菜野花畑星乃の美術手帖

「どういう事だ?」

 画版は全部調べたはずなのに。
 わけも分からず絵と星乃との顔を見比べる俺に

「それは先輩の絵が見えない場所にあったからです。こんなふうに」

 星乃は紙をくるりと裏返す。するとそこには、机の上に置かれた花瓶や本などを描いたデッサンが現れた。紙の隅には「山下」という見慣れないサインが入っている。

「それ、俺が描いたものとは違う……。一体どういう事だ?」

 星乃はデッサンを指さしながら説明する。

「ええと、これはあくまで私の予想なんですが、この山下さんという人は元々の自分の描いた絵を失くしてしまったんじゃないでしょうか? それで、適当な人物の紙の裏に自分の絵を描いた。今までバレなかったのは授業が終わるたびに紙を裏返して蓮上先輩のデッサンが表になるようにしていたんでしょう。でも、今回は忘れたか何かの事情で裏返しにできなかった。だから画版にはこの山下さんという人の絵が留められているように見えたんです」

「なんだって? それじゃあ俺の絵は最初からここにあったっていうのか?」

「そういう事になりますね。でも、この山下さんという人もよくやりますね。紙の裏面なんかに絵を描くなんて、紙質が違って描きづらいでしょうに」

 星乃は変なところで感心している。
 でも、俺には疑問が残った。

「ちょっと待ってくれ。それじゃあ絵の提出日にはどうするつもりだったんだ? この山下って奴は裏面に俺の絵が描かれたままのデッサンを提出しようとしたのか?」

 そんなの美術教師が不振に思うだろうに。

「うーん。もしかするとその時には先輩の絵を消して提出するつもりだったのかもしれませんね」

「なんて奴だ。腹いせにこいつの絵を今すぐ消しゴムで全部消してやろうか」

「まあまあ、蓮上先輩。落ち着いてください」

 星乃は俺をなだめると、どこからかカッターナイフと長い定規を持ってきた。
 かと思うと紙の角にカッターナイフを差し入れて切れ込みを作る。そして、その隙間に定規を差し入れると、ゆっくりと動かしてゆく。
 しばらくの間、ぴりぴり……という紙が破れるような音が続いたが、やがて

「できました!」

 と、得意げに星乃が2枚の紙を頭上に掲げた。それぞれに俺と山下の絵が描かれている。
 信じがたい事だが、どうやらカッターナイフと定規を使って1枚の紙を裏と表の真っ二つに分けたらしい。すごいテクニックだ。

「これで蓮上先輩も、この山下さんという人も絵を無駄にしなくて済みます。でも、他人の絵の裏に自分の絵を描くなんてやっぱりずるいですよね。罰として山下さんの絵は裏返して画版に戻しておきましょう」

 その言葉通り、山下の絵を裏返して、何も描いていない面を表面にして画版に留めた。これでこの絵は一見白紙に見える。山下は次の美術の授業で自分の絵が無いように感じて焦る事だろう。なかなか良いアイディアだ。俺の怒りも少し収まった。

「ありがとう星乃。本当に助かった」

「いえいえ、私こそマルス像の下敷きになっていたところを助けて頂いたわけですし、お互い様ですよ」
 
 星乃は照れたように頭を掻きながら、俺の絵を手渡してくる。
 それにしても、この菜野花畑星乃という少女はすごいな。まさか俺の絵が別の絵の裏に隠れているなんて予想もしなかった。
 もしかすると「あの問題」について助けになってくれるのでは……?

「なあ星乃、相談ついでにもう一つ頼みがあるんだが……」
「はい?」

 顔を上げる星乃に対して、俺は思い切って切り出す。

「……星乃は知ってるか? 中庭にある銅像の事」

「はて、銅像? 見た事あるような、ないような。いや、やっぱりあるような……むむむ。どんなんでしたっけ?」

「まあいい。百聞は一見にしかず。ちょっと中庭までついて来てくれ」

 俺達の通う高校の校舎は、上から見るとコの字型をしている。
 そのコの字の中にあたる部分。そこが『中庭』だ。

 芝生の生えた地面には歩道が整備され、花壇やベンチなんかもあり、生徒達のちょっとした憩いの場にもなっている。
 その中庭の片隅に設置されているのが問題の銅像。
 今、その前に俺達は並んで立っていた。
 幼い少年を模した等身大の銅像は、足を一歩後ろに引いて立ち、顔をやや下向けている。手は後ろで組んでいて、一見すると何か思案しているようにも感じられる。

