スターゲイザー 少女の残骸と流星の詩

 リュカがサヴィニャック公爵家を訪ねた日から三日後、フロインヴェール軍は王都を発して、テルノワールへと進軍を開始した。

 大陸公路を南へ一路、幾度かの小規模な戦闘を経て、更に二十日余りが過ぎた頃、彼らは遂に第一関門ともいうべきテルノワール北方の要衝、キルフェ城砦へと辿り着いた。

 夜明けとともに始まる激しい攻城戦。

 そして日中、延々と繰り広げられた戦闘も収まり、下弦の月が空へと昇る頃、遠征軍の宿営地、ひと際大きな部隊長用の天幕(テント)の内側で、女の甲高い怒声が響き渡った。

「えぇい! いまいましい! あやつら、私が女だと思って(あなど)りおって!」

 秀麗な面貌にやる方無い怒りを(にじ)ませるヴァレリィを、リュカがいつも通りのやる気の欠片もない態度で(なだ)める。

「団長、落ち着いてくださいってば。むしろありがたいことじゃありませんか。なにせ戦わなくても良いって言うんですから」

 遠征軍の第四軍、総勢二百五十名を指揮するのは、この金鷹(きんよう)騎士団長ヴァレリィである。

 彼女は戦乙女とまで呼ばれる女傑であり、実際のところ、年功によって遠征軍の総司令を務めている黒鳳(こくほう)騎士団長のスロワーズよりも兵士たちの人望は遥かに厚い。

 スロワーズにしてみれば、それはもうやりにくいに決まっている。

 それがわかっているからこそ、ヴァレリィは文句の一つも言わずに最も規模の小さな部隊を引き受けたのだ。

 だが、ここへきて遂にヴァレリィの不満が爆発した。

 本日の戦闘でキルフェ城砦は陥落寸前、ゆえに明日の城砦攻めは手柄の取り合いとなるのは必然である。

 だというのに、ヴァレリィ率いる第四軍は明日の城砦攻めにおいて、有無を言わさず後方支援を振り分けられたのだ。

 言うなれば、『手柄を立てるのを指をくわえて見ていろ』ということ。

 実質、戦力外通告である。

「ああっ! くそっ!」

 ヴァレリィは紅い髪を掻きむしりながら脱ぎ散らかした甲冑、その兜を蹴り上げる。

 そして、緊張感の欠片もない顔つきで敷布の上に胡坐(あぐら)をかいているリュカを、ジトリとした目つきで見据えた。

「むぅぅ……私がこんなに悔しがっているというのに、まったくお前はお気楽だな、旦那さまよ」

「そんなことありませんってば」

 リュカの言葉は事実である。気楽ではない。胸の内は波風立ちまくりである。ヴァレリィとは全く違う意味で、彼は彼なりに色々と必死なのだ。

 公爵家への訪問以降、ヴァレリィはリュカのことを旦那さまと呼び、事あるごとに(みずか)らを妻と称するようになった。

 あまつさえ気を回し過ぎる同僚たちのお蔭で、王都を出発して以来、二人で一つの天幕(テント)、一つの毛布で身を寄せ合って眠ることを強いられているのだ。

 そもそも口を開きさえしなければ、彼女はとんでもない美人だ。そんな女性がすぐ隣で寝息を立てているのだから(たま)ったものではない。

 リュカだって木石ではない。年頃の男の子なのだ。

 戦地であることを自分自身に何度も言い聞かせ、ここまで二十日あまりも指一本触れずに(こら)えられているのは奇跡だと言っても良いだろう。

 しかもヴァレリィ自身は、あまりにも無防備なのだ。

 戦場から戻るまでそういうことはしないと、彼女の父親に宣言したリュカの言葉を、真っ直ぐに信じ切っている。

 今も目の前の彼女が身に着けているのは、軍用の色気の無いモノとはいえ、薄い短衣(チユニツク)とやたらローライズ気味な短袴(シヨートパンツ)だけ。

 甲冑に隠れてわからなかった実に女性らしい曲線に、知らず知らずのうちに目が吸い寄せられる。

 そんな彼の胸のうちも知らずに、ヴァレリィは「むぅ」と不満げに頬を膨らませると、リュカの膝を枕にして、ごろりと寝転がった。

「……疲れた」

「あの……団長、重いんですけど」

「うるさい。疲れたと言っているのだ。少しぐらい(いた)わってくれても良いだろうが」

「はいはい、お疲れさまです」

「そうだ。私はお疲れなのだ。その……もっと(いた)われ、(いた)わるのだ、旦那さまよ」

「また、ですか……」

「うるさい、妻が疲れたと言っておるのだぞ。お前には夫として、為すべきことがあるだろう!」

「はいはい……わかりましたよ」

 リュカは肩をすくめてヴァレリィの頭へと手を伸ばす。

 サラサラの赤毛。形の良い頭。その感触を指先で確かめながら、ねぎらうように優しく撫でまわす。

 途端に「ふわぁ……」と気持ちよさげな声が、彼女の形の良い唇から(こぼ)れ落ちた。

 彼女の顔を覗き込むと、幸せそうに目を閉じたまま口元をむにむにと動かしている。

 ヴァレリィは、二人きりの時には時々こんな風になる。

 最初の頃は苦行でも受けるような顔で、どうにか妻らしく振る舞おうとしていたようなのだが、結局何をどうしてよいかわからなかったらしく、最後はキレ気味にリュカに無茶ぶり。

「おい、旦那さま! お前も何か夫らしいことをしてみろ!」

「ええっ!?」

 リュカは散々困った末に、とりあえず妹にそうするように彼女の髪を撫でてみた。

 だがそれが意外なほどに心地良かったらしく、以降、彼女は二人っきりになると、事あるごとに頭を差し出してくるようになってしまったのだ。

 こんなのでいいのか? と、思わなくもないが、陽だまりの猫みたいな顔で横たわる彼女の姿は微笑ましい。

 普段からそうしていれば良いのに、そうすれば男たちは、彼女の事をもっとちやほやするに違いないのにと、そう思うのだが、他の男にこんな彼女の表情を見られるのはなんとなくイヤだとも思う。

 独占欲めいたその思いに気付いて、

(まあ、ひと月近く、ずっと一緒に居れば情も移るってもんだよな……)

 と、リュカは思わず口元を緩めた。

 やがて、彼女がとろんと眠たげな目をして、彼を見上げる。

「……なあ、旦那さまよ」 

「ん? なんです?」

「そういえばあの日、風呂で父上とどんな話をしたのだ?」

 唐突なその問いかけに、リュカは思わず彼女の髪に伸ばしていた指の動きを止めた。

「それは……言えません。その、男同士の……約束ですから」

 途端に、彼女はぷぅと頬を膨らませる。

「むぅ……お前まで、私を女扱いするのか」

「女扱いというか…………そうですね。身内扱いです、かね」

「……そうか、ならば良い」

「ところで団長。もうそろそろ勘弁してくれませんかね。手が疲れてきたんですけど」

「ダメだ。私はまだお疲れなのだ。ダメだったらダメだ」
 リュカの手首が()った丁度その頃。遠く離れた王都サン・トガンでは、王太子バスティアンが東の離宮に自身の伯母、ヴェルヌイユ姫を訪ねていた。

 バスティアンの表情は浮かない。正直に言って気が重いのだ。

 実の伯母ではあるが、会わずに済むのなら会いたくない人物でもある。彼自身、伯母には好かれていないという自覚もあるし、好かれたくもないという思いもある。

「姫殿下、王太子殿下がお見えです」

 ヴェルヌイユ姫の寝室の前、屋敷に彼を迎え入れた初老の執事が扉越しにそう声を掛けると、向こう側から物憂げな声で返事が聞こえてきた。

「……かまわん、通すがよい」

「どうぞお入りください」と扉を開けた執事が、腰を折って彼を(うなが)す。そしてバスティアンは開いた扉の向こう側、そこにある光景を目にした途端、盛大に眉を(ひそ)めた。

 部屋の中央には天蓋(てんがい)付きの豪奢なベッド。特別に(あつら)えさせたベルベットの寝具の上に(なま)めかしく寝そべる女の姿がある。

 四十を過ぎているとはとても思えない若々しい美貌。瓜実(うりざね)型の上品な輪郭に肉感的な厚い唇。蒼い目を物憂げに細め、寝乱れた金色の髪を掻き上げる女。彼の伯母、ヴェルヌイユ姫であった。

 彼女は黒のショーツにガーターベルト、シースルーのショールを羽織っただけのあられもない姿。室内に男の姿はないが、胸元には情事の直後であることを思わせる珠の汗が浮かんでいる。

 バスティアンは扉の内側に足を踏み入れると、不快げな表情を隠そうともせずに口を開いた。

「伯母上もお変わりのないようで」

「うむ、大儀である。少々はしたない恰好ではあるが、まあ許せ」

「少々……ですか」

 何も知らなければ、場末の娼婦かと見まがうような下品極まりない姿である。不愉快さも(あら)わに眉を(ひそ)めつつ、彼は周囲を見回す。メイドと女騎士。部屋の隅には二人の女が控えているのが見えた。

