん本当に大丈夫かね? 少しでも具合が悪いところがあったら、すぐに言うんじゃぞ?」
「平気だよ」

 シアンは微笑んだ。しかしそれは、大人が見れば作り笑いと分かるものだった。

「心配性なんだよ、バン爺はどうみえてもおじいちゃんだから」
「こうみえても、と言ってほしい所じゃが……。」
「ねぇシアン、あんたお医者さんになりなよ。シアンなら絶対に良い医者になれるし、それが世のため人のためってもんだよ」
「うむ、確かにお前さんの腕なら申し分ないどころか、名医になれると言ってもええじゃろう」
「ほら、バン爺も太鼓判を押してるよ」
「うん、ぼく、お医者さんになりたかったんだ……。」
「なんだよ、それならもうこのまま医者になっちゃえばいいじゃん」

 シアンの顔に影が差す。

「でも……。」
「……どうしたのさ?」
「お父さんが……医者なんてダメだって……。」
「そぉんな、こんなに才能があるのにっ」
「父さんは、ぼくじゃあ医者は務まらないって言ってたよ。それに、父さんは、ぼくに1級魔術師になってお城に行きなさいって……。」
「じゃあ、あたしらがシアンのお父さんにガツンと言ってやるわよっ。子供の才能をつぶすんじゃないよってっ」
「だ、ダメだよっ」

 シアンが身を乗り出した。

「シアンくん……。」
「前のお母さんもそう言ってくれたんだけど……。でも、そうしたらお父さんに酷いことされて……。それに……。」

 “前の”お母さんというシアンの言い回しに、マゼンタとバン爺は複雑な事情を(さっ)した。

「犬とかウサギが家にはいたんだけど、ぼくが医者になりたいなんて言うのは、動物なんかが近くにいるからだってお父さんが……。」
 シアンは言葉をつまらせた。
「飼ってた動物捨てちゃったんだ……。」とマゼンタは言った。
「……う、うん」

 シアンは泣きそうな顔でうなずいた。バン爺は、シアンが正直に話していないことを少年の様子から察した。

「まぁ、先ずは等級魔術師になってから、その後に医者になるというのも、不可能ではないんじゃが……。」
「それだと難しいの?」
「他の等級ならともかく、1級を目指すにはただ強力な術式が使えるだけじゃいかんのじゃよ。2級に上がるのでさえ、力だけではなく術式の研究、育てた弟子の数で判断される。さらに1級となると、アカデミーの推薦と審査が入りよる。言ってみれば、人生を1級になるために捧げた者だけが、1級になれると言ってもよい」
「そんなに大変なんだ……。」
「実力もさることながら、運も大きいものじゃっての……。」
「シアンくんでも必ずなれるとは限らないんだね……。」
「100年に一人というくらいの、突出した才能があれば、あるいは……。」
 バン爺はシアンを見る。
「まぁ、お前さんの人生を親父さんが四六時中監視(かんし)しとるというわけでもあるまい。お前さんの人生じゃ。仮に等級魔術師になったとしても、折を見てお前さんの行きたい道に進めばよいんじゃないか?」
「……できるかな」
 バン爺が顔をシアンに近づけニヤリと笑って(ささや)く。
「それにのう、どうせ親父さんの方が先にくたばるんじゃ。親父さんが死んだ後の人生がお前さんにはあるんじゃぞ?」
「……うん」
「大賢者も言ってるしね、“親よりも子の人生長し”って」
「だいたいがそうじゃわい……。」

 しかし、マゼンタとバン爺にいくら背中を押されても、シアンの表情は晴れなかった。


 シアンが就寝した後、バン爺は居間で酒を飲んでいた。

「……まだ起きてんの?」

 マゼンタが下着姿で現れた。手足はすらりと長く引きしまり、一見すると少年のようだったが、胸は十分に発達している体だった。

「……年頃の娘が何ちゅう格好を」
「別に、子供と老人しかいないのに、気にする必要ないじゃない?」
「……まったく」

 マゼンタは(おけ)の水を杓子(しゃくし)ですくって、ぐいと飲んだ。

「……眠れんのか?」
「……うん」

 マゼンタは口を腕でぬぐって奥の部屋を見た。

「シアンくんが可愛すぎて、危うく襲いそうになっちゃう。寝顔もやっぱりマジ天使」
「あそ」
「バン爺も眠れないの?」
「……まあのう」
「……ちょいちょい気になるんだけどさ」
「何じゃ?」
「バン爺、何かシアンくんについて知ってることがあるんじゃない? バン爺を見てると、何か言いたげっていうか、妙に何かを気にしてるように見えるんだけど?」
「どうしてそう思う?」
「女の勘よ」
「これは、驚いた」
「なにさ?」
「思いのほか察しが良いんじゃな。行き当たりばったりで生きとるだけかと思ったが」
「へへ、まぁね。……それって、誉め言葉だよね?」
「お前さんがそう思うのなら、そうなんじゃろうな。……さっき、あの子が動物の話をしとったろう。家で飼っておった犬やウサギの」
「言ってたね」
「ありゃ、多分、捨てたんじゃないじゃろう」
「……じゃあ何さ」
「処分したんじゃよ……。」
「……どうして、そう思うの?」
「じじいの勘じゃ」
「察しが良いのね。歳くってもうろくしてると思ってたけど」
「やりかえさんでもええじゃろ」
「……他には?」
「何じゃ?」
「他にもあるんでしょ? あの子の事で気がかりなことが」