「はー、こんな像があったんですねえ。知りませんでした。新発見」

 星乃は改まって像を眺め、そして首を傾げた。

「あれ? でもやっぱりこの像、どこかで見た事あるかなあ……? うーん……?」

「意識してなかっただけで、今までにも目にした事があるのかもしれないな。この場所にくれば視界に入る可能性は高いだろうし。ところで星乃は、この像の事をどう思う?」

「え? どうと言われましても……性的な意味でという事でしょうか?」

 唐突で曖昧な質問に面食らったのか、星乃は目を丸くしておかしな事を口走る。

「……性的な意味について以外の意見で頼む。見たままの感想を聞かせてくれないか?」

「ええと……」

 戸惑った様子ながらも、星乃は足を踏み出すと、像の爪先から頭のてっぺんまで眺め回したり、ぐるぐると周囲を歩きながら首をひねったりしている。
 やがて一通り見回した後で俺に向き直ると

「とっても上手だと思います。男の子の顔は整っていて綺麗だし、それに、細部の作りこみがすごいです。ほら、ここのシャツの皺なんて、まるで本物みたい」

 指を差しながら興奮気味に説明する。けれど、俺はそれに対して失望にも似た気持ちを抱いてしまった。

「木を見て森を見ずの典型だな」

「どういう意味ですか?」

「ほら、よく見ろ。この少年像、足の大きさや太さなんかは年相応に見えるのに、上半身にいくにつれて徐々に不自然に大きくなってく」

 言いながら、俺は像の隣に立つと腰を少し屈める。

「こうして並ぶとわかるだろ? 肩幅や頭部なんて特に大きい。胴だって妙に長いし」

「うむむ、言われてみれば確かに……」
「つまり、この像は、致命的にバランスが狂ってるって事だ。いくら細部のできが良くたって、これじゃあ台無しだな」

「なかなか厳しい事言いますねえ……あ、もしかして、この像を作る時にモデルになった子が、実際にこういう体型だったという可能性もあるんじゃ……」

「こんなたくましい肩幅の子どもがいてたまるか」

「えー、いるかもしれないのに……」

 口を尖らせながら不満げな星乃。

「蓮上先輩は、この像の事が気に入らないんですか? さっきから貶してばっかりですけど」

「ああ、気に入らない。こんな出来損ないみたいなものが、いっぱしの作品として扱われて、ここに置かれてるって事が。他にまともなものがいくらでもあったはずだ。よりによって、なんでこれなのかって」

 言いながら、苛立ちが表に出てしまった事に気付く。それを誤魔化すように、軽く咳払いした後で星乃に水を向ける。

「それにしても、こう言ったらなんだが、君は本当に美術部員なのか? この像の致命的な狂いにも気づかないのに?」

「そう言われましても……バランスがおかしいとしても、私はこの像の事を綺麗だと思ったんです。そういう事ってありませんか? ほら、ミケランジェロの作った女性像だって、なぜか男性みたいにたくましい体つきなのに、世間では評価されてるし。人体に忠実かどうかっていうのはたいした問題じゃないと思うんですよ。うんうん」

 さすがに俺でもミケランジェロくらいは知っている。ダビデ像やピエタなんかを制作した超有名芸術家だ。
 まさかこいつ、巨匠の作品を引き合いに出して、自身の見る目のなさを誤魔化すつもりなんじゃないだろうな……?
 疑いの眼差しを向けると、何を勘違いしたのか星乃は照れたように「えへへ」と頭を掻いた。褒めてないぞ。

「それで、蓮上先輩は私にこの像を見せてどうしようと思ったんですか? 感想を聞きたかっただけ?」

「実は、知りたい事があって……」

「知りたい事? なになに? 聞きたいです。教えてぷりーず」

「……この像は最初からこの場所に設置されるって決まってた。それは学校側も作者もお互い了承済みだったはずなんだ。けど、実際に像がここに置かれると、作者は『位置が違う』って言った。ここに置かれるはずじゃなかったって。変な話だと思わないか?」

「ほほう。たしかに不思議ですね。ふしぎふしぎ。自身の作品が風雨に晒されて傷むのが嫌だったとか? 最近は酸性雨の影響なんかも心配ですしね。でも、それなら最初の時点で了承しないだろうし……うーん、わかりません。それで、その作者の言葉って、結局どういう意味だったんですか?」

