鋭敏な俺と愚直な君




「いいなあ、みなとみらい」
「仕事じゃなくたっていつでも行けるだろ」
「微妙に行かない距離なんですよ、箱根と同じで」

 冷蔵庫の前で水のペットボトルをあおっている川村と、マグカップを持った小永井が話しているのを渉は廊下から聞いていた。
「パーティってなにやるんですか? ムズカシイ話を聞くだけですか?」
「当然、最新のプロモーションを見せられるだろうなあ。あとはもしかしたら気の利いたレクリエーションがあるかもしれんが期待はできないだろうな」

 当日の午後、緊張の面持ちでオフィスを出た茅子は、退社時刻間際に未だに固い表情のまま帰ってきた。小永井にどうだったー? と脳天気に声をかけられ、そこで初めてしおしおと表情が崩れた。
「緊張しました」
「そんなに!?」
「しょうがないよ、俺も肩が凝った」
 苦笑いしている清水からお土産の紙袋を渡された蓮見さんがさっそく漁り出す。

「お菓子は社章入りどら焼きか、フツウだな。このUSBメモリはプロモーション入りでしょ、どうせ。んでオリジナルブックカバー付き最新の自社製品カタログと。かさばるだけだよね、こんなの」
「いや、蓮見さん。これがいちばん大事だからっ」
 わかってて言っているだろう蓮見さんにツッコミを入れて川村がカタログを取り上げる。その間から、ひらっと紙切れが舞い落ちた。

「ん? なんだ?」
「なんだろね」
 蓮見さんがL判サイズの紙きれを屈んで拾い上げる。
「あら、カワイイ」
「なんですか?」
 横から覗き込んだ小永井が目を丸くしてからにやにやと茅子を振り返った。
「カヤコチャーン、お嫁に行くときにしか着ないって言ってたくせに~」
 きょとんとしていた茅子だったが、数秒後には顔を真っ赤にして蓮見さんの手からL判の写真らしいものを取り上げた。
「ち、ちが……違う、です」

「それ、バーチャルフィッティングの画像なんだよ」
 うまく話せずにいる茅子のフォローを清水がする。
「バーチャル? うっそ」
「すごかったよね。体の動きに合わせてちゃんと服がひらひらするんだ」
「言われなきゃわからないですよ。カヤコチャン、それもう一回見せてよ」
 手を出す小永井に茅子は後ろ手に写真を隠してぶんぶんと首を横に振る。
「もー、減るもんじゃなし」
「はいはい、もういいでしょ。ほら、定時だよ定時。帰ろ帰ろ」

「……プリント断ったのに、いつの間に」
 皆が帰り支度を始める中で、茅子がぼそっと落としたつぶやきを渉の耳はしっかりキャッチしていた。
 茅子が責めるように見上げているのは清水で、彼はしれっと微笑んで言った。
「可愛かったから」
 あれ、どこかで聞いたセリフだぞ。渉が思う間もなく、茅子はますます赤くなって俯いた。やけに楽しそうな顔をして清水は係長のデスクに向かう。

 あれ。なんだよ、今のやりとり。ゆでだこみたいに縮こまっていた茅子が動き出す。そばで同じように硬直していた渉と目が合う。
 とたんに茅子は慌てたように顔を背け、自分の黒い鞄の中にらしくなく乱暴な手つきで写真を突っ込んだ。


 のろのろ身支度していたせいで随分後になって渉はオフィスの入っているビルを出た。
 気分がむしゃくしゃして駅とは反対方向に歩き出したりする。ぐるっと遠回りして駅までの帰り道に戻る。自分で自分を馬鹿みたいだと思い、それで妙に冷静になれた。

 ロータリーへの短い横断歩道の手前に見慣れた後姿を見つけた。茅子だ。
 信号待ちの間に、茅子はふと、鞄の口を開けてそこに視線を落とした。閉じた日傘を手首にかけ、もう一方の手で鞄の中を探る。
 紙切れを取り出して見入っている。かと思うと、楽しそうな笑みを漏らしてまた鞄の中に例の写真らしきものをしまった。

