「子どもの頃、ゲームをやりませんでしたか?」
オムライスを食べ終えて満足そうに微笑みながら茅子が話に入ってきた。
「わたし、ファミコンのゴルフが大好きだったんです」
「ファミコン? 『みんゴル』じゃなくて?」
「ファミコンです!」
いつの時代の人ですか。
水を飲んで一息ついた後、失礼しますと茅子は鞄を持って立ち上がった。化粧室に向かうのを見届けた清水が、またにやにやしながら渉を見た。
「高山は、カヤコチャンがイメチェンしたから俺が誘ったと思ってるだろ?」
渉が黙っていると、清水は笑みを消して頬杖をついた。
「それはないよ。ずっと前から狙ってた」
わかってたし。それは俺だって。でもここで下手なことは言えない。清水の方がずっとずっと交渉に長けている。黙っているのが花だ。
清水もそれ以上は何も言わず、空いた皿を下げに来た店員にデザートセットを追加注文した。
渉の隣に茅子が戻ってくる。
「まだ食べれるだろ。デザートがくるから」
「そんなにごちそうになるわけには」
「ここまできたら遠慮するなよ」
ケーキとコーヒーもたいらげて店を出た。居酒屋で奢ってもらったばかりだし自分の分は払うと主張した渉に清水は財布を出させなかった。
「彼女の前でかっこ悪いとこ見せたいのかよ」
お互いスマートにいこうと釘を刺されて渉は唇を噛む。悔しい。相手はまるっきり余裕なのだ。
「帰り道大丈夫?」
「大丈夫ですよ。まだ早い時間です」
駅の改札の前で挨拶を交わして別れた。歩いて行ってしまう茅子の後姿を見送る。残された男ふたりもどちらからともなく踵を返し、その夜は解散になった。
「おいしかったですねえ。オムライス」
月曜になっても茅子はにこにこと清水と話していた。くそっと渉はぶうたれる。オムライスくらいでポイントを稼げるなら、いくらだってごちそうするのに。
月曜は終礼がないので、就業時間がすぎるまで外ですごした。くたくたになってオフィスに戻る。事務員たちは帰ってしまったようで課の居室には誰もいなかった。
喉が渇いて給湯室でお茶を淹れることにする。向かうと、給湯室の電気がついていた。なぜか床に這いつくばっているのは茅子だ。
「どうした?」
顔を上げた茅子は泣きそうな顔をしていた。
「コンタクト、落としてしまって」
だと思った。
「使い捨てなんだから、別に探さなくていいんじゃない?」
「でも」
茅子は眉根を寄せて再び床に視線を落とす。見つけなければ気がすまない気持ちはわかる。だから渉も床にしゃがみこんだ。
「いえ、そんな。手伝ってもらうわけには」
「お茶淹れたいんだ。見つからないと身動き取れないだろ」
「すみません……」
焦った様子で茅子はますます床に顔を近づける。頭と背中を見下ろす形になって、渉はシャツからわずかに覗く白いうなじをガン見してしまう。サイドに流した柔らかな髪の後れ毛が色っぽい。
「あった!」
叫んで茅子が勢いよく頭を上げる。渉の顎の下にクリティカルヒットして、ふたりはその場で悶絶した。
「ご、ごめんなさいい」
痛みに涙を浮かべながら、茅子は真っ赤になって渉に謝る。
「いや。俺も悪いから」
渉としては、やましいことを考えていた罰を受けた気分だ。
