翌朝はまた男性陣のコテージのテラスで、箱根園のショッピングモールのベーカリーで買っておいたパンとコーヒーで簡単に朝食をすませ、早々に帰宅することになった。
「明日はもう仕事だからな」
「お疲れさまです。ありがとうございましたー」
集まったときと同じ場所で解散となった。
「じゃあ、あたしはバスなんで」
「オレも」
お疲れさまーと手を振って小永井と遠藤はバスのりばへと向かう。
残された渉と茅子は連れ立っていつものように駅舎へのエスカレーターを上った。
復路は道も空いていたのでまだ午前十時を少しすぎたくらい。日曜日で中央通路の人通りも少ない。
駅に隣接した商業施設の出入り口の前で、渉は思い切って足を止めた。
「あのさ」
「はい?」
ポニーテールを揺らして茅子が振り返る。帰るだけだったからか、今日はコンタクトはやめてメガネに戻り、昨日とは色違いのジャージに薄いブルーのTシャツ姿だった。
「コーヒー飲みたいなあって思って。少し付き合ってくれる?」
「そうですね。わたしも飲みたいです」
同意してくれたのが嬉しくて、渉はじゃあ、と促す。
店内のエスカレーターを更に上がってコーヒーショップに入った。ふたりともアイスコーヒーを頼んでカウンターで受け取り、二人掛けの小さなテーブルに席を決めて荷物を足元のかごに入れ、向かい合わせに座る。
「よく眠れた?」
「はい。ぐっすり。わたし、どこでも寝れるタイプなんです」
「いいなあ。俺も寝つきは悪くないけど、昨日はさすがに」
「朝ごはんのときにも話してましたね」
くすっと笑って茅子はストローでグラスの中の氷を静かに回した。
「夜、勉強してたっていうし、営業さんは大変ですね。わたしたちはトランプしながらおしゃべりしてたのに」
「おしゃべりって、俺の悪口言ってなかった?」
「いえ、高山さんのことは……」
「じゃあ、誰の?」
あ、という顔をして茅子は口元に手をあてる。
「いじわるですね」
「ごめん」
ちらっと上目遣いで睨まれて渉は素直に謝る。
「あーあ。帰ったら俺は昼寝だな。増田さんは?」
「一度帰ってお洗濯をして、それからお土産を置きに行こうかと」
「あれ、親とは別居?」
いいぞ、さりげなく聞き出せてる。自画自賛で会話をつなげていたのに。
「あ、いえ。親はいなくて……」
ぱちぱち二三度まばたきしてから、茅子はしっかりと渉の顔を見て言った。
「擁護施設で育ったんです、わたし。小学生の頃に両親が事故で死んじゃって、その後、一緒に暮らしていたおばあちゃんも死んじゃって、それで。ですから、お土産はお世話になった施設の先生と、今いる子どもたちに。あ、お城の向こうの〈ひまわり〉っていうところなんです。もともと幼稚園だった建物を改装して、すごく可愛くて遊び場もあって。先生たちも優しくて、一緒に暮らしてた友だちもみんな仲良くて……」
にこやかによどみなく話す茅子の口調はフラットだった。渉を見つめる茶色っぽい瞳の色も。
「わたしたち、あ、弟がいるんです。弟とわたしはラッキーなんです。姉弟一緒に同じ施設に入ることができて、親に虐待されて入ることになったわけではないし、施設によっては子ども同士のいじめもあるとか、でもそんなこともなかったし」
すらすらと茅子は話し続ける。もう何度も口にした内容を、暗記した文面を復誦するように。
「弟はまだ高校生なのですけど、とても優秀なんです。だから中学に入る前に里親さんに引き取ってもらうことができて、そのご夫婦もとてもいい人たちなんです。養護施設出身者って、社会に出てもうまくいかないって心配されるのですけど、わたしはこうやって皆さんのおかげでお勤めできていますし」
おそらく茅子は、相手の過剰な反応を引き出さないように身の上を話すことに慣れているのだ。
「会社の皆さんは知ってるんです。今年入社のおふたりにも知っておいてもらった方がいいかなって。あの……」
「そっか」
何か言わない限り茅子はひとりで延々と話し続けるような気がして、渉は無理に声を押し出した。
自分は全然、経験が足りない。こういうとき、何を言えばいいのかわからない。どんな反応が正しいのかわからない。それでもなんとか言葉を押し出す。
「そっか。たいへんだったね」
「いいえ、そんなこと」
茅子は小さく笑ってから、一息つくようにストローに口を付けた。
「……あの、わたし、ちゃんとお礼を言わなくちゃって思ってたんです」