 バン爺は酒を一口飲んだ。

「まぁな。あの子の術式が突出しとるということじゃが……。」
「すごい才能の何がいけないのさ?」
「……ちょいと表に出ようか」

 バン爺とマゼンタは表に出た。
 そのまま2分ほど無言で歩き続けるバン爺にマゼンタは訊ねた。

「……ちょっと、どこまで行くつもり?」
 バン爺は自宅をふり返る。
「これくらい距離があればええじゃろ」
「え?」

 バン爺は持ってきていた、小さなツボを地面に置いた。そして「離れろ」と言って、マゼンタと一緒にそのツボから距離を取った。

「……何をするつもり?」
「お前さん、初めてあの子と出会った森で、木々が破壊されとったのを覚えとるかね?」
「ああ、そういえば、そういうこともあったね……。」
「ふむ……。」

 バン爺は右手をツボに向けた。

「……ん?」

 瞳を閉じ、二回深呼吸をすると、バン爺の右手が青白く発光し始めた。

「ちょ、ちょっと何なのさ……。」

 バン爺が目を開く。すると、右手から光が放たれ、地面に置かれたツボに命中する。ツボは破片をまき散らして砕け散った。

「……すげ」
 軽く息を切らしながらバン爺は言う。
「……魔術師の力量を測るなら、このやり方が一番でのう。ただ単に、魔力を放出するというものじゃ。原始的じゃが今でも等級試験ではこれをやっとる。ふぅ、やれやれ……今のワシならこれでも結構しんどいわい」
「これでもかなりすごいと思うけどね……。」
「“これでも”じゃと? 思い出してみい、あの森の破壊の跡を」
「……あ。……ちょっと待って、うそ、まさか」
「そうじゃ、あの子もあの森で、今ワシがやったのと同じことをやったんじゃ。じゃが、あの子のはツボを破壊するなんて生易しいものじゃなかったろう」

 マゼンタは、えぐれた木々の幹や、大きく空いた地面の穴を思い出した。

「で、この魔力の量に加えて、自分自身と相性の良い術式を組み合わせて、魔術師は術を使うんじゃ。昼間に見た通り、ワシはこれに木や土の精霊、土地神と対話をして術を使う。じゃがあの子はテイマーに加え、ヒーリングまで使いよった。物を治すという術式は力量もさることながら、かなり複雑な術式だというのに。そもそも、術式を二つ使えるということ自体、並みの魔術師にできることじゃないんじゃ。体が悲鳴を上げよる。あの歳であそこまでの術が使えるのは尋常(じんじょう)じゃあない、異常じゃ。才能はもちろんじゃが、いったいどんな厳しい訓練を受けたことか……。」

 マゼンタは口に手を当てて考え込んでいた。

「……どうしたんじゃ?」
「……バン爺、あのさ」

 マゼンタは水浴び中に見たシアンの背中の傷の事を話した。バン爺は静かな面持(おもも)ちでそれを聞いていた。

 静かにバン爺が口を開く。
「ふぅむ。なるほど、あの歳でとんでもない修行をつんどるようじゃの……。いや、そりゃもう修行っちゅうより虐待に近い。あの魔術はそれで……。ならば、このまま帰したらあの子がどんな目に合うか……。」
「何とかしなきゃ」
「何とかって、どうしようっちゅうんじゃ」
「助けるんだよ、あの子を」
「今朝にも言ったじゃろう、赤の他人にできること何ぞたかが知れとると」
「たかが知れてるかもしれないけど、それでもできることがあればやらないと」
「……アイリス伯を敵に回すかもしれんのだぞ」
「そうなったらそうなったそうなった時、まずはあの子だよ。あんな子供がひどい扱いを受けて良い理由なんて、あるはずがないんだから」
「助けたとして、その後はどうするんじゃ? きっとあの子の抱えとる問題は、ちょっとした手助け程度で解決するもんじゃあないぞ。お前さんは、あの子の人生に責任を持てるのかね?」
「もちろん持てないよ」
「なんじゃと?」
「分かんないなぁ……なんでこう、人を助けようってときに、責任とか義務とか言い出すわけ? あたしがそうしたいからそうするんだよ。無責任でもいいじゃない。別に恩を売るわけでもないんだ。誰かを助ける時なんて、もっと簡単に考えればいいじゃん。そうすれば皆もっと簡単に誰かを助けられるんだから」
「……向こう見ずじゃな」
「大賢者も言ってるよ、“向こうが見えたとしても、そこに行くまで事実は分からない”って」
「……今思いついたじゃろ?」
「ばれた?」
「……ま、それもええじゃろ。勢いで突っ走るのも若さの特権じゃからのう。しかしまぁ、昨日今日出会ったばっかりの子供にえらい入れ込みようじゃな。例の母性とやらか?」
 マゼンタは恥ずかしそうに両手で胸をおさえた。
「……あたし、もうお乳が張り始めてるの」
「……食い過ぎじゃ」

