平安妻問ひ三番勝負!〜男装少女は帝の寵愛から逃れられない〜

 やがて午一刻になり、内裏に時報の鐘鼓が打ち鳴らされた。

 九つ目の打音が消えると同時に、清涼殿の東廂から花琉帝が現れた。その瞬間、場は森のごとく静まり返る。
 帝は二藍の御短直衣姿、まっすぐ伸びた背はすらりと高い。光り輝く美貌という噂に偽りはなく、初夏の陽光に佇むその姿はまさにまばゆいばかりであった。
 普段は雲上の存在である花琉帝の全貌をこの時初めて拝した者も多い。庭を挟んで対にある仁寿殿(じじゅうでん)の御簾の奥で、見守っている女房達からは感嘆のため息が漏れた。

 そして、時を同じくして庭の南、紫宸殿から現れたのは対戦者である斎だ。腰に帯びた金鞘の唐太刀に、背には平胡籙(ひらやなぐい)(※平たい矢入れ)。見慣れた武官の正装も、今日ばかりは一段と凛々しい印象を与えている。直前に左大臣に「侮られないように笑っていろ」と言われたためか、口に不自然な笑みを浮かべているのが難点か。

 帝は清涼殿の(きざはし)に直接渡された仮橋を通り、庭にしつらえられた高壇へ渡る。一方の斎は己の足で庭の玉砂利の上を歩いて壇上へ上った。
 四角い舞台は高欄をめぐらし、赤い錦が敷かれている。東に帝、西に斎が向かい合って座れば、ここにようやく勝負の舞台はととのった。

「これより三番勝負を執り行う」

 頭弁・藤原真成の声が庭に響く。

「一番目は歌(くら)べ。御題に沿った歌を一首ずつ詠み、勝敗は左右内大臣のお三方にお決めいただきます」

 言いながらちらりと頭弁が視線を送ると、桟敷に座る三人の大臣はそれぞれ神妙だったり笑顔だったりで頷いた。

「では歌題を申し上げます。本日の御題は――“枸橘(からたち)”」

 歌題が明らかになると、観客からわずかに声が漏れた。

 枸橘は枝に鋭く長い(とげ)があるため生け垣などによく使われる。身近な木ではあるが、桜や梅のように見栄えのするものでもないので和歌の題材としてとりあげられることはあまりない。
 それをなぜわざわざ御題にしたかと言えば、斎の渾名である“枸橘の君”にちなんでいるのは明白だった。

「(この勝負、どうなるかしら)」
「(和歌は帝の有利でしょうね。なにせ当代一の風流人でいらっしゃるから……)」

 麗景殿の女房達はひそひそと話し合う。
 ちょうど今の時期に、かぐわしく白い花を咲かせる枸橘。果たしてふたりはどう詠むのか――。

 皆の注目が集まる中、先行は斎。事前に託されていた一首を、講師(こうじ)が高らかに詠み上げた。


「“からたちの まろきこがねの たま垣の
 (うま)き色かな 香はなけれども”」

(枸橘の丸くて黄金色の実が生った垣根があるよ。おいしそうな色だなあ、匂いはしないけど)

 
 ――――場に、長い沈黙が訪れた。

 観客は皆一様に言葉に詰まっていた。感動したからではない。

「「「(いくらなんでも下手すぎるのでは?)」」」

 それが場に居る一同に浮かんだ共通の感想だった。
 情緒もない、技巧もない、そもそも枸橘の実が()るのは秋であり、季節が合わない。
 さらに言えば、枸橘の実は見た目は柑子(みかん)に似てはいるものの酸味や苦味があるので食用にはならない。

「(せめて季節くらい気にせんかバカものが! よもやわざと下手くそに詠んだのではあるまいな!?)」

 左大臣は思いっきり心の中で叫んで、壇上の斎を睨みつけた。すると何を思ったか、斎は高欄から身を乗り出してこちらに手を振ってくる。

「左のおとどさま、お聞きになりましたかー! 斎の会心の一首にございますればー!」

 まさかの自信作であった。
 左大臣は敗北を確信してがっくりと肩を落とした。隣の右大臣がその肩をバシバシと叩き、内大臣は扇で口元を隠して小刻みに震えている。皆が皆、まだ歌が詠まれてもいない帝の勝ちを確信した瞬間だった。

