鋭敏な俺と愚直な君

 渉は肩を上げてTシャツの袖の匂いを嗅いでみる。そうか、こんな格好であんなに綺麗な茅子に触ろうとしたのだから、俊に怒鳴られたのも仕方ないかもしれない。

 頭からシャワーを浴びると、昨日からの物思いが泡と一緒に溶け出すように感じた。残ったのは顔を真っ赤にして俯いていた茅子と、なんだか寂しそうだった清水の微笑み。

 夕飯は天丼だった。さっぱりしたメニュー続きだったのに、いきなりのがっつり系登場にヘビーだよ、と心の中で突っ込む。やりとりから察するに、父親がそうめんにはもう飽きたと口を滑らせ母親がキレた結果、揚げ物投入となったようだ。自分だって揚げ物鍋の前で暑かっただろうに。

「お、やったね。がっつり食べたかったんだ」
 沈鬱な顔つきの父親に気づきもせず真美はぱくぱくと嬉しそうに天丼を食べていた。なんだかんだ渉もすぐに平らげ、早々に自分の部屋に引っ込んだ。

 ベッドに寝転んでスマートフォンを手に取る。不在着信の表示に心臓が跳ね上がる。一緒に体も跳ね上げて上半身を起こし、渉は画面に見入った。

 ほんの十分前に茅子から着信が入っていた。「増田茅子」という表示を食い入るように見つめる。箱根旅行に先立ってラインで連絡先を交換してはいたが、公私混同だと思われたくなくて「よろしく」のスタンプを送ったきりでやりとりはしていなかった。

 どどどどどうしよう、電話、折り返し電話をしなければ。画面をタップしようとした瞬間、指が触れる前に表示が通話画面に変わる。着信音が鳴り出すより先に、渉は受話器のアイコンを押していた。

「もしもし!」
『あ……』
 びっくりしたような声が漏れ聞こえる。
「高山です」
『あ、はい。増田です。何度もすみません。今、話してもいいですか』
「うん、大丈夫。足は平気?」
『ただの靴擦れですから。あの。それより、今日はすみませんでした。一生懸命修理してくれてたのに、わたしは遊びに行ったりして。恥ずかしいです』

 声の調子から、茅子がまた泣きそうな顔をしているのではないかと思った。
「なんか、行き違いがあったみたいだし。大体、遠藤のせいなんだよ。俺は気にしてないし」
『…………わたし、またやっちゃったなって。調子に乗って、気遣いが足りなかったなって』
「なんでそんなふうに言うの?」
『だって……』
 声が震えて、言い淀むような息遣いだけが耳に届く。

「街コンてどんなだったの? 何人くらいいた?」
 アウトコース気味に話題を変えると、きょとんとした気配の後、律儀に茅子は答えてくれた。
『男性と女性と十人ずつ、でした』
「カッコいい奴いた?」
『ええ? いえ、わたしあんまり覚えてなくて。貸し切りで美味しいごはんが食べれるって言うし、皆さん来るからって聞いて行ってみたら、知らない人ばかりでテンパっちゃって』
「遠藤のヤツ」
『いえ、きっとわたしがちゃんと聞いてなかったからいけないんです。なんかいろいろお話した気もするんですけど、覚えてなくて。お料理も、口に入れたときには美味しいって感動したのに、何を食べたのか覚えてなくて』

「知らない奴に連絡先訊かれたりしなかった?」
『ええ? どうしてですか?』
「どうしてって。街コンてそういうイベントだよ。良さそうな子がいればデートに誘いたくて連絡先訊き出す」
『そんな、そんなことはなかったですけど』
 清水がガードしてたのだろうな、と渉はそこは彼に感謝する。

『とても疲れて、早く帰りたくて。清水さんは気づいてたから、わたしを連れ出してくれたと思うんです。そしたら、足が痛くて歩けなくなっちゃって』
 声が小さくなっていき、「清水さんにもまた迷惑かけちゃいました」と茅子はかすれ気味な声でつぶやいた。
 渉の部屋は無音で、茅子の部屋もきっとそうなのだろう。お互いの呼吸だけを電話越しに感じる。

「ねえ。メシが美味かったんならさ、今度行ってみようよ〈地中海食堂〉。遠藤の出没スポットってのはあれだけど、店は俺も気になったんだ」
『デートですか?』
 思わぬ返しに、渉は黙ってしまう。
『や、ごめんなさい。調子に乗りました。皆さんとですよね。小永井さんも気に入ったみたいで、また来たいねって言ってたんです。お昼休みに行ける距離だし』

