雨は嫌いだ。特に、夜の雨は。
日はすでに暮れ、辺りはしんとした夜闇に浸かっている。不規則な点滅を繰り返す不気味な街灯は、足元の安全を保証してくれるとまでは言いがたい。
「……はぁ」
やってしまった。
歩きながら、私――楠本 叶生は、片手で頭を押さえた。
今夜から天候が下り坂になるという情報は、朝の天気予報であらかじめ仕入れていた。それなのに、放課後、クラスメイトのひとりと口論になってしまった。
きっかけは些細だった。私がさっさと折れれば良かっただけだ。つい言い返して、結局、売り言葉に買い言葉――たまたま教室の前を通りがかった教師に見つかり、説教を受けている間に、気づけばすっかり日が暮れていた。
二年に進級したばかりで、進路について考える気にもまだなれない。基本的に争いごとを好まず、のんびりと日々を過ごしている。私はそういうタイプの人間だ。
でも、今日の喧嘩だけはどうしても折れたくなかった。
口喧嘩に発展した相手も、固唾を呑んで見守っていた数人のクラスメイトも、もしかしたら「らしくない」と思ったかもしれない。教室で友達と言い争うなんて、私だって自分で自分らしくないと思う。
折れるべきだった。雨が降ることと夜になること、そのふたつにこうして苛まれる事態に陥るよりなら、そちらのほうが遥かにましだった。
はぁ、と溜息が零れる。足を進める途中からぽつぽつと道を濡らし始めた雨に……というよりは、こうなると知っていてこんな時刻まで時間を使ってしまった自分自身にこそ舌打ちしながら、私は急ぎ足で帰路を進む。
大通りの交差点を過ぎて右に曲がった辺りから、街路は急に細くなる。この道は好きではない。途中に小さな祠があり、そこからさらに数十メートルほど進んだところに、今度は児童公園が現れる。
まずは祠が第一難関だ。小柄な地蔵が三体並ぶその奥、安置された社の方向にはできるだけ視線を向けない。そうしてそそくさと通り過ぎた先に待ち構えている次の難関が、児童公園だ。
「……う……」
嫌だな。その内心が、細い呻きになって漏れた。
閑静な住宅街のど真ん中にある、自宅から一番近い公園だ。幼稚園に通っていた頃は親と、小学生になってからは友達と、よく遊んだものだ。
小さな公園で、遊具は錆び気味の鉄棒とブランコ、それから中央に滑り台が設置されている程度だ。とはいえ、道路から伸びる遊歩道――と呼べるほど大袈裟なものでもないけれど――の先には、こぢんまりとながらも東屋まで建っている。
こんなに詳しく知っている場所なのに、雨の日はどうにもいけない。私が危惧しているような事態に巻き込まれる場所は、なにもこの公園だけではない。しかし、最も頻度が高いのはここだ。
遠目に覗く東屋の奥側で、木々が雨風に晒され、ざわざわと音を立てる。
嫌な感じだ。雨が降っていなければ、せめて夜でなければ……そんなことばかり考えては、次第に不安が膨らみ始めてしまう。
どうか、なにごともありませんように。
外出せざるを得なかった雨の夜は、過去にも何度かあった。そのたびに必ず遭遇するわけでは決してなかった。それに、襲われたり追いかけられたりしたことも、一度だってない。だから今日も大丈夫だ。
そう思いつつも、雨に濡れても構わないとばかり、足は勝手に急ぎ気味になる。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。安物のビニール傘を打つ雨粒の音が、妙に耳に残る。街の名前が冠された公園名の書かれた看板、その前を通り過ぎ、私ははぁと息をついた。
大丈夫。なにもない。そう自分に言い聞かせながら、公園の出入り口側に意図的に傾けていた傘をまっすぐ持ち直した私は、そのまま派手に息を呑んだ。
顔を動かさず、目線のみを強引に上向ける。なんの変哲もない電柱の根本の部分に……ああ、駄目だ。