「本当にごめんなさい」
左手で自分の頭を押え、右手には汚れてぐにゃぐにゃになったソフトレンズのコンタクトを乗せたまま、茅子はほろほろと涙をこぼす。
「え、そんなに痛いの? 大丈夫?」
冷たい床にぺたんと座って背中を丸める茅子の顔を覗き込むために、渉も精一杯体を縮める。
「そうじゃないの。なんだか、自分が情けなくって」
思わぬ言葉に渉は戸惑う。
「なんで?」
「だって、この頃わたし、調子に乗ってた。外見だけ変わった気になって、どんくさいのは変わらないのに。自分が嫌になる」
「え、なんで。コンタクト落としたくらいで」
「だって、大事なものだから。高山さんが教えてくれたんじゃないですか」
どきん、と渉の胸が高鳴る。いやいや、期待するのは禁物、と思いつつ頬が熱くなる。
「わたし、いつも勇気がなくてなかなか新しいことが始められないんです。メガネだって、いい加減新しくしなくちゃって思ってたのに気後れしちゃって、お金がないからって言い訳にして。なんでもそう。新しい世界に飛び越めない。失敗するのが怖いんです」
「みんなそうだよ」
思わず渉は囁いていた。みんなそうだ。しくじるのが怖い。拒否されるのが怖い。なかなか一歩を踏み出せない。
「わたしなんか何も取り柄がないし」
「そんなことない!」
これには渉は力強く否定の声をあげた。
「増田さんはすごいよ。仕事でミスがないってすごいことだよ」
「でも、その分時間がかかってるし。手早くこなしちゃう人のこと、羨ましいんだよ。でもわたしはそうできないから」
「そこだよ。増田さんみたいに丁寧に時間をかけてっていうの、できない奴の方が多いんだよ。早く終わらせたいから雑になる。集中力だってもたない。増田さんはさ、作業してるときすごい集中するだろ」
「ああ、うん。あの、子供の頃、おばあちゃんの内職を手伝ってて言われたんです。早く終わらせようとして雑にやってやり直すことになるより、少し時間はかかっても一度で丁寧に終わらせるのがいいんだよって」
「へえ、それを守ってるんだ」
「うん」
顔をあげて茅子がじいっと渉を見つめる。
「入社したばかりの頃。今よりもっとやることが遅くて落ち込んで。居残りするしかなくて、ひとりで泣きながら仕事してたんです。そしたら清水さんがドーナツを買ってきてくれて。わたしは表計算の間違いがないからすごいって。安心して任せられるって。だから時間かかってもいいんだって言ってもらって」
また清水か、と内心で鼻を鳴らす渉に気づくはずもなく、茅子はまた泣き始めた。
「また同じこと言ってもらえて嬉しいです。ありがとう……」
ぐしぐしと左手で目を擦ろうとしたから、渉はその手をやんわり止める。
「もう片方も取れちゃうよ」
「いけない。そうですね」
目を瞠った茅子の眼の下に、渉は素早くキスした。涙で濡れた頬は熱かった。
「え……」
茅子は食い入るように渉を見つめる。
「何したんですか?」
「何って……ほっぺにちゅう?」
「どうしてしたんですか?」
「どうしてって、可愛かったから」
さらっと答えると、茅子の顔はゆでだこのように真っ赤に染まった。
「ふ……」
腐?
