「やめ……」
それでもなんとか言ったのだが。今度はシャツのあわせに手がかけられた。
まさか。グレイスの心臓がひゅっと冷えたと同時。
今度はボタンが飛ぶどころではない。ビリィッと布が勢いよく避ける音が耳を刺した。
グレイスは呆然とするしかなかった。もう、ショックやら嫌悪感やらを通り越してしまって、頭が思考を拒んでいるようだったのだ。
「こりゃいい」
グレイスの胸元を開き、繊細なレースに飾られた下着を晒しておいて、男はぺろりとくちびるを舐める。舌なめずり、という様子がぴったりだった。
グレイスはそれを見ても、もうなにも頭に浮かばなかった。ただ、舐め回すような視線に晒されているしかない。
「おい、お前ばっか楽しもうとすんなよ」
「そうだそうだ」
うしろからも声が聞こえてきて、じりじりとほかの男たちも迫ってくる。
もうわかっていた。この男たちは、なにかいやらしいことをするつもりなのだ。
それがなんなのか、グレイスに具体的にはわかっていなかったのだが、なにか、とても良くないことで、傷つけられるようなことなのはわかる。
ヒッ、と息が詰まった。恐ろしさという感情が戻ってきて、グレイスの体を凍り付かせた。
「さて、まずは……」
もう一度。グレイスの美しい胸元に手がかかったときだった。
シュッ、となにか鋭い音がグレイスの耳を刺した。それがなんなのか理解する前に、目の前の男がびくんと体を跳ねさせた。
「ぐぁっ!?」
恐ろしい呻き声をあげた男に、違う意味でグレイスは恐怖した。
しかしそれはまだ早かったのだ。だって、目の前の男の肩にはナイフが深々と突き刺さっていたのだから。とろとろと血が流れだしてきている。
その赤はとても不吉な色で。グレイスの体を凍り付かせる。
「なんだ!?」
「一体、なに……グァァッ!?」
うしろに居た二人の男が振り返ろうとした途端。一人の男が鈍い声をあげて、勢いよく前のめりになった。それだけではなく、どさっと地面に倒れ込んでしまう。
それを間近で見て、ひっと隣の男が息を詰めたと同時。
タッ、と小気味いい音がした。上等の靴が地面を叩いた音。
男の一人の頭を蹴り倒して、地面に降り立ったその上等な靴の人物。
グレイスは、のろのろと視線をあげた。そして違う意味で心臓がどくんと跳ねた。
ふぅ、と息をついていたのは、普段と同じ燕尾の黒服を身に着けた……フレンではないか。
しかしグレイスが声を出せることはなかった。体が凍り付いていた以外にも、フレンがまるで残像が見えるほど素早く脚を振ったのだから。
勢いをつけて繰り出された長い脚。今度は、一連の出来事に固まっていた男たちの最後の一人の脇腹に叩き込まれる。
「ぐぅっ!」
鈍い声だけを残して、やはりどさっとその男も地面に沈んでしまう。
その男を、体勢を戻したフレンが見降ろす。恐ろしく冷たい目をしていた。
彼がこれほど冷え切った目をすること。グレイスは知らなかった。見たこともなかったのだ。
これは、ほんとうに、フレンなの。
心の中だけでしか言えなかったけれど、呆然と呟いた。
しかしこれで終わりではなかった。グレイスに迫っていた男。どろどろ肩から血を流しているところをなんとか押さえている男に。
フレンはなにかを突きつけた。ぎらっと光ったそれ。自分に向けられたわけでもないのに、グレイスはそれが心臓に突き刺されるのかと感じてしまった。
「お嬢様に」
男の頬のすぐ横にナイフを突きつけておいて、フレンはゆっくりと口を開いた。
「手を出すな」
出てきた言葉。先程の視線と同じように、低く氷のように冷たい声をしていた。
フレンは男にナイフを突き刺すことはなかった。
が、先程飛んできたナイフはフレンが投げたものであること、そして男の反応によっては、今、手にしているナイフを振るうことも辞さない姿勢であること。よく思い知ったのだろう。
男は、ひっ……とだけ声を洩らして、情けなくどさりと座り込んだ。
フレンはしばらくそれを見降ろしていたけれど、男が降参の態度になったことで一連のことを終えたらしい。ポケットからなにかを取り出した。口に咥え、どうするかと思えば。
ピーッ!
