鋭敏な俺と愚直な君

 その場にいた全員の軽蔑の視線を浴びて、遠藤は顔を真っ赤にする。
「はっ。してねーし、そんなこと」
「しました!」
「そんなひらひらしたスカートで会社に来るからだろ」
「なんですかそれ。痴漢にあうのはスカートが短いからだって理屈ですか?」
「似たようなもんだろ。男の気を引きたいからちゃらちゃらして化粧も濃くなるんだろ」
「ばっ……」
 ぷるぷると肩を震わせ立ち上がった小永井は、この時間になっても崩れない、綺麗にアイメイクの施された瞳を目いっぱい見開いて遠藤を見つめた。

「ばっかじゃないですか!? 自意識過剰のサイテー男。なんでそんな男のためにおしゃれしなくちゃならないんですか!? ちょっと考えればわかりますよね。化粧だの服装だの外見で判断するのはレベルが低い証拠ですよ! 女の子がおしゃれするのは自分のためです。自分に自信を持ちたいからです。鏡に映った自分を見たとき、冴えない顔の自分が映ってたらがっかりしてもっと冴えなくなっちゃう。可愛い顔した自分を確認できれば、よーし私はカワイイって自分で自分に元気をもらえるんです! 可愛いお洋服を着れば身だしなみや歩き方にだって気をつけようってなるんです。お洋服に相応しい自分になれるようにって。だから毎日メイクも頑張るし、可愛くなれた分、仕事も頑張らなきゃって思うんです。女の子がおしゃれするのは自分のためで、男のためだなんて思ったら大っ間違いですから!!」

 一息に言い放ち、彼女は椅子に座り直してぜいぜいと肩で息をした。あらん限りの小永井の主張に、遠藤は毒気を抜かれた様子でぽかんとなっている。

「あー、なんだ、おまえら」
 気まずい沈黙を破ってくれたのはいちばん年長の川村だった。
「言いたいことはもう言ったみたいだからさ」
 人差し指でぽりぽりこめかみを掻きながら、川村は交互に小永井と遠藤を見る。
「ガキみたいなケンカはやめてもう仲直りしろ。こんなくだんないことで仕事に支障をきたすなら、社会人としてどうかと思うぞ」
 引き締まった表情で言い切った後、川村はすぐに声音を和らげて言い添えた。
「ここはおれの顔に免じて」

 ぷっと清水が真っ先にふきだして、渉もそれに続いた。涙目になっていた茅子もほうっと息をついて顔をくしゃくしゃにした。まだ呆気にとられた表情で遠藤は自分の席に座り、小永井は指先で目元をぬぐうようなしぐさをした。
「ほら、とにかくドーナツ食え。そんでバリバリ仕事しろ。会社じゃそれがすべてだぞ」
 恥ずかしかったのか、川村は無理矢理そうまとめて手提げ袋の中からテイクアウトのアイスコーヒーを取り出して配ってくれた。


 ドーナツとコーヒーのブレークタイムを挟み、間もなく作業はやり終えた。
「あたしのミスのせいでゴメンナサイでした」
「お手伝いしたのはわたしの勝手だもん。謝ることないですよ」
 潔く頭を下げる小永井に茅子がいいよいいよと手を振る。
「まあ、オレも悪かった」
 数十分前とは別人のように遠藤も素直に言う。根が単純で直情タイプなだけで悪い奴ではないんだよな、と渉は心の内で肩を竦める。

 会社を出て、駅までの道を連れ立って歩いた。午後に営業車を運転してでかけたときには、フロントのワイパーを低速で連続作動させるくらいには雨が降っていたけどその雨も止んでいて、だが夜気はすっきりとは言いがたく、まだじっとりして雨の匂いが強かった。

 小永井はバス通勤、遠藤は寄り道をしていくのだと言って段々とばらけていく。
 駅の改札前までの短い距離、茅子とふたりきりになって渉は胸をはずませる。茅子とこんなに長い時間一緒にいるのは久しぶりだ。でも、もう別れる場所だ。
 何か話さなくちゃ、そう思っても言葉が出てこないまま改札前にたどり着いてしまう。

「え、と……」
 言い淀みながら後ろを歩いていた茅子を振り返る。茅子は俯いたまま足先をそろえて渉の前に立ち止まっている。
 あのときのことを、あのときの自分の気持ちを、ちゃんと説明しなくちゃ。懸命に渉は言葉を探す。

