いい人を辞める。ワインを飲む。

「ふぅ~、なんか今日は飲んでばっかりですね」
「そういう場所だし、いいでしょ別に」

 ワインカーヴを出たあと、二人は展望デッキのテーブルに座ってだらだらと何もない時間を過ごしていた。二人で見つけた赤白のボトル、そしてお土産のソムリエナイフと、おつまみ類を買って、展望デッキにそれを広げていた。

「どう、少しはリフレッシュできた?」

 和華乃さんは、スーツを気崩した僕に尋ねた。

「はは、おかげさまで……」
「明日からまた頑張れる?」
「そう……ですね。はい、大丈夫だと思います」

 今日一日、彼女に具体的な話は何一つしていない。けど、しっかりと僕の状況を察していたようだった。本当、今日この人に会ってよかった。心からそう思った。今朝、一人であのホームに降りたときの感情。アレを抱えたまま東京に戻るの自分は、ちょっと想像できない。

 それに引き換え僕は……。

「うん? どうしたのいきなり?」

 顔をまっすぐ見据える僕の視線に、和華乃さんは少し戸惑いを見せた。この人と違い、僕は察しが悪い。だからちゃんと訊くしかなかった。

「和華乃さんはどうですか? 今日一日ここで遊んで、彼女さんとの思い出を整理できましたか?」
「…………」

 僕と和華乃さんは、無言のまま視線を合わせていた。傾き始めた日光が二人の顔の半分を照らし始める。

「"彼女さん"ね。やっぱそうか……」

 和華乃さんは言う。

「さっき、お風呂で考えてたんだ。あの日……駿吾におぶって貰った日、アタシ何を話したのかなって……」

 半分以上減った赤い液体をグラスの中で転がしながら、和華乃さんは続ける。

「本当に何も覚えてないんだけど……けどあの日、駿吾と会う前の事ははっきりと覚えてるんだ。そこから考えると……きっとアタシは、駿吾に酷いことしてる」

 僕の好意はバレバレだった。この人はさっきそう言った。僕の気持ちを知りながら、僕に自身の恋愛の相談をしたなら……たしかにそれは酷いことかもしれない。

「……話して下さい」
「うん」
「あの子とは5年間付き合ってた……そう思ってたんだけど、今思えばずーーっとアタシの片思いだったのかも……」

 和華乃さんは語り始める。

「高校まではさ、アタシも人並みの恋愛して人並みに結婚するんだと思ってた。でも男の子と何回か付き合って……アタシはそういうんじゃないって、わかっちゃったんだよね」

 その人と出会ったのは、僕がバイトを始める1年前だったらしい。ほぼ同時期に入店した同士ですぐに仲良くなり、友情を一気に飛び越えてそれ以上の関係となったそうだ。

「男の子とは付き合えない。けど、だからといって女の子相手なんて考えたこともなかった。それなのにあの子が現れて……広がっちゃったんだよね、世界が」

 和華乃さんは照れくさそうに笑う。見たことのない表情だった。それを見て、僕の心臓はぎりぎりと締め付けられる思いだった。でも、話してと言ったのは僕だ。僕は今日、和華乃さんに救ってもらった。だから、せめて話だけでも聞かないといけない。
 その女性は僕が入店する直前に辞めたそうだ。理由は、店内で噂が広まり始めたから。その噂が悪い方へ転がらないうちに、予防策をとった。そしてその後、僕は和華乃さんと出会った……。

「でも思い返すとさ……舞い上がっちゃてたのはアタシ一人だったんだよ。"女同士"っていう非日常感にやられちゃったのかな? あの子にとってアタシは……」

 目に薄っすらと涙が浮かんでいた。

「アタシはたくさんいる"彼女"の一人でしか無かったんだ」

 語尾が震えていた。僕は黙って、彼女のグラスに赤い液体を注ぎ入れる。昼間のソムリエとは段違いに手際の悪い注ぎ方。さっきまでそんな僕をからかっていた和華乃さんは、今は黙ってグラスを見つめていた。
 その人は恋愛に関してとても奔放だったらしい。和華乃さんは真摯に彼女だけを想い続けたが、彼女はそうではなかった。働く場所が変わり、和華乃さんの目が届きづらくなった事で、その傾向は一気に加速したという。

「そんなみじめな自分を認められなくて……あの子の一番になりたくて、5年間頑張ってきたつもり。それなのに……それなのにさ」

 グラスを掴む手はそこから1ミリも持ち上がらず、赤い水面がかすかに揺らぐだけだった。

「あの子は、別の子と……アタシじゃない、特別な人と……あっちにいっちゃった……」

 そう言い切った瞬間、和華乃さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。西日は赤色を増し始める。ついさっきまで黄金色だった光は、朱色に近づいていく。

 和華乃さんはしゃくりあげながらも続ける。彼女たちの旅立ちが、自らの意思によるものか、何か不幸な要因があったからなのか、それはわからない。はっきりしているのは、和華乃さんが自らの想いを向ける相手を、永遠に失ったことだけだ。

「実は、お別れも……出来てないんだ。実家の住所は知ってたから行こうと思ったんだけど……どうしても怖くなっちゃって。だってそうじゃん? 娘さんに片思いしてた女です、お焼香させて下さい、なんてご両親に言える?」