 バン爺は遠くを見ながら言う。

「……まぁ、まったく当てがないというわけじゃない」
「え? ほんとにっ?」
 マゼンタが目を輝かせる。
「……じゃが」

 あのシアンの異常な魔術の力、それに言い知れぬ不安をバン爺は抱いていた。突出した才能、激しい訓練、彼の経験上それだけでは説明がつかないものだったからだ。
 翌朝、バン爺は旅立つ準備を始めていた。
 起きてきたマゼンタが言う。

「あれ、バン爺どうしたの? こんなに朝早くから?」
「昨晩に言うたじゃろ、当てがないわけじゃないと。そこにこれから行くんじゃ」
「そこって……どこさ?」
「ダリア伯の領地じゃ」
「そこって……。」
「まぁ、けっこう遠いのう。長旅になるぞい」
「そこなら、シアンくんの事も……何とかなるの?」
「……知り合いに事情を話して助けてもらおうと思っての」
「知り合い……。」

 そうこう話していると、シアンも起きてきた。

「あら、シアンくん、おはよう」
「……おはよう」
 寝ぼけた様子でシアンは言った。
「顔を洗ってきなよ。すぐに出発するから」
「……出発?」
「そ。……でも、シアンくんの希望を確認しとかないとね。ねぇシアンくん、もしお父さんの所に帰りたくないなら、あたし達と一緒に来ない? そこなら、シアンくんも違う人生を歩めるかもしれないよ?」
「……違う……人生」
「うん。少なくとも、今とは違うってことだけど」

 シアンは手の指をもぞもぞ動かして、マゼンタから目をそらす。

「……どうしたの?」
「でも、お父さんが……。」
「お父さんのいない所に行くんだよ? 気にしなくて大丈夫だよ」
「でも……。」
「のう、坊や。お前さんはどうしたいんじゃ?」
「……ぼくが?」
「そうじゃ。誰かの意見や望みじゃない、自分自身の心は何と言っとる?」
「ぼくは……。」
「……ワシらは準備を続ける。ワシらが出るときに、一緒に行きたかったら黙ってついてきたらええ。そうでないなら、このままここにとどまりなさい」

 シアンは何も答えず、うなずきもしなかった。

 バン爺はマゼンタに言う。
「さ、お前さんも準備をしなさい。あと、シアンの前でその恰好(かっこう)やめんか」

 昨晩と同じく、マゼンタは下着姿だった。

「……気になる? シアンくん?」

 うつむいてるシアンの耳が赤くなっていた。

「12歳でも異性の事は分かる年齢じゃ。みょうな性癖が芽生(めば)えたらどうする」
「年上のおねえさんが好みになっちゃうとか?」
露出癖(ろしゅつへき)のある女が好きになるかものう」
「それはまずいね」

 マゼンタは奥の部屋に消えていった。

「まったく、悪い娘じゃないんじゃがのう……。」

 バン爺とマゼンタが旅の支度を終えた。食料は、前日に村人から贈られたものが十二分にあった。

「さて、行くかのう」

 バン爺はリュックを背負い外に出た。マゼンタは部屋の(すみ)から動こうとしないシアンを見る。

「……シアンくん」
「こればっかりは坊やの意思じゃ。ワシらが強制することじゃない。それにそそのかすことでもな」
「……分かってるよ」

 バン爺とマゼンタは家を出た。もしかしたら着いてこないかも、そう思っていたふたりだったが、すぐにシアンはふたりを追いかけてきた。
 自分に並んで歩くシアンを見てマゼンタは言う。

「……シアンくん」
「決まりじゃな。……ワシらも気を引きしめるぞい。こうなったらもうワシらの責任じゃ。無事にこの子をダリア伯の所まで届けんとのう」
「もちろんさ」

 マゼンタは、手を握ろうとシアンに右手を差し出した。しかし、小さく首をふってシアンはこれを断った。マゼンタは、シアンがまだ自分に心を開いていないのだと思ったが、その本当の意味をまだ知らなかった。
──

 マゼンタたちが出発した日の夕暮れ時、ひとりの男が村に現れた。
 20代前半の灰色の髪の男だった。瞳は大きく、人なつっこい顔をしていた。涼しげな若草色のローブに薄布のストール姿の男は、まるで風にそよぐ草木のようだった。