 そして。
 後攻、花琉帝の歌が披露される番。皆が期待に耳をそばだてた。
 花琉帝は和歌の名手として知られている。彼が入道時代に詠んだいくつかの歌は、その美しい叙情と漂う寂莫感から多くの歌人の涙を誘ったと言われる。

 詠み上げ人の講師が息を吸った音まで聴こえるような静まりようだった。


「“君がため (おどろ)(みち)も 踏み分けて
 まさに手折らん からたちの花”」

(愛しいあなたのために、棘だらけの路にも分け入って 確かに手折ってみせましょう、枸橘の花を)


 ざわっ。

 その歌が詠まれた瞬間、場がにわかに騒々しくなった。
 それは一見、ありふれた求愛の歌だった。詠み筋は素直で、特別目を引く技巧が凝らされているわけでもない。だが。

 実はこの歌には、もうひとつの意味が隠されている。

 「(おどろ)(みち)」とは字の通り、いばらの生い茂る道のことだ。しかし、古く中国では「棘路(きょくろ)」と言えば、公卿――大臣や大納言など三位以上の高官――の異称である。少しでも漢学の知識があれば知り得ることだ。

 つまり。この歌の隠された意味とは――
(並居る公卿らの反対を押し切ってでも、必ず手に入れる。“枸橘の君”を)


 これは公卿への――いや、(ふる)き慣習へ対する宣戦布告。どんな手を使っても必ず斎を妻にするという、花琉帝の並々ならぬ決意を表明する歌だった。
 
 びりびりと、ひりつくような帝の熱情をその場の誰もが感じ取っていた。ただ壇上の斎だけが、意味がわからないようで「ん?」と首をひねっている。

「――では! 判者のお三方は東西どちらの勝ちとされるかお述べください」

 一向に観客のどよめきが収束する気配がないので、頭弁は強引に勝負に幕を引こうと声をあげた。続けて「お静かに!」と強面の頭中将(とうのちゅうじょう)が一喝したことで、ようやく引き波のようにざわめきが消えてゆく。

 いよいよ判定の時。だが、ここへ来て判者である三大臣は困ってしまっていた。

 歌の巧拙は明らかに花琉帝に分がある。しかしここで帝の歌を勝ちとしてしまうと、帝の「棘の路(公卿)を踏み分けてでも」という宣言を受け入れたと――あるいはそもそも歌意を理解できていないと思われてしまうのではないかと。
 悩ましいのは左大臣とて同じこと。立場としては斎を勝たせたいが、斎の勝ちを判じれば「私には和歌の良し悪しがわかりません」と言っているようなものだ。

 三者は互いに顔を見合わせてしばし沈黙する。場に一陣の風が吹き、後涼殿の呉竹がさわさわと揺れた。
 すると少ししてから急に、これまで一言も発さなかった花琉帝が笑いだした。

「ハハハハハ、いや〜、まいった。敵わないね」

 笑顔を袖の下に隠しきれず、といった調子で豪快に笑っている。大臣達も観客もただあっけに取られて、しばらくひとり声を立てる帝をぽかんと見ていた。

「うん。まいった。この勝負、私の負けだ」
「……は?」

 突然の敗北宣言に、舞台の下に控えていた頭弁も思わず聞き返す。

「そうか枸橘の実は(うま)き色かぁ……ふふ。こんなに可愛らしい歌がこれまであったかい? とにかく、この勝負は私の負けだよ」

 からからと快活に笑って、「ね」と袖の陰から目配せする。何がなんだかわからないが、頭弁はただ頷くしかなかった。

「帝御自ら敗北を宣言されたので……。い、一番勝負は――西の方、蔵人少将斎どのの勝ち」

 わああという歓声と、なぜだ? という驚きの声があちらこちらから同時に上がった。
「必ず枸橘の君を手に入れる」と宣言しておきながら、あっさり勝ちを譲ってしまう帝の意図を誰も計りきれず。それでも頭弁は、主を慮って西の方の勝利を宣言した。