鋭い音があたりをつんざいた。耳に刺さるかと思うほど鋭く、大きな音。
あれはどうやら笛だったらしい。思ったことで、グレイスは、はっとした。
やっとなにかが頭に浮かんだ、と思う。
それはグレイスの凍り付いた心が、笛の音の刺激で一気に溶けたことを示していた。
遅すぎることだが、ぶるっと体が震えた。それは悪寒のようにグレイスの体を冒していき、体から力を奪った。脚ががくがく震えて倒れ込みそうになってしまったグレイス。
しかし倒れ込むことはなかった。グレイスの体は力強い腕に支えられていたのだから。
グレイスの体を抱いてくれたのは、フレン。いつのまにか目の前にやってきていたのだ。
そのままグレイスの体はゆっくりと地面に下ろされる。地面に叩きつけられなかったことにほっとし、そこでやっとグレイスはこの状況を把握した。
グレイスの上半身をしっかり支えてくれている、フレン。先程の冷たい目が嘘だったように、普段通りの目をしていた。心配がたっぷり滲んでいたけれど。
「お嬢様」
フレンの口が動く。グレイスはまだぼんやりとそれを見るしかなかったのだけど、とりあえず、理解した。
これはフレンだ。まぎれもない、自分の傍にいてくれる、と誓ってくれたフレンだ。
なにか言おうと思った。くちびるを動かしかけたそのとき。
ピーッ!
さっきと同じような笛の音があたりに響いた。グレイスはびくりとしてしまう。
ばっとそちらを見た。そちらからは、ばたばたと複数の人間の走る音がする。そのひとたちは、どうやらこちらへやってきているようで。すぐに姿が見えた。
そして勢いよくなにかを突き倒した。またドサッと鈍い音がする。
それは、じりじり後ずさって逃げようとしていた、肩にナイフを刺された男だったようだ。
二人の男により抑え込まれて、男は「く、くそ……!」と声を上げた。けれど手負いの身、しかもこれほど多くの人数に囲まれて逃げ出せるはずもない。観念するつもりのようだ。
「アフレイド家のお嬢様への暴行容疑で、貴様を捕縛する」
黒い服の男が告げる。動きやすそうな服ではあるが、上着はかっちりしていてなんらかの身分があるように見えた。
グレイスはぼんやりとした中で、なにかきらりと黒い服の男の胸元で光るものを見た。きらりと光ったのはアフレイド領、自警組織のバッジだった。
すぐに同じバッジの男がわらわらとやってくる。フレンが蹴りを叩き込んで地面に沈めた、もう二人の男を同じように捕らえた。
「グリーティア様! こちらですべてでしょうか!」
最初に来た男が、びしりと敬礼をして言った。どうやらフレンに向かって言ったようだ。
それでグレイスは知る。先程の笛は、この自警組織の人々を呼び寄せるものだったのだ。
「ああ。……連れていけ。処分はおいおい」
「かしこまりました!」
その言葉のときだけ、フレンはまた冷たい目と声に戻って、告げた。
それですべておしまいになった。グレイスに悪事を働いていた男たちは引きずられていった。自警組織の集団も引き上げていく。残ったのは。
「……お嬢様。無事、ですか」
声をかけられて、グレイスは再びはっとした。
フレンが話しかけてくれている。やっと認識して、グレイスはフレンをおそるおそる見た。
やはり、先程声をかけてくれたときと同じ。グレイスに普段向けてくれる、穏やかな口調と、そして心配げではあるもののずっと落ちついた目をしている。
……助かったのだ。
グレイスの体から一気に力が抜けた。同時にがくがくと体が震えてくる。
……助かったのだ。もう一度、今度は自分に言い聞かせた。
けれどそのあとのことに、グレイスの意識は一気に現実に引き戻された。
「……お嬢様」
ぐっとフレンの腕に力がこもる。グレイスの体を強く引き寄せてきた。
あっと思ったときには、支えられるのではなく、フレンの腕の中にしっかり抱き込まれてしまっていた。
