従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 優勢なのは勿論、体勢をじゅうぶんに整え、待ち構え、襲い掛かってきた賊だろう。
 だが、グレイスの一行のアフレイド家も手練れの護衛がついている。戦闘になったとしてもじゅうぶんな能力を持つ者たちばかり。
 お願い、助かって、誰も、死なないように。
 グレイスは手を組んだ。神に祈るように、ぎゅっと、強く。
 突然、グレイスの乗った馬車に大きな衝撃が走った。
 ダァン! となにかがぶつかったような音。馬車が大きく傾ぐ。
「きゃ……!」
 グレイスは思わず悲鳴を上げていた。その体を執事長がしっかり抱きしめる。
「お嬢様! わたくしから離れぬように……!」
 途端、がしゃん、と大きな音がして馬車は横転した。グレイスは馬車の壁にしたたかに背中を打ち付けて呻いた。
 けれど執事長が抱いていてくれなかったら、体はまともに叩きつけられていたに違いない。
 そしてグレイスたちにとっての幸い。出口は上向きになった状態で止まったのである。
「……くそっ!」
 執事長が聞いたこともないような低い声でひとこと言い、バンッと扉を開けた。馬車の壁に乱暴に足をかけ、グレイスの手を掴む。
「お嬢様! 脱出いたします!」
「え、ええ!」
 震える足を叱咤して、グレイスは引っ張り上げられるままに傾いた馬車の壁を蹴った。
 首尾よく外に出ることに成功したものの、そこで息を呑んでしまった。
 外は酷いことになっていた。何人もの男たちが剣を交わしていて、キン、キンッと金属のぶつかる気持ちの悪い音が聞こえてくる。
 そして一番恐ろしかったのは、倒れている者が何人もいたことだ。
 黒っぽい服を身に着けた賊らしき者もいるが、アフレイド家の護衛の者も何人か、だ。赤い血もあちこちに見える。
 グレイスの心臓が一気に冷えた。
 しかし少し先に見えたもの。
 それは護衛に囲まれ、なんとか護られている父の姿だった。
「お父様っ!!」
 グレイスの声は悲痛になった。思わず駆けだしそうになって、しかしすぐに体は止まってしまった。
「いけません!」
 執事長に捕まえられたのだ。そしてそれだけでなく、ドンッとグレイスの体が突き飛ばされる。馬車の真横に。防壁の役目になるような場所へ。
 グレイスを安全な場所へ叩き込んでおいて、執事長は懐から取り出した短刀を手に、突っ込んできた賊と対峙した。
「この……! お嬢様に、手など出させるか……!」
 ぎりっと彼が歯を食いしばる音すら聞こえた。
 執事長の腕は確かだ。護衛の職ではないとはいえ、護身術は基礎以上の腕を持っている。
 そのとおりに、襲い掛かってくる賊にためらいなく短刀を振るい、次々退けていく。
 グレイスはそれを呆然と見ているしかなかった。
 なんということになってしまったのか。
 無事に済むのだろうか。
 死んでしまった者はいないだろうか。
 そして、父は。
 体が震えてきて止まらない。いるかもわからぬ神に祈るしかなかった。
 そのとき、ガンッと音がして、グレイスの防壁になっていた馬車が思い切り傾いた。グレイスは咄嗟にうずくまる。
 そのために無事に済んだが、直後。がしゃんっと、馬車は完全に大破していた。
 馬車に攻撃を加えられたのだ、と理解したグレイス。そしてそれは当然のように、隠れていたグレイスを引きずり出すためだ。
 大破した馬車の向こうで、顔を強張らせた執事長がこちらを振り向くのが見えた。
 が、彼は目の前の賊の刃を短刀で受け止めていて、動けるはずもなく。
「お嬢様っ!!」
 悲痛な声だけが、遠くに聞こえた。その直後。
「……覚悟!」
 バッと、長剣を持った賊がそれを振りかざして突っ込んでくる。グレイスの心臓が喉元まで跳ね上がった。
 切られる。殺される。
 しかし、振りかぶられた長剣がグレイスの頭上まで来たとき。
 そのとき何故か。グレイスの思考はすぅっと静かになっていた。
 もういい、こんなことになったのはすべて自分のせいなのだ。
 自分の我儘のせい。その報いを受けるだけ。
 せめて、自分を葬ることで賊たちが満足して、家の皆が助かれば。
 思って、うずくまった姿勢のままぎゅっと手を組んで目をつぶり、覚悟を決めたのだが。
「グァァーッ!?」
 目の前で恐ろしい声がした。びしゃっと、なにか、液体が飛び散る嫌な音も。
 次いで、ドサッと音がした。目の前の男が地面に倒れ込む、音。
 一体、なにが。
