「そんなに怖い顔をするでない。他愛のない悪戯ではないか」
どこか幼稚な悪意を感じさせる薄笑い、悪気の欠片もなさげなヴェルヌイユ姫。王太子はそんな彼女のそばへと歩み寄り、表情一つ変えずにこう語り掛ける。
「伯母上、王宮へ戻りましょうか」
すると、彼女は小馬鹿にするように肩をすくめ、揺り椅子を軽く揺らした。
「なんじゃ、雅味を解せぬ男はつまらんぞ。バスティアン坊や。滅多に遠出することなどないのじゃからの。妾はもうしばらくここにおる。ここは良いぞ。空気は澄んで、なにより静かじゃ。正面切って批判も出来ぬくせに、ヒソヒソと陰で妾を娼婦呼ばわりするような連中もここにはおらんのじゃからの」
だが、気だるげに笑うそんな彼女に、王太子は決定的な一言を告げる。
「いくら待っていても、彼は来ませんよ」
途端に彼女はピタリと動きを止めた。
バルコニーの向こう側に一羽の白いカササギが羽を広げ、湖の形をなぞるように飛んでいる。
かすかに響いたその鳴き声が、否が応でもこの場に舞い降りた重苦しい静寂を意識させた。
「そうか……来ぬか。存外意気地のない男じゃのう。一族を根絶やしにされようというのに、仕返しの一つもしに来ぬか。まったくつまらん、つまらんのう」
長い沈黙の末に、彼女はどうにか言葉を紡ぎだす。
言葉は揶揄するようでありながら、その声は潤んで震えている。
「伯母上、もう良いのです。そんな演技は必要ないのです。失礼ながら、伯母上が彼に宛てた手紙を拝見しました」
「…………そうか、見たのか。ははっ、その上で二度もフられた惨めな女を嗤いにきたと、そういう訳じゃったか」
「いいえ、私は伯母上、あなたを笑ったりしません。笑ったりできる訳がありません」
そして、王太子は声を震わせながら告げた。
「彼はもう来れぬのです。彼は、もう……この世にはおりませぬ」
その瞬間、彼女は跳ねるように身を起こした。
まるで雷に打たれたかのような挙動。
彼女が強い衝撃を受けたのは誰の目にも明らかだった。
「う……うそじゃ! う、嘘を吐くな! お主とて言って良いことと悪いことがあるのじゃぞ! 確かに妾の悪戯も度が過ぎたとは思うが、し、仕返しにしてもその嘘は性質が悪過ぎる!」
「嘘ではありません。彼は先王陛下……お爺さまとの約定と、あなたへの想いの間で押しつぶされてしまったのです」
「そんな馬鹿げた話があるものか! 信じぬ! 絶対に信じぬ! 父上は既にこの世におらぬ。約定に何の意味があるというのじゃ! あの方を縛る鎖は公爵家だけではないか!」
「叔母上っ! サヴィニャック公爵がどんな人間であったか、今一度思い出してください。王家と交わした約定を、時が経ったからと反故にするような男ではないことは、あなたが一番ご存じのはずでしょう」
「そんな……そんな、バカな……ことが、い、いやじゃ、い、いや……じゃ」
彼女は力なく背もたれに倒れ込み、揺り椅子が老爺の呻き声のような乾いた音を立てて揺れる。
王太子は、改めて叔母の顔を覗き込んだ。
彼女のその瞳には既に光はなく、表情と呼べるものはもはや何も残っていなかった。
胸の内で膨らんだ感情が大きすぎて、どこからも取り出せずにいる。彼の目にはそう見えた。
なまじ見目が麗しいだけに、絶望という表題をつけた彫像のようでさえある。
生きるために必要な何かが彼女の身体から止めどもなく零れ落ちていくような、そんな錯覚さえ覚えた。
そこにあったのは、あまりにも憐れな弱々しい一人の女の姿であった。
(だが……やらねばならぬ)
彼は、自分の手を握る幼い少女に声を掛ける。
「……シャルロット」
「はい」
「伯母上、彼女の目を見てください。多少、気を落ち着けることもできましょう」
王太子の声がやけに低いのは、声が上擦りそうになるのを必死に堪えているから。
血の繋がった肉親を手に掛ける。その事実が重く重く、彼に圧し掛かっていた。
彼が静かに背を向けると、幼い少女が揺り椅子のひじ掛けに手を掛けて膝立ちになる。
ヴェルヌイユ姫には、もはや考える気力は残っていなかった。
ぼんやりとした頭で、彼女はすぐそばに膝を落とした人物へと目を向ける。
