いくら中身が袴田くんであろうと、他人の目に映っているのは井浦楓だ。
透視能力でも備わっていない限り、すでに故人である彼の存在は認められず、現実に生きている私にすべてが向けられてしまう。だからできる限り身体を乗っ取られるのは避けたいけど、今のように私一人どうしようもないときに彼が居てくれると、強くは言えないのが現状。
不貞腐れた顔をしながらも袴田くんが私の身体から出ていく頃には、不良たちは全員逃げていった。
『あーあ。久々に動いたー!』
「どこが久々……?」
袴田くんを訪ねてくる不良は日に日に増えてきている。袴田くん目当てにこれ以上来られても迷惑だ。どうにかしなければと袴田くんに訴えれば、ケロッとした顔で『知るか』とひと蹴りされてしまった。
『どうしてもっていうなら岸谷に言えよ』
「岸谷くん?」
『アイツなら、他校にパイプ作ってるし』
「何の話?」
「井浦さーん!」
私の声を遮ったのは、こちらに駆け寄ってくる吉川さんの声だった。額にうっすらと汗を浮かべ、黒髪を耳にかける仕草は流れるようになめらかで、金管楽器を首から下げるストラップが揺れると同時に浮かべた笑みはとても爽やかだった。
「井浦さん、さっきの人たち大丈夫だった? 声が校舎の中まで聞こえてきたから心配で」
「それで来てくれたの? 部活中だったんじゃ……」
「井浦さんの方が大事だもの」
吉川さんはそう言って優しく微笑む。関係のない喧嘩に巻き込まれて多少なりとも苛立っていたのが、一瞬で和やかな気分になった。
「そういえばあれから岸谷くんとは大丈夫?」
「え? 何が?」
「何がって……付きまとわれて困ってたって……」
何のことかわかっていないのか、とぼけた顔をするも、すぐに思い出して「ああ」と呟く。
「大丈夫よ。最近は何もないから安心して。私の心配をしてくれるなんて、井浦さんは優しいね」
「そう……? ならいいんだけど」
ほんの一瞬、彼女の顔が歪んで見えた気がした。妙な違和感が拭いきれない。
すると「聞きたいことがあってね」と吉川さんは耳元に近づくと、誰かに聞かれないように小声で話しかけてきた。
「袴田くんのことで知っていること、全部教えて?」
「――え?」
想像もしていなかった人物の名前が出てきて、思わず目を見開いた。私が動揺したのを見て、彼女は更に続ける。
「ずっと気になってたの。私、何度も助けられたことがあったんだけど、素っ気無くて相手にされなくて。同じクラスなんだから知ってるよね。教えてくれない?」
――私たち、友達でしょう?
「――っ!?」
ぞっとした。
脅しかけている彼女の言葉に、反射的に身構えて後ろへ下がる。しかし、咄嗟に掴まれた手をほどこうとするも、指の骨が折れるくらい強い力で引き留めようとしてくる。顔に似合わず、力強い。
「よ、しかわさん……?」
「あら、顔色が悪いけど……もしかして具合悪い? 保健室行きましょう。横になりながらでもお話はできるよね?」
微笑んで心配してくれているはずなのに、私は彼女に恐怖を覚えた。振り払おうとしても、恐怖から身体がすくんで動けない。
ふと視線を逸らすと、彼女の向こう側にいる袴田くんが目を見開いて固まっているのが見えた。一時停止ボタンでも押されたような、ピクリとも動かない彼があまりにも不自然だった。
咄嗟に二人の共通点がないか思い出そうとするけど、全然思い浮かばない。
岸谷くんの件では一切触れてなかったし、そもそも袴田くんが彼女を知っているのかも怪しい。二人並べば誰もが振り返る美男美女カップルに見えるけど、吉川さん越しに見える彼の表情は、なぜか怒りを抑え込んでいるようだった。
「――井浦!」
突然名前を呼ばれたことに驚いて、身体の緊張が一気に解けた。
