アイドル・木田慎哉

 ゆかりの目は、いつも光り輝いている。キラキラと何色ものレーザービームが大きな黒目の中を飛び交っている。
 とろんとした目で見つめていたかと思うと、急に険しい表情に変わった。鋭いまなざしを僕に向ける。
「どうして、俊は、慎哉じゃないんだろうね。旦那として点数をつけるなら百点満点なのに、慎哉じゃないっていうだけでゼロ点になっちゃう」
 僕は、テレビの中でスパンコールのついた派手な衣装を着て、歌って踊るアイドル・木田慎哉を見た。長い手足を縦横無尽に操りながら、ダンスを踊っている。画面いっぱいに映し出される笑顔。何十万人、何百万人の視線と愛情を一身に受けて輝く。サイボーグのように整った完璧な顔。
 
 確かに僕は、木田慎哉じゃない。
 今朝、洗面所で見た自分の顔を思い出す。大きな鼻と目と口。目の下には青黒いクマが沈んでいた。細かい皺が増え、年々深くなっていくほうれい線に、三十三歳という年齢を実感したばかりだ。
「僕はイケメンじゃないし、歌ったり、踊ったりもできないからなぁ」
 ゆかりはもう僕の答えなんて聞いていなかった。木田慎哉の新曲を口ずさみながら、うっとりした顔で画面を見つめていた。


 月曜日の朝の電車は、重苦しい空気で酸素が薄い。みんなしかめっ面でスマホの画面や新聞を睨んでいる。
 中吊り広告に木田慎哉の顔のアップがでかでかと載っていた。ファッション誌の表紙だった。いくらか加工しているとはいえ、透き通るような白い肌にくっきりとした二重まぶた。薄い唇から零れる白い歯が、爽やかさを強調していた。
 ゆかりはよく、慎哉は全ての空気を変えてくれる人だと言っていた。そこにいるだけで、この世の辛いこと、苦しいこと全てをかき消してくれる。そして、幸せだけをその場に解き放ってくれる。
 確かに、どんよりと沈んだ満員電車の中で、ひと際輝く広告からは、春の柔らかな風のような爽やかさを感じた。きっとゆかりは、この雑誌を買って帰ってくるだろう。
 
 銀行に就職してあっという間に十年が経った。大した夢もなく、安定していて給料の高い職場を求めた結果の選択だった。
 新入社員から二つほど階級が上がり、今年から副長という肩書がついた。順調に出世はしているが、大体の未来は見えている。
 あと二、三年したら地方の支店長になり、戻ってきたら関連会社に出向して定年を迎える。決められたコースを外れることなく、ただ真っすぐ進んできた。大きな成果も過ちも起こさず、粛々と与えられた仕事をこなしてきた。
 ほとんどの同期は、もっと新しいことがしたい、自分の力を試したいと言って辞めていった。その行動力を純粋に凄いなと感心した。その反面、自分は分かりきった未来への道を進む方が性に合っているとも思った。
 自分の手で自分の人生を切り拓くことのない僕は、一生ゆかりが憧れる、木田慎哉になることはできない。

 終業直前に、大きいプロジェクトが一段落ついたから飲みに行こうと同期の寺川に誘われた。入行した時から仲の良い同期はもう寺川しか残っていなかった。
 寺川は、たまたま僕と一緒に書類の確認をしていた坂口さんにも声をかけた。数年前に同じ支店で働いていたと言っていたことを思い出す。
「私が行ったらお邪魔じゃないですか? せっかくの同期会なのに」
「二人しかいないんだから同期会なんてもんじゃないよ。むさくるしいおっさん二人で飲むより、坂口さんがいてくれた方が華やぐしね」
 坂口さんが切れ長の目で寺川を睨む。
「そういう発言はセクハラです」
「ごめんごめん。冗談だって」
「冗談で済む話じゃないです。副長、今夜は寺川さんの奢りでいいですよね?」
 そうだねと答えると、寺川はぶつぶつと文句を言い始めた。軽口を叩き合う寺川と坂口さんを横目に、ゆかりに飲み会になったとLINEをする。アイコンの木田慎哉の写真がまた変わっていた。
 
