「グレイス、すまなかった」
時々、お見舞いに来てくれてはいたが、帰る前にダージルはもう一度挨拶に来てくれた。本当なら自分がお見送りをしなければいけない立場なのに、わざわざ来ていただいてしまって。
おまけにあの出来事がきっかけだったのだ。グレイスが罪悪感を覚えないわけがない。
「いえ、私こそ本当に失礼を……」
俯いて言うしかない。
実際、失礼すぎたと思う。婚約者に対する態度としてダージルの行動はおかしなものではなかったのだから。単に覚悟と認識が足りなかった自分のせい。グレイスはそう思い知ったのだ。
「いいや。まだ治らないのだろう、また今度にしよう。養生しておくれ」
こちらも「今度」ということにしてくれて、グレイスはやはり申し訳ないながらほっとしてしまった。それで、屋敷にはグレイスと使用人たちだけが残ることになった。
勿論、その一人としてフレンも、だ。
「ここまで酷いお風邪は久しぶりですね」
この旅行についてきてくれていて、毎日世話をしてくれていたリリスがちょっと困ったような顔で言った。事情は知らないにしても、グレイスになにか不安ごとがあった、というのはわかっているだろうから。それだけの長い付き合いだ。
「ええ……」
「ここは少し冷えますからね。それで悪化してしまわれたのかもしれませんわ」
今日は体を拭いてもらってさっぱりしたあとにそんな話をした。あたたかい紅茶も出される。
三日寝込んだあとだ。だいぶ回復してきて、明日には部屋から出られそうだと言われている。
しかし外へ出るのは別の意味で億劫だった。なにせ事情が事情である。
思い出したいような気持ちも少しはあるけれど、思い出したくない気持ちのほうが今は強かった。混乱していたとはいえ、なんということをしてしまったのか。その気持ちは今まで熱に追いやられていたのだけど。
「お嬢様、なにか心配事がおありですか?」
ふと、リリスが顔を覗き込んできた。ソファに腰掛けていたグレイスに近付いて。
流石にどきりとした。わからないはずがないと思ったけれど、グレイスが言えることなどひとつしかない。
「なんでもないわ」
なんでもないはずがないでしょう。こんな、雨に打たれて帰ってきた挙句、熱を出して。
なんでもないひとがこんなふうになるはずが、ないでしょう。
自分の中でもう一人の自分が事実を述べた。
「あまり抱え込まれてはよろしくありませんよ」
そっとなにかが肩に触れた。そちらを見ると、リリスが床に屈むところで。床に膝をつけて、グレイスの腕をそっと撫でてくれる。ふんわりとした女性の手のあたたかさが伝わってきた。
リリスの手は、グレイスが一番好きなひとのものとは違う。それは当たり前のこと。
でも着替えをさせてくれるとき、メイクをしてくれるとき、髪を結ってくれるとき。
グレイスに触れてくれるその手はいつだって優しく、近くにあってくれるものなのだ。
私は、きっと、独りではないのだわ。あたたかさはグレイスにそう伝えてきた。
それはフレンがいつか、手の甲に忠誠のくちづけをしてくれたときとは別の意味。
でも『独りでない』にも様々な意味があるのである。
グレイスはごくりと喉を鳴らした。核心は言えるはずがないと思った。こんなこと、ひとに話したらどうなるとも知れない。それが信頼しているお付きのリリスでも。
でも、もうひとつのことならば。
「あの、……いいかしら」
グレイスが『話したい』と思って言ったのは伝わってくれたらしい。リリスは小さく笑みを浮かべて、「はい」と答えてくれた。
「その、……ダージル様と、少し」
はじめから言葉は濁って、情けないと思ってしまった。
けれど自分でも思い出したくないし、おまけにこのようなことは初めてなのだから、恥ずかしくもある。それを悟ったようにリリスから言ってくれた。
「なにか、いさかいでもあられましたか?」
「いえ、そういうわけでは……ないと、思うのだけど……」
あれはまだはっきりと『いさかい』でもないだろう。無礼だったとは思うけれど、少なくともダージルは明らかに怒った、という様子ではなかったのだから。今は、それよりも。
「では、なにか、婚約者様らしいことでもおありでしたでしょうか?」
そう、それである。婚約者らしいこと。
リリスはぼやかして言ったけれど、まぁ、男女のすることである。そういうことに身分の差などないだろう。
「そう、ね……そういう、ことが」
グレイスの視線は少しさまよって、それから下に落ちた。膝の上に乗せていた自分の手を見てしまう。そんなところにはなにもないというのに。
「そうでしたか。それは驚かれましたね」
リリスの次に言ったことはちょっと意外だったので、グレイスは思わずそちらを見ていた。リリスのやわらかな笑みを浮かべた顔と向き合う。
『婚約者らしいこと』
それがグレイスにとってショックであったのを、言わずともわかってくれたらしいのだ。それで少し驚いてしまった。
でもおかしなことでもない。なにしろリリスはグレイスが幼い頃から仕えてくれているのだ。グレイスに恋愛経験がないことは知られている。
