夏から秋へと季節が移り変わり、まだ残暑が残る日の朝。じわりと汗ばんだシャツがくっつくのに違和感を覚えながら学校に登校すると、そこには楽しそうに談笑するクラスメイトの姿があり、いつもと変わらない光景が広がっていた。彼がいなくなってからしばらく沈んでいたクラスの空気は、から元気ながらも活気を取り戻そうとしている。
 そんな彼らをかき分けて、教室の奥にある自分の席に向かった。窓側の席から一つ隣の、中途半端な席。妙なことに、進級した四月から何度か席替えが行われたにも関わらず、夏休み明けにまた戻ってきてしまった。――それも、彼の隣だった。
 私の隣にある窓側の机の上には、白い百合が花瓶に活けられている。
 この席に座っていた人物――「最強の不良」と謳われた男子生徒はもういない。なんとも理不尽で悲しい人生の最期を迎えた彼は、一週間ほど前に執り行われた告別式で、すでに小さな箱に入っていたと、参列した先生が言っていたっけ。

 背負っていた鞄に手をかけたところで、誰もいないはずのその席の椅子が不自然に後ろに下がっているのが視界に入った。誰かが使ってそのままにしたのだろう、などと考えて顔を上げると、目を見張った。

 こんなことがあるはずがない。あっていいはずがない。
 そこにはもういないはずの男子生徒が、さも当然のように座っていた。

「…………」

 ……いやいやいやいや。
 確かに見慣れた金髪だけど、横から見ても整った顔立ちしているけど!
 困惑する私とは反対に、彼は微動だにせず黒板の方を見つめている。こんなにも堂々としているのに、どうして誰も彼の存在に気づかないのか。教室の雰囲気をみても、誰かが見て見ぬふりをしている様子はない。

「はいおはようー。ホームルームを始めるぞ。……()(うら)? さっさと座ってくれないか」
「えっ……あ、はい! すみません!」

 担任の先生が教卓に出席簿を広げながら私を指摘する。クラスメイト全員が席に着いているなかで、私だけが鞄を背負ったまま、窓側の方を向いて固まっていた。

 慌てて私が席に座ったのを見計らって授業前のホームルームが始まった。といっても先生が連絡事項を話すだけで、特にやることはない。
 そっと横目で窓側の席の様子を伺えば、彼はしばらく真顔で黒板を見ている。しかし、先生の話が進むにつれて、次第に姿勢が机に雪崩れ込むように崩れていく。
 隣の席だからこそ、この光景を何度か見たことがある。彼がよく授業中、先生の話ばかりで聞き飽きた時にする体勢だ。
 もう二度と見られないと思っていたけれど、まさかまたこの姿を見られるなんて。

「井浦、隣が居なくて寂しいだろうが、先生の話くらいちゃんと聞いてくれるかなぁ」

 思わず凝視してしまっていたのが教壇から良く見えたようで、話を中断した先生に注意される。やはり誰も彼が見えていないようだ。パッと顔を上げて姿勢を正すと、神妙な顔つきで尋ねられた。

「お前まさか……そこにいるってのか?」

 います。

「……そ、そんなわけがないじゃないですか! 天気がいいから、窓の外に気を取られていました。気をつけます」
「ならいいが……。おっと、そろそろ一限目が始まるな、ホームルームはここまで!」

 先生が号令をかけて終わると、クラスメイトが次々と談笑や授業の準備を始める。
 賑やかになった教室で一人、私は小さく溜息を吐いた。
 誰も見えていないのに、堂々と「隣にいます」なんて言えるわけがない。あわよくば、私が今まで見てきた彼の面影を映し出した幻影であってほしい。
 そう願いながらもう一度隣を向くと、机に雪崩れ込んだ体勢から、いつの間にか顔だけをこちらに向けていた。

「…………」
『…………』

 目が合った。
 根元までしっかり染められた金髪が揺れて、何を考えているかわからない真顔がこちらを向いている。さっきまで黒板の方を向いていたくせに。

 すぐさま目を逸らすと、隣から椅子を引く音が聞こえたと同時に、左肩にずしりと重みがかかった。氷のように冷たい指先が、羽織っているカーディガン越しからでも伝わってくる。
 私は咄嗟に視線を机に落とした。

 顔を上げたくない。この肩にかかった重みを、食い込んでくる指先を知りたくない。
 今起こっていることが現実であることを、信じることが恐ろしい。
 視界には机の木目と小さなひっかき痕しか入れていないのに、フッと小さく笑った声だけで、口元を緩めた彼の顔が想像できる。

『……井浦(かえで)。お前、俺のこと見えてるよな?』

 一週間前の事故で亡くなった彼――袴田玲仁は、脅しにかかった低い声とともに、私の肩に置いた指先にほんの少しだけ力を込めた。