「あの、奈雪さん」
お昼時。社内にある広めの休憩室でコーヒーを飲みながら本を読んでいると、小柄な女の子が私のもとに訪ねてきた。彼女は自分の体より、少し大きめのスーツに身を包んでおり、新入社員特有の初々しさがにじみ出ている。
「休憩時間中にすみません」
礼儀の正しい、四月から新卒で入社したての彼女は、丁寧に深々と頭を下げてくる。綺麗にまとめられたハーフアップの髪が、目の前ではらりと揺れた。
「あれ、おかしいな。うちの出版社は確か、大卒からじゃないと入社できないはずなんだけど。インターンの学生なんて、受け入れていたかな」
「今年の三月に、大学は卒業しています。からかわないでください」
ムッとした表情を浮かべながら、少しズレている小鼻の上に乗った赤い縁(ふち)メガネを正しい位置へと戻す彼女。それからレンズの奥にある大きな瞳を、これ見よがしに細めてみせてきた。
「モラハラで社長に訴えます」
「やめてくれ。このご時世、冗談じゃ済まなくなるかもしれない。ほら、チョコレートあげるから」
おやつに持ってきていたハイミルクのチョコレートを、スーツのポケットから取り出し後輩へと手渡す。それを素直に受け取ると、からかわれて若干不機嫌になった表情を少しだけ緩めた。封を切って、ひょいと口の中へと放り込む。
「私はお菓子なんかで買収されません」
「食べてるじゃないか。それは口止め料だからね。告げ口は厳禁だ」
念を押しはしたが、彼女が本当にハラスメントを申告するような人ではないと、もちろん理解している。入社したての時に彼女のOJTを担当したから、それなりに話をするし冗談を言い合えるような仲なのだ。
「というか奈雪さん、見た目のわりに子どもなんですね。このチョコレート、ミルクたっぷり入ってますよ。そのコーヒーだって、もうコーヒー牛乳みたいなものだし」
そう言って指差したカップの中の飲み物は、確かにブラックだったはずのコーヒーの原型を留めていなかった。
「苦いのは現実だけで十分なのさ。私はもうずいぶんと大人だから、君より酸いも甘いも経験しつくしたんだよ」
「そんなに劇的な人生を送ってきたんですか?」
「もちろんさ」
「またお得意の冗談ですね」
「実は恋人を亡くしているんだ。交通事故がきっかけでね」
そんな衝撃のカミングアウトをしてから、ミルクと砂糖がたっぷり入って色が明るくなったコーヒーを口に含む。数分前に入れてから、いつの間にか冷めきっていたようだ。舌先にツンとした苦みがほのかに残り、思わず顔をしかめる。
「あの、ごめんなさい。私、本当に知らなくて……嫌なこと思い出させてしまいましたよね」
失言をしてしまったことを後悔したのか、ばつの悪そうな表情を浮かべる後輩。
「いいんだよ、冗談だから。本気にするなんて、君は素直だね」
「やっぱり社長に言いつけます」
「ところで、わざわざこんなところまで訪ねてきてどうしたんだい?」
強引に話を変えると、むっとした表情を浮かべてため息を吐いた。どうやら私に会いに来た理由が、今の彼女にとってはとても大切なことだったようだ。席を外したりせず、あらためて姿勢を正して、こちらに向き直る。
「小説、また書いてくれませんか」
「君、私たちは出版社の編集部に勤めているんだよ。作家から原稿を受け取って、無事に出版させるのが仕事なんだ」
「それは分かっています。けれど今は、奈雪さんじゃなくて名瀬雪菜さんに話をしているんです」
私はこれ見よがしに、大きなため息を吐いた。
「だから、それは違うと言っているだろう」
「誤魔化さないでください」
どうやら彼女の中では、すでに桜庭奈雪と名瀬雪菜は同一人物であると確定してしまっているらしい。後輩はカバンの中から一冊の本を取り出すと、それを机の上に置いてみせた。そのとても懐かしい表紙に、思わず視線が吸い寄せられてしまう。数年前に出版された、名瀬雪菜のデビュー作である『私の愛した世界』という小説は、もはや私にとっては呪いのようなものだった。この小説があったから、嬉しいことと同じくらい辛いことや悲しいことがたくさんあった。消してしまいたくても、消すことのできない人生における最大の汚点とも言える。
辛い過去を思い出して、無理やり吸い寄せられる視線を明後日の方向へと投げた。もう振り返ることはしないと、蓋をするように。
「ほら、やっぱり先生じゃないですか」
それから順番に、二作目と三作目も机の上に置かれていった。もはや言い逃れなんてできないと諦め、大きなため息をもう一度吐く。ようやく認めたことに安堵したのか、後輩は追及するために鋭くとがらせていた視線を元に戻した。
「はぁ。そもそも君は、なぜ私が名瀬雪菜だと知っているんだ」
「なぜって、気づかない人の方が鈍感ですよ」
彼女は白い綺麗な人差し指で、一作目のタイトルの隣に書かれている『名瀬雪菜』というペンネームを叩く。「あぁ」という、ため息のようにか細いうめき声を出し、ネットリテラシーの低かった当時の自分を恥じた。
