バルコニーを後にして、王太子は庭先へと向かう。
そこで東屋にて茶を嗜んでいた貴族たちに出発を促すと、彼らは口々に不満を口にした。
それはそうだろう。
こんなところにまで来て、姫殿下に挨拶の一つも許されぬまま、ものの一刻も経たぬうちに引き返すと言われれば当然そうなる。
「姫殿下はご病気で、療養中とのことでした。今も御加減がよろしくないそうで、もう誰とも会いたくないと、私も追い出されましたので……」
王太子がそう告げると、不承不承ではあるが貴族たちはそれぞれの馬車へと引き返していった。
庭先から出ていく彼らの背を見送って、王太子は東屋のそばに控えていた銀髪のメイド――ステラノーヴァに自分たちとともに王都へ戻れと、姫殿下からそう指示があったと告げる。
彼女は驚き、盛大に戸惑った。
それはそうだろう。
ここにいたのは姫殿下と彼女だけ。
彼女がここを離れてしまえば、姫殿下の世話をする者は誰もいないのだから。
だが、それが姫殿下のたってのご希望だとそう告げると、彼女は戸惑いながらも渋々了承した。
彼女を先に馬車に乗りこませ、王太子は馬車のそばで、シャルロットにそっと問いかける。
「伯母上の幸運を……確かに全て奪い取ったのだな?」
彼女の右目、瞼の下に填まっているのは三つの宝玉の一つ。数年前に失われたはずの一つである。
その名も『運命』。
それを持つ者に幸運を齎す黒き宝玉である。
ただし、他の者の幸運を奪い取って。
シャルロットはその身に何一つ幸運を持たずに生まれて来た。
人を殺め続けて来た一族の業を一身に背負うように、生まれながらに多くを失って生まれてきたのだ。
生まれつき眼球は無く、眼窩は空洞。恐らく臓器もいくつか足りていない。
そのままにしていれば翌朝を待たずに命を落としたであろう弱々しい生命。それが彼女だ。
彼女が生まれた日。王太子は夜を待って、祝いの品を手にヴァンデールの屋敷を訪れた。
だが彼が目にしたのは、部屋の前でエミリエンヌに取りすがって泣きじゃくるリュカの姿。
エミリエンヌからひとしきりの話を聞き、思わず絶句する彼の耳に、リュカの祈りの声が聞こえた。
「神さま。ボクの命をあげるから、あの子を助けて」
(ああ、そうか。兄とはこういうものだ)
王太子バスティアンにとって、ヴァンデールの家は実の家族以上のもの。王太子として堅苦しい日々をおくる彼にとって、そこで過ごした日々は本当の自分でいられた幸せな記憶なのだ。
(ならば私も兄として、出来ることをしようではないか)
彼はリュカの頭に手を伸ばし、そのクセの強い髪をわしゃわしゃと撫でる。そして、彼の目を見つめて、こう告げた。
「リュー坊。私がお前の望みを叶えてやる。その代わり、なにがあっても後悔するな」
彼は真っ直ぐに見つめてくるリュカを見つめ返した後、王宮へと取って返す。
そして憐れな末妹のために、王家の宝物庫から三つの宝玉の一つ、『運命』を持ち出し、それを彼女に与えたのだ。
以来、シャルロットは奇跡的に命を繋いでいる。
どうして生きているのかは誰もわからない。
だが、奇跡的に生きている。
日々リュカの幸運を分け与えられて、その儚い命を繋ぎ止めている。奇跡的に。
だが、この幼い少女の命を救ったその宝玉で、今度は実の伯母――父がその身を賭けて救った妹の命を奪うことになろうとは、なんという皮肉であろうか。
「伯母上の幸運を……確かに全て奪い取ったのだな?」
彼のその問いかけは、彼の弱さと言っても良いのかもしれない。
自分が負った伯母殺しの罪を、その重さを、ただ確認せずにはいられなかったのだ。
だが、シャルロットは小さく首を振ると、静かにこう応じた。
「いいえ、バスティアンお兄さま。あのお方にはもう奪い取れるような幸運なんて、一欠けらも残されておりませんでした」
思わず目を見開く王太子を見上げて、彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「ですから……お兄さまがあの御方を殺めたことにはなりません。気に病む必要は何もありませんの。何もしなくとも、あのお方は今夜にも逝かれるでしょう。ただ……あまりにも不憫でしたので、少しだけ、ほんの少しだけですけれど、幸運を置いて参りました。せめて最期は安らかに逝けるように」
奪い取るのではなく、置いて来た。彼女はそう言った。
この幼い暗殺者は、『幸運を置いてきた』と、確かにそう言ったのだ。
王太子は静かに空を見上げる。
晴れ渡る空、遠くに鰯雲。
秋の気配が漂っている。
夏の終わり。季節の終わり。不幸なる伯母の恋の終わり。そしてその苦悩に満ちた人生の終わり。
それにふさわしい、穏やかな日であった。
「……感謝する」
彼は身を正し深く首を垂れて、幼い少女にそう告げた。