 自分の発言をごまかすように茅子は早口に言う。しまった。今更ふたりでとは言えない。痛恨のミスを犯した思いで渉は天井を仰ぐ。

『ご飯食べにお店には行きたいですけど、街コン? ていうのはもうヤダなって。俊にもいっぱい怒られちゃいました。あんなの、狼の群れに飛び込むようなもんだぞって』
「それは言いすぎ」
『俊くんは心配性なので。……とにかく、今日はありがとうございました。〈ひまわり〉に良くしてもらって』
「俺にできそうなことがあったから、やっただけだよ」
『ありがとうございます』
 改めて囁いた茅子の声がいつまでも耳に残った。




「もおおお、すごかったですよ。羊に群がる狼って感じで。オンナどもが清水さんの近くをキープしようとして」
「わー、目に浮かぶわあ」

「いやあ。見応えありすぎて、そっちに気を取られて自分の狩りがうまくいきませんでした。遠藤さんがちょろちょろうざかったってのもあるんですけど」
「遠藤くんもさ、オオカミになり切れないハイエナなんだよねえ、あの子」
「あはは。ハイエナ、ハイエナ」

 休み明け最初の出勤日。勉強会を兼ねた会議が終わった後で給湯室に向かうと、小永井のよく通る声が廊下まで聞こえた。おしゃべりの相手の蓮見さんは声を潜めているつもりのようだけど。

「あたしとしてはカヤコチャンを改造するのが楽しかったりするんですけど」
「磨けば光るものねー。いいなあ、若い子は可能性に満ち満ちてて」
「やー、そっち方向での清水さんの鉄壁のディフェンスも見ものでしたよ」
「あんたね、ほどほどにしないと自分が痛い目見るよ?」
「わかってますって。でもあたし気づいちゃったんですけど、カヤコチャンて……」

 思わず息を潜めたとき、小永井の声も途切れた。ひょこっと壁の際から小永井が顔を覗かせる。

「立ち聞きですか。やらしー」
「ちがっ。聞こえてきただけだし」
「いいですけど。昨日は高山さん来なくて残念でしたし、今度みんなで行きましょうよ。地中海食堂」
「そうだね」
 社交辞令だろうから渉も軽く返しておいた。



「いつまで仕事してんだよ、ほら、帰るぞ」
 川村が急かしてくれたおかげで定時に切り上げて帰り支度をした。遠藤も一緒に三人でエントランスに下りる。

「休み中、家族サービスでずっと休肝日でさ。一杯付き合え」
「そーゆー魂胆すか。だったら」
「おごらねーよ。レジャー貧乏ですっからかん」
 川村と遠藤がじゃれあっているのを聞きながら、渉は先にビルを出る。

「わーたーるぅ~」
 いきなり情けない声がして、横からがしっと抱き着かれた。
「うわっ、なに!?」
「渉ぅ、オレもう限界だよ。聞いてくれよ」
 高校時代からの友人、望月が泣き出しそうな顔で渉にしがみついていた。
「もおおお、付き合いきれないっすよ。式場選びならまだしも、ドレスの試着までいちいち付き合えって言うんですよ。男のオレが行ったってしょうがないじゃないですか! 友だちと好きに行ってくりゃあ、いいのに」
「そうなんだよなあ」
「一緒に行ったところでケンカになるのは目に見えてんすよ。どう? なんて訊かれたって、綺麗だよって言うしかないじゃないですか。どれがいいかな? なんてふられても全部同じなんだからどれだっていいんですよ、オレからしたら。そうすっと、真剣に考えてないってぷりぷり怒り出すんすよ」
「わかる、わかるぞ」
「ウェルカムアイテムっていうんですか? あれ、手作りしたいって言い出して。オレには席札を作れって、はあ? ですよ。金払えばやってもらえるのになんでわざわざ」
「ああ。おれも作らされたなあ。ちまちまと」
「マジっすか!?  意味わかんないっすよ。自分が好きでやるならいいんすよ、なんでオレにまでやらせるのかって話なんすよ」
「うんうん」
「だってふたりの結婚式でしょって。ちげーよ、おまえひとりで決めて、何がふたりの結婚式かって話なんすよお!」

 今日が初対面の川村を相手に、望月の愚痴は止まらない。
 既婚者の川村がいてくれて良かったと渉(わたる)は思う。自分にはまったく縁のない話に、どう宥めたらいいのか渉には見当もつかなかっただろうから。