「先輩の旧姓、七瀬っていうのは最近知りました。七瀬奈雪と、名瀬雪菜。名瀬先生はこの県に住んでいるって、わかっていました。プロフィールに書いてあったので。それに名瀬先生がサイン会を開催していたことも知っています。これだけの情報で気づかない人は、正直馬鹿です」
そんな馬鹿が、数年前に存在したのだ。小説家を目指して人一倍努力をしていたのに、結局志半ばで叶うことのなかった男が。あれだけ近くにいた男に気づかれなかった事実が、今の私を油断させてしまっていた。
「そもそも、私はもう小説家を辞めているんだ。この数年間、一文字たりとも文章を書き起こしたことなんてないんだよ」
「なんで、書くことを辞めたんですか。応援してくれるファンの人が、いっぱいいたはずなのに。それとも、どうでもよかったんですか」
ずっと昔、心の奥底に刺さって取れなくなった小さなとげが、鈍く痛む。背を向けた人たちのことを思い出すと、いつも罪悪感に囚われる。自分を拠り所にしてくれている人たちがいることを知っていて、それでもなお書かないという選択を決めたあの日のこと。あの日からずっと、私は目を背け続ける人生を送っていた。
「飽きたんだよ、小説。読むことも、書くことも。十万文字なんて、疲れるだけだろう?」
そうしてまた、逃げるように視線を伏せる。ようやくすべて過去のものだと割り切って、前に進めるのかもしれないと思ったのに。消えない過去が、私の背中に張り付いていつまでも離れることはなかった。
「飽きたって……」
怒りとも、あきれとも取れる彼女のつぶやき。いっそのこと、後者であってほしかった。小説家としてデビューできたのは、ただのまぐれだったのだと笑ってくれてもよかった。そうすれば、いくらか心は軽くなったというのに。
けれどそんな思いに反し、彼女の瞳には怒りの色が見て取れた。どうして忘れさせてくれないのだと、心の中でひそかにうめく。そんなことを思っても、彼女が聞き入れてくれるはずもない。
「飽きたなら、どうして出版社なんかに勤めてるんですか。なんでこの仕事を、また選んだんですか」
その質問は答えることができなかった。並べられた三冊の本を視界に映さないように、真っ白な机をただじっと見つめる。そうしていると、今日は諦めたのか小説をカバンの中へと収めた。
「すみません、生意気なこと言って。出直します」
彼女は一度も気圧されることなく、自分の気持ちをただまっすぐに伝えると、休憩室を出て行った。辺りに静寂が立ち込めると、深く背もたれに体を預けて頭上を見上げる。
私の選択は、逃げたと捉えられても仕方のないことだが、適当な気持ちで書かないという道を選んだわけではない。心が壊れてしまいそうなほどに悩んで、実際に精神がすり減りもして、そしてようやく決断したことなのだ。大学を卒業したばかりの女性にとやかく言われただけで、簡単にその意思を曲げられるようなことではない。
けれど、わかっていたはずだった。いつか現実に向き合わなければいけない時が来ることを。先ほどのように、過去に書いた自分の作品を読んでくれた人が、目の前に現れるんじゃないかという予想はできていた。そんな時にかけられる言葉を、精神的に未熟で年齢だけを重ねてしまった私は、ただの一つも用意できていなかった。
「……傷つけてしまったんだ」
誰かが幸せをつかむ裏で、必ず他の誰かが不幸になる。私が小説を書くことを辞めたことで、幸せになった人がいた。それが原因で訪れる不幸は、すべて自分が背負えばいいというのに。身に余るほどの不幸せが、手のひらからあふれだして伝播していく。
あの日からずっと、その申し訳なさから目を背けながら生きていくのが、人生のすべてだった――。
彼女と話をするのは、一年前の春におこなった花見の時以来のことだった。当時、とある理由から夫と一時的に別居をする選択をした私は、少し離れた地域に引っ越すことになっていた。そんな報告を、大学時代から親しくしている小鳥遊茉莉華という女性に話した時に、最後にみんなで花見をしようという話が持ち上がったのだ。
小鳥遊茉莉華。旧姓、嬉野茉莉華。
私には公介という息子がいて、同じく茉莉華さんにも、小鳥遊公生という男との間に華怜という娘がいる。仲の良かった二人の子どもが寂しがらないようにと企画されたのが、もともとの趣旨だった。そのお花見の日、いつか大人になった時にまた変わらずにここに集まれるようにと、桜の木の下にタイムカプセルを埋めたのだ。カプセルの中には、将来の自分に宛てて書いた手紙を入れた。
その手紙の内容はというと、実はあまり覚えていない。いつか手紙を開いた時に新鮮な気持ちで見られるようにと、なるべく考えないようにこれまで頭の隅に置いてきたからだ。だから今では、恥ずかしいことを書いていなければいいなと祈っている。
息子が布団に入って眠った頃に、茉莉華さんから久しぶりの電話がかかってきた。電話に出ると『夜分遅くにごめんなさい』と、かしこまった挨拶が聞こえてくる。
「いいよ。息子は今寝たところだから。華怜ちゃんも、今眠ったんだろう?」
『はい。いつも通り全然眠ってくれなくて、今日も手を焼きました』
「茉莉華さんは、一緒に寝なくてもいいのかい?」