そこで東屋にて茶を嗜んでいた貴族たちに出発を促すと、彼らは口々に不満を口にした。
それはそうだろう。
こんなところにまで来て、姫殿下に挨拶の一つも許されぬまま、ものの一刻も経たぬうちに引き返すと言われれば当然そうなる。
「姫殿下はご病気で、療養中とのことでした。今も御加減がよろしくないそうで、もう誰とも会いたくないと、私も追い出されましたので……」
王太子がそう告げると、不承不承ではあるが貴族たちはそれぞれの馬車へと引き返していった。
庭先から出ていく彼らの背を見送って、王太子は東屋のそばに控えていた銀髪のメイド――ステラノーヴァに自分たちとともに王都へ戻れと、姫殿下からそう指示があったと告げる。
彼女は驚き、盛大に戸惑った。
それはそうだろう。
ここにいたのは姫殿下と彼女だけ。
彼女がここを離れてしまえば、姫殿下の世話をする者は誰もいないのだから。
だが、それが姫殿下のたってのご希望だとそう告げると、彼女は戸惑いながらも渋々了承した。
彼女を先に馬車に乗りこませ、王太子は馬車のそばで、シャルロットにそっと問いかける。
「伯母上の幸運を……確かに全て奪い取ったのだな?」
彼女の右目、瞼の下に填まっているのは三つの宝玉の一つ。数年前に失われたはずの一つである。
その名も『運命』。
それを持つ者に幸運を齎す黒き宝玉である。
ただし、他の者の幸運を奪い取って。
シャルロットはその身に何一つ幸運を持たずに生まれて来た。
人を殺め続けて来た一族の業を一身に背負うように、生まれながらに多くを失って生まれてきたのだ。
生まれつき眼球は無く、眼窩は空洞。恐らく臓器もいくつか足りていない。
そのままにしていれば翌朝を待たずに命を落としたであろう弱々しい生命。それが彼女だ。
彼女が生まれた日。王太子は夜を待って、祝いの品を手にヴァンデールの屋敷を訪れた。
だが彼が目にしたのは、部屋の前でエミリエンヌに取りすがって泣きじゃくるリュカの姿。
エミリエンヌからひとしきりの話を聞き、思わず絶句する彼の耳に、リュカの祈りの声が聞こえた。
「神さま。ボクの命をあげるから、あの子を助けて」
(ああ、そうか。兄とはこういうものだ)
王太子バスティアンにとって、ヴァンデールの家は実の家族以上のもの。王太子として堅苦しい日々をおくる彼にとって、そこで過ごした日々は本当の自分でいられた幸せな記憶なのだ。
(ならば私も兄として、出来ることをしようではないか)
彼はリュカの頭に手を伸ばし、そのクセの強い髪をわしゃわしゃと撫でる。そして、彼の目を見つめて、こう告げた。
「リュー坊。私がお前の望みを叶えてやる。その代わり、なにがあっても後悔するな」
彼は真っ直ぐに見つめてくるリュカを見つめ返した後、王宮へと取って返す。
そして憐れな末妹のために、王家の宝物庫から三つの宝玉の一つ、『運命』を持ち出し、それを彼女に与えたのだ。
以来、シャルロットは奇跡的に命を繋いでいる。
どうして生きているのかは誰もわからない。
だが、奇跡的に生きている。
日々リュカの幸運を分け与えられて、その儚い命を繋ぎ止めている。奇跡的に。
だが、この幼い少女の命を救ったその宝玉で、今度は実の伯母――父がその身を賭けて救った妹の命を奪うことになろうとは、なんという皮肉であろうか。
「伯母上の幸運を……確かに全て奪い取ったのだな?」
彼のその問いかけは、彼の弱さと言っても良いのかもしれない。
自分が負った伯母殺しの罪を、その重さを、ただ確認せずにはいられなかったのだ。
だが、シャルロットは小さく首を振ると、静かにこう応じた。
「いいえ、バスティアンお兄さま。あのお方にはもう奪い取れるような幸運なんて、一欠けらも残されておりませんでした」
思わず目を見開く王太子を見上げて、彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「ですから……お兄さまがあの御方を殺めたことにはなりません。気に病む必要は何もありませんの。何もしなくとも、あのお方は今夜にも逝かれるでしょう。ただ……あまりにも不憫でしたので、少しだけ、ほんの少しだけですけれど、幸運を置いて参りました。せめて最期は安らかに逝けるように」
奪い取るのではなく、置いて来た。彼女はそう言った。
この幼い暗殺者は、『幸運を置いてきた』と、確かにそう言ったのだ。
王太子は静かに空を見上げる。
晴れ渡る空、遠くに鰯雲。
秋の気配が漂っている。
夏の終わり。季節の終わり。不幸なる伯母の恋の終わり。そしてその苦悩に満ちた人生の終わり。
それにふさわしい、穏やかな日であった。
「……感謝する」
彼は身を正し深く首を垂れて、幼い少女にそう告げた。