――――場に、長い沈黙が訪れた。

 観客は皆一様に言葉に詰まっていた。感動したからではない。

「「「(いくらなんでも下手すぎるのでは?)」」」

 それが場に居る一同に浮かんだ共通の感想だった。
 情緒もない、技巧もない、そもそも枸橘の実が()るのは秋であり、季節が合わない。
 さらに言えば、枸橘の実は見た目は柑子(みかん)に似てはいるものの酸味や苦味があるので食用にはならない。

「(せめて季節くらい気にせんかバカものが! よもやわざと下手くそに詠んだのではあるまいな!?)」

 左大臣は思いっきり心の中で叫んで、壇上の斎を睨みつけた。すると何を思ったか、斎は高欄から身を乗り出してこちらに手を振ってくる。

「左のおとどさま、お聞きになりましたかー! 斎の会心の一首にございますればー!」

 まさかの自信作であった。
 左大臣は敗北を確信してがっくりと肩を落とした。隣の右大臣がその肩をバシバシと叩き、内大臣は扇で口元を隠して小刻みに震えている。皆が皆、まだ歌が詠まれてもいない帝の勝ちを確信した瞬間だった。

 そして。
 後攻、花琉帝の歌が披露される番。皆が期待に耳をそばだてた。
 花琉帝は和歌の名手として知られている。彼が入道時代に詠んだいくつかの歌は、その美しい叙情と漂う寂莫感から多くの歌人の涙を誘ったと言われる。

 詠み上げ人の講師が息を吸った音まで聴こえるような静まりようだった。


「“君がため (おどろ)(みち)も 踏み分けて
 まさに手折らん からたちの花”」

(愛しいあなたのために、棘だらけの路にも分け入って 確かに手折ってみせましょう、枸橘の花を)


 ざわっ。

 その歌が詠まれた瞬間、場がにわかに騒々しくなった。
 それは一見、ありふれた求愛の歌だった。詠み筋は素直で、特別目を引く技巧が凝らされているわけでもない。だが。

 実はこの歌には、もうひとつの意味が隠されている。

 「(おどろ)(みち)」とは字の通り、いばらの生い茂る道のことだ。しかし、古く中国では「棘路(きょくろ)」と言えば、公卿――大臣や大納言など三位以上の高官――の異称である。少しでも漢学の知識があれば知り得ることだ。

 つまり。この歌の隠された意味とは――