「フケツです!」
すっくと立ちあがって茅子は叫ぶ。
「そんな理由でふらふらちゅうしちゃうような人なんですか!? 可愛いければキスしちゃうんですか、高山さんは。フケツです!」
しまった。「好きだから」ときちんと言うべきだったのに。つい心の声を優先させてしまった。バカバカ、俺のバカ。と後悔したところでもう遅い。
「軽蔑します!」
うわああんと泣きながら茅子は走っていってしまう。泣きたいのはこっちだ。ショックのあまり渉は座り込んだまま虚しく手をあげることしかできない。引き留めても茅子は戻ってはこない。
「馬鹿だなあ、思ったよりも」
声に目を上げると、清水が腹を抱えて笑っていた。
「焦りは禁物だろ」
わかってた。わかってたはずなのに。この失点を自分は取り戻すことができるのか。
がっくりしつつも渉は決意する。頑張るしかない。あきらめるつもりはないのだから。
今年は空梅雨との長期予報に反し、しとしと雨が降り続くじめっとした日々の中で、増田茅子の柔らかそうな白い腕を見たとき、渉(わたる)は半端じゃない清々しさを感じた。
「カヤコチャン、メガネに戻しちゃったの?」
「はい。やっぱりコンタクトは目が痛くなるので」
「可愛かったのにー。でもそのメガネもいいね、フレームがほんのりピンクで可愛い」
「あたし! あたしが一緒に選んであげたの。駅ビルで偶然会って。ねえ」
「はい。小永井さんに助けてもらえてよかったです」
「メガネ屋の向かいが本屋でしょう? カヤコチャン本屋の中からずーっとメガネ屋の方ちらちら見てて何やってんのかと思ったよ」
「なにそれえ」
「いえ……はい」
「そんでついでに服も一緒に見たの。カヤコチャン半そでの服あんまり持ってないって言うから」
「ああ、なるほど。それ、二階のお店のだよね。私も可愛いなあ、欲しいなあって思って見てたやつだもん」
「でしょでしょ。カヤコチャンに似合うと思っておススメしたのです」
確かに。ネックラインにパールビーズが並んだ紺色のカットソーはオフィス使いに最適で、かつ茅子にとても似合っている。清潔感のある彼女の魅力が三割増しだ。
背中で女性社員たちの会話を聞きながら、渉は心の中で小永井に向かって親指を立てる。
「でも会社だと、少し肌寒くて」
小さくとがった肘を撫でながら茅子は少し振り返ってカーディガンを手に取る。つられて同時に首を捻ってしまっていた渉の視線と彼女の目線がわずかに交わる。それだけで茅子はぱっと渉の目から顔を反らせた。
がーん、と渉は今更ながらショックを受ける。ここ数日の茅子のこういう振る舞いには慣れたつもりでいたのに、やっぱり地味に傷つく。
「朝礼始めるぞ」
女性社員たちはぴたっとおしゃべりを止めて係長の方を見る。その静寂の中で茅子がそっとカーディガンに腕を通すのを渉は横目に見ていた。
「誰か今日、香水キツくない?」
朝礼の後、アポイント先へ持っていく資料を確認している渉に遠藤が話しかけてくる。声を潜めるわけでもない普通の音量のそれに渉はぎくりとする。バカか、こいつは。
今朝出社したときから渉も思ってはいた。だからといって簡単に口にできることじゃない。匂いというのはとてもデリケートな事案なのだ。
現に、背後の女の子たちの席から凍りついた空気が漂ってきている。本当にコイツはバカだ。
「行ってきます」
「はい、いってらっしゃい!」
席を立つタイミングが同じになってしまい、連れ立って居室を出る渉と遠藤に見送りの声をかけてくれたのは係長だけだった。
「あれはないよな」
「ですよね」
「何がっすか」
昼食の時間まで遠藤と被ってしまい、何となく連れ立ってやってきたうどん屋に、先輩営業マンの川村もすぐ後からやって来ていた。
「香水だよ」
「ああ。だって、鼻が曲がりそうな匂いだったじゃないっすか」
「いや、そこまでは」
「湿気が多いと匂いも鼻につくからな。それに朝方はどうしても香りがとんがってるだろ、昼には落ち着くんだから」
