庭の桜が三度散り、咲子は十七歳になっていた。相変わらずやつれていたが、持ち前の美しさは日に日に増すばかり、加えて八重姫の傍に侍り、学ぶ姿を見てはその類まれなる才能を己自身も気がつかないうちに育てていたのである。

 着飾りでもすればどこの美姫だろうかと噂されるであろう咲子の容姿を、八重姫は憎んでいた。自然と咲子への当たりも厳しくなる。
 咲子は八重姫や北の方からの苛めに耐える日々であった。

 どうしようもなく辛くなると庭に出て東の空を見る。遥か遠く、近江の国に繋がる空を見上げては母の子守唄を歌うのだった。

 桜の木で蝉が鳴き始めた初夏のころ、伯父の八重殿は慌てた様子で八重邸に戻ってきた。

「慶子、帝がおまえを入内させたいとおっしゃられた。すぐにでも支度をせい」
「本当ですかお父様!」

 八重姫は十九歳になり、都でも五本の指に数えられると噂されるほどの美しい姫に成長していた。帝の声がかかるのも自然なことである。寧ろ遅すぎるくらいだと、八重殿も八重姫自身も大層喜んだ。

「早まっておまえを中納言などの嫁にやらなくて本当に良かった。幸いなことに瑛仁(えいじん)帝は帝になられて日も浅く、まだ子がおらぬ。女に酷く真面目な方でなかなか妃を迎えないことで有名だが、おまえの美しさを耳にして手にしたくなったのだろう。これは好機だ、おまえは世継ぎを産み、わしは帝の外戚となる」

 伯父はいつになく上機嫌であった。

「咲、おまえも一緒にいらっしゃいな。私の世話をするのに、おまえほど使い勝手の良い下女はいませんからね。おまえには私が帝に寵愛されるさまを見届けてもらいましょう。帝の後宮はおまえなどとは縁遠い世界、大いに感謝してちょうだい」

 悪い噂を立てぬためにも朝廷から賜った女官に今のような我がままを言うわけにはいかない。その点子飼いの咲子は八重姫にとって都合が良かった。咲子はどんなにぞんざいに扱われても泣きつく相手がいないのである。八重姫は後宮でも咲子をこき使う腹づもりであった。

 八重姫こと慶子(けいし)は後宮、七殿五舎のうち東の昭陽舎、通称梨壺に住まうことになった。

「弘徽殿も承香殿も空いているというのに、どうして私がこのような場所に住まなければならないの」

 入内そうそうから慶子は機嫌が悪かった。自分の住まいが帝の寝所から遠いということもある。行事などで顔を合わせる公達たちが慶子ではなく咲子の容姿に目を止めるのがなにより面白くなかった。
 その上帝の声がなかなかかからないことにも腹を立て、咲子に当たり散らしたのである。

 慶子が入内して初めての宴が開かれることになった。帝のお目通りのない慶子はここぞとばかりに飾り立てたのである。咲子はその準備で駆け回らされた。

 美しく着飾った慶子の傍に咲子も小綺麗にして侍っていた。
 慶子は自慢の歌を披露し、上機嫌であった。

「梨壺様は歌もお上手なのですね」

 女官たちから誉められ、満足げな笑みを浮かべた慶子は、傍にひっそりと侍っていた咲子に視線を向けた。咲子に恥をかかせることを思い付いたのである。

「ほら、おまえも歌を詠んでごらんなさいよ」
「いいえ、私は歌など──」
「あら、謙遜なんかしないでちょうだい、私の付き人なら歌くらい詠めないと恥ずかしいわ」

 慶子がそう促してくるものだから、咲子は仕方なく一句歌う。咲子の凛とした声が響く、初夏を歌った歌は慶子が詠んだものよりもずっと優れていた。

 それを聞いた女官たちは咲子を褒め、その主である慶子のことも褒めた。

「梨壺様のもとにはこんなにも歌の上手な女官がおられたとは、容姿も大変お美しいですし、今まで隠しておられたのは奥ゆかしさの現れですね。素晴らしいですわ」
「え、えぇ――歌は私が教えました」
「まぁ、さすが梨壺様ですね」

 歌など一つも教えていないというのに、慶子はどうにか咲子の歌を自分の手柄にすると、作り笑いを浮かべた。その日の宴で、梨壺に歌の上手な美貌の女官がいるらしいと、咲子は一躍時の人になったのである。大勢の人の前で咲子に恥をかかせてやる腹づもりであった慶子としては一つも面白くなかった。

 慶子はこの噂に焦りを感じた。この噂が帝の耳に入り、自分よりも早くお手つき(・・・・)になったりでもしたら、たまらない。

「帝が私に声をかけないのはどういうことかしら! きっとおまえのせいよ、おまえみたいな見窄らしい下女をつれているせいだわ。後宮ではこの布を被いて過ごしなさい、その見苦しい顔も少しはすっきりするでしょう!」