「まあなあ、主役は花嫁だから。新郎なんか添え物よ、添え物」
「でも、背負うものが大きいのは男の方じゃないっすか」
「それを言い出したら泥沼になるぞ」
 行きつけの焼鳥屋の四人掛けのテーブル。ビールのジョッキを持ち上げて川村は苦笑いした。既にすっかりアルコールが回っている赤ら顔で、望月はちょっと黙った。
「男同士でガス抜きにならいいけど、本人に向かって言ったらダメだぞ」
「川村さあああん! アニキって呼んでもいいっすかあああ」

 駄目だ。こいつは完全に酔っている。渉の方が申し訳ない気持ちになったが、川村は面白そうに笑っていた。
「みんな通る道だからな。ガンバレ」
「たいへんっすね。結婚なんかやめちゃえばいいのに」
 何も考えていない遠藤の発言に、テーブルの下で川村から蹴りが入ったらしく遠藤はばたんとテーブルに突っ伏した。自業自得だ。

「結婚したら新居は? 裾野勤務になったんだろ」
 尋ねると、望月はとろんとした顔で渉を見て、それからはっとしたように目を見開いた。
「そうそう、それもさ。いずれ近くの社宅に入るつもりで、オレは今実家からクルマ通勤で頑張ってるわけ」
「うん」
「でもかおるは、自分の実家の近くに住みたいって。ここでももうドンパチよ」
「それもあるあるだなあ、嫁さんにしたら自分の母親を頼ることが多くなるから近くの方がいいって考えるわけだから」

 理解を示す川村に、望月は口を尖らせてまた訴える。
「それはまあ、気持ちはわかるけど、毎日通勤するオレの都合を優先してほしいっすよ。これから仕事が増えるぞって上司から期待されてオレだってやる気になってるのに」
「嫁さんは仕事は?」
「パソコン教室のアシスタントやってますけど、今教えてる新人が立ち上がったら辞めるって」
「うーん……」
「比べてどうこう言いたくはないっすけど、オレはやりがいのある仕事をしてるつもりです。こんな、モチベが下がるようなことは勘弁っす。オレが我儘なんすか?」

「多分なんだけどさ」
 川村は口に放り込んだ軟骨を呑み込んでから話し始めた。
「嫁さん側の我儘は、まあ、言っちゃなんだけど、小さいことばかりなわけだ。ドレス選びに付き合えとか、名札を作れとか。やってやれないことじゃないだろ?」
「それは、そうっすね」
「対して、望月くんの、新居は職場の近くにっていうのは大きな問題だろ。嫁さんにしてみれば誰も頼れる人がいない場所に移り住まなくちゃいけない。考えてみろよ。ダンナには職場の人間関係が既にできてるからいいけど、嫁さんの方が圧倒的に家にいる時間が長くなる、その上この後、出産・育児って大事業が待っているのに、孤立無援にならなきゃいけない。これってどうよ」
「それは確かに……」
「天秤に掛けるのもなんだけど。新居についてはどうしても譲れないっていうならさ、その他のことは歩み寄ってやればいいんじゃないか。〈ふたりの結婚式〉なんだからさ。多分、嫁さんは共同作業にしたいんだよ。しっかり共同作業で夫婦になれれば、その後のこともふたりで乗り越えられるって、そういう確信? 安心感? がほしいんじゃないのか?」

 いつの間にか聞き入っていた望月の瞳がうるうるしていた。
「わかりました、アニキ。その通りっすね。オレはちっさいオトコでした。かおるのちっさい我儘にイライラして。オレ、オレ、恥ずかしいっす……っ」
「あー、うん。実際のとこ、嫁さんの気持ちなんかわからんけどなー。こう思ってればいいんじゃないかっていうな、うん」
「さすが人生の先輩っす!」
「俺だってさほど年食ってるわけじゃないんだぞー」

 望月の愚痴が落ち着いた後はお互いの仕事の話などもした。
「自動運転てそこまできてるのか」
「きてますよ、レベル5までいけばナイト2000っす」
「うおお、ナイトライダーだ」
「産業用ロボットだってもうAI搭載で自分で学習するんですよね」
「工作機械だって対話型プロでプログラミングの自動化が当たり前になってるからな。人間の手間がどんどん減ってくよな」

「そうなったら、人間は何をすればいいんすかね?」
 渉が漏らすと、川村も望月も黙ってしまった。ひとりあっけらかんとしているのは遠藤だ。
「いいじゃないっすか、人間は遊んで暮らしてれば。も、みーんなAIとロボットに任せて」
「おまえみたいのは真っ先に淘汰されるんだろうなあ」
「ム、なんすかそれ」
「それくらいの危機感をもって、人間にしかできないことを考えなくちゃだろ」
「むー」