『今日は夫に任せたので、しばらくは大丈夫です』
久しぶりに奈雪さんとお話がしたかったので。そう言われたから、眠っている公介を起こしたりしないように一旦外へ出た。しばらく前までは冬の寒さで凍える日々を過ごしていたのに、いつの間にかTシャツ一枚で過ごせる夜が来たことに季節の変化を感じた。
今年もまた、春がやってきたのだ。
彼女と話しをする時は、決まってお互いの家庭の話をした後に小説の話題になる。茉莉華さんは日々の空き時間の大半を小説を読むことに費やしているため、出版社に勤めている私とはそれなりに話が合うのだ。とはいえ、仕事で発売前の小説を読むことはあっても、プライベートの時間を使って読むことは、ほぼなくなってしまったのだが。
『そういえば、今話題の小早川先生。新刊楽しみにしていたんですけど、延期になったみたいですね』
「あぁ、あの先生か。あの先生は、メンタルが少しね」
つい余計なことを話してしまったことを、言葉を発した後に気がついた。基本的にどんな仕事でも、業務で知りえた情報を第三者に話してしまうのはよくないことだ。しかし彼女は誰かに言いふらすような性格はしていないため、多少のことなら構わないかと思いなおす。それでも、気をつけることに変わりはないのだけれど。
「もしかして、小早川先生の作品を担当したことがあるんですか?」
先ほどよりも興奮気味に話しているのが、電話越しにも伝わってきた。
「私は担当したことはないよ。弊社の別の社員が受け持っていたことがあるっていうだけだ」
売れっ子作家の特徴は、編集者界隈で情報共有されやすい。だから、風のうわさ程度にその作家のことは知っていた。
『へぇ、そうなんですか。メンタル、弱いんですね。たくさん売れてるから、気にしなくてもいいのに』
「たくさん売れていると、それだけ多くの人の目に付くからね。好意的な意見だけじゃなくて、批判的な意見も増えていくのは仕方のないことなんだよ。批判されることに慣れていない人は、ネットの意見を真に受けすぎちゃって、結果的に病んでしまうんだ」
そういう人の方が、世の中にはたくさんいるのではないかと思う。人の意見など気にしなくてもいいと話す人もいるけれど、けなされているのを見つけてしまうと、気にせずにはいられなくなる。とりわけその先生は、ナイーブな側面が強かったのだろう。
小説家って、大変なんですね。そんな彼女の言葉に、私は深く頷いた。自分の好きなことをしてお金をもらうという難しさは、結局は当事者にしかわからないものだから。
以前、少しの間だけその道を歩いていた私には、その売れっ子作家の悩みは共感できないものではなかった。自分にも、そういう悩みを抱えていた時期があったから。そんなことを考えていると、まるで見透かしたかのようなタイミングで彼女が訊ねてくる。
『奈雪さんも、そういうことを悩まれている時期があったんですか?』
直接聞かれることを想定していなかったから、一瞬たじろいで本当のことを話した。
「あぁ。作家なら、誰でも通る道だと私は思うよ」
それから少し迷っているようなわずかな間の後、恐る恐るといったようにまた彼女は訊ねる。
『もしかして、小説を書くのを辞めちゃったのは、そういう事情が関係しているんですか?』
昼間に話していた後輩の時と同じように、言葉を喉の奥に詰まらせる。まさか一日に二度も、過去をほじくり返されることになるとは、さすがに想定していなかった。そんな不自然な間が空いたことで、私が怒ったのではないかと察したのか、茉莉華は慌てたように自分の言葉を訂正する。
『あの、ごめんなさい。今の、ナシでお願いします。聞かなかったことにしてください』
「いや」
思わず、ため息を吐く。そろそろ目を背けずに、過去と向き合えと言われているような気がして、小さな笑みがこぼれた。
「今日編集部の後輩に、新作を書いてくれとせがまれたところなんだ」
『奈雪さんが小説を書いていたこと、話したんですか?』
「いや、話してないよ」
『それじゃあ、誰かが話したんですかね』
「知っている人は、誰も話してはいないと思う。彼女は自分で真実に気づいて、私のところへやってきたんだ」
きっと、多くの偶然が重なった結果なのだろう。当時自分の小説を読んでくれていた少女が、大人になってから偶然同じ職場に勤めることになって、偶然にも真実にたどり着いてしまった。そんな奇跡のような偶然が起こることを、誰も想像なんてしていなかった。
奈雪さんは、その人になんて言われたんですか。そう訊ねられ、今度は言葉に臆することなく正直に話した。
「また、小説を書いてほしいって」
『あら』
その思わず漏れたといったような一言には、若干の期待が含まれているようにも思えた。
『奈雪さんは、なんて答えたんですか?』
「もう小説を書くのは飽きたって、言ってやったよ」
『あら……』
わかりやすく、しぼんでしまう声。いい機会だと思って、ずっと気になっていたことを質問することにした。
「茉莉華さんは、今でも私に小説を書いてほしいと思っているのかい?」
『それは、本音を言わせてもらうとそうですけど』