「みっ、帝が御自ら負けを認められるとあらば、我らが判じるまでもありませんのう!」
「うむうむ。何はともあれ勝ちは勝ちじゃ! ようやったぞ蔵人少将!」

 大臣達はほっとしたように胸を撫で下ろす。斎は相変わらずよくわかっていないようできょとんとしていた。


 こうして、一番目の歌競べは斎の勝利と決まった。
 一戦目の余韻もそこそこに、勝負は続く。
 帝と斎は頭弁に促されるまま西の端にあった壇を下り、次の舞台である庭の中心へ移った。

「二番勝負は剣競べです。使用するのは木太刀。いずれかの剣が使用不能となる、あるいはどちらかが降参するまで打ち込み合っていただきます」
 
 向かい合うふたりの元へ頭中将がやって来て、それぞれへ剣を渡す。どちらも同じ形のやや短めの木太刀だった。木製なので刃はないが、それなりに重量がある。打ち所によっては人を殺せる武器だ。
 当初公卿会議では「そんな物騒なものを帝に向けてよいのか」というのが議論になったが、花琉帝自身が「構わない」と答えたので今回に限りお咎めなしとされている。

 西の斎は剣を両手に握ると、一度深く呼吸する。それからまっすぐ正眼に構えた。一方東の帝は、感触を確かめるように一度だけ軽く振る。右手の中でもてあそぶように握り直して、左足を引き半身に構えた。片手一本に納まった剣先は、地を向いている。

「(蔵人少将どのはああ見えて、剣の腕は右近衛府でも一二を争うという噂だ)」
「(ああ、同期の武官を軒並み負かしたというのを聞いたことがある。だが帝の剣の腕についてはわからないな……)」

 ひそひそと後輩の蔵人達が噂し合う。
 斎は小柄な体躯と身軽さを活かした独特の剣術で、見た目以上の手練れとして知られている。今回の勝負で剣競べを指定したのも、彼女の自信の表れだ。一方の帝は、そもそも剣を取るべき立場ではないのでその実力はまったくの未知数である。

 帝と斎の合い間に横たわる一丈(約三メートル)ほどの()に、静かに風が吹き抜ける。場に緊張の糸が張り詰めた。

「はじめ!」

 静寂を断ち切る頭弁の合図。その瞬間、斎は飛び出していた。目にも留まらぬ早さで距離を詰め、玉砂利の地面を蹴って宙に飛ぶ。中天の太陽を背に、帝の頭上へ剣を振り下ろした。

「はぁああああああ!」

 一打目で帝の脳天を狙うとはなんたる(おそ)れ知らず。相手が誰であろうと決してひるまない斎の気迫に、観客は息を呑んだ。
 しかし渾身の一撃は上段で真っ向受け止められる。そのまま帝が剣ごと押しのけると、斎の小さな身体は反動でくるりと回転、後方に着地した。だが膝をついたと思ったのも束の間、しゃがみ姿勢のまま飛び出して素早く足下を薙ぐ。

「おっと」

 帝は冷静に、後ろ足を軸に半歩下がった。畳みかける斎の攻撃は止まず、すぐに下から伸び上がるような一撃。帝はすれすれで上背を反らして剣先をかわし、同時に剣身を滑らせることで斎の剣の軌道を変える。左へ受け流されて、しかし斎はすぐさま踏み込み斬り返す。

「まだまだっ!」
「そうこなくては」

 斎は片時も攻撃の手を休めない。俊敏さを活かして反撃の隙を与えず、果敢に(ふところ)に飛び込んでは何度も何度も打ちかかる。その懸命な姿は、思わず声援を送りたくなるような熱狂を人々へもたらした。
 一撃、二撃、素早い打撃を加えるたびに観衆の注目が斎へ傾く。だがその中に、ひとりだけ冷静な者がいた。