校舎のある方から焦った様子の岸谷くんがこちらに駆け寄ってくる。彼の姿を見た吉川さんは名残惜しそうに手を離すと、小声で「また今度聞かせてね」と、いつもの優しい笑みを浮かべて戻っていった。
彼女とすれ違った岸谷くんは不思議そうな顔をして言う。
「悪いな、取り込み中……どうした、顔色悪いぞ」
「えっ……な、何でもない!」
視線を地面へ逸らすと先程まで握られていた手に、吉川さんの細い指の痕が赤く残っていた。もし岸谷くんが来なかったら、この手はさらに絞めつけられていたかもしれない。想像するだけで身震いした。
「今の……吉川か? あいつに何かされたのか?」
「え? あ……ううん、大丈夫。それよりどうしてここに?」
「お前がまた他校の奴に絡まれたって話を聞いてさ。知ってる奴いるし、交渉しようかと思ったんだが……お前、またやったな?」
「あー……ははは」
一体いつから見られていたのだろう。せっかく説得にやってきたかと思えば、私――というより袴田くん――が追い返してしまった後だ。
「袴田が死んだこと、アイツらもわかってるはずなんだ。それでもアイツに勝ちたいって思う方が強い。……お前に八つ当たりしたところで、袴田が生き返るはずがないのに」
どんなに願ったところで、死んだ人間は戻ってこない。それこそ、多くの人から慕われ、求められていた人間こそ、すぐいなくなってしまう。
……神様は、意地悪だ。
「アイツがいたら、今の状況を見てなんて言うかな」
「……わからないよ、本人しか」
岸谷くんのすぐ近くで、袴田くんは俯いたまま立ち尽くしていた。
そこにいるんだよって教えたら、少しは彼も気が楽になるだろうか。……いいや、きっと岸谷くんは彼に縋りついてしまう、そんな気がした。
「これは仲間から聞いた話で確証はないが……お前にも伝えておく」
気まずそうに口を開いた岸谷くんは、私に口外しないことを前提にある噂を教えてくれた。
「あの日、袴田は誰かに突き飛ばされたのかもしれない」
【交差点で北峰高校の生徒がトラックと衝突 自殺か?】
某日の早朝、○○町の交差点に差し掛かった大型トラックが北峰高校に通う男子生徒と衝突し、死亡する事故が起きた。
当時トラックは信号の表示に従って運転しており、横断歩道に差し掛かったところで、突然男子生徒が飛び出してきたという。この時、大型トラックはブレーキをかけてもすぐに止まることができなかった。
男子生徒は衝突し、数メートルほど飛ばされて頭を強く打ち付け、意識不明の重症で病院に運ばれたものの、目覚めることなく数時間後に静かに息を引き取った。
男子生徒を知る友人らは、彼が自殺をするような人物ではなかったと証言しており、警察は何者かに突き飛ばされた可能性もあるとみて、事件と事故の両方で捜査を進めている。
「…………」
学校に向かう電車に揺られる中で、私は一ヵ月前に掲載されたネットニュースを見直していた。
ここに書かれている「北峰高校に通う男子生徒」というのは当然袴田くんのことだ。記事には警察が捜査を進めているとあるが、その一週間後に事件性はないと判断され、事故として処理されてしまった。
しかし、一ヵ月経ったこのタイミングで、その場にいたという不良仲間の一人がここだけの話だと言って岸谷くんに事故当日のことを話したらしい。
その話によれば、信号待ちで大勢の人が立ち往生している中には袴田くんの姿もあり、北峰の制服を着ている生徒もいたという。
交差点には信号が切り替わると同時に動き出した大きなトラックが横断歩道に差し掛かった瞬間、袴田くんが背中を押されたように道路に飛び出してきた。