「別に私が書かずとも、世の中には私なんかよりすごい作家がごまんといるじゃないか。それこそ、私と似た作風の先生だっていくらでもいる。私じゃなきゃダメな理由なんて、君にはあるのか?」
本音をぶつけると、茉莉華さんは『うーん』と困ったように唸った。作家というのは、大御所じゃなければ、替えなどいくらでもいると思っている。作家を志望している人間だって、きっと星の数ほど存在するし、新たな金の卵が発掘されれば淘汰されていく人がいるのは必然のことだ。
書けなくなれば、埋もれていく。たとえばその人に好きな作家がいたとして、その作家が書けなくなったとしたら、自分の欲望を満たすために別の作家へと興味を移す。そのようにして、世の中のたいていのことも循環していくのかもしれない。
『たしかに、私の読みたい本が名瀬雪菜の本である必要はないのかもしれません。特に私みたいな人間は、たぶん人より多くの本を読んでますから』
「そうだろう? 私にこだわる理由なんて、ないじゃないか」
『はい。よく考えたら、名瀬雪菜にこだわる必要なんてこれっぽっちもないのかもしれません』
そんな風にハッキリ言われてしまうと、それはそれで傷付くような気がしたが、包み隠さずに正直に言ってくれた方が幾分か心が楽だった。けれど彼女は、それからまた言葉を続けた。
『でも、それはそれとして、奈雪さんの小説はまた読みたいです』
「君、私の話を聞いていたのか?」
『はい、聞いていました』
それじゃあ、なんで。そう訊ねると、彼女は電話の向こうで微かに微笑んだような気がした。
『大切な人が書いたものだから、また読みたいんです。売れているとか売れていないとか、代わりがいるとかいないとか、そんなくだらない理由は必要ありません。奈雪さんの本だから、読みたいんです』
思わず私は言葉を詰まらせた。彼女の言葉が嬉しかった、そんなありきたりな感情などではなく、単純に困惑してしまったからだ。どうして今も尚、必要とされているのかわからない。たとえば自分が本当に求められているのだとしても、自信を持って受け止めることができない。なぜなら第一作を書いたのは、まだ穢れを知らない高校生の時で、大人が見れば一笑にふすような内容のものだったから。
そんな小説を覚えている人なんて、電話の向こうにいる彼女だけだ。そう考えた時、今日の昼休憩の時間に単身で乗り込んできた後輩がいたことを思い出した。きっとみんな、過去に囚われすぎている。
今さら書けと言われても、満足に書けるのかもわからないのに。
『私の愛した世界』
ぽつりと茉莉華がつぶやいたそれは、私が昔書いた小説のタイトルだった。
『あの小説があったから、今の私がいるんです。当時の私は恋愛というものがまだよくわからなくて、物語の中でしかそれを想像することができなかった。馬鹿みたいだって思われるかもしれないけど、運命っていうのは本当にあると疑っていなかったんです。そんな考えを、間違ってなんかいないって教えてくれたのが、奈雪さんの本だったんです』
確かに一作目は、大人が読めば思わず歯が浮いてしまうような、そんな恥ずかしい話を書いていた。運命という軸をテーマに、大人になり切れていない女の子が幸せを見つける、そんな背中がかゆくなるようなお話。
また一つ、小さくため息を吐く。
「それは、君が運命的な出会いをしたから、そう思うだけだよ。たとえばもっと違う出会いをしていたとしたら、運命なんてものはないと結論付けて、私の小説なんて忘れていたに違いないさ」
『それは結果論です』
そう彼女は、きっぱりと言い切る。意地悪な言い方をしてしまったと、自分の言葉を反省した。なぜならば、彼女のように心根のまっすぐな人間は、たとえ自分の意にそぐわない出来事があったとしても、それでも前を向いてしっかりと歩いていく人なのだと知っているから。
小鳥遊茉莉華は、桜庭奈雪にとって真反対の存在だと言っても過言ではなかった。
今度は自嘲するように、私は笑う。
「そんなまっすぐな君だからこそ、彼は今とても幸せなんだろうね」
自分の夫のことを言っているのだと分かったのか、微かに顔が赤くなって動揺しているのが電話越しでも伝わってきた。絵に描いたような円満な夫婦で、不満なんて一つもないような彼女たちを見ていると、時折辛くなることがある。
本当に、私たちは対照的だ。そう羨ましげに思っても、これが自分の選んだ道なのだから、後悔することなんてあっていいはずがない。だから少しでも今が幸せになるように、一つ一つを選択して進み続けていくしかないのだろう。
私はその一歩を踏み出すために、軽く息を吸って、吐いた。
「気が変わった」
『えっ?』
書かないという選択を選ぶことで過去と決別し、未来を見ているのだとずっと思っていた。自分の小説は他の誰かを傷つけてしまうことだってあると知って、怯えてしまっていたから。けれどそんな選択こそが、過去に囚われていることそのものだと、今まで気づかないふりをして目を背けていた。
そんな目をそらし続ける人生に終止符を打ち、本当の現実を視る時が来たのだ。
「書いてみるよ、小説。うまく書けるかは、わからないけれど」