目を閉じたままの幼い少女。
陶器人形のような儚い少女である。
彼女が静かに片目を開くとそこには、不思議な瞳があった。
いや、瞳ではない。ガラス玉。瞼の下にあったのは黒い宝玉。
その内側には星のような光が絶え間なく明滅していた。
(……義眼? 吸い込まれそうな目じゃ)
姫殿下がぼんやりとした頭で、そう思ったのと同時に、
「……今宵、安らかな眠りを」
幼い少女は彼女の頬に口づけるように顔を寄せて、その耳元で囁いた。
それで終わり。
ヴェルヌイユ姫にはこれが一体、何だったのかはわからない。だが、それを考えるだけの気力もない。
背を向け肩を震わせている甥に、それを問いただす気さえ起こらない。
少女が再び瞼を閉じて立ち上がるのと同時に、ぐじっ、と鼻を啜るような湿った音を鳴らして、王太子が振り返る。
「叔母上……もう一度お伺いします。王都に戻られますか?」
王太子がそう問いかけると、彼女はわずかに首を振った。
そして俯いたまま、消え入りそうな声でこう呟く。
「すまぬが……バスティアン坊や、ステラノーヴァのことを頼まれてくれんかの」
「……わかりました」
王太子は硬い表情で一つ頷いて、揺り椅子の上の伯母に背を向ける。
幼い少女に、先にバルコニーを出るように促し、そして振り返ってこう言った。
「伯母上、私はあなたのことが嫌いだと思っておりました。ですが……そうでもなかったようです」
だが、返事は返ってこなかった。行ってしまえとばかりにひらひらと振る手が見えただけ。
扉を閉じる音が、やけに大きく響き渡った。
バルコニーを後にして、王太子は庭先へと向かう。
そこで東屋にて茶を嗜んでいた貴族たちに出発を促すと、彼らは口々に不満を口にした。
それはそうだろう。
こんなところにまで来て、姫殿下に挨拶の一つも許されぬまま、ものの一刻も経たぬうちに引き返すと言われれば当然そうなる。
「姫殿下はご病気で、療養中とのことでした。今も御加減がよろしくないそうで、もう誰とも会いたくないと、私も追い出されましたので……」
王太子がそう告げると、不承不承ではあるが貴族たちはそれぞれの馬車へと引き返していった。
庭先から出ていく彼らの背を見送って、王太子は東屋のそばに控えていた銀髪のメイド――ステラノーヴァに自分たちとともに王都へ戻れと、姫殿下からそう指示があったと告げる。
彼女は驚き、盛大に戸惑った。
それはそうだろう。
ここにいたのは姫殿下と彼女だけ。
彼女がここを離れてしまえば、姫殿下の世話をする者は誰もいないのだから。
だが、それが姫殿下のたってのご希望だとそう告げると、彼女は戸惑いながらも渋々了承した。
彼女を先に馬車に乗りこませ、王太子は馬車のそばで、シャルロットにそっと問いかける。
「伯母上の幸運を……確かに全て奪い取ったのだな?」
彼女の右目、瞼の下に填まっているのは三つの宝玉の一つ。数年前に失われたはずの一つである。
その名も『運命』。
それを持つ者に幸運を齎す黒き宝玉である。
ただし、他の者の幸運を奪い取って。
シャルロットはその身に何一つ幸運を持たずに生まれて来た。
人を殺め続けて来た一族の業を一身に背負うように、生まれながらに多くを失って生まれてきたのだ。
生まれつき眼球は無く、眼窩は空洞。恐らく臓器もいくつか足りていない。
そのままにしていれば翌朝を待たずに命を落としたであろう弱々しい生命。それが彼女だ。
彼女が生まれた日。王太子は夜を待って、祝いの品を手にヴァンデールの屋敷を訪れた。
だが彼が目にしたのは、部屋の前でエミリエンヌに取りすがって泣きじゃくるリュカの姿。
エミリエンヌからひとしきりの話を聞き、思わず絶句する彼の耳に、リュカの祈りの声が聞こえた。
「神さま。ボクの命をあげるから、あの子を助けて」
(ああ、そうか。兄とはこういうものだ)
王太子バスティアンにとって、ヴァンデールの家は実の家族以上のもの。王太子として堅苦しい日々をおくる彼にとって、そこで過ごした日々は本当の自分でいられた幸せな記憶なのだ。
(ならば私も兄として、出来ることをしようではないか)