「帝の動き……まるで舞でも舞っているようだわ……」
 ぼそり、と麗景殿の女御がつぶやいた。

 斎の太刀を受け止め、時に受け流す帝。猛攻をすべていなしてはいるものの、耐えしのぐのみで自ずから仕掛ける様子がない。それどころか一歩二歩、攻撃を避けるごとに後ろへ追い詰められているようにも見える。
 だが彼が半身を返して下がり、木太刀を振り抜くそのたびに。二藍の袖が優美に膨らみ揺れて、ひるがえる。たしかにそれは舞のようであった。

 誰もが皆、ふたりの息もつかせぬ戦いに目を奪われていた。しかしいよいよ剣戟も大詰めを迎える。斎の攻撃をかわしつづけた帝は、ついに後がなくなってしまった。庭の端、仁寿殿の前に植わる紅梅の近くまで追い詰められている。すぐうしろは石畳だ。

「(もらった!)」

 ひゅ、と鋭く呼吸して、同時に斎は全力で一歩を踏み出した。力強く利き足を踏みしめ、足下の玉砂利が飛び散る。剣先がまっすぐ帝の上体を捉えた。これが真剣ならば心臓をえぐり取るであろう必殺の一撃。観衆から悲鳴が上がった。
 だが、突先が届くまさに直前。ふわりと羽根のように――わずかに数寸、帝の身体が右へ触れた。斎は驚き目を見開いたが、今さら動きを修正できない。切っ先は風を切る音と共に帝の左すれすれの空を穿つ。そして次の瞬間、斎は突き出した右手首を太刀ごと掴まれていた。

「あぐぅっ!」

 そのまま思い切り腕を引っ張られて帝と共にくるりと旋回、ふたりは寄り添い合って舞うように丸い軌跡を描いた。一見動きは優雅だが手首を掴む帝の力は強く、斎は思わず剣を落としてしまう。

 からんからん。
 明るい音を立てて斎の木太刀が地面に転がった。気付けば彼女の身体は帝の腕の中、大袖に包まれるように抱き込まれている。仰け反る斎に顔を近付ける帝の身からは、荷葉の甘く爽やかな香りがした。

「まだやるかい?」
「いいえ……参りました……」

 剣競べで剣を落とせばすなわち敗北。美しい顔に眼前でにこりと微笑まれて、斎はくやしそうに口を引き結ぶ。少しだけ言い淀みはしたものの、素直に負けを認めた。ところが帝は、すぐには斎を離さない。

「なかなか腕を上げたね、(セイ)
「ええと、あの、主上、お離しください」
「一体この小さな身体で、どこからそんな力が出るのかな」
「ひぃ、顔が近いですから、主上」
「――そ・こ・ま・で・です」

 庭の端まで歩いてきた頭弁に引き剥がされて、ようやく花琉帝は斎の身体を解放した。その途端、斎は飛び跳ねるように帝の腕の中から離れて後ずさる。全力で打ち込みつづけた息切れと抱きしめられた緊張のせいで、小さな肩は上下してぜーはーと荒い息をしていた。一方の帝は「たまの運動は疲れるね」などと扇を扇ぎはじめるが、表情は涼しげなままだ。
 頭弁はやれやれとふたりに背を向けると一度咳払いする。気を取り直したところで、高らかに勝敗を宣言した。

「二番目。剣競べは東の方、帝の勝利」

 おおおお、とひときわ大きな歓声があがった。すっきりしない幕切れだった歌競べと違い、誰の目から見ても鮮やかな帝の勝利だった。さすがの左大臣もこれには物言いの付けようがなく、黙って歯噛みしている。