「俺に? 俺、何かした?」
「だって、高山さんが誘ってくれたから、こんなに楽しい旅行ができて。とても、ありがたいなって」
じいっと渉を見つめて、茅子は言った。
「ありがとうございます」
そんなこと。だって、何より望んだのは渉自身だったのに。
「……楽しかったよね」
「はい。とっても」
ストローを回しながら茅子は明るく頷いた。
帰りがけ、出入り口近くの雑貨屋の店頭に茅子の視線が向かった。気がついて渉は茅子の目線を辿る。季節柄、日傘がそこに並んでいた。
「見ていく?」
渉は先に日傘が並んで下がっているスタンドに近づき、さっとポップに目を通した。
「ふうん。日傘ってカワイイね」
「そうですね」
後から近寄ってきた茅子の目が何種類もの日傘を眺めて泳ぐ。
「折り畳みじゃないほうが良いって、蓮見さんが言ってたので」
長傘タイプの日傘の、刺繍が入っているものに茅子の目がよく止まる。
「これ?」
縁に沿って小花の刺繍が連なっている紺色の日傘を渉が持ち上げると、茅子は目をぱちぱちさせながら頷いた。
「じゃあ、買ってきます」
「なんで高山さんが……」
「アンパンのお返し」
「や、あの、あれ、そんな高くないです」
「でも並ばないと買えないものでしょ、それを考えれば。これだってそんなに高いモノじゃないし」
「でも……」
値札を確認しようとする茅子の手をさっと避けて渉はレジに向かった。
ラッピングなどは大げさだと思い、反対にすぐに使えるように値札と一緒に他のタグなどもはずしてもらう。
「はい」
色違いの商品から値段を割り出そうとしていた茅子は肩を跳ね上げて渉を見返った。
「あの、でも……」
「もう買っちゃった」
ぐいっと手の中に押しつける。メガネのレンズの向こうで茅子の瞳が揺れる。
「ありがとうございます」
か細くつぶやいて茅子はきゅっと傘の柄を握る。
「大切にします」
「ははっ。大げさ。毎日使って」
「はい」
困り顔だった茅子がそこでようやく笑ってくれて、渉はほっとした。
そうだよ、自分が、彼女にこうしたいだけなんだ。これは自分のエゴなんだ。
駅の通路に出ようと自動扉の前に立ったとき、黒い影が目の前をよぎった。
「あれ?」
日傘を持った茅子が慌てて走り出る。
「おーい、俊(しゅん)くん!」
続いて駅ビルから出た渉の目に、下りエスカレーターを無理矢理駆け上って戻ってくる青年の姿が映った。以前、週末に茅子と一緒にいたあの青年だ。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃねえ。今から帰るってメッセは来たのに、なかなか帰ってこないから」
「ああ、ごめんね。もしかしてうちで待ってたの?」
「うん」
膝に手をあてて体を屈め、息を整えていた青年が、渉を見る。
「だれ?」
瞳を険しくし、声のトーンまで低くなる。
「あ、あのね。今、コーヒーを飲んで日傘を買ってもらって」
「……はあ?」
ぐいっと茅子の肩を抱き寄せ、青年は渉を睨み上げた。
「あんた、かやこのなんなのさ?」
「もう、俊(しゅん)くん。高山さんは会社の人。お世話になってるんだからそんな口の利き方しないで」
「すごく仕事ができてステキだって話してたヤツ?」
「や、その人とは違うけど」
心なしか慌てた様子で茅子は青年から離れ、渉(わたる)に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい。弟が生意気な口利いて」
「弟、さん……」
茅子の生い立ちを聞いて、そうなのだろうなと当たりをつけてはいた。高校生だそうだが、大人びていて二十歳はすぎているように見える。
茅子に背中を叩かれて俊は気持ちだけ渉に向かって頭を下げた。
これまたいつものように通路を連れ立って歩きだしたものの、茅子を挟んで反対側から俊はずっと渉を睨み続けている。
「あの。本当にありがとうございました。お疲れさまでした」
「うん、お疲れ。また明日」
「はい。また明日」
渉が乗る私鉄線の改札前でいつものように挨拶する。
にっこり笑顔の茅子の頭越しに鋭い目線を渉に向けつつ、俊は姉の肘を引いた。
「早くいこ」
「はいはい」
遠ざかっていく姉弟の背中を見送り、渉は大きく息を吐き出した。なんなんだ、この緊張感。
へなへなと腰を落としそうになっていたまさにそのとき、膝カックンをされて渉は崩れ落ちそうになった。
