宴の始まる前に、帝は秘密裏に龍の中将と衣を取り換えていた。
「これでおまえは俺として自由に女たちを見て回ることが出来るだろう? 感謝しろよ」
「あぁ、感謝しているさ龍。おまえを取り立ててやらないといけないね」
「いやぁ、これ以上上に行くとジジイどものやっかみが酷くなる。ジジイどもが死んだら俺を持ち上げてくれたらいいさ」
「お安い御用だ」
護衛には代理を立てることを説明している。ろくに通いのない妃たちは、万が一顔を見たところで帝か龍の中将であるかの違いなど判らないだろう。
帝は龍の変装に満足すると、宴の中に紛れて行った。
宴の席に集まった妃たちは皆ピリピリと苛立っているのがわかった。なるほど、帝の姿が見えないので苛立っているのだろう。だが、こうも苛立ちを表に出されては、せっかくの美貌も教養も台無しだと帝は失笑した。
帝としての私の前では取り繕うのであろうな、だが、なんの地位も持たぬ『私』の前では本性が出るということか。これは悪くないかもしれない。
帝は桐花姫を探す傍ら、女たちをよく観察していった。清涼殿で会う姿とはずいぶんと異なる姿に驚きを通り越して呆れてしまう。
梨壺の慶子などは苛立ちを隠そうともしていない。閨に呼んだ日のしおらしさはどこへいったのかと呆れるばかりだ。
「やはり、彼女が桐花姫であるはずがない」
そう結論付けるとともに、中将の言う頭巾の女の姿が見当たらないことに首を傾げた。
身分の垣根なく後宮の女を皆呼び寄せたはずである。頭巾を外しているのだろか――だが、火傷の痕のある女など見当たらなかった。
あまりに梨壺の女たちを見て回っていたからだろうか、ついに慶子に腹を立てられた。
「帝の妃である私をジロジロと見るなどと、なんと無礼な男でしょうか! 私は梨壺の女御ですよ、おまえのような男に見初められるような下賤の女ではない! 早く立ち去れ!」
青筋を立てた慶子にピシャリと言い放たれ、帝は宴の席を離れることにした。
「慶子殿はかなり気性が荒いようだな」
宴の席を離れ、後宮に戻ってきた帝は苦笑いした。閨と今では人が違うようではないか――女というのは実に恐ろしいと呆れるばかりだった。
足は自然と東へと向かい、梨壺へと来ていた。月のか細い夜に出会った女が、もしかしたら残っているのではないか――そんな予感がしたのだ。
だが、梨壺にその姿はなかった。帝は自分の思い違いに苦笑いして、諦めて戻ろうとしたその時だ。
「あれは――」
聞き覚えのある歌が聞こえた。幼い日に聞いた子守歌である。歌声は北側の桐壺から聞こえてくる。今の後宮において、桐壺は空席であった。
足音を殺して近づいてみると、東の空を見上げながら歌を歌っている女がいた。
見窄らしい格好をした女である。だが、艶やかな黒髪に、強い光を宿した瞳の、それはそれは美しい女だった。
「あなたは――」
数秒見とれてから思わずそう声をかけると、女は慌てた様子でひれ伏した。
「申し訳ございません、勝手に別の庭に来てしまって」
「咎めたわけではないのです。あなたはどこに仕えているのですか?」
女を怯えさせないよう、努めて優しい声を出した。すると、女はゆっくりと顔を上げた。横顔も美しかったが、正面から見ると尚一層美しい。着飾ればどの妃も及ばないだろう美貌の持ち主だと思った。
何より面影がある。自然と拍動が早くなった。
「私は梨壺の慶子様に仕えております」
「もしや、以前近江の国におられませんでしたか?」
耐え切れずに尋ねると、女は目を見開いた。
「どうしてそれを――」
やはり。やっと見つけた――! 帝は女を今すぐにかき抱きたくなる衝動を必死に抑えた。
「幼い日に、桐の花の下であなたの歌声を耳にしたものです。ずっと、お会いしたいと思っていた。名前を教えていただけませんか?」
「……咲子と申します」
「咲子殿、やっとお名前を伺うことが出来ました。どうか今一度あなたの歌を聞かせてください」
請われるままに歌を歌い始めた女は、仕舞には涙を流し始めた。その涙につられるように、帝も涙を流す。
歌い終わると、女は帝の背に手を当て、ゆっくりとさすり始めた。温かな手であった。
「あなたも、お辛いお立場におられますか? どうか今はそのしがらみを取り払い、心穏やかにお過ごしください」
女の言葉は、その歌声と同じように温かなものであった。帝は涙に濡れたその頬に手を当てる。こんなに美しい女は見たことがなかった。容姿だけではない、その心根も美しかった。思惑の渦巻く後宮で、初めて裏も表もない優しさに触れた。
「あなたを妻に迎えたい」
一度強く抱きしめて思わずそう口にすると、女は首を横に振った。
「どのように高貴な方か存じませんが、後ろ盾のない卑しい身分の私などがあなた様の妻になることなど、望めることではありません。今一度、お会いできただけで、私は十分幸せでございます。ずっと、お会いしたかった――さようなら」
女はそのまま帝の手をすり抜けて、霧のように消えて行った。背を撫でる温かな手のぬくもりだけが残る。空蝉のように消えた女は帝の心に一層強く残った。