 俺は肩をすくめる。

「それがわからないから美術部員に助言を貰おうと思ったんだ。『位置が違う』。それなら正しい『位置』とはどこなのか。美術に詳しい人物なら何かわかるんじゃないかって」

「だったら私なんかに聞くよりも、作者に直接真意を尋ねたほうが早いような」

「尋ねたくても無理なんだ」

「どうしてですか?」

「この像の作者は、もうとっくにこの世にいない」
 星乃はぽかんとしたようにこちらに顔を向ける。

「だから作者の真意はわからないままってわけだ」

「あの、蓮上先輩はこの像と作者について、随分詳しいみたいですけど、これを作ったのって、有名な人なんですか?」

「さあ、どうかな。しかるべき場所ではそこそこの知名度だったらしいが。ただ、それとは別に、俺が個人的に知ってる人物だった。だから、さっき話したような、この像にまつわる作者の言動なんかについても詳しいってわけだ。だが、学校側もどうかしてる。作者の残した言葉の意味を調べようともせず、かといって撤去もせずに、ここにずっと置きっぱなしにしてるんだからな。きっと、この学校の偉いやつは、芸術を理解しない野蛮人に違いない」

「なかなか辛辣な事を言いますね。とても学校の犬である風紀委員長とは思えない反社会的言動です」

 そっちこそ辛辣だ。風紀委員長を何だと思ってるんだ。

 そこで星乃は何かに気づいたように首を傾げる。
「でも、そういう事情なら美術の先生に聞いたほうが良かったんじゃないですか? 私なんかよりずっと芸術に詳しいはずだし。絵も上手いし、かっこいいし」

 美術教師がかっこいい事と、この件に何の関係があるというのか。

「美術教師にはとっくに相談したさ。けど、話をした時点でわからないと言われてしまったんだ。だからこうして他の奴を頼ってる」

「そんなあ。先生がわからなかった事が私にわかるわけないじゃないですか。どこの天才ですか。世界文化賞受賞しちゃうレベルですよ」

 世界文化賞といえば、芸術分野におけるノーベル賞とも言える賞じゃないか。こいつは美術教師をやけに評価するんだな。
 そんなに尊敬してるのか? 俺は相談事を断られた時点で失望してさえいるのだが。
 それでも俺の頼みごとを引き受ける気になったのか、星乃は再度ゆっくりと像の周りを歩く。まるで手がかりを探すように。自身の左目の下のあたりに人差し指を当てながら。

 像のバランスは狂っているのかもしれないが、確かに細部の作りこみはしっかりしている。それは俺も感じていた。
  だからこそ不思議なのだ。細部にまで拘っていながら、どうしてこんな不格好なものができてしまったのかと。
 と、星乃はおもむろに芝生に覆われた地面に両手と両膝をつけると、下から像を見上げる。

「……君はなんなんだ? そうやって地面に這いつくばるのが趣味なのか?」

「いえ、像の見方を変えたら、何かわかるんじゃないかなーと思って……むむむ」

 なおも像を覗き込むように頭を地面すれすれまで下げる。反面腰の位置は高くなり……。

「パンツ見えてるぞ」

 俺の言葉に星乃はがばっと上体を起こすと、慌てて両手でスカートの後部を抑える。

「う、うそ!」

「嘘じゃない」

「しょ、証拠は?」

「……水色」

「ぎゃあ! 破廉恥! 破廉恥風紀委員長! セクハラ野郎!」

 星乃は真っ赤な顔でこちらを睨みつける。ちょっと涙目になっている。

「自分で見せておいて何を言ってるんだ。そっちこそセクハラだろ」

「見せてない見せてない! 見せてたとしてもセクハラどころかボーナスステージじゃないですか! 蓮上先輩のばかーーーー! もう知りません!」
 星乃はぱっと立ち上がり、背を向けて走り出す。かと思うと、あっという間に校舎の角を曲がって見えなくなってしまった。

 参ったな。どうやら怒らせてしまったようだ。真実を告げるという行為は、時として人を傷つけ、激高させてしまうものらしい。適当に嘘でもついてればよかった。白とかピンクとか。
 これじゃあ肝心の銅像の件についてわからずじまいだ。彼女はこの学校で唯一の美術部員だってのに。
 先ほどの言動をちらりと後悔しかけた時、走り去ったはずの星乃が校舎の柱の陰からひょこっと顔を覗かせた。ミルクティー色が揺れる。

