「すみません、今日は沖縄から親戚が遊びにくるので、家事のため休みます」
隣の中学校の女の子にスケッチブックを強奪された翌日。
この日も僕は部活を休んだ。
片桐先生は仕事で忙しかったらしく、深く追求してこなかった。ラッキー。
楽しそうにおしゃべりする帰宅部の小集団に混じって校門をくぐり、いつもの河川敷へ向かう。
昨日は邪魔されちゃったけど、まさか二日連続で来ることもあるまい。
「また明日」なんてあの子は言っていたけど、その場の勢いで話していそうなあの様子からして、きっと適当な冗談だろう。
いつも通りひいひい言いながら階段を登って、川岸に腰掛ける。スケッチブックとペンケースを開いて、デッサンを描き始めた。
やっぱりあの子はいない。今日はいつも通りの平穏が訪れるはず——
「あ、秀翔! やっほー!」
——というわけにはいかなかった。
まるで何年も一緒にいる親友のように、気安く僕の名前を呼ぶ遥奏。
風に吹かれて静かに揺れる外ハネのロングヘア。二重まぶたの下、澄んだ真っ黒な瞳が僕をその中に囲い込む。
これ以上交流を持たないように移動するということもできるにはできたけど、落ち着けそうな場所まで移動するのもまた面倒だったので、そのままいることにした。
それに、
「ねえ秀翔、今日も私ここで歌うから、聴いててね!」
「いいけど」
口から発したそっけない言葉とは裏腹に、ほんの少しあの歌声をまた聞きたいと思っている僕がいた。ほんの少しだけね。
「やったー! ありがとう!」
誕生日のサプライズケーキをもらった時みたいに嬉しそうな顔をする遥奏。
ふたたび僕の右斜め前に立つと、発声練習のようなことをして、昨日とは違う歌を歌い始めた。
そのまま二曲ほど歌い終えた遥奏は、休憩のためか、水筒を片手に僕の側に寄ってきた。
「今日はなんの絵を描いてるの?」
「別に大したものじゃないけど」
僕はスケッチブックを遥奏に見せた。
今日は、左前に見える橋をメインに描いている。
電車と車が行き交う大きな橋。水面に映る橋の影をリアルに描くのがなかなか難しくて、色遣いに苦戦しているところだった。
「わー、今日も素敵だな!」
遥奏はそう言って、両手をグーにして胸元で拍手した。鈍い音が聞こえる。手、痛くないんだろうか。
「秀翔の絵見てるとさ、すごく癒されるんだよね〜!」
「あ、えっと、うん……」
返事としてはまるで成立していない言葉を返して、僕は色塗りに戻った。
「ねえ」
水筒を一度口元で傾けてから、遥奏が再び声をかけてきた。
「例えばなんだけどさ」
水で喉が冷やされたかのように、さっきよりも少し落ち着いたトーン。
「秀翔、ここで絵を描いてるでしょ? 誰か知らない人がいきなり来て、話しかけたり、近くで歌を歌ってたりしたら、『邪魔』って思う?」
それは「例えば」じゃなくて、今現実に起きていることなんだけど……。
そうツッコミを入れたくなったけど、遥奏なりの気遣いの表し方なのだと解釈して、やめた。
色鉛筆を動かす手首を止めないまま、僕は短く答える。
「別に」
赤の他人(しかも女子)との会話に慣れてないせいで、思わずそっけない言い方になってしまった。
だから、こう付け加えてみた。
「遥奏の歌、その……きれいだし」
せっかく言葉を足したのに、線香花火から落ちた火の玉のような、力無い言い方になってしまう。
人を褒めるのにも、慣れが必要らしい。
ちなみに「きれい」というのは、お世辞ではなく、事実だ。
いや、事実というのは少し違う。本心。
というのも、僕に歌の上手い下手はわからない。ただ、聞いていて気持ち良いと僕が感じたことは、ほんとうだった。
返事がなかったから、気になって色鉛筆を止め、遥奏に視線を向ける。
遥奏は、驚いた表情で僕を見つめていた。
満月のように、まんまるに見開かれた目。
「……今、なんて?」
「あ、えっと、遥奏の歌きれいだよって」
何気無く口にしたひとことが思いがけないリアクションを招いてしまい、焦る。
ちょっと偉そうに聞こえたかな?
もしかして、嫌味だと受け取られた?
素人の僕が上から目線で評価したのが、失礼に感じたのかも?
