近江での生活が終わりを迎えたのは、国守であった父が流行り病にかかり、あっさりと亡くなってしまったからである。近江での仕事ぶりが買われ、春に都に戻れば正五位の職を得ていた。寒い冬のことだった。
 このとき咲子は七歳であった。後ろ盾を失った咲子は一人、母方の伯父のもとに身を寄せることになったのである。

 近江を離れ、咲子が住むことになったのは都の南に位置する屋敷だった。春になれば見事な八重桜の咲くその屋敷は人々から八重邸と呼ばれ、屋敷の主である咲子の伯父は八重殿、そこに住む娘、つまりは咲子の従姉となる姫は、慶子(けいこ)といったが、皆からは八重姫と呼ばれていた。

「大荷物だな」

 八重殿は咲子の荷物を見て眉をひそめた。母の形見の装飾品や父がそろえてくれた着物を見て、伯父は眉をひそめ、北の方は「おまえには必要ないものばかりです」といって咲子からすべてを取り上げてしまった。

「おまえを食わせるのには金がかかるのだから、少しでも足しにさせてもらいますよ」

 代わりに咲子に与えられたものは下女が着る粗末な着物だった。咲子の着物や装飾品は、そのまま八重姫に与えられた。

「おまえは八重姫の身の回りの世話をしろ、年が近い方が八重姫も使いやすいだろう」

 父が存命ならば、伯父の役職よりも上の職についていたはずである。八重姫の気性の荒らさを知っていた使用人たちは、姪であるはずの咲子の扱いを憐れむばかりだった。

「咲、早く菓子の用意をなさい! 本当におまえは鈍くさいのだから。今日は天気がいいから庭園に運びなさいね」

 咲子に散らかった部屋の片づけを言づけた直後のことである。咲子は手を止めて八重の菓子を用意しに行くと、今度は花を摘んで来いと言い、花を摘んでくれば違う菓子が食べたいと言って騒ぎ立て、部屋に戻ると部屋の片づけが終わっていないと、罰として咲子の食事を抜く始末であった。

 北の方は咲子の母の異母姉であったが、都一の美女と謳われた妹に大きな劣等感を抱いていた。ことあるごとに妹を目の敵にしていたのだ、病に倒れたと聞いたときはほくそ笑んだ。その忘れ形見である咲子を可愛く思うはずなどない。咲子は母譲りの美貌の持ち主であったので殊更である。

 八重姫も、初めから咲子のことが気に入らなかった。咲子の父は都での評判も明るく、母は都一の美女と謳われた叔母である。咲子に至っては幼いながらに母似の美しい容姿と父譲りの聡明さを褒めたたえられるような姫であった。

 気位の高い八重姫にしてみれば少しも面白くない。従姉妹というだけで色々と比べられるのだ、いつも自分の方が下なのである、面白いわけがなかった。

 その咲子が天からの賜りもののように自分たちの手に落ちて来た。これ幸いと苛め抜いたのである。

 夏になれば炎天下の中一日中虫を追いかけさせ、冬になれば雪を集めて来いと外に放り出し、咲子が泥だらけで戻ってくると不潔だと言って頭から水を浴びせるのである。
 風邪を引けば怠惰だと馬屋に押し込めた。八重邸の皆は北の方と八重姫を怖がり、誰も咲子に手を差し伸べようとはしない。
 咲子はやつれ、かつての美しさもすっかり鳴りを潜めていたが、意志の強い瞳だけは苦境にあっても光を失わず、それがまた北の方にも八重姫にも面白くなかった。

「少し媚びるような素振りでも見せれば可愛いものを、あの生意気な目は何でしょうね! 可愛げのないところは母親にそっくりなこと!」

 北の方は咲子を罵り、八重姫はことあるごとに咲子に当たり散らした。そんな日々が六年余り続いた。

 そんなある日のことである。八重姫十五、咲子十三の時であった。八重姫は得意な歌の勉強に咲子を連れていた。いかに自分の歌が優れているのかを咲子に知らしめるためである。
 七つからろくに学ぶ機会のなかった咲子には歌など詠めるはずもないと高を括っていたのである。実際の咲子は幼いころに歌の名手であった父に学んでいだが、知識や歌をひけらかすことはしなかった。

