まず初めに、藍さんのこの後の予定を尋ねた。
予定も無いし、家に誰も居ないので、ダラダラの予定だったとのことだった。男爵の美しい一人娘が家でダラダラする光景を想像したら、笑いが止まらなかったので天に頭をはたかれた。
クロは確か家に居た筈だったので、ギムレットのもとに案内しようかという提案をした。藍さんはメアリーに負けないくらい、瞳を宝石のように輝かせた。
アオさんもこんな表情が出来るのだとしたら、確かに見間違えてもおかしくは無いけれど。少なくとも俺は見た試しが無い。
というか、今思い返してみると。アオさんの自由奔放な性格って、どっちかっていうよブロッサムに近いような気がしてきた。
自分もそんなに大きくない癖に、可愛くて小さい女の子が大好きで。でもアオさんが魔導士ギルド長だったら、きのみさんは何者なんだよという話になる。
どっちかって言えば、今のきのみさんがブロッサムらしくないのだ。今さら魔導士ギルドの隊長の自覚が出てきたのだとしたら、何もかもが遅すぎる。
我が家のある東京サイドに入るには、徒歩かバスの二択になる。炎天下の中歩かせるのは酷だから、バスを使おうかって提案をした。
「メアリーは身体が弱いものね」
俺ことクラウディアの台詞に、藍さんと天は同時に驚いた顔をした。
「クレア……。もしかして、メアリーの病弱設定。ずっと信じていたのか?」
天がクレアと呼んだので、押立宇宙ではなくクラウディアに話掛けているに違いない。俺もクレアの記憶で、天ではなくルースの質問に答えた。
「……設定って?」
俺の台詞に天が小さく噴出した。隣の藍さんが真っ赤な顔になる。
「クレアは病弱じゃないよ。ブロッサムから聞いたんだが、時々、屋敷を抜けて山脈に行ってたらしい」
「はぁ、嘘だろ⁉」
天とボルドシエルの思わぬ言葉に、俺は押立宇宙の口調になってしまった。クラウディアの記憶を持ってしまったが故に、それだけ驚いたのだ。
まず、メアリーは母親を亡くしている。爵位を持っているにも関わらず、父親も戦場に出ている。独りだけれど、家では周りにはメイドが仕えているし、なんか気障ったらしい婚約者も居た気がする。クラウディアと違って、病弱だから囲われているって話だったけれど。
仮にそうでないとしても、あれだけのメイドがメアリーの外出なんて許す訳が無い。増してや山脈って、何しに行っていたんだよ。
「もう、その話はいいじゃない!」
メアリーが可愛く頬を膨らませて抗議する。白髪のラグーンと称されていても、中身は子供っぽい可愛さがあるのは今も同じようだった。ラグーンって何だったっけな、今でいうアフロディテみたいなものだっけか。
「それに今のわたしは、メアリーやのーて大丸藍! 歩くんのやって、いけますし!」
藍さんはそう言って無い胸を張ると、少ししてから顔を赤くにした。いつぞやのアオさんより、真っ赤っ赤だ。
もしや、アオさんと同じかって思った。自分がなまっていたのに、気づいてしまったのか。
「……どっち? 案内して」
目を点にする天から真っ赤な顔を背け、藍さんは裏返った声で言った。
アオさんは自分がなまってたのを認めるタイプだけれど、こっちは逆パターンか。
それ自体が可愛いって思うのに、今のメアリーにアオさんみたいな反応されると、胸に何かが刺さりそうだ。天の前だし、本当に自重しないとって俺は思った。
通り過ぎた奇跡は先へと導くために必要だって、教えてくれた君とおんなじ場所に来れたこと奇跡じゃないんだ。道を選ぶ標は無いけれど、彼方を見据えて歩き出した。振り返ると、いつかの俺が背中を押していたような気がした。無限に広がる可能性を持って、新しい旅立ちへ飛び込んでいこう。