――やっぱり、出た。
これだから雨は嫌いなのだ。特に、夜の雨は。
雨が降る日、私はこの世のものではないものを――はっきり言えば「幽霊」を見てしまうことがある。ちなみに夜が嫌いな理由は、恐怖が倍増するからという至極単純なものでしかない。
震える足を強引に動かす。あの電柱の横を、平然と、あるいはそう見えるように通り過ぎなければならない。
白い塊は、ときおりもぞもぞと動いている。電柱の根本に確かに覗くそれを、広げた傘で遮るわけにもいかない。それでは見えていると相手に伝わってしまう。不審に思われそうな素振りは絶対に避けたかった。
冷静に、冷静に。あの電柱を過ぎれば、すぐに曲がり角だ。そこを右に曲がるまでの辛抱だ。
だいたい、あんな白いだけのただの塊――背中を丸めた人のように見えなくもないが――に、なにかできるとは思えない。余計なことを考えず、さっさと横を素通りしてしまえばいいだけだ。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。雨の強さは変わらないのに、さっきより音が大きく聞こえる。
足を止めたら終わり、視線を向けても終わり。自然に歩くことにこんなにも神経を割いたのは生まれて初めてかもしれない、と的外れな思考が頭を過ぎる。
そして、電柱と塊の真横を通り過ぎようとした、そのときだった。
『……あの』
ひ、と思わず声が出かけたところを必死に堪えた。しかし、震える喉ばかりに気を懸けた結果、足が露骨に止まってしまった。
くぐもっていて聞き取りにくかったけれど、人のものらしき低い呼びかけだ。それは確実に電柱の下から、というか例の塊のほうから聞こえてきた。
返事をする気には到底なれなかった。
なりふり構っていられないと、私は濡れた地面を強く蹴り上げる。その途端、急な勢いについてこられなかった足が派手にもつれた。
「い、ぐ……ッ!?」
……ぐしゃ、と物が潰れるみたいな汚い音がした。次いで、しびれるような痛みが鼻の頭を走る。
一拍遅れ、雨に濡れた道路に頭から突っ込む形で転んだのだと悟った。
濡れた感触と、傍に落ちた傘をぽつぽつとなおも打ち続ける雨の音が、こんな道端で転んだショックと混乱をさらに掻き立てる。
『あっ……だ、大丈夫ですか』
引き気味の低い声が、さんざんな目に遭った私の神経を逆撫でする。
制服がビシャビシャだ。朝に念入りにひだの乱れをチェックしたスカートは、無残にも雨と泥で汚れきっている。うう、と唸るような声が出た。
『聞こえるんですね。声』
立ち上がってすぐに再び声をかけられ、今度こそ固まった。
例えば今「聞こえない」と答えたら、それは聞こえていると言っているに等しい。だからといってこのまま帰宅するには、今の転倒はつらすぎた。この声の主に一部始終を見られているという事実が、ますます私を居た堪れなくする。
う、とまたも呻きが零れる。すると、伏せた視線の先に、前触れなく白い影がすっと入り込んできた。
「っ、ひッ……」
今は夜分で、近くには住宅街がある。そのことがかろうじて頭の片隅に残ってくれていたから、声量だけはなんとか抑えられた。
私の掠れた悲鳴を聞いてか、白い影はさっと視界から引いていく。見なければ良かったのに、そのさまを、私はわざわざ目で追ってしまった。
「……あ」
そこにあったのは、白い塊だった。
先ほど遠目に確認したそれと、特に変わらない。恐ろしい形相が隠れているわけでもなければ、悪霊めいた禍々しさもない……気がする。
細く降り続く雨を気に懸けることも忘れ、拾い直した傘の先をじっと見つめた。転んでびしょ濡れになってしまったから、これ以上濡れるも濡れないもない。
相手を見つめたきり、先端を白い塊に向けて当てる。