 たしか、黒髪の騎士装束の女が伯母直属の騎士団団長のオリガ、銀髪のメイドの方は確かステラノーヴァ、そういう名前だったと記憶している。

「なんじゃ? 不満そうじゃの。そんな顔をしても可愛がってはやれんぞ。お主は血が繋がっておるからの」

 彼女は(なま)めかしく身を(よじ)って、物憂げにバスティアンを見上げる。

「まさか伯母上と血が繋がっていることを、神に感謝することになろうとは思ってもみませんでしたな」

「はっ! 言いよるわ」

 ヴェルヌイユ姫はコロコロと喉を鳴らして笑う。だがそんな彼女の足を目にして、バスティアンは怪訝(けげん)そうに目を細めた。彼女の右足、その膝から下が添え木とともに包帯でぴっちりと固められているのが見えたのだ。

「ところで、その足は、どうなさったのですか?」

 すると彼女は、不愉快げに唇を尖らせた。

「ベッドから転げ落ちたのじゃよ。痛みはひいておるのじゃが、ポッキリと折れておるゆえ、なかなか不便で困っておる」

 自業自得とはこういうことを言うのだろう。バスティアンは呆れたとでもいうように肩をすくめた。

「では、ここへ参ったのも無駄足だったかもしれませんね。そんな足では、戦地に慰問になど行けますまい」

「何を申しておる。行くに決まっておるじゃろうが。明日には(わらわ)のために造らせた車椅子と、車椅子ごと荷台に乗れる特製の馬車が届くことになっておるのじゃからな」

「は? なにもそんな状況でご無理をなさる必要はありますまい」

「馬鹿か、お主は。兵たちは命を懸けて戦っておるのじゃぞ。(わらわ)だけが安穏としておる訳にはいくまいて。それに、たまには王族としての務めを果たさねば、兄上に叩き出されかねんからのう」

 そう言って彼女はさもおかしげにカラカラと笑い、彼は苦々しげに頬を歪める。

(命がけで戦っている兵士のため? よくもまあ、ぬけぬけとそんな戯言(たわごと)を言えたものだ)

 どう考えてもそれが本当の目的ではないだろう。実際この伯母のことゆえ、只の気まぐれということもあり得るが、何かしらよからぬことを企んでいる可能性もある。せいぜい兵士や捕虜の中から、見目麗しい男を見繕おうとしているとか、その程度のくだらないことだとは思うが。

「戦局は落ち着きつつあるのかえ?」

「数日中にはキルフェ城砦が陥落する見込みです、慰問であればその城砦までに(とど)めてくださると、私としては助かりますね」

「ふむ、(わらわ)とて最前線まで押しかけて、我が騎士たちに迷惑を掛けるつもりもない」

「それでは段取りが整いましたら、またここへ参りますので」

「うむ」

「では、私はこれで」

 彼がそう言って背を向けると、ヴェルヌイユ姫は思い出したかのように、その背に向かって声を掛けた。

「そうじゃ、ヴァレリィなる騎士が遠征に参加しておると聞いておるが……」

「ヴァレリィ? かの者がどうかなさいましたか?」

 バスティアンが振り向くと、彼の伯母はにんまりと口元を歪めてこう言い放った。

「なかなかの美形だと聞いておる。そのキルフェ城砦とやらには、その者はおるのじゃろ?」

「ふむ、それでは伯母上の饗応は、彼女に任せるよう指示しておきましょう」

「彼女? なんじゃ……女か、ヴァレリィと申す者は。(わらわ)はてっきり……」

「ご期待に添えず申し訳ありませんな」

 確かに男性にもヴァレリィという名の者はいる。彼女が戦場に出向こうという理由がヴァレリィの噂を聞きつけてということならば、とんだ笑い話である。

 つまらなさそうに唇を尖らせるヴェルヌイユ姫の姿に、バスティアンは苦笑いを浮かべて部屋を後にした。

 だが、彼の姿が部屋から無くなった途端、ヴェルヌイユ姫はにんまりとイヤらしい微笑みを浮かべて壁際に控えていた二人の方へと顔を向けた。

「これで良かろう」

 計画はもう動き出している。順調といっても良いだろう。

「オリガ。どうじゃ? 例の物は手に入りそうか?」

「はっ! 問題ございません。丁度良いモノはなかなか見つかりませんが、ご出発までには必ず」

「うむ。ではオリガ、お主は下がってよい。ステラノーヴァ、お主は(わらわ)のそばにおれ」

「仰せのままに」

「うん」

 (ひざまず)くオリガ、幼児のような返事をするステラノーヴァ。二人の姿を満足げに見据えると、ヴェルヌイユ姫は窓の方へと目を向ける。

 そして彼女は夜空に赤い星を見つけ、「()い夜じゃ」と、かすかに口元を歪めた。
「残党が潜んでいる可能性もある! 警戒を(おこた)るなッ!」

 苛立(いらだ)ち混じりに声を張り上げるヴァレリィを尻目に、リュカは眠たげな目を窓の外へと向ける。

 地平線が燃えていた。

 時刻は朝方、リュカが知るよしも無いことではあるが、王太子バスティアンが伯母を訪ねた二日後のことである。

 昨日の正午過ぎから始まった攻城戦は意外なほどに長引いて、夜を越え、朝方近くまで続いた。

 だが、明けの明星が空に輝く頃合いになって、敵の反撃が唐突に途絶えたのだ。

 (いぶか)しみながら城門を打ち破って突入してみれば、城砦は既にもぬけの殻。テルノワールの兵士たちが裏門から脱出し終えた後だった。

 激しい攻城戦が繰り広げられている間、ヴァレリィ率いる第四軍は後方支援という名のお留守番。

 一昼夜に(わた)って戦い抜いた他の部隊とは違い、睡眠もちゃんと取ったし、食事も三食ばっちり食べた。気力は充実している。

 だが――

「では、我々が追撃を!」

 ヴァレリィが意気揚々とそう主張するも、

「いや、まずは城砦の占領が先だ。攻城に当たった兵たちは休ませるから、あとはよろしく頼む」

 と、一軍、二軍、三軍の指揮官に、すげなくそう返されたのである。

 かくしてヴァレリィ率いる第四軍は、死体を運び出したり資材を運び込んだりと、慌ただしく戦後処理、占領作業という名の後始末を行っているという訳である。

「残党が潜んでいる可能性もある! いや、潜んでいてくれ! で、襲い掛かってきたりしなぃかなぁ。そしたら、や、()っちゃっても良いよな、な、旦那さま」

 親指の爪を(かじ)りながら、イッちゃってる目で物騒なことをぶつぶつと呟くヴァレリィ。

 欲求不満も限界を超えて、彼女は殺人鬼みたいなことを言い出していた。

(あはは……。あれ、ウチの奥さんなんですよ? 早く逃げた方がいいんじゃね? 俺)

 リュカが正直あまり見たくない妻の姿から目を逸らすのとほぼ同時に、廊下の向こう側から「サヴィニャック卿、少しよろしいかな?」と、しわがれた男の声が聞こえて来た。

 ヴァレリィの金色の甲冑とは対照的な、(きら)びやかさの欠片もない武骨な甲冑姿。頭の禿げあがった初老の髭男である。

 男の名はダン・スロワーズ。

 黒鳳(こくほう)騎士団の団長にして、この度の遠征軍の全軍を束ねる総司令であった。

 彼は年功によって総司令に任じられてはいるが、騎士階級でいえばヴァレリィとは対等。家格で言えば遥かに下。

 その上、人望、実力ともに誰がどう見ても、ヴァレリィの方が上なのだ。

 ゆえに彼にしてみれば、ヴァレリィは自分が率いる軍の一部隊長でしかないはずなのだが、頭ごなしに命令を出すことも出来ず、どうにもやり難そうであった。

「スロワーズ卿、なにか?」

 ヴァレリィがそう問いかけると、彼は「うむ」と一つ頷いて髭を撫でる。

「つい先ほどのことなのだが、実は王太子殿下より国境の駐屯地経由で、『鳩』が届いてな」

「王太子殿下から?」

「うむ、それがヴェルヌイユ姫殿下が近々、兵たちの慰問にお越しになるというのだ」

「慰問? なぜでしょう? 戦局は大して動いておりませんし、兵たちが疲弊しているというほど長引いている訳ではありませんが……」

 普通、王家のそれも継承権第二位という大物が戦場を訪れようというのであれば、相応の理由があって然るべきなのだが。

「知らんよ。文面を拝見する限り殿下もお困りのご様子であった。大方、処女姫殿下の気まぐれでいらっしゃるのだろう。貴卿も存じておるとは思うが、実に奔放な方であられるからな」