あたたかな体温が伝わってくる。とくとくと速い鼓動も。
なに、これは、いったい。
ぼんやりと、グレイスは追いつかない思考の中で呟いた。
「良かった……良かった、です……ご無事で」
フレンの声は震えていた。涙声にも近い。
ただ、グレイスはそれをはっきり認識することはなかった。
彼の腕に抱かれている。そればかりが大きく心と体に迫ってくる。
どく、どく、と違う意味で心臓が騒ぎだす。熱い血を体中に巡らせるように。
そのとおりに、かぁっと体が熱くなった。
そのうち、そっと体は離されてしまった。代わりにフレンの瞳がグレイスを覗き込んでくる。
グレイスはされるがままになるしかなく、翠色をしたそれをぼんやりと見つめ返した。
「帰りましょう」
ふっと、フレンの目が緩む。
その瞳を見て、やっとグレイスにまともな思考が戻ってきたのかもしれない。まだ震えるくちびるを開いて、やっと言葉を押し出した。
「……ごめん、なさい……、フレン」
裂かれたシャツの上にフレンの上着を着せられて、待機していたらしき馬車に乗せられた。そして屋敷へと連れ帰られたのである。
なにが起こるのかはわかっていた。勿論、父の叱責である。
それでも服や身がこんな状態だ、一旦部屋に返された。フレンがメイドにグレイスを引き渡す。
あとはメイドたちの仕事。バスルームへ押し込まれて、服を脱がされて、湯をかけられた。
街では普通に歩いていただけとはいえ、石壁の穴をくぐったときに地面を這ったので、土が少しくっついていた。まずは汚れを落とすということだ。
「まったく、お嬢様……大胆なことをなさって……」
中心になってくれている、メイドのリリス。ちょっと呆れたようにグレイスにシャワーの湯をかけていく。
リリスはじめ、メイドたちにはグレイスが良からぬ男たちに捕まるところだったということは聞かされていないだろう。単に『抜け出して街へ行った』としか把握していないようだった。
服だって、フレンが「引っかけて破ってしまったそうです」と言い訳してくれたので、それを信じられた模様。
「……ごめんなさい……」
あたたかい湯は気持ち良かった。グレイスは心がほどけていくのを感じながら、謝った。
「いつぶりでしょうね。お嬢様の『お転婆』は」
それは今回と同じように、屋敷を抜け出して街へ行ったことを示していた。確かに以前にもあって、そしてそのときもフレン、メイド、そして父に呆れられたものだ。
いや、父からは呆れるより怒りであったが。娘が危険を冒して街などに行けば当たり前であろうが。
でもグレイスが『お転婆』をしたのは一度や二度ではない。途中で捕まってしまった幼い頃をカウントすれば、一体何回あるか。あまり良くはないことだが、メイドたちも「またか」という反応であった。
グレイスの気持ちも少しは察してくれているのだと思う。
男爵家のお嬢様として、自由に遊びに行くこともできない身。生まれたときからそういうものだとはいえ、息が詰まることもあるだろうと。
おまけに婚約に関する、連日のこれである。許してくれるはずはないが、「仕方ない」とは思われているらしい。
もっとも、今回ほど危険な目に遭ったと知れば、「もうなさらないでください」と泣かれたかもしれないが。
心配をかけてしまった。グレイスは改めて反省した。
体も髪も綺麗にされて、浴槽で少しお湯に浸かって。普段通りの服を着せられた。
キナリ色のお気に入りのワンピース。普段の自分の格好。
特になにも思っていなかった、いや、かわいらしくて好きだと思っていたのに、あの服のあとではちょっと窮屈な気持ちが浮かんでくる。そんなことを言える立場ではないのだが。
さて、このあとは叱責が待っている。父から直々のお叱りだ。
メイドに付き添われて、グレイスは憂鬱な気持ちで父の部屋へ向かったのだった。