「そういう問題じゃないっすよー」
思ったことをすぐ口に出すタイプの遠藤はてんぷらうどんの器から顔を上げ口を尖らせた。
「なに会社にちゃらちゃらして来てんだって話です」
どの口が言う、と渉はうどんを吹きそうになった。ちょっと前まで茅子が地味だの小永井が可愛いだの鼻の下をのばしていたくせに。川村もちょっと引いた眼で遠藤を見ている。
そういえば、遠藤は何度も小永井を食事に誘ったりしているようだが色よい返事をもらえずにいるようだ。ノリが良く八方美人の小永井だが、そこはしっかりしている。
それで遠藤は可愛さ余って憎さ百倍で目の敵にしているのだろうか。渉はそんなふうに推察する。
「そら、銀行員だの工場のおばさんたちと比べたらあれだけど、きちんとしてるほうだろ? よっぽどなら係長が注意するんだし」
「そうっすかあ?」
「許容範囲」
節をつけて断言した川村の言葉に渉もうんうんと頷く。遠藤は不満げに天ぷらの衣が浮かんだつゆをかきこむ。一緒に女の子たちの悪口を言ってほしかったのだろうか。冗談じゃない、渉には恐ろしくてそんなことはできない。
態度が悪いのは遠藤だけだというのに、自分まで女性社員たちに冷たくされている気がする。茅子に避けられ続けているのはいうまでもなく。
そりゃあ、ひとりでムラムラきて、勝手にほっぺにちゅうなんてした渉が悪い。あげくに言葉を間違えたのも痛恨のミスだった。だがしかし。そろそろ態度を軟化してくれてもよいのじゃなかろうか。
切なくため息を吐いて給湯室に向かっていると、そちらから声が聞こえてきた。
「オムライスの店?」
「はい」
清水と茅子の声だ。ぎくりとなりながらも渉はささっと壁に背を付ける。
「小永井さんたちが行きたいって。いいでしょうか?」
「なんで?」
清水の声にくすりと笑みが混じる。
「わざわざ断らなくても行けばいいよ。俺だけの店じゃないんだから」
「紹介してくれたのは清水さんなので、一応」
「マジメだなあ」
そうだ。茅子は真面目すぎる。だからエリート営業マンである清水が嫁にしたいなんて言うのだ。
まだ社会人一年生でしかない渉にとっては「嫁」だなんて現実的すぎてそこまで考えは及ばない。でも、自分が茅子のことを憎からず思っていることは確定済みの現在進行形で、その茅子が目の前で口説かれるのを指をくわえて見ているほどなよっちいわけでもない、と渉は自分を分析する。
ここは邪魔をしてやらねば、と己を奮い立たせて一歩を踏み出そうとしたとき、壁越しに大きな声が聞こえた。くぐもっていて何を言っているかは聞き取れなかったが、係長が誰かをどやしつける際のトーンな気がする。
給湯室から清水と茅子が顔を出す。廊下の壁に背を付けている渉に気づいて茅子はぱっと俯き、清水は吹き出しそうな顔をする。ちきしょう、と思いながら渉は踵を返して居室に戻る。
思った通り、係長の前に遠藤と小永井が立たされていて、お叱りを受けている最中のようだった。係長は薄いブルーのチラシを手にしている。
「今度の講習会はいつもと場所が違うから気をつけるようにって俺は念を押したよね」
「聞いてませんでした」
うなだれている小永井が小さな声で、でもしっかり言う。
「俺は遠藤くんに頼んだよな? 一応確認するようにって」
「でもそんなの、メモをちゃんと見ればわかりますよね」
「そこを一応、ちゃんと伝えろと言ったんだ!」
言い出しから最後に向かってボリュームが上がる怒鳴り方をしながら係長はふたりを睨む。
製造業事業所に工作機械のリース・販売をしている渉たちの会社では、地域の銀行や自治体に協力を仰いで講師を招き、地元中小企業の経営陣向けに補助金制度や資金繰り、最新技術の紹介や業界の動向などを説明するセミナーを不定期に開催している。
その会場としていつも借りている商工会議所ビルの大会議場を今回は押えられず、来月のセミナーは地元コンベンションセンターの小ホールで行うことになっていた。