「お目通りしたことはございませんが、お噂は……」

「とはいえ、全軍で姫殿下をお待ちするという訳にもいかん。そこで貴卿には、駐留部隊を率いてこの城砦に残ってもらいたいのだ」

「バカな!?」

 途端にヴァレリィがスロワーズに喰ってかかる。

「こちらに来てからまだ、まともに敵と剣を交えてもいないというのに、貴卿は私にここに留まれとおっしゃるのですか!」

「し、しかたがあるまい。王太子殿下のご指名なのだよ」

 ヴァレリィの剣幕に、スロワーズがたじたじと()け反る。

「はぁああ!? 指名? なぜです! 私は姫殿下に御目通りしたことなどございませんが?」

「知らんよ。それにたとえ指名がなくとも、貴公ぐらいにしか、あの姫殿下のお相手はできまいて。口に出すのは(はばか)られるが、男の身ではなにかと差しさわりがあるのだよ」

「ぐっ……ぐぬぬ!」

 ヴァレリィはとてもではないが、返事を出来る様子ではない。 完全にブチ切れている。どう見てもギリギリ理性を保っているような状態だ。

「わかりました、喜んで拝命いたします」

 しかたなく、すぐそばにいたリュカが口を挟んだ。

「ん? なんだ、貴様は?」

「団長の下で副官を務めております、リュカ・ヴァンデールと申します」

「ほう、貴様が噂のな……」

 途端に、スロワーズの瞳に(さげす)むような色が浮かんだ。

 大方、初心(ウブ)な公爵令嬢を垂らしこんだ放蕩息子とでも言われているのだろう。

「姫殿下は三日後に王都を出られるとのこと。徒歩(かち)の者はあらぬゆえ、おそらく十日程度でこちらへ御着きになることであろう。くれぐれも粗相のないようにな!」

 スロワーズはリュカの方へ向き直ると、ヴァレリィに対するのとはうって変わって高圧的な口調でそう言い捨てて、そのまま足早に去っていった。

 ヴァレリィは怒り心頭と言った様子。彼女の相手をするのはどう考えてもリュカの他にはおらず、今晩どれだけ頭を撫でさせられるのだろうかと、彼は思わず深いため息を吐く。

 彼の手から指紋が消える日は、それほど遠くはないように思えた。
 キルフェ城砦一階の通路に大きなため息が響いた。城砦陥落から四日後の昼下がりのこと。

 言うまでも無いことではあるが、その溜め息の主はもちろんヴァレリィである。

 テルノワールの王都に向けて進軍を続けていく軍旅から置き去りを食らい、姫殿下を迎え入れる準備として城砦の掃除、修復に明け暮れる日々。

 戦場で敵の血を流すはずだったのに、桶を片手に水を撒いて飛び散った血を洗い流しているのだから、それはため息だって出る。

 彼女が率いる居残り組は十五名。

 気心の知れた者たちではあるが、リュカをはじめとして団員たちは、いずれも居残り組に選ばれたことを喜んでいる節があり、それがまたヴァレリィには腹立たしかった。

「父上がこの現状を知ったら、大いに嘆かれることであろうな」

 柄杓(ひしやく)で水を撒きながら彼女がそう呟くと、すぐ隣でリュカが首を傾げる。

「そうですかね? 意外と喜びそうな気もしますけど」

「そんな訳があるか!」

 ぷぅと頬を膨らませるヴァレリィを「まあまあ」と(なだ)めた後、リュカは唐突に話を変えた。

「ところで団長、少しばかりおかしなことに気づいたんですけど」

 そう言ってリュカが差し出してきたのは、この城砦の見取り図である。

 不思議なことだが、王都を発って以来、ヴァレリィはリュカが不運な目に遭っているところを目にした記憶がない。

 だが(あなど)る訳にはいかない。

 この男の不運は筋金入りなのだ。

 そんな者に調理や掃除、その他の重労働を任せれば、どんな惨事を引き起こすかわかったものではない。

 だからヴァレリィは、彼に盛大に失敗しても死人の出ようのない仕事、この城砦の見取り図の作成を命じたのだ。

 ところが実に意外なことに、彼はこういうことが得意なようで、かなりまともな絵図面が出来上がっていたのである。

「これがどうかしたのか?」

「気づきませんか? ほら、西棟の階段横のあたりですけど」

「……空白になっているようだが?」

「そうなんです。外を一周して城砦の輪郭を描いた後、中を少しずつ描き入れていったんですけど、それだとどうしてもそこにおかしな空間が出来てしまうんです。これを見る限り階段の裏から通路が伸びていて、その先に部屋があるように見えます」

「なるほど、それはつまり……」

「……隠し部屋でしょうね」

「よし! 調べてみようではないか!」

 掃除ばかりでウンザリしていたところに降って湧いた、実に面白そうな話である。

 二人はそのまま西棟を訪れ、(くだん)の階段のそばで足を止める。

 そして階段の脇に積み上げられた木箱を退()けてみると、その向こう側には小部屋ほどの空間があって、左手、丁度階段の裏にあたる辺りに、この城砦のどれよりも頑丈そうな鉄の扉が見えた。

「旦那さまの予想通りだな」

「ええ」

 そう言いながらリュカが扉へと歩み寄り、ぶら下がっている錠前を調べ始めると、ヴァレリィは興味津々といった様子で背後からそれを覗き込んだ。

「どうだ? 鍵は?」

「かかってるみたいですね」

「ふむ、ちょっと待て」

 そう言って、彼女は腰にぶら下げていた鍵束を外して、リュカの方へと差し出した。

「城砦主の私室で発見したものだが、この中に合うモノがあれば良いのだがな」

「あ、これっぽいですね」

他の物よりも倍ほども長く太い鍵。

 リュカは鍵穴とその鍵を交互に見比べると、それを手に取って錠前に差し込む。鍵穴から赤錆が粉になってパラパラと落ち、引っかかるような感触とともに音を立てて錠が跳ねた。

「当たりだな」

 ヴァレリィが喜色混じりの声を漏らし、リュカは小さく頷きながら錠前を外す。

 (かんぬき)を引き抜いて扉を押し開くと、開いた扉の隙間からムワッと(かび)臭い空気が溢れ出した。

 長く一つ(ところ)に閉じ込められていた古い空気の匂い。

 もしかしたら敵の残党が潜んでいるかもしれない。そう思っていたのだが、どうやら無用な心配だったらしい。

 トーテムポールのように頭を重ねて、二人は開いた扉の隙間から奥を覗き込む。

 だが中は真っ暗、恐らく窓の一つも無いのだろう。外が昼間であることすらわからぬほどの真の闇が奥へと続いている。

 リュカが扉を入ったすぐ脇に(ほこり)の被ったカンテラを見つけて、ふうと息を吹きかけると、盛大に綿埃(わたぼこり)が飛び散って、ヴァレリィが顔を(しか)めた。

「油は入ってますね。どうやら使えそうです」

 リュカがカンテラに火を入れ、それを掲げる。

 再び暗闇を覗き込むと、石造りの通路が真っ直ぐに奥へと続いているのが見えた。

「入ってみます?」

「当然だ」

 ヴァレリィがカンテラを受け取って、先に通路へと足を踏み入れる。

 通路は想像していたよりも長く、ひたすら真っ直ぐ。

 やがてカンテラが照らし出す灯りの中に、重厚な鉄の扉が浮かびあがってきた。

「ふむ、どうやら鍵は掛かってなさそうだな」

 彼女は把手(とつて)に手を掛け、感触を確かめながらリュカの方へと振り向いた。

 もちろんここまで来て、中を確かめずに引き返すという選択肢はない。

「何が潜んでいるかわかったものではない、注意を(おこた)るな」

「了解です。団長の背中は俺が守ります」

「背中なぁ……まあ良い。いくぞ!」

 彼女の合図で、二人は扉を押し開けて中へと踏み込んだ。

 ヴァレリィが暗闇を振り払うようにカンテラを掲げると、目に飛び込んできたのは余りにも殺風景な光景。

 石造りの部屋、その真ん中にポツンと大きなベッドが一つ。(ほこり)を被って鎮座している。

「……拍子抜けだな」

「誰かの寝室ってことでしょうか?」

 リュカが首を傾げると、ヴァレリィが小さく首を振る。

「いや、そうではないだろう。見るがいい。この部屋は内側から鍵を掛けられん。つまりは……」

「……監禁部屋」

 兵士たちにすら内緒の部屋。窓一つない秘密の部屋。豪奢なベッドだけが置かれた監禁部屋である。

 どう考えても、いかがわしい目的に使われたものとしか思えない。

「いやぁ……これはもう、見なかったことにする方が賢明かもしれませんね」

 リュカが思わず苦笑いを浮かべると、ヴァレリィが少し考える素振りを見せて首を振った。

「いや、少し掃除をすれば使えそうではないか」

「使うって、何にです?」

「決まっている。我々は夫婦として互いのことをもっと知る必要がある。この城砦にいつまで留まれば良いのかわからんが、例えば誰にも邪魔されずに、お前と二人だけで過ごす時とかにだな……」