普段人と接することが少ない僕には、他人が何に怒りを覚えるのかがわかりにくい。
「あの、僕の評価なんて、あてにならないと思うけど」
必死に付け加える。
「だから、ごめん、変なこと言っちゃったなら、気にしないで」
「……しい」
「ん?」
遥奏が小さな声で何かを言った。
見ると、両手で鼻のあたりを覆っている。
瞳の黒色が、透明な水でぼかされていた。
隣の中学校の女の子にスケッチブックを強奪された翌日。
この日も僕は部活を休んだ。
片桐先生は仕事で忙しかったらしく、深く追求してこなかった。ラッキー。
楽しそうにおしゃべりする帰宅部の小集団に混じって校門をくぐり、いつもの河川敷へ向かう。
昨日は邪魔されちゃったけど、まさか二日連続で来ることもあるまい。
「また明日」なんてあの子は言っていたけど、その場の勢いで話していそうなあの様子からして、きっと適当な冗談だろう。
いつも通りひいひい言いながら階段を登って、川岸に腰掛ける。スケッチブックとペンケースを開いて、デッサンを描き始めた。
やっぱりあの子はいない。今日はいつも通りの平穏が訪れるはず——
「あ、秀翔! やっほー!」
——というわけにはいかなかった。
まるで何年も一緒にいる親友のように、気安く僕の名前を呼ぶ遥奏。
風に吹かれて静かに揺れる外ハネのロングヘア。二重まぶたの下、澄んだ真っ黒な瞳が僕をその中に囲い込む。
これ以上交流を持たないように移動するということもできるにはできたけど、落ち着けそうな場所まで移動するのもまた面倒だったので、そのままいることにした。
それに、
「ねえ秀翔、今日も私ここで歌うから、聴いててね!」
「いいけど」
口から発したそっけない言葉とは裏腹に、ほんの少しあの歌声をまた聞きたいと思っている僕がいた。ほんの少しだけね。
「やったー! ありがとう!」
誕生日のサプライズケーキをもらった時みたいに嬉しそうな顔をする遥奏。
ふたたび僕の右斜め前に立つと、発声練習のようなことをして、昨日とは違う歌を歌い始めた。
そのまま二曲ほど歌い終えた遥奏は、休憩のためか、水筒を片手に僕の側に寄ってきた。
「今日はなんの絵を描いてるの?」
「別に大したものじゃないけど」
僕はスケッチブックを遥奏に見せた。
今日は、左前に見える橋をメインに描いている。
電車と車が行き交う大きな橋。水面に映る橋の影をリアルに描くのがなかなか難しくて、色遣いに苦戦しているところだった。
「わー、今日も素敵だな!」
遥奏はそう言って、両手をグーにして胸元で拍手した。鈍い音が聞こえる。手、痛くないんだろうか。
「秀翔の絵見てるとさ、すごく癒されるんだよね〜!」
「あ、えっと、うん……」
返事としてはまるで成立していない言葉を返して、僕は色塗りに戻った。
「ねえ」
水筒を一度口元で傾けてから、遥奏が再び声をかけてきた。
「例えばなんだけどさ」
水で喉が冷やされたかのように、さっきよりも少し落ち着いたトーン。
「秀翔、ここで絵を描いてるでしょ? 誰か知らない人がいきなり来て、話しかけたり、近くで歌を歌ってたりしたら、『邪魔』って思う?」
それは「例えば」じゃなくて、今現実に起きていることなんだけど……。
そうツッコミを入れたくなったけど、遥奏なりの気遣いの表し方なのだと解釈して、やめた。
色鉛筆を動かす手首を止めないまま、僕は短く答える。
「別に」
赤の他人(しかも女子)との会話に慣れてないせいで、思わずそっけない言い方になってしまった。
だから、こう付け加えてみた。
「遥奏の歌、その……きれいだし」
せっかく言葉を足したのに、線香花火から落ちた火の玉のような、力無い言い方になってしまう。
人を褒めるのにも、慣れが必要らしい。
ちなみに「きれい」というのは、お世辞ではなく、事実だ。
いや、事実というのは少し違う。本心。
というのも、僕に歌の上手い下手はわからない。ただ、聞いていて気持ち良いと僕が感じたことは、ほんとうだった。
返事がなかったから、気になって色鉛筆を止め、遥奏に視線を向ける。
遥奏は、驚いた表情で僕を見つめていた。
満月のように、まんまるに見開かれた目。
「……今、なんて?」
「あ、えっと、遥奏の歌きれいだよって」
何気無く口にしたひとことが思いがけないリアクションを招いてしまい、焦る。
ちょっと偉そうに聞こえたかな?
もしかして、嫌味だと受け取られた?
素人の僕が上から目線で評価したのが、失礼に感じたのかも?
普段人と接することが少ない僕には、他人が何に怒りを覚えるのかがわかりにくい。
「あの、僕の評価なんて、あてにならないと思うけど」
必死に付け加える。
「だから、ごめん、変なこと言っちゃったなら、気にしないで」
「……しい」
「ん?」
遥奏が小さな声で何かを言った。
見ると、両手で鼻のあたりを覆っている。
瞳の黒色が、透明な水でぼかされていた。