 いつもの焼き鳥屋は、月曜の夜でも混んでいた。
「ずっと副長と飲みたかったんですよ」
 乾杯のビールを一気に飲み干し、坂口さんが笑いながら言う。
「どうして?」
「坂口さんは、沢渡のファンだから」
 坂口さんが寺川の肩を思いっきり叩く。
「寺川さんからよく副長の話を聞いていて、せっかく同じ部署になったんで、一回ぐらいは飲みに行きたいなって思ってたんです」
「それがファンって言うんじゃないのかよ」
 坂口さんが違いますと言いながら、届いたばかりの二杯目のビールに口をつける。 
「ファンなんて言われると、アイドルになった気分だよ」
 枝豆を頬張りながら言う。ファンと聞いて真っ先に頭に浮かんだのはゆかりだった。
「そういえば、沢渡の奥さん、アイドルのファンだったよな。誰だっけ?」
「木田慎哉」
「奥さん、木田慎哉のファンなんですか? 今、映画にも出てますよね? なんでしたっけ、原作が漫画の」
「今やってるのは『パラダイス・ロマンス』かな? この前、一緒に観に行ってきたから」
「相変わらず仲良いよな。俺だったら絶対無理。大体、自分の奥さんが他の男にきゃーきゃー言ってるのなんて見たくないだろ」
「そうかな。別に気にならないよ」
「嫉妬するとかないんですか?」
「僕が? 慎哉に?」
 坂口さんがねぎまを頬張りながら頷く。
 嫉妬なんてしたことがない。だって、相手は木田慎哉だ。初めから同じ土俵にすら立っていない。
「慎哉は、僕の奥さんにとって、神様みたいなもんだから嫉妬したことなんてないよ。昨日も、なんで僕が慎哉じゃないんだってがっかりしていたよ。旦那としては百点なのに、慎哉じゃないって言うだけで、ゼロ点になるんだってさ」
 二人の箸が止まる。目を丸くして僕の顔を見ている。
「副長、そんなこと言われて何て答えるんですか」
 坂口さんの口調に棘のような鋭さが混じっていて、少し戸惑う。
「え? 僕、イケメンじゃないし、歌ったり、踊ったりもできないからなって答えたけど」
 寺川が笑う。
「沢渡らしい答えだな」
 坂口さんは憮然とした表情でビールのジョッキを掴んで飲み干した。
「奥さん、頭おかしいんじゃないですか。こんないい旦那さんがいるのに、木田慎哉の方がいいだなんて。ただのアイドルじゃないですか。別にそこまでイケメンじゃないし」
 ここにゆかりがいなくて良かったと心底思った。もしいたら、発狂して坂口さんに何をするか分からない。僕では手に負えなくなってしまう。
「でも、彼は本当にイケメンだよ。歌もダンスも上手いし、ライブの時は、ギターも弾くんだ。随分練習したみたいで、かなりの腕前だよ」 
「アイドルがギターを弾いたって、しょせん本物のギタリストには勝てませんって」
 坂口さんが吐き捨てるように言う。寺川がまぁまぁとなだめるように口を挟む。
「沢渡も奥さんの影響ですっかりアイドルオタクだな」
「オタクってほどじゃないよ。ゆかりとゆかりの友達を見たら、熱量が違いすぎて、恐れ多いよ」
「ほんっと副長ってばっかみたい」
 坂口さんが僕を睨む。きりっとした黒いアイラインのせいで余計に怖さが増していた。
 
「副長、奥さんが木田慎哉と不倫するなら、私と不倫しましょうよ」
「え?」
 坂口さんの言葉の意味が分からず訊き返す。改札に向かう構内は混雑していた。坂口さんの声が大きくなる。酔っぱらっていて呂律が回っていない。
「だって、木田慎哉との不倫なら、副長は許すんですよね。だったら、私と不倫したって、奥さんは責めることできないじゃないですか」
 言い終わると、真っ赤に充血した目のまま、怒った顔で僕の胸をハンドバッグで何度も叩いた。すれ違う人が、僕たちを怪訝そうに眺めていく。
「坂口さん、ちょっと落ち着いて」
 坂口さんのハンドバッグを持つ手が震えていた。
「私は木田慎哉じゃなくても、副長は百点だと思ってますから」 
 そう言って踵を返すと、改札の中に走っていった。
 何が起きたのか分からないまま、気付いたら電車の中だった。朝と同じ広告が、空調の風に揺れていた。完璧な笑顔の木田慎哉。やっぱり、イケメンだなと思った。

