モノクロの世界に君の声色をのせて

「中途半端に、幽霊部員なんかやっちゃって」
 中途半端。
 毒牙のように僕の胸をえぐる、遥奏の言葉。
「前から思ってたけどさ、秀翔のやってること、めっちゃ周りに迷惑なんじゃないの?」

 ……ふざけるな。
「部費も払ってるんでしょ」
 僕がどんな気持ちでいるのか。
「顧問の先生もさ、扱いに困るじゃん。この子続ける気あんのか——」
「君に何がわかる!」
 思わず、大きな声が出た。
 通りがかったランニング中のおばさんが、ちらりとこちらを見る。

「僕が、毎日どんな思いをしているのか」
 波は、いつもと同じ平和な音を立てている。
「生まれてこのかた、出来損ないの男の子として扱われる気持ちがどんなもんか」
 水面では、普段通り規則的に半円が生まれては消える。
「小さい頃から特技に恵まれた君には、ちっともわからないだろうね!」
 見れば、遥奏は呆然とした表情を浮かべていた。

 言いすぎた。
 それに、とんだ八つ当たりだ。
 理性は全てをわかっていた。
 けれども、一度湧き出た感情は、もう引っ込むことを知らない。
 二度と僕の心に立ち入るな。
 そんな思いを込めて、遥奏を睨みつけた。

『やりたくないなら、正直にそう言えばいいのに』
 部外者だから、そうやって無責任なことが言えるんだ。
 僕の葛藤も苦労も知らずに、懐にずかずか入ってきて。
 遥奏は、いつだってそうだ。
 常に自分のタイミングで、自分の気分で、人の気持ちを考えずに言いたい放題。

「秀翔、ごめん……」
「もういい」
「秀翔!」
「うるさい!」
 干渉してこようとする声を振り払って、踵を返す。
「秀翔! 待って!」
 全速力で芝生を走り、遥奏の声色を僕の世界から消し去った。
 次の日から、僕は河川敷に行かなかった。
 どのみちテスト勉強をしなきゃいけない。九教科に対応するためには、河川敷でダラダラしている場合ではなかったのも事実だ。
 帰りのホームルームが終わったら図書室に直行し、下校時刻まで勉強してから帰った。
 帰宅してからの時間は、なるべく自分の部屋にこもっていた。父さんに「練習が休みでもランニングくらいはしとけ」なんて言われるのを避けたかったから。

 ※ ※ ※

 テスト最終日の最後の教科は、社会だった。
 数学や国語と違って、暗記科目である社会のテストは、大幅に時間が余りがちだ。

 テスト開始から三十分が経ち、ほとんど全員が問題を解き終えて暇を持て余しているようだった。机に突っ伏している人、落書きをしている人、ぼーっと窓の外を眺めている人。
 僕の斜め前の水島くんだけが、テスト開始時と変わらない殺気を維持して何度も見直しを行っていた。

 こういう時間、普段の僕なら問題用紙に落書きをしていることが多い。
 けれども、今は全然そういう気分になれなかった。
 テスト期間初日に遥奏と言い争った時の記憶が、何度も脳内で再生される。

 八つ当たりしてしまったことに対する罪悪感。
 部外者の立場から余計な批判をされたことに対する怒り。
 あらゆることがタイミング悪く重なってしまった運命を呪う気持ち。

 何色もの感情が入り混じったまま九日間が過ぎ、胸の中のパレットにどす黒い塊がこびりついていた。
 テストが終わり、再び部活に行く日々に戻った。
 河川敷が気がかりだったけれども、遥奏と顔を合わせることはなかなか気が進まなかったし、父さんや片桐先生に話をして練習を休むだけの気力を失ってしまっていた。

 一週間続けると少しずつ体力が戻ってきて、最後まで練習に参加できるようになった。
 相変わらず温かい部活の人たちとの関わりの中で、僕自身、卓球という競技に興味は持てないながらも、周囲の気持ちには応えなければならないと思うようになっていた。

 試合に出たりはできなくても、このまま引退まで続ければ得られるものはあるかもしれない。
 一流サラリーパーソンである父さんの人生経験から来るアドバイスは、妥当である部分が多いだろう。
 三年生の卒業式が終わって四日後、三月の第三火曜日。
 人口の少なくなった校舎を、まだまだ冷たい風が貫いていく。