 とりあえず、謝るべきなのだろうとは思う。あんなことしてゴメン、と。でも待てよ、と思う。「あんなこと」ってなんだ。
 頬にキスをしたのは茅子のことが好きだからだ。好きだからキスした。それは間違いでもなんでもない。自分の自然な気持ちと行動だ。そりゃあ相手の了承もなくしたのは悪かったが。だがしかし。そもそもキスって必ず毎回許しを得てからするものなのだろうか。そうなのか? 許しを得ずにキスしたら犯罪なのか? そういえば、電車の中で見知らぬ女性にキスをして逮捕された男のニュースを見たことがある。そりゃそうだ、痴漢行為だ。え、自分が茅子にしたのは痴漢行為なのか。

 考えすぎて思考がぐずぐずになっている渉の前で、茅子がいきなり頭を下げた。
「すみませんでした」
「…………え?」
「わたし、ずっと態度が悪くて、すみませんでした」
 頭を少し上げて、メガネのフレームの陰から茅子は上目遣いで渉を見る。
「そうですよね。社会人としてダメダメですよね。もう引きずりません、ごめんなさい」

 しゅんとして、茅子はもう一度深々と頭を下げる。「は?」と渉は、先ほどの遠藤のようにぽかんと口を開けてしまう。
 まさか茅子は。さっきの川村のお説教を自分事と受け止めたのだろうか。
「…………」
 ふにょんと、頬が緩む。手を口元にあててそれを隠しながら渉は目を和ませずにいられなかった。まったく茅子は、どこまで真面目なのだろう。

「いや。謝られても困るから」
「でも……」
「だって俺、別に気にしてないし」
 地味に傷ついていたことはおくびにも出さずに渉は笑う。
「増田さんと、仲直りできるならそれで」
「……はい」
 顔を上げた茅子が、にっこりと微笑む。新調したメガネは以前の分厚いレンズと違って薄くてクリアーだ。駅舎の明るい照明の下で彼女の茶色っぽい瞳の色までよくわかる。

 その瞳がちょっと揺れて、茅子はでも、と目を伏せた。
「あんなことは、もうしないでくださいね」
「うん」
 即答しつつ、これは嘘だと渉は自覚する。「あんなこと」なら、いずれまたするに決まってる。今だってめちゃくちゃキスしたい。でもここで頷いておかなければ茅子に嫌われる。だから頷いておいた。彼は、わかりすぎるほどにわかってしまう男だから。




「あれえ、カヤコチャン。リップの色変えた?」
「はい。おかしいですか?」
「んーん、全然。可愛いよ。ピンクベージュでメガネの色と合ってる」
「はいはい! あたしが選んであげたの」
「そうなんです」
「ふうん、いいんじゃない? 小永井はもうちっと地味にしたらって思うけど、カヤコチャンはもうちょっと派手にしたらいいのにって思うもの。あんたたち、足して二で割ったらちょうどいいよ」
「なんですか、それー」

 けらけら笑う小永井の声を背中で聞きながら、渉はそっと首を捻る。
 にこにこと微笑みながら小永井の方を見ている茅子の横顔が目に入る。ピンクゴールドのフレームのせいで頬の色が明るく見える。その下の小さなくちびるも、今日はいつもより明るいベージュ色だ。
 渉の視線を感じたのか、茅子が目線を合わせてくれる。ぱっと少しだけ目を見開く。可愛い。

「朝礼始めるぞ」
 業務の始まり。皆がぴっと背筋を緊張させて係長の方を見る。茅子の横顔を視界の端で捉えながら渉は思う。やっぱりキスしたい。
 社会人デビューしてぼちぼち三か月。挫折組の噂が耳に届くようになり、渉(わたる)も少しナーバスになって考えてしまう。自分はどうやら恵まれているようだと。
 渉と同じ営業職の友人の何人かは悩んでいるようだ。言われるまでもなく営業なんて仕事には向き不向きがあるし、業種にも合う合わないがあるだろうということはよくわかる。

 渉の父親は溶接工だ。一人だけ弟子のような従業員を抱えて細々と小さな工場を営んでいる。住居から近かったので、渉は子どもの頃よく父の仕事を見に行った。
 鉄が焦げる匂いと飛び散る火花。油臭い薄暗い作業場は渉にとってなじみが深く、飛び込み営業では、不慣れな遠藤が踏み入るのを戸惑うような場所にもお邪魔して工場主に会うことができた。付き合いのある関連会社の知識がある分、話もはずむ。
「へえ、高山さんの息子さんかあ」
 腕のいい溶接工は年々減っているから、 どうしても人工でなければ、という加工過程を抱えている業者には父親の名前はけっこう知られている。狭い世界なのだ。