 リビングのドアを開けると、ゆかりはソファに寝転がって、雑誌を読んでいた。広告で見たファッション誌だった。電車の中と同じ笑顔の木田慎哉が、ゆかりの手にしっかりと握られていた。
「電車の中で広告を見たよ」
 声をかけると、ゆかりが眩しい笑顔で雑誌を広げて見せる。
「ねぇ、この慎哉ほんとやばくない? 白シャツとデニムだけでこんなにかっこいいなんて、この世に慎哉しかいないよね」
 白い肌に白いシャツを羽織り、真っすぐなまなざしで慎哉が僕を見つめていた。

 もしも、本当に、ゆかりが慎哉と不倫をしたら。
 慎哉の白い胸に顔をうずめるゆかりを想像する。
 僕がゆかりと出会ってから十年間で、一番幸せな顔をしていた。
 でも、だからといって僕は坂口さんと不倫をするのだろうか。
「こっちのページのスーツもいいの。黒でシンプルなんだけど、エロいっていうか」
 ゆかりがページをめくって、また見せてくる。やっぱり、目には星が瞬いていた。
 僕は、この目をしている時のゆかりが嫌いじゃない。むしろ、好きだ。僕の好きなこのキラキラとした目を一瞬でゆかりに宿すことのできる慎哉に、僕は敵わない。そもそも同じ土俵で戦うことすら叶わないだろう。
 いつか、ゆかりの隣を慎哉が歩いてくれることを願う僕は、頭がおかしいのだろうか。
 だって、好きな人が幸せでいてくれることが僕の幸せだから仕方がない。その幸せが自分の不幸に直結していると分かっていても、僕は全てを受け入れようと思っている。

 
 ゆかりは、セックスの時にずっと目を瞑っている。
 慎哉と出会ってからずっとそうだ。瞼の裏には間違いなく慎哉が浮かんでいるのだろう。他の男を想っているゆかりに欲情している僕は、とんでもない変態だ。そして、僕に抱かれることを受け入れてくれるのであれば、誰を想っていようが関係ないと思っていた。
 それは決して優しさではない。僕は自分の好きな人に触れたいから触れているだけなのだ。
 本当に好きな男に触れたくて仕方がないのに触れられなくて苦しんでいるゆかりの目の前で、僕はいともたやすく好きな人に触れる。そんな残酷な仕打ちに耐えてくれているのであれば、一生、目を瞑っていてくれて構わないと思った。
 僕の指先が、唇が、彼女の中で木田慎哉のものになってくれていることを願った。
 少しでも彼女の苦しみが和らぐのであればそれだけでよかった。
 でも、それは僕のただのエゴだ。そんなことは嫌というほど分かっているのに、それでも僕は理解のある優しい夫を演じていた。

「私の人生行き当たりばったりなの」
 合コンで出会った時、ゆかりはそう言って笑った。就職活動に失敗して、大学の先生の紹介で入ったイベント会社で働いていたこと。転職した今の会社も、昔のバイト先の人に声をかけられて入社したことを淡々と話し、梅酒のソーダ割を一気飲みした。白い喉元がごくりと大きな音を立てた。
「流されてばっかりなの。自分で道を選んで決めているように見せかけて本当は何も考えていない。自分を納得させるために誤魔化して、騙してる。いつか破綻するだろうね。こんなの」
 大きな目は、遠くを見つめていた。ぎゅっと結んだ唇はかさついていた。ショートヘアの活発で明るい子という最初の印象が薄れていく。ごめんごめん、ちょっと疲れてるからとすぐに笑顔を浮かべたゆかり。
 僕はあの日のゆかりを十年経った今でもありありと思い出すことができる。
 初めて会った人に自分の表も裏も見せる。それでどういう反応をするかで判断しようとする真っすぐさが清々しかった。
 

