しんと静まり返る離宮。
陽が落ちたところでもはや灯りを点す者はなく、真っ暗なバルコニーで揺り椅子がギッ、ギッと規則正しい音を立てて揺れていた。
ヴェルヌイユ姫はわずかに身を震わせ、肩に羽織ったケープの両端を胸元へと引き寄せる。
彼女はもはや王宮に戻るつもりなどなかった。
心は完全に衰弱しきっている。今にも消え入りそうなほどに小さく萎れている。
だが、面倒なことに、身体はまだそこまでではない。
それでもこのままここで動かずにいれば、いつかは眠るように消えてしまえるのではないかと、彼女はそう期待していた。
彼女は思う。
彼のいないこの世界に未練は無い。
いや、あるとすればステラノーヴァのこと。
だが彼女を託した甥はどうしようもなく生真面目な男だ。彼女のことは何も心配はないはずだ。
彼女は揺り椅子に身をまかせて、静かに空を見上げる。
夜空は、美しかった。
燦々たる星々は何かを告げようとするように明滅し、絶え間なくハレーションを起こしながら、空に帯のごとき光の河を描いている。
星の一つ一つは違う色。
一つは黄薔薇の色で、一つは青瑪瑙のごとき色、紫色の外郭、その内側に雪白の光茫を孕んでいるものもある。
彼と見上げたあの日の夜空そのまま。
何一つ変わりは無かった。
星は人の営みなど我関せずと煌めくのだ。
幾億年もの年月を旅して、星の光は夜空に瞬くのだという。
夜空の星にしてみれば、たかが二十年の月日など、瞬きする一瞬にも等しいのだろう。
夜空は美しかった。
見れば見るほどに美しかった。
月明かりの中に、銀砂のような無数のきらめきが空を色とりどりに飾り付けていた。
彼女は思う。
だが、それを眺める私は、どうして独りなのだろう。
私の隣には、どうしてあの方が居ないのだろう。
一体、どこで道を間違えたのだろう、と。
それを一つ一つ検証するだけの気力は残っていない。意味も無い。
「……アナタ」
声に出してそう呼んでみる。
最後の一音が暗闇に吸い込まれると、後に訪れる静寂が一層寒々しかった。
妻としてあの方をこう呼ぶ日は来なかった。
ソファーで夕餉の後の団欒、ステラノーヴァを間に挟んで微笑み合う私とあの方、もしかしたらそんな未来もあったのかもしれない。
虚ろな目で再び空を見上げたその瞬間、東の空で星が一つ滑り落ちた。
エメラルドグリーンの尾を引いて、山の向こうへと流れ星が落ちていくのが見えたのだ。
虚ろな目で星の消えていった辺りを眺め、ヴェルヌイユ姫は静かに謡ずる。
『私は流星になりたい。長い夜を越えて、愛するあなたの下へと降りていきたい』
声に出せば感情が溢れ出す。
次第に湿り気を帯びる声。
ぐちゃぐちゃで、ぐずぐずで、ぼろぼろの感情が呻き声を上げる。
『夜空に光の軌跡を描き……、あなたの記憶に深く刻みこまれたい。だから、幾億の夜の果て、永久が最後の一節を奏でる……ぐずっ、その日まで』
頬を伝って涙が滴り落ちる。
良いではないか。ここには誰もいないのだ。こんな情けない泣き顔を見るものは誰もいないのだ。
彼女は顔中をぐちゃぐちゃにして、しゃくり上げながら嗚咽混じりに謡い続ける。
『よぞらのぉ……ほしがぁ……すべて地におぢで、ぐずっ、このびが塵にかわる、その日までぇ。あだたへ愛をささやぎつづげよ……うぇえええええ……』
もう耐えらえなかった。悲しくて、辛くて、姫殿下は声を上げて泣いた。
腸を搾り上げられるような嗚咽を漏らし、親を亡くした子供のように声を上げて泣いた。
とめどもなく溢れてくる涙が胸を濡らし、滲んだ視界で星がぼんやりと広がった。
その瞬間のことである。
重みに耐えかねて硝子の表面を滑り落ちる雨粒のように、あちらこちらで星がスルスルと零れ落ち始めたのだ。
――流星群。
色とりどりの尾を曳きながら、次々と滑り落ちていく星屑。
あるものは冷え冷えとした蒼、あるものは華やかな黄色、夜空をカンバスにして色とりどりの線を描きながら降り落ちていく。
呆然と顔を上げれば、彼女の頭上、視界の先、その夜空に、真っ赤に燃え盛る巨大な赤い流星があった。
それは次第に大きさを増しながら、ゆっくりと彼女の方へと墜ちてくる。
長くたなびく尾は鮮やかな赤い軌跡を描いて、光の粒を振りまいていた。
「あ……あっ……」
言葉にならない声を漏らしながら、ヴェルヌイユ姫は立ち上がり、バルコニーから身を乗り出す。
(あの方の髪の色……!)