手応えはなかった。傘の尖った先端は、白い塊を完全に通過していた。
「う、嘘……」
声が零れ、私は慌てて口元を押さえた。
もぞもぞと身動ぎをした後、白い塊は、白い腕らしきぼんやりとしたなにかで、白い頭らしきぼんやりとしたなにかを押さえていた。
「人……?」
呆然と呟いた。傘の柄を握る指先に力が入る。
左右に柄を振ると、白い塊の方向から、さっきと同じ声が聞こえてきた。
『やめてください。痛くはないけどいい気はしない』
不機嫌そうな声が聞こえ、私ははっと傘の動きを止めた。
「あ……す、すみません」
『いいえ。こんなふうに話しかけられたり傘で突かれたりしたのは初めてだ』
「も、申し訳ない。本当に失礼しました」
傘を差し直しながら、私は慌てて頭を下げた。
人通りのない雨の夜道だ、誰かが見ているとは思えない。けれど、もしこの状況を目撃していた人がいるなら、さぞ薄気味悪く見えるだろうなと思う。
身体を傾けた拍子に、白いそれの顔に相当する部分が見えた。そこに顔らしいパーツはひとつもなかった。形、起伏、輪郭……なにもない。目も口も鼻も、なにも。
絶句した。表情を確認したくても分からない。のっぺらぼうなのだ。白いという、それしか説明のしようがない。
くぐもってこそいるものの、声は人のそれに聞こえる。だが、これは確実に人間ではないなにかだ。明確にそれを突きつけられ、細い雨の中、私は傘の柄を強く握り締める。
白いそれは、そんな私をじっと見つめていたのだと思う。
相手に目があるようには見えない分、確実なことは言えない……でも。
そのときになって、私は雨の勢いが弱まっていると気づいた。傘を差していないのに自分が碌に濡れないということにこそ、先に気づきそうなものなのに。
よく見ると、白い塊は濡れていない。訝しく思ったが、幽霊だからかもしれないとすぐに思い直した。幽霊の常識は分からない。本人に確認を取らない限り、憶測で考えるしかない。だが。
不意に、胸がちくりと痛んだ。
だいぶ暖かい季節になったとはいえ、肌が雨に濡れればやはり冷たい。こんな雨の中で、傘も差せず、電柱の根本にうずくまるしかできずにいる幽霊。その姿は、いくら濡れていないように見えても、衝撃とともに微かな同情心を私に植えつける。
相手が危害を加えてこない確証はなかった。
けれど、転倒の瞬間を目撃されたことや、心配そうに――随分と引いた様子だったが――声をかけてくれたこと、またいくつか交わした言葉のせいで、相手に対する私の警戒心はだいぶ緩んでいた。
「ええと……この公園に、なにか思い出でも?」
胸に走った痛みを堪えようとしたら、口が滑った。
早く帰らなくちゃとあれほど強く思っていたのに、自分の言動が信じられない。
『……分からない。覚えてないから』
「こ、この場所を?」
『いや。なにも』
抑揚のない声だ。事実を並べるだけの、感情がまるまる削げ落ちた声。
沈黙が落ちた。なんと返せばいいのか分からず、私は黙りこくるしかできなくなる。
……どうしよう。そうだ、名前は思い出せるだろうか。
そう思い至ったとき、白い塊の、そもそもぼんやりとした輪郭が余計に霞み始めた。
「っ、え?」
静かに、しかし確実に、白い塊は空気に溶けるように透明になっていく。
驚いた私は、先ほど苦い反応を示されたばかりの「傘で突く」という方法を再び取ってしまう。差した傘を閉じ、塊へ向ける。傘の先はまたもあっさり塊を通過する。さっきは苦言を呈されたが、今度はなにも言われない。そのことを訝しく思ったと同時に、塊は、ついに姿を完全に消してしまった。
その場には、傘の先端で空を切るという謎の行動に出ている私だけが残った。
「……なんなの……」
傘の柄を片手に、呆然と呟く。そのときになって初めて気がついた。
