従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

「……ええ。……フレン」
 グレイスは諦めた。言いたかったことは言えるはずもない。今はやめよう。
 代わりに違うことを言う。
「本当に悪かったわ。それで、……ありがとう」
 グレイスの心からの言葉。フレンは表情を崩す。「ええ」と言ってくれた。
「でももうやめてくださいませよ。私がどんなに心臓を冷やしたことか」
「わかっているわ」
 それで本当におしまいになった。フレンは「お夕食のお時間に呼びに参ります」と、一礼して出ていってしまったのだから。フレンを見送って、グレイスは息をついた。
 はぁー、と長いため息のようになった。今更、何故か顔が熱くなってきた。
 包まれた手。まだあたたかい、いや、それを通り越して熱いようにも感じる。
 そしてフレンの『楽しみにしていた』という気持ちとその表現。
 それがまたグレイスの頬を熱くしてしまう。
 フレンは従者としての気持ちで言ってくれたに決まっている。
 でもなんだかグレイスに誤解をさせるようなものだった、と思ってしまうのは仕方がない。
 それに、これも今更なのであるが。
 今度は手と顔だけでなく、体全体が熱くなってしまうようなこと。
 助けられたとき。腕に抱きとめられたとき。

『良かった……良かった、です……ご無事で』

 涙声にも近く、言われたこと。
 そのときに、強く抱きしめられたこと。
 これこそ本当に、今更だというのに身に染みてきた。
 今度は顔が熱い気がする、では済まなかった。かーっと頬が燃えてしまう。きっと真っ赤になっているだろう。
 思い出したのがフレンの去ってからで本当に良かった、とグレイスは思う。
 フレンは従者、であるけれど。自分の気持ちはただの従者に対するものではない。
 今まではほんのりしていたその気持ち。今日の一連の出来事で、一気に形になってしまった気がする。
 気晴らしどころではなかった。今度は違う意味の悩みが生まれてしまう。
 後悔していいのか喜んでいいのか。グレイスにはまだわからなかった。
「謹慎中とは恐れ入ったわ」
 グレイスの目の前で紅茶のカップを手にしているのはマリー。今日もシックな水色のワンピース姿だ。紅茶を口にしつつ、心底呆れた、という顔をする。
「ええ……まぁ、ちょっと、やりすぎたの」
 居心地が悪い。こんな状況では当たり前だが。グレイスは紅茶に手をつけることなく、もそもそと返事をする。
 今日は従姉妹のマリーが屋敷へ来訪してくれていた。
 本当ならグレイスから出向きたかったのだが、なにしろ謹慎中。手紙でそのことを伝えた時点で既に呆れられた。返信の手紙の中で、だ。
 それでも「では私がお邪魔するわね」とわざわざ来てくれた次第だ。マリーにも申し訳がない。決して近所ではないのに。
「で? なにをしたのかしら」
 けれどマリーはどこかグレイスに近い性質がある。次はその質問が来たが、それはなんだか楽しそうな響きを帯びていた。
 グレイスは苦笑してしまう。そこでやっと紅茶のカップを持ち上げて、ひとくち飲んだ。
 サンルームでのお茶の時間。フレンがマリーを玄関まで迎えに行き、お茶の支度もしてくれたのだが、気の付くことに「では、あとはお二人でごゆっくり」と席を外してくれたのだ。
 フレンはフレンで別の仕事……マリーを送ってきたお付きのひとたちにお茶を出したりするものがあるのかもしれないが。
「ちょっと……街へ」
 マリーは目を丸くする。たとえ性格が少し似ていようとも、マリーはそんなこと、したこともないのだ。少なくとも聞いている限りでは。
「一人でかしら」
「ええ」
「フレンも連れずに?」
「ええ」
 耳に痛かった。けれど肯定するしかない。そしてそれ以上に取り繕う言葉もないのだった。
 しかしマリーは目を丸くしていくつか質問をしてきたものの、グレイスを責めることは言わなかった。
「相変わらず、大胆なことをするものね」
 それだけだった。グレイスの奔放な性格や、いままでも起こしてきた『お転婆』については、いくらか知られているのだ。今回もそのひとつだと思ってくれたようだ。
 まさか、街へ出るのは首尾よくいったものの、そこで悪いひとに捕まって、危険な目に遭いかけたということは言えない。グレイスは黙っておくことにする。
「でも、気持ちはわかるわ。グレイス、一度に色々なことが起こったものね」
 ふと、マリーの目が優しくなる。グレイスの目を覗き込んできた。グレイスの喉が、くっと鳴った。優しいのだ、マリーは。こうして気遣うようなことを言ってくれる。
「……言い訳にはならないかもしれないけれど」
 じゅうぶん反省したので、グレイスはそう前置きした。