地上に人工の光は一つとなく、流星は益々明るい。
湖面が星の光を反射して、そこには祝福するかのように光が溢れていた。
流星はもはや目前にまで迫っている。
摩擦熱で燃え上がった岩塊はガラスへと変じ、宝石のように煌びやかに輝いていた。
ヴェルヌイユ姫は大きく手を広げて、その瞬間を待ち受ける。
哀しみの涙は歓喜の涙へと変わり、熱を持った頬をしとどに濡らしていた。
――私は流星になりたい。次に生まれ変わる時には流星になって、愛とともにあなたへと降り注ぎたいのです。
彼の声が聞こえる。いや、聞こえたような気がした。
次の瞬間、視界一杯に流星が広がって、目の前が真っ白に染まっていく。
その白い光の中に、彼女は両手を広げる想い人の姿を見る。
そして彼女は涙に汚れた顔に、満面の笑みを浮かべた。
「お待ち申しておりました。やっと、アナタと……」
彼女のその声は、流星が地を打つ、轟音の中へと消えていった。
陽が落ちたところでもはや灯りを点す者はなく、真っ暗なバルコニーで揺り椅子がギッ、ギッと規則正しい音を立てて揺れていた。
ヴェルヌイユ姫はわずかに身を震わせ、肩に羽織ったケープの両端を胸元へと引き寄せる。
彼女はもはや王宮に戻るつもりなどなかった。
心は完全に衰弱しきっている。今にも消え入りそうなほどに小さく萎れている。
だが、面倒なことに、身体はまだそこまでではない。
それでもこのままここで動かずにいれば、いつかは眠るように消えてしまえるのではないかと、彼女はそう期待していた。
彼女は思う。
彼のいないこの世界に未練は無い。
いや、あるとすればステラノーヴァのこと。
だが彼女を託した甥はどうしようもなく生真面目な男だ。彼女のことは何も心配はないはずだ。
彼女は揺り椅子に身をまかせて、静かに空を見上げる。
夜空は、美しかった。
燦々たる星々は何かを告げようとするように明滅し、絶え間なくハレーションを起こしながら、空に帯のごとき光の河を描いている。
星の一つ一つは違う色。
一つは黄薔薇の色で、一つは青瑪瑙のごとき色、紫色の外郭、その内側に雪白の光茫を孕んでいるものもある。
彼と見上げたあの日の夜空そのまま。
何一つ変わりは無かった。
星は人の営みなど我関せずと煌めくのだ。
幾億年もの年月を旅して、星の光は夜空に瞬くのだという。
夜空の星にしてみれば、たかが二十年の月日など、瞬きする一瞬にも等しいのだろう。
夜空は美しかった。
見れば見るほどに美しかった。
月明かりの中に、銀砂のような無数のきらめきが空を色とりどりに飾り付けていた。
彼女は思う。
だが、それを眺める私は、どうして独りなのだろう。
私の隣には、どうしてあの方が居ないのだろう。
一体、どこで道を間違えたのだろう、と。
それを一つ一つ検証するだけの気力は残っていない。意味も無い。
「……アナタ」
声に出してそう呼んでみる。
最後の一音が暗闇に吸い込まれると、後に訪れる静寂が一層寒々しかった。
妻としてあの方をこう呼ぶ日は来なかった。
ソファーで夕餉の後の団欒、ステラノーヴァを間に挟んで微笑み合う私とあの方、もしかしたらそんな未来もあったのかもしれない。
