従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 昨夜の夢は長かった、と目覚めてからグレイスは思った。
 子供の頃の夢。たまに見ることはあったけれど、物心ついたばかりの頃から、少女になって間もない頃のことまで。一晩で見るとは奇妙なことだ。
 でも、懐かしかった。
 それに嬉しかった。
 夢の中であってもフレンに出逢えたことが。
 まだ少年だったフレンの夢を見たのは、ただの『逢いたい』という願望だったのかもしれなかったけれど、とても幸せな夢だった。
 ずっと傍にいてくれた。
 誓ってくれた。

『わたくしは、いつでもお嬢様のお傍に』

 あの言葉。
 今では、離れてしまった今では、違えてしまっているのかもしれない。
 けれどグレイスは、そんなことはないのではないか、とここしばらく思うようになっていたのだった。心の安定が前向きに捉えさせてくれるようになっていたのかもしれない。
 再会できるかはわからない。いくらレイアが「任せてほしい」と言ってくれたとはいえ、保証もない。
 でもグレイスは落ちついていた。
 フレンは嘘をつくようなひとではないから。
 それはもう、出逢ってからずっとそうだった。
 グレイスに対して真摯で、真っ直ぐで、とても優しくて、そしていつも手を伸べてくれるひと。
 だからあの言葉。嘘になんてならない。
 夢の中のフレンからそう伝えられた気がした。
 グレイスは良い気持ちでベッドから出て、カーテンを開けた。
 さぁっと陽の光が差し込んでくる。もう秋も深まって少々寒いのだけど、まだ陽は明るい頃だ。朝日ならば尚更。
 グレイスは目を細めた。レイアの言ってくれた通り、なにもかも上手くいく、気持ちになれたのである。
 今日は憂鬱な日。それもだいぶ憂鬱な日、である。
 ダージルの屋敷に再度招かれていたのだ。
 今回は父も一緒に、である。
 ダージルからの文が父の元に来てそれを聞かされたとき、グレイスは理解した。
 婚約について。続けるにしても、破棄されるにしても、どちらかに決まるのだろうと。
 今日も執事長と一緒に馬車に揺られながら、グレイスは自分の手を見ていた。そこにはダージルからもらった婚約指輪が嵌っている。
 けれどこれがいつまで嵌っているかどうかはもうわからないのだった。今日、返せと言われてしまうかもしれないもの。
 グレイスとしてはどちらでも良かった、けれど。
 本音を言えば、婚約など破棄されてしまったほうがいいに決まっている。
 想い人のフレンしかもう愛せないと思い知ってしまったのだし、それに祖母のレイアも認めてくれた。どうにもならない状況ではない。
けれど。
 ダージルのオーランジュ家のほうが身分が上なのは変わりやしないのだ。向こうから『婚約の解除は許さない』と言われてしまえば、反論などはできない。
 そこはなにか、レイアによって変わるのかもしれないのだけど、不確かなことには今のところ縋れないのだった。
 だからどちらでも良かった。
 このまま婚約状態が続くにしても、もうグレイスの心は決まっている。心が決まってしまっただけ、結婚に対しても覚悟ができたといえるだろう。
 完全に政略結婚の形になる覚悟、である。
 それで、ダージルも婚約を破棄しないというのなら、その、形だけの夫婦で良いと。そういうつもりなのであろうし。
 かたかたと馬車は僅かな振動だけで順調に走っていく。
 窓の外から見える景色は穏やかだった。冬も近いが、小春日和でぽかぽかした日。
 オーランジュ領へ入るには、山をひとつ越える必要があるのだが、その山も起伏が少なく、道もそう荒れていないところだった。オーランジュ領は平和で豊かなのでそのためだ。
 よって、山の中へ入っても、振動は少し強くなっただけであまり変わらなかったのだけど。
「うわぁっ!!」
 唐突に外から声がした。男の、それも知っている人間の声である。
 家の使用人の一人、御者を務めている男だ。
「なんだ、貴様たちは!」
 もうひとつ、声が聞こえた。こちらは護衛についていた警備の男。