 もちろん父の工場を継ぐことを考えはした。だけど父親は自ら反対した。
 溶接工の仕事に将来性はない。今はロボット溶接が主流で、父親が受注しているような高度な技術が必要な作業ができるようになるには何年もかかる。そんなのじゃ渉は食べていけない。何より、渉の性格は外に出る仕事の方が向いている。まったく父親の言う通りだった。

「厳しい業界だからな、身体的にも」
 金曜日の終業後、少し飲んでかないか、と誘われて清水とふたりで行きつけの焼鳥屋でねぎまをつまみにビールを飲んだ。

「うちの親父は旋盤工だよ。細々やってるのは同じだ。夫婦二人が食えればそれでいいって」
「いまどき旋盤だけで食えるのもすごくないですか?」
 言ってしまってから失礼だったかと渉は目で謝る。清水は屈託なく笑ってジョッキをあおった。
「今はもうNC旋盤が主流だけど、小ロット生産の注文を付き合いの長いとこから継続してもらってるって感じな」
「うちもそんな感じっすよ」

 つぶやきに近い調子で相槌を入れて、渉もぐびっと喉にビールを流し込む。
 職人の子どもの自分たちが、プログラミングの知識があれば誰でも大量生産できるマシニングセンタを薦めて歩いているというのも、皮肉な話だと思ってしまう。
 そんなことを考えた翌日の土曜日には、高校時代の友人に会った。
「まあ、おまえは営業に向いてるよ。オレが保証する」

 高校で仲良くなった望月は、進学したのもふたりとも名古屋の大学で、実家を離れて遠方に下宿している者同士、大学時代にもときおり会って遊んでいた。自動車免許も向こうで同じ教習所で取ったりした。まずまず親しい友人のひとりだ。

 大手自動車メーカーに入社し、研究開発職志望だったが研修ではショールームにも回され、営業成績を出さなくてはならなくて大変だったという話を聞いて、世知辛いなあと渉は感じる。
「親戚に頼み込んでなんとか、だよ」
「あー、そうなるよなあ。厳しいな」

「だろ? おかげで希望通り開発室に行けることになったけど」
「良かったじゃん」
 大学で自動運転装置の勉強をしていたらしく、それを仕事に活かしたいと以前から話していた。社会貢献にもなる立派な仕事だ。渉はちょっと羨ましくなる。

「でもどうなんだろうなあ、おまえ人の顔色窺うとこあるじゃん? 相手の迷惑考えずにぐいぐい勧める図太さが必要だよな、営業って」
「そうそう。俺、ナイーブだから」
「自分で言うなって。でもほんと、しんどくないか?」
「今はまだそれほど」
 さいわい、客先とトラブルになったことはない。質の悪い客にかち合ってしまう「事故」にあったこともまだない。そういう苦労もこれからなのかもしれないが。

 多分、自分は「そこそこ」の人間なのだ。「そこそこ」観察力があって、「そこそこ」弁が立って、「そこそこ」愛想がよくて、「そこそこ」頭が良さそうに見える。だから相手に警戒を与えず受け入れてもらえる。
 先輩営業マンの川村も同じタイプなのだろうと渉は思う。川村は人の良さだけで相手の懐に入り込んでしまうようなところがある。遠藤も、ああ見えて目上の人間に対しては礼儀正しいから、あの調子のいいところを気に入ってさえもらえればお得意様を開拓できそうだ。昔気質の年配の工場経営者たちは遠藤のような若造をかわいがる傾向があるし。
 そんな客先との相性に関係なく、交渉術だけで契約をもぎ取るのが清水だ、と渉は思う。営業マンの鑑、彼を手本にするべきなのだろうけど、と思う。

「オレらまだまだひよこだしな」
「だな」
「そんななのに、あれなんだけどさ」
 アイスコーヒーのグラスのストローを口からはなして渉が目を向けると、望月は緊張した様子でいったん口を引き結び、それからおもむろに言った。
「結婚しようと思って」
「誰と?」
「かおるに決まってんだろ!」
 反射的に愚問を発してしまった渉に望月が突っ込む。言われてみればそれはそうだ。望月のカノジョのかおるも渉の同級生で、ふたりは高校時代からの付き合いなのだ。

「四年間遠距離で我慢してもらったしさ、もう結婚しちゃおうって言われて、それもいいかなって」
「え……向こうからプロポーズされたってことか?」
「あれ? そうなるか? うん、そういうことか」
「そういうもんか」
「そうだなあ」
 ちょっと言葉が出てこなくて、渉は黙って望月の顔を見つめる。望月も反応に困った様子で渉を見つめ返す。

