キルフェ城砦一階の通路に大きなため息が響いた。城砦陥落から四日後の昼下がりのこと。

 言うまでも無いことではあるが、その溜め息の主はもちろんヴァレリィである。

 テルノワールの王都に向けて進軍を続けていく軍旅から置き去りを食らい、姫殿下を迎え入れる準備として城砦の掃除、修復に明け暮れる日々。

 戦場で敵の血を流すはずだったのに、桶を片手に水を撒いて飛び散った血を洗い流しているのだから、それはため息だって出る。

 彼女が率いる居残り組は十五名。

 気心の知れた者たちではあるが、リュカをはじめとして団員たちは、いずれも居残り組に選ばれたことを喜んでいる節があり、それがまたヴァレリィには腹立たしかった。

「父上がこの現状を知ったら、大いに嘆かれることであろうな」

 柄杓(ひしやく)で水を撒きながら彼女がそう呟くと、すぐ隣でリュカが首を傾げる。

「そうですかね? 意外と喜びそうな気もしますけど」

「そんな訳があるか!」

 ぷぅと頬を膨らませるヴァレリィを「まあまあ」と(なだ)めた後、リュカは唐突に話を変えた。

「ところで団長、少しばかりおかしなことに気づいたんですけど」

 そう言ってリュカが差し出してきたのは、この城砦の見取り図である。

 不思議なことだが、王都を発って以来、ヴァレリィはリュカが不運な目に遭っているところを目にした記憶がない。

 だが(あなど)る訳にはいかない。

 この男の不運は筋金入りなのだ。

 そんな者に調理や掃除、その他の重労働を任せれば、どんな惨事を引き起こすかわかったものではない。

 だからヴァレリィは、彼に盛大に失敗しても死人の出ようのない仕事、この城砦の見取り図の作成を命じたのだ。

 ところが実に意外なことに、彼はこういうことが得意なようで、かなりまともな絵図面が出来上がっていたのである。

「これがどうかしたのか?」

「気づきませんか? ほら、西棟の階段横のあたりですけど」

「……空白になっているようだが?」

「そうなんです。外を一周して城砦の輪郭を描いた後、中を少しずつ描き入れていったんですけど、それだとどうしてもそこにおかしな空間が出来てしまうんです。これを見る限り階段の裏から通路が伸びていて、その先に部屋があるように見えます」

「なるほど、それはつまり……」

「……隠し部屋でしょうね」

「よし! 調べてみようではないか!」

 掃除ばかりでウンザリしていたところに降って湧いた、実に面白そうな話である。

 二人はそのまま西棟を訪れ、(くだん)の階段のそばで足を止める。

 そして階段の脇に積み上げられた木箱を退()けてみると、その向こう側には小部屋ほどの空間があって、左手、丁度階段の裏にあたる辺りに、この城砦のどれよりも頑丈そうな鉄の扉が見えた。

「旦那さまの予想通りだな」

「ええ」

 そう言いながらリュカが扉へと歩み寄り、ぶら下がっている錠前を調べ始めると、ヴァレリィは興味津々といった様子で背後からそれを覗き込んだ。

「どうだ? 鍵は?」

「かかってるみたいですね」

「ふむ、ちょっと待て」

 そう言って、彼女は腰にぶら下げていた鍵束を外して、リュカの方へと差し出した。

「城砦主の私室で発見したものだが、この中に合うモノがあれば良いのだがな」

「あ、これっぽいですね」

他の物よりも倍ほども長く太い鍵。

 リュカは鍵穴とその鍵を交互に見比べると、それを手に取って錠前に差し込む。鍵穴から赤錆が粉になってパラパラと落ち、引っかかるような感触とともに音を立てて錠が跳ねた。

「当たりだな」

 ヴァレリィが喜色混じりの声を漏らし、リュカは小さく頷きながら錠前を外す。

 (かんぬき)を引き抜いて扉を押し開くと、開いた扉の隙間からムワッと(かび)臭い空気が溢れ出した。

 長く一つ(ところ)に閉じ込められていた古い空気の匂い。

 もしかしたら敵の残党が潜んでいるかもしれない。そう思っていたのだが、どうやら無用な心配だったらしい。

 トーテムポールのように頭を重ねて、二人は開いた扉の隙間から奥を覗き込む。

 だが中は真っ暗、恐らく窓の一つも無いのだろう。外が昼間であることすらわからぬほどの真の闇が奥へと続いている。

 リュカが扉を入ったすぐ脇に(ほこり)の被ったカンテラを見つけて、ふうと息を吹きかけると、盛大に綿埃(わたぼこり)が飛び散って、ヴァレリィが顔を(しか)めた。

「油は入ってますね。どうやら使えそうです」

 リュカがカンテラに火を入れ、それを掲げる。

 再び暗闇を覗き込むと、石造りの通路が真っ直ぐに奥へと続いているのが見えた。

「入ってみます?」

「当然だ」

 ヴァレリィがカンテラを受け取って、先に通路へと足を踏み入れる。

 通路は想像していたよりも長く、ひたすら真っ直ぐ。

 やがてカンテラが照らし出す灯りの中に、重厚な鉄の扉が浮かびあがってきた。

「ふむ、どうやら鍵は掛かってなさそうだな」

 彼女は把手(とつて)に手を掛け、感触を確かめながらリュカの方へと振り向いた。

 もちろんここまで来て、中を確かめずに引き返すという選択肢はない。

「何が潜んでいるかわかったものではない、注意を(おこた)るな」

「了解です。団長の背中は俺が守ります」

「背中なぁ……まあ良い。いくぞ!」

 彼女の合図で、二人は扉を押し開けて中へと踏み込んだ。

 ヴァレリィが暗闇を振り払うようにカンテラを掲げると、目に飛び込んできたのは余りにも殺風景な光景。

 石造りの部屋、その真ん中にポツンと大きなベッドが一つ。(ほこり)を被って鎮座している。

「……拍子抜けだな」

「誰かの寝室ってことでしょうか?」

 リュカが首を傾げると、ヴァレリィが小さく首を振る。

「いや、そうではないだろう。見るがいい。この部屋は内側から鍵を掛けられん。つまりは……」

「……監禁部屋」

 兵士たちにすら内緒の部屋。窓一つない秘密の部屋。豪奢なベッドだけが置かれた監禁部屋である。

 どう考えても、いかがわしい目的に使われたものとしか思えない。

「いやぁ……これはもう、見なかったことにする方が賢明かもしれませんね」

 リュカが思わず苦笑いを浮かべると、ヴァレリィが少し考える素振りを見せて首を振った。

「いや、少し掃除をすれば使えそうではないか」

「使うって、何にです?」

「決まっている。我々は夫婦として互いのことをもっと知る必要がある。この城砦にいつまで留まれば良いのかわからんが、例えば誰にも邪魔されずに、お前と二人だけで過ごす時とかにだな……」

 ヴァレリィにしてみれば、深い考えがあって口にしたという訳ではない。

 だがその一言に、リュカは柄にもなく真っ赤になって硬直する。

 そんな彼の様子に、彼女はその物言いが誤解を生むものである事に思い至った。

「ちっ! 違うぞ、そ、そういうことではなくてだな。誰にも聞かれずに、た、ただゆっくりお互いの話をだな! う、うぅうう、違う! 違うのだ!」

「わかってます! わかってますから!」

 カンテラの仄灯(ほのあか)りの中、壁に映る男女の影が、あわあわと手を振りかざしていた。