 グレイスは目を開けようとしたのだが、その前にふわっと体が宙に浮いた。なにかに持ち上げられたらしい。
「きゃあっ!」
 突然の浮遊感、物音だけ聞こえた一連の出来事。グレイスは混乱のままもがいた。
 が、その体はぎゅっと抱きしめられる。
 知っている手で。優しくてあたたかい手で。
「お嬢様! ご無事ですか!」
 降ってきた声も、知っているもの。けれどここで聞こえるはずもないもの。
「……フレン!?」
 グレイスはなんとか顔をあげてそちらを見た。その先に見えたのは、どういうことか。確かにフレンだったのだ。
 こんな状況だ、顔は強張っていたけれど、グレイスがフレンを見上げたことで、無事であると理解したのだろう。強張った顔に僅かに笑みが浮かぶ。
「しっかり捕まってらしてください……!」
 フレンはグレイスを自分の体に抱きつかせ、片腕でしっかり抱えたまま、右手に持ったナイフを構える。隙だと見て飛びかかってきた賊の体を薙ぎ払った。
「ギャァッ!」
 胴を切り裂かれた賊が地面に転がり、倒れ込む。
 フレンの動きは最低限だった。グレイスを抱えているのだ、派手な動きなどできるはずもない。
 それは護身術のなせる技だっただろう。攻撃するのではなく、あくまでも自分の、そして主人の身を護るための力。
 途端、うしろからガラガラッ! と音が聞こえた。馬車の車輪のような音、と思ったのだがその通りだったらしい。
 ガシャッと乱暴に止まる音がして、ばらばらとひとの走る音が続いた。
「アフレイド男爵家への襲撃、大罪に値する! 覚悟!」
 何人いるかもわからない男たちが、賊に向かって突っ込んでいく。名乗りからするに、どうやら、アフレイド領の自警組織の加勢。
 自警組織の腕は確かだ。おまけに人数もじゅうぶん。果敢に賊たちに立ち向かい、そして。
 賊はすべて地面に沈められていたのである。
 はぁ、はぁ、と戦いのあとの息遣いが荒くその場に溢れた。
「……お嬢様。ご無事、ですか」
 もう一度、声が降ってくる。
 グレイスはもう一度、見上げて。そして見た。
 グレイスの大好きな翠色の瞳を持つ、フレンの優し気な顔を。
 一体、どうして、フレンが、ここに。
 訊きたかったけれど、そんな言葉は出てこなかった。
 助かった、のだ。
 なにがどうなったのかわからないが、助かったのだ。
 一気に体ががくがくと震えてくる。
 フレンが慌てた様子でグレイスの体を支え直し、そしてそろそろと地面に下ろした。そのまま腕に抱いて上体を支えてくれる。
「驚かれましたでしょう。もう大丈夫です」
 周りはざわざわしていた。叫び声や怒鳴り声がまだ響く。
 加勢にきた最初の一行だけでなく、もっとたくさんの馬車が走ってくる音もする。賊の捕縛にかもしれない。
「……フレン……どう、して……」
 グレイスはやっと、口を開いた。くちびるは震えてしまったけれど。
 それでもフレンの目をじっと見つめる。フレンはグレイスを安心させるように、笑みを浮かべてくれた。
「言いましたでしょう。わたくしはいつでも、お嬢様のお傍に」
 グレイスは目を見開く。
 誓ってくれた、言葉。
 こんなところで聞くなんて思わなかった。
 それに、本当のことにしてくれるなど思わなかった。
 目を丸くしたグレイスの体を、フレンはそっと抱き寄せ、胸に強く抱いてくれた。
「良かったです。ご無事、で」
 あたたかな腕に包まれて、護られて。
 グレイスは意識する前に手を伸ばして自分からもフレンに抱きついていた。きつくしがみつく。
「フレン……!」
 怖かったわ、助けてくれてありがとう、逢いたかった。
 言いたいことなどたくさんあった。けれどありすぎて出てこない。
 ただ、フレンに抱きつく。そのあたたかな体温だけですべて伝わるように感じてしまった。
「お嬢様。……帰りましょう」
 グレイスをどのくらい抱いていてくれたのか。フレンはやがてそっとグレイスを離し、静かに伝えてくれた。
 グレイスたちの一行が襲撃を受けてから数日後。
 ショックから屋敷に帰るなり寝込んだグレイスだったが、翌日には起きることができた。寝ている場合ではないし、それにこの事件の全貌を知りたかったのだ。
 父は無事だった。賊からいくつか傷を負わされたもの、そう重傷ではなく、医者によればひと月もあればすっかり回復するであろうという見立てだった。グレイスは心底ほっとした。
 けれど悲しいこともあった。護衛の何人かが怪我を負い、数名であるが亡くなってしまった者もいたのだ。