 なんだ、やっぱり嬉しいんだな、女の子だもんな。一連の茅子の行動を見ながら近づいていった渉はぼんやり思う。彼女の意志に反して写真を持ち帰った清水は正しかったんだ。

 青信号になった横断報道を渡り切ってから渉は茅子に追いついた。
「お疲れ」
 いつものようにびくっと肩を跳ね上げてから茅子は振り向く。
「あ、お疲れさまです」
「俺よりけっこう前に出たと思ったのに」
「寄り道してたんです。手芸屋さんに」
 茅子は手にしたレジ袋型のエコバッグを軽く持ち上げて見せる。渉が無言で首を傾げると茅子はふふっと微笑んだ。

「クリスマス会の飾りつけの準備をそろそろ始めないとなので」
「〈ひまわり〉の? クリスマスって、もう?」
「時間かかっちゃうから早めに始めないと。ぼんやりしてるとすぐに年末ですから」
 確かに、暑さでだらだらなって、涼しくなったと思ったらハロウィンがすぎて、街はあっという間にクリスマスカラーに変わっている、というのが毎年のパターンだ。

「高山さんも、ぜひ来てください。クリスマス会。真美さんも一緒に」
「え、いいの」
「食材をくださる農家さんとかイベントをやってくれる支援の人たちを招待して、ありがとう会も兼ねるんです。なので、ぜひ。花火ぱちぱちのお兄ちゃん来ないのって子どもたちも言ってるので」
「花火?」
「そう見えたみたいですよ」
 溶接の際の火花のシャワー。確かにあれは花火みたいだ。
「うん、わかった。行かせてもらう」
「まだまだ先の話なのですけど」
 ちょっと照れ臭そうに茅子は笑った。

 いつも彼女と別れる私鉄線の改札前に着く。
「お願いがあるんだけど」
 渉は立ち止まり、思い切って茅子に向かって拝んで見せた。
「さっきの、写真。見せてくれない? 俺見えなかったから」
「え」
 茅子の頬がまた赤くなる。
「見なくていいです、あんなの」
「気になるんだ、お願い」
 ストレートにお願い攻撃をかける。
「だめ?」
 子どもっぽいやり方でも、茅子は押しに弱い。思った通り、しぶしぶといった感じで鞄から写真を出した。

 肩を出したシンプルなデザインの純白のドレスだった。髪型はアップになっていてティアラをつけてベールまでかけている。写真の茅子は、両腕を軽く持ち上げてスカート部分の広がりを確認するようなポーズをしていた。
 妹の真美が小さなころ、何かのときにふわふわのスカートを着せられて、はしゃいでくるくると回っていたのを思い出した。スカートがひらひらと舞い上がるのが嬉しいみたいで。
 普段質素にしていても、茅子だってこういうことが嬉しいのだ。そんな当たり前のことに気づいて渉は目を伏せた。

「ありがと。可愛いね」
「いえ……」
 写真を鞄に戻して茅子は頬を染めたままぱちぱちまばたきした。
「そりゃあ、誰だって可愛くなれるんですよ」
「そうだね」
 なぜだか胸が痛くて息苦しい。
「誰でも、可愛くなっていいんだよ」
 茅子だって。でも、自分の見ていないところで可愛い顔をするのは、やっぱり嫌だ。

 渉が黙ると、茅子も黙って困ったような顔をして日傘の持ち手を何度も握り直していた。
「あの」
「じゃ、また明日」
「……はい」
 何か言いたそうな顔をしている茅子を残し、渉は改札を通り抜けた。
 トラブルは突然やってきた。
 なんだこんな若造を寄越してバカにしてるのか。話にならない。上司を呼んでこい上司を。
 あまりにテンプレートなコンプレインを浴びせかけられ、渉(わたる)の頭は凍りついた。