そこからの連想で、グレイスが熱を出したこととあわせて、『いきなりのことにショックを受けた』と取ってくれたのかもしれなかった。敏い女性である。
「ダージル様にお気の引けるお気持ちはお察しいたします。でもあまり思い悩まれなくても良いと思いますわ」
リリスの言葉は優しかった。ゆっくり話してくれる。
「私も、お嬢様と同じくらいの年頃に夫に出逢いましたけども。はじめから上手くはいきませんでしたもの」
リリスの話は、実体験に基づいているものだったようだ。それはグレイスの興味を惹いた。
「そう、なの」
既に結婚してからそれなりに長いリリス。グレイスにとってはもう立派な大人の女性である。
「そうですよ。最初から上手くやれる方のほうが少ないのです」
グレイスを力づけるためかもしれないが、そう言ってくれた。グレイスの心はそれにほどけていく。
少なくとも悩みのひとつ。ダージルとのやりとりについて。それは少しずつ軽くなっていくのが感じられた。
「例えばですね、夫が気持ちを伝えてくれたときのことですけど……」
リリスは珍しく饒舌だった。勝手に話しているのではなく、グレイスの心を軽くするために話してくれているのだろう。グレイスは時折相槌を打ちながらそれを聞いた。
数十分も経っただろうか、リリスは「すみません、長話を」と立ち上がった。長くなったのでソファの隣に腰掛けてくれていたのだった。
「そろそろお休みになられますか?」
まだ昼間であるが、病み上がり、というか、治り切っていない状態である。グレイスは少しの疲れを覚えていたところもあり、「そうするわ」と答えた。
「大丈夫ですよ。なにもかも上手くいきますから」
グレイスをベッドに入れてくれて、リリスはグレイスの髪を優しく撫でて言ってくれた。そしてお辞儀をして部屋から出ていった。
一人になって、布団にくるまって、グレイスは息をつく。
リリスと話ができたことで、少し気持ちは軽くなった。少なくともダージルとあったことについては、だいぶ気持ちの整理がついた。
でも、もうひとつ。こちらのほうが、実は遥かに重大な、もうひとつ。
どうしたってひとには言えない。
そんな、……婚約者を袖にするようなことをして、密かな想い人の従者とくちづけをしてしまったなど。
思い出しただけで、顔が熱くなるやら、逆に青くなりそうやらなことである。
どうしたらいいのか。グレイスにはまったくわからなかった。
フレンが自分に応えてくれたのは嬉しい。
取り乱していたところとはいえ、抱きしめてくちづけてくれたことが嬉しい。
けれど、それからどうなるのかと考えると、心臓は冷えていってしまうのだった。
フレンはあれから、なにも言わなかった。
勿論、普段通りグレイスに仕えてくれていた。食事や身の回りのお世話をしてくれた。普段と変わらぬ穏やかな笑みで、優しくて、日常の話をしてくれた。
けれど、あのことに関しては一切触れなかったし、グレイスにも言わせてくれなかった。
グレイスは言って良いものかためらって、結局言えないままであったのだけど。
だからもしかしたらこのまま、なかったこと、になってしまうのかもしれなかった。フレンはそう望んでいるのかもしれないのだ。
でも、とグレイスは思ってしまい、布団を口元まで引きあげてしまった。
フレンの触れてくれたところ、まで。
もう自分の気持ちは後戻りできないところまで来てしまった。こんな気持ちを抱えて婚約者と結婚などできないと、思い知らされてしまった。
自分が我慢すれば、フレンは従者として傍にいてくれるだけで良いと妥協すれば、自分の気持ちに嘘をつけば。それですべて丸く収まって良いのだと思うことは、もう不可能だった。
言わないわけにはいかない。自分の今の気持ちを。
それを誰に言うべきかというのがきっと問題なのだ。
フレンなのか、ダージルなのか、もしくは父か……。
どう最初に動くのが正解なのかはまだわからない。間違ってしまったら壊れてしまうだろう。この日常と将来は。
グレイスの心の中にもやもやと留まり、熱まで出させてしまったのはそれであると、だいぶ落ち着いた今でははっきり自覚できた。
でもどう進んだらいいのかはまだわからない。
早く理解しなければいけないのはわかるのだけど、どうしても進む方向がわからないのだ。
またぐるぐる悩んでしまったのと、リリスと話し込んだのも手伝ってグレイスは疲れてきた。少し眠ろうと思う。
布団をしっかりかぶって目を閉じる。すぐに意識は不透明になっていった。
夢は見なかった。なにも考えずに深淵に沈むようにグレイスは心を癒す眠りへと落ちていた。
熱を出してから五日が経過して、グレイスはやっとアフレイド領の屋敷へと帰還した。
今度はマリーのいない馬車。グレイスの体を気遣ってか、途中、頻繁に休憩を取ってくれた。
フレンは、一緒に乗ってくれなかった。代わりにリリスが同乗してくれた。
「お体の具合がまだ完全ではないでしょうから、同性の方のほうがよろしいでしょう」