彼はリュカの頭に手を伸ばし、そのクセの強い髪をわしゃわしゃと撫でる。そして、彼の目を見つめて、こう告げた。
「リュー坊。私がお前の望みを叶えてやる。その代わり、なにがあっても後悔するな」
彼は真っ直ぐに見つめてくるリュカを見つめ返した後、王宮へと取って返す。
そして憐れな末妹のために、王家の宝物庫から三つの宝玉の一つ、『運命』を持ち出し、それを彼女に与えたのだ。
以来、シャルロットは奇跡的に命を繋いでいる。
どうして生きているのかは誰もわからない。
だが、奇跡的に生きている。
日々リュカの幸運を分け与えられて、その儚い命を繋ぎ止めている。奇跡的に。
だが、この幼い少女の命を救ったその宝玉で、今度は実の伯母――父がその身を賭けて救った妹の命を奪うことになろうとは、なんという皮肉であろうか。
「伯母上の幸運を……確かに全て奪い取ったのだな?」
彼のその問いかけは、彼の弱さと言っても良いのかもしれない。
自分が負った伯母殺しの罪を、その重さを、ただ確認せずにはいられなかったのだ。
だが、シャルロットは小さく首を振ると、静かにこう応じた。
「いいえ、バスティアンお兄さま。あのお方にはもう奪い取れるような幸運なんて、一欠けらも残されておりませんでした」
思わず目を見開く王太子を見上げて、彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「ですから……お兄さまがあの御方を殺めたことにはなりません。気に病む必要は何もありませんの。何もしなくとも、あのお方は今夜にも逝かれるでしょう。ただ……あまりにも不憫でしたので、少しだけ、ほんの少しだけですけれど、幸運を置いて参りました。せめて最期は安らかに逝けるように」
奪い取るのではなく、置いて来た。彼女はそう言った。
この幼い暗殺者は、『幸運を置いてきた』と、確かにそう言ったのだ。
王太子は静かに空を見上げる。
晴れ渡る空、遠くに鰯雲。
秋の気配が漂っている。
夏の終わり。季節の終わり。不幸なる伯母の恋の終わり。そしてその苦悩に満ちた人生の終わり。
それにふさわしい、穏やかな日であった。
「……感謝する」
彼は身を正し深く首を垂れて、幼い少女にそう告げた。
「私は、流星になりたい」
あの方が私の耳元で囁いたのは今と同じ、夏が過ぎて誰も居なくなったこの離宮でのこと。
二人が結ばれた、最初で最後の夜のことでした。
王族と貴族。身分は違えど、私たちは確かに愛し合っていたのです。
この時、私たちは互いのこと以外には何も見えなくなっておりました。
愛があればどんな困難も乗り越えられる。身分の違いなど何の問題もないのだと、そう思っておりました。
今思えば、何の裏付けも無い無謀な全能感、若者らしい根拠のない無敵感としか言いようもありません。
当時、この国の王――すなわち私の父は、隣国テルノワールの第二王子と私との婚約の話を進めておりました。
王族の娘にとって政略結婚は当たり前。本来なら疑問を持つようなことですらありません。
ですが愛という禁断の果実に手をつけてしまった私にとって、顔も知らぬような殿方との……いえ、彼以外の誰かとの婚姻など、もはや悍ましいこととしか思えませんでした。
ですから私たちは、二人で手を取り合ってこの国を逃れ、一緒になることを約束したのです。
秋も深まりつつあった約束の日。
私は時期としては少し早いものの、冬の離宮に滞在すると称して王宮を出て、密かにこの夏の離宮を訪れておりました。
バルコニーから湖畔の小径を眺めながら、あの方の訪れを、今か今かと待ち侘びていたのを覚えています。
ですが結局、あの方がそこにお越しになることは、ありませんでした。
その日以来、部屋で独り泣き暮らしていた私に、見かねたメイドがこっそり教えてくれたのです。
『国王陛下の側仕えの者たちから聞いた話ですが……』、そんな前置きから始まったその話は、私にとってあまりにも絶望的なものでした。
私たちが互いに想い合っていることが父に伝わっていたのだと。
彼は父に呼び出され、一族郎党の生命を人質に、私と二度と会わないという約定を迫られ、それを受け入れたのだと。