「おかえり? お兄ちゃん」
背後から見上げてくるのは妹の真美だ。高校のジャージのズボンにTシャツ姿でスポーツバッグを肩から下げている格好は、茅子と同じだ。
「今日も部活か」
「うん。バスケ部が勝ち進んじゃって。それよりさ」
渉と並んで、通路の先に顔を向けながら真美はくりっとした目を更に丸くした。
「あれ、増田先輩でしょ」
「先輩?」
「うちの三年生。生徒会メンバーで、SDGs達成のための推進活動とかバリバリやっててすごいんだよ」
「へえ」
改めて渉が目を向けた頃には、茅子と俊の姿は見えなくなっていた。
「お兄ちゃん、先輩と知り合いなの? 一緒に歩いてたの、うちの高校の子?」
「違うって。俺の職場の人」
お姉さんなんだって、と言おうとして渉は思い留まる。俊は里子だというし、やたらと話していいことなのか。
「ああ、増田先輩って〈ひまわり〉出身なんだよね。そっち関係ってこと」
「知ってるのか」
「有名だよー。里親の名前は星野さん、だったかな。僕がこうして勉学に励めるのも里親制度と星野のお父さんお母さんのおかげです、みたいな発表してたもん」
「そうか……」
なんというか、たくましい。
「っと、お兄ちゃんなんかにかまってる場合じゃなかった」
「おい」
「じゃあねー」
ショートボブの髪を揺らして真美はぱたぱたと走って行く。
「気をつけろよ」
聞こえないだろうと思いつつ渉はつぶやき、また重くため息を吐いて改札に向かった。
「カヤコチャン日傘買ったの? カワイイ」
「はい、あるといいかなって」
「そうだよ、少しは涼しいでしょ」
蓮見さんと話している茅子の視線が渉に流れてくる。渉は「黙ってて」と小さく首を横に振る。茅子はぱちぱちとまばたきして蓮見さんに目を戻す。蓮見さんの口元がふにょんと緩む。これじゃあバレバレだ。
ちょっと頭を抱えたくなりながら渉は計画表に目を通す。週初めの朝礼前は居室内がいちばんがやがやする時間帯だ。みんなスケジュールの確認と新しい資料を揃えるのに忙しい。
渉の向かいの席では清水が週ごとに提出する行動計画表を作成している。集中しているらしい清水の顔を見ながら、渉は昨日俊が口走っていたことを思い出す。
「すごく仕事ができてステキだって話してたヤツ」とはどう考えても清水のことだろう。茅子は清水のことを「すごく仕事ができてステキだ」と弟に話しているわけで。
「朝礼始めるぞ」
係長の声で条件反射のように姿勢を正しながら渉はしょうもない物思いを振り払ったのだった。
その日の帰りは定時より少し遅れた。月曜は大抵ばたばたしてしまう。
夜七時頃に駅前を通ると、駅舎へのエスカレーターを上ったところで呼び止められた。
「ねえ」
真美と同じ高校の制服を着た俊だった。タイをゆるめて半そでシャツのボタンをひとつはずし、二の腕にかばんの肩ひもをひっかけている。真美の話からイメージしていたのよりだいぶルーズな着こなしだ。
制服姿でもやはり大人びた雰囲気で、実年齢ではない役者が高校生の格好をしているみたいだ。
「ちょっといい。少しだけ」
目線で人通りの少ない場所を示されて、渉は黙って彼と一緒に通路の端へと寄った。
「あんたさ、かやこに気があるの?」
さて、どう答えるのがいいのか。迷う渉に俊はふんと鼻を鳴らした。
「日傘買ってやったり、バレバレなんだから認めれば」
それはそうだと思い、渉は頷いて見せた。
「うん。好きなんだ」
「かやこはやらないよ。オレが嫁にするから」
は!? と渉は混乱する。目の前の彼は茅子の弟なのではなかったか。
「嫁みたいに大事にして一緒に暮らすってことだよ。だから今頑張ってるんだ。横からかっさらうマネしないでよ。余計な心配だとは思うけど、ちょっかい出されるだけでも不愉快だから、かやこに近づかないで」
固まってしまっている渉の頭には俊が話している言葉の中身がなかなか染み込まない。
「そういうことだから、ヨロシク」
渉の反応を待たずに俊は背を向けてエスカレーターの脇の階段を下りていった。ぎこちなくそれを見送り、渉はどうにか改札に向かう。
うまく頭が働かないまま電車に乗って帰宅して、はっと我に返ったのは、ダイニングテーブルで白米をもごもご食べているときだった。
サバの水煮が入った味噌汁でご飯を流し込み、渉はリビングのソファに寝そべって音楽番組を見ている真美に声をかけた。