 グレイスは一瞬、なにが起こったのかよくわからなかった。
 けれどすぐに息を呑むことになる。外から一気に嫌な空気が漂ってきたのだから。
 なにか、悪いことが起こったのは明白だった。
「お嬢様、お静かに」
 執事長の顔が固くなる。立ち上がりかけたグレイスの体の前に手を出して、制してきた。
 グレイスは立ち上がるのをやめて、再び長椅子に腰掛ける。どくどくと心臓が跳ねてきた。気持ちの悪い跳ね方で。
 執事長は外の様子を伺っているようだった。グレイスも息を潜めて同じように外の気配を探る。
「オーランジュ伯爵家への冒涜を働いた罪により、貴様らの命、もらい受ける!」
 男の低く、鋭い声があたりに響き渡った。息を呑んだのはグレイスだけでなく、この場の全員が、だっただろう。
 しかし一番心臓が冷えたのはグレイスだった。
 言われた言葉。思い当たらないはずがない。
 冒涜、それは自分のおこない、なのだから。
「覚悟!」
 それが最後だった。
 ザッと地面を蹴る音、なにかが壊れる鋭い音、ひとの叫び声。
 グレイスは真っ青になって震えるしかなかった。
 なに、これは、襲撃、こんなところで。
 自分の命が危ういことも理解して恐ろしくなったけれど、それ以上に、外のひとたち。
 御者や護衛についていてくれた使用人。
 それに、父。
 父は別の馬車に乗っていた。同じようにお付きを伴って、である。
 ……殺されてしまう、のかしら。
 血の気が引いた。
 けれどグレイスにできることなどない。おまけに見つからないよう隠れるなんてことも無理な話である。馬車は開けた道を無防備に走っていたのだから。
「うぉぉ……!」
「ギャァァッ!!」
 外からは聞いたこともないような恐ろしい声のやりとりが聞こえてくる。武器を交わして戦闘状態になったのは明らかだった。
 優勢なのは勿論、体勢をじゅうぶんに整え、待ち構え、襲い掛かってきた賊だろう。
 だが、グレイスの一行のアフレイド家も手練れの護衛がついている。戦闘になったとしてもじゅうぶんな能力を持つ者たちばかり。
 お願い、助かって、誰も、死なないように。
 グレイスは手を組んだ。神に祈るように、ぎゅっと、強く。
 突然、グレイスの乗った馬車に大きな衝撃が走った。
 ダァン! となにかがぶつかったような音。馬車が大きく傾ぐ。
「きゃ……!」
 グレイスは思わず悲鳴を上げていた。その体を執事長がしっかり抱きしめる。
「お嬢様! わたくしから離れぬように……!」
 途端、がしゃん、と大きな音がして馬車は横転した。グレイスは馬車の壁にしたたかに背中を打ち付けて呻いた。
 けれど執事長が抱いていてくれなかったら、体はまともに叩きつけられていたに違いない。
 そしてグレイスたちにとっての幸い。出口は上向きになった状態で止まったのである。
「……くそっ!」
 執事長が聞いたこともないような低い声でひとこと言い、バンッと扉を開けた。馬車の壁に乱暴に足をかけ、グレイスの手を掴む。
「お嬢様! 脱出いたします!」
「え、ええ!」
 震える足を叱咤して、グレイスは引っ張り上げられるままに傾いた馬車の壁を蹴った。
 首尾よく外に出ることに成功したものの、そこで息を呑んでしまった。
 外は酷いことになっていた。何人もの男たちが剣を交わしていて、キン、キンッと金属のぶつかる気持ちの悪い音が聞こえてくる。
 そして一番恐ろしかったのは、倒れている者が何人もいたことだ。
 黒っぽい服を身に着けた賊らしき者もいるが、アフレイド家の護衛の者も何人か、だ。赤い血もあちこちに見える。
 グレイスの心臓が一気に冷えた。
 しかし少し先に見えたもの。
 それは護衛に囲まれ、なんとか護られている父の姿だった。
「お父様っ!!」
 グレイスの声は悲痛になった。思わず駆けだしそうになって、しかしすぐに体は止まってしまった。
「いけません!」
 執事長に捕まえられたのだ。そしてそれだけでなく、ドンッとグレイスの体が突き飛ばされる。馬車の真横に。防壁の役目になるような場所へ。