「ちょっと、ええですかぁ?」

 男はシアンに足を治してもらった、農夫のザビの家畜小屋にひょっこりと顔を出した。男の口調も、(ほが)らかで人なつっこかった。

「……誰だい、あんた?」

 家畜の世話を終えたザビは怪訝(けげん)な顔をして言った。たとえ人懐っこい男といえど、田舎の村はよそ者をたやすく受け入れたりはしない。

「いやぁね、実は自分、頼まれて人探しをしとるんですよぉ」
「……人を?」
「ええ。おっちゃん、ここ最近、この村で可愛らし~お子さん見はりませんでしたかぁ?」
「……子供?」
「えぇ、綺麗な髪した、12歳くらいのお子さんですぅ」
「……知らんね」

 ザビは意味もなく農具用のフォークで(わら)をかき集める。

「あれぇ、おっかしいなぁ? ここら辺にいる言われてはるばる来たんですけどぉ?」
「そうかい、だが、あいにく俺は何も知らん。帰った帰った」
「そうでっかぁ、こりゃ参りましたなぁ。その子、貴族のご子息なんですがねぇ、ちぃと前から行方不明ですねん」
「貴族の?」

 ザビの手が止まった。
 男はにっこりと笑う。

「おっちゃん、何か知っとるような反応しはりますねぇ?」
「い、いや、俺は何も……。」
「いやいや、そんなん構えんとってくださいよぉ。おっちゃんを問い詰めようとかじゃありませんからぁ」

 男は腰にくくりつけている小さなカバンから、金貨を取り出した。

「おっちゃん、この金ぴか見たら何か思い出しませんかぁ?」
「……それは」

 男は家畜小屋に入ってきた。

「お、おい、勝手に入るんじゃない」
「一枚じゃあきまへんか? ほなら……。」
 男は金貨をもう一枚カバンから取り出す。
「おっちゃんの欲しい分だけあげますよぉ?」
「ちょ、ちょっと待て……だいたい、アンタ何者なんだ?」
「……何者?」
 男の足が止まった。
「そんなん、どうだってよろしゅうおまへんかぁ?」

 そうして、男は「ほぅれ」と金貨を指ではじいてザビの前に落とした。
 屈んでその金貨を取るザビ、取り終えて顔を上げると、すでに目の前に男が立っていた。

「なっ!?」

 男はザビの顔面を手でわしづかみにすると、家畜小屋の柱に押しつけた。優男(やさおとこ)に似つかない怪力だった。

「あきませんなぁ、大切なものから目ぇ離したらぁ……。おっちゃん、そうやって人生で大切なもん失うタイプでっせ?」
「う、ふぐぅ、う……。」
「恐ろしゅうおまっか? すんませんなぁ、怖がらせてしもうて……。」
 男は顔を近づけた。
「でも俺、人がビビっとるところ見るの、めっちゃ好きやねん……。そういや、おっちゃんの奥さんもええ顔しとりましたよ?」
「ご、ご、ごぶ……!?」
「ははっ、その表情その表情。たまらんわぁ。安心しとってつかぁさい。奥さんは無事ですけぇ」

 男は家畜小屋の入り口を見た。ザビもそちらに目を向ける。そこにはザビの妻が立っていた。

「……!?」

 妻はザビたちのもとへ歩き始めた。ザビは必死に首を振ってこっちに来ないように伝える。

「まぁ、無事っちゅうのとは違うかもしれまへんけど」

 ザビの妻は背後から男の体に手を回すと、男の肩に顎を乗せた。

「ッ!?」

 男はザビの妻の頬にいやらしく指をはわせながら言う。
「皆で仲良ぉやりましょうやぁ……。」


 それからしばらくして、ザビの家に農夫のマッソが訪ねてきた。

「おおい、ザビさぁん、家畜小屋の柵が空きっぱなしになってるよぉ?」
「おお、マッソさん。ちょうど良かった」とザビは言った。
「ん? ちょうど良かったって……何がだい?」

 家の中では、ザビとザビの妻と、例の男が楽しく酒を囲んで談話(だんわ)している最中だった。

「素敵な人と友達になれたところなんだ」
 ザビは言った。
「ええ、とっても素敵な人と」
 ザビの妻も言った。
「……はぁ」

 男は微笑んでマッソの方へ歩いてくる。

「マッソさんいいはりますの? はじめましてぇ」

 男は手を差し出した。いきなり差し出された見知らぬ男の手だった。マッソは身を少し引いてザビ夫妻を見る。不自然な笑顔をふたりは浮かべていた。まるで、無理やり顔の皮膚を左右に引っ張られているような。