来た時を引き換えすような道すじを、炎天下の中歩く。会話の内容は、殆ど前世のこと。まるで今までの空白を埋めるかのように、俺はクラウディア・ゴードンだった時の記憶を話していく。
クラウディアはギムレットのことを、あまり知らなかった。
メアリーとギムレットはお互いを想い合ってはいたけれど、クラウディアとボルドシエルみたく恋人同士の関係というわけではない。
それ故に、知る者は限られていたのだ。俺も前世では嫁って思っていたが、ボルドシエルとは結婚をしていたって訳ではなかったのだ。
東京サイドに入る。階段を上って、駅を突っ切る。エスカレーターを上がって、ロータリーを抜ける。テレビ局を横目に公園へと入る。歩道橋を渡ると、水道を見つけた。
俺は首にかけていたタオルを濡らして、固く絞ってから躊躇した。
二人とも汗だくだったから、皆結希さんの真似をして気を遣おうと思ったんだけれど。どっちに渡そうか、迷ってしまった。普通に考えれば恋人なんだけれど、藍さんはこれから前世の想い人に逢う予定だ。
「どうしたの?」と天が聞いてきたので、その流れでタオルを渡してしまった。俺の恋人は驚いた顔をした。
「……宇宙も気を遣えるようになったんだね」
天は柔らかく微笑んでから、タオルを受け取った。その後ろでは藍さんも小さく微笑んでいたので、この選択肢は正解だって思った。
「メアリーにも渡したいんだけど、タオルとか持ってる?」
藍さんは遠慮がちに首を振ったけれど、このままクロに会わせるのも忍びない。天からハンカチを受け取って、濡らして絞って藍さんに渡した。
天は俺が渡したタオルを再び濡らし始めた。一通り拭き終えたのか、彼女はすっきりしたような表情になっていた。タオルを再び濡らして、返すのかと思いきや。なんと彼女は絞ったタオルで、俺の額の汗をぬぐい始めた。
「な、なにしてんの?」
予想外の行動に、つい避けようとしてしまう。天はそんな俺の肩に手を置いて、今度は首元を拭い始める。冷えたタオルが何とも心地よかった。
「宇宙が彼氏らしいことしてきたから、あたしも彼女らしいことしようと思って」
彼女の背中の先で、藍さんがクスクスと笑っていた。気持ちは嬉しいんだけれど、メアリーの前だってのを理解して欲しかった。すんごい、恥ずかしい。
いざマンションの前に立つと、どこか緊張感を覚えてしまった。
いまさら、何を怖気づく必要があるのだ。いつまでも炎天下に女の子二人を立たせておく訳にはいかないので、エントランスへと入る。
冷房の効いたエントランスは、いつも通る場所なのに。天と一緒だと、何処かにキスの面影を感じて一人で照れてしまった。
俺は気持ちを入れ替えて、エレベーターへと二人を入れた。今の時点では俺と天は、どうでもいいというか。境界線消し去って、次のステージへと立つんだ。
今日から俺達は未来への船に乗り、置いてきた過去も乗り越える。行ける。たった一つの出会いだって、俺らは忘れないと誓えば叶う。ずっと、続きますように。
エレベーターを降りて、押立と書かれたドアの前に立つ。カードキーを刺し、ドアを開ける。
玄関で靴を脱ぎ、廊下に足をつけて、二人へと向き合った。天は緊張した面持ちで、藍さんは期待が表情ににじみ出ていた。
リビングの方からテレビの音がした。おそらく、クロは家に居る。さて、どんな感じの再会になるのだろうか。怖さ半分、期待半分。仮に梨花が居たとしても、もうそんなのどうでもいい。
「あれ?」
藍さんが何やら、玄関を見て素っ頓狂な声をあげた。およそ男爵の娘とは思い難くて、笑ってしまった。天に尻をはたかれた。
「なんで、姉さんの靴があるの?」
俺と天は同時に首を傾げた。メアリーは一人娘で、姉妹なんて居ないんだ。
「なにを言っているんだメアリー、君には……」と天が言った瞬間に、俺はあることに気が付いた。