「婚約とか、その発表とか、あとは婚約の儀、とか」
 ひとつずつ挙げていく。全部、グレイスの心を沈めていったことだ。楽しいことであったはずがない。そんなことが立て続けに起きれば。グレイスの気持ちを、マリーは肯定してくれた。
「それは息が詰まるわね」
 そう言われて、もう一度喉が鳴りそうな気持ちになって、でも自分が悪かったと言おうとしたのだけど、その前にマリーが言った。
「私も同じような気持ちになったことがあるわ」
 それは初めて聞くことだったのでグレイスは驚いた。顔をあげてマリーの目を見る。
 グレイスに見つめられて、マリーはちょっと困ったように笑った。
「私も結婚に至るまでには色々あったもの。楽しいばかりじゃなかったわ」
 そう、マリーは既に嫁いでいるのだ。同じ貴族の息子へと。それも比較的最近のこと。マリーが十六になってしばらくしてからのことなので、約二年である。
 たった、二年前。マリーも『色々あった』のだ。
 グレイスは黙ってしまう。訊いていいものかと思ってしまって。けれどグレイスの言葉を待つことなく、マリーから言ってくれた。
「私はロン様と小さい頃から婚約を交わしていたから、まだショックが少なかったかもしれないけどね。それでもよ」
 マリーは今では夫になった『ロン』の名を挙げた。今では仲の良い夫婦だと聞く。
 けれど幼い頃から婚約を交わし、結婚が前提にあったとしても一応、親が決めた結婚なのだ。
「ロン様のことを好くようになれたのは、単に運が良かっただけ、かもしれないの」
 確かに政略結婚ではあったのだけど、幼い頃から心構えをしていたのが良かったのか。
 マリーは彼のことを、どの程度かはわからないが確かに愛しているのだといつも感じていた。
「だから、こんなに急に、怒涛のように決まってしまったグレイスは、私と比べ物にならないくらい戸惑ってしまってもおかしくないわ」
 優しい言葉をかけられて、今度、違う意味でグレイスの息が詰まった。熱いものが喉の、目の奥に込み上げそうになる。
 そう、ショックだったのだ。
 いきなり婚約者ができるという事態になったのもそうであるし、その話がどんどん進んでしまったのも。
 それに、結婚の話が持ち上がったことで、抱えていたほのかな恋心は行き場を失ってしまって、グレイスの中で嫌な具合に留まるしかなかったのだ。その気持ちをどうしたらいいのかだって、まだわからない。
「そう、ね。ショック……だったのかも」
 ためらいつつも、グレイスは受け入れた。マリーが言ってくれた言葉を。自分で口に出してしまえば、なんだか自分の気持ちを再確認するようになった。
「そうよ。いきなり『結婚相手です』『好きになれ』なんて言われて戸惑わないひとなんていないわ」
 マリーの次の言葉にはどきっとしてしまったけれど。
 『好きになれ』
 その通りだ。婚約ということは、相手を、ダージルをいくらかは好くようになれ、ということなのだ。今更思い知らされてしまう。
 だって、好きになれるかなんてわからない。別に愛がなくとも結婚はできる。
 けれどそんなことは自分が苦しい。なんの感情もない相手と夫婦ごっこをするなんて。
 だから、いくらかでいいので好意を持つことは理想的なのだった。それを考えてしまうと。
 やはり思い浮かぶのは、今『好き』という感情を持っているひとのことなのであった。叶いやしないとわかっていても、すぐに捨てられやしないから。
「グレイスは今、好意を持っている方はいないのよね?」
 マリーは気軽に言ったに決まっている。そんな口調だった。
 けれどグレイスはぎくっとしてしまう。
 マリーには具体的に話していない。だって、グレイスの中でしっかりした形をとったのはまだ最近のことなのだ。
 そしていくら仲が良くて信頼しているとはいえ、マリーは身内。なにかの拍子でどちらかの家に露見しない保証などない。だから、言えやしない。
 誰にも言えないからこそ、もっと煮詰まってしまっているのかもしれないが。
 一瞬だけ、言おうかためらった。この煮詰まった気持ちが少しでも楽になるかと思って。
 でもやはり呑み込んでしまう。無理に笑みを浮かべた。
「ええ、特には」
 返事は肯定でありながらはっきりしたものにはならなかったけれど。マリーはそれで頷いてくれた。
「それならまだ良かったのかもしれないけれど……引き裂かれるなんてことになっては、悲しいどころではないわ」
 グレイスの胸に、ちくりと突き刺さった。悲しいどころではない。本当に、その通りである。
 しかし幸い、マリーはこの話題を長々続けるのも酷だと思ってくれたらしい。
 なにしろ今のところ楽しい話ではないのだから。話は急に違うところへ行った。