 ヴァレリィにしてみれば、深い考えがあって口にしたという訳ではない。

 だがその一言に、リュカは柄にもなく真っ赤になって硬直する。

 そんな彼の様子に、彼女はその物言いが誤解を生むものである事に思い至った。

「ちっ! 違うぞ、そ、そういうことではなくてだな。誰にも聞かれずに、た、ただゆっくりお互いの話をだな! う、うぅうう、違う! 違うのだ!」

「わかってます! わかってますから!」

 カンテラの仄灯(ほのあか)りの中、壁に映る男女の影が、あわあわと手を振りかざしていた。
「ヴェルヌイユ姫殿下! 御到着ッ!」

 見張り塔の騎士が声を張り上げた途端、(にわか)に城砦が慌ただしさを増した。

 リュカとヴァレリィが慌てて城門へと駆けつければ、開いたままの門扉の向こうに、こちらへ向かって街道を進んで来る一軍の騎馬の姿が見える。

 はためく王家の旗。

 黒地に赤の派手な甲冑を纏った二十騎ばかりの騎馬。

 それに囲まれた、豪奢に飾り立てられた馬車が見える。

「全員整列せよ! 急げ! 急ぐのだ!」

 ヴァレリィが振り返って声を張り上げると、騎士たちが慌ただしく門前の広場へと駆け出してきた。

 彼らは正面にリュカとヴァレリィを残して左右に分かれ、姫殿下一行の到着を、息を呑んで待ち受ける。

 やがて姫殿下の一行、その先頭の女騎士が騎乗したまま門をくぐり終えると、ぐるりと周囲を見回して大声を張り上げた。

「ヴェルヌイユ姫殿下の御来臨である! 皆の者、控えよ!」

 ヴァレリィを始めとする騎士たちはその場に(ひざまず)き、女騎士に続いて入城してきた二名の騎士がそれぞれ手にした旗を振りかざす。

 そしてその後に、姫殿下を乗せていると思われる馬車が門をくぐって入ってきた。

 金細工に飾り立てられた豪奢な馬車。

 通常よりも二回りほども大きな馬車である。

 その後について、おそらく侍女たちを乗せていると思われる馬車がもう一両、それに後衛の騎士たちが入城し終えると、城門近くの者たちが門へと駆け寄って重い扉を閉じた。

 馬車が停車すると、辺りはしんと静まり返る。姫殿下付きの騎士たちが振りかざす旗の、風を切る音だけが響いている。

 リュカの耳に、「ごくり」とヴァレリィが喉を鳴らす音が聞こえてきた。どうやら緊張しているらしい。

 それがなんとなくおかしくて、リュカが思わず「ふっ」と笑い声を漏らすと、静かにしろとばかりにヴァレリィの肘が脇腹を(つつ)いた。

 それとほぼ同時に馬車の扉が開いて、一人のメイドが降り立つ。長い銀髪に透けるような白い肌、やけに無表情な年若いメイドである。

 彼女はまるで何かの儀式みたいな足取りでしずしずと馬車の後部に回ると、両開きの扉を開いて何か大きな物を引っ張り出す。

 分厚い背もたれに大きなひじ掛け。

 出てきたのは豪奢なソファー。

 それは一人掛けのソファーの両脇に車輪をくっつけたかのような代物だった。

(なんだ、あれ?)

 恐らく、その場にいた騎士たちの誰もがそう思ったことだろう。皆、一様に怪訝(けげん)そうな顔をしている。

 引っ張り出されたそのけったいなソファーの上には、一人の女性が深くもたれ掛かるように腰を下ろしていた。

 高く編み上げた金色の髪に、細めた蒼い瞳。

 どうにも年齢の想像はつかないが、あれが噂に聞く処女姫殿下なのだとしたら、既に四十を越えているはずだ。

 だが(まと)っている雰囲気は、魔性の色香とでもいうべき物。二十代か、下手をすれば十代のようにすら見える。

 思わずぽーっと鼻の下を伸ばす騎士たちを眺めて、彼女は嫣然(えんぜん)と微笑みながら手を(かか)げた。

「うむ、皆の者。出迎え大儀である。苦しゅうない、(おもて)を上げるが良い」

 彼女のその言葉に、リュカを始めとする騎士たちは一斉に戸惑うような顔をした。

 なんというか、あまりにも意味不明な登場の仕方をされてしまったせいで、既に全員顔を上げてしまっていたのだ。

 不敬極まりない話ではあるが、いち早く我に返ったヴァレリィが取り(つくろ)うように声を張り上げた。

「こ、此度のご来臨、心より厚く御礼申し上げます! 姫殿下に栄光あれ!」

「「「「姫殿下に栄光あれ!」」」」

 ヴァレリィに続いて、騎士たちが大声で唱和すると、姫殿下は「うん、うん」と満足げに頷いた。

「手間を掛けさせて悪いがの、しばらく厄介になるのじゃ」

「ははっ! もったいなきお言葉!」

 恐縮するヴァレリィの隣で、リュカはそっと姫殿下の様子を観察する。

 見れば、足に添え木を当てて、その上から包帯を幾重にも巻いている。どうやら足を痛めているらしい。

 それでこの車椅子、いや、車ソファーかと納得する。

 だがあの車ソファーとそれを乗せる馬車は、どうみても途中で調達できるような代物ではない。

 ここへ来る途中で負傷したという訳ではなく、負傷しているにも関わらず、わざわざ出向いてきたということなのだろう。なんともはや迷惑な話である。

「ところでこの城砦の兵は、これで全部かえ?」

「はっ! 本陣は既に進軍を開始しており……」

 ヴァレリィが姫殿下の問いかけに応じているうちに、リュカは頭の中でここからの段取りを確認する。

(えーと、エルネストとユーディンにお付きの騎士たちを部屋へ案内させて、団長と俺は姫殿下を貴賓室に案内、他の連中には馬と馬車を預からせて……)