「あ、違う。ルース!」と俺が天に被せるように言った。
俺達は今の今までヴァネットシドルの話をしていたから、彼女をメアリーとして扱っていた。しかし現世のメアリーは藍さんで、彼女の姉を指す人は一人しか思い浮かばなかった。
背中から引き戸の開く音が聴こえた。家の廊下の先は、リビングとなっている。振り返ると、目を丸くしたクロとアオさんときのみさんの姿があった。
やばい。って思ったのは、きのみさんは兎も角、アオさんも一緒に居ることだった。
むしろ何故、一緒だって想定していなかったのか。前持ってクロに確認をするなり、何なり出来たのだろう。
それが思いつかなかったのは、多分クラウディアの記憶が蘇ってしまっていたせいだ。脳に次々と浮かぶ思い出と、目の前に起こる出来事の処理に追われていたせいだ。
「ギムレット!」
俺と天の間を抜け、藍さんはクロに向かって走り出す。まずい、と思った。けれど何がまずいのか、ちゃんと理解が出来ない。藍さんは両手を広げて、飛び掛かるようにギムレットへと抱き着いた。
ように見えたけど、セーフだった。クロをかばうように、きのみさんが前に立ってくれた。感極まったメアリーが抱きしめたのは、人間の姿のブロッサムだったのだ。抱き着いた相手は知らない女性だったからか、顔を上げたメアリーは可愛く首を傾げた。
「メアリー……なの?」
困惑の声できのみさんが問うと、藍さんは満面の笑みで頷いた。
「はいっ、メアリー・ボンベイサファイアです! お姉さんは?」
きのみさんから、何かのスイッチが入ったような音が聴こえた気がした。俺はクラウディアの記憶が過ぎり、嫌な予感が頭を貫いた。もしかしたら、ブロッサムのときのアレが出るんじゃないかって思った。
「……美少女こそ、国の宝。そうは思わない、ギムレット?」
俺は藍さんの両肩を掴んで、きのみさんからメアリーを引き剥がした。抱きしめようとしたブロッサムの両手は空を切り、すこしよろめいてしまった。
「自重しなさい、ブロッサム。それでも魔導士ギルドの隊長ですかって、何度言わせるおつもり?」
きのみさんの前世、ブロッサム・ブルームズバリ―には妙な悪癖がある。それは小さな美少女を、思いっきり抱きしめては愛でるといったものだ。メアリーは甘んじて受け入れてはいたけれど、魔導士ギルドの隊長としては威厳も何もあったもんじゃない。って、そんなのは散々、クラウディアの時に言ってきたし。現世になって治ったと思っていたら、これだ。
「……え、クレア?」
瞳を丸くするきのみさんを見て、俺は出来るだけクラウディアだった時の表情を出してみる。
「そう、お久しぶりね。ブロッサム・ブルームズバリー」
「記憶が……もどったの?」
きのみさんの問いに、俺は小さく頷いた。俺の目の前に居る少女も、驚いた顔をしていた。
「……ブロッサム、なの?」
「……そうか。君がメアリーだったのか」
きのみさんは藍さんに目を向けた後、周囲を見回して困った顔を浮かべた。
「さて、どうしようか。この状況」
驚きのあまり、ぽかりと口を開けたままのアオさん。衝撃のあまり、目を点にしたままの従兄。天の方を見てみると、彼女もまた居心地の悪そうにしていた。けれども、やることは一つだけしかないって俺は思った。
「まずはアオさんに状況を説明しないと」
アオさんが先月の俺と同じ立場なんだってしたら、この中で一番混乱しているのは、間違いなく前世の記憶を持たない人間だ。それは、この俺が一番わかっているんだ。
夢みたいな夢を見ている、そんな日々が回っていく。どんなことがあっても、君が居てくれるなら大丈夫。心に誓った想いが今、俺と彼女をここに立たせている。
だから、まずは現状を把握しよう。場所はいつものリビング、テーブルを境目にして三人の男女が向い合せになっている。