 今日の四時間目の国語は先生が休みで、代わりに自習課題が出た。
 教科書の説明文を読んでプリントの問題を解き、自己採点まで終えてから提出するというもの。

 面倒な自習課題であろうと、やることが決まっている状態は今の僕には心地よかった。
 問題を解いたあと、模範解答を見て赤ペンで丸つけをしていく。長い記述問題は、自分で書いた答えが正解なのかよくわからないから、とりあえず解答例を横に写した。

 ちょうど全ての課題を終えたその時、下のほうからコロコロコロ、という音が聞こえてきた。
 足元を見ると、高級そうな木軸のシャープペンシルが僕のところに転がってきている。

 斜め前の席で突っ伏していた水島くんが、ペンの落ちた音で目が覚めたようで、眠そうに目をこすりながら顔を上げた。
 
「大丈夫? これ水島くんのかな?」
「拾ってくれてありがとう。申し訳ない」
 水島くんは僕からペンを受け取って筆箱に入れると、机の上に放置してあったメガネをかけ直した。
 登校時にはよく整えられていた髪型が、くしゃくしゃに崩れている。

「疲れでも溜まってるの?」
 水島くんが居眠りとは珍しいと思って、尋ねてみた。
「ちょっとね、春休みにうちで主催する、市の生徒会の合同イベントの準備で余裕がなくて」

 どういうイベントなのか知らないけど、水島くんが居眠りするほどであれば、よっぽど大変な仕事なのかと想像した。

「先輩がひとり体調不良で学校をしばらくお休みしてるんだけど、その人が担っていた部分が結構大きくてね」
 水島くんが困ったように笑いながら言った。

「水彩画の上手な人で、イベントのポスターもその先輩に作ってもらう予定だったんだけど、それも考え直さないといけなくて。当日まで二週間切ってるから、今から生徒会以外の人にお願いするのも難しいし」

「そっか、春休みに入っても忙しくて大変だね」
 長期休暇もタイトなスケジュールで動く水島くん。「将来有望」という単語を絵に描いたような中学一年生だ。僕の春休みの半分くらいは水島くんに分けてあげたほうが、世のため人のためになる気がする。

「心配してくれてありがとう。とはいえ、それが終われば僕にもバカンスが訪れるよ。そういえば、篠崎くん、春休み時間あるかな? 篠崎くんが興味を持ちそうなアート展が開かれるんだ」
「いいね、行きたい!」
「うれしいよ。じゃあまた日程連絡するね」

 惰性で部活に行くだけの日々だと思っていた春休みが、少しだけ楽しみになってきた。
 そうだ、僕の居場所は河川敷だけじゃない。
 授業終わりまではまだ十分くらいあり、僕らはしばらく雑談を続けた。
 
「水島くん、少し前に転校してきたばかりだけど、もうすっかり学校に馴染んでるね」
「まあさすがにね」
 転校してから三ヶ月と少し。優等生の水島くんはクラスのみんなからも頼りにされていて、つい数ヶ月前に転校してきたという感じはもうない。

「転入直後はいろいろ大変だったけど、ある程度落ち着いてきたよ」
「やっぱり手続きとかいろいろ面倒なの?」
「そうだね。加えて、学校にやっと慣れてきた頃に、どこに何があるのかまた一から覚え直しになったし」

 あと細かいことで言えば、と続ける水島くん。
「学年カラーが前の学校と違うからややこしいんだよね。あっちでは僕の学年は赤色だったからさ」

 たわいもない、雑談のはずだった。
 なのになぜか、開けてはいけない箱の中身に迫っている気がしていた。

「女子はセーラー服の真ん中に大きな赤いリボン(・・・・・)をつけていたし、同級生は赤色って印象が強くて」

 瞬間、意識が河川敷に飛ぶ。

 胸元をまじまじと見ることなんてなくても、何度も目にした制服のデザインは脳裏にくっきり刻まれていた。
 おそるおそる、記憶からイメージを取り出す。
 あのセーラー服のリボンの色は。

「水島くん、寅中の緑色って、今何年生?」
「三年生だけど、どうしたんだい?」

 体の内側に、雨の匂いが立ち込めた。

「……あのさ」
 重たい唇を動かして、質問を重ねる。
「柊遥奏って人知ってたりしない?」
 初めて、本人以外の前でその名前を口にした。
「ああ、柊先輩ね!」

 「先輩」という単語が、不気味な雨雲となって頭の中に浮かび上がる。
「知ってる知ってる。歌がとても上手くて有名人だったよ。この間、前の学校の友達と会った時に聞いたんだけど、たしか、芸術系の高校に推薦で受かったらしい」