お昼時。社内にある広めの休憩室でコーヒーを飲みながら本を読んでいると、小柄な女の子が私のもとに訪ねてきた。彼女は自分の体より、少し大きめのスーツに身を包んでおり、新入社員特有の初々しさがにじみ出ている。
「休憩時間中にすみません」
礼儀の正しい、四月から新卒で入社したての彼女は、丁寧に深々と頭を下げてくる。綺麗にまとめられたハーフアップの髪が、目の前ではらりと揺れた。
「あれ、おかしいな。うちの出版社は確か、大卒からじゃないと入社できないはずなんだけど。インターンの学生なんて、受け入れていたかな」
「今年の三月に、大学は卒業しています。からかわないでください」
ムッとした表情を浮かべながら、少しズレている小鼻の上に乗った赤い縁(ふち)メガネを正しい位置へと戻す彼女。それからレンズの奥にある大きな瞳を、これ見よがしに細めてみせてきた。
「モラハラで社長に訴えます」
「やめてくれ。このご時世、冗談じゃ済まなくなるかもしれない。ほら、チョコレートあげるから」
おやつに持ってきていたハイミルクのチョコレートを、スーツのポケットから取り出し後輩へと手渡す。それを素直に受け取ると、からかわれて若干不機嫌になった表情を少しだけ緩めた。封を切って、ひょいと口の中へと放り込む。
「私はお菓子なんかで買収されません」
「食べてるじゃないか。それは口止め料だからね。告げ口は厳禁だ」
念を押しはしたが、彼女が本当にハラスメントを申告するような人ではないと、もちろん理解している。入社したての時に彼女のOJTを担当したから、それなりに話をするし冗談を言い合えるような仲なのだ。
「というか奈雪さん、見た目のわりに子どもなんですね。このチョコレート、ミルクたっぷり入ってますよ。そのコーヒーだって、もうコーヒー牛乳みたいなものだし」
そう言って指差したカップの中の飲み物は、確かにブラックだったはずのコーヒーの原型を留めていなかった。
「苦いのは現実だけで十分なのさ。私はもうずいぶんと大人だから、君より酸いも甘いも経験しつくしたんだよ」
「そんなに劇的な人生を送ってきたんですか?」
「もちろんさ」
「またお得意の冗談ですね」
「実は恋人を亡くしているんだ。交通事故がきっかけでね」
そんな衝撃のカミングアウトをしてから、ミルクと砂糖がたっぷり入って色が明るくなったコーヒーを口に含む。数分前に入れてから、いつの間にか冷めきっていたようだ。舌先にツンとした苦みがほのかに残り、思わず顔をしかめる。
「あの、ごめんなさい。私、本当に知らなくて……嫌なこと思い出させてしまいましたよね」
失言をしてしまったことを後悔したのか、ばつの悪そうな表情を浮かべる後輩。
「いいんだよ、冗談だから。本気にするなんて、君は素直だね」
「やっぱり社長に言いつけます」
「ところで、わざわざこんなところまで訪ねてきてどうしたんだい?」
強引に話を変えると、むっとした表情を浮かべてため息を吐いた。どうやら私に会いに来た理由が、今の彼女にとってはとても大切なことだったようだ。席を外したりせず、あらためて姿勢を正して、こちらに向き直る。
「小説、また書いてくれませんか」
「君、私たちは出版社の編集部に勤めているんだよ。作家から原稿を受け取って、無事に出版させるのが仕事なんだ」
「それは分かっています。けれど今は、奈雪さんじゃなくて名瀬雪菜さんに話をしているんです」
私はこれ見よがしに、大きなため息を吐いた。
「だから、それは違うと言っているだろう」
「誤魔化さないでください」
どうやら彼女の中では、すでに桜庭奈雪と名瀬雪菜は同一人物であると確定してしまっているらしい。後輩はカバンの中から一冊の本を取り出すと、それを机の上に置いてみせた。そのとても懐かしい表紙に、思わず視線が吸い寄せられてしまう。数年前に出版された、名瀬雪菜のデビュー作である『私の愛した世界』という小説は、もはや私にとっては呪いのようなものだった。この小説があったから、嬉しいことと同じくらい辛いことや悲しいことがたくさんあった。消してしまいたくても、消すことのできない人生における最大の汚点とも言える。
辛い過去を思い出して、無理やり吸い寄せられる視線を明後日の方向へと投げた。もう振り返ることはしないと、蓋をするように。
「ほら、やっぱり先生じゃないですか」
それから順番に、二作目と三作目も机の上に置かれていった。もはや言い逃れなんてできないと諦め、大きなため息をもう一度吐く。ようやく認めたことに安堵したのか、後輩は追及するために鋭くとがらせていた視線を元に戻した。
「はぁ。そもそも君は、なぜ私が名瀬雪菜だと知っているんだ」
「なぜって、気づかない人の方が鈍感ですよ」
彼女は白い綺麗な人差し指で、一作目のタイトルの隣に書かれている『名瀬雪菜』というペンネームを叩く。「あぁ」という、ため息のようにか細いうめき声を出し、ネットリテラシーの低かった当時の自分を恥じた。