雨は、すでにやんでいた。
日はすでに暮れ、辺りはしんとした夜闇に浸かっている。不規則な点滅を繰り返す不気味な街灯は、足元の安全を保証してくれるとまでは言いがたい。
「……はぁ」
やってしまった。
歩きながら、私――楠本 叶生は、片手で頭を押さえた。
今夜から天候が下り坂になるという情報は、朝の天気予報であらかじめ仕入れていた。それなのに、放課後、クラスメイトのひとりと口論になってしまった。
きっかけは些細だった。私がさっさと折れれば良かっただけだ。つい言い返して、結局、売り言葉に買い言葉――たまたま教室の前を通りがかった教師に見つかり、説教を受けている間に、気づけばすっかり日が暮れていた。
二年に進級したばかりで、進路について考える気にもまだなれない。基本的に争いごとを好まず、のんびりと日々を過ごしている。私はそういうタイプの人間だ。
でも、今日の喧嘩だけはどうしても折れたくなかった。
口喧嘩に発展した相手も、固唾を呑んで見守っていた数人のクラスメイトも、もしかしたら「らしくない」と思ったかもしれない。教室で友達と言い争うなんて、私だって自分で自分らしくないと思う。
折れるべきだった。雨が降ることと夜になること、そのふたつにこうして苛まれる事態に陥るよりなら、そちらのほうが遥かにましだった。
はぁ、と溜息が零れる。足を進める途中からぽつぽつと道を濡らし始めた雨に……というよりは、こうなると知っていてこんな時刻まで時間を使ってしまった自分自身にこそ舌打ちしながら、私は急ぎ足で帰路を進む。
大通りの交差点を過ぎて右に曲がった辺りから、街路は急に細くなる。この道は好きではない。途中に小さな祠があり、そこからさらに数十メートルほど進んだところに、今度は児童公園が現れる。
まずは祠が第一難関だ。小柄な地蔵が三体並ぶその奥、安置された社の方向にはできるだけ視線を向けない。そうしてそそくさと通り過ぎた先に待ち構えている次の難関が、児童公園だ。
「……う……」
嫌だな。その内心が、細い呻きになって漏れた。
閑静な住宅街のど真ん中にある、自宅から一番近い公園だ。幼稚園に通っていた頃は親と、小学生になってからは友達と、よく遊んだものだ。
小さな公園で、遊具は錆び気味の鉄棒とブランコ、それから中央に滑り台が設置されている程度だ。とはいえ、道路から伸びる遊歩道――と呼べるほど大袈裟なものでもないけれど――の先には、こぢんまりとながらも東屋まで建っている。
こんなに詳しく知っている場所なのに、雨の日はどうにもいけない。私が危惧しているような事態に巻き込まれる場所は、なにもこの公園だけではない。しかし、最も頻度が高いのはここだ。
遠目に覗く東屋の奥側で、木々が雨風に晒され、ざわざわと音を立てる。
嫌な感じだ。雨が降っていなければ、せめて夜でなければ……そんなことばかり考えては、次第に不安が膨らみ始めてしまう。
どうか、なにごともありませんように。
外出せざるを得なかった雨の夜は、過去にも何度かあった。そのたびに必ず遭遇するわけでは決してなかった。それに、襲われたり追いかけられたりしたことも、一度だってない。だから今日も大丈夫だ。
そう思いつつも、雨に濡れても構わないとばかり、足は勝手に急ぎ気味になる。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。安物のビニール傘を打つ雨粒の音が、妙に耳に残る。街の名前が冠された公園名の書かれた看板、その前を通り過ぎ、私ははぁと息をついた。
大丈夫。なにもない。そう自分に言い聞かせながら、公園の出入り口側に意図的に傾けていた傘をまっすぐ持ち直した私は、そのまま派手に息を呑んだ。
顔を動かさず、目線のみを強引に上向ける。なんの変哲もない電柱の根本の部分に……ああ、駄目だ。