「いや~、面白くなってきましたなあ」
「ほほほ、あのちんまい蔵人少将もなかなかやるではないか」
「(蔵人少将……次で負けたら承知せぬぞ……!)」

 ぎちぎちと檜扇を握りしめる左大臣の隣で、右大臣と内大臣はのんきに笑っていた。


 これにて勝負は一勝一敗。決着は三番目の弓競べへともつれ込んだ。
 庭を見下ろす紫宸殿の屋根の上で、一羽の雀が高らかに鳴いた。

「勝負の三番は弓競べです。方法は“近寄せ”。ひとつの的にそれぞれが一本ずつ矢を射て、より中心に近い箇所を射貫いた方の勝ちとします」

 頭弁の説明の通り、庭の北側には大きな的がひとつ置かれていた。そこから七、八丈離れた南の向かいに一本の錦の紐が敷かれている。ここから射るべし、という目印だ。

「先攻は西の方、蔵人少将の斎」
「はい!」

 凜と声を張り、斎が進み出る。身の丈よりも大きな弓を担いで、まっすぐ前方の的を見た。その表情に恐れや迷いはなく、立姿は清廉な美しさに満ちている。
 この時になると、観衆のほとんどは複雑な思いで斎を見守っていた。帝を想うがゆえに私心を捨て、ひたむきに勝負に向き合う少女。できれば純粋にその勝利を応援してやりたい。だが彼女が勝てば、帝が娶るのは左大臣の姫である。

 皆が皆、心のどこかで思い始めていた。
 真に花琉帝の中宮にふさわしいのは、後の国母となるべきなのは、まさにこの少女なのではないか――と。

 当たれ。外れろ。当たれ。外れろ。

 全員が相反する思いでその一射を見守った。
 斎は背の平胡籙から矢を一本引き抜くと、落ち着いた手つきで(つが)える。ふー、と全身が上下し、腹の底から呼吸をしたのがわかった。弦の張り詰める音が沈黙を支配し、やがて力一杯引き絞った右手から、ふ、と軽やかに矢が離れる。
 すぐにズドン、と重たい音がした。的がわずかに震え、風が凪ぐ。ほとんど直線に飛んだ矢は見事、深々と的に突き刺さっていた。

「(なんと、これは……!)」

 その場にいた全員が驚嘆に息を呑んだ。左大臣は感心のあまり手からぽろりと扇を落とした。
 なんと――斎の放った矢は、的の正中も正中、これ以上ないくらいのど真ん中を射貫いていたのだ。

 あまりに素晴らしい、奇跡のような一射だった。観衆はその見事さに一瞬高揚して、すぐに一様に失望する。
 これで斎の勝ちは確定した。先攻の矢がど真ん中に刺さっている以上、後攻の帝がこれ以上に中心を射ることはできない。

 ――つまり、この少女は帝の妻とはなれない。
「「「「(空気を読めよ!!)」」」」

 その場にいたほぼ全員が心の中でそうつっこんだ。
 ここは接戦の末斎が負ける、という流れがどちらにとっても良い筋書きであろうに――。斎はこうと決めたらどこまでも一途で、それゆえ融通がきかない。
 これには帝も思わず苦笑いが漏れてしまう。

「なんとまあ、お前はそんなに私の妻になるのが嫌なのかい?」
「えっ!? いえそんな、めっそうもない! 斎はただ、この一矢に全身全霊を込めただけにございますれば……!?」

 せっかく会心の一矢を放ったのに、周囲からは歓声のひとつもない。場の空気がどんよりと重くなったことにさすがの斎も気付いたらしい。
 事態が呑み込めずにあわてふためく様を見て、帝はもう一度小さく笑った。

「いいさ。それでこそ私の妻にふさわしい。――弓を」

 帝はゆっくりと床几(しょうぎ)から立ち上がると、左手を差し出した。脇に控えていた蔵人が、その手に弓を持たせる。

「さて、仏門を捨てた私に天は味方するかな」

 ゆるりと競技線の上に進み出て、帝は瞑目した。次に深く息を吐いた。弦を一度、強く打ち鳴らす。
 邪気を払う。神気を吸い込む。まなじりを強くして天を仰いだ。
 弓を構える。(かぶら)を取って番え、引き絞る。弓手が定まる。静止する。――そして。