「……ザビさん?」

 男は無理矢理マッソの右手を取り、握手に持ち込んだ。

「お、おい……。」
「自分、アッシュ言いますねん。……よろしゅう頼んます」

 男の笑顔は、ザビ夫妻とは違い自然でさわやかだった。


 さらに夜が暮れた頃、男・アッシュを囲んで村では宴会(えんかい)が開かれていた。まるで、彼がこの村に富をもたらす者であるかのようで、昨日のシアンよりも手厚(てあつ)い歓迎ぶりだった。皆が宴の中心にいるアッシュばかりを見ていた。

「いやぁ、遠路(えんろ)はるばるよくぞお()しくださいました」
 村長がうやうやしくアッシュに頭を下げる。
「そんな、かしこまらんでもええですがなぁ。俺は皆さんにちょいとばかし訊きたいことがあって、この村まで来ただけですさかい」
「ほほう、訊きたいことというのは?」
「ええ、昨日、この村におった可愛らしいお子さんの話なんですがねぇ」
「おお、あれは確か……。」
 村長がマッソを見る。
「ああ、俺はバン爺の親戚のお子さんだって聞いたけどな?」
 アッシュは興味深そうにマッソを見る。
「その……バン爺ゆう人は何もんでっか?」
「数年前に、この村に流れてきたじいさんだよ。確か……王都で魔術師をやってたんだっけ?」

 その“魔術師”というマッソの言葉に反応し、アッシュの指がピクリと動いた。

「そうだっけ? あんまり詳しいことは聞かないなぁ。まぁ、魔術師であることには変わりないよな。あの爺さんのおかげで畑の収穫が増えたんだし」と、ザビが言った。
「……そりゃ結構な術式を使いはりますな。もっと詳しゅう教えてくれませんか?」
 マッソはあご髭をなでながら言う。
「う~ん、あんまり身の上話をしない人だからなぁ……。」
「そういえばバン爺さん、腕に白いブレスレットつけてなかったか? あれって確か、等級魔術師の(あかし)かなんかだろ?」
「へぇ、そうなのか? ……ん?」

 そうマッソとザビが話していると、突然アッシュが笑い出した。

「……どうしたんだい、いきなり?」
 アッシュは膝を叩いて愉快そうに天井を見上げる。
「いやぁ、おっちゃんたちが王都の魔術師言いはりますから、びっっくりしてしもうて。せやけど、白い腕輪でっか? えろお安心しましたわぁ」
「……どうしてだい?」
「白い腕輪、そりゃ7級の魔術師の証明ですわ。等級いうても下の下、そこら辺の我流で魔術を身につけたもんとさして変わりませんのよ」

 マッソとザビは顔を見合わせる。

「そ、そうかい……で、それだと何で安心するんだ?」
 アッシュはマッソの手を両手で握った。
「ええやないですか、そないなこと。それよりも、そのおじいちゃんたちがどこに行ったのか教えてくれまへんかね?」

 マッソは、アッシュの瞳の奥が光るのを見た。

「あ、ああ……。あの三人は……。」
 (ほう)けたようにマッソは語り始めた。


 村人たちから情報を聞き出した後、アッシュは外で立ち小便をしていた。

「いやぁ、思った以上に楽な仕事やなぁ。気をつけんといかんのは、あの坊やくらいや……。」
 空に浮かぶ月を見ながらアッシュは独り()つ。

 アッシュが視線を下げると、成人したばかりの美しい村の娘が井戸で水汲みをしていた。アッシュの顔にふわりとした笑顔が浮かぶ。

「……手伝いましょか?」

 娘がふり返ると、そこにはアッシュが立っていた。

「い、いえ、結構です。お客様に雑用など……。」
「“お客様”」
 アッシュは暗い笑いを浮かべた。
「あの、何か……?」

 アッシュは笑いを浮かべたまま、ゆっくりと娘に近づく。

「ちょ、本当に結構ですから……。」

 しかしアッシュはさらに娘に近づき娘の腰に手を回した。

「きゃっ」 

 アッシュは接触するほどに娘に顔を近づける。

「や、やめて……。」
「口開けぇや」

 その言葉を聞くや否や、娘の瞳からは光が失われ、アッシュの言われるままに口を開いた。
 アッシュは娘の開いた口に自分の舌を滑り込ませる。

「……ん、く」

 アッシュは茂みの奥に娘を押し倒した。


 翌朝、その村からアッシュは消えていた。村人たちは村長の家で目を覚まし、二日酔いの頭をかかえて笑いあっていた。

「シェンタさんとこの出産祝いにしてははしゃぎ過ぎたな」
「ああ、あんなに飲んだのは久しぶりだよ」
「どうして、あんなに飲んだんだっけ?」
「さぁ、誰かが一気飲みし始めてそれから……。」
「あれ、あんまり記憶がないな……?」
「なにか……大切なことを忘れているような……。」

──
 一方のマゼンタたちはバン爺を先頭に旅を続けていた。懸賞金のかかっているシアンを連れての旅だったので、先を急ぎたかったものの、異変を感じたマゼンタがバン爺を引きとめる。