父は戦闘狂とまであだ名される苛烈な人物です。
彼が一族郎党を殺すといえば、間違いなく殺すでしょう。脅しではありません。
この時点で彼が処刑されずに済んだのは、偏に父が騎士としての彼の才覚を惜しんだからではないかと思います。
私が彼を恨むことはありませんでした。
もし彼が一族を犠牲にできるような人物であったのなら、私が愛することも無かったはずです。
私は彼のことを忘れようと、そう心に決めました。
ですがその矢先のこと、隣国の王子との婚姻がまとまりつつあった、まさにその頃のことです。
私はある日、猛烈な吐き気とともに自らの身体の異変に気付きました。
妊娠していたのです。
私が愛を交わした相手はただ一人。
誰の子供かを疑うべくもありません。
私は焦りました。
こんなことが父に知れたら、あの方の命はありません。
父は私たちが想い合っていることを知ってはいましたが、身体を重ねたことは知らなかったのです。
もしそれを知られたが最後、何の比喩でもなく、あの方は八つ裂きにされてしまうことでしょう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
焦りに焦って、無意識に噛んだ爪がボロボロになった頃、私は一つの決断をしました。
今思えば狂気としか思えないような、そんな決断を下したのです。
翌日から私は、次から次へと若い貴族たちを部屋に招き入れ、閨を共にし始めたのです。
言葉遣いもできるだけいやらしげなものを心掛け、出来る限りいやらしい装いをし、色狂いの姫が荒淫の末に子を宿したのだと、そういう体裁を整えようとしたのです。
必死でした。
日に日に穢されていく身と心。
事が終わった後には夜明けまで嘔吐し続ける毎日です。
お腹が膨らみ始めてしばらくは安静にしていたのですが、安定期に入った後には大きなお腹を抱えながら、再び貴族たちを寝床へと招き入れる毎日。
そこまでせねばならなかったのは、まだ父の耳に私の行状が届いていなかったから。
私が父と顔を合わせる機会はそれほど多くはありません。
他の者から自然に父の耳に入ることが望ましいのです。
そして私が淫蕩の限りを尽くした結果妊娠したのだと、父にはそう思ってもらわなければ、この地獄の日々が水泡に帰するのです。
結局、父の耳に入ったのは出産まであとひと月という頃。当然、隣国との縁談は破談となり、父は烈火のごとくに怒って、私と関係を持った貴族の子弟は軒並み粛清されていきました。
幸いにも父はあの方と関係があるとは考えなかったらしく、彼に累が及ぶことはありませんでした。
問題は生まれてくる子供のことです。
私と彼との愛の形そのものなのです。絶対に守らなければなりません。
ですが、あの父がこの子を放っておいてくれる訳がありません。
産まれてすぐに取り上げられてしまうに違いないのです。
私には味方が必要でした。
相応の力があって、私に味方してくれそうな人物といえば、一人しかいませんでした。
同じ母から生まれたただ一人の兄、この国の第三王子です。
心優しく争いごとを好まないこの兄は当時、父からは惰弱者と疎まれておりました。
私はこの兄に全てを打ち明けたのです。
彼は驚き、理不尽を怒り、涙を流して協力を約束してくれました。
この優しい兄の協力を得て、生まれたその日のうちに、信頼に足る兄の側近にその子を託し、王宮を逃れさせることが出来ました。逃れ先は私も知りません。
生まれて来たその子は女の子でした。
私は、彼女に兼ねてから考えていた名を与えました。
『新しい星』を意味する言葉『ステラノーヴァ』です。
ステラノーヴァの髪は父親譲りの赤毛、見つかれば言い逃れはできません。
この子を託した側近には、もし見つかったとしても、彼を決して連想させぬ髪の色――銀髪に染めて育てるようにと言い含めました。
赤子を逃れさせたことに、父はまたしても烈火のごとくに怒りました。彼はやはり殺すつもりだったのです。
これは彼が特別に残虐だという意味ではありません。
王家の血は特別なものです。その赤子を旗印に祭り上げて、反乱を起こす者だって現れかねないのです。
