夏の風の記憶に、君と運命の恋を探す

 そんなわけでベッドに寝転がり、気を失っていた間に見たものを思い返す。

 夢だと思っていたあの出来事は、果たして本当に夢だったのだろうか。

 通常どおりの思考力を取り戻した今だったらわかるが、あれは夢なんかではない。実際の出来事であると確信している。

 状況もはっきりとしているし、色彩も明瞭だ。そのときの風景も音も感情も、鮮やかに思い出すことができる。

 ただ一つだけ、シロちゃんの顔を除いて。

 しかし、あれが現実に起きたことだとすると……。

 事実として知っているだけならまだわかる。しかし、私が生まれる前の出来事を、私が思い出した(●●●●●)というのはおかしい。まさか本当に、前世の記憶なのだろうか。

 生まれ変わりなんて、今までこれっぽっちも信じていなかった私には、すぐに受け入れることはできない。でも、鮮明な記憶があるのも事実で……。

 誰かから聞いた話を、私自身が経験したものとして混同してしまっているのではないかとも考えた。

 けどやはり、あの出来事は経験した記憶そのものとしか思えない。

 私はたしかに、十六年と八ヶ月前、月守風香としてこの世界に存在していた。

 常識的に考えれば、私は脳に問題があることになる。

 自分自身を信じれば、非現実的な現象が起こっていることになる。

 いずれにせよ大変なことだ。

 どうにかしなくては。

 でも、どうすればいいの?

 それに、シロちゃんの言っていたことも気になる。

 ――十五年と五ヶ月後。嶺明高校で、二人は再会するんだ。

 嶺明高校は私の通っている高校であり、私は一年と三ヶ月前に入学した。

 風香の記憶が本当に過去の出来事だとすると、シロちゃんの言う通りになっているのがこれ以上なく不気味で、全身に鳥肌が立った。

 自由で活気溢れる校風にひかれて、というのが、私の表向きの志望動機。面接で質問されたときも、そんな用意された模範解答を並べた。

 だが正直、校風などはどうでもよかった。
 嶺明高校に行きたいという気持ちが、いつの間にか中学生の私にあったのだ。

 今考えてみるとそれは、行きたいという気持ち、などという生半可なものではなく、行かなくてはならない、という純然たる使命感であるように思われた。

 学力が多少足りなかったけれども、それなりに受験勉強に力を注ぎ、入試本番でも運よく直前に見直した問題が出たりした。

 受験勉強は楽しかったと言えるものではなかったし、模試で結果が出なくて焦ったりもしたけれど、合格を知ったときは嬉しかった。

 多くの人が体験してそうな、よくある受験のエピソード。そんな自然な流れが、今考えると不思議でならない。

 優柔不断で決断力のない私が、名前だけしか知らなかった嶺明高校に、こんなにひかれたのはなぜなのだろう。これが、運命に導かれるということなのだろうか。

 さらに考えを先に進めてみる。

 ――見知らぬ他人同士だった二人は……運命に導かれて、ひかれ合う。

 この台詞の、〝見知らぬ他人同士だった二人〟のうち、片方が月守風香の生まれ変わりである私だとすると、もう一人はシロちゃんの生まれ変わりということになる。

 つまり、シロちゃんの生まれ変わりも、私の同級生の中にいるということだろうか。

 もう少し考える時間が欲しかったけれど、色々なことが起こりすぎて身体的にも精神的にも疲弊していた。

 また明日から、ゆっくり考えよう。私は目を閉じて、数分もしないうちに眠りについた。

 完全に眠りに落ちる直前に、私が転倒する原因となった突風を思い出した。
あの突風のせいで、転んだ私は気を失い、謎の記憶に悩まされることになった。

 穏やかな天気に突然吹いた、意志を持っているかのような風。

 それはまるで――。

 トラックにひかれそうになって気を失い、私の前世と思われる少女の記憶が呼び起こされた次の日。

 処理しきれないくらいに色々なことが起きたけれど、朝はいつも通りやって来る。

 スマートフォンのアラームで目を覚ました私は、カーテンを開けて大きく伸びをした。

 強い日の光が、ぼんやりしている脳と、けだるさの残る体を始動させてゆく。

 どうやら昨日のことは丸ごと全部夢だった、なんてオチではないようだ。
 しっかり現実の出来事として、覚醒した脳が認識している。

 擦りむいた膝に大きめの絆創膏が貼られているのが、何よりの証拠である。

 頭の整理は、まったく追いついていなかった。

 幸いにも、今日から三日間はテストの返却のみの日程となっていて、学校はお昼ごろに終わる。じっくり考えよう。

 歯を磨いて顔を洗い、軽くメイクを施す。髪をとかして、パジャマから制服に着替える。

琴葉(ことは)、もう大丈夫なの?」

 朝食の準備をしている母親から心配された。

「うん。むしろたくさん寝たから元気だよ」

「そう」

 キッチンでソーセージを炒める母が一瞬だけこちらを見て、すぐに視線をフライパンに戻す。

「あの……」

 私は姿勢を正して母の方を向いた。

「心配かけてごめんなさい」

 まだ少し眠そうな横顔に向かって謝る。

「本当に心配したんだからね。でも、琴葉が無事でよかった」

 母の言葉には、優しさが溢れていた。

「うん。それと、いつもありがとう」

「何よいきなり。やっぱり頭でも強く打った?」

 いつもの私からは出てくることのない台詞に、母が怪訝そうに私をじろじろ見る。でも、少しだけ嬉しそうな表情は隠しきれていなかった。

 結局、母親には謎の記憶のことは言わないことにした。これ以上心配をかけたくないという配慮が半分と、言ったとしても信じてもらえないだろうという諦めが半分。

「行ってきます」

 学校の準備を終えて家を出る。

 七月の太陽は相変わらず眩しく、容赦のない暑さが私を襲う。制服の襟をつまんでパタパタと風を送りながら歩いた。駅までは徒歩で五分とかなり近いが、それでも汗をかいてしまう。