「先輩の旧姓、七瀬っていうのは最近知りました。七瀬奈雪と、名瀬雪菜。名瀬先生はこの県に住んでいるって、わかっていました。プロフィールに書いてあったので。それに名瀬先生がサイン会を開催していたことも知っています。これだけの情報で気づかない人は、正直馬鹿です」
そんな馬鹿が、数年前に存在したのだ。小説家を目指して人一倍努力をしていたのに、結局志半ばで叶うことのなかった男が。あれだけ近くにいた男に気づかれなかった事実が、今の私を油断させてしまっていた。
「そもそも、私はもう小説家を辞めているんだ。この数年間、一文字たりとも文章を書き起こしたことなんてないんだよ」
「なんで、書くことを辞めたんですか。応援してくれるファンの人が、いっぱいいたはずなのに。それとも、どうでもよかったんですか」
ずっと昔、心の奥底に刺さって取れなくなった小さなとげが、鈍く痛む。背を向けた人たちのことを思い出すと、いつも罪悪感に囚われる。自分を拠り所にしてくれている人たちがいることを知っていて、それでもなお書かないという選択を決めたあの日のこと。あの日からずっと、私は目を背け続ける人生を送っていた。
「飽きたんだよ、小説。読むことも、書くことも。十万文字なんて、疲れるだけだろう?」
そうしてまた、逃げるように視線を伏せる。ようやくすべて過去のものだと割り切って、前に進めるのかもしれないと思ったのに。消えない過去が、私の背中に張り付いていつまでも離れることはなかった。
「飽きたって……」
怒りとも、あきれとも取れる彼女のつぶやき。いっそのこと、後者であってほしかった。小説家としてデビューできたのは、ただのまぐれだったのだと笑ってくれてもよかった。そうすれば、いくらか心は軽くなったというのに。
けれどそんな思いに反し、彼女の瞳には怒りの色が見て取れた。どうして忘れさせてくれないのだと、心の中でひそかにうめく。そんなことを思っても、彼女が聞き入れてくれるはずもない。
「飽きたなら、どうして出版社なんかに勤めてるんですか。なんでこの仕事を、また選んだんですか」
その質問は答えることができなかった。並べられた三冊の本を視界に映さないように、真っ白な机をただじっと見つめる。そうしていると、今日は諦めたのか小説をカバンの中へと収めた。
「すみません、生意気なこと言って。出直します」
彼女は一度も気圧されることなく、自分の気持ちをただまっすぐに伝えると、休憩室を出て行った。辺りに静寂が立ち込めると、深く背もたれに体を預けて頭上を見上げる。
私の選択は、逃げたと捉えられても仕方のないことだが、適当な気持ちで書かないという道を選んだわけではない。心が壊れてしまいそうなほどに悩んで、実際に精神がすり減りもして、そしてようやく決断したことなのだ。大学を卒業したばかりの女性にとやかく言われただけで、簡単にその意思を曲げられるようなことではない。
けれど、わかっていたはずだった。いつか現実に向き合わなければいけない時が来ることを。先ほどのように、過去に書いた自分の作品を読んでくれた人が、目の前に現れるんじゃないかという予想はできていた。そんな時にかけられる言葉を、精神的に未熟で年齢だけを重ねてしまった私は、ただの一つも用意できていなかった。
「……傷つけてしまったんだ」
誰かが幸せをつかむ裏で、必ず他の誰かが不幸になる。私が小説を書くことを辞めたことで、幸せになった人がいた。それが原因で訪れる不幸は、すべて自分が背負えばいいというのに。身に余るほどの不幸せが、手のひらからあふれだして伝播していく。
あの日からずっと、その申し訳なさから目を背けながら生きていくのが、人生のすべてだった――。
彼女と話をするのは、一年前の春におこなった花見の時以来のことだった。当時、とある理由から夫と一時的に別居をする選択をした私は、少し離れた地域に引っ越すことになっていた。そんな報告を、大学時代から親しくしている小鳥遊茉莉華という女性に話した時に、最後にみんなで花見をしようという話が持ち上がったのだ。
小鳥遊茉莉華。旧姓、嬉野茉莉華。
私には公介という息子がいて、同じく茉莉華さんにも、小鳥遊公生という男との間に華怜という娘がいる。仲の良かった二人の子どもが寂しがらないようにと企画されたのが、もともとの趣旨だった。そのお花見の日、いつか大人になった時にまた変わらずにここに集まれるようにと、桜の木の下にタイムカプセルを埋めたのだ。カプセルの中には、将来の自分に宛てて書いた手紙を入れた。
その手紙の内容はというと、実はあまり覚えていない。いつか手紙を開いた時に新鮮な気持ちで見られるようにと、なるべく考えないようにこれまで頭の隅に置いてきたからだ。だから今では、恥ずかしいことを書いていなければいいなと祈っている。
息子が布団に入って眠った頃に、茉莉華さんから久しぶりの電話がかかってきた。電話に出ると『夜分遅くにごめんなさい』と、かしこまった挨拶が聞こえてくる。
「いいよ。息子は今寝たところだから。華怜ちゃんも、今眠ったんだろう?」
『はい。いつも通り全然眠ってくれなくて、今日も手を焼きました』
「茉莉華さんは、一緒に寝なくてもいいのかい?」
『今日は夫に任せたので、しばらくは大丈夫です』