生かしておくことの危険を思えば、王としては当然のことなのかもしれません。
父は私を東の離宮、その地下に幽閉いたしました。
清潔ではありますが、鉄格子の填まった小さな部屋。王族専用の牢とでもいうべき場所です。
扱いとしてはもはや囚人同然、処刑されなかったのは、わずかにも残った親心だったのでしょうか。
このまま陽の光も当たらぬこの部屋から出ることもなく、そのまま老いて朽ちていくのだと諦めていたのですが、意外なことに、わずかひと月ほどで私はそこから解放されました。
許された訳ではありません。
父が亡くなったのです。
信じられませんでした。
戦闘狂とまで呼ばれ、自ら陣頭に立って周辺の蛮族を攻め滅ぼしてきた男、頑強な肉体を誇りにしていた男が病を得て、わずか数日でこの世を去ったというのです。
その上、父は遺書を残しておりました。
王太子として擁立されていた第一王子を廃嫡、第三王子、あの優しい兄を後継に指名していたのです。
これには誰もが驚きました。
これを捏造だと噂する者は後を絶たず、後に廃嫡された第一王子が、父は第三王子に暗殺されたのだと称して反乱を起こすという事態へと繋がっていきます。
ですが、これは私にとって幸いでした。
あまりにも都合が良すぎました。
あの優しい兄ではなく、他の異母兄たちが王位についていれば、父が決めた処遇を反故にすることは無かったはずです。
あの優しい兄が王位についてまずなされたことは、私の解放だったのです。
そこからしばらくの間、王宮は当然のように混乱を極めておりました。第三王子である兄が遺書に従って即位はしたものの、第一王子、第二王子が反発し、それぞれの派閥に分かれて睨みあうという、まさに一触即発の様相を呈しておりました。
そんな状況ですので、私も離宮の地下から解放されたというのに、あの方に会いに参ることもできません。
あの優しい兄の同腹の妹である私が迂闊な行動をとれば、その足を引っ張ることにもなりかねないのですから。
日に日に募っていく想いに苦しみながら、一年、また一年と時は過ぎていきます。
そして三年の月日が経った頃、遂に第一王子が反乱を起こし、第二王子がそれに呼応、一時は国を二分する戦乱に発展するかと思われました。
ところが信じられないことが起こりました。
第一王子、第二王子が事故で次々と命を落としたのです。
偶然、あえて偶然と申しましょう。
彼らに呼応した貴族たちは粛清、もしくは領地を削減されて力を削がれ、ようやく待ちに待った平穏な日々が帰って参りました。
私はすぐにもあの方に会おうといたしました。
ですが、今度は兄がそれを許してくれません。直接お願いしてもただ寂しげに微笑むだけ。
権力を手にして兄は人が変わってしまったのでしょうか。
厄介ごとに巻き込まれるのが嫌になってしまったのでしょうか。
私はそう訝しみました。
ですが、決してそういう事ではありませんでした。しばらくしてその理由がわかったのです。
兄は、これ以上、私が傷つくことを避けようとしていただけだったのです。
あの方は、すでに結婚していました。
相手は同じ公爵位を持つ家の長女。
普通に考えれば妥当な婚姻なのでしょう。
さすがに王家の者が貴族の第二婦人、第三婦人として嫁ぐ訳には参りません。
あの方と私が一緒になる道は、既に潰えていたのです。
裏切られた……とは思いませんでした。
彼も、私と同じように望まぬ婚姻を強いられてしまったのだとそう思いました。
彼に手紙を出しても返事は来ず……彼の下に届いているかどうかもわかりません。
いえ、兄は私が彼に逢うことに反対しているのですから、きっと届けられることは無かったのでしょう。
年を追うごと、日を追うごとに、切なさは募るばかりです。
どうすることもできない無力さに、私の生活は次第に荒んでいきました。
兄が黙認してくれるのを良いことに、見目の麗しい若い男の子たちを侍らせ、鬱屈した想いを晴らすためだけのために消費していく日々。
気が付けば、あれほど嫌悪した閨の営みが、私の唯一の慰みとなっておりました。