 少しだけ短くしたスカートから伸びた私の脚。その膝の部分には、大きめの絆創膏が貼られている。

 昨日病院で貼ってもらったものはお風呂に入る際に剥がし、入浴後には新しいものを貼った。剥がすときは地味に痛かったし、貼り替えるのも面倒だった。かといって、絆創膏を貼らないわけにもいかない。

 かなり目立ってしまっている。

 今日から何日かはこの状態だと思うと、花の女子高生として憂鬱な気分になる。

 スカートを長くしようかとも考えたけど、それだとかえって浮いてしまう。

 両膝を同時に怪我したドジな女子生徒という肩書なんて、要らないのになぁ……。

 そんなことを考えながら、自宅の最寄り駅からいつもの電車に乗った。

 車内は冷房が効いていて、天国に足を踏み入れた気分だった。すし詰め状態とまではいかないものの、座れない程度には混んでいる。

 ドアのそばに立ち、車窓から流れていく景色をぼんやりと眺める。

 電車ではいつも文庫本を読んでいるのだが、今日はそんな気分にもなれないし、文章を目で追っても内容が入ってこないだろう。

 謎の記憶について、少し整理をしたい。

 前世とかそういったものを信じるかどうかはこの際置いておく。生まれ変わりが起こりうるものとし、さらに私が月守(つきもり)風香(ふうか)の生まれ変わりだとして考えてみよう。

 まず、その記憶がいつのものかということ。

 月守風香が中学三年生のときの修学旅行中の出来事だということは、記憶の断片から理解できた。

 正確なところはわからないけれど、だいたいの時期なら推測できる。

 ――十五年と五か月後。嶺明高校で、二人は再会するんだ。

 このシロちゃんの言葉を元に、引き算によって推測することができる。

 今現在から十六年と五ヶ月を引いて……十七年前の十一月か。私の誕生日がその年の十二月二日だから、前世のわたし、月守風香が死んでからわりとすぐに、現世の私、鳴瀬(なるせ)琴葉が生まれたことになる。

 時間的には、矛盾はないように思える。

 次に、シロちゃんが何者かということだ。

 〝シロちゃん〟という呼び方を、記憶の中で月守風香はしていた。残念ながら本名はわからないし、思い出せない。そのうえ、どんな顔をしていたかもわからない。

 記憶の中では、しっかりと彼の顔を認識していたはずなのに、今思い出そうとしても、顔の形を成す前にぼやけてしまう。原因は不明。

 立場としては、シロちゃんは月守風香の彼氏である。

 私は生まれてこのかた、誰とも付き合った経験がない。そのため、彼氏というものがどういった存在なのかは、本で得た知識や、友人から聞いたこと以上のことは、残念ながら理解できない。

 しかし、月守風香が抱いていた、シロちゃんへの特別な想いは認識できた。

 言葉では言い表せないような、唯一無二の感情。月守風香のシロちゃんに対するそれは、彼女の記憶を媒介として、私に伝わってきた。

 おそらく、人々が愛と呼んでいる感情なのだろう。私はまだ、誰に対しても抱いたことがない、どうしようもなく優しくて切ない気持ちだった。

 とにかく、月守風香が彼を大切に想っているということだけはわかった。

 まだ恋を経験したことのない私が、生まれる前に経験した恋を知っている。

 とても奇妙な感覚で、むず痒さを覚えた。

 そして一番肝心な部分。

 ――嶺明高校で、二人は再会するんだ。見知らぬ他人同士だった二人は……運命に導かれて、ひかれ合う。

 もしも本当にこの台詞通りであれば、シロちゃんも私と同じように生まれ変わって、去年の四月に嶺明高校で私と会っているということになる。

 昨日考えたように、私の嶺明高校への進学は運命によって決められていたというのだろうか。

 ボロボロで、息も絶え絶えではあったけれど、自信に満ちたシロちゃんの言葉には、妙な説得力があった。

 そして私は、直接会ったことのない男の人のその言葉を、なぜだか信じてしまっていた。

 考えれば考えるほど、モヤモヤした気持ちは大きくなる。

 そして、その気持ちの中には、シロちゃんの生まれ変わりに会ってみたい、という思いも含まれていた。

 前世の記憶だとか、生まれ変わりだとか、そんなのあり得ない。

 そうやって常識に基づいて一蹴する以外に、否定する材料はない。何より、時間的なつじつまも合っている。

 やはりあの出来事は、本当に私の前世の記憶なのだろうか。