「……どうしたんじゃ?」
「シアンくんの様子が……。」
「……なに?」

 後方からついてくるシアンの足取りがおぼつかなかった。その足跡は左右でたらめについていて、まるで泥酔(でいすい)した酔っ払いのもののようだった。

「こりゃいかん、ちと休むか」

 一行は、道ばたの木陰で休憩を取ることにした。

「……シアンくん、水飲む?」

 マゼンタがうなだれて木の根元に腰かけているシアンに水筒(すいとう)を手渡す。シアンは小さくうなずいてそれを受け取った。

「ふぅむ、どうやらお前さん、あまり遠出をしたことがないと見た。無理は禁物じゃったか……。」
「これから辛かったらすぐに言ってね。きちんと休みを取るから」
「……ごめんなさい」
「あやまらなくていいんだって」

 ふたりはちょっとした疲労だと思っていた。しかし、真昼になり日が昇りきった時間になっても、シアンは一向に回復しなかった。それどころか呼吸を荒くして、額からはうっすらとした汗が絶え間なく流れていた。

 シアンから距離を取ったところで、バン爺はマゼンタに相談する。
「……どうやら、ただの疲労じゃないようじゃ。連日(れんじつ)の野宿だと坊やの容態(ようだい)が悪化しかねん。どこか、近くに村なんぞがあれば」

 バン爺は地図を確認する。しかし、地図にはめぼしい村は載っていなかった。バン爺は小さくため息をつく。

 マゼンタが口を開く。
「……あるには、あるんだけど」
「……ほ?」

 マゼンタは遠くに見える山間を見つめると、そこに向かって歩き始めた。
 マゼンタについていきながら、バン爺は地図を確認する。その方向には村はないはずだった。
 しかし陽が傾きかけた頃、マゼンタたちは山間(やまあい)にある村に到着した。

「……こんなところに村が」

 バン爺はマゼンタを見る。マゼンタの表情は硬かった。

「お~、マゼンタじゃないか……。」
 村の住人が遠慮がちにあいさつをした。マゼンタも遠慮がちに手を振った。

 彼だけではなかった。その村の住人がマゼンタを見ると、ぎこちなく声をかけるか、彼女を見ても無視をするかだった。バン爺とシアンを見た村人にいたっては、家の中に逃げる者もいた。

「……どこに行くんじゃ?」
 バン爺が訊ねた。
「……あたしの家」
「……ふむ」

 バン爺は村を見渡す。(さび)れた村だった。そして、そこに住まう住人の顔つきや服装を見て思った。

──棄民(きみん)の村か。

 今から60年以上前、大陸間で大規模な戦争が起こった。魔術戦争と呼ばれる国家間の総力戦、発達した魔術が用いられたその戦争では、多くの魔術師や兵士、さらに民間人が命を落とした。その際に国々の地図は大きく書きかえられ、一部の少数民族は分断され、また一部の部族は故郷を奪われた。結果、彼らは存在しない民として人々から忘れ去られてしまった。しかし、外部から忘れ去られても死に絶えたわけではない。彼らは独自にコミュニティを形づくり、命を、生活をつないでいた。

 マゼンタたちはとある一軒家に到着した。その家の前では妙齢(みょうれい)の女が野良仕事をしていた。女はマゼンタたちに気づくと、仕事を中断してこちらに小走りで近づいてきた。

「……マゼンタっ」

 その女は、近づいてくるとマゼンタに目鼻立ちがよく似ていることが分かった。

「……ひさしぶり、姉さん」
 女はマゼンタの後ろにいるバン爺たちに目を遣った。
「……どうしたの、突然?」
「……うん、近くまで寄ったから」
 マゼンタは青ざめた顔をしているシアンを見た。
「それと……一緒に旅をしてる連れの様子が悪くて……。」
 事情を察したマゼンタの姉が言う。
「……分かった。父さんに聞いてみる」
「あたしの問題だから、あたしが直接言う」
「……そう」

 そうして、マゼンタとマゼンタの姉は家に入っていった。
 しばらくすると怒鳴り声が聞こえ、マゼンタが戻ってきた。マゼンタの左の頬は()れていた。

「大丈夫だよ、入って」

 あまり大丈夫そうに見えないマゼンタの様子を見て、バン爺とシアンは顔を見合わせる。
 バン爺たちが家に入ると、部屋の真ん中のテーブルの前には不機嫌そうな中年の男が座っていた。おそらくマゼンタの父親なのだろうその男は、バン爺とシアンを見て、より不機嫌な顔になった。

「……蒼の民と茶の民か」
 マゼンタの父は言った。
「……そうですじゃ」
「……老人には申し訳ないが、大したもてなしはできないぞ」
「……結構じゃよ、屋根を貸していただけるだけで(おん)の字じゃ。それと……もし、この村に医者がいたら紹介してほしいのじゃが……。」
 マゼンタの父親は笑った。
「いると思うか?」
「……いや、すまんかった」
「ふんっ、久しぶりに顔を見せた娘の頼みじゃあなかったら、犬小屋だって貸しはせん」
「ちょっと、お父さん」と、マゼンタの姉が(いさ)めた。