 そうしているうちに、先ほど先頭に立って入城してきた女騎士が、ヴァレリィの方へと歩み寄りながら兜を脱いだ。

 年の頃は十八、九。

 黒髪のショートボブ。斜めに角度のついた前髪が個性的な女性である。

 色白な肌に切れ長の目は鋭く、美人ではあるが、どこか冷たげな印象を受ける。

 彼女は背後からヴァレリィに歩み寄ると、静かに口を開いた。

「久しぶりだな、ヴァレリィ」

 振り返ったヴァレリィは、驚きに目を見開いた後、彼女らしからぬはしゃぎ声を上げた。

「オリガ! オリガではないか!」

「うむ、健勝そうでなによりだ。貴卿と(まみ)えることを、楽しみにしておったぞ」

「ああ、そうか! いかん、いかんな。王族直属の騎士団長殿を気軽に呼び捨てにしては部下たちに示しがつかん。失礼した。これからは、イーニェ卿と呼ばねばなるまい」

 ヴァレリィがそう口にすると、オリガは苦笑しながら、ふるふると首を振った。

「よせ。戦乙女にへりくだられては(かな)わん。貴卿と私の仲ではないか。これからも私のことは呼び捨てで構わんよ」

「あの、団長、こちらの方は?」

 リュカが恐る恐る問いかけると、

「ん? ああ、彼女は、幼年学校からの友で……」

 答えかけたヴァレリィの背後から、オリガがジトっとした目つきで彼を見据えた。

「ヴァレリィ……なんだ、この下品な顔をした男は? もう少し部下は選んだ方が良いと思うぞ」

「いや、実はだな……その、なんというか……」

 思わず口ごもるヴァレリィにオリガが「ん?」と首を傾げた、その瞬間――

「わー! ぼんぼんや! ヒラリィ! ぼんぼんがおるで!」

「うわっ! ホンマや! あはは! ぼんぼーん!」

 唐突に少女たちの(かしま)しい声が響き渡った。

 南方(なま)りの発音。

 その声が聞こえた方に目を向けると、侍女と思わしき一団から、跳ねるように飛び出してくる二人の女の子の姿がある。

 黒髪を頭の左右でくくった幼げな双子、全く同じ顔をした二人の少女である。

 南方の血の入った褐色の肌、やけに丈の短いメイド服を纏った少女二人が、真っ直ぐにリュカの方へと飛びついてきた。

「うげぇ!? お、お前ら! な、な、なんでこんなところに!?」

 彼女たちは盛大に顔を引き攣らせて逃げ出そうとするリュカに、勢いよく飛びついたかと思うと、左右から蝉のようにしがみついて、すかさず両足で彼の(もも)を挟み込んだ。

「逃がさへんでぇ! こんなところで出会うなんて、もうこんなん運命やん!」

「せや、せや、こらもう、しゃーないわ。お(めかけ)さん待ったなしやで!」

「ヒラリィ! ちょ、変なとこ握るな! ミリィ、頬ずりはやめろ! 放せ! 放せぇえええ!」

 子犬のようにじゃれつく二人の少女から逃れようと必死にもがくリュカ。

 それを目の当たりにして、ヴァレリィは驚愕の表情を浮かべた。

「ま、まさか、旦那さま……そ、それは浮気か、浮気なのか!?」

 ふらりとよろめきながら彼女がそう口走ると、リュカがこめかみに青筋を立てて吠えた。

「どこをどう見たら、そう見えるんですか!」

「そうとしか見えんわ!」

 あ……うん。まあ、そうかもしれない。それはリュカ自身も納得するところではあるのだが。

「いいから、助けてくださいって! こいつらはウチのメイドなんです! 双子の変態で、空気を読まねぇとんでもないヤツらなんですってば!」

 必死に救いを求めるリュカに、メイドの片割れがぷうと頬を膨らませる。

「変態は酷いでー。なあなあ、ぼんぼん。ウチ、ええお(めかけ)さんになるで。養ってやー、養ってやー」

「うるせぇ! ヒラリィ! ミリィはともかくお前だけはありえねぇんだよ!」

「なんでやー! 同じ顔やないか!」

 ヴァレリィが周囲を見回すと騎士たちは皆、顔を引き攣らせてドン引きしている。

 なんでこんなところに子爵家のメイドがいるのかはわからないが、彼女は嫌がるリュカの様子に、なんとなく浮気ではないことを理解する。

 そんな彼女に、今度はオリガが詰め寄ってきた。

「ヴァレリィ……一つ聞くが、浮気とはどういうことだ?」

「あ、ああ。あの男は私の伴侶なのだ」

「なんだ、伴侶か…………ん?」

 途端にオリガの目が点になる。そして次の瞬間――

「はぁあぁああああっ!?」

 素っ頓狂な声を上げたかと思うと、彼女はヴァレリィの胸倉を()じり上げた。

「き、貴様ァア! 貴様だけは仲間だと思っていたのに! 男になど興味がないと言っていたのはウソか! さては私のことを行かず後家と笑いものにするつもりだったのだな! このメギツネめ!」

「お、落ち着け! オリガ!」

「待って! 待ってくださいって! 剣はダメですって!」

 剣の(つか)に指を掛けるオリガをリュカが双子を引きずりながら、慌てて羽交い絞めにしたその瞬間――

「やかましい――――わっ!!」

 広場に、女の甲高いブチギレ声が響き渡った。

 思わず目を見開いて硬直する一同。皆が一斉に、その場で動きを止めた。

「お主ら! いつまで(わらわ)をほったらかしにする気じゃ! いい加減にせねば泣くぞ! (わらわ)が!」

 怒声の上がった方に目を向ければヴェルヌイユ姫殿下、(よわい)四十歳が頬を膨らませて手をジタバタさせている。

 先ほどまでの魔性の色香はどこへやら。

 銀髪のメイドが感情の無い顔で、その頭を「よしよし」と(なだ)めるように撫でていた。
「申し訳ございませッんんんっ!」

 顔を上げかけたリュカの頭を、ヴァレリィが力ずくで押さえつける。

 城砦一階の貴賓室。車椅子のヴェルヌイユ姫の足下、そこに拝跪(はいき)する二人の姿があった。

 車椅子でふんぞり返る姫殿下の脇には、無表情な銀髪のメイドの姿。

 額を床に擦りつけるヴァレリィと、無理やり頭を抑えつけられてもがくリュカ。姫殿下はその姿を見下ろして苦笑した。

「二人とも(おもて)を上げるが良いのじゃ。アレはまあ、どう考えても(わらわ)が連れて参ったアホどもが元凶じゃからの。お主らに罪を問うたりはせぬ」

「か、寛大なるご処置、深く、深く感謝いたします!」

 ヴァレリィは心底憔悴(しようすい)しきった顔に、わずかながらに安堵の表情を浮かべる。

 王家への忠誠心を徹底的に叩き込まれてきた人間であるがゆえに、姫殿下がブチ切れた後の彼女の狼狽は相当なものがあった。

 とりあえずこれで一安心というところだが、リュカにはまだ気になっていることがある。

「あのぉ……姫殿下、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「なんじゃ?」

「どうして、あの、ウチのアホメイドどもが、姫殿下の御一行にいるのでしょう?」

「ほう、あやつらはお主の家の者か。我が甥バスティアンに、髪結いの得意なメイドがおるから連れていけと、押し付けられたのじゃがな」

「王太子殿下が?」

 リュカは思わず眉根を寄せる。

 王太子が絡んでいるということは、あの騒がしい双子になんらかの仕事をさせるつもりなのだろう。

 何やら考え込んでしまったリュカを横目に、ヴァレリィがおずおずと口を開いた。

「で、では、後ほど夕餉(ゆうげ)をお持ちいたします。必要なものがございましたら、何なりとお申し付けください。あ、あと、明日の出発は何時ごろにいたしましょうか?」

「出発? どこへじゃ?」

「はい、テルノワールの王都に向かって侵攻しております、本隊にご案内させていただきます。ここからならば二日あまりの行程になりますが、案内役として土地勘のある者を二名、同行させていただければと存じます。姫殿下に激励していただければ、戦地の兵たちも更に奮戦すること間違いございません」

 するとリュカの目に、姫殿下が隣に控えている銀髪のメイドと、なにやら意味ありげな視線を交わすのが見えた。

「あー……それなんじゃがな。もう必要ない。そもそも慰問というのもただの口実じゃからの」

「口実? それは一体……」

(わらわ)は、お主に会いに来たのじゃよ」

「はっ!? わ、私に、で、ございますか!?」

「そうじゃ、ごまかしには何の意味も無いからの。単刀直入に聞こう。アンベールを喰った女に心当たりはないか?」

 その瞬間、リュカの目つきが鋭いものに変わる。

 だがそれとは対照的に、ヴァレリィは戸惑いながら首を傾げた。

「申し訳ございません。どうお答えしたものかと逡巡(しゆんじゆん)しております。アンベール卿の事件に関しては、確かに我々金鷹(きんよう)騎士団が護衛の任についておりましたが……」

「ふむ、韜晦(とうかい)しておる……という訳では無いようじゃの」

「はぁ……申し訳ございません」

「ならば、教えてやるのじゃ。アンベールの情婦は犯人の姿を見ておった。それが二十歳前の美しい女であったとな。じゃが、お主から上がってきた報告書を読んでみても、そんな話は出てこぬ。一言たりともな」

「お、お待ちくださいっ! は、犯人の姿を見たですって!?」

 ヴァレリィは戸惑いながら、リュカの方へと目を向ける。

(こっちを見られたって困る。っていうか姉上ぇ、そんなこと一言も言ってなかったじゃないか!)

「その状況であれば、お主が隠蔽(いんぺい)したのだと、そう(とら)えるのが筋じゃろうが」

「お、お待ちください! そ、そんな話は初耳です。私が聞き取りを行った際には何も……」

「それはそうじゃろうな。殺害した本人から、『何か見たか』と問われればのう」

「そんな!?」

 ヴァレリィは(まなじり)も裂けんばかりに目を見開いた。

「この状況で疑うなという方が、無理というものじゃろ」

「わ、私ではございません!」

 必死に声を上げるヴァレリィに姫殿下は苦笑するような素振りを見せ、リュカは足下の紅い絨毯に視線を落としながら静かに思考を巡らせる。

 もしこのままヴァレリィが犯人として捕らえられるのならば、書類上の話でしかないとはいえ、夫である自分にも(るい)が及びかねない。

 いや、自分だけならともかく、ヴァンデール子爵家そのものにまで及ぶかもしれない。

 それはどうあっても避けねばならない。

 暗殺貴族は王家の走狗。守るべきは王家と、その守護者たる子爵家自身である。

 とはいえ、王家の人間ならば、無条件に従わなければならない訳ではない。

 守るべきはあくまで王家であって王家に属する個人ではないのだ。

 過去には王に王たる資格無しと断じ、子爵家の者が第三王子と共に、国王を(しい)したこともある。

 ましてやこの姫殿下は王家の一員ではあるが、彼女が死んで王家の血筋が絶える訳ではない。

 子爵家の安泰と彼女の命、それを天秤に載せれば、あっさりと天秤は片側に振れる。

 姫殿下を始末し、次にオリガと銀髪のメイドを始末する。そうなればヴァレリィも黙ってはいないだろう。

 その場合、彼女も始末した後、敵の兵士が潜んでいて皆を殺したのだと泣き(わめ)けば良い。

 リュカが疑われることなど万に一つもない。

 普通に考えれば、リュカがヴァレリィに勝てるはずなど無いのだから。

(殺るなら、今すぐに……か)
 ちくりと胸に痛みを覚える。

 本当に良いのかと、耳元で誰かが囁いたような気がした。

 だがそれを払いのけてしまえば、頭の中が一気に冷めていく。感情が凍り付いていく。

 事ここに至ってしまえば、『暗殺貴族』はどこまでも冷徹になれる。だが、彼が覚悟を決めて顔を上げようとした途端、姫殿下がヴァレリィを見据えて、こう声を掛けた。

「じゃが、(わらわ)はお主が犯人だとは思ってはおらん」

 その一言に、リュカは剣に伸ばしかけていた指の動きを止める。

「アンベールが殺された時、お主がどこにおったかは、既に裏が取れておるのでな」

「ふぁっ!? ひ、姫殿下、ま、まさか……」

 その時、ヴァレリィは明らかに(あせ)ったような素振りを見せた。

(なんだ? 何を慌ててるんだ?)