「おまえには歌など詠めないでしょう? 殿方からの文が来ても、歌の詠めないおまえでは返事のしようがないでしょうね、だから少し教えてあげましょう。もっとも、おまえに文を贈る殿方なんていないでしょうけれど――」

 八重姫は庭に咲く美しい桜の花を歌に詠んだ。指導にあたる歌人も八重姫を褒めそやした。
 咲子も「素晴らしい」と褒めたたえるほかない。すると八重姫はにっこりと得意げな笑みを浮かべるのだ。

「教養のないおまえに歌の良し悪しがわかるのかしら」
「私に歌の良し悪しは分かりませんが、姫様の歌の素晴らしさは分かります」

 この頃になると、咲子も自身の聡明さを隠すようになり、八重姫の機嫌を取ることにも慣れてきていた。

「ふん、馬鹿は馬鹿なりに少しは賢いことが言えるようになったのね」

 八重姫はそう言って鼻で笑った。

 それから一年が経ち、八重姫にも文が届くようになった。伯父は朝廷内で順調に周囲を蹴落とし地盤を固め、今にも中納言かなどと噂されるようになっている。八重姫の母は咲子の母ほどではないが、美しい女である。自然と八重姫への関心も高まっているようだった。

「咲、毎日毎日文が届いて返すのが面倒だわ、この文にはおまえが返事を書いておいて」

 ある日、八重姫はそう言って咲子に文を放ってよこした。家柄の悪い男からの文である。聞こえの良い殿方には香を焚き閉めた上等な紙に、渾身の返事したためる八重姫であったが、つまらない男にはろくな文を返していなかった。

「私などが書いてもよろしいのでしょうか?」
「どうせ風情のわからぬ田舎者よ、田舎臭いおまえが書いた文の方がお似合いなのよ」

 咲子は八重姫がよこした粗末な紙に歌を書く。ろくに文字の練習もさせていないのだ、大したものが書けるはずはないと八重姫は高を括っていた。だが、咲子の文を受け取った男は八重姫に熱を上げた。八重姫は文字も歌も素晴らしい、粗末な紙すら逆に趣を感じると評判になったものだから八重姫は眉を吊り上げた。

「咲、おまえは本当に使えない、あんな男の歓心を買ってしまうなんて。やっぱり田舎者には田舎者がお似合いなのよ。咲、あんな男はおまえにくれてやるわ」

 「今夜は私の部屋を使いなさい」という八重姫の命令で、咲子は八重姫の部屋で休むことになった。八重姫は北の方の部屋で眠るようである。いつも粗末な茣蓙などの上で眠っている咲子は、幾年ぶりかに眠る柔らかな布団になれずになかなか寝付けなかった。
 深夜、月が空を渡っていくのをぼんやりと眺めて時間を過ごしていると、人影が忍び込んできた。

 「きゃぁ」と小さな悲鳴を上げようとすると、大きな手で口を塞がれる。

「八重姫、先日は素晴らしい歌をありがとうございました。お慕いしております」

 文の男が夜這いに来たのだと気がつき、咲子は必死に抵抗した。

「人違いです、私は八重姫ではござません、お許しください」

 手足を押さえつけてくる男から必死に逃げだすと、咲子は馬屋に逃げ込んで夜を明かした。もう少しで危ないところだったと思うと思い出したように体が震える。咲子は両の腕で己を抱き締めた。男に捕まれたところから恐れが染み込んでくるようであった。初めて知った恐怖だった。

 男の気配が消えてから、咲子は庭に出て空を見上げた。月がぼんやりと輝いている。
 気がつけば歌を口ずさんでいた。幼い日に母が歌ってくれた歌――

「もうすぐ夏が来るわ、桐の花は咲いているかしら――」

 咲子は遠く離れた近江の地を思った。同時にあの日泣いていた童男のことも思い出す。そのときに覚えた胸の高鳴りも。
 どうか、あの子の涙が止まっていますように――

 あれから何年も経ったのだ、かの美しい童男はすっかり元服して立派な大人になっているのだろう。咲子はあの日の美しい空を思った。