虚ろな目で再び空を見上げたその瞬間、東の空で星が一つ滑り落ちた。
エメラルドグリーンの尾を引いて、山の向こうへと流れ星が落ちていくのが見えたのだ。
虚ろな目で星の消えていった辺りを眺め、ヴェルヌイユ姫は静かに謡ずる。
『私は流星になりたい。長い夜を越えて、愛するあなたの下へと降りていきたい』
声に出せば感情が溢れ出す。
次第に湿り気を帯びる声。
ぐちゃぐちゃで、ぐずぐずで、ぼろぼろの感情が呻き声を上げる。
『夜空に光の軌跡を描き……、あなたの記憶に深く刻みこまれたい。だから、幾億の夜の果て、永久が最後の一節を奏でる……ぐずっ、その日まで』
頬を伝って涙が滴り落ちる。
良いではないか。ここには誰もいないのだ。こんな情けない泣き顔を見るものは誰もいないのだ。
彼女は顔中をぐちゃぐちゃにして、しゃくり上げながら嗚咽混じりに謡い続ける。
『よぞらのぉ……ほしがぁ……すべて地におぢで、ぐずっ、このびが塵にかわる、その日までぇ。あだたへ愛をささやぎつづげよ……うぇえええええ……』
もう耐えらえなかった。悲しくて、辛くて、姫殿下は声を上げて泣いた。
腸を搾り上げられるような嗚咽を漏らし、親を亡くした子供のように声を上げて泣いた。
とめどもなく溢れてくる涙が胸を濡らし、滲んだ視界で星がぼんやりと広がった。
その瞬間のことである。
重みに耐えかねて硝子の表面を滑り落ちる雨粒のように、あちらこちらで星がスルスルと零れ落ち始めたのだ。
――流星群。
色とりどりの尾を曳きながら、次々と滑り落ちていく星屑。
あるものは冷え冷えとした蒼、あるものは華やかな黄色、夜空をカンバスにして色とりどりの線を描きながら降り落ちていく。
呆然と顔を上げれば、彼女の頭上、視界の先、その夜空に、真っ赤に燃え盛る巨大な赤い流星があった。
それは次第に大きさを増しながら、ゆっくりと彼女の方へと墜ちてくる。
長くたなびく尾は鮮やかな赤い軌跡を描いて、光の粒を振りまいていた。
「あ……あっ……」
言葉にならない声を漏らしながら、ヴェルヌイユ姫は立ち上がり、バルコニーから身を乗り出す。
(あの方の髪の色……!)
地上に人工の光は一つとなく、流星は益々明るい。
湖面が星の光を反射して、そこには祝福するかのように光が溢れていた。
流星はもはや目前にまで迫っている。
摩擦熱で燃え上がった岩塊はガラスへと変じ、宝石のように煌びやかに輝いていた。
ヴェルヌイユ姫は大きく手を広げて、その瞬間を待ち受ける。
哀しみの涙は歓喜の涙へと変わり、熱を持った頬をしとどに濡らしていた。
――私は流星になりたい。次に生まれ変わる時には流星になって、愛とともにあなたへと降り注ぎたいのです。
彼の声が聞こえる。いや、聞こえたような気がした。
次の瞬間、視界一杯に流星が広がって、目の前が真っ白に染まっていく。
その白い光の中に、彼女は両手を広げる想い人の姿を見る。
そして彼女は涙に汚れた顔に、満面の笑みを浮かべた。
「お待ち申しておりました。やっと、アナタと……」
彼女のその声は、流星が地を打つ、轟音の中へと消えていった。