行為の間だけは虚しさを麻痺させることが出来たのです。もはや殿方に抱かれるという行為に、大した後ろめたさは無くなっておりました。
今にして思えば、私は獣に取りつかれていたのだと、そう思います。
そんな爛れた日々を過ごしていたある日、娘を託したあの側近から一通の手紙が参りました。
手紙には、その側近は現在病の床にあり、もはやそれほど長くは無い。私の娘をお返ししたい。と、そう記されていました。
私は狂喜しました。
愛する娘が、あの方と私の愛の結晶が、ここへ帰ってくるというのです。
ですが、彼女の存在はあくまで王家の秘事。事は慎重に運ばねばなりません。
私は身の回りに侍らせていた男の子たちの髪を全て銀色に染めさせ、男の子たちを集める役割を託していた者たちにも「銀髪の少年」を所望しました。
私が好んで銀髪の者を周囲に侍らせていることが広まれば、銀髪の娘を傍に置くことは何も不自然ではなくなるからです。
返事を送り返して数週間の後、ついに娘が私を訪ねてやってきました。
多少表情には乏しいものの、どことなく彼の面影のある美しい娘でした。
側近の娘として大切に育てられ、彼女は私が本当の母親であることは知りませんでした。
実際に顔を合わせるその時までは、母として存分に甘えさせてやりたいと、そんなことを考えていたのですがいざ対面してみると、自分が母であるとはとてもではありませんが口にすることは出来ませんでした。
当然です。
こんなに穢れきった女が、どの面を下げて母を名乗れるというのでしょう。
それでも私は、娘がそばにいてくれるというそのことだけで幸せでした。
名乗り出られずとも、娘と過ごす日々は何物にも代え難いものでした。
ですが、人間の欲望には限りがありません。
日に日に想いは募る一方です。
この娘のためにも、望まぬ形でサヴィニャックの家に縛り付けられているあの方を救い出すべきなのではないかと、次第に私はそんな思いに捉われていったのです。
私は自分の手足となる人間を集め始めました。
執事のフロービオは、王宮に出入りしていた商人から仕入れました。
彼はカルカタ仕込みの暗殺者です。
商人曰く、カルカタの暗殺者は主人には決して逆らわない。そう仕込まれていると言っていました。
次に、専属の護衛騎士として、オリガをスカウトしました。
単純に腕の立つ騎士を数名アンベールに推挙させたのですが、人間関係に恵まれず、実力に見合った役職に就けぬまま自意識だけを肥大させ続けてきた彼女は、実に理想的な人材でした。
実力は十分。その上、ほどよく屈折しているところが丁度良かったのです。
清廉潔白な者に汚れ仕事を任せることは出来ませんから。
そんな折、私の下にアンベール死亡の知らせが齎されました。
かつて彼は、私が可愛がってきた男の子の一人でした。
大臣の地位に就けるよう工作したのも私です。
もし彼を殺した犯人がわかるようであれば、仇の一つも討ってやろうと片手間に情報を集めさせていたのですが、アンベールの死を調べるうちに、一つの名前が浮かび上がってきました。
――ヴァレリィ・サヴィニャック。
計画の最後のひとかけらが見つかりました。
サヴィニャック家の誰かに私を殺させ、その罪を以てサヴィニャック家を誅滅する。
その計画の実行の時が、遂にやってきたのです。
この時、私は本気であの方は私の救いを待っている、そう思っていました。
あの方をサヴィニャックの家から解放することができる、そう思っていたのです。
冷静に考えれば、あの方がそんなことを喜ぶはずがないことぐらい、すぐにもわかろうというものです。
舞い上がってしまっていたとしか言いようがありません。
計画の実行日を定め、それに合わせて、執事のフロービオに彼への手紙を届けさせました。
計画の全貌を伝え、最後に『あの日と同じように、夏の離宮であなたを待っている』と、そう書き記した手紙を。
……ですが結局、それは、私の一人よがりでしかありませんでした。
しんと静まり返る離宮。
陽が落ちたところでもはや灯りを点す者はなく、真っ暗なバルコニーで揺り椅子がギッ、ギッと規則正しい音を立てて揺れていた。
ヴェルヌイユ姫はわずかに身を震わせ、肩に羽織ったケープの両端を胸元へと引き寄せる。