 ずがぁぁあん、と落雷のような轟音がした。寝殿造りの屋根に止まっていた鳥達が、驚きに一斉に羽ばたいた。思わず空を見た観衆達が視線を戻すと、的が地面に倒れている。控えていた武官達があわてて駆け寄り、ふたりがかりで立てて起こした。そこではじめて帝の矢のゆくえを目にして――その場の全員が言葉を失った。

 帝の矢は、斎の射た矢ごと貫いてまっすぐ的の真中に突き刺さっていた。斎の矢柄は竹を割ったようにきれいに左右に割れて、玉砂利の地面に落ちている。

「こ、これは……」

 近付いて的を確認した頭弁も唖然とする。
 競射の近寄せで同着など、本来はありえない。確実に勝敗を付けるために三番目に弓競べを選んだはずだ。だがこれを同着――つまりは引き分け――とせずして、なんと判ずれば良いのか。帝は寸分違わず、斎とそっくり同じ場所に矢を射てみせたのだ。

「三番勝負、弓競べは――。……引き分け……?」
「ええっ!?」

 当惑する頭弁の言葉に、斎もぎょっとする。蔵人に弓を預けて下がらせた帝だけは、ふふふと楽しそうに笑った。

「歌はお前の勝ち。剣は私の勝ち、弓は引き分け。となると勝敗は一勝一敗一分……つまり、三番勝負は引き分けだね」

 からりと晴れやかに宣言する。途端に観衆がざわつきだした。

「えーっ!? そ、それではこの三番勝負は一体なんのために……」
「ふむ。では(セイ)、こういうのはどうだい?」
 帝は悠々と懐から檜扇を取り出して開いた。

「お前は私にふたつの願いを口にした。私はそのうちの片方を守ろう。そしてお前も、私の願いの半分だけをきく」

 その提案に、斎はきょとんと首を傾げた。

「私はふたつも願ってはおりませんよ?」
「お前は私に何と望んだ?」

 言われて「うーん」と、先日のやりとりを思い出す。

「えっと、“左のおとどの末姫さまを娶り、中宮をお立てください”と――――あっ」

 そこでやっと斎も気付いた。
 左大臣家の姫を娶ること。中宮を立てること。
 これらは聞きようによってはふたつ分の願いだと取れなくもない。隣の花琉帝を見上げれば、彼は扇で口元を隠し上品に微笑んでいる。

「ああ。そして私はお前にこう願った。“女に戻り、私の妻になれ”と」

 ここにきてついに、斎以外の全員が帝の思惑を理解する。

「言うなれば、これは願いの折半だ。私はお前の願いを半分きいて、中宮を立てる。そしてお前は――私の妻になりなさい」
「えっ、あっ、えっ?」

 皆が温かい眼差しで見守る中、斎だけが大混乱に陥ってうろたえる。何かを訴えようと焦って四方を見渡し、だが言葉は出て来ずに口をぱくぱくさせている。

「――(セイ)

 わたわたとせわしなく上下する手を、帝が取った。わずかに力を込めて引けば、斎の澄んだ瞳に映るのは目の前の帝だけ。

「ずいぶんと遠回りしてしまった。五年前の即位の時、“私の妻になってほしい”と言ったあの時……。私はもっと言葉を尽くすべきだった。己の心を臆することなくさらけ出し、真摯に乞うべきだった。“お前のすべてがほしい”と」

 何かを問い返すより早く、斎の身体がふわりと浮いた。帝が抱き上げたからだ。帝は斎の小さな身体を皐月の陽光の下に掬い上げて、穏やかな朽葉色の瞳を細めた。そうして、歌うようにやさしく、万感の思いを込めて告げる。