 渉が初めて単独契約にこぎつけた取引先の社長さんが「今期黒字だったから設備投資を考えているらしい」と紹介してくれた企業だった。
 まずは電話をして丁寧にアポイントを取り、今日訪問したわけなのだが。

 渉の父親よりもずっと年配らしい社長は、渉が差し出した名刺を放り投げて吐き捨てた。もっと話のわかる奴を寄越せ。
 肝心の話はまださせてもらっていないのに。しどろもどろな頭の中でマニュアルを開き、どうにかこうにか対応する。
 三和鉄工の社長様からご紹介いただいたのは私ですので、まずは私にお話をさせてください。そのうえでご要望など、帰社後に上司に伝えさせていただきます。

 しかし目の前のガタイのいい年配者は、若造の話なんか聞いても無駄だ、とにかく上司を呼べ、の一点張りだ。
 渉はすごすご係長に助けを求めざるを得なかった。驚いたことに駆けつけてきてくれたのは係長ではなく営業部トップの部長だった。

 いやいや別に高山さんが悪いわけじゃないんだよ、彼はまったく悪くない。もちろん担当は彼でかまわないよ。優秀そうな人だもの。
 渉にはまったく心当たりのない「部下の非礼」を部長が詫びると、社長はころりと態度を変えた。渉にはわけがわからなかった。

「役職のついた人間に頭を下げさせたかったんだろ。よくあるコンプレだ。おまえは何も悪くない」
 会社に戻ると、居室にいた先輩営業マンたちが口々に声をかけてくれた。もう皆知っていたのだ。
「事故だよ、事故。気にするな」
 川村にバンバン背中を叩かれて渉は力なく頷く。
「部長は何か言ってたか?」
「何も」
「だろ。おまえのせいじゃないんだから気にするな」

「高山はコンプレもらうの初めてだもんな」
 清水が眉を寄せながら渉の顔を覗き込む。
「そうだっけ? オレなんか何件あったやら」
「おまえのは正真正銘のクレームだろうが! 気ぃつけろや」
「最近めっきり減ったじゃないっすか」
 能天気な遠藤のぼやきを聞いているといくらか気分は落ち着いたが。

 日報に経緯を記して係長に提出すると、担当を続けるかと問われた。もちろんここで誰かに代わってもらいたいだなんて弱音は許されないだろう。渉はやりますと答えた。前向きな気持ちでだった。
 けれど定時をかなりすぎてからひとりで会社を出ると、どっと体が重たくなった。
 川村が帰り際「明日は休みだしのんびりすればいいさ」なんて声をかけてはくれたけど「憂さ晴らしに飲みに行くか」とは言わなかった。彼にしてみればこんなことは気にするほどのことではなくて憂さ晴らしするほどのことではないのだろう。

 理不尽だ。日のすっかり落ちた街路を歩きながら自分が落ち込んでいるのか怒っているのか渉にはわからなかった。ただただ理不尽だ。社会のそれに初めてぶち当たったことを自覚した。
 鏡を見なくても自分がひどい顔をしていることがわかる。こんな顔で家に帰りたくない。
 改札前を素通りし駅構内の中央通路を通り抜けて戦国武将の像が佇むロータリーへと出る。キヨスクで缶ビールを買って街路樹を丸く囲んだベンチに座った。

 かしゅっとプルトップを開いたとき、自分の手の影がいやに濃いことに気がついた。
 背後を見ると、まだ低い位置に明るい月が浮かんでいた。ほぼ丸く見える。満月だろうか。渉はベンチを移動して月の見やすい位置に座り直した。月見ビールだ。
 既に秋といえるひんやりした夜気の中でビールの冷たさは体が震えるほどだった。疲れた身体に染み渡る、というやつだ。社会人になってこんなに疲れたのは初めてだった。