「なあ、増田俊くん、てさ……」
「え、先輩がなになに?」
真美はぴょこんと頭を上げる。
「なんだその反応」
「だって、まさか増田先輩とご縁ができるとは」
「ご縁って」
「あたしさ、応援団やってるじゃん」
「ほんとはチア部だろ」
「ほんとは、最初から応援団に入りたかったの! どうして入れなかったかわかる?」
「女の子は駄目とか」
「そう! お兄ちゃん知ってた? あたしはびっくりだったよ。人を応援したい、だったら女はスコートはけって、おかしくない? 大体チアリーディングって元々アメリカで、男子がやってたんだって。それがなんで今ではあんなスカートひらひらさせなきゃならないの? しょうがないからチア部には入ったけど、あのユニフォーム着るのだけはどーしても嫌で。ダメもとで生徒会の目安箱に納得できませんって入れてみたんだよね。そしたら増田先輩がすぐに話を聞きに来てくれて。とりあえず女子でも派遣て形で応援団に入れるようにしてくれたの。種目で男女別があるならともかく、性別で入部を拒否するのはおかしいって、今度の生徒総会で議題に挙げるって約束してくれて」
「すごいな」
「でしょ。こんなふうに新しいことをガンガンやるから煙たがってる先生もいるみたいだけどね、応援してる先生も多いし。デキる人は違うよねー。行動力がさ」
そこで、お気に入りのアーティストが登場したのか真美はテレビを見るのに集中しだした。
「はい。おめでとう!」
係長は拍手が上手い。気持ちよく音が響く。社会人にとって、あれが出世のコツなのかもしれない、などと失礼なことを考えてしまったことを渉は心の中で詫びる。
係長への成約の報告をすませた清水は、事務処理をしてもらうため茅子に書類一式を回す。
「お疲れさまです」
受け取ってさっと目を落とした茅子は、目を丸くして清水を見上げた。淡々と仕事をこなすタイプの茅子は、いつもだったらそんな反応はしない。
「峰岸製作所さん?」
茅子のつぶやきに清水は微笑んで頷いている。
「良かったですね」
「うん」
ふたりだけで通じる会話をしていることに渉の心はざわめく。聞かなきゃよかった。
「高山は居残り?」
「試算表作っちゃいたいんで。これ終わったら帰ります」
「おう、ガンバレ」
定時に退社するのが現代社会人の鑑。川村たちの背中を見送り、時間内に作業が終わらなかったことを渉は反省する。
「作表なら、わたしやりますよ?」
背後から茅子が言ってくれたが、彼女のパソコンが立ち下がっているのを見て渉は首を横に振った。
「大丈夫。ちょっと、数値をいろいろ試したいし。自分で確認しながらやりたいんだ」
「そうですか」
後ろからまだ茅子が見ているのを感じる。心許ないのだろうな、自分にだってできるのに。渉はなぜかムキになって数字の入力に集中する。
気がつくと、居室には渉ひとりになっていた。時間はまだ二十分もすぎていなかったけれど、集中できたから捗った。
プリンターに送信して印刷を出し、提案書と一緒にファイルにまとめる。
席を立って体を伸ばし、渉は給湯室に飲み物を取りに行った。誰もいないと思ったのに電気がついている。
流し台の前にマグカップを手にした茅子が立っていて、ぼうっと壁のカレンダーを見つめていた。てっきり帰ったものだと思っていたのに。
「増田さん?」
びくっと茅子は渉を見る。
「帰ったと思ったのに」
「あ、いえ。すみません……もうすぐお盆休みだなって考え事しちゃってて」
慌てた様子で中身を飲み干し、茅子はマグカップを洗った。
「作表は終わったんですか?」
一緒に居室に戻りながら訊かれて渉が頷くと、茅子は壁の時計を見て感嘆の声をあげた。
「速いですね」
「集中できたから」
「でも速いです。やっぱり高山さんも……」
お互いに身支度をしながらだったので茅子の言葉はよく聞き取れなかった。
表へ出ると外はまだまだ明るかった。街路樹でセミが元気に鳴いている。それでも日は西に傾きビルの影ができて日中よりは涼しかった。
「あのさ」
「はい」
「峰岸製作所さんって? ごめん、気にしてたの、聞こえちゃって」
「ああ……」
信号待ちで立ち止まったときに尋ねてみると、茅子は赤色の信号を見つめたまま少し考えこんだ。
「そうですね。いいお話だし。聞いてください」
「う、うん」