 グレイスは涙に暮れた。自分のために、命を落としてしまうなど。
 けれどフレンが慰めてくれた。「お嬢様がこれからお元気に生きていかれることが、一番の救いになるでしょう」と。
 そう、そのフレン。
 何事もなかったように、であるはずがないが、グレイスにあれからずっとついていてくれた。
 襲撃のこと、診察、後処理。することなどたくさんありすぎて、ゆっくり話す暇もなく、事務的な会話がほとんどだった。
 気になっているに決まっていたけれど、今は事の収束が優先。
 グレイスは何度も父や自警組織に呼ばれ、話をした。
 まだ情報も交錯しているようで、あの襲撃について詳しいことは突き止められていないようだった。
 ただ、賊たちの名乗りからするにオーランジュ家が関与している可能性は高そうであった。それが直接仕向けられたものか、どこぞから雇われたものなのか。それはアフレイド領の自警組織が調べを続けているところである。
 わかっているのはこのような事態になって、ダージルとの婚約続行及び結婚は高確率でなくなるのだろうということ。
 最悪の場合、仕向けてきたのはダージルかもしれないのだ。グレイスにとっては考えたくない出来事であったが。
 そのような忙しく慌ただしかった状況が落ちついたのは、一週間以上も経った頃のことであった。
 その日、グレイスはレイアに呼び出しを受けた。『グレイスの屋敷に訪ねていく』と遣いがやってきて、その翌日、レイアがお付きを伴って訪ねてきてくれたのだ。
 呼び出されたのは客間。普段使うものではなく、屋敷のかなり奥に位置する客間だ。おそらくより人払いができる場所を選んでくれたのだろう。
「グレイス、大変なことが起きたのね」
 グレイスが「失礼いたします」と入っていってすぐに、レイアがソファを立ってやってきてくれた。そして一も二もなく真っ先に、グレイスをぎゅっと抱きしめてくれたのだ。
 その体は僅かに震えていて、グレイスの襲撃にどれほど驚き、心痛めてくれたのかを表しているようだった。
「私がもっと警戒しておくべきだったわ」
 グレイスを強く抱いてかけてくれる言葉。泣き出しそうなほど嘆く声だった。
 しかしもう終わったことだ。それにレイアのなにが悪いというのか。
 グレイスはレイアの心配と抱擁に、安堵と喜びを同時に覚えた。自分からもレイアに抱きつく。
「いいえ、おばあさま。無事だったのです。どうかお気になさらずに」
 それでソファに落ちつき、使用人がお茶を持ってきた。
 それがフレンでなかったのにグレイスはちょっと疑問を覚えた。自分にお客、まぁ身内なのであるが、お客がやってくるのはフレンも把握していたのに、どうしてお茶が彼ではないのか。けれどすぐにレイアの話に耳を傾けることになった。
「グレイス、私に任せてほしいと言ったわね。あれから色々調べてみたの」
 レイアはお茶を前にしたものの、手をつけずに切り出した。
「調べ物……ですか?」
 グレイスもお茶よりそちらの話に興味を惹かれた。
「フレンのことよ」
 言われたことにはちょっと息を呑んでしまう。
 フレンのこと。
 レイアがしてくれた『調べ物』。
 フレンに関係していることだろうというのは多少予想していたのだが、直接言われてみれば。
 それにきっと、この部屋に連れてきてくれたのも、お茶を持ってきてくれるのがフレンでなかったのも関係しているのだろう。
「フレンの出自が確かでないことは、グレイスもなんとなくは知っていたのよね」
 確かにそうだったので、グレイスはただ頷いた。
「はい。幼い頃に聞いたことですが、詳しい話は、なんだか聞いていいものかわからなくて……」
 訊いておけば良かったのだろうか、と思った。フレン本人にでなくとも、例えば父にとか。目の前のレイアにとか。
 そうすればなにか変わったのかも、しれなかったのだろうか。
「フレンの生まれはね、ラッシュハルト家なの」
 レイアの切り出したこと。
 聞いたことのあるような、ないような……。
 グレイスはちょっと考えてしまった。しかしそこで既にわかった。
 なにか、名のある家の息子だったのだろう。よって驚いてしまう。
「ラッシュハルト家は私たちの家とは表立った関わりがないし、オーランジュ領よりずっと離れたところにある領だから詳しくないわよね。大きく豊かな領で、名産はワイン……それはともかく」
 レイアは少しだけ説明を入れてくれたけれど、そんなことは些細だった。
「その国では随一の領で、伯爵家にあたるお家なの」
 グレイスは仰天してしまう。
 伯爵家?