 自分は仕事に恵まれていると感じてはいた。本当にその通りだった。そして今日ぶち当たった事故など大したことではない。世間知らずの若造が少し意地の悪い年配者にいじられた、それだけのことでめそめそしてたら恥ずかしい。

 商店街や商業ビルが連なる向こう側のロータリーとは違って、こちら側は人通りもなく静かだった。新幹線が到着すれば、しばらくしてから荷物を抱えた人たちがタクシー乗り場に向かったり迎えの車を待ったりしていたがそれも数人だ。

 これを飲み終わったら家に帰ろう。そう考えていたとき背後から声がした。
「げ、何してんの。おっさんじゃん」
 失礼な。首を捻って見上げる前に俊(しゅん)の方が渉の正面に回ってきた。学校帰りらしくブレザーの制服姿だ。いや、やってきた方向的に茅子の家か〈ひまわり〉に行ってきたところなのだろうか。
「帰り道こっちじゃないだろ、ストーカー? きも、やめてよ」
「なんでもかんでもストーカーって言えばいいと思ってない?」
 俊は肩を竦めて無駄話する気はないとばかりに駅の中へと入っていった。
 とたんになんだか寂しい気持ちになって渉はスマートフォンを取り出した。いつもやりとりしている友人たちに愚痴のメッセージを送ろうかと考える。詳細を伝えなくても、仕事でムカつくことがあったとグループトークに上げれば励ましの言葉が送られてくる。飲みに行こうと誘ってくれる。今までは渉は言葉を送る側でしかなかっただけだ。
 しばらくの間メッセージアプリの画面に目を落としていた渉だったが、自動ロックで光が消えたのをきっかけにそのままスマートフォンをしまった。

 文明の利器の明かりが手元からなくなると影が差すほどの月光や夜気の香りや背後の街路樹の下草から聞こえてくる虫の音を感じた。長らく釣りに行っていないことを思い出す。日曜日に行かないかと父親を誘ってみようか。
 缶をあおって残りのビールを飲み干す。勢いで立ち上がろうとしたものの、やっぱりまだ飲み下せないものがある。

 はあっと後ろに手をついて背筋を伸ばしたとき、今度は密かに聞きたいと思っていた声がした。
「ほんとにいた……」
 独り言ちながら茅子が渉の前に来た。
 紺色のジャージのズボンにグレーのパーカー、足元は素足にスリッポンタイプのサンダル。家でくつろいでいたところを飛び出してきたといった格好だ。

「ダメですよ、夜はもう冷えるのに」
 月の光が肩に下ろした茅子の髪を縁取っていた。
「俊くん?」
「ええ、まあ……。まさかと思ったら」
 動こうとしない渉に眉を寄せた茅子はふっと息をついて隣に座った。

「ヤケ酒ですか」
「うん。カッコ悪いよね」
「あたりまえのことですよ。わたしだってよくやります」
「ほんとに?」
「ビールはミニ缶でないと飲みきれないので、家で飲むのはワインです。料理にも使えるし」
「おしゃれだね」
「おしゃれじゃなくて実用的なだけです」
 足を延ばして浅くベンチに腰掛けた茅子はずっと月を見上げている。

「……高山さんは、なんでもできちゃう人だから、だから余計に今日みたいに自分ではどうにもできないことがショックなんでしょうね」
「俺、なんでもできるわけじゃないよ」
「少なくとも、わたしにできることは高山さんにだってできますよね。数値入力だって、実はわたしより速いし」
 ちらっと渉を見返った茅子は口を尖らせていた。
「そんなこと」
「ありますよ。逆にわたしには溶接なんかできないし。……そういう人だから、わたしなんかと落ち込み方が違うんだろうなって思うんです」
「メンドクサイよね」
「そうなんですか?」
「なんか。呑み込めなくて」
 茅子はきゅっとくちびるを結んでまた月を見上げた。
「すっごく苦いコーヒーを飲むとき、どうしますか?」
「もともとコーヒーはブラックしか飲まないからなあ」
「お目にかかったことのないくらい苦いコーヒーだったらどうしますか? それでも飲まなきゃならなかったら」
「砂糖を入れる?」
「すっごく酸っぱいグレープフルーツを食べるときには?」
「グレープフルーツ? そもそも食べようって思ったことないし」
「もう。酸っぱいグレープフルーツには砂糖をかけて食べるんです。お砂糖成分があれば食べちゃえるんです」