――やっぱり、出た。
これだから雨は嫌いなのだ。特に、夜の雨は。
雨が降る日、私はこの世のものではないものを――はっきり言えば「幽霊」を見てしまうことがある。ちなみに夜が嫌いな理由は、恐怖が倍増するからという至極単純なものでしかない。
震える足を強引に動かす。あの電柱の横を、平然と、あるいはそう見えるように通り過ぎなければならない。
白い塊は、ときおりもぞもぞと動いている。電柱の根本に確かに覗くそれを、広げた傘で遮るわけにもいかない。それでは見えていると相手に伝わってしまう。不審に思われそうな素振りは絶対に避けたかった。
冷静に、冷静に。あの電柱を過ぎれば、すぐに曲がり角だ。そこを右に曲がるまでの辛抱だ。
だいたい、あんな白いだけのただの塊――背中を丸めた人のように見えなくもないが――に、なにかできるとは思えない。余計なことを考えず、さっさと横を素通りしてしまえばいいだけだ。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。雨の強さは変わらないのに、さっきより音が大きく聞こえる。
足を止めたら終わり、視線を向けても終わり。自然に歩くことにこんなにも神経を割いたのは生まれて初めてかもしれない、と的外れな思考が頭を過ぎる。
そして、電柱と塊の真横を通り過ぎようとした、そのときだった。
『……あの』
ひ、と思わず声が出かけたところを必死に堪えた。しかし、震える喉ばかりに気を懸けた結果、足が露骨に止まってしまった。
くぐもっていて聞き取りにくかったけれど、人のものらしき低い呼びかけだ。それは確実に電柱の下から、というか例の塊のほうから聞こえてきた。
返事をする気には到底なれなかった。
なりふり構っていられないと、私は濡れた地面を強く蹴り上げる。その途端、急な勢いについてこられなかった足が派手にもつれた。
「い、ぐ……ッ!?」
……ぐしゃ、と物が潰れるみたいな汚い音がした。次いで、しびれるような痛みが鼻の頭を走る。
一拍遅れ、雨に濡れた道路に頭から突っ込む形で転んだのだと悟った。
濡れた感触と、傍に落ちた傘をぽつぽつとなおも打ち続ける雨の音が、こんな道端で転んだショックと混乱をさらに掻き立てる。
『あっ……だ、大丈夫ですか』
引き気味の低い声が、さんざんな目に遭った私の神経を逆撫でする。
制服がビシャビシャだ。朝に念入りにひだの乱れをチェックしたスカートは、無残にも雨と泥で汚れきっている。うう、と唸るような声が出た。
『聞こえるんですね。声』
立ち上がってすぐに再び声をかけられ、今度こそ固まった。
例えば今「聞こえない」と答えたら、それは聞こえていると言っているに等しい。だからといってこのまま帰宅するには、今の転倒はつらすぎた。この声の主に一部始終を見られているという事実が、ますます私を居た堪れなくする。
う、とまたも呻きが零れる。すると、伏せた視線の先に、前触れなく白い影がすっと入り込んできた。
「っ、ひッ……」
今は夜分で、近くには住宅街がある。そのことがかろうじて頭の片隅に残ってくれていたから、声量だけはなんとか抑えられた。
私の掠れた悲鳴を聞いてか、白い影はさっと視界から引いていく。見なければ良かったのに、そのさまを、私はわざわざ目で追ってしまった。
「……あ」
そこにあったのは、白い塊だった。
先ほど遠目に確認したそれと、特に変わらない。恐ろしい形相が隠れているわけでもなければ、悪霊めいた禍々しさもない……気がする。
細く降り続く雨を気に懸けることも忘れ、拾い直した傘の先をじっと見つめた。転んでびしょ濡れになってしまったから、これ以上濡れるも濡れないもない。
相手を見つめたきり、先端を白い塊に向けて当てる。