「これでおまえは俺として自由に女たちを見て回ることが出来るだろう? 感謝しろよ」
「あぁ、感謝しているさ龍。おまえを取り立ててやらないといけないね」
「いやぁ、これ以上上に行くとジジイどものやっかみが酷くなる。ジジイどもが死んだら俺を持ち上げてくれたらいいさ」
「お安い御用だ」
護衛には代理を立てることを説明している。ろくに通いのない妃たちは、万が一顔を見たところで帝か龍の中将であるかの違いなど判らないだろう。
帝は龍の変装に満足すると、宴の中に紛れて行った。
宴の席に集まった妃たちは皆ピリピリと苛立っているのがわかった。なるほど、帝の姿が見えないので苛立っているのだろう。だが、こうも苛立ちを表に出されては、せっかくの美貌も教養も台無しだと帝は失笑した。
帝としての私の前では取り繕うのであろうな、だが、なんの地位も持たぬ『私』の前では本性が出るということか。これは悪くないかもしれない。
帝は桐花姫を探す傍ら、女たちをよく観察していった。清涼殿で会う姿とはずいぶんと異なる姿に驚きを通り越して呆れてしまう。
梨壺の慶子などは苛立ちを隠そうともしていない。閨に呼んだ日のしおらしさはどこへいったのかと呆れるばかりだ。
「やはり、彼女が桐花姫であるはずがない」
そう結論付けるとともに、中将の言う頭巾の女の姿が見当たらないことに首を傾げた。
身分の垣根なく後宮の女を皆呼び寄せたはずである。頭巾を外しているのだろか――だが、火傷の痕のある女など見当たらなかった。
あまりに梨壺の女たちを見て回っていたからだろうか、ついに慶子に腹を立てられた。
「帝の妃である私をジロジロと見るなどと、なんと無礼な男でしょうか! 私は梨壺の女御ですよ、おまえのような男に見初められるような下賤の女ではない! 早く立ち去れ!」
青筋を立てた慶子にピシャリと言い放たれ、帝は宴の席を離れることにした。
「慶子殿はかなり気性が荒いようだな」
宴の席を離れ、後宮に戻ってきた帝は苦笑いした。閨と今では人が違うようではないか――女というのは実に恐ろしいと呆れるばかりだった。
足は自然と東へと向かい、梨壺へと来ていた。月のか細い夜に出会った女が、もしかしたら残っているのではないか――そんな予感がしたのだ。
だが、梨壺にその姿はなかった。帝は自分の思い違いに苦笑いして、諦めて戻ろうとしたその時だ。
「あれは――」
聞き覚えのある歌が聞こえた。幼い日に聞いた子守歌である。歌声は北側の桐壺から聞こえてくる。今の後宮において、桐壺は空席であった。
足音を殺して近づいてみると、東の空を見上げながら歌を歌っている女がいた。
見窄らしい格好をした女である。だが、艶やかな黒髪に、強い光を宿した瞳の、それはそれは美しい女だった。
「あなたは――」
数秒見とれてから思わずそう声をかけると、女は慌てた様子でひれ伏した。
「申し訳ございません、勝手に別の庭に来てしまって」
「咎めたわけではないのです。あなたはどこに仕えているのですか?」
女を怯えさせないよう、努めて優しい声を出した。すると、女はゆっくりと顔を上げた。横顔も美しかったが、正面から見ると尚一層美しい。着飾ればどの妃も及ばないだろう美貌の持ち主だと思った。
何より面影がある。自然と拍動が早くなった。
「私は梨壺の慶子様に仕えております」
「もしや、以前近江の国におられませんでしたか?」
耐え切れずに尋ねると、女は目を見開いた。
「どうしてそれを――」
やはり。やっと見つけた――! 帝は女を今すぐにかき抱きたくなる衝動を必死に抑えた。
「幼い日に、桐の花の下であなたの歌声を耳にしたものです。ずっと、お会いしたいと思っていた。名前を教えていただけませんか?」
「……咲子と申します」
「咲子殿、やっとお名前を伺うことが出来ました。どうか今一度あなたの歌を聞かせてください」
請われるままに歌を歌い始めた女は、仕舞には涙を流し始めた。その涙につられるように、帝も涙を流す。
歌い終わると、女は帝の背に手を当て、ゆっくりとさすり始めた。温かな手であった。
「あなたも、お辛いお立場におられますか? どうか今はそのしがらみを取り払い、心穏やかにお過ごしください」
女の言葉は、その歌声と同じように温かなものであった。帝は涙に濡れたその頬に手を当てる。こんなに美しい女は見たことがなかった。容姿だけではない、その心根も美しかった。思惑の渦巻く後宮で、初めて裏も表もない優しさに触れた。
「あなたを妻に迎えたい」
一度強く抱きしめて思わずそう口にすると、女は首を横に振った。
「どのように高貴な方か存じませんが、後ろ盾のない卑しい身分の私などがあなた様の妻になることなど、望めることではありません。今一度、お会いできただけで、私は十分幸せでございます。ずっと、お会いしたかった――さようなら」
女はそのまま帝の手をすり抜けて、霧のように消えて行った。背を撫でる温かな手のぬくもりだけが残る。空蝉のように消えた女は帝の心に一層強く残った。