 グレイスを安全な場所へ叩き込んでおいて、執事長は懐から取り出した短刀を手に、突っ込んできた賊と対峙した。
「この……! お嬢様に、手など出させるか……!」
 ぎりっと彼が歯を食いしばる音すら聞こえた。
 執事長の腕は確かだ。護衛の職ではないとはいえ、護身術は基礎以上の腕を持っている。
 そのとおりに、襲い掛かってくる賊にためらいなく短刀を振るい、次々退けていく。
 グレイスはそれを呆然と見ているしかなかった。
 なんということになってしまったのか。
 無事に済むのだろうか。
 死んでしまった者はいないだろうか。
 そして、父は。
 体が震えてきて止まらない。いるかもわからぬ神に祈るしかなかった。
 そのとき、ガンッと音がして、グレイスの防壁になっていた馬車が思い切り傾いた。グレイスは咄嗟にうずくまる。
 そのために無事に済んだが、直後。がしゃんっと、馬車は完全に大破していた。
 馬車に攻撃を加えられたのだ、と理解したグレイス。そしてそれは当然のように、隠れていたグレイスを引きずり出すためだ。
 大破した馬車の向こうで、顔を強張らせた執事長がこちらを振り向くのが見えた。
 が、彼は目の前の賊の刃を短刀で受け止めていて、動けるはずもなく。
「お嬢様っ!!」
 悲痛な声だけが、遠くに聞こえた。その直後。
「……覚悟!」
 バッと、長剣を持った賊がそれを振りかざして突っ込んでくる。グレイスの心臓が喉元まで跳ね上がった。
 切られる。殺される。
 しかし、振りかぶられた長剣がグレイスの頭上まで来たとき。
 そのとき何故か。グレイスの思考はすぅっと静かになっていた。
 もういい、こんなことになったのはすべて自分のせいなのだ。
 自分の我儘のせい。その報いを受けるだけ。
 せめて、自分を葬ることで賊たちが満足して、家の皆が助かれば。
 思って、うずくまった姿勢のままぎゅっと手を組んで目をつぶり、覚悟を決めたのだが。
「グァァーッ!?」
 目の前で恐ろしい声がした。びしゃっと、なにか、液体が飛び散る嫌な音も。
 次いで、ドサッと音がした。目の前の男が地面に倒れ込む、音。
 一体、なにが。
 グレイスは目を開けようとしたのだが、その前にふわっと体が宙に浮いた。なにかに持ち上げられたらしい。
「きゃあっ!」
 突然の浮遊感、物音だけ聞こえた一連の出来事。グレイスは混乱のままもがいた。
 が、その体はぎゅっと抱きしめられる。
 知っている手で。優しくてあたたかい手で。
「お嬢様! ご無事ですか!」
 降ってきた声も、知っているもの。けれどここで聞こえるはずもないもの。
「……フレン!?」
 グレイスはなんとか顔をあげてそちらを見た。その先に見えたのは、どういうことか。確かにフレンだったのだ。
 こんな状況だ、顔は強張っていたけれど、グレイスがフレンを見上げたことで、無事であると理解したのだろう。強張った顔に僅かに笑みが浮かぶ。
「しっかり捕まってらしてください……!」
 フレンはグレイスを自分の体に抱きつかせ、片腕でしっかり抱えたまま、右手に持ったナイフを構える。隙だと見て飛びかかってきた賊の体を薙ぎ払った。
「ギャァッ!」
 胴を切り裂かれた賊が地面に転がり、倒れ込む。
 フレンの動きは最低限だった。グレイスを抱えているのだ、派手な動きなどできるはずもない。
 それは護身術のなせる技だっただろう。攻撃するのではなく、あくまでも自分の、そして主人の身を護るための力。
 途端、うしろからガラガラッ! と音が聞こえた。馬車の車輪のような音、と思ったのだがその通りだったらしい。
 ガシャッと乱暴に止まる音がして、ばらばらとひとの走る音が続いた。
「アフレイド男爵家への襲撃、大罪に値する! 覚悟!」
 何人いるかもわからない男たちが、賊に向かって突っ込んでいく。名乗りからするに、どうやら、アフレイド領の自警組織の加勢。
 自警組織の腕は確かだ。おまけに人数もじゅうぶん。果敢に賊たちに立ち向かい、そして。
 賊はすべて地面に沈められていたのである。
 はぁ、はぁ、と戦いのあとの息遣いが荒くその場に溢れた。
「……お嬢様。ご無事、ですか」