「清水さんが以前から担当してる企業さんで、二三年前にマシニングを購入されたのですけど、あの台風、被害がひどかった」
「ああ、うん」
「あのとき、工場が浸水被害にあって、マシニングもレーザー加工機も、工作機械のほとんどが使い物にならなくなってしまって。なのに、契約していた火災保険に水災補償が付いていなかったんです」
「ああ……」
今なら、リース契約ではない購入手続きの際には特に、必ず注意を促すよう会社からも指導されているが、以前はまだ意識が低かったのだろう。
「社長さんはどん底に陥って、そこで清水さんが動いたんです。仕事じゃなくて個人的に。とにかく早く受注ができるようにできる範囲で機械を揃えなきゃって社長さんを励まして、一緒に中古販売店を回って。無料回収業者をいくつも当たって処分のコストもかからないようにして、工場の床の泥をかきだしたり、お掃除の応援にも行って。わたしは書類関係のことを少しお手伝いしたので、それで話を聞いていたんです。一度、工場を見に行ったりもして。わたしは大したことはできなかったんですけど。……そんなところから、新しいマシンを導入できるところまで立て直せたんだなって感動して。良かったなって」
「…………すごいね」
「はい。すごいですよね。そう思います」
茅子の口調は普段より格段に熱っぽい。熱気をはらんだ夕暮れ時の湿った風が、今の渉には一際息苦しい。
ロータリーに面した商業ビルの一角で陽気な音楽が鳴り始める。屋上を利用した期間限定のビアガーデンが営業を始めのだ。
その音楽に引っ張られるようにして渉は別の話題を出した。
「うちの妹が……」
駅舎へのエスカレーターに乗る列についていた茅子は、きょとんと渉を振り返る。
「足元気をつけて」
「あ、はい」
エスカレーターのステップに先に足を乗せた茅子は、いつもとは逆に渉を見下ろす位置から少し振り返った。
「妹さんがいるんですか?」
「うん。俊くんと同じ高校なんだ」
「そうなんですか?」
目を丸くした彼女に渉はまた注意を促す。足元に目を落としてエスカレーターを降り、通路を進んで人の流れを避けた後、茅子は隣に並んだ渉を改めて見上げた。目線に応えて渉は頷く。
「うちの妹は二年生。先輩が先輩がって教えてくれたよ。すごく優秀みたいだね、俊くん」
「ええ、まあ、はい」
茅子はくしゃっと笑って顔を前方に向けた。
「俊くんは、なんでもできちゃうように見えるけど、それは本人が努力してるからなんです。学校の勉強も、ボランティア活動のことなんかも、たくさん調べていろいろな人の話を聞いて。わたしたち、週末にはいつも〈ひまわり〉に顔を出すのですけど」
「うん」
「俊くんは中学生の子や同じ高校生の子にも勉強を教えたりして。児童指導員のことが知りたいって先生方にテキストを借りたり。自分は立派な人間になるから……ならなきゃって」
「すごいね」
「はい」
私鉄線の改札前に来てしまっていた。渉は立ち止まって、茅子を通路の端に促し、そのまま話の続きを聞く姿勢を見せる。
茅子はまばたきしてから話を続けた。
「……無理してるんじゃないかな、大丈夫かなって時期もあったんです。でも、俊は生き生きしてて、頑張ることが楽しいみたいで。わたしにとって、彼は弟ですけど、でもすごく眩しいんです」
目を細めて茅子は少し俯いた。
「俊は、わたしのためにって言うんです。わたしのために頑張るから、立派な大人になるから、一緒に暮らそうねって言うんです」
「……うん」
「でもわたしは、それじゃあいけなくて、わたしなんかのためじゃなくて、もっと他のことのために頑張ってほしいなって思うんです。もっと、視野を広げてほしいっていうか。いえ、俊の方がずっといろいろなことを知ってはいるだろうけど。あまりその、わたしのことを言い訳にしてほしくないっていうか……」
茅子の言いたいことはなんとなくわかった。そこで渉は反論してみせた。
「それはどうだろう。どうだっていいんじゃないかな、それは」
「え……」
茅子はきょとんと目を上げる。
「だってさ、順番の問題だろ、それ。動機はなんだって、俊くんが努力してすごい人材になろとしていることは変わらないだろ。お姉さんのためにって頑張ってることが世の中のためになる。それって、それこそすごいことなんじゃない? 増田さんが困ることなんて何もないよね? むしろそんなふうに気負っちゃうのって自意識過剰なんじゃない」