「そうそう、来月に予定していた旅行だけど、そのときには謹慎は終わっているのでしょう」
 グレイスはほっとした。楽しそうな話題に切り替わったことで。
「ええ。終わっているわ」
「良かった! じゃあ一緒に行けるわね」
 夏のはじめには、親戚と共に一週間ほど避暑地に旅行に行くのが毎年のことであった。一番近しくて仲のいいマリーと一週間も一緒に過ごせるのだから、きょうだいのいないグレイスには毎年とても楽しみにしていたことである。
「楽しみね! なにかいいところは増えているかしら。去年、湖で乗ったボートは随分楽しかったわね」
「ええ! まるで海を泳いでいるようだったわ」
 海は見たことがない。この領にはないのだ。けれど勿論、存在は知っている。たっぷり水をたたえていて、広々していて、そしてそこを船でゆけば、別の国に辿り着くのだと。
 世界はグレイスの知っているところより、随分広いものなのだ。それを見ることは叶わずとも、その体験のようなことでもできたのは楽しくてならなかった。
 避暑地の遊びについて話しているうちに、こんこん、とサンルームの扉が鳴った。
 グレイスは「はぁい」と明るい返事をする。入ってきたのは予想通り、フレンだ。
「お嬢様、マリー様。そろそろランチのお時間ですよ」
 昼食に呼びに来てくれたのだ。
「まぁ、もうそんな時間」
「時間も忘れていたわね」
 グレイスは驚いた。マリーも同じだったらしい。話に夢中になりすぎていた。
 顔を見合わせて、くすっと笑ってしまう。
「今日はシェフが特に力を入れてくれたそうですよ。マリー様がいらっしゃるのですからと」
「そうなの! ここのシェフは腕がいいわね。いつもおいしいものを出してくれるもの」
「おや。それは嬉しいですね。厨房に伝えておきましょう」
 マリーとフレンがそんな話をする。グレイスはまだ席に着いたまま、それを見守っていた。顔には笑みが浮かんでいる。
 マリーと話したことで、少し気持ちが楽になった。思考の整理もできたと思う。そしてそれだけではなく、来月の旅行という楽しい話題。それによって、もっと気持ちは浮上した。マリーには感謝しなければだ。
「私もお腹が空いたわ。参りましょうよ」
 マリーに言って、グレイスは席を立った。マリーもいそいそと立ち上がる。
 今日、マリーはランチを食べて、夕方前に帰る予定になっていた。まだ三時間ほどは時間がある。ランチを食べても遊ぶ時間はたっぷり。
 次は自室でなにかしようかしら。マリーに少し大人っぽく見えるコーディネートを教えてもらうのもいいかもしれないわ。
 このあとのことももっと楽しみになってきて、グレイスはマリーやフレンと連れ立って、まずはおいしいランチをいただくために、サンルームを明るい気持ちであとにしたのだった。
 謹慎中とはいえ、それはただ家の中だけのこと。外でのこなすべきことはそのまま進んでいった。なにしろ一番重要なことがあったのだから。
 それはダージルの元を来訪するという予定である。
 婚約の儀はオーランジュ家とその傍の教会で行われたので一度お邪魔したことはあったのだけど、個人的に、といっていいような来訪はまだであったのだ。
 よってグレイスはある天気のいい日に馬車に乗り、オーランジュ領まで向かった。勿論グレイス付きのフレンも一緒にである。
 馬車に共に乗り、おしゃべりをしつつ向かったのだが、その道中は意外と穏やかであった。先日マリーと楽しく過ごしたことでグレイスの気分は上向いていたらしい。
 特に恋もしていない婚約者に会うというのはあまり嬉しくはないのだが、これとて務めのひとつ、くらいに感じられるようになっていた。
「いらっしゃい、グレイス。歓迎するよ」
 そして迎えてくれたダージルは常の通り、にこにこ微笑んでいた。
 どうやらダージルのほうからはグレイスを気に入ってくれたようなのだ。呼び方もより近しいものになっていた。それは喜ばしいやらちょっと複雑やらなのだけど。
 ダージルから気に入られなければ、向こうからお断りとなった可能性はあるのだ。それは家のこととしては困るものの、グレイスの心情的には助かるものなのだから。
「お招き感謝いたします、ダージル様」
 グレイスは招き入れられた客間のソファから立ち上がり、スカートを持ってお辞儀をした。
 お出掛け用の服の中では一番いいものを着てきた。今日のために仕立ててもらったものだ。レースがふんだんに使われている、濃い青色のドレス。そろそろ暑い時期なので涼し気でぴったりだ。
 隣にはフレンが控えていて、彼も軽く礼をしたようだった。
「遠くから疲れただろう」
 しばらくお茶をしつつくつろぐことになり、ダージルはグレイスの対面の椅子に座り、話しはじめた。話す内容は他愛もないことであったけれど、グレイスはそれをすべて覚えられるように注意して聞いていた。