 それで、式場がある甲府へ向かうことができず、あの駅で降りてしまった。その後、たまたま僕が衝動的に乗り、衝動的の降りた電車がやってきた。そういう事らしい。

「ごめんなさい。今日一日……いや5年前からずっと、駿吾の気持ちを知っておきながら利用してた。本当にサイテーな事してると思う……」

 男と付き合うのは無理だった。初めて心から焦がれた女は思いに応えてくれなかった。だから自分を好いてくれる男を上手く使った。和華乃さんの中で、僕との5年間はそんなストーリーになってしまったらしい。

 けど……それは違うだろ?
「何言ってんすか? 少なくとも僕は、楽しかったですよ?」
「え?」

 和華乃さんは顔を上げた。

「そりゃまぁ、あの日の夜はヘコみました。それから今日まで、和華乃さんのことずっと、忘れられなくて……辛くなかったと言えば嘘になります」

 そう、それは間違いない。無駄に濃厚なスキンシップ、からかうような態度、常に楽しそうな笑顔。そういうのに人生狂わされた。そんな見方も確かにできる。

「でもそれ以上に、楽しくないですか? 200種類のワインから、同じ銘柄を選んじゃくらい波長合う者同士なんですよ? 僕はそれを、利用とか酷いこととか、そんな言葉で片付けられたくないです!」
「駿吾……」

 和華乃さんはぽかんと口を開けて、僕の顔を見つめる。けどやがて、こらえきれなかったように吹き出した。

「……ぷッ! なにソレ? 駿吾のくせにキザな……似合わないよ?」
「…………」

 ひどすぎる。でも、ひどいことしてゴメンナサイ、なんて言われるよりはるかに良かった。

「ちょっと下に降りません?」

 展望デッキには階段があり、一段低いところに降りられるようになっていた。低いと言っても数メートルで、目の前に広がる真っ赤な景色は変わらない。僕と和華乃さんはグラスを片手に、階段を降りる。そこには金属プレートがあしらわれた大きなワイン樽が飾られている。プレートには『恋人の聖地』という、今の僕たちにはあまりにも皮肉が言葉が刻まれていた。その横の手すりには、ハート型の南京錠がびっしりと取り付けられている。多分この南京錠を二人で取り付ければ幸せになれる、みたいなジンクスがあるんだろう。けど、僕が階段を降りたのはこれを見るためじゃない。

「えいや!」

 僕はその手すりから少し身を乗り出すと、グラスの中の液体を空に向かってぶちまけた。

「ちょっ!? 何してんの駿吾!!」
「さっき地図アプリで調べたんですよ。ここから見えるあの街が甲府です!」

 風呂を出た後、和華乃さんを待つ間に調べたのだ。露天風呂から見た景色がどの方角のものなのか。日暮れが近づき、電灯の光が輝き始める遠くの市街地。そこのどこかに、和華乃さんの大切な人は眠っているはずだ。

「ほら、よくあるじゃないですか? 手向けの酒っていうんですか? 死んだ友人や恋人の墓石にお酒注ぐって……」
「映画とかでよくあるやつ?」
「そうそれ!! 別にそれで踏ん切りつけろとか言わないですけど、少しはスッとするんじゃないかなって」
「なにそれ、アンタほんとキザだね。ガラじゃないって」

 そう言って和華乃さんは笑う。

「でも、まぁ……そうだね。…………えええいっ!!」

 和華乃さんは少し助走をつけ、手すりから大きく身を乗り出しグラスを天に突き上げた。赤紫の滴が、花が咲いたように空に舞い、きらきらと茜色の光を拡散させた。
『次は 立川 立川』

 車内アナウンスが流れる。

「アタシ、次で降りるんだ」
「あ、そうですか。それじゃあ……」

 東京都に入ったころには。あたりは完全に夕闇に包まれていた。僕の家はさらに東だから、ここで彼女とは別れることになる。

「あのさ、駿吾……」

 ためらいがちに和華乃さんは言う。

「もしアタシがさ、あの子と会う前にアンタに……」

 何を言おうとしているか察しが付いたから、僕はすかさず止めた。

「そういうのやめましょう? 気持ちは嬉しいけど……俺が好きになったのは、そうならなかった和華乃さんなんで……」
「……そっか」

 線路の音が変わる。鉄橋を渡っているようだ。川を渡れば減速が始まり、程なく立川に到着する。

「駿吾ってさ、ホント"いい人"だね。どうしようもないくらい」
「たはは……自分でもそう思います」
「そういう奴で良かった。もしさっき、変な下心出してたら……多分、駿吾のこと一生恨んだと思うから……」
「うわっ、あぶなかったぁー!」

 わざとおどけてみせる。

「ふふっ、それじゃあね」
「また飲みに行きましょう。もちろん下心抜きで」
「そだね。それじゃあ」

 電車は減速しながらホームに入る。そして彼女を放り出すと、更に東に向かって走り始めた。


「結局……"いい人"は辞められなかったわけか……」


 僕は明日の朝、上司へ言う謝罪の言葉を考え始めていた。

-完-

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