先程まで自動車の走る音や通りの喧騒が嘘のように、静かで、雨と濡れた葉が微かに揺れる音だけが聞こえる。
周りには誰もいない。
舗装もアスファルトではなく、石畳だ。雨に濡れた石畳が、周りの緑色に染まっていた。
こんな通り、あっただろうか。
透き通った緑色の紅葉の葉を見上げながら歩く。いつの間にか雨は柔らかな霧雨に変わっていて、心地よい。
小さな稲荷神社が見えた。
大人一人分くらいの大きさのそれは可愛らしいものだが、どこか厳かで神聖な雰囲気が漂っていた。
こんな場所では誰も参拝など来ないだろうに。
何を思ったか私は、濡れた狐の石像をハンカチで気休め程度に拭いて、ポケットにあった100円を白い皿の上に置いた。
そうすると、少しだけ気分が晴れた気がした。
唯の自己満足だが、と自嘲してもう一度歩き出そうとした時だった。
通りの突き当りに、小さな店が見えた。さっきは無かったのに。
吸い寄せられるようにそこへ向かう。古民家を利用したようなその店の庇の上には掠れた文字が書かれた看板が掲げられていた。
「まほろば……茶房?」
ぼんやりと看板を見つめていると、目の前で年季の入ったガラスの引き戸ががらりと開いて、びくりと肩を竦めた。
「あら、いらっしゃい。どうぞ。空いてますよ」
濃紺の作務衣姿に白い前掛けで現れたのは、美しいが、どことなく浮世離れした面立ちの男。長い髪を一つに括り、涼やかな眼と柔らかな口調は何というか、歌舞伎の女形のような艶めかしさがあった。
「あ、ああ。お、お邪魔します」
「ふふ、いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ……あらあらびしょ濡れですよ」
彼は悪戯っぽく笑うと、白いふわふわのタオルを差し出してくれた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
慌てて濡れた上着や顔、髪を拭く。その間も彼は薄い笑みを浮かべて私を見つめていた。左の目尻に泣きぼくろがある。それが何とも言えない色香を漂わせていた。
「慌てなくてもいいですよ。時間は沢山ありますからね」
言葉の意味が分からずにタオルを返し、カウンター席に座ると、使い古されたメニュー表を渡された。
受け取りながら店内を見回す。
温かみのある黄色いランプが照らす店内は、古民家をリフォームしたもののようで、調度品もアンティークなものが多い。和箪笥やヨーロッパ製のアンティークの砂糖壺など、和洋折衷のインテリアだが、店主の趣味が良いのか店の雰囲気に良くマッチしていた。
「いいお店ですね」
「ありがとうございます。先代の趣味のようなもので、あたしはそれを受け継いだだけで御座いますよ」
どこか古風と言うか、芝居がかったような口調のマスターはくすりと笑いながら白いおしぼりを差し出した。