こっちのソファには、天を真ん中にして俺と藍さんが左右に居る。向こうのソファは右からクロ、きのみさん、アオさんとなっている。俺の正面にクロ、天の正面にきのみさん、藍さんの正面にアオさんだ。
天とクロは何故か居心地悪そうにしていて、きのみさんは苦笑い。アオさんは変わらず混乱していて、藍さんは輝いた瞳でクロを見つめていた。
この状況で、こんな重い空気じゃ、誰も口を開こうとはしなかった。もしかしたら、この中で一番状況を理解しているのは俺だけなのかもしれない。
まず、正面の前世持ち二人は、藍さんを知らないし。天はアオさんを、よく知らない。アオさんは前世すら分からない状況だし、藍さんに至ってはクロにしか目を向けていない。
これは俺が何とかするしか無いのだ。
「……ときにアオさん」
「……は、はい」
アオさんは困惑たっぷりの瞳を、こちらに向ける。藍さんを連れてきてしまったのに、罪悪感を覚えてしまいそうになる。知っていれば後日に回せたかもしれないけれど、今はもう時は既にお寿司。違った、遅しだ。混乱している。
「藍さんは、妹か何かですか?」
「妹です」
緊張の面持ちでアオさんは頷くと、首を傾げた藍さんが無邪気な瞳をこちらへと向けた。
「ねぇ、クレア。じゃなかった、ソラくん。何で姉さんが、ギムレットと居るの?」
俺がちょっと困ったのは、藍さんがそのまんまメアリーみたいな言葉を口にしたからだ。彼女はお嬢様だけあって少し浮世離れしていたが、まさか此処でもそうだとは思わなかった。
「それを説明する前に、藍さんにも聞きたいことがあるんだけど……」
「なぁに?」
花が咲きそうなメアリーの笑顔を藍さんが散らしたので、愛しくなりそうになったのを俺は膝を掴んで堪えた。
「アオさんに今まで前世の話は?」
俺の台詞に、藍さんは首を左右に振って答えた。
「していないわ。多分、記憶持ってないもの」
次に藍さんは自分がメアリーの記憶を手に入れたとき、何度か姉にカマを掛けたことがあると言った。
「スコーン買ってみたり、緑茶の代わりに紅茶入れてみたり」
結果は惨敗だったと、藍さんは小さく舌を出した。なんで同じ顔なのに、メアリーの記憶があるってだけで、妹の方が可愛く見えるのだろうか。
「ですよねぇ……」
俺はアオさんの方を向く。妹が何を言っているのか分からないのだろう、困惑の表情のまんまだった。
「クロ」
俺が呼ぶと、従兄はビクリと身体を震わせた。表情は不安そうで、こんな顔のクロは初めて見たって押立宇宙は思った。クラウディアとしては、ギムレットってこんな情けなさそうな人だったのか、ってガッカリした。
「言うぞ、いいか?」
「……あ、ああ」とクロは虫を踏んだような顔になった。ボルドシエルこと、天も似たような表情になっていた。
俺はアオさんに、前世の話をした。
ヴァネット・シドルという剣と魔法の世界がある。その世界では、東西が内戦を起こしていた。各地方には街の自警団として、ギルドというものが置かれていた。戦士ギルドと魔導士ギルドがあり、愉快な面子が血で血を洗ったり、酒盛りをして騒いでいたりもした。
クロはアードベク自治区の戦士ギルド部隊長、ギムレット・ヘンドリクス。
天は副隊長、ボルドシエル・グレイグース。
きのみさんは魔導士ギルドの部隊長、ブロッサム・ブルームズバリー。
俺は魔導士ギルド長の娘、クラウディア・ゴードン。
そして大丸藍さんが、そこを統治する男爵の娘、メアリー・ボンベイサファイヤだと言った。
一気に来る情報量が多くて、アオさんは目を回しているように見えた。気持ちは分かる。だって、俺も最初はそうだったのだ。
「わたし以外の此処に居る皆が……前世で? え? どういう……」