(セイ)、私の小鳥。私の妻に、中宮になってほしい。――お前を、愛しているんだ」

 その瞬間。
 わぁああああ、とこの日一番の歓声が爆発した。誰もが疑いなく、新たな中宮の誕生を確信していた。

「左大臣どの、よろしいので?」

 右大臣につつかれて、左大臣は大きなため息をついた。

「……儂とて引き際は心得ておるわ」

 帝はまるで天上から賜った宝を掲げるかのように、斎を頭上に高く抱き上げた。愛しいもののすべてを己の目に焼き付けて、それからそっと、だいじにだいじに懐に抱く。
 大きな腕と祝福の喝采に包まれながら、斎はこの時ようやく理解(わか)った気がした。

 “あいしてる”。
 自分はただこの言葉を、ずっとずっと待っていたのかもしれないと。男女の愛の永遠を信じさせてくれる、帝のただこの一言を。

 何かひどくあたたかく、それでいてどっしりとせつないものが胸の奥につかえて、斎は上手く言葉を返せなかった。代わりにぼろぼろ、ぼろぼろと珠のような涙が目からこぼれ出す。
 だから斎はただ無言で頷いて、ぎゅっと帝の首根っこにしがみついた。

 この涙が止まった時には必ず、「私も愛しています」と伝えるのだと決意して。

 こうして、前代未聞の宮中妻問ひ三番勝負は幕を閉じた。

 斎は左大臣の養女となり、後ろ盾を得て中宮として入内することが決まった。
 左大臣も、他人のために誠実に役目を果たそうとする斎の人柄に(ほだ)されたらしい。もちろん、これで義理とはいえ天皇の外戚となるわけで、政治的な打算もあろう。
 後宮に入った「(セイ)姫」は、帝の清涼殿からもっとも近い飛香舎(ひぎょうしゃ)を与えられた。少数ながら優秀な女房達も配されて、今も左大臣家が選りすぐった調度や宝物が溢れんばかりに運び込まれている。


「これですべてはあなたの計算通りというわけですか」

 帝の最も私的な空間である朝餉間(あさがれいのま)。花琉帝と頭弁はその日、朝から向かい合って碁を打っていた。

「最初の歌競べを(セイ)さまに譲ったのは、左大臣どのから物言いが付かないようにするためだったのですね」

 頭弁は白石を掴み、ぱちんと置く。互いに盤面を見ているので目は合わない。

「少しくらいあちらの顔を立てておかないと、後から何とけちを付けられるかわかったものじゃないからね。歌は一番恣意的に勝敗を決められるから、残りの二番で文句なく勝利すれば良いと思っただけだ。……まあ、(セイ)に弓をど真ん中に射られた時は、さすがの私も寿命が縮んだけれどね……」

 帝は碁笥の中で黒石を握って、くつくつと思い出し笑いをした。

「五年前、彼女を強引に後宮に入れずに今回の機会を待ったのも計算のうちですか。少なくとも当時の身分のままでは、(セイ)さまは中宮にはなれなかったはずだ」
「ふふふ。それはどうかな」

 帝が碁盤の右隅に石を置いたその時。

「主上ーー! たっ、大変です!!」

 斎に代わって新しく五位蔵人となった若者が北の渡殿から飛び込んできた。頭弁が非礼を目でたしなめると、蔵人はその場に平伏して奏上しはじめる。

「ちゅ、中宮さまが……! 今度の主上の行幸に随身(ずいじん)(※帝の護衛)として付いて行くのだと言い張って、嬉々として弓の手入れをおはじめに……!」

 蔵人が真っ青になって冷や汗を垂らすのを見て、帝は噴き出した。

「あはははは、それはしょうがない。なにせ願い事を折半したせいで、“女に戻れ”という私のもうひとつの願いは反故(ほご)になってしまったからね」

 このところ花琉帝はよく笑うようになった。これまでの腹の内を押し隠すような笑みではなく、心からの朗らかな笑みを。

「今度は行幸に付いていくかどうかを賭けて、また三番勝負でもなさいますか」
「いいや。私が彼女に勝てることなどこの先ひとつもないだろうね。だって私は――それくらい、あの娘を愛してしまったのだから」

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