どうやら、セミナー開催のチラシを印刷会社に発注した小永井が、場所はいつも通りだと高を括って確認を怠り、間違った情報のチラシができあがってきてしまったようだった。係長は遠藤に伝言を頼んだのに伝えられていなかったことで遠藤も一緒に怒られているようだった。
「この間違えた一千枚、どうしてくれるんだ?」
嫌味たっぷりに係長が言い放った直後、向こうの壁際から冷静な声がそれに答えた。
「係長。光堂印刷さんがすぐに訂正シールを刷って届けてくれるそうです」
今まさに電話を切ったという態の清水が係長に報告する。渉を含め居室にいた全員が気を取られている間に、清水は印刷会社に電話をかけて交渉していたらしい。彼の抜かりのなさに渉は内心で舌を巻く。
「だそうだ。おまえらふたり、連帯責任でせっせとシール貼れよ。居残りで」
話を終わりにするときのこの人の癖で、係長はぱんぱんと手を打った。まだ立ち竦んだままの遠藤と小永井を残してすーっと窓際の自分の席に行ってしまう。それで周りの社員たちもほっと緊張を解いて、叱られたふたりを慰め始めたりする。
しらーっとトーンダウンした係長の表情を見て、先ほどの怒り方は演技だったのではないかと渉は勘ぐる。清水がささっと立ち回ることも織り込み済みで、この頃営業担当と事務の女性社員たちの間でホウレンソウがうまくいっていないことを案じて、その中心人物であるらしいふたりをさらしものにして必要以上に怒って見せたのでは。
その当のふたりはお互いを見ようともせず自分の席へと戻った。
数時間後、オフィスに届いた訂正シールをA4サイズのチラシの該当箇所に貼り付ける作業を、渉と遠藤と小永井と茅子が黙々とこなしていた。終業時間はとっくにすぎている。係長が退社する際、遠藤と小永井を手伝うふたりをちらりと見たが、何も言われはしなかった。
幅一センチ、長さ六センチほどのシールをちまちま台紙から剥がしては、曲がって見えないように気をつけながら貼り付けていく渉を含む三人。一方で茅子は訂正シールを縦に一列ずつ切り分けると、台紙の端をシールの先が少し出るようにぐいっと折り曲げ、それをスタンドのように置いて一枚一枚を剥がしやすいようにしたうえで、手早くチラシに貼り付けていく。
「わ、そうすればいいんだあ」
感心した声をあげた小永井は素直に茅子のやりかたを真似しだす。それを見て渉も見習うことにした。
ちなみに、営業担当たちのデスクの島の中で、渉の席の隣が遠藤。その背後の島が営業事務の女性たちのデスクで、遠藤の真後ろが茅子、その隣で渉の後ろが小永井という座席配置になっている。この四人がそれぞれのデスクでちまちま内職しているわけである。
無言で作業するのに耐えられなくなったのか、早々に遠藤がため息を吐いて腕を頭上に伸ばした。
「あーあ、やってられっかよ」
席を立って廊下へと出ていく。遠藤がだらけた態度を取るのはいつものことだし渉は気にしなかったが、小永井はムッとした様子で一瞬遠藤の背中を睨み上げた。
一区切りつけ、訂正済みのチラシを持ち上げて端をそろえながら渉は遠藤のデスクの上を見る。遠藤が貼り付けたシールはどう見ても曲がっていて雑だ。これならやらせない方がいいかもしれない、などと渉は思ってしまう。
作業を再開しようとしたところに遠藤が戻ってきた。外の自販機で買ってきたのか、コーヒーの缶を持っている。どう見ても自分の分しか持っていない。
「ちょっと」
小永井がとんがった声をあげた。
「まさか自分だけコーヒー買いに行ったんですか? それも自分の分だけ?」
「ったりまえだろ」
「違いますよね。ここはみんなの分、買ってくるところですよね?」
「はあ? なんでオレがそこまでしなきゃなんねえわけ? オレは自分が飲みたかっただけだし」
「だからそのついでにみんなの分も買ってきてくれれば、わあ、ありがとうございます、これで頑張れます、とかモチベだって上がるのに。どんだけ気が利かないんですか!」