彼女はもはや王宮に戻るつもりなどなかった。
心は完全に衰弱しきっている。今にも消え入りそうなほどに小さく萎れている。
だが、面倒なことに、身体はまだそこまでではない。
それでもこのままここで動かずにいれば、いつかは眠るように消えてしまえるのではないかと、彼女はそう期待していた。
彼女は思う。
彼のいないこの世界に未練は無い。
いや、あるとすればステラノーヴァのこと。
だが彼女を託した甥はどうしようもなく生真面目な男だ。彼女のことは何も心配はないはずだ。
彼女は揺り椅子に身をまかせて、静かに空を見上げる。
夜空は、美しかった。
燦々たる星々は何かを告げようとするように明滅し、絶え間なくハレーションを起こしながら、空に帯のごとき光の河を描いている。
星の一つ一つは違う色。
一つは黄薔薇の色で、一つは青瑪瑙のごとき色、紫色の外郭、その内側に雪白の光茫を孕んでいるものもある。
彼と見上げたあの日の夜空そのまま。
何一つ変わりは無かった。
星は人の営みなど我関せずと煌めくのだ。
幾億年もの年月を旅して、星の光は夜空に瞬くのだという。
夜空の星にしてみれば、たかが二十年の月日など、瞬きする一瞬にも等しいのだろう。
夜空は美しかった。
見れば見るほどに美しかった。
月明かりの中に、銀砂のような無数のきらめきが空を色とりどりに飾り付けていた。
彼女は思う。
だが、それを眺める私は、どうして独りなのだろう。
私の隣には、どうしてあの方が居ないのだろう。
一体、どこで道を間違えたのだろう、と。
それを一つ一つ検証するだけの気力は残っていない。意味も無い。
「……アナタ」
声に出してそう呼んでみる。
最後の一音が暗闇に吸い込まれると、後に訪れる静寂が一層寒々しかった。
妻としてあの方をこう呼ぶ日は来なかった。
ソファーで夕餉の後の団欒、ステラノーヴァを間に挟んで微笑み合う私とあの方、もしかしたらそんな未来もあったのかもしれない。
虚ろな目で再び空を見上げたその瞬間、東の空で星が一つ滑り落ちた。
エメラルドグリーンの尾を引いて、山の向こうへと流れ星が落ちていくのが見えたのだ。
虚ろな目で星の消えていった辺りを眺め、ヴェルヌイユ姫は静かに謡ずる。
『私は流星になりたい。長い夜を越えて、愛するあなたの下へと降りていきたい』
声に出せば感情が溢れ出す。
次第に湿り気を帯びる声。
ぐちゃぐちゃで、ぐずぐずで、ぼろぼろの感情が呻き声を上げる。
『夜空に光の軌跡を描き……、あなたの記憶に深く刻みこまれたい。だから、幾億の夜の果て、永久が最後の一節を奏でる……ぐずっ、その日まで』
頬を伝って涙が滴り落ちる。
良いではないか。ここには誰もいないのだ。こんな情けない泣き顔を見るものは誰もいないのだ。
彼女は顔中をぐちゃぐちゃにして、しゃくり上げながら嗚咽混じりに謡い続ける。
『よぞらのぉ……ほしがぁ……すべて地におぢで、ぐずっ、このびが塵にかわる、その日までぇ。あだたへ愛をささやぎつづげよ……うぇえええええ……』
もう耐えらえなかった。悲しくて、辛くて、姫殿下は声を上げて泣いた。
腸を搾り上げられるような嗚咽を漏らし、親を亡くした子供のように声を上げて泣いた。
とめどもなく溢れてくる涙が胸を濡らし、滲んだ視界で星がぼんやりと広がった。
その瞬間のことである。
重みに耐えかねて硝子の表面を滑り落ちる雨粒のように、あちらこちらで星がスルスルと零れ落ち始めたのだ。
――流星群。
色とりどりの尾を曳きながら、次々と滑り落ちていく星屑。
あるものは冷え冷えとした蒼、あるものは華やかな黄色、夜空をカンバスにして色とりどりの線を描きながら降り落ちていく。
呆然と顔を上げれば、彼女の頭上、視界の先、その夜空に、真っ赤に燃え盛る巨大な赤い流星があった。
それは次第に大きさを増しながら、ゆっくりと彼女の方へと墜ちてくる。
長くたなびく尾は鮮やかな赤い軌跡を描いて、光の粒を振りまいていた。
「あ……あっ……」
言葉にならない声を漏らしながら、ヴェルヌイユ姫は立ち上がり、バルコニーから身を乗り出す。
(あの方の髪の色……!)