 あれから何回彼女の喜怒哀楽を見てきただろうか。
 普段のゆかりの様子をおかしいと感じるようになったのはいつからだろう。いつものように慎哉を見つめる目に、翳りが混ざり始めた。星が瞬いていた黒目が、鈍い光を宿すようになった。それがいつのことだったか、僕は今でも思い出せない。
 ある日、帰宅すると、イヤホンを耳に刺したまま涙を流すゆかりがいた。
「どうしたの」
 慌てて訊くと、ゆかりは寂しそうに笑いながらイヤホンを外し、消え入りそうな声で言った。
「慎哉が、何かを捨てないと何かを手に入れることができないって」
 何かに当てはまる部分が僕と木田慎哉であることは明らかだった。
 好きな人が幸せでいてくれるためなら、僕は不幸になっても構わない――。
 僕は理解のある優しい夫を完璧に演じきることができなかった。
 絶対に手放したくない。
 一瞬で全身の血管が沸騰したように熱くなる。
 ソファに座るゆかりを抱き締めた。身をよじり、嫌がって逃げようとするゆかりを組み伏せる。いつもより強く目を瞑ったゆかりの眉間に皺が寄っていた。
「ゆかり、目を開けて」
 ゆかりは細い首を振った。横を向く顎を掴んで唇を吸う。真一文字に閉じられた唇は固かった。僕の執着心がゆかりの身体にべっとりとまとわりつくのが見えた。虚しさも罪悪感も全て欲望の熱に変えた。 
 二人の身体がガラスの破片のように粉々になってソファの周りに散らばっていくような気がした。もう二度と元の形に戻ることはない。ゆかりの目は強く閉じられたまま、うっすらと涙が滲んでいた。
 ゆかりが浴びるシャワーの音が聞こえてきた。裸のまま、ぼんやりとソファに寝転び、真っ白い天井を見つめる。
 ゆかりのことを心の底から好きだと思った。固く閉じられた瞼も唇も、眉間の皺でさえも愛おしかった。手を伸ばせば簡単に好きな人に触れられる現実は、何物にも代えがたい幸せだった。
 触れることも、想いを告げることもできず、小さな身体を震わせて泣くゆかりの姿を思い出すと、喉の奥がつかえたように息苦しくなった。
 僕は僕の欲望のために、ゆかりを地獄に突き落とした。
 僕がこれからゆかりと同じ苦しみを味わうのは、至極当然な罰だと思えた。


 ゆかりが家を出て行ったのは、あの夜から一週間が経った朝だった。
 さようなら。ありがとう。
 それだけ書かれたメモと一緒に離婚届が置いてあった。最後の言葉がさようならじゃないのは、ゆかりの優しさだろうか。
 水切りカゴから、コーヒーカップを取り出す。ゆかりのコーヒーカップが洗って置かれたままだった。まだうっすらと水滴がついている。
 ゆかりが作った最後のコーヒーをカップに注ぐ。いつもと同じ味だった。濃さも香りもちょうど良い。苦すぎず、香りも強すぎない。いつかゆかりが、僕に似たコーヒーだと言っていたのを思い出す。
 こういう時には、出会った頃のことや、楽しかった頃を思い出すと漠然と想像していたのに、何も浮かんでこなかった。
 コーヒーの香りと、寝起きの顔で笑うゆかり。
 日常の何気ないワンシーンが、蜃気楼のように揺らめいて霞んでいく。
 窓の外には真っ青な空が広がっていた。秋晴れ。新しい一日が始まっている。
 好きな人が家を出て行っても、たとえ僕が死んでも世界は回る。そんな当たり前のことがとても残酷で、とてもありがたかった。
 きっとどこかで、僕と同じように世界の回転を嘆いている人がいるはずだという確信を持てるから。
 

 一ヶ月経ってもテーブルの上に置かれた離婚届と水切りカゴに伏せられたゆかりのコーヒーカップはそのままだった。
 離婚した際の手続きはどうすればいいんですかと人事に聞いてしまったせいで、銀行内にあっという間に僕が離婚したという話が広まってしまった。まだ離婚届に自分の名前すら書けていないのに。アイドルに狂った奥さんに捨てられたとか、若い女と不倫をしていたとか、自分でもどれが本当でどれが嘘なのか分からない噂が流れた。
 寺川よりも先に飲みに行こうと誘ってくれたのは坂口さんだった。変な噂を立てられたくないと行く直前までごねる僕を、半ば強引に連れ出した。
 飲み始めてからの出来事は断片的にしか覚えていない。
 焼き鳥の香ばしい匂い、畳の上で土下座をする坂口さん。ラブホテルの部屋の安っぽいフローラルの香りと煙草の臭い。いくつものモノクロのマリリン・モンローがプリントされた壁紙。
 唯一、鮮明な記憶として残っているのは、坂口さんの目だった。
 僕を見る坂口さんの目が、慎哉を見るゆかりの目と同じだった。潤み、レーザービームが飛んでいるように光輝いている。愛しさと苦しさが混ざった感情の目。
 坂口さんは僕と同じだった。好きな人に想いを伝えることができて、触れることができる。でも、手に入れることはできない。神様にどんなに祈ろうとも、自分のものにすることはできない。
 与えられることも、与えることもできない。
 僕は、坂口さんにもゆかりにも何ひとつしてあげられることがなかった。 