手応えはなかった。傘の尖った先端は、白い塊を完全に通過していた。
「う、嘘……」
声が零れ、私は慌てて口元を押さえた。
もぞもぞと身動ぎをした後、白い塊は、白い腕らしきぼんやりとしたなにかで、白い頭らしきぼんやりとしたなにかを押さえていた。
「人……?」
呆然と呟いた。傘の柄を握る指先に力が入る。
左右に柄を振ると、白い塊の方向から、さっきと同じ声が聞こえてきた。
『やめてください。痛くはないけどいい気はしない』
不機嫌そうな声が聞こえ、私ははっと傘の動きを止めた。
「あ……す、すみません」
『いいえ。こんなふうに話しかけられたり傘で突かれたりしたのは初めてだ』
「も、申し訳ない。本当に失礼しました」
傘を差し直しながら、私は慌てて頭を下げた。
人通りのない雨の夜道だ、誰かが見ているとは思えない。けれど、もしこの状況を目撃していた人がいるなら、さぞ薄気味悪く見えるだろうなと思う。
身体を傾けた拍子に、白いそれの顔に相当する部分が見えた。そこに顔らしいパーツはひとつもなかった。形、起伏、輪郭……なにもない。目も口も鼻も、なにも。
絶句した。表情を確認したくても分からない。のっぺらぼうなのだ。白いという、それしか説明のしようがない。
くぐもってこそいるものの、声は人のそれに聞こえる。だが、これは確実に人間ではないなにかだ。明確にそれを突きつけられ、細い雨の中、私は傘の柄を強く握り締める。
白いそれは、そんな私をじっと見つめていたのだと思う。
相手に目があるようには見えない分、確実なことは言えない……でも。
そのときになって、私は雨の勢いが弱まっていると気づいた。傘を差していないのに自分が碌に濡れないということにこそ、先に気づきそうなものなのに。
よく見ると、白い塊は濡れていない。訝しく思ったが、幽霊だからかもしれないとすぐに思い直した。幽霊の常識は分からない。本人に確認を取らない限り、憶測で考えるしかない。だが。
不意に、胸がちくりと痛んだ。
だいぶ暖かい季節になったとはいえ、肌が雨に濡れればやはり冷たい。こんな雨の中で、傘も差せず、電柱の根本にうずくまるしかできずにいる幽霊。その姿は、いくら濡れていないように見えても、衝撃とともに微かな同情心を私に植えつける。
相手が危害を加えてこない確証はなかった。
けれど、転倒の瞬間を目撃されたことや、心配そうに――随分と引いた様子だったが――声をかけてくれたこと、またいくつか交わした言葉のせいで、相手に対する私の警戒心はだいぶ緩んでいた。
「ええと……この公園に、なにか思い出でも?」
胸に走った痛みを堪えようとしたら、口が滑った。
早く帰らなくちゃとあれほど強く思っていたのに、自分の言動が信じられない。
『……分からない。覚えてないから』
「こ、この場所を?」
『いや。なにも』
抑揚のない声だ。事実を並べるだけの、感情がまるまる削げ落ちた声。
沈黙が落ちた。なんと返せばいいのか分からず、私は黙りこくるしかできなくなる。
……どうしよう。そうだ、名前は思い出せるだろうか。
そう思い至ったとき、白い塊の、そもそもぼんやりとした輪郭が余計に霞み始めた。
「っ、え?」
静かに、しかし確実に、白い塊は空気に溶けるように透明になっていく。
驚いた私は、先ほど苦い反応を示されたばかりの「傘で突く」という方法を再び取ってしまう。差した傘を閉じ、塊へ向ける。傘の先はまたもあっさり塊を通過する。さっきは苦言を呈されたが、今度はなにも言われない。そのことを訝しく思ったと同時に、塊は、ついに姿を完全に消してしまった。
その場には、傘の先端で空を切るという謎の行動に出ている私だけが残った。
「……なんなの……」
傘の柄を片手に、呆然と呟く。そのときになって初めて気がついた。
雨は、すでにやんでいた。