「渉はどう思う?」
「子育てとか」
 ぽろっと、ぼんやり考えていたことが口から落ちた。直後に、なんじゃそりゃとセルフツッコミを入れる。だが、望月も川村もうんうんと頷いた。
「感情的なことは人間ならではだもんな」
「そうするとなんか深くないですか? 仕事に感情を持ち込むのってよくないってのが今じゃないですか、でも逆に精神的な支柱が必要なことが増えてくってことですよね」
「想像力とか創造力とか」
「ドヤ顔するなよ。自分でうまいこと言ったと思ってんのか」
「遠藤くんて面白いよねー」
 場が盛り上がるのに笑いながら渉もビールのジョッキをあおった。




「確かにあるあるだわ。結婚式なんて大昔すぎて覚えてないけど」
「蓮見さん二回やったんじゃないですか」
「するわけないでしょ、あんな恥ずかしいマネ。今のダンナとは入籍しただけ。届けだって私ひとりで出しに行ったし」
「ひええ、それはクールすぎですよ」
 翌朝、渉が出社したときには遠藤がぺらぺらと昨夜の話を披露していた。

「仲直りできそう? 高山くんのお友だち」
 優しい蓮見さんが気にかけてくれて、渉はデスクチェアに座りながら頷いた。
「きっと大丈夫っす。あいつら高校のときからの付き合いで長いし、お互いのことよくわかってるだろうし」
「カノジョさんが我儘言うのも愛されてる自信があるからってワケね」
「羨ましいですねえ」
「小永井ちゃん、結婚するときにはめっちゃドレスとかこだわりそうだよね」
「いや、それは別に」
 ついっと冷めた目で小永井は遠藤の問いを両断した。
「式だってやるにしても、レストランウェディングで充分だし。チャペルに憧れとか別にないし。ドレスは着ようと思えばいつでも着れますし」
 自分のスマートフォンを操作して小永井はほら、と渉たちに見せる。次々スクロールする画像は、どれも白いウェディングドレスを着た小永井の全身写真だ。
「ブライダルフェアの試着会に行けば着放題ですからね。楽しいですよ」
「予定もないのにいいのかよー」
「いいじゃないですか、予定はいずれ入るんですから。ね、これとかカヤコチャン似合いそうだよ。今度一緒に行く?」
「え……」

 ふられた茅子は驚いた表情のまま首を横に振った。
「いえ、わたしは……」
「大丈夫、大丈夫。誰でもオーケーなんだから」
「いえ、そういうわけじゃなくて。あの、やっぱり、花嫁衣装はそのときだけ着たいっていうか、大事に取っておきたいっていうか」
 頬を染めて茅子が主張するのを聞いた小永井は軽くのけぞった。
「ええー。減るもんじゃないのに」
「あんたとカヤコチャンで価値観が違うの! それこそいいじゃない」

 蓮見さんがたしなめたとき、係長が立ち上がった。朝礼が始まる。
 姿勢を正して横目に窺うと、なんだか茅子が遠い目をしているように感じた。




 数日後には思った通り、かおると仲直りしたと望月からメッセージが入った。近々招待状を届けるとも。
 決して軽々しく結婚というものを見ていたわけではないけれど、予想以上の大変さに他人事のような感覚が一層増してしまう。

 ――嫁にするなら俺はカヤコチャンかな。
 ――オレが嫁にするから。
 清水と俊がそれぞれ使ったフレーズを思い出す。嫁。茅子が嫁。

 朝、茅子に起こされて顔を洗い、茅子と一緒に茅子の作ってくれた朝ごはんを食べる。休日ならば家にいて、洗濯をする茅子や掃除をする茅子を手伝う。日曜大工で庭に花壇なんてつくってもいい。昼食は自分がチャーハンを作れば茅子は喜んでくれるだろうか。下宿時代には自炊していたから料理のレパートリーは少しはある。キムチチャーハンとか高菜チャーハンとかお茶漬けチャーハンとか玉子だけチャーハンとか。少し早めの夕食でのんびり晩酌しながらテレビを見たりする。と、これはもろに渉の父親の生活パターンだ。
 うーむ、と自宅のリビングのソファで渉は腕を組んで目を閉じる。
 自分の妄想力の貧困さを思い知る。いかにも楽しいと思える茅子との時間も、具体的に想像できる彼女は、ジャージの上にひまわりのアップリケがついたエプロンをかけた姿だ。結局のところ材料が少なすぎる。