 朝日を全身に浴びると、今までの全ての出来事が嘘のように思えた。ゆかりと結婚していたこと、ゆかりが出て行ったこと、坂口さんとホテルに行ったこと、何もできなかったこと。
 夢か妄想でしかないように思えるのに、生々しい感触だけが残っていた。 
 最後に触れたゆかりの肌の柔らかさ、出て行った朝に飲んだコーヒーの味、坂口さんの切羽詰まった声、抱き締められた時に聞こえた心臓の音。自分の不甲斐なさを踏みにじるように駅までの道を進む。
 歩道の脇にタクシーが停まり、黒ずくめの長身の男が降りてくる。長い脚と小さな顔。マスクをしていたが目元を見ただけで、誰なのかが一瞬で分かった。
 木田慎哉だった。
 突然目の前に現れた慎哉は、僕をちらっと見た後、すたすたと歩き始めた。
 怪しまれないように距離を取りながら慎哉の後ろをついていく。よくよく見ると、ゆかりが飽きるほど見ていた動画サイトに出ていた時の私服と同じだった。黒のロングコートに、慎哉が身に付けていて人気になったハイブランドの黒のベレー帽に、オーダーメイドで作ったと雑誌で紹介していた黒のブーツ。
さっきまでゴミが散らばっていた明け方の埃っぽい歩道が、ドラマのロケ地に様変わりしていた。
 慎哉は朝日を浴びていなかった。慎哉の全身から朝日を軽く超えてしまうほどのまばゆい光が放たれていた。
 声を掛けるべきか。なんて言えばいい。
 妻が大ファンなんです。僕も一緒に見ていてファンになって、新曲の「Real」は、本当に好きな曲で、毎日聴いています。この前の映画も良かったです。刑事役のアクションが素晴らしくて、興奮しました。
 あと、あと、あと。
 全くあなたには関係のない話なんですが、あなたのせいで妻が出て行きました。
 そんなこと言えるわけがない。言うつもりもない。言ったところでゆかりは戻ってこない。
 そもそもゆかりが出て行った確かな理由なんて分からない。慎哉のせいかもしれないし、僕のせいかもしれないし、ゆかり自身のせいかもしれない。誰にも分からない。ゆかりだって分かっていないはずだ。
 そうだ、ゆかりに連絡しなければ。
 スマートフォンを鞄から取り出して、恐る恐るカメラのアプリを立ち上げる。慎哉は下を向き、手元のスマートフォンを覗いていた。五メートルほど離れた場所で、カメラを向ける。液晶画面の真ん中に慎哉の後ろ姿を収める。
 シャッターボタンを押す。シャッター音が響き、どきりとしたが、慎哉の耳に白いイヤフォンが見えて胸をなで下ろす。三枚目の写真を撮った時に、慎哉がくるりと右に向きを変え、マンションのエントランスへ入っていった。
 マンションを見上げる。十階建てぐらいだろうか。真新しい剥き出しのコンクリートの壁が重厚な鎧に見えた。
 ここが誰の家なのか分からないが、ゆかりがいてくれることを願った。
 天地がひっくり返るほどの奇跡が起きて、この家に慎哉と二人で暮らしていてくれればいいなと思った。
 撮ったばかりの慎哉の後ろ姿の画像を見返す。ズームをしたせいで、ざらざらの画像だった。
 粗い画像でも、後ろ姿でも、木田慎哉はやっぱりかっこよかった。
 いつも正面ばかり見ていたから、後ろ姿は新鮮だった。細いのに、肩はがっしりしていて、長めの丈のコートがよく似合っていた。
 ふと気づくと、液晶画面に水滴が落ちていた。ぽつり、ぽつりと増える水滴の中に、慎哉の後ろ姿が滲んでいた。耐え切れずに、その場にしゃがみ込む。スーツの袖口で目元を拭う。
 坂口さんの香水の匂いと、吸ってもいない煙草の臭いがした。
「あんた、ちゃんとした恋愛してるの」
 ぼんやりとテレビを見ながら夕飯を食べていると、向かい側に座っていた母が言った。『ちゃんとした』と『恋愛』の言葉の意味が繋がらずに訊き返す。
「ちゃんとした恋愛って?」
「もう二十九歳なんだから、そろそろ結婚に繋がるようなちゃんとした恋愛してるのかって訊いてるのよ。仕事ばっかりで男の影も無さそうだし」
 母は一気にまくし立てて、雑誌を開く。トイプードルを抱きながら笑う木田慎哉が目に飛び込んできた。
「あ、木田慎哉」
「最近よくテレビに出てる子よね。可愛いし、こんな子と結婚してくれたら、お母さんのこれまでの苦労も全部報われるわ」
 どうして私が木田慎哉と結婚したら、苦労が報われるのか意味が分からなかったが、黙って母の捲るページを見つめていた。人懐っこい笑顔がいくつも並んでいる。副長の顔が浮かぶ。比べるまでもなく、副長の方がかっこいいと思った。
 私が欲しいものは、誰かのいらないもので、私がいらないものは、誰かの欲しいものなのだろう。恋愛の需要と供給が合う可能性は限りなく低い。 
 母の言う『ちゃんとした恋愛』は、その需要と供給がぴたりと合って、結婚に至るものなのだろうか。そうであるなら、私は、世界で一番『ちゃんとした恋愛』から遠い。ページを見つめる私の視線に気づいたのか、母が大きなため息をつく。
「なに、あんた、木田慎哉が好きなの? その歳でアイドルにハマるなんてみっともないからやめなさいよ。現実を見なさい。現実を」
 ちゃんとした、みっともない、現実という言葉は、昔から母が好んで使う言葉だった。
 今の私は、その三つの言葉が一つも当てはまらない。  