こうなるのは、当然だった。まず最初に、アオさんに前世持ちだっていう証明を見せる必要がある。今日は、まだ天とキスをしていないのを思い出した。少し荒療治になるけれど、それも仕方ないって思った。
「その証拠に、クロときのみさんは魔法が使えます。そして俺と彼女は、共痛覚っていう呪いにかけられてます」
俺は立ち上がり、キッチンへと移動した。引き出しを開けて、ペティナイフを取り出した。見せると絶対止められるので、俺は隠すように流しに手を向ける。
「共痛覚は片方の痛みが……。ごめん天、ちょっと我慢して」
俺は意を決して、ペティナイフで手の甲を切りつけた。鋭い痛みが熱く走り、横一線の切込みから赤い液体が流れ始めた。
思ったより痛かったけれど、こういうのは勢いが大事なのだ。ペティナイフを流しに置いて、俺は血が滴った手の甲を皆に向けた。
「このように俺の痛みが彼女に……あれ?」
天は何事も無かったかのように、驚いた瞳をパチクリしていた。あれ、これ結構痛いんですけれど。何故、そんな平気な顔しているんだ。今日はキスしてないから、共痛覚は消えてない筈なのに。
「何やってんの、クレア⁉」と藍さんが悲鳴混じりで叫んだ。
「ソソソソ、ソラくん⁉」
真っ青な顔で、きのみさんは急いでこちらへ近づくと。クロの剣さばきより早く、両手で俺の左手を握った。
温かい光が手のひらを纏い、痛みは傷と共にどこかへ消え去っていってしまった。
これがブロッサム・ブルームズバリーの治癒魔法で、どんな傷でも一瞬にして治してしまうものなのだ。これならアオさんに自分たちが妙な存在だって、証明出来た筈だ。
「このように、きのみさんも魔法を……」
「何やってんの、アホっしい!」
俺の台詞を遮るように、天が泣き混じりの大声を上げた。
「いや、共痛覚の説明を……」と俺が言おうとしたら、メアリーこと藍さんも立ち上がった。
「共痛覚はボルドシエルの痛みがクレアに来るだけで!」
「クレアの痛みが、向こうに行くってわけじゃないの!」
藍さんときのみさんが、交互に大きな声を上げた。そういえば共痛覚って、天の痛みは来るけれど。俺の痛みが天に行くって、今まで一度も無かったっけ。
せっかく前世の記憶が蘇っても、入れ物がアホだからどうしようもないって思った。クロとアオさんは、驚きの余り声も出ない様子だった。
アホっしいに任せると何を仕出かすか分からない、と天が説明を始めた。
彼女が語ったのは、ギムレットとメアリーの恋物語だった。クラウディアこと押立宇宙は、その辺りを知らないから天の説明は有難かった。
お互いが惹かれ合っているにも関わらず、彼女の立場と婚約者の存在がそれを阻むっていう内容だった。彼女が語る度にクロは顔を真っ赤にし、藍さんは瞳を輝かせていた。
最後はギムレットが、竜探しの果ての無い旅に出て、この話は終わり。
ギムレットの中で終わっているってだけで、戦士ギルドが解体されるわけではない。彼の代わりに部隊長になったボルドシエルが、共痛覚という呪いを掛けられるという続きがある。
けれども今は、それは言う必要は無い。アオさんに関係しているのは、ギムレットとメアリーの話だけなのだ。
「そのメアリーが藍なの?」とアオさんが問うと、藍さんは小さく頷いた。
「はい、アオさんの妹さんがメアリーで、前世のお兄さんの想い人……。なのに……」
そこまで言ってから、天は俺の膝を思い切り叩いた。
「なのに、アホっしい。さっきから、藍さんにデレデレしすぎ!」
何故かは知らないが、いきなり矛先が俺へと変わった。訳も分からず混乱していると、追撃するように天が俺の膝をペシペシと叩いた。
最初は痛くはなかったけれど。同じ個所を叩くもんだから、だんだんヒリヒリしてきた。こういう時、共痛覚が一方的なのが少し悔しく思えてきた。