 しばし男二人で見つめ合ったあと、ようやく思い至って渉は言った。
「それはおめでとう」
「ん、まあな」
 友人の結婚など渉にとっては初めてのことで、どう応じればいいのかわからなかったが、多分これで正解なのだろう。

 それで、と望月は改めて身を乗り出した。
「結婚することに決めたけど、入籍とか式とか全然まだ先の話で」
「うん」
「報告したのも親以外でおまえが初めて」
「そっか」
「今日もこの後、かおると待ち合わせて式場見学に行くんだけど」
「え、時間大丈夫かよ」
「あと少ししたら行くけど……ああ、だから結婚式、おまえに新郎側の受付とか、二次会の幹事とか、頼みたいんだけど」

 顔の前で両手を合わせて望月はぎゅっと目を瞑っている。こんなふうに拝まれてしまったら断れるわけがない。
「わかった。なにすればいいのか、まったくわからないけど」
「それは大丈夫。段取りとか全部こっちで考えるから。当日、動いてもらうだけでいいから」
「そうか」
 こくこく頷いて渉は了承した。初めてのことでとにかく何もわからないのだし。

 呼び出したのは自分だからと奢ろうとする望月を制し、割り勘で会計をしてファミレスを出た。
 ビルから外に出てみると、梅雨の合間の青空が鮮やかで、既に夏のような大きな雲の白さも眩しかった。週末の好天候のせいで行き交う人の数も多い。

「あっついな」
「もう夏だな」
「そのうちまた、釣りに行こうぜ」
「おう」
 短く言葉を交わして手を振ろうとしていた望月は、思い出したように通りを見渡した。
「おまえの会社、近いんだよな」
「そうだけど、ここからじゃ見えないかな。もう少し、先」
 腕を上げて渉は駅前通りの先を指差す。
「おれ、駅はあんまり来ないからな。今日は電車で行くんだけど。料理と酒の味見もできるらしいからクルマじゃないほうがいいって」
「はは、がんばれ」
「おまえも仕事がんばれよ」
 じゃ、と軽快に手を上げて、望月は駅構内へのエスカレーターを上っていった。それを見送り、さて自分はどうしようと渉は考える。

 まだ昼時を少しすぎた程度だ。ほぼ毎日通勤で来ている場所とはいえ、せっかく休みの日に出てきたのだからすぐに帰るのはもったいない気がしてしまう。少し探検して帰ろう。

 渉は懐かしい気持ちで、目抜き通りではなく駅前ロータリーの脇から伸びた古びた細道へと入り込んだ。高校時代、通学に毎日歩いていた道だ。
 渉の高校はこの道を抜けた先の坂を上った場所にある。今もどこかの会社のビル越しに校舎の屋根がのぞいている。

 車両が一台通れるほどの道路幅のその道は、両サイドに商店が並んでいる。その多くが老舗の甘味処や釜飯屋、金物屋やお茶屋、観光客相手の土産物屋で、つまりはこの通りはとても古びた商店街だ。

 元々は城下町のこの街は、有名観光地への玄関口なこともあって観光客が多い。が、人出は以前ほどではなく、数年前にはまだ店を開いていた個人の商店もしもた屋となっているようだ。学校帰りにいつも立ち寄っていた中古ゲームソフトのショップもなくなっていた。時代の変化をいやでも感じる。

 そんな中、昔から人気の惣菜店にだけは行列ができていた。間口の狭い小さな店で、正面の陳列ケースには天ぷらやコロッケやきんぴらごぼうなどの茶色の総菜類が何種類も並んでいる。

 その端に、こんもり積まれているのはコッペパンだ。大きさといい色といい、まさに給食で出てきた懐かしのコッペパンで、客が選んだ総菜をその場で挟んで販売してくれるのだ。
 コロッケやちくわ天やフランクフルトやポテトサラダも定番だが、いちばん人気なのはあんことバター、あんことホイップクリームの組み合わせで、このあんこが美味しくて、地元民の間では贈答用に使われるくらいこの店のアンパンが有名だったりする。惣菜店なのに。

 渉も家に買って帰ろうかと迷いながら順番待ちの行列に目をやる。
 そこに茅子の顔を見つけて、渉はとっさに電信柱の陰に身を隠した。
 それからそっと首をのばして窺ってみる。
 茅子はクリーム色の半そでのブラウスに紺色の膝丈スカート、黒のパンプスという服装で、出社の日とあまりに変化のない格好に、実は今日は仕事があったのだろうかと渉は混乱してしまう。いや、そんなはずはない。