 アイドルに夢中になって妻が出て行ったという噂は、銀行内にあっという間に広がった。気が狂っているとか、頭がおかしいという奥さんの批判がほとんどだったが、私は、一ケ月経った今でも離婚届を出していない副長に狂気を感じた。夫としての意地なのか、男としての執着なのか。
 銀行の近くの蕎麦屋に入ると、副長が一人でざるそばを食べていた。二、三本取った蕎麦をつゆにつけて、のろのろと口に運んでいた。以前よりも尖った顎に疲れが滲んでいた。
 目の前に座ると、驚いた顔をした後に、いつものように穏やかな笑顔を浮かべた。仕事以外で話すのは、寺川さんと三人で飲んだ日以来だった。酔っぱらって思わず不倫してくれと口走ったあの夜。なんとなく気まずい気分でいたが、今となってはそんなことはどうでもよかった。
「坂口さんもここよく来るの?」
 店員にかけそばとかつ丼のセットを頼む。
「がっつり食べたい時に来るんです。ストレスが溜まった時とか」
 ははっと乾いた笑い声の後に、また蕎麦を二、三本掴んでつゆにつけると、ゆっくりと啜った。いつから食べているのか、蕎麦はすっかりくっついて大きな塊になっている。
「奥さん、出て行ったんですね」
「情報が早いな。いや、先月の話だから遅いのかな」
 かけそばとかつ丼のセットが運ばれてくる。副長はそばの塊を箸でいじっていた。その様子を横目に、かつ丼を勢いよくかき込む。口の中いっぱいに、じゅわりと油が染み出す。
「どうするんですか」
 そばの塊をいじるのに飽きた副長は、ゆっくりとした動作でお茶を飲んだ。
「どうしていいか分からなくて。紙きれ一枚だけでも繋がっていられると思うと、簡単にハンコが押せなくてさ」
 かけそばを思いっきり啜る。
「奥さんを自由にさせてあげないんですね」
「自由?」
「自由です」
 副長は少しだけ目を細めた。
「自由にしたらゆかりは幸せになれるんだろうか」
 出て行った妻の幸せを案じる夫。傍から見れば優しく思えるこの言葉に、粘っこくどす黒い何かが透けて見えた。
「間違えました」
「え?」
「奥さんは自由でした。不自由なのは副長の方です」
「どういう意味かな」
 かつ丼の最後の一口をかき込む。かつ丼もかけそばも平らげたのに、まだ物足りなかった。
「執着でがんじがらめになってるから。思い通りに動けなくて不自由な人です」
 一拍置いた後に、うん、そうかもしれないなと副長は小さな声で呟く。
「でもそういう意味なら、きっとゆかりも同じだよ」
「そうでしょうね。そんなこと言ってるあたしだって同じです」 
 思い通りにいかなくて不自由なことなんてこの世にたくさんある。大半のことは諦められるのに、どうしても一つだけ諦められないものを手にしてしまう。そして、その一つだけ諦められないものに全てを支配されてしまう。
 思い通りにいかないのが恋だと、どっかの誰かが言っていたような気がする。叶わないのが恋だとも言っていたのは同じ誰かだろうか。
 思い通りにいかなくても、叶わなくても、それでも手に入れたいと思うのが恋だ。私はそう思う。
 アイドルに恋しても、既婚者に恋しても、叶わない恋なら全て同じだ。私と副長の奥さんは同じ地獄の住人だった。
「副長。今日、仕事が終わったら飲みに行きましょう」
 いや、僕はそんな気分じゃなくて、勘違いされても困るしと、もごもごと喋る副長を無視し、伝票を取って立ち上がる。
「ここは私が奢るんで。夜は副長が奢ってください」
 