 そもそも、望月とかおるが社会人になって結婚というゴールに至ったのはそれ以前から長く付き合っていたからだ。渉の想像には肝心の過程がすっぽり抜けている。
 それを飛ばして結婚生活について考えてしまったのは望月の影響はもちろん、清水が以前「嫁」だなんて発言をしたからだ。ここでも、いかに自分と清水とで距離が開いているかを感じてしまう。
 つまり、自分の「好き」の気持ちが現実的かどうか。

「もう、めんどくさいなあ。さっさと押し倒しちゃえばいいのに!」
 そういうわけにはいかない。なにせ一度失敗している。
 ――フケツです!
 泣きながら詰られたのは、なかなかの衝撃だった。二度とあんな顔は見たくない。

「その前に言うことがあるでしょうが。言うことが」
 その通りだ。何が間違っていたかといえば「好きだから」と言わずに「可愛かったから」などとスカしたことを言ってしまったからだ。それだって素直な気持ちではあったものの。

「ええー。言葉より行動で示せじゃない?」
 う、そうだろうか。アクションしてしまっていいのだろうか。
「口より先に手が出るヤツなんてろくなもんじゃないよ」
 そうだよな、その通りだ。
「ちゃんと責任とるならいいじゃん」
 そうだ。責任だ、責任。
「事前にしっかり言質は取らなきゃだろ」
 そうか。言質……。

「んもー。お母さん、全然ロマンティックじゃなーい」
「ロマンティックで男と付き合えると思ったら大間違いだよ」
「あーもう! お母さんが横であーだこーだうるさいからいいトコ見逃したー」
「良かったじゃないか。コドモが見るもんじゃないよ」

 我に返ると、渉の前では母親と真美がいかにも酸っぱそうな緑色の極早生みかんを食べながらドラマを見ていた。
「食べる?」
 振り返った真美が一房差し出してくる。深く考えずに受け取って口に入れた渉は、あまりの酸っぱさに口を押えてソファの上で悶えてしまった。




 訪問先には九月決算の会社も多く忙しない空気を感じ取っていた頃、最大の取引先である国内メーカーの周年記念パーティに茅子と清水が出席することになった。
「営業部から三人出せって話で、部長が清水とカヤコチャンを連れてくって」



「いいなあ、みなとみらい」
「仕事じゃなくたっていつでも行けるだろ」
「微妙に行かない距離なんですよ、箱根と同じで」

 冷蔵庫の前で水のペットボトルをあおっている川村と、マグカップを持った小永井が話しているのを渉は廊下から聞いていた。
「パーティってなにやるんですか? ムズカシイ話を聞くだけですか?」
「当然、最新のプロモーションを見せられるだろうなあ。あとはもしかしたら気の利いたレクリエーションがあるかもしれんが期待はできないだろうな」

 当日の午後、緊張の面持ちでオフィスを出た茅子は、退社時刻間際に未だに固い表情のまま帰ってきた。小永井にどうだったー? と脳天気に声をかけられ、そこで初めてしおしおと表情が崩れた。
「緊張しました」
「そんなに!?」
「しょうがないよ、俺も肩が凝った」
 苦笑いしている清水からお土産の紙袋を渡された蓮見さんがさっそく漁り出す。

「お菓子は社章入りどら焼きか、フツウだな。このUSBメモリはプロモーション入りでしょ、どうせ。んでオリジナルブックカバー付き最新の自社製品カタログと。かさばるだけだよね、こんなの」
「いや、蓮見さん。これがいちばん大事だからっ」
 わかってて言っているだろう蓮見さんにツッコミを入れて川村がカタログを取り上げる。その間から、ひらっと紙切れが舞い落ちた。

「ん? なんだ?」
「なんだろね」
 蓮見さんがL判サイズの紙きれを屈んで拾い上げる。
「あら、カワイイ」
「なんですか?」
 横から覗き込んだ小永井が目を丸くしてからにやにやと茅子を振り返った。
「カヤコチャーン、お嫁に行くときにしか着ないって言ってたくせに~」
 きょとんとしていた茅子だったが、数秒後には顔を真っ赤にして蓮見さんの手からL判の写真らしいものを取り上げた。
「ち、ちが……違う、です」

「それ、バーチャルフィッティングの画像なんだよ」
 うまく話せずにいる茅子のフォローを清水がする。
「バーチャル? うっそ」
「すごかったよね。体の動きに合わせてちゃんと服がひらひらするんだ」
「言われなきゃわからないですよ。カヤコチャン、それもう一回見せてよ」
 手を出す小永井に茅子は後ろ手に写真を隠してぶんぶんと首を横に振る。