 小永井にいじられて以来、サイドでシュシュでまとめるようになっていた髪は、今日は以前のようにうなじの後ろでゴムで結んでいる。それでも、野暮ったいメガネと前髪が替わっただけですっきりと品が良く見えるから不思議だ。それはもちろん、服装や外見をどうこう言うつもりはないのだが。

 ていうか、どうして自分は隠れてるんだ? やあ、偶然だね、俺もアンパン買いに来たんだ、とでも声をかければいいのだろうに。
 しかし今からそれをやろうにも、態度がぎこちなくなってしまいそうで怖い。

 また思考がずぶずぶになっている渉の視線の先で、順番が回ってきて店頭に立った茅子が店員に注文している。やはりパンをいくつか購入するようだ。
 しばらくして、手提げ袋を抱えた茅子が道路の方を振り返る。渉は知らずに体を竦める。
 いや、ダメだろこれじゃあ。行け、声をかけるんだ。

 意を決したとき、渉より先に茅子に近づいた人物がいた。茅子は笑顔になってその人物に手提げ袋を渡す。順番待ちの邪魔にならないよう、列から離れて彼女を待っていたような雰囲気だ。
 ふたりは肩を並べて駅の方へと通りを歩き始めた。

 茅子の隣を歩くその青年は、カジュアルな服装といい前髪を長く流した若手俳優のような髪型といい、年齢はハタチくらいに見えた。細身でひょろっとした長身で、小柄な方であろう茅子がますます小さく見える。

 だれ!? 茅子と青年の親し気な様子に愕然となって、渉はふたりの後姿をただ見送る。と、脚はなぜか彼らの後を追うように動き出していた。

 茅子たちは駅前ロータリーをぐるりと回り、先ほど望月が上がっていった駅舎へのエスカレーターに乗った。中央の通路を進んで、ファッションビルの入り口やJR線のりば、いつも渉と茅子が別れる私鉄線のりばの前も通りすぎる。
 新幹線のりばへの曲がり角も素通りして、茅子と青年は駅構内を通り抜ける形で再び外へと出ていく。おそらくこれが、茅子の毎日の通勤ルートなのだろう。

 ということは、これから向かうのは茅子の家なのだろうか。鼓動を速めながら渉の脚も止まらない。
 戦国武将の像が佇むこちら側のロータリーは正面側に比べて閑散としている。弓道部らしい荷物を抱えた高校生が数人歩いていた。高校生グループとすれ違った茅子たちは、高架沿いの脇道へと入っていく。
 更に路地を曲がり、また更に細い道へ進み、やがて住宅が並ぶ中の一軒のアパートの外階段をふたりは上った。二階建てで今風ではない、コーポと呼ぶのが正しいような建物で、掃き出し窓が上下に五枚ずつ並んでいた。

 玄関は建物の向こう側らしく、茅子と青年の姿は見えなくなってしまう。渉の視界から消える瞬間、茅子の後ろを歩く青年が嬉しそうに笑っているのが見えた。
「…………」
 蒸し暑さが少し不快ではあるが、それ以外はほのぼのとした休日の昼下がり。どこからともなく聞こえてきた廃品回収車のアナウンスで我に返るまで、渉は静かな住宅街の路地に突っ立ったままでいた。




 渉は職場での茅子しか知らない。
 営業事務の女性たちは基本オフィスでのデスクワークがメインで、電話対応はするが窓口業務はないから服装は自由だ。
 いちばん古参の蓮見さんは毎日パンツルックを通しているし、小永井はガーリーなファッションが好みなようだが、ぐっとカジュアルな着こなしで出社してくることもある。

 茅子は大抵が白いブラウスに紺色のスカートだ。ベストがないだけで事務服と変わらない色合いだ。
 最近でこそ小永井にアドバイスされてイメチェンしたが、以前は重たげな前髪とメガネで小さな顔の半分近くを隠し、セミロングの黒髪をやぼったく後ろでひとつくくりにしていた。
 極端に無口というわけではないけれど、黙々とパソコンに向かっていることが多い。そうと注意しなければ居ることさえわからない存在感のなさだった。

 それでも、彼女の仕事の丁寧さや細やかさ、エースの清水が茅子を頼りにしていることなどが見えてきて、渉は彼女のことを気にするようになった。
 しょっちゅうどこかにぶつかったり転んでいるのにドキドキして、茅子に仕事を頼むのに声をかけるときには少し緊張した。

 いくらか親しくなって食事に行ったり――清水もいたが――もできたが、それでも渉は職場以外の茅子を知らない。

 彼女が髪をおろすのを見たことはないし、きちんとしたオフィススタイル以外の、たとえばゆるっとしたTシャツやパジャマ姿の茅子を知らない。