久しぶりに奈雪さんとお話がしたかったので。そう言われたから、眠っている公介を起こしたりしないように一旦外へ出た。しばらく前までは冬の寒さで凍える日々を過ごしていたのに、いつの間にかTシャツ一枚で過ごせる夜が来たことに季節の変化を感じた。
今年もまた、春がやってきたのだ。
彼女と話しをする時は、決まってお互いの家庭の話をした後に小説の話題になる。茉莉華さんは日々の空き時間の大半を小説を読むことに費やしているため、出版社に勤めている私とはそれなりに話が合うのだ。とはいえ、仕事で発売前の小説を読むことはあっても、プライベートの時間を使って読むことは、ほぼなくなってしまったのだが。
『そういえば、今話題の小早川先生。新刊楽しみにしていたんですけど、延期になったみたいですね』
「あぁ、あの先生か。あの先生は、メンタルが少しね」
つい余計なことを話してしまったことを、言葉を発した後に気がついた。基本的にどんな仕事でも、業務で知りえた情報を第三者に話してしまうのはよくないことだ。しかし彼女は誰かに言いふらすような性格はしていないため、多少のことなら構わないかと思いなおす。それでも、気をつけることに変わりはないのだけれど。
「もしかして、小早川先生の作品を担当したことがあるんですか?」
先ほどよりも興奮気味に話しているのが、電話越しにも伝わってきた。
「私は担当したことはないよ。弊社の別の社員が受け持っていたことがあるっていうだけだ」
売れっ子作家の特徴は、編集者界隈で情報共有されやすい。だから、風のうわさ程度にその作家のことは知っていた。
『へぇ、そうなんですか。メンタル、弱いんですね。たくさん売れてるから、気にしなくてもいいのに』
「たくさん売れていると、それだけ多くの人の目に付くからね。好意的な意見だけじゃなくて、批判的な意見も増えていくのは仕方のないことなんだよ。批判されることに慣れていない人は、ネットの意見を真に受けすぎちゃって、結果的に病んでしまうんだ」
そういう人の方が、世の中にはたくさんいるのではないかと思う。人の意見など気にしなくてもいいと話す人もいるけれど、けなされているのを見つけてしまうと、気にせずにはいられなくなる。とりわけその先生は、ナイーブな側面が強かったのだろう。
小説家って、大変なんですね。そんな彼女の言葉に、私は深く頷いた。自分の好きなことをしてお金をもらうという難しさは、結局は当事者にしかわからないものだから。
以前、少しの間だけその道を歩いていた私には、その売れっ子作家の悩みは共感できないものではなかった。自分にも、そういう悩みを抱えていた時期があったから。そんなことを考えていると、まるで見透かしたかのようなタイミングで彼女が訊ねてくる。
『奈雪さんも、そういうことを悩まれている時期があったんですか?』
直接聞かれることを想定していなかったから、一瞬たじろいで本当のことを話した。
「あぁ。作家なら、誰でも通る道だと私は思うよ」
それから少し迷っているようなわずかな間の後、恐る恐るといったようにまた彼女は訊ねる。
『もしかして、小説を書くのを辞めちゃったのは、そういう事情が関係しているんですか?』
昼間に話していた後輩の時と同じように、言葉を喉の奥に詰まらせる。まさか一日に二度も、過去をほじくり返されることになるとは、さすがに想定していなかった。そんな不自然な間が空いたことで、私が怒ったのではないかと察したのか、茉莉華は慌てたように自分の言葉を訂正する。
『あの、ごめんなさい。今の、ナシでお願いします。聞かなかったことにしてください』
「いや」
思わず、ため息を吐く。そろそろ目を背けずに、過去と向き合えと言われているような気がして、小さな笑みがこぼれた。
「今日編集部の後輩に、新作を書いてくれとせがまれたところなんだ」
『奈雪さんが小説を書いていたこと、話したんですか?』
「いや、話してないよ」
『それじゃあ、誰かが話したんですかね』
「知っている人は、誰も話してはいないと思う。彼女は自分で真実に気づいて、私のところへやってきたんだ」
きっと、多くの偶然が重なった結果なのだろう。当時自分の小説を読んでくれていた少女が、大人になってから偶然同じ職場に勤めることになって、偶然にも真実にたどり着いてしまった。そんな奇跡のような偶然が起こることを、誰も想像なんてしていなかった。
奈雪さんは、その人になんて言われたんですか。そう訊ねられ、今度は言葉に臆することなく正直に話した。
「また、小説を書いてほしいって」
『あら』
その思わず漏れたといったような一言には、若干の期待が含まれているようにも思えた。
『奈雪さんは、なんて答えたんですか?』
「もう小説を書くのは飽きたって、言ってやったよ」
『あら……』
わかりやすく、しぼんでしまう声。いい機会だと思って、ずっと気になっていたことを質問することにした。
「茉莉華さんは、今でも私に小説を書いてほしいと思っているのかい?」
『それは、本音を言わせてもらうとそうですけど』