 マゼンタは「こっちだよ」と言って、バン爺たちを外の納屋(なや)に案内した。そこには(わら)を束ねた上にシーツを被せた、簡易(かんい)のベッドが用意されていた。

「……ごめんね、ほんとはもっときちんとしたところで休ませたかったんだけど」
「ええわい。野宿に比べりゃあ、これだけでも豪勢なもんじゃ」
「……ここの人たちはよそ者が嫌いでさ」
「……そうみたいじゃの」

 よそ者が嫌いという程度ではないだろう、とバン爺は思った。
 彼ら棄民は戦争で利益を得た支配民族を、嫌いどころか憎んでいる。特に、シアンのような蒼の民と呼ばれる貴族階級は戦争をおこし、バン爺のような茶色の民は戦争で大きな利益を得た。彼らに土地を奪われただけではなく、同胞(どうほう)を殺された者も少なくない。あまり長居もひかえた方が良いだろう。
 ベッドに寝かせると、すぐにシアンは寝入ったが、それでもうなされているように汗をかいていた。マゼンタは手ぬぐいでシアンの額をぬぐった。

「……病気なのかな?」
「……貴族のお坊ちゃんじゃから、慣れんこと続きでヘタってしまったのかもしれん。それとも……。」
「それとも?」
 バン爺はシアンの手首を握った。
「おとといは、はりきっておったからのぅ……。」

 目をつむり、バン爺は手首を握る手の力を緩めては強める。やがてバン爺とシアンの呼吸が重なり、ふたりの体は一体化しているかのように上下し始めた。

 しばらくシアンと呼吸を合わせた後に、バン爺は目を開いた。
「……むぅ、妙じゃ」
「……妙って?」
「いや、術式を使用しすぎて体内のオドを消耗(しょうもう)しとるのかと思ったが……しかし、オドの方はいたって充実……それどころか、この子の体内に満ち満ちとる。……いったいどういう事じゃ?」

 そう言われても、マゼンタにはピンとこなかった。

「普通に、風邪ひいちゃったとかじゃ?」
「ううむ」
 マゼンタはシアンの額に手を置いた。
「熱はないみたいだね」
「……まるで、この子の体の中にもうひとりの存在があるような、妙なオドじゃ……。」
「そんなこと言われても分かんないよ。ねぇ、明日もこのままだったら、お父さんにロバを借りて、大きな町まで行ってみようよ」
「ええんか?」
「まかせて」
 そう言って、マゼンタは納屋から出ていった。

 家の方から怒鳴り声が聞こえ、そして戻ってくるとマゼンタの右の頬が腫れていた。バン爺はドン引きする。

「ロバ借りても大丈夫だってさ」
「……お前さんが大丈夫かね」
「家にいた頃はしょっちゅうだったよ」
 バン爺はシアンのために濡らしておいた手拭いを、「ほれ」とマゼンタに渡した。
「ん、ありがと」

 マゼンタはその手拭いを頬にあてる。
 バン爺はシアンの手を握りつつもマゼンタを気にしていた。

「その……家を出たのは、そういうことかね?」
 マゼンタは笑って首を振る。
「違うって、そんなに重く考えないでよ。ここいらの子供なんて、だいたい父親にぶん殴られてしつけられてるんだから」
「ふ……ふむ」
 マゼンタはシアンの(そば)に体育座りで座り、両膝(りょうひざ)の間に頭を乗せる。
「……あたしはこの村が嫌いだったの。窮屈(きゅうくつ)なのに、ここにいる限り息苦しいって分かってるのに、それでもここから出ようとしない皆が。誰かが外の世界に行こうとしても、自分たちには住むところがないとか、さっきみたいに外の人間は敵ばかりだからって、引きとめようとする空気があるんだ」
「……まぁ、ワシが物心ついた頃には終わりかけとった戦争じゃが、しかし、ここの人々の言い分も分からんでもないぞ。実際に、ワシらや貴族たちが彼らの土地をひっかきまわしたんじゃからな。元いた土地から追い出されて、こんな辺境の地で王国の庇護(ひご)にもあずかれんのじゃ」
「それ何十年前の話? 戦争の事なんて、お父さんだってお爺ちゃんから話で聞かされてるだけだし、そのお爺ちゃんだってバン爺と同い年くらいだったんだよ。戦争が終わった時は子供だったんだ。その後からいくらでもやりなおしはできたんだよ、それなのに自分たちからその道を捨てたんじゃない」
「むぅ……。」
「あたしはここで終わりたくなかった。家族の事は好きだけど、あたしは自分の人生を生きたかったの」
 バン爺はシアンを見る。
「……お前さんがこの子に同情するのは、そういうことがあったからかね?」
 マゼンタもシアンを見る。
「めっちゃ可愛いから」
「あそ」
「この寝顔を見てると(たま)らん気持ちになっちゃう」
「やめんか」