 慶子は咲子の顔に尼のような布を被せてしまった。不思議そうな顔で咲子を見る周りの者たちには「この子は鈍くさいから火鉢で火傷をしてしまったの」と説明をした。
 すっかり顔が隠れてしまったことで、咲子の容姿を褒めそやしていた公達たちは咲子のことなど目にも止めなくなった。あんなにしっかりと顔を隠さなけでないけないほどの火傷ならば、見られた顔ではないだろうと皆憶測した。
 一緒に働く女官たちは咲子の奇妙な白い布を見ては陰で笑うのである。慶子は気味が良かった。
 帝から声がかからぬ憂さを、今まで以上に咲子を苛め抜くことで晴らしていたのである。

 咲子にとっては当然苦痛の日々であった。八重邸では慶子と北の方を除けば使用人たちは咲子に無害であった。だが後宮では他の女官たちも咲子に害をなしてくるのである。慶子に苛められている咲子は格好の苛めの的であった。
 慶子からの指示を邪魔されることや、わざと衣服を汚されることなど日曜茶飯事のこと、そうなると今度は慶子に嫌がらせをされた。後宮は針の筵であった。
 だが、咲子は悲嘆にくれることなく、ただひたすら仕事をこなす日々であった。

 ある夜のことである、咲子は梨壺の庭に出て小さな月を見上げた。

「あの月は、きっと幼い日に見た月と一緒――」

 そう思うとずっとこらえていた涙が零れ落ちた。涙ながらに歌を口ずさむ。母の歌ってくれた歌だ。

 二度、三度、心が落ち着くように何度も繰り返し歌っていると草を踏む音が聞こえた。細い月夜は薄暗く、人の気配はあっても姿は見えない。咲子は涙をぐっとのみ込んで暗闇を睨んだ。

「夏の日の――」

 と声が響いた。男の声である、後宮にいるなど、帝と血縁関係のある殿上人だろうか――もしも危険を顧みず慶子のもとに通おうとするものであれば追い返さなければならない。
 咲子は声を殺して問いかけた。

「どなた様でしょうか」

 答える声はない。答えるはずはないと咲子は小さくため息を吐いた。だが、男は答える代わりに歌を詠んだ。

「夏の日の桐の下陰風過ぎて水面に響く幼子の歌」

 咲子の脳裏に近江の夏の日が蘇る。美しく晴れ渡る空、花の咲き誇る桐の木影、眼下に広がる湖――
 夏の日、花の咲く桐の下で子守唄を歌ったこと。そんなことを知っている人は、一人しかいない。

「あなたは――!」

 駆け寄ろうとした時には、もうそこには誰の気配もなかった。霧のように消えてしまったのである。夢であったのかもしれない――咲子は夢を見たのだと思った。辛い日々にあって、生きる希望は幼い日の記憶だけであった。咲子にとって最も輝かしい記憶――それは、近江での日々だ。そこで出会った童男へ抱いた淡い憧れは、咲子の心の中で小さな星のように光を放ち、苦境にある咲子を支えていた。

 あくる夜、慶子は飛び上がるほど喜んでいた。ついに帝から声がかかったのである。

「さぁ、しっかり香を焚きしめなさい! 髪もしっかりととかすのよ!」

 咲子は慶子の支度で目が回るほどに忙しかった。鼻が曲がりそうなほど麝香(じゃこう)の香りが焚きしめられた衣をまとって、慶子は意気揚々と梨壺を出て行ったのである。

 これで帝の寵愛を得ることができれば、慶子の機嫌も良くなるだろう。咲子はそう胸を撫でおろすと同時に、昨夜庭で聞いた声の主のことを考えると心が落ち着かなかった。
 夢だと、そう思えば思うほど、その声を鮮明に思い出すことが出来た。記憶にあるものではない、初めて聞く声であった。

 翌朝、夜が明ける前に梨壺に戻ってきた慶子の機嫌は今までにないくらい悪かった。どうやら昨夜は何もなかった(・・・・・・)ようなのだ。

「噂通りお美しい人でしたとも! ですが殿方としてはどうでしょうね。寝間着姿の私を前に、「少し話を聞きたい」といって少し身の上話をしたら「もう良い」と言って帰してしまわれたのよ!」

 慶子は檜扇を投げ、香炉を蹴とばし、仕舞には咲子をひどく叩いた。

「慶子様、あまりに暴れてはお体に障ります。怪我でもなされたら――」
「えぇいやかましい! 本当におまえは可愛げがない! それで私の心配をしているつもりか! 腹の中では私をあざ笑っているのでしょう! えぇい本当に忌々しい! 可愛げのない顔だわ!」
「おやめください!」

 慶子は投げた扇を手に取ると激しく咲子を叩いた。おかげで咲子の手や顔にはあざが出来た。

「これで少しは見られる顔になったでしょう! あぁ、本当に腹が立つ。咲、水が飲みたい、早く汲んできなさい!」

 水を汲みに部屋を出た咲子は瓶の中に写る自分の顔を見てため息を吐いた。美しかった母に似てはいるが、随分と見窄らしい姿である。今の自分を見たら、母は嘆くかもしれないと思うと悲しかった。

 手拭いを濡らして、顔を冷やす。母からもらった容姿である。母のように美しくありたかった。
 咲子は胸に手を当てる。

「ここにいる。お母様も、お父様も、そして、あの日出会ったあの人も――」
 
 水を汲み終えた咲子は大きく深呼吸をして瞳に強い光を宿すと梨壺へと戻ったのである。