「甘い物ってこと?」
「甘い物じゃなくても、味を変えればいいと思うんですよ。お酒だってそういう感覚じゃないですか? 洗い流したいっていうか」
「アルコール消毒? 危険だね」
「危険ですね、甘い物も食べすぎると危険です。なのでわたしは、たまの贅沢でスーパーのシュークリームを買って帰るだけで充分です」
 スーパーのシュークリームが贅沢って。渉は泣き笑いに近い感覚で頬を震わせる。

「貧しいからスーパーのシュークリームで我慢してるんじゃないですよ。贅沢って慣れてしまったら嬉しさが減っちゃう気がするんです。それって損なんじゃないかってわたしは思っちゃうんです。だから手が届く贅沢は大事なときに取っておいて、いつもはそれよりもっと手の届く贅沢で満足していたいんです。……どっちにしろ貧乏くさいですね」
 ひょこっと肩を上げた仕草がさっきの俊とそっくりだった。自分の浅はかな同情心を見透かされたように感じたけれど悪い気はしなかった。

「大事なときのために取っておきたい贅沢って?」
「内緒です」
 ふふっと笑って茅子は渉を見返った。メガネのレンズの向こうで瞳が細まる。
「さ、もう帰りましょう」
「帰るから、キスしていい?」
 茅子の茶色がかった瞳が丸くなる。頬を赤く染めて、でも俯かずに彼女は問い返してきた。
「どうしてですか?」
「好きだから」

 じっと瞳を瞠ってから、茅子はそっと囁いた。
「いいですよ」
 とたんに恥ずかしさが勝った様子で目を伏せる。
 指をのばして頬にかかった髪をすくいあげると、びくっとして目を閉じてしまう。
 悪いことをしている気分。でも言質は取ったのだから遠慮はしない。
 すくった髪ごと小さな頭に手をまわして引き寄せる。
 虫の音色が耳を打つ。唇をかすめる吐息と茅子の匂い。頭上には月の光。



 ふかふかの毛布が心地好くて渉は布団の中で二度三度と寝返りを打った。今朝はどうしてこんなに布団から良い匂いがするのだろう。洗い立てのせっけんの香りが鼻孔をくすぐる。そして目蓋の向こうがとても明るい。
 意を決して渉は目を開ける。布団のすぐ横の水色のカーテンが日差しに透けている。こんな窓際では朝日が眩しいはずだ。

 ごろっと寝返って反対側を見る。畳の六畳間の隅には小さな正方形のちゃぶ台がある。その横によく目にする黒い鞄がふたつ並んで置いてあった。渉のものと、茅子のもの。
 寝ぼけた頭でぼんやりそれを眺める渉の鼻にまたべつの良い匂いが漂ってくる。ちゃぶ台の向こうの襖が開いて茅子が顔を出した。
「あ、おはようございます。ご飯食べますか?」

 彼女の顔を見るなり昨夜のことを思い出して渉はがばりと起き上がった。茅子が慌てて顔を引っ込める。
「今用意しますから……」
 言わんとしていることを察して渉も慌てて脱ぎ捨ててあったワイシャツに腕を通した。
 渉が布団から出て服を着たのを確認すると茅子が部屋に入ってきて寝具をたたみカーテンを開けた。
「いい天気。布団を干せます」
 空を見上げて嬉しそうにそんなことを言う。