「別に私が書かずとも、世の中には私なんかよりすごい作家がごまんといるじゃないか。それこそ、私と似た作風の先生だっていくらでもいる。私じゃなきゃダメな理由なんて、君にはあるのか?」
本音をぶつけると、茉莉華さんは『うーん』と困ったように唸った。作家というのは、大御所じゃなければ、替えなどいくらでもいると思っている。作家を志望している人間だって、きっと星の数ほど存在するし、新たな金の卵が発掘されれば淘汰されていく人がいるのは必然のことだ。
書けなくなれば、埋もれていく。たとえばその人に好きな作家がいたとして、その作家が書けなくなったとしたら、自分の欲望を満たすために別の作家へと興味を移す。そのようにして、世の中のたいていのことも循環していくのかもしれない。
『たしかに、私の読みたい本が名瀬雪菜の本である必要はないのかもしれません。特に私みたいな人間は、たぶん人より多くの本を読んでますから』
「そうだろう? 私にこだわる理由なんて、ないじゃないか」
『はい。よく考えたら、名瀬雪菜にこだわる必要なんてこれっぽっちもないのかもしれません』
そんな風にハッキリ言われてしまうと、それはそれで傷付くような気がしたが、包み隠さずに正直に言ってくれた方が幾分か心が楽だった。けれど彼女は、それからまた言葉を続けた。
『でも、それはそれとして、奈雪さんの小説はまた読みたいです』
「君、私の話を聞いていたのか?」
『はい、聞いていました』
それじゃあ、なんで。そう訊ねると、彼女は電話の向こうで微かに微笑んだような気がした。
『大切な人が書いたものだから、また読みたいんです。売れているとか売れていないとか、代わりがいるとかいないとか、そんなくだらない理由は必要ありません。奈雪さんの本だから、読みたいんです』
思わず私は言葉を詰まらせた。彼女の言葉が嬉しかった、そんなありきたりな感情などではなく、単純に困惑してしまったからだ。どうして今も尚、必要とされているのかわからない。たとえば自分が本当に求められているのだとしても、自信を持って受け止めることができない。なぜなら第一作を書いたのは、まだ穢れを知らない高校生の時で、大人が見れば一笑にふすような内容のものだったから。
そんな小説を覚えている人なんて、電話の向こうにいる彼女だけだ。そう考えた時、今日の昼休憩の時間に単身で乗り込んできた後輩がいたことを思い出した。きっとみんな、過去に囚われすぎている。
今さら書けと言われても、満足に書けるのかもわからないのに。
『私の愛した世界』
ぽつりと茉莉華がつぶやいたそれは、私が昔書いた小説のタイトルだった。
『あの小説があったから、今の私がいるんです。当時の私は恋愛というものがまだよくわからなくて、物語の中でしかそれを想像することができなかった。馬鹿みたいだって思われるかもしれないけど、運命っていうのは本当にあると疑っていなかったんです。そんな考えを、間違ってなんかいないって教えてくれたのが、奈雪さんの本だったんです』
確かに一作目は、大人が読めば思わず歯が浮いてしまうような、そんな恥ずかしい話を書いていた。運命という軸をテーマに、大人になり切れていない女の子が幸せを見つける、そんな背中がかゆくなるようなお話。
また一つ、小さくため息を吐く。
「それは、君が運命的な出会いをしたから、そう思うだけだよ。たとえばもっと違う出会いをしていたとしたら、運命なんてものはないと結論付けて、私の小説なんて忘れていたに違いないさ」
『それは結果論です』
そう彼女は、きっぱりと言い切る。意地悪な言い方をしてしまったと、自分の言葉を反省した。なぜならば、彼女のように心根のまっすぐな人間は、たとえ自分の意にそぐわない出来事があったとしても、それでも前を向いてしっかりと歩いていく人なのだと知っているから。
小鳥遊茉莉華は、桜庭奈雪にとって真反対の存在だと言っても過言ではなかった。
今度は自嘲するように、私は笑う。
「そんなまっすぐな君だからこそ、彼は今とても幸せなんだろうね」
自分の夫のことを言っているのだと分かったのか、微かに顔が赤くなって動揺しているのが電話越しでも伝わってきた。絵に描いたような円満な夫婦で、不満なんて一つもないような彼女たちを見ていると、時折辛くなることがある。
本当に、私たちは対照的だ。そう羨ましげに思っても、これが自分の選んだ道なのだから、後悔することなんてあっていいはずがない。だから少しでも今が幸せになるように、一つ一つを選択して進み続けていくしかないのだろう。
私はその一歩を踏み出すために、軽く息を吸って、吐いた。
「気が変わった」
『えっ?』
書かないという選択を選ぶことで過去と決別し、未来を見ているのだとずっと思っていた。自分の小説は他の誰かを傷つけてしまうことだってあると知って、怯えてしまっていたから。けれどそんな選択こそが、過去に囚われていることそのものだと、今まで気づかないふりをして目を背けていた。
そんな目をそらし続ける人生に終止符を打ち、本当の現実を視る時が来たのだ。
「書いてみるよ、小説。うまく書けるかは、わからないけれど」