ついに今年も、()()イベントがやって来る。僕にとっては苦い経験しかない、あの冬の一大イベントが、ついに──。

 この前、高校生になったばかりだと思っていたら、カレンダーはもう、あっという間の十一月。
 今では制服の下にセーターを着込まなければならないほど、すっかり寒さが厳しくなってきた。

 この時期になると、皆んなの様子に若干の変化が見られるようになる。妙にそわそわしだす。これはもう、お決まりみたいなものだ。

 それは何故か。答えはとても簡単であり、シンプルであり、明白かつ明解だ。ついに来月、訪れるのである。
 あの魅惑のイベント、クリスマスが──。

 クリスマス。それは、恋人のいる人にとって、まさに『夢の時間』だ。愛し愛されの大切な人と、特別な時間──ある意味、非日常の時間と空間の中で、愛を育み合う日。それがクリスマスというものだ。

 おそらく、である。これは僕の妄想であり想像でしかないのだが、クリスマスにおける恋人同士の二人は、いつもより固く手を繋ぎ、指を絡ませ、相手への感謝の気持ちを込めたプレゼントを贈り合い、愛を語らい合い、そして体を温め合ったりするのだ。クリスマスというのは、そんなドキドキに満ち溢れた、サイコーのイベントなんだ。

 高校生になった僕も、ぜひともこの絶好の時期を生かして、恋人と一緒に、この一大イベントを楽しみたい──と。そう、思ったりするのである。

 でも、僕に彼女はいない。
 人生で一度も、恋人がいたことがない。

 周りが恋人と一緒にクリスマスを過ごす中、僕はいつだってソロプレイだった。悲しさのあまり、しくしく枕を濡らした日もあった。
 もう、そんな思いをするのは嫌だ。
 だから僕も、今年こそは彼女を作るため、いい加減に行動しなければならない──と。教室で椅子に腰掛け、机で頬杖をつきながら思案する今時分である。

 そう考えた僕は、一念発起して、ずっと好きだった女の子に告白をしようと決意した。僕の想いを届けようと、強く心に誓った。

 小出千佳(こいでちか)
 それが、僕が密かに恋心を抱いている女の子の名前である。

 小出さんは、僕のクラスメイト。
 彼女は少し──いや、かなり引っ込み思案な性格で、いつもおどおど。なぜかそわそわ。どこかキョロキョロしている。ちょっと不思議な性格の持ち主なのだ。

 というか、めちゃくちゃ挙動不審。なぜなら、小出さんは極度の『コミュ障』なのである。だから小出さんが他のクラスメイトと話しているところを、僕はほとんど見たことがない。

 しかし僕は、そんな彼女に恋をしている。小出さんを見ていると、不思議と心が落ち着くのだ。
 そして何より、心の底から彼女のことを守ってあげたくなる。これが父性というものなのだろうか。いや、保護欲か?

 続けよう。それに加えて、小出さんの外見は、まさに僕の理想なのであった。まるでハムスター みたい――と言ったら、小出さんの見た目が一番伝わりやすいかもしれない。

 背が小さくて、頬っぺたはぷっくり、小学生と見紛うほどの童顔、クリクリお目目、短めのボブカット。全体的に小動物のような可愛らしさで溢れているのだ。

 それで、である。そんな小出さんと、僕は先日の席替えで隣同士になることが出来たのだ。
 これは、チャンスだ。ついに僕は、彼女と会話をするシチュエーションを手にすることが出来たのだ。

 だから、今日。
 僕は本当に僅かしかない勇気をかき集め、振り絞って、初めて小出さんに話しかけることに――決めた!

 僕は隣の席に座る小出さんを横目でちらりと見やる。ちょっと眠たげな目をしながらも、真面目に先生の授業に耳を傾けているようだった。

 ちなみに。
 小出さんは、いつも休み時間になると、必ず机から本を取り出し、読書を始める。それはそれは熱心に読み耽る。彼女は決して友達がいないわけではないのだが、常に一人で本と睨めっこ。

 ――よし、決めた。
 僕はそれを足掛かりにする。
 小出さんとの会話の種にするのだ。

 どういうことかと言うと、つまりこういうこと――
『小出さん、何読んでるの?』
 ――ここから始まるのだ。僕と小出さんのコミュニケーションが。

 よし、まずは彼女と普通に話せる間柄にまでステップアップしてみせる。多少時間は掛かるかもしれないけど、それが僕の当面の目標だ。

『キーンコーンカーンコーン――』

 僕が授業そっちのけで考え事をしていると、終わりを知らせるチャイムが教室に鳴り渡る。数学の片山(かたやま)先生は来週の小テストを予告すると、いつも通りの気怠い様子で、ガラガラと教室の前扉を開けて出て行った。

 よし、行動開始だ。
 頑張れ、僕。

 授業が終わるや否や、やはり小出さんは机の中から文庫本サイズの本を取り出し、(しおり)を挟んでおいたページを開き、さっそく読み始めようとしていた。
 本にはカバーが掛けられていて、小出さんが何のジャンルの本を読んでいるのかは分からない。分かれば、それが会話の糸口にもなるのだが。