袴田くんは倒れる間際、歩行者用の信号機の下で待つ人たちの方に振り向いて何かを呟いていたらしい。しかし、それはトラックの運転手が急いで踏み込んだブレーキ音でかき消され、誰も聞き取れなかった。
その場にいた不良仲間の彼は、袴田くんとは離れた位置にいたこともあって、飛び出した人物が袴田くんだとは気付けなかった。だから救急車に運ばれる際に見えた金髪を見て、大層驚いたそうだ。
もし彼が本当に事故死ではないとしたら、この不運で理不尽な終わり方に納得できない袴田くんが、成仏する前に復讐を企てているという仮説が浮かんだ。現に彼は今まで頑なに戻ってきた理由を聞かせてくれなかった。他にも理由があるかもしれないけど、これが一番有力なのかもしれない。
……考えたくは、なかったけれど。
何事もなく学校に着いて教室に入ろうと扉に手をかけると、『井浦』と後ろから呼び止められた。
見れば袴田くんが苛立った表情で廊下の壁に寄り掛かっていた。今まで見たことのないその表情を恐れながらも、誰も見ていないことを確認して彼の隣に並ぶ。
「どうかしたの?」
『お前、もう吉川と関わるの止めろ』
「は……?」
『余計なことは聞くな。その方が身のためだ』
いつもより低い声色と一言に、苛立ちや怒りが込められているような気がした。
「……なんで吉川さん? あの件だったらあの子は被害者でしょ」
『なんでもいいだろ。お前まで巻き込まれたら……』
「巻き込むって何? 私が関係しているなら、聞く権利あるよね?」
周りの目がこちらに向いているが、そんなことどうでもいい。
苛立っている彼に挑発的な口の利き方をして、反感を買うのもわかっている。
「彼女は自分が辛かったことを、誰かに同じ思いをさせないように手を差し伸べてくれたんだよ? そんな子が何をしたっていうの?」
『井浦、落ち着け』
「暴力で解決してきた袴田くんたちに、優しさで人を救ったことなんてないでしょ!」
『井浦!』
袴田くんが声を荒げたその瞬間、突然周りにいた生徒や先生が耳を塞いで唸り始めた。中にはその場に蹲って動けない人もいる。
私には音量が少し上がったくらいにしか思わなかったのに、彼の声が聞こえない人には超音波でも聴こえているのだろうか。
「袴田くん、なんてことを……!」
『うるせぇ! お前なんかもう知らねぇ!』
「……はぁ?」
今まで人の身体借りて好き勝手喧嘩したくせに、感謝もなければ乗っ取る頻度も減らない。
最強の不良? そんなの知るもんか。私は彼の胸倉を掴んで怒鳴った。
「別にいいよ! こっちこそ、袴田くんなんかに心配される筋合いないから!」
「おいっ……行くな、井浦!」
胸倉を掴んだまま向こうへ押すと、袴田くんがよろけた。
それがどうした。一生そこでへばっとけ。
振り返ることせず教室に入ると、誰もが私を見て気まずい顔をしていた。どことなく暗く沈んだ空気が流れている。
「……どう、したの?」
嫌な予感がよぎる。クラスメイトの一人が震える手で私の机を指す。
教室の一番後ろ、窓際から二番目にある私の机に、身に覚えのない罵倒が大きく書かれており、首の折れた菊の花が入ったペットボトルが置かれていた。
ほら、言わんこっちゃない。
落書きされた机と菊の花をそのままにして、先生が来る前に教室を出た。お馴染みとなった屋上はいつになく寒々としている。私が給水タンクの近くに座り込んですでに二時間は経過してるが、一向に動く気にはなれなかった。
最近は授業をサボることが増えて、袴田くんと話すのが日課になっていたために、肌を刺すような冷たい風が吹こうとも二時間程度であれば耐えられていた。今日はやけに寒いと感じるのは、屋上にるのが私一人だからだろう。
教室から屋上に向かう最中、彼の怒鳴り声によってめまいや立ち眩みを起こした生徒が数多くいた。今頃はきっと保健室が大混乱しているはずだ。