 次に茅子はちゃぶ台を中央に寄せて台ふきんで拭くと、いったん襖の向こうへと行って今度はお盆を掲げてきた。
「わたし朝はおにぎりなんです。今日は卵焼きとお味噌汁もあるので贅沢です」
 得意気な口調と共に目で促され、渉は食卓に着く。
「梅干し嫌いじゃないですか?」
「大丈夫。えと……いただきます」
「めしあがれ」
 くすりと微笑んだ茅子と向かい合って箸を取る。まず口をつけた味噌汁の暖かさが空きっ腹に染みる。と同時にぼーっとしていた頭にひとつの単語が渦巻きだす。

 責任。そうだ、責任を取らなければ。
 渉はくっと顎を上げて箸を置き姿勢を正す。急に改まった様子の彼を茅子がきょとんと見る。
 責任を取らなくちゃ。だって、彼女のはじめてを貰ってしまったのだから。

「俺……その。ちゃんと、責任取るから」
 ちょっと呆気に取られた感じで茅子はまばたきする。それからすっと真剣な顔になって箸を置いた。
「どういう意味ですか?」
「あの、だから……」
「結婚とか、そういうことですか?」
「う、うん」
「わたし、責任とか考えてもらいたくないです」
 凛とした茅子の口ぶりに渉は冷や汗が出てくる。思ってたのと違う。
 彼の混乱ぶりが伝わったのか、茅子は視線を逸らせてつぶやいた。
「結婚とか、考えられないです」
「なんで」
 昏い声音に渉は身を乗り出してしまう。どんなに不器用でも、いつもなんにでも一生懸命に頑張る彼女らしくない言い方だ。
 茅子は俯いて小刻みにまばたきする。そしてまた渉の顔をまっすぐ見た。

「わたしには親がいませんから」
「……知ってる」
「結婚て、本人たちだけの問題じゃないですから」
「それはそうだけど。でも」
「大事なのは気持ちだって、それはそうかもしれません。でも実際にわたしに親がいないことで負担になることがたくさん出てくるのです。披露宴だって、わたしには出席してくれる親族がいません。子どもができたら、大抵の人は実家を頼るでしょう? 相談したり子守を頼んだり。そうやって当てにできる母親がわたしにはいないんです。まとまったお金が必要なときに経済的に頼れる親も」

 すらすらと茅子が述べるのは現実すぎるほど現実で、彼女が日々それを見据えているのがよくわかった。
 もっともなことだけど、認めてしまってはいけない気がして、渉はどうにか否定したいと思うが言葉が出てこない。
「親がいないからって偏見だってこともあります。でも実際に起こるハンデは偏見じゃなくて事実なんです。そう思うとわたしには、結婚て考えられません」

 ひとつ息をついてから、茅子は挑むように渉に言った。
「でも高山さんのことは好きです」
「う、うん」
 思わず頷いて、俺も、と渉は付け足す。
「結婚前提じゃないといけませんか? それならわたしは……」
「そんなことない! まったくない!」
 いやいや、まったくないわけじゃないのに。ちらっとしっかり考えていたのに。
 でも切羽詰まった茅子の迫力に呑まれて、渉は全力で否定してしまった。

「よかった」
 ふしゅーと音がしそうなくらい胸をなでおろして茅子の表情が優しく和む。
「え、と。それなら、お願いします」
 真っ赤になった顔を隠すように茅子は頭を下げる。伝染するように自分も顔が熱くなるのを感じながら渉も頭を下げた。
「や、こちらこそ」
 そろっとお互いに目を上げてなんとなく笑い合った。

 ふと壁の方をみやった茅子が慌てた表情になる。
「いけない、九時をすぎたら俊くんが来るんです。その前に帰った方が」
「なんで。ちゃんと話すよ、俺」
「嬉しいですけど、俊くんのことだから騒いじゃうと思うんです。それで……実はわたし、今はもういっぱいいっぱいで。また日を変えてっていうか」
「ごめん気づかなくて。じゃあ帰るから」
「いや、あの、ごはん。ごはんは食べてください」