「おっしい、前世クレアでしょ! 女の子でしょ! なんで、女の子なのに分からないのさ⁉」
「それ言ったら、お前だって前世男だろ! メアリーに見とれちゃうのは分かるだろ!」
「分かんない! アオさんには見とれてないのに、藍さんにはそうなるのも全然分かんない! おんなじ顔じゃん!」
「それ言ったら、お前は俺と梨花がおんなじ顔だったら、どうなんだよ!」
俺はそうとは思わないが、よく梨花と似てるって言われるのがお前の彼氏だ。
同じ顔なのに、一方だけに違う気持ちを持つのがオカシイって話になるのなら。彼女は梨花でもいいって話になる。俺の膝をペシペシ叩いていた天の手がピタリと止まる。
「……いや、あたしが好きになったのは、宇宙の顔じゃないし」
顔を赤くして、天は俺から目を背けた。俺の彼女は素直なのか、そうでないのか全く分からないって思った。
「俺も前世思い出す前から好きだったし!」
するとパチンといった感じで、一本締めのように手を叩いた音がした。音源の方を見ると、きのみさんが両手を合わせていた。俺と天が驚きで言葉に詰まっていると、魔導士は苦笑いで顔を上げた。
「天ちゃんって、穴沢神奈ちゃんの妹だ!」
俺の彼女が目をぱちくりさせた後、戸惑いがちに頷いた。まるで何故、きのみさんがそれを知っているのか、不思議に思っているみたいだ。
「やっぱかぁ……。いや、神奈ちゃんも同じような理由で、彼氏振ったって話聞いたからね。こりゃ、まずいって思ったんだよね」
きのみさんの台詞に、天が呆気に取られたような顔になる。初耳だっていうのを、表情全体で表している様子だ。
俺の恋人って、本当に思ったことが顔に出やすいタイプなんだな。って、改めて思わずにはいられない。根本的に嘘をつけない性格が、身体にしみこまれているのかもしれない。
「……え、お姉が?」
「そっ、わたしも後輩づてに聴いたんだけどね。神奈ちゃんって、ヤキモチ焼きでワガママだったんだって」
一体、何の話をしているのだろうか。内容は分かるけれど、ここで天に言う件じゃないんじゃないか、って思った。クロを見ると、困った顔をしているし。アオさんと藍さんに至っては、頭にハテナマークが浮かんでいた。
「あ、あたしは宇宙にワガママなんて言ってません!」
「前世が女の子だから、今は女の子の自分の気持ちを分かって! ……っていうのは、ワガママとは違うの?」
天は言葉を詰まらせた。言いたかった台詞を喉に詰まらせて、クシャミを我慢しているかのような顔つきになった。
けれど確かにきのみさんの言うことも、的を射ているように思えた。鳥ならば射られる側なのに、犬を射るとは中々凄い魔導士だ。
「天ちゃんも、神奈ちゃんの妹なんだね……」
きのみさんは聖母のような瞳を彼女に向けた後、その表情のまま藍さんへと視線を変える。藍さんは驚いたようだけれど、まるで鳥みたいな動きが、きのみさんに合い過ぎて笑いそうになってしまった。
「というわけで、メアリー」
「……え、はい?」
「御覧の通り。ボルドシエルはこの世界じゃ、ちょっとヤキモチ焼きの可愛い女の子なんだよね」
きのみさんの言葉に、藍さんの視線が天に行く。俺の恋人は言葉に詰まらせたまま、真っ赤な顔をそっぽ向けてしまった。確かに前世を顧みると、今の天は可愛すぎる女の子だ。
「だからギムレットであるクロくんも、君が思っているような男の子とは違うかもしれない」
何か後ろめたいものでもあるのだろうか、クロは困った顔で俯いてしまった。藍さんも少しだけ、困惑の表情を浮かべた。
「前世の約束も、大事なのかもしれないけど。……何より大事なのは、今の自分の気持ちだと思うから」
きのみさんが太陽のように眩しい笑顔を浮かべた後、その表情のまま俺の方を向いた。