地上に人工の光は一つとなく、流星は益々明るい。
湖面が星の光を反射して、そこには祝福するかのように光が溢れていた。
流星はもはや目前にまで迫っている。
摩擦熱で燃え上がった岩塊はガラスへと変じ、宝石のように煌びやかに輝いていた。
ヴェルヌイユ姫は大きく手を広げて、その瞬間を待ち受ける。
哀しみの涙は歓喜の涙へと変わり、熱を持った頬をしとどに濡らしていた。
――私は流星になりたい。次に生まれ変わる時には流星になって、愛とともにあなたへと降り注ぎたいのです。
彼の声が聞こえる。いや、聞こえたような気がした。
次の瞬間、視界一杯に流星が広がって、目の前が真っ白に染まっていく。
その白い光の中に、彼女は両手を広げる想い人の姿を見る。
そして彼女は涙に汚れた顔に、満面の笑みを浮かべた。
「お待ち申しておりました。やっと、アナタと……」
彼女のその声は、流星が地を打つ、轟音の中へと消えていった。
連綿と続く草原の一本道。
リュカとヴァレリィの二人は、互いに寄り添いながら、王都を目指して夜の街道を歩いていた。
深まりゆく秋の気配。草葉の間からは虫の音。月明かり、星明かり。晴れ渡る夜空に、無数の星が煌めいている。
ヴァレリィはリュカの腕にしがみつき、そっと彼の横顔を覗き見る。
さすがに徒歩の旅ともなれば、掛かる日数は馬車の比ではない。
目を凝らしてみても、行く先に人里の灯りは見えず、このままいけば今夜もどこかで野宿だろう。
だが、彼女は不思議なほどに辛いとは思わなかった。
数日前に父を亡くし、姫殿下の行方は知れず、無実を証明する手立ては見当たらない。
だが今、彼女は祝祭の日を待つ子供のように、どこか浮き立つ気持ちを覚えていた。
『お前が望むならどんなヤツでもブッ倒してやる! 俺がなんとかしてやる!』
あの時の彼のその言葉を思い浮かべると、頬が熱を持つのがわかる。
これほどまでに心が浮き立つのは、たとえ国を捨てることになっても、彼さえそばにいてくれれば、それで良いのだと思えるから。
「なあ、旦那さま」
「ん? なんです?」
「大好きだ」
返事は帰ってこない。
だが、嫌がっている訳ではないことぐらいはわかる。
此処に到るまでに何度も繰り返してきたやりとりなのだ。
この後、彼は大抵何か誤魔化すようなことを言うのだ。
「あっ!」
そう言って、彼は空を指さし、ヴァレリィはため息混じりに微笑んだ。
「おまえは、また……そうやって」
「そ、そうじゃないんです。ほら、あれ!」
「だから、何……が」
リュカが指さした先に目を向けると、そこには流星群。
次々に零れ落ちていく流れ星の中、北東の空に、ひと際大きな赤い流星が真っ赤な尾を引きながら落ちていくところだった。
思わず「わぁ……」と感嘆の声を漏らした次の瞬間、彼女はピタリと動きを止めた。
「どうしました?」
「いや……なんでもない。なんでもないのだ」
ヴァレリィは、抱きしめた彼の腕を胸元に引き寄せる。そして、
「まさか……な」
そう独り呟いて、苦笑気味に口元を緩めた。
――幸せにおなり。
そんな、父親の声が聞こえたような……そんな、そんな気がしたのだ。
スターゲイザー 少女の残骸と流星の詩 了