「むふふ、(あせ)る必要はあるまい。実に可愛らしい話ではないか」

「可愛らしい話?」

 思わず首を傾げたリュカに、姫殿下がにんまりと意味ありげな笑顔を向けてくる。

「そうじゃ。こやつは屋敷の裏庭で、『にゃーにゃー』言いながら子猫を追い回しておったそうじゃ」

「は? 子猫?」

「そうじゃ」

「にゃーにゃーって? 団長が?」

「うむ」

「団長……俺にあれだけ説教しといて……さすがにそれは」

 リュカの視線が氷点下にまで落ちると、ヴァレリィは顔を真っ赤にして声を張り上げた。

「違う! お前と一緒にするな! わ、私はあの時、交代して仮眠を取るところだったのだ。その前に裏庭に新鮮な空気を吸いにでたら、その……かわいい子猫がいて……その……」

「でも、にゃーにゃーは……ほら、なんというか、イメージとか、ほら……」

「う、うぅうう……」

 (うめ)きながら顔を覆うヴァレリィ。その様子に姫殿下が苦笑する。

「お主は犯人ではない……が、無関係ではないじゃろうな。この状況はどう考えても、何者かがお主を陥れようとしている。そうとしか思えぬのじゃ。じゃからの、何か思い当たることがあれば、どんな小さなことでもよい。教えて欲しいのじゃ」

「そう言われましても、心当たりなど……」

 実に妙な雲行きである。犯人の実の弟であるリュカとしては、ヴァレリィを陥れようとしているなどという姫殿下の話は噴飯ものでしかないのだが。

「姫殿下、一つお伺いいたします。どうしてこんなことに首を突っ込まれるんです?」

「お、おい!」

 リュカの、その問いかけを不敬と感じたのだろう。ヴァレリィが慌てて肩を掴んだ。

「なぜ? 愛した者の仇を討ちたいと思うのは当然ではないか。若い頃のアンベールは、(わらわ)が可愛がってきた愛し子の一人じゃからの。幾度肌を重ねたかわからぬ。情が湧いて当然じゃと思うがの」

 無意識なのだろうが、肌を重ねたという一言で、ヴァレリィの瞳に戸惑いと(さげす)むような色が入り混じった。

 姫殿下は男を寝所に招き入れては、淫蕩の限りを尽くしていると聞く。どうやらそれは事実だったらしい。

 ヴァレリィの様子を横目で窺いながら、リュカははっきりと言い放つ。

「申し訳ございません、姫殿下、団長も俺も本当に何も存じ上げません。そうですよね、団長」

「え、あ……うむ」

 最初から何も話すつもりは無いが、色恋沙汰となれば益々面倒だ。

 このまま諦めてもらえるなら、それに越したことはない。

「そうか……」

 姫殿下は大きく頷いた。だが、次の瞬間――

「では、リュカと申したか。ヴァンデールのせがれ、お主に今宵の夜伽を命じるのじゃ」

 突然、話が斜め上の方角へと突き抜けた。

「「はぁあああ!?」」

 思わず声を上げるリュカとヴァレリィ。

 そんな二人を見据えて、ヴェルヌイユ姫はにんまりといやらしい微笑みを口元に貼り付けた。

「お主らが知っていることを全て話したとは到底思えぬ。とくにお主は何かを知っているように思えるのう。となればじゃ。口を割らせようとおもえばベッドの上が一番じゃからな。苦痛は我慢できるかもしれんが、さぁて、快楽を我慢できるかのう? 朝までゆっくり時間をかけて、その身体に話を聞いてくれようではないか」

 姫殿下は二人にそう告げた後、わずかにおどけるような素振りを見せた。

「……ま、それはそれ。本音の話をしてしまえば折角の旅じゃからな、(わらわ)の可愛い愛し子たちも連れてきてはおらぬ訳じゃし、夜食も現地調達というのが(いき)というものじゃろ。正直、お主は(わらわ)の好みではないが、食えぬほどではないようじゃからの」

 姫殿下は目を細めて足の先から頭のてっぺんまで、嘗めるような視線でリュカを眺めた後、生々しくも紅い舌先でぺろりと唇を舐める。

 途端に我に返ったヴァレリィが、慌ててリュカを背に隠して声を上げた。

「ひ、姫殿下! お言葉ではございますが、この者は私の伴侶にございます! いくら姫殿下といえど、つ、妻の前で、そ、そのような不義のお言葉は……」

 いつものヴァレリィならとっくに激高しているところなのだろうが、王家への忠誠心がそれを許さない。

 彼女の声のトーンは、懇願と言っても良いような響きを帯びていた。

「不義? 結構、大いに結構じゃ。一層情欲を掻き立てられるわ。良いではないか。少しばかり味見をさせてたもれ」

 姫殿下が一層興奮したような様子を見せると、ヴァレリィは必死に声を上げた。

「そ、そんな! わ、私だって、まだ……!」

「ん? まだ、なんじゃ?」

「その……まだ、そういうことは…………全く……いたしておりませぬゆえ」

「なんと!?」

 姫殿下が驚愕に目を見開き、ヴァレリィは真っ赤になって(うつむ)く。何とも言えない微妙な沈黙が貴賓室の内側を満たしていった。

「……お主ら一緒になって、どのくらいになるのじゃ?」

「ひ、ひと月ほどでございます」

「ひと月! まさか、その……不能なのか?」

「いや、そういう訳では……たぶん」

 ヴァレリィが、ちらりとリュカの方に目を向ける。

(そこで不安になるのはやめて!)

 すると、どういう訳か、姫殿下は盛大にため息を吐いて肩を落とした。

「あーあ、つまらぬ。()えた。なんじゃ……つまらぬのう」

 突然の態度の変化に、リュカとヴァレリィは二人して首を傾げる。

 姫殿下の心の内側でどんな変化があったのかはわからないが、彼女はどこかやさぐれた調子で、背後に控えているメイドへと声を掛けた。

「ステラノーヴァ……アレを持って参れ」

「ダメ。ステラの力じゃ……持ちあがらない」

「おう、そうじゃったの。オリガ!」

「……かしこまりました」

 オリガはどこか渋々といった様子で、隣室から大きな木箱を運び込んでくる。そして彼女は姫殿下の脇で(ひざまず)いて、その箱を掲げた。

「夜の生活がうまくいかんというのは夫婦にとっては大問題じゃからな。幸いお主と(わらわ)は背格好も似ておるゆえ大丈夫じゃろ。お主にこれを授けるのじゃ」

 姫殿下は手招きして、ヴァレリィを近くに呼び寄せると、木箱からひらひらとした薄い布を取り出し、彼女に差し出す。

 王族からの下賜となれば、本来大変名誉なことである。

 ヴァレリィは戸惑いながらも恭しくそれを受け取った。

 だが、その途端――

「ひっ!?」

 彼女は喉の奥に声を詰める。

 それも当然。指先でつまんで広げてみれば、それは薄紫の下着だったのだから。

 さすが王族の持ち物というべきか、刺繍や縫製は一級品。だが肝心なところが徹底的に透けている。

「それを着て迫れば、大抵の男はイチコロじゃぞ」

「ひ、姫殿下、お、お、お言葉ですが、これでは何も隠れませぬ」

「それが良いのではないか」

 ニヤニヤと楽しげな姫殿下。引き攣った顔を赤らめるヴァレリィ。想像してしまったのだろう。リュカはちょっと前かがみである。

「む、無理でございます! お、お許しください、姫殿下!」

 すると、姫殿下は少し考えるような素振りを見せた後、ポンと手を打った。

「ああ、なるほど、お主はそっちが好みであったか。それでは、これをくれてやろう」

 そう言って、今度は折りたたまれた分厚い黒革を引っ張り出す。

 ヴァレリィが完全に怯え切った手つきで広げてみると、それは女性の首から下をそのまま形にしたような、ツナギとでもいうようなもの。

 ところどころに金属の()(がね)のついたそれは、だれがどう見ても革の拘束着であった。

「そっちはちと上級者向きじゃがの。首から下、手の指先から、足のつま先まで完全密閉。ピッタリとフィットして、完全に覆いつくす優れモノじゃ。体のラインははっきりとわかるのに、まったく身動きできぬ拘束感。水も漏らさぬ密閉度でムレムレじゃ。着たままじゃと皮膚呼吸も出来ぬから、徐々に息苦しくもなってくる。どうじゃ、ゾクゾクするじゃろ。身動きも出来ずに床に転がされて(もてあそ)ばれるのじゃぞ。すごいじゃろ。興に乗ってくれば留め金を外して左右に引けば良い。真ん中の皮の薄くなった部分が破れて一瞬にして全裸じゃ。もたもたと脱いでいる間に興がそがれる事もない」

(変態だあああぁああぁ!?)