 雨雲が、みるみるうちに頭の中を覆って、
「一流の先生に声楽を習いに、わざわざ関西の高校に進学するらしいよ」
 雷が、全身を貫いた。

 遥奏は三年生で、関西の高校に進学予定。
 今は、三月中旬。

 常識的に考えて、これらの事実がどういうことを意味するか、嫌でもわかってしまった。

「すごいよね。一芸に秀でてる人って憧れるよ。ところで、篠崎くんはどうして柊先輩のことを知っているんだい?」
 水島くんの声が、遠くで聞こえる。
「おーい、篠崎くん……」

 僕はその場で、停電していた。
 給食とそのあとの休み時間は保健室で休んだ。
 ベッドで少しの間横になると体調は落ち着いてきて、なんとか午後の授業には戻ることができた。
 けれど、内容は、全く耳に入らなかった。
 僕を構成する体以外の全てが、河川敷にあった。

 考えてみれば、遥奏の学年をちゃんと聞いたことがなかった。
 初めの日に「タメ口でいいよ」と言われてから同級生のように接するうち、僕と同じ中一だと無意識に思い込んでいた。

 遥奏はいつも、僕に質問してくるのに。
 僕のほうからは、遥奏のことを何も知ろうとしなかった。

 入学準備のこととかを考えると、早めに関西に行ってしまっているかもしれない。
 とはいえ、今日はまだ三月十六日。
 遥奏がまだ関東にいる可能性は十分ある。
 そう自分に言い聞かせるけど、焦りはどんどん募っていった。

 下校の挨拶が終わるなり、職員室へ直行した。
「すみません、今日は体調が悪いので休みます」
 嘘ともほんとうとも言い切れない事情を片桐先生に話してから、早足で河川敷へ向かう。

 いつもの川岸の階段にたどり着き、あたりを見回しながらしばらく待ってみた。
 そのまま十分、二十分と過ぎても、遥奏は現れなかった。
 川岸を離れて河川敷を歩けるだけ歩いてみたけれども、それらしき姿は目に入らないまま、日が暮れた。
 今日はたまたま遥奏が来ない日だったのかもしれないと考えた僕は、翌日また出直すことにした。

 ——けれども、次の日も遥奏は現れなかった。
 僕が再び部活を休み始めてから三日目。
 テストが終わってから約三週間練習に行き続けていたことで僕を信用したのか、父さんは片桐先生と連絡を取っていないようだった。
 
 その日も、河川敷に到着しても遥奏の姿は見当たらなかった。
 体が冷えるのも構わず、僕は遥奏を待ち続けた。
 三十分ほど経った頃、僕は思い立ってスクールバッグの中からスケッチブックを取り出した。

 遥奏が僕よりあとに到着するときは、大抵後ろからスケッチブックを覗いてくる。
 遥奏が来るためには、僕が絵を描くことが必要なんだ。
 そう考えて、画用紙に風景画を描き始めた。
 宝くじのスクラッチを削るように、鉛筆をカリカリと動かす。

 三月半ばだというのに今日はすごく寒くて、そのうち指先が言うことを聞かなくなってきた。
 十二月も一月も二月も、僕はこの河川敷に来ては絵を描いていた。
 どんなに凍えても、鉛筆を動かすのが辛いと感じたことはなかった。
 遥奏が、スケッチブックを覗きにくるから。

 ……そうだ。
 僕は、遥奏に絵を見てもらえるのがうれしかったんだ。

 遥奏と過ごした日々を思い出す。
 初めてスケッチブックを奪い取ってきた時の、興味津々な顔。
 冷え切った河川敷に響き渡る、温かな歌声。
 両手をグーにして拍手する時の、高揚した表情。

 そして、
『きれい!!』
『私はすっごく好きだよ! この絵!』
 遥奏は常に、全力で僕の絵を褒めてくれた。
 それなのに僕は、いつもその気持ちを素直に受け止められなくて。
 遥奏の歌を目一杯褒めることも、できなくて。
 伝えられなかった想いは、あまりにも多い。

 やがて、誰もスケッチブックを覗いてこないまま、夕日が沈み始めた。
 あの太陽が繰り返し反対側の空から昇り続けるように、遥奏もずっとここに来るのだと思っていた。
 けれども、それは僕の思い違いだった。

 夕日が、ついに水平線の向こう側に落ちる。
 どんなに手を伸ばしても、光は僕のもとに止まってくれなかった。
 次の日のお昼休み、僕は何をすることもなく自分の席に座っていた。
 誰かと喋る気も、落書きをする気も起きず、ただ窓の外をぼんやりと眺めていた。