「蓮上先輩ぃ! 私、すっごくいい事思いつきました! 明後日! 日曜日ですよね! お休みですよねえ⁉」

 両手をメガホンのように口元にあて、こちらに向かって叫ぶ。
 その声の大きさに、隣のグラウンドで部活動をしていた陸上部が、ちらちらとこちらへ顔を向ける。

 それを若干恥ずかしく思いながらも、負けじと星乃に言い返す。

「それがどうしたんだ⁉」

「朝十時! その像の前に集合!」

「は?」

「それじゃあ、約束ですよぉ! よろしくお願いしますねぇ!」

「え? おい、ちょっと……!」

 何事かと問う前に、星乃は素早く顔を引っ込めて、今度こそ戻ってこなかった。

 なんなんだ一体……。
 日曜日。約束の時間に、俺は中庭に向かっていた。
 断るにしろ事情を尋ねるにしろ、俺は星乃の連絡先を知らないのだ。

それに、もしかして彼女が例の少年像に関して何か気付いたのでは? という思いもあり、日曜日という貴重な休日にもかかわらず、こうして学校を訪れている。
 本日は晴天。ピクニックなんかにはうってつけの日和だ。
 グラウンドからは練習に励む陸上部の声がする。相変わらず熱心だな。
 中庭に足を運ぶと、そこにはひとりの少女の後姿。ほっそりとした体躯に見覚えのあるミルクティー色の髪。星乃その人だ。
 手近な木の枝で、像の前の地面に何か描いているようだ。近づいてみると、長方形になるよう土に溝ができている。
 その大きさはおよそ畳一畳分ほど。周囲には他にもシャベルやら台車なんかが置かれているが……何に使うんだ?

「……おはよう」

 とりあえず声をかけると星乃が顔を上げた。

「わあ、おはようボンジュールです蓮上先輩! ほんとに来てくれたんですね。嬉しい! 嬉し死にしそうです!」

 星乃は大きな目を輝かせると、感激したように胸の前で両手を組み合わせる。そんなに喜ぶような事か?

「それで、ここに呼び出したりなんかして、一体なんの用事なんだ?」

「それは……あ、そうだ。私ってば重大な事を忘れてました。汚れても大丈夫な格好で来てくださいって伝えようと思ってたのに……!」

 確かに今日の星乃は全身を覆う水色のツナギを身につけ、足には安全靴のようないかついブーツまで装備して、いかにもこれから汚れ作業しますという格好をしている。

 長い髪も今は首のあたりで結んでおさげにして、背中に垂らしていた。

 対する俺は長袖のシャツにインナーにチノパン。靴だって何の変哲もないスニーカー。

「別に汚れたらまずいってわけじゃないが……」

「わ、ほんとですか? それならよかった。今日のよかった探し終了!」

 ポリアンナみたいな事を言いながら、何かを渡してきた。見れば軍手が一組。

「それ、蓮上先輩の分です。使ってください」

「使うって、何の為に?」

「聞いて驚かないでくださいよ。なんと今からここに花壇を作ります! わーわーひゅーひゅー!」

 星乃は自分の発言を盛り上げるかのように手を叩いてはしゃぐ。騒がしいやつだな……。

「花壇……?」

 謎の盛り上がりを無視して疑問の声を上げる俺に対し、星乃は例の少年像を指し示す。

「この少年像を見て、私の創作意欲がビビっと刺激されまして。この場所に花壇を作ったら素敵かなーと思ったんです。これでも芸術家のはしくれとしての血が騒いだとでもいいますか。それで、先輩にはその花壇作りを手伝っていただこうと思って! どうですか? いい考えでしょ? でしょ?」

「ちょっと待ってくれ。なんで美術部員でもない俺がそんな事を? 君一人じゃ作れないのか?」

「私もそうしたいのはやまやまなんですが、生憎と膝に矢を受けてしまいまして……」

「それなら潔く諦めたらどうだ?」

「そんな事言わずに……! 駄目ですか? こんなにもかよわい女子高生がお願いしても駄目ですか?」

 星乃が上目遣いにこちらを見上げる。あざとい。しかし俺だって、休日に呼び出された挙句、突然こんなわけのわからない作業を押し付けられそうになるなんて到底納得できない。自分で「かよわい」とか言い出す輩相手ならなおさら。

「いや、駄目っていうか、必要性を見出せないというか……」

「パンツ!」