 これにはさすがにドン引きである。

 もはやヴァレリィは息をしていない。

「ふむ、これもいまいちか……では」

 あらためて木箱を探ろうとする姫殿下に、ヴァレリィが(たま)らず声を上げた。

「ひ、姫殿下! だ、大丈夫、大丈夫でございますから! そ、そのような物は必要ございません」

「ふむ、そうか……」

 姫殿下は、どこか残念そうに頷くと、改めて二人を見据える。

「では、改めて命ずる。(わらわ)がここを出立する最後の夜、リュカよ。お主に(わらわ)の夜伽を命ずる。今晩と言わぬのはお主ら夫婦に対する(わらわ)の恩情じゃ。無論、(わらわ)の出立は明日、明後日のことではないが、伴侶の初めてを奪われたくなければ、ヴァレリィ! それまでにきっちりと! いたしておくが良い。良いな!」

 無茶苦茶としか言いようのない命令ではあるが、ヴァレリィには逆らいようもないのだろう。彼女は真っ赤になって(うつむ)くと、潤んだ瞳でちらりとリュカの方を盗み見る。

(そんな切なそうな目で見るんじゃねー! 変な気になっちゃうだろうが!)

 それにしてもピンチ。大ピンチ。

 予想もしない形で、ある意味、最大のピンチが訪れていた。
「んぁ……」

 窓を叩く激しい雨音に、リュカは寝癖のついた髪を掻きむしりながら、気だるげに身を起こした。

 自分が今、どこにいるのかすぐには思い出せず、彼は寝ぼけ(まなこ)のままに、ぼんやりと周囲を見回す。

 そこは八人部屋の一隅、左右に二つずつ並んだ二段ベッドの上段であった。

(ああ、そうか……そうだったな)

 昨日はあの変態姫のせいで、ヴァレリィと一緒に居ると、おかしな雰囲気が漂うようになってしまった。

 あまりの居た堪れなさに、ヴァレリィとの二人部屋を出たリュカは、同僚たちの部屋へと転がりこんだのである。

 夜半、唐突に部屋に入ってきて、空いたベッドに転がり込むリュカを同僚たちが興味深げに覗き込んできた。

「さては、団長の機嫌を損ねて叩き出されたな?」

「違うっての、ばーか」

 男爵家の三男、放蕩息子のユーディンがどこか嬉しそうに揶揄(からか)ってくる。

 リュカがうっとうしげに背を向けると、今度は騎士団一の愛妻家であるエルネストが説教臭い坊主みたいな顔をして口を開いた。

「リュカよぉ、なにかあったらとりあえず謝りゃいいんだって。どっちが悪いかなんて関係ねぇ、女房にゃ逆らっちゃダメだ。奥さまは神さま、どんな理不尽にもニコニコ笑ってお姫さまみたいに扱ってやりゃ女房は幸せ、女房ご機嫌で俺たちも幸せってなもんさ」

「なんだそりゃ? 結婚ってのは、地獄かなんかなのかい?」

 のっぽのヤンが向かいのベッドで肩をすくめると、エルネストは悟り切った聖堂の坊主みたいな顔をして、人差し指を立てた。

「ま、人生の墓場ってのは間違えじゃないね。でもそんなことはどうでもいいのさ。なにせ娘がかわいい。それで世の中、事も無しってなもんだ」

 すると、今度は下段のベッドで横になっていた学者肌のジュリアンが話に割り込んでくる。

「もうそろそろ三か月ぐらいだったっけ? 自分の子というのは相当かわいいものらしいね」

「ああ、そりゃあもうかわいい。俺が家を空けている間に成長しちまって、一番かわいい時期を見逃すんじゃないかって気が気じゃない。戦争なんてとっとと終わらせて早く帰りたいもんだ」

「でたよ……。ほんと、親バカだねぇ」

 眠りに落ちる直前、同僚たちがそんな話をしながら笑っていたのを覚えている。

 あらためて部屋の中を見回してみても、彼らの姿は無い。

 とりあえずベッドを降りて、鎧戸(よろいど)を開けてみる。

 すると、いきなり水しぶきが顔に向かって跳ねてきた。

 頬を歪めながら覗き見てみれば、外は激しい雨。

 街道、平原、遠くの山並み、見渡す限りの全てが白く煙った(もや)の向こう側だ。

 空は分厚い雲に覆われているが、とっくに夜が明けていることには違いない。

「こりゃ……寝坊だな」

 リュカは(起こしてくれても良いだろうに)と胸の内で同僚たちを責めながら、簡単に身支度を調えると、大して慌てもせずに廊下へと歩み出た。

 シンと静まり返る廊下。耳を澄ませば遠くの方から、甲高い女の声が聞こえてくる。たぶん、あのオリガとかいう女騎士の声だろう。

 いつもなら中庭で行われている朝礼も、この雨ではどうしようもない。おそらく玄関(エントランス)ホールあたりで行われているのだろう。

「あのオリガってのは、面倒臭そうなヤツだったなぁ……」

 気が進まないながらもリュカがホールに辿り着くと、そこにはなにやら張り詰めたような空気が漂っていた。

(なんだ? なにか起こってるのか?)

 同僚たちと姫殿下直属の騎士たちがそれぞれに列をつくり、その奥にはオリガとヴァレリィの姿がある。

 リュカがそーっと同僚たちの列の最後尾に並ぼうとすると、たまたま顔を上げたヴァレリィと目が合った。

(やべぇ!)

 彼が胸の内でそう漏らすのとほぼ同時に、彼女は大きく目を見開き、騎士たちを押しのけて猛然と駆け寄ってくる。

 思わずリュカが逃げ出しかけると、彼女は逃さぬとばかりにその身体を抱き寄せた。

「無事であったか、旦那さま!」

「だ、団長! どうしたんです。み、みんな見てますから! は、放してください!」

 必死にもがくリュカ。ヴァレリィは我に返ると周囲をぐるりと見回し、慌てて飛びのいた。

「す、すまん、つ、つい」

「一体、何がどうしたっていうんです?」

 彼がそう問いかけると、いつの間にか歩み寄ってきていたオリガがいまいましげに口を開いた。

「呑気なヤツだ。ヴァレリィ、お前はなんでこんなのを……。まあいい。昨晩のうちに捕虜が一名脱走したのだ。それに騎士が四名……いや、貴様を除けば三名だな。姿が見当たらんのだ」

「脱走って……。意味ないでしょ、そんなの」

 地下牢には五名の捕虜が収容されていたのだが、いずれも下級の兵士ばかりで、人質交換にも使えそうにない。

 それゆえ姫殿下が王都へ戻られた後、降伏勧告の書状を持たせて解放する予定になっていたのだ。

 捕虜たちにもそれは伝えてあった訳だから、今危険を冒して脱出する理由は何一つ無いはずだ。

「何か重要な任務を帯びていたのかもしれんな。行方不明の三名は、脱走するところを目にして追いかけている……そういうことかもしれん」

 ヴァレリィがそう口にすると、オリガが首を振る。

「部下を信じたいという気持ちは理解しよう。だが、その三名は脱走兵なのではないか? いなくなった捕虜は、道案内にでも使うつもりだと考えれば辻褄が合う」

「馬鹿げたことを……」

「なんだと!」

 ヴァレリィが呆れたとばかりに肩をすくめると、オリガがむきになって詰め寄る。二人の間に挟まれる形となったリュカは、(たま)らず声を上げた。

「待ってくださいって! で、一体、誰が居なくなったんです」

「ヤンとジュリアン、それにエルネストだ」

 その瞬間――

 早く帰りたいもんだ。

 リュカの脳裏にエルネストの言葉が(よみがえ)る。

 思わず呆然とするリュカをよそに、オリガはヴァレリィを見据えてこう言い放った。

「馬や馬車が減っていないことは確認済みだ。ヤツらが逃げ帰るつもりなら王都の方角、北。逆に逃げた捕虜を追っているというのならば、テルノワールの方角、南だ。私は部下を率いて北へ向かう。貴様が部下たちを信じるというのなら、南へ向かうが良い」