そんなふうに言われた。確かにその通りではあるのだが、以前は無かったことである。少し具合の悪い程度なら、フレンがそのまま傍について、体調のこともしっかり見守ってくれていたのだから。
けれどグレイスとしても、密室に約二時間二人きりというのも今は居心地が悪い、と思ってしまった。だから「フレンがいいわ」とは言わなかった。「そうね。リリス、お願い」と受け入れた。
リリスはどう思っただろう、少々奇妙だと思ったかもしれない。リリスにとって、フレンは使用人としての同僚で、昔から同じ仕事をしている立場なのだから。
幸い、馬車でそんな話は出なかったけれど。リリスとて踏み入っていい状況かは心得ているはずなのである。それで、きっと。
休み休みだったので、半日ほどがかかってしまった。それで父への報告も部屋で休んでからということになった。
「出先で熱を出すなど、災難だったが。なにか悪いことでもあったか」
グレイスは特に体が弱いということもなく、普段であれば熱など滅多に出すこともない。寝込むこともほとんどない。だから父もそういう訊き方をしてきたのだと思う。基本的に優しい父親なのだ。
「少し、驚いてしまうことがあって……寒い中、お外で過ごしてしまったのです」
グレイスは本当であることを言った。
実際、その通りなのだ。ただ、原因が口に出せないだけで。
「……そうか。……。まさかと思うが、ダージル様のことではあるまいな」
そう訊かれるとは思ったけれど。実際に直面してしまえばグレイスの心臓は冷えてしまう。
だが返事は考えてきた。嫌な具合に騒ぐ心臓を叱咤して、口に出す。
「……はい。その……触れるようなことを……あまり、考えておりません、でしたの……」
非常に曖昧になった。伝わらないとは思わなかったけれど。
父は少し黙った。グレイスがなにかしらダージルに手を出され、それを拒絶した、ということは悟ったのだろう。
「……それは思慮が浅かったと言わざるを得ん」
「はい。……すみません」
内容は少し違うものの、それも事実。グレイスは素直に頭を下げた。
父はもう一度少し黙り、そうしてから、はぁー、とため息をついた。長いため息だった。
おまけに額を押さえる。確かに父にとっては頭が痛い出来事だろうから。娘が婚約者、それも身分が上の相手になにかしらの無礼を働いて帰ってきたと知ったのだから。
「少々、箱入りにしすぎたかもしれん」
独り言のように言われたことは的確だっただろう。グレイスは確かに箱入り娘、といっても差し支えのないほど、恋愛に対しては慣れていなかったのだから。
別に、誰ぞと恋をしてこい、経験してこさせれば良かったという意味ではないだろう。
想像するなら、もっと婚約を早くするべきだったとか、きっとそういう。
グレイスはなにも言えずに、困ってしまった。父もこれ以上グレイスの言葉を望んではいないだろうが。
「仕方がない。ダージル様に文でも出そう。謝罪申し上げなければ」
「……申し訳ございません」
父にも負担をかけてしまった。グレイスは俯く。
けれどそれより重要なのは。ダージルに無礼を働いたなんて生易しいものではなく、彼と結婚などできそうにない、という事実なのであった。
でもいつ言えばいいだろうか。今言うのは適切でないとわかるけれど。
グレイスが数秒ためらったうちに、父に手を振られてしまった。
「まぁ良い。もう少し体を休めていろ。ぶり返したら困る」
そんな言い方であったが、確かにグレイスのことを慮ってくれている言葉。じわりとグレイスの胸が熱くなる。ぺこりとお辞儀をして、グレイスは「失礼いたします」と父の部屋を退室した。
屋敷の中がしんとしている、と感じたのは数日後のことであった。
しんとしている、といっても静かなわけではない。常のように使用人が行き交い仕事をしている。
けれどなんだか静かに感じてしまうのだ。味気ない、と言い換えてもいいかもしれない。
グレイスは奇妙に思いつつも、半日を過ごした。勉強の日だったので朝、リリスに支度を整えてもらったあとは部屋で家庭教師についた。
勉強も嫌いではないのでそれなりに真面目に取り組み、お昼の時間。
しかしそこでおかしなことがあった。
「お嬢様、ランチのお支度ができました」
グレイスの元へやってきたのは執事長だったのだから。グレイスは首をかしげた。休みでない限り、こういうとき呼びに来てくれるのはフレンに決まっている。
「今日、フレンはお休みだったかしら」
フレンの休みの曜日ではないはずだけど。
グレイスはフレンの休みの日を考える。今まで考えなくても頭に入っていたことなのに。
「ええ……少々、急用が入ったのだと。申し訳ございません」
本当に休みのようだ。急用、ということは急遽、予定になかった休みを取ったということかもしれなかった。
しかし執事長の言葉が妙に歯切れの悪かったのがグレイスに違和感を覚えさせた。それがなにかはわからなかったけれど。
「いいえ、……そう。ランチ、向かうわ」
謝られたけれど、別に執事長は悪くないのだ。グレイスは単ににこっと笑い、彼についていってランチをとりに向かったのだった。