清涼殿に坐した帝は頭を抱えていた。

「おうい、いつになく難しい顔をしてどうした。昨夜は珍しくお楽しみだったんじゃないのか?」

 現れたのは若くして近衛中将に上り詰めた男である。母は帝の乳母であり、幼いころより帝と兄弟のように親しく育ち、帝は彼を(りゅう)と呼んでいた。巷では龍の中将と呼ばれている。

「違ったのだ」
「違ったって? 梨壺の女かい?」

 昨夜帝が慶子を寝所に呼んだことを知っている龍の中将は首を傾げた。

「あぁ、彼女ではなかった」

 慶子の入内には、帝が中将から八重邸に美しい歌声で子守唄を歌う女がいると聞いて、迎え入れた経緯がある。
 早く確かめたい気持ちが強かったが、違うとなると膨らんだ期待の分、落胆することは目に見えていた。

 慶子をすぐに閨に呼ばなかったのは、怖かったからだ。

 一昨日の夜、梨壺で出会った女が長年の想い人であると確信を得てからの昨夜のことであった。慶子がその女ではないとわかって、帝は失望していた。

「ふぅん、おまえも困ったやつだね。妻なんか誰でも良いだろう? おまえみたいにこだわっていると本当に世継ぎが生まれなくなるぞ。女たちも一向におまえから声がかからないものだから気を揉んでいることだろうよ」
「そうなればおまえの子を養子に貰い受ける」

 無茶なことをはっきりと言い切る帝に、中将は声を上げて笑った。

「それは母が喜ぶな。そうなら俺も早く嫁を迎えるか。そうだ、梨壺に歌の上手い下女がいるらしい」
「下女?」
「そうさ、面白いだろう? おまえが昨夜呼んだ梨壺慶子様の下女さ。下女風情が歌が詠めるなんて面白い。聞けば容姿の美しい女だというじゃないか、いつからか火傷を理由に尼のような格好をしているが、あれを妻に貰っても悪くないかもしれない」
「おまえは物好きだ」
「思い出の幼女に恋をしているようなおまえに言われたくないね」

 中将の言葉に帝は不機嫌そうな顔になった。

「あれから十年以上もの時が過ぎた、彼女ももう成人している」
「ふぅん、まあなんでもいいさ。でも世継ぎは産ませろよ、皇子がいないとなるとジジイどもは荒れるからな」
「皇子がいたって荒れるのだろう。母は私を産んだせいで死んだ」
「なにもおまえのせいじゃないさ」

 先の帝には十二人の妻がいた。瑛仁帝の母、高子(こうし)は父親の身分はそれなりに高かったが、母の身分が低かった。後宮においても位は低く、皇子を産んだ後は中宮から執拗な苛めを受けていたのである。帝自身も長く肩身の狭い思いをしてきた。

 高子は心を病み、別荘のある近江の地にて療養をしている間に病で亡くなった。痩せ細り、次第に美しさを失っていく母が哀れであった。

 帝は病勝ちの母に代わり、中将とともに乳母に育てられた。瑛仁帝の帝位継承権は低く、中将とは兄弟のように育った。
 流行り病で帝位継承権の高い皇子たちが次々に亡くなったので、瑛仁帝にお鉢が回ってきたのである。当然他の皇子たちに取り入っていた大臣たちは面白くなかった。あの手この手で帝を帝位から引きずり降ろそうとするものばかりである。

 日々運ばれてくる死への恐怖と戦い、望まずして手にした帝の地位である。周りに信じられるものといえば乳兄弟の中将のみ。あの手この手で自分にすり寄り、騙そうとしてくる大臣たちに手を焼いた。

 孤独であった。その孤独を紛らわせるように、思い出すのは幼い日に出会った美しい少女のこと。自分を皇子と知らぬ彼女はなんの含みもなく、真っ直ぐな心で自分を癒してくれた。その優しさが帝を支えていた。

「弘徽殿を空けているのは、その思い出の女を迎え入れるためだろう? その女の身分だってわからないじゃないか? どこぞに馬の骨ともわからぬ女では弘徽殿に迎え入れるわけにはいかないぞ」
「身なりの良い格好をしていた」
「身なりだけじゃぁなぁ。地方には金だけは山ほど持っている商人だっているだろう?」
「姫様と呼ばれていた」
「じゃああれだ、当時近江を治めていた国守の姫だな。近江は大国、父親は誰だか知らんが今では正三位くらいにはついているんじゃないだろうか? その姫なら弘徽殿に迎え入れてもさほど問題ないだろう?」

 中将の言葉に帝は表情を暗くした。

「そんな姫はいなかった」

 帝はすでに調べをつけていたのである。近江の国守は流行り病に倒れ、都に戻る前に亡くなっている。その一人娘は血筋を頼ってどこかに身を寄せているはずであるが、それらしい姫はどこにもいないというのである。

「なるほどな。でもおまえ、昨夜は少し興奮した様子で慶子様を待っていたじゃないか、それはどうしてだ?」
「それは――」

 帝は一昨日出会った女の話を始めた。

 月は細く、星の美しい夜であった。帝は眠れずに後宮を散歩していたのだという。梨壺の近くを訪れたときに女の歌う歌が聞こえて来たそうだ。その歌は、幼い日に聞いた少女の歌と同じだったというのだ。

「その歌なら俺も知っている子守歌だ。歌える女も多いだろう?」
「夏の日の桐のことを知っているようだった。あの童女と出会ったのは夏の日、花咲く桐の木の下だ」
「ふぅん、それが梨壺でのことだったからって慶子様だと勘違いしたのか? おまえらしくもない」
「早計だった、自分でも驚くほどに興奮していたのだ」
「梨壺の他の女を探してみてもいいんじゃないか? そうだ、ちょうど俺の気になっている頭巾の女も梨壺だ。今度宴会でも開いたらいいんじゃないのか? 後宮の女たちを集めて桐花姫を探すと良い」
「なるほど……それはよい考えかもしれない」

 中将の言葉に頷いた帝はすぐに中将に指示を出し、宴の準備に取りかからせた。