 マゼンタは笑い、バン爺は首をふった。
──

「……あかん、見失ってもうたわ」

 アッシュはシアンを追う道中で途方(とほう)に暮れていた。仕方なく、アイリス伯から預かったクリスタルを懐から取り出し様子を見る。

「シアンくんが術を使うてくれんと反応せんっちゅうんは、便利なようで不便なもんやなぁ……。せっかく、あの子のオド操って動けんようにしとんのに、いったいどこ行ったんや……。」
 アッシュは荷物袋から地図を取り出した。
「この辺になんぞ村でもあるんか? せやけど地図にはないしなぁ」
 アッシュは再びクリスタルを手に取ってそれを(かか)げた。
「しゃあないな、あんまやりたないけど、見失うよりマシやろ」

 アッシュがクリスタルに念じると、クリスタルはグリーンの濃淡(のうたん)の光を放ちはじめた。

「……悪く思わんといてや、シアンくん。甥っ子の教育や」

──
 
 ふと、マゼンタはバン爺の足を見た。
「……ところで、なんで裸足なの?」
 いつの間にか、バン爺は靴を脱いでいた。
「ん? ああ、ちょいとここの土地神と話をしとるんじゃよ」
「土地神と?」
「そうじゃ、ワシゃあ新しい土地に来たら──」

「う、う、うああああああ!」

 突然シアンの容態(ようだい)が変化した。シアンは口を大きく開け白目をむき、体を異常なまでに緊張させ弓なりに反らしている。病気とは思えなかった。まるで、体を外からの大きな力によって()じられているかのようだった。

「な、なんじゃ!?」
「シアンくん!?」
「が、が、があああああああ!」

 シアンは陸に引き上げられた魚のように、体を打ちつけて跳ねまわる。

「ちょ、バン爺、何が起きてるのさっ!?」
「ワ、ワシにもいったい……。」

 バン爺はシアンの腕を取り、脈と、そして体内のオドの流れを調べる。

「な、なんじゃあ!?」
「どうしたのっ!?」
「ありえん、こ、これは……。人間の持てるオドをはるかに……。」
「医者を呼んだ方が良いの!?」
「医者……いや、医者などでは……。」

 シアンはさらに激しく痙攣(けいれん)し始める。

「ねぇ、何とかしてよ、シアンくん死んじゃうよ……。」
 マゼンタは両手で口を押えて涙を流し始めた。

「……ど、どういうことじゃ?」
 ふたりはシアンの次の変化に気づき始めた。
「ねぇ、シアンくんの体、大きくなってない……?」

 最初は尋常(じんじょう)ではない様子で暴れまわっている(ゆえ)錯覚(さっかく)だと思っていたが、そうではないことが分かった。暴れながら、シアンの体は実際に大きくなっていた。寝床よりも小さかったはずのシアンの体が、今では手足がはみ出るくらいになっている。

 シアンの手首を握りながら、バン爺が何かを予見(よけん)した。
「……マゼンタや」
「なに!?」
「……ここから逃げるんじゃ」
「……え?」

 バン爺は立ち上がると、マゼンタの手を引いて外に走り出した。

「ちょ、ちょっと、シアンくんは……?」
「それどころじゃない!」

 バン爺たちが納屋から飛び出ると同時に、納屋の中から強烈な光が放たれた。

「な、何なの!?」

 さらに光は強くなり、光の柱が納屋の屋根を真上に吹き飛ばした。だが、屋根から伸びた光の柱は真っ直ぐ空に伸びることなく、ジグザグに空を飛び回り、そして近くの山にぶつかった。ぶつかった場所からは爆発音が聞こえた。

「何なの……これ」
 マゼンタは恐る恐る納屋に戻り、中の様子を見る。
「……シアンくん?」
 マゼンタが声をかけるが、そこにはシアンの姿はなかった。
「そんな、シアンくん、どこいっちゃったの……。」
「……おそらく、あそこじゃろうな」

 マゼンタがバン爺をふり返る。バン爺は山の方向を見ていた。

「さっきの光が、シアンくん……なの?」
「ふむ……。」

 バン爺は光が落ちた方へ歩き始めた。

「おい、さっきの音は何だ? ……うお!?」
 家から出てきたマゼンタの父が、破壊された納屋を見て驚きの声を上げる。
「な、何なんだ!? 何が起きたんだ!? おいマゼンタ説明しろ!」
「それを今から確認しに行くんだよ!」
 そう言って、マゼンタはバン爺の後を追いかけていった。

 バン爺がついてきたマゼンタに言う。
「お前さんは家で待っといた方がええぞ」
「大丈夫、やばくなったら逃げるよ。大賢者も言ってるしね、“やばくなったら逃げろ”って」

 バン爺はもう何も言う気が起きなかった。