「どうやら、美味しいハンバーグが作れるようになったみたいだね」
全く意味の分からない台詞。って思った瞬間に、いつかの出来事が頭を過ぎった。
俺が天の気持ちを理解しようともせずに、きのみさんに泣きついた帰り道。コーヒーを入れたミルクのような曇天の中、同じ色の心を吐き出した日のこと。あの時は意味が分からなかったけれど、今は何となく分かったような気がした。
自分の思っているのと、違う事を言われるのは怖い。皆結希さんの言葉を借りるとしたら、ここに居る全員が、自分の思っている言葉を待ち望んでいたのかもしれない。
けれど必ずしも、誰もが怖さに立ち向かえる訳がないんだ。全員が前世に囚われてしまっているのならば、現世と前世を混ぜてしまえばいい。
そして、ほたるさんみたく、昔と今をどっちも踏まえた上で焼き直す。全てを受け入れた上で、足を一歩踏み出す。顔を上げたらカーニバルが始まるから、準備を完璧に済ませておく必要があるんだって。
泣いて、悩んで、遠回りしても。最後に自分が居れば、何もかもが上手くいくんだって。俺がいつでも空を飛べるように、遠くまで響く声を上げて今日だって踊れるように。心の中に咲いた花を、もっと大きく咲かせられるように。きっと掛け替えの無いものへと、変わる宝物だ。
最初は秘密を抱いて、いつだか過去も肯定して。だけれど自分を信じてあげられなくて、何も全然分からなくって。それでも顔を上げて、流した涙にサヨナラをして。そこから新しい物語が始まって、自分の世界が始まった。
未来がどこまでもずっと輝いて続くように、君の歩くリズムにこの鼓動は歌い出す。前世と過去も、現世と今も。全てが見えたこの時、俺は初めて未来という言葉を認識したような気がした。
悲しみなんて、乗り越えたから。
会いたい気持ちと、ありがとうの言葉と、何気ない笑顔が大好き。偶然、突然。結ぶ必然、運命の鍵は心を試す。本物の愛は宿命となり、何度も深まり熟成していく。貴女はどうして、この時代に居たのか。長い時間を掛けてこれから、その謎を解いていきたい。
その日は夏休み終了六日前、八月二十五日。天の誕生日だった。
恋人になってからの初めての誕生日は、遊園地に誘った。この街には市内の山の上に、なんと遊園地がある珍しい場所だ。俺ら二人は、夕方まで全力で遊びつくした。
夕暮れが天の頬を赤く染めたから、このままずっとオレンジに染まっててほしいと願った。
それでも空はやがて満点の星が出て、約束されたように新しい朝はやってくる。
この世界はでたらめな事ばかりだけれど、空模様だけは俺らを決して裏切りはしないのだ。
俺は天に左手を向けるように促した。彼女は少しはにかみながらも、小さな手のひらをこちらに差し向ける。これから先、どんなことがあっても俺が守っていくと決めた手だった。
彼女の手をそっと握ると、俺は自分の口元に近づける。皆結希さんみたいな気の利いたことなんて出来やしないけれど、気障ったらしいことなら俺にだって出来る。
天の薬指の付け根に俺は小さくキスをすると、ポケットに入っていたリボンを取り出した。先月、皆結希さんさんに貰ったマカロンの包みに、結わっていた小さなリボンだった。
口づけの温もりが消えてしまわないうちに、俺は彼女の薬指にリボンをキュっと結んだ。
本当はほたるさんみたく、前世に因んだものが良いとか思ったけれど。この約束には前世なんか関係ないし、皆結希さんに貰ったものなら効果は百倍くらいあってもおかしくはない。俺は可愛く狼狽える自分の恋人の目を見て、はっきりと告げた。
「この指は押立宇宙が予約しました」
青い空は天だけど、黒い空は宇宙だ。
宇宙は無限、三六五日いつでも胸騒ぎが起こってもおかしくない。
名前が宇宙の俺からすると、天と居ると何でも出来そうな気がしたんだ。