「ぶ、ふざけんな。なんでオレが気ぃ利かせんだよ。この残業、おまえのせいだろ。おまえの」
「おまえって言わないでください!」
子どものケンカか。ヒートアップしていくふたりを止めるか放っておくか。メンドクサイなあと、ちらりと考えていた渉だったが、茅子がおろおろしているのが目に入って、ここは自分がバシッと止めるべきだと思い直した。が、
「なにを騒いでるんだ、こら」
のんびりと言いながら清水が入ってきた。手にはドーナツショップの箱をぶら下げている。後ろには川村もいた。
「はかどってるか? 働いてないならドーナツとコーヒーはやらないぞ」
居残り組に差し入れを持ってきてくれたようだ。
「ほらー、これ!」
嬉々として小永井が、失礼にも先輩社員ふたりを指差す。
「これ! これが普通。気の利くオトコのフツウ! 遠藤さんはダメダメです!」
「はあ? ざけんな。ちょっと可愛いからって調子に乗って言いたい放題かよ。ろくに仕事もできないくせに!」
「それこそ遠藤さんに言われたくないですよ! いつもいっつもふざけた話し方しかしないで。仕事の頼み方だって説明ヘタクソなんですよ。だからこっちもミスするんです。いつも急かしてばっかだし」
「自分がバカだからだろ? 人のせいにするなよ、バカ!」
「そのバカのスカートの中のぞこうとしたのは誰だよ!」
小永井の暴露に、聞いていた渉の方が目の前がくらりとなる。遠藤……そんなことしたのか。
その場にいた全員の軽蔑の視線を浴びて、遠藤は顔を真っ赤にする。
「はっ。してねーし、そんなこと」
「しました!」
「そんなひらひらしたスカートで会社に来るからだろ」
「なんですかそれ。痴漢にあうのはスカートが短いからだって理屈ですか?」
「似たようなもんだろ。男の気を引きたいからちゃらちゃらして化粧も濃くなるんだろ」
「ばっ……」
ぷるぷると肩を震わせ立ち上がった小永井は、この時間になっても崩れない、綺麗にアイメイクの施された瞳を目いっぱい見開いて遠藤を見つめた。
「ばっかじゃないですか!? 自意識過剰のサイテー男。なんでそんな男のためにおしゃれしなくちゃならないんですか!? ちょっと考えればわかりますよね。化粧だの服装だの外見で判断するのはレベルが低い証拠ですよ! 女の子がおしゃれするのは自分のためです。自分に自信を持ちたいからです。鏡に映った自分を見たとき、冴えない顔の自分が映ってたらがっかりしてもっと冴えなくなっちゃう。可愛い顔した自分を確認できれば、よーし私はカワイイって自分で自分に元気をもらえるんです! 可愛いお洋服を着れば身だしなみや歩き方にだって気をつけようってなるんです。お洋服に相応しい自分になれるようにって。だから毎日メイクも頑張るし、可愛くなれた分、仕事も頑張らなきゃって思うんです。女の子がおしゃれするのは自分のためで、男のためだなんて思ったら大っ間違いですから!!」
一息に言い放ち、彼女は椅子に座り直してぜいぜいと肩で息をした。あらん限りの小永井の主張に、遠藤は毒気を抜かれた様子でぽかんとなっている。
「あー、なんだ、おまえら」
気まずい沈黙を破ってくれたのはいちばん年長の川村だった。
「言いたいことはもう言ったみたいだからさ」
人差し指でぽりぽりこめかみを掻きながら、川村は交互に小永井と遠藤を見る。
「ガキみたいなケンカはやめてもう仲直りしろ。こんなくだんないことで仕事に支障をきたすなら、社会人としてどうかと思うぞ」
引き締まった表情で言い切った後、川村はすぐに声音を和らげて言い添えた。
「ここはおれの顔に免じて」
ぷっと清水が真っ先にふきだして、渉もそれに続いた。涙目になっていた茅子もほうっと息をついて顔をくしゃくしゃにした。まだ呆気にとられた表情で遠藤は自分の席に座り、小永井は指先で目元をぬぐうようなしぐさをした。