 ――構うものか。
 こうなったら、当たって砕けろの精神だ。 僕はドキドキしながら、一度唾をごくりと飲み込んで、隣に座る小出さんに初めて声を掛けた。

「こ、小出さん、ちょっといい? 何の本読んでるの?」
「ひゃっ! そ、園川(そのかわ)くん! な、な、何? ど、どうしたの、いきなり?」

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 僕が声を掛けたその瞬間、小出さんはビクリッ――と。飛び上がるようにして椅子からお尻を浮かせ、大きく驚いた。そして小さく縮こまり、僕の顔を怖々として見ている。

 小出さんが初めて僕に発してくれた言葉、それは「ひゃっ!」、であった。正直、ショックを禁じ得ない。
 これは今夜も、僕は枕を涙で濡らすことになるかもしれないな。いやその前に、お風呂の中で小さくすすり泣いてしまうかもしれない。

 しかし、僕は頑張った。
 ショックを顔に出さず、平静を装い、どうにかして会話を続けようと、僕は頭をフル回転させ、こう答えた。
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「う、うん。小出さんって、いつも何の本を読んでいるのかなって。じ、実はさ、僕もこれからは本を読むようにしようと思ってたんだ。趣味を持った方が良いと思ってね。それでね、小出さん。良かったら、参考に本のタイトル教えてくれないかな?」

 嘘ではなかった。
 小出さんと仲良くするために、僕も本を読むようにしなければならない、そう考えていたのだ。やはり共通の趣味を持っていた方が、小出さんとの心の距離も近くなるだろうし。

「ええ!! た、タイトルですか!? え、えと、えと……しょ、小説……です。タイトルは……内緒です」

 小出さんは目を右へ左へキョロキョロさせながら、かなりの動揺を見せた。
 僕はただ、小出さんと仲良くなりたいから、読んでいる本のタイトルを知りたいだけなんだけど。

「え、どうして? どうして内緒なの? 内緒にされると、僕も余計気になっちゃうな」
「えと、は、恥ずかしいから……」

 小出さんは持っていた本を隠すようにして抱きかかえ、小さな声でそう言った。

 なんだろう。
 実は小出さん、エッチな小説でも読んでいるんじゃないだろうか。だから、僕にタイトルを教えることが出来ないんじゃないだろうか。

 それとも。
 僕は、小出さんに本のタイトルすら教えてもらえない人間なんだろうか。そんな価値すらない男なんだろうか。これはちょっと、いや、かなり深く落ち込むね。
 僕はあまりのショックに肩を落とした。ああ、知りたかったな、小出さんが読んでる本のタイトル……。

「え!? あ、あの、園川くん!? どうしたの!?」

 僕の落胆した様子を見て、小出さんはあたふた。どうしたら良いのか悩み始めた。

「うーん……どうしよ……うーん……うーーん……」

 そして、恐々と。
 小出さんは、僕に話を小さな声で切り出した。

「だ……誰にも言いませんか?」

 その言葉を聞いた瞬間、落ち込んでいた僕の顔に明るさが戻った。良かった! タイトルを教えてもらえる! これで小出さんと同じ本を読んで、心の距離を近づけることが出来る!

「もちろん! 誰にも小出さんが読んでる本のタイトルのことは言わないよ! 僕、口だけは堅いから!」

 僕の言葉を聞いて、ちょっとだけ安心した顔をする小出さん。
 そして小出さんはひそひそ話をするように、僕の耳にそっと顔を近づけた。彼女の吐息が耳にかかる。

「……オッサンが異世界に転生したらレベル九十九のマスターになって敵なしだけど、戦うのが面倒なので辺境の地でひっそり暮らします……です」

 ……え?
 ……何?
 ……あらすじ?

 妙だぞ。僕は先程、確かに本のタイトルを教えてくれと訊いたはずだ。しかし、小出さんは今、確かに、本のあらすじを僕に伝えてきた。
 これは一体……。

 ああ、そうか。小出さん、勘違いしちゃったんだ。僕があらすじを知りたいと勘違いしちゃったんだ。
 でも『タイトル』と『あらすじ』を間違えることなんてあり得る……のか?
 んーー? 何だこれ。
 僕は何か試されているのではないだろうか。
 はたまた、これは小出さんなりの、渾身のギャグなのではないのだろうか。だとしたら、僕はここで一発、ツッコミをれるべきなんだろうか。

 ……ないな。
 それはないな。

「こ、小出さん! 今のって、本のあら──」

 すると、僕にタイムアップを知らせるように、始業のチャイムが教室に鳴り響いた。
 そして小出さんはあわあわと、本を机の中に急いでしまい込んだ。

「小出さん! もう一度、僕に本のタイトルを──」
「もう訊かないでーー!!」

 ──それから。
 僕は授業中、小出さんの先程の言葉を、脳内で何度もリピートしていた。
 オッサンがどうとか言っていたな……小出さんは一体、何の本を読んでいるのだろうか。
 僕の頭の中は、『オッサン』という単語でいっぱいに。ぐるぐると『オッサン』が回り巡った。
 もちろん、英語の授業の内容は、まるで僕の頭に入って来なかった──。