 覚えておいて、次に会って話すときに生かせるようにしなくては。まさか聞いていなかったと思われるわけにはいかないからである。
 出されたお茶は薫り高くておいしかった。家で飲むものも高級品なのだが、これもきっとそうなのだろう。
 ダージルは成人してしばらくするので、今は領主である父から仕事や社交を習っているところなのだとか、だからこそアフレイド家に入り婿をしたとしても、それほど仕事に苦労はしないだろうとか話していた。自信の溢れた内容で言い方であったけれど、グレイスは思った。
 この方はプライドが高いのかしら。それとも自信を疑わないタイプなのかしら。
 高圧的ではないけれど、少々酔ったような物言いだわ、と感じたのである。
 貴族の息子としてはなにもおかしなことではないのだろうけれど、グレイスにとって身近で特別な男性、フレンのことを考えてしまっては、あまり好印象ではなかった。
 何故ならフレンはいつでも丁寧で、腰が低く、優しい物言いをするからである。そういう相手を好きになったのだから、そうでない、ある意味真逆ともいえるダージルのことは違和感を覚えても仕方がなかったかもしれない。
「ああ、あまり部屋にこもっているのもつまらないだろうね。なにしろ良い天気だ。庭でも散策するのはどうかい」
 提案されて、グレイスはほっとした。ちょっと空気に疲れていたところだったのだ。
「そうですね。お邪魔してみたいです」
 グレイスが良い返事をしたからかダージルはにこりと微笑み、立ち上がった。グレイスの近くまで来て手を差し出してくれる。
「さぁ、お手をどうぞ」
 グレイスは一瞬、戸惑った。白手袋をしたダージルの手。取るのがためらわれたのだ。男性に手を伸べられるなど慣れているのに。
 それは勿論フレンに、だ。でもこれからはフレンではなく、ダージルが手を伸べてくれることのほうが多くなるのかもしれない。それを実感してしまって、ずしりと心が重くなった。
 おまけにフレンは今、ソファの傍らに控えてくれていたのだ。これを見てどう思っただろう。
 けれど取らないわけにはいかない。グレイスは意識して笑みを浮かべて「ありがとうございます」とそっと手を乗せた。
 さらりとした手袋の感触が伝わってくる。普段触れる手はとても心地良く、グレイスの胸を高鳴らせるものなのに、今のものはかえって心を落ち込ませてしまうようなものだったけれど。
「最近は薔薇が見頃なのだよ。赤や白などたくさん植えさせている」
「そうなのですね。とても美しいです」
 連れ立って庭を歩く。確かに庭はとても美しかった。グレイスの家の庭とは比べ物にならないほど広く、また豪華であった。まるで王族の住まう王宮の庭のようである。
 ツタの絡んだアーチをくぐれば、薔薇が咲き誇る中を歩けるようになっている道ができていた。そこをゆっくり歩いて話を続けていった。今は手は取られなかった。腕も組まなかった。
 それは安心であったが、なにしろ二人きりである。
 フレンや、もしくはダージルのお付きもおいてきてしまったのだ。
 婚約している男女なのだ、ここで二人きりにならずしてどうするのだ、ということ。
 しかしグレイスは緊張してしまっていた。当たり前だ、身内や使用人以外の男性と二人でこんな場所を歩くなどしたことがない。初めての経験なのだ。
 ただ散歩をしているだけなのに、ちっとも落ちつけないし、美しいですねと言った言葉すら、事実ではあるものの定型文のようになってしまっていた。
 グレイスの緊張はどうも伝わってしまったらしい。ダージルはグレイスのほうを見て、「あまり気を張らなくても良いよ」と言ってくれた。気を使わせてしまった。グレイスの胸が痛む。
 それはダージルを気づかって、というよりも、嫌な印象を与えてしまっただろうか、という不安だったのだけど。
 ダージルの話に耳を傾けつつも、なるべく薔薇の美しさに集中するようにする。
 薔薇は好きだった。特にピンクの薔薇が好きなのだ。元々ピンク色を好んで服もそういう色合いのものが多くなっているし、なんとなく優しい雰囲気を持っていると感じるのだった。
 と、そこへ高い声が響いた。
「きゃん、きゃんっ」
 それはひとの声ではなかった。動物だ。
 なにか動物がいるらしい。こんな、手入れされた庭で野生動物ではないだろう。
 もしかしてなにか飼われているのかしら。グレイスは思い、ちょっと警戒してしまった。
 動物自体は苦手ではない。けれど苦手な動物がいるのだ。それであったら嫌だな、と思ったのだけど。ことはグレイスにとって困ったほうへ転がってしまった。
「おお! リモーネ! お散歩中かい!」
 ダージルはいきなり高い声を上げた。ばっと両手を広げる。