「良かろう。有り得んことだが、もしヤツらが本当に逃亡していたならば、私は監督不行き届きを責められたとしても、甘んじてそれを受け入れようではないか」

「誤解するな。私は何もお前を(おとし)めようという訳ではない」

 二人が互いに背を向けて、それぞれの部下たちに号令を掛けようとした、その瞬間、

「キャァ―――――――――ッ!」

 どこか遠くの方から甲高い女の悲鳴が響き渡った。

 ざわめく騎士たち。

 ヴァレリィとリュカは思わず顔を見合わせた。

「マズい! あれは貴賓室の方角だ! お前たちは一緒に来い。他は待機! 周囲を警戒せよ!」

 オリガが何人かの騎士を従えて駆け出すと、リュカとヴァレリィは頷き合い、彼女の後を追う。

 貴賓室は一階の最奥。角を曲がると貴賓室の隣、姫殿下が荷物置き場として使用している部屋の前に銀髪のメイド――ステラノーヴァがぺたんと座り込んで、呆然と宙空に視線を泳がせているのが見えた。

「どうした! ステラノーヴァ!」

「オリガ、あ、あれ……」

 オリガがそばへ駆け寄ると、彼女は声を震わせて宙空に指をさす。

 その先は開いた扉の向こう側。部屋の中へと目を向けてオリガ、リュカ、ヴァレリィの三名は思わず息を呑んだ。

 開け放たれた窓から降りこむ雨粒。窓の外で激しく稲光が空を切り裂いた。雷光に照らされて浮かび上がったのは三人の人影。

 それも、天井の(はり)から逆さ吊りにされた男たちの姿。

 彼らの切り裂かれた喉元から滴り落ちた血が床の上で『ぴちょん』と跳ねて、雷鳴の低い唸りのような残響の中に、ヴァレリィの(かす)れた呟きが(こぼ)れ落ちた。

「なんだ……これは」

 そこに吊られていたのは、姿の見えなくなっていた金鷹(きんよう)騎士団の同僚たちであった。
 午後になって、雨は更に激しさを増し、雨混じりの風が鎧戸(よろいど)を強く叩いている。

 もはや、嵐と言ってもよいほどの荒天。

 (いかずち)が地軸を揺らし、遠くで太鼓を打ち鳴らすかのような低い(とどろき)が尾を引くように長く響き渡っていた。

 今、リュカとヴァレリィ、それにオリガは死体の吊されていた部屋にいる。

 オリガが手にしたカンテラに灯りを(とも)すと、淡い光の中に黒ずんだ()みが浮かび上がった。

 床の上には、滴り落ちた血が拭き取られもせずに水玉模様を描いている。

 エルネストたちの遺体は、既に別室に運び出されていた。

 彼らがここへ戻ってきたのは、『確かめたいことがあるんです』、リュカがそんなことを言いだしたからだ。

 彼は死体を発見した際に、なんとも言い難い違和感を抱いていた。

 在るべき物が無いような、そんな違和感。

 それを確かめるためにここへ戻って来たのだ。

 あれから既に数時間が経っている。

 仲間の死に同僚たちはいきり立ち、今もまだ脱走した捕虜を探し回っている。

 何名かは外を探しに出たようだが……それは無駄足だろう。もし外へ逃げたのだとしても、この風雨では痕跡を追うのは不可能に近い。

 いや、逃げてくれたのならばそれでもいい。仇を討つことには何の意味も無い。薄情だと思われるかもしれないが、死んでしまったらそいつの時間はそこで止まる。それ以上の意味はない。

 むしろ、問題は姫殿下の方である。

 報告を受けた彼女は大いに取り乱した。

 当然だろう。自分が寝ていたベッドの枕元、壁一枚を隔てた向こう側で安らかに眠っているその間に、奇怪な殺人が行われていたのだから。

 完全に怯え切った彼女は「わ、(わらわ)は帰る! 帰るのじゃ! こ、こんなところにはもう、一刻たりとも居たくないのじゃ!」と(わめ)き散らし、オリガや騎士たちが必死にそれを(なだ)めた。

 なにせ帰ると言ってもこの風雨である。

 完全に怯え切った姫殿下は頭から毛布を被って震えている。

 丁度この壁の向こう側が彼女のベッド。そこにいるはずだ。

「しかし……死体を吊すなんて、簡単なことじゃありませんからね。仮にその脱走した捕虜の仕業だとして、問題はなんでそんなことをする必要があったか……ですね」

 リュカが顎に手をやりながらそう呟くと、すぐ隣でヴァレリィが頷いた。

「うむ、わざわざ血を抜くような手間を掛けるぐらいだ。何らかの目的があったと考えるべきであろうな」

「血を抜く?」

 リュカが思わず眉根を寄せると、ヴァレリィが小さく頭を下げた。

「ああ、そうか、すまん。お前は狩りはやらぬのだったな。捕らえた獲物はああやって血を抜くのだ。気絶させた上で逆さに吊り、心臓の動いているうちに頸動脈を裂けば、全身から血が抜ける」

「なんでそんな面倒なことをするんです?」

「身体に残った血は放っておけば凝固したり、いち早く腐敗したりして(くさ)みになるのだ。平たく言ってしまえば、血抜きをしておかなければ肉の味が落ちる」

「ヴァレリィ……それでは逃げ出した捕虜は、喰うために彼らを吊しあげたということか?」

「ち、違う! そ、そういう意味では無くてだな」

 オリガが眉根を寄せると、ヴァレリィが慌てふためく。アンベールを喰らったのではないかと疑われたヴァレリィにしてみれば、とんだ不用意な発言だったと言えよう。

 だがそのお蔭で、リュカは違和感の正体に気付くことが出来た。

「なるほど……ね。でも余計に訳がわからなくなっちまった」

 違和感の正体、それは血の量。

 床に滴っている血の量が少ないのだ。

 三人の人間の身体から血を抜けば、恐らくこの部屋は今頃、血の海となっているはずだ。

 とてもではないが水玉模様を描く程度では済まない。

 恐らく抜いた血を持ち去ったということなのだろうが、それが何を意味するのかまではわからなかった。


 ◇ ◇ ◇

 よせばいいのに、オリガは『血抜き』の事実をそのまま姫殿下に報告した。

 ヴァレリィといいオリガといい、騎士というヤツはどうしてこんな直球バカばかりなのだろうか。

 案の定、姫殿下は益々取り乱した。

「ほ、本当にその脱走した捕虜とやらの仕業なのか? い、いや! アンベールを喰らった喰人鬼(しよくじんき)が、次は(わらわ)を喰らいに来たに違いないのじゃ。はっ!? も、もしや(わらわ)をおびき寄せるためにアンベールを喰らったのではあるまいか? い、いやじゃ! (わらわ)は死にとうない! ス、ステラノーヴァ、支度せよ! 帰る! いますぐ王都に帰るのじゃ!」

勝手に話をエスカレートさせて、ベッドの上でジタバタと暴れまわる姫殿下に、ヴァレリィとオリガは顔を見合わせて肩をすくめる。

「姫殿下、さすがに自分の足のつま先すら見えぬようなこの風雨では、馬車を走らせることもままなりませぬ」

「いやじゃ! (わらわ)は死にとうない!」

 そう言って姫殿下は、オリガへと手元の枕を投げつける。

「姫殿下、我らが命に代えても必ずお守りいたします! 何卒、今しばらく(こら)えてくださいませ!」

「うるさい! お主らとて喰人鬼(しよくじんき)ではないという保証は無いのじゃぞ!」

 それはただのはずみだったのだろう。

 勢い余って口から飛び出してしまった、そう言う(たぐい)の一言だ。

 だが彼女は自分のその一言に、自分で驚いて飛び上がり、震える我が身を掻き抱いた。

「そ、そうじゃ……保障など無い。無いではないか……いや、ステラノーヴァはアンベールが死んだあの日、(わらわ)と一緒にいたから違う。じゃが、ステラノーヴァでは(わらわ)を守れん……そうじゃ! もう一人いる。いるではないか! 喰人鬼(しよくじんき)ではないと確認できている者が一人いるではないか!」

 瞳孔の開ききった目で、姫殿下はヴァレリィを見据える。

「ヴァレリィ! こ、こっちへ()よ! わ、(わらわ)を守るのじゃ!」

 確かにアンベールが死んだ頃、ヴァレリィがどこにいたのかは裏が取れている。姫殿下自身が、そう言ったのだ。

 皮肉なことに喰人鬼(しよくじんき)ではないかと疑われたはずのヴァレリィが、銀髪メイドを除けば、姫殿下にとって只一人、喰人鬼(しよくじんき)ではないと確証の持てる人物となったのだ。

「か、帰れぬというのなら、へ、部屋を変えてたもれ。少々のことは我慢するのじゃ。もっと安全なところへ。そうじゃ、倉庫でも何でもよい。窓の無い部屋が良いのじゃ。外から誰も入ってこれぬような、そんな場所が良いのじゃ!」

 リュカとヴァレリィは思わず顔を見合わせる。

 この城砦の中で、今姫殿下が口にしたような条件を満たす場所といえば一か所しかない。

「あそこ……ですかね」

「うむ……あそこしかない……な」

 二人の脳裏には、数日前に見つけた隠し部屋が思い浮かんでいた。