 今日は部活に行くべきか。それとも、もう一度河川敷に行ってみるべきか。
 頭の中で選択肢がぐるぐる回るけれども、判断を下すだけの気力は湧いてこない。
 抜け殻のように、ひたすら時間の経過を待つ。
 表情筋がどんどん動かなくなっていく。

 そんな僕に、話しかけてくる声があった。
「篠崎くん、どうしたんだい?」
「あ、水島くん」
 図書室から戻ってきたらしい。難しそうなハードカバーの本を五冊抱えている。
「ここ数日、様子がおかしいよ」
「ありがとう。うん、ちょっと疲れてて」
「何か困ったことがあったのなら、僕に話してくれないか」
 水島くんがそう言って、前の席に座ってきた。

「ほんとになんでもないって……」
「最近読んだ心理学の本にこう書いてあったんだ」
 講義調の声が、ごまかしを遮った。
「嘘をついている人間の目は、左右によく泳ぐってね」

 ほこりひとつないメガネの奥、精密な思いやりが僕を見ていた。
 それから、僕は水島くんに事情を話した。
 といっても、何もかも打ち明けたわけではない。
 不本意ながら卓球部に入部したことと、練習が嫌になり河川敷で絵を描いていたこと、そしてそれがバレてしまったことを中心に説明した。
 河川敷で出会った女の子の存在は伏せて。

「そういうことだったんだ」
 水島くんは、何かが腑に落ちたという様子で何度も頷きながら僕の話を聞いていた。
「どうりで変だと思っていたよ。全然部活に行っている様子がないからさ。放課後ときどき卓球部の集団を見かけても、篠崎くんの姿は見当たらないし」
「ごめんね。今までちゃんと説明してなくて」
「まあ、誰だって秘密のひとつや二つくらいあるものだろう」
 人生何周目かと思わされるような寛大さを見せる水島くん。

「ちなみに、その河川敷で描いていた絵は、今も持っているのかな?」
 僕は頷いてカバンからスケッチブックを取り出し、水島くんに手渡した。
 受け取った水島くんは、感心した表情で僕の絵を見ながら、パラパラとページをめくった。
「見事な絵だね。同じ風景が何枚も描かれているのに、一枚一枚からその日ごとの空気感が伝わってくるよ」

 しばらくして、ページをめくる水島くんの手が止まった。
「ふむふむ、なるほどね」
 妙に楽しそうな声が気になって、僕は水島くんが開いているページを確認した。
 夜空を見上げて歌う少女の横顔。
 僕らの心が通じていた最後の夜に描いた絵だ。
「それであのとき、彼女の名前が出てきたのか」
「ごめん、そこまでにして」
 僕は、水島くんの手から強奪するようにスケッチブックを取った。
「残念だな。もう少し見たかったものだ」
 水島くんがニヤニヤと笑っている。その豊潤な語彙力で僕の頭の中を分析されているような気がして、いたたまれなくなった。

「続きはまた見せてもらうとして」
 水島くんが咳払いをして、真顔に戻ってから言った。
「それで、篠崎くんはどうしたいのかな」
「えっと」
 僕が、どうしたいか。
「このまま卓球部の練習を続けるのか。ずる休みの日々に戻るのか。あるいは、それ以外に何かしらの道を選ぶか」
 すぐには、答えが出てこなかった。
 言われるがままに部活に参加したり、夕方になってどうしても行きたくなくなって練習を休んだり。
 今までその場限りの行動を取っていた僕は、自分がどうしたいのかをきちんと考えたことがなかった。
「篠崎くんが選ぶことだよ」
 何も言えずに、うつむく僕。

「以前、篠崎くんの事情を僕がまだ知らなかった頃にも言ったことだけど、『絵を描きたい』という衝動を持っていることは、それ自体がひとつの才能なんじゃないかって思うんだ」
 水島くんが、机の上に置かれた本の表紙を撫でながら続ける。難しそうな西洋美術史の本。
「僕にはそんな素敵な才能を持っている篠崎くんが眩しく見えるし、その衝動を大切にしてほしいと思う」
 よく手入れされたレンズの中で、僕のシルエットがぴくりと動いた。
 
 成績優秀で、テニス部と生徒会を掛け持ちし、教養があり、将来有望。
 僕がどう頑張っても追いつけないはずの存在。
 その水島くんが、僕のことを「眩しく見える」と言った。

「もっとも、これは僕の個人的な希望でしかないから。篠崎くんが納得いくようにすればいいと思う」
 知識で武装されていない、水島くんの真心がそこにあった。  

「そのために僕にできることがあれば、なんでも言ってほしい」