――お前、もう吉川と関わるな。余計なことは聞くなよ。その方が身のためだ。
袴田くんの言葉が頭から離れない。
「吉川さんが何をしたの? 他校との喧嘩ならもう巻き込まれてますけど!? ……わけわかんない」
八つ当たりのように言いたいことを呟いて、大きく溜息を吐いて上を向く。冬の寒空は今日も綺麗な青が広がっている。
そういえば袴田くんとちゃんと話した時も、空気の澄んだ晴れた日だったことを思い出す。
「……なんで話してくれないんだろう」
幽身体の彼と出会って一ヵ月、ほとんど巻き込まれたようなものだけど、ピンチの時は助けてくれた。
それだけじゃない。いつも教室の隅にいてクラスメイトとほとんど話すことがない私を、袴田くんは嫌な顔ひとつせずに話しかけてくれた。
彼にとっては暇つぶしだったかもしれない。それでもくだらない悪戯を仕掛けられたり、他愛もない話で盛り上がった時間は、私にとっては楽しい時間だった。
あわよくば彼が生き返ればいいのにと、現実から逃げることを願ってしまうほど、今までの自分の立ち振る舞いを後悔する。――だからこそ彼には恩を返したい。この世に未練が残っているのなら協力してあげたいと思った。
ふと、膝のうえに置いた手の甲に雫が落ちた。雨なんて降っていないのに、雲一つない青空が広がっているのに止まらない。
――ああ、怖いんだ。
今まで一人で平気だったのに、突然現れたかと思えばすぐに離れていく。
いつの間にか、袴田くんが隣にいることがどれだけ心強かったのか痛感する。
それでも、私は動けなかった。
落書きと菊の花が置かれたあの席が、冷たい目で見てくるクラスメイトと先生が、味方がいないあの光景が脳裏に焼き付いて離れない。じわじわと押し寄せてくる恐怖に飲み込まれそうで震えが止まらない。目を瞑ればあの光景が映し出される気がして、目を伏せることさえ億劫になっていた。
すると屋上の扉が大きな音を立てて開かれると、女子生徒が数人、校舎から出てきた。
先輩だろうか、彼女たちは半泣きの私を見つけると、なぜか嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あーっ! いたいた!」
「どこ行ってたのー? 随分探したのよ」
「え? あ、あの……?」
校則違反ギリギリのメイクをした彼女たちは、私の両腕を掴んで立たせると、引きずるようにして歩かせる。愛想笑いを浮かべる二人に抵抗も虚しく、一人の先輩の前に突き出された。
「急になんですか……!?」
「心当たりない? アンタ、岸谷と最近仲良いでしょ?」
「私たちね、誰が岸谷くんを奪うか賭けてたの。彼、不良だけどかっこいいでしょう? サッカー部でも有名だったし、退部した今でもファンクラブは残っているのよ」
「そしたらこの間、岸谷がアンタを抱きしめてるの見ちゃったんだよねー。他校の不良と喧嘩した後さ、覚えてない?」
「耳元で話すとか、ホント生意気! アンタみたいな子が岸谷くんとつり合うわけないの。さっさと別れてよ」
黙って聞いていれば、彼女たちの口から次々と出てくるのは妬みの言葉ばかり。
抱しめられた?
耳元で話された?
つり合わないから別れろ?
「…………」
絶句。
「なによ、何か文句でもある?」
「……いや、ちょっと……くはは」
自然に笑いが零れてしまう。両腕を掴んでいる二人には聞こえたようで、気味悪がって掴んでいる力が緩んだ。約一ヵ月、袴田くんが身体を乗っていたせいか、笑い方も口の悪さも染みついてしまったらしい。
「いやぁ……。勘違いも甚だしいなと」
「は?」
「わかんないの? だから岸谷くんに見向きもされないんだよ、バーカ」