 グレイスの家、アフレイド家は男爵家。貴族の中では一番下の爵位なのだ。
 伯爵家はそれよりずっと上の階層に位置する称号。そう、ダージルのオーランジュ家が同じ、伯爵家にあたるもの。
 つまりフレンは、この家で使用人などとして働いてはいたものの、そんな身分など卑しすぎる、いい家の息子、ということだろうか。
「これは機密事項だから、外で話してはいけないわよ」
 困惑したグレイスに、そう前置きをして、レイアは続けた。
「ラッシュハルト家の息子であることは確かであるけれど、継承権はないの。 このような言い方は失礼なのだけど……領主様の私生児であられるのだから」
 私生児……。
 グレイスには馴染みのない言葉だった。グレイスに通じなかったのはわかったのだろう。レイアはわかりやすい言葉で補足してくれた。
「奥方ではない、そうね、お妾か外の女性か、そういう方が生んだ子という意味よ」
 それなら理解できた。グレイスは違う意味で仰天する。
 奥方以外の女性が領主の子を宿すというだけでも驚きだったのだ。それは箱入り娘であったグレイスには信じられないことであった。
 けれどレイアの口ぶりからするに、望ましいことではないものの、そして機密になるようなことであるものの、ありえなくはないことのようだ。
「そんな境遇だから、失礼ながらあまり誇れる立場ではないということなの。だから……こんな言い方はフレンに悪いけれど。ラッシュハルト家では持て余してしまったのでしょうね。ラッシュハルト家には継承権のあられるお子がちゃんとおられたのだから」
 グレイスはなにも言えなかった。レイアの言葉が怒涛過ぎて。
 フレンが間接的ではあるが、伯爵家の人間?
 領主の息子?
 おまけにそれが出自の秘密?
「でも、なにしろ貴族のお家だわ。平民の住む街になど放り出せなかったということでしょうね。せめて貴族の関与する場所で過ごして、成長してほしいと。レイシスがそれを拒否できるわけもないわ。だから受け入れて、年頃もちょうど良いと、グレイスの従者にしたということよ」
 それが最後の答えだった。
 弱小ではあるが貴族の家の、このアフレイド家にやってきた理由も。
 それが使用人という立場になったのも。
 そうでなければ、ほかの貴族の家に入り、住む理由がないのだから。
 フレンは知っていたのだろうか、と思う。
 しかしおそらく知っていたのだろう。だからこそ「フレンのお父様やお母様は」と訊いたグレイスに答えるとき、あんな寂しそうな顔をしたのだ。
「そう、でしたの……」
 グレイスはそれしか言えなかった。頭の中でまだ整理がつかない。
 レイアはそれがわかっているだろうが、だからといって、今、話をしないわけにはいかないはずだ。ちょっとだけ話を中断して、お茶に手を伸ばした。
 グレイスはぼんやりそれを見て、そして気付く。レイアは自分にお茶を飲ませてくれるつもりで、まず自分がお茶を手に取ったのだ。
 よってグレイスも手を伸ばしてティーカップを取り上げた。ひとくち口に含む。
 紅茶はすっかり冷めてしまっていた。ほのかにぬるいだけ。
 でもその紅茶により、少しだけ思考を落ちつかせることができた。
「続けていいかしら」
 グレイスがひとくち、ふたくちお茶を飲んで、少し落ちついたのを感じたのだろう。ティーカップをソーサーに戻してレイアは言った。
 グレイスも「はい」と答える。話は続きに戻った。