 もう一度、声が降ってくる。
 グレイスはもう一度、見上げて。そして見た。
 グレイスの大好きな翠色の瞳を持つ、フレンの優し気な顔を。
 一体、どうして、フレンが、ここに。
 訊きたかったけれど、そんな言葉は出てこなかった。
 助かった、のだ。
 なにがどうなったのかわからないが、助かったのだ。
 一気に体ががくがくと震えてくる。
 フレンが慌てた様子でグレイスの体を支え直し、そしてそろそろと地面に下ろした。そのまま腕に抱いて上体を支えてくれる。
「驚かれましたでしょう。もう大丈夫です」
 周りはざわざわしていた。叫び声や怒鳴り声がまだ響く。
 加勢にきた最初の一行だけでなく、もっとたくさんの馬車が走ってくる音もする。賊の捕縛にかもしれない。
「……フレン……どう、して……」
 グレイスはやっと、口を開いた。くちびるは震えてしまったけれど。
 それでもフレンの目をじっと見つめる。フレンはグレイスを安心させるように、笑みを浮かべてくれた。
「言いましたでしょう。わたくしはいつでも、お嬢様のお傍に」
 グレイスは目を見開く。
 誓ってくれた、言葉。
 こんなところで聞くなんて思わなかった。
 それに、本当のことにしてくれるなど思わなかった。
 目を丸くしたグレイスの体を、フレンはそっと抱き寄せ、胸に強く抱いてくれた。
「良かったです。ご無事、で」
 あたたかな腕に包まれて、護られて。
 グレイスは意識する前に手を伸ばして自分からもフレンに抱きついていた。きつくしがみつく。
「フレン……!」
 怖かったわ、助けてくれてありがとう、逢いたかった。
 言いたいことなどたくさんあった。けれどありすぎて出てこない。
 ただ、フレンに抱きつく。そのあたたかな体温だけですべて伝わるように感じてしまった。
「お嬢様。……帰りましょう」
 グレイスをどのくらい抱いていてくれたのか。フレンはやがてそっとグレイスを離し、静かに伝えてくれた。
 グレイスたちの一行が襲撃を受けてから数日後。
 ショックから屋敷に帰るなり寝込んだグレイスだったが、翌日には起きることができた。寝ている場合ではないし、それにこの事件の全貌を知りたかったのだ。
 父は無事だった。賊からいくつか傷を負わされたもの、そう重傷ではなく、医者によればひと月もあればすっかり回復するであろうという見立てだった。グレイスは心底ほっとした。
 けれど悲しいこともあった。護衛の何人かが怪我を負い、数名であるが亡くなってしまった者もいたのだ。
 グレイスは涙に暮れた。自分のために、命を落としてしまうなど。
 けれどフレンが慰めてくれた。「お嬢様がこれからお元気に生きていかれることが、一番の救いになるでしょう」と。
 そう、そのフレン。
 何事もなかったように、であるはずがないが、グレイスにあれからずっとついていてくれた。
 襲撃のこと、診察、後処理。することなどたくさんありすぎて、ゆっくり話す暇もなく、事務的な会話がほとんどだった。
 気になっているに決まっていたけれど、今は事の収束が優先。
 グレイスは何度も父や自警組織に呼ばれ、話をした。
 まだ情報も交錯しているようで、あの襲撃について詳しいことは突き止められていないようだった。
 ただ、賊たちの名乗りからするにオーランジュ家が関与している可能性は高そうであった。それが直接仕向けられたものか、どこぞから雇われたものなのか。それはアフレイド領の自警組織が調べを続けているところである。
 わかっているのはこのような事態になって、ダージルとの婚約続行及び結婚は高確率でなくなるのだろうということ。
 最悪の場合、仕向けてきたのはダージルかもしれないのだ。グレイスにとっては考えたくない出来事であったが。
 そのような忙しく慌ただしかった状況が落ちついたのは、一週間以上も経った頃のことであった。

従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

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