 いつか寺川さんと三人で来た焼き鳥屋の個室を予約した。副長は珍しそうに部屋の中を見回した。
「何回も来てるけど、個室に入るのは初めてだな。意外とおしゃれで驚いた」
 上着を脱いだシャツに皺が寄っていた。くたびれたシャツにくるまれた、くたびれた副長。どうしようもなくダサいのに、どうしようもなく愛おしくて、思わず涙が出そうになるのを堪える。
 部署の誰と誰の仲が悪いという噂話や、新しく立ち上がったプロジェクトの話をした。アルコールのせいか、昼間より元気な受け答えにほっとする。  
 焼き鳥を串から外し、一口ずつじっくりと時間をかけて食べる副長を眺める。視線に気づいたのか、顔を上げてふっと微笑む。
 疲れの滲んだ目元にはっきりとした皺が浮かんでいた。
「副長、一生のお願いです」
 座布団に座り直して正座をする。
「なに? 深刻そうな顔して」
 一瞬で目の前に畳が広がった。むせ返るようない草の匂い。
 坂口さん、ちょっと、という副長の困った声が頭の先から降ってくる。折り畳んだ身体の奥底から声と言葉が吐き出される。
「一度でいいから抱いてください」 
 自分でも驚くほど低く、切羽詰まった声だった。裸になる以上に全てが剥き出しだった。頭と心と行動が全て一致した奇妙な達成感があった。永遠に感じるような沈黙。
「坂口さん」
 副長に腕を掴まれて顔を上げた時、初めて自分が土下座をしていることに気づいた。
「そんなこと、君みたいな可愛くて、未来ある子がするもんじゃない。しかも、僕みたいな男にしちゃいけない」
 眉間に皺が寄っていて、怒った顔だった。副長と出会ってから、一番距離が近かった。私の熱が副長の手のひらを通じて流れ込んで、飲み込もうとしている。
 掴まれていた腕を掴み返す。
「土下座なんて、なんともないと思えるぐらい好きです。好きになって欲しいとか、付き合うとか、結婚するとか、そんなのどうでもいいです。ただ、私は副長に触れたいんです。触れられたいんです。ただ、それだけです。一度だけでいいんです」
 惨めなのか、苦しいのか、嬉しいのか、はっきりとした感情がないのに、涙が流れていた。しばらく黙っていた副長が大きく息を吸う。
「分かった」
 そう言った副長は、難しい案件を押し付けられた時と同じように眉を下げて途方に暮れたような顔をした。

 ベッドに並んで腰を下ろす。横に倒れたビジネスバッグひとつ分の距離が、私の覚悟を試していた。部屋全体にプリントされたモノクロのマリリン・モンローの視線が痛いぐらいに刺さった。
「最近のラブホテルは、おしゃれなんだね」
 副長は居心地悪そうにテレビを点けると、カラフルなセットの中で芸人が立ったり座ったりと忙しそうにはしゃいでいた。
 チャンネルを変えると、木田慎哉が現れた。音楽番組のライトアップされたステージの中心にいた。新曲だろうか。ゴリゴリのロックサウンドに合わせて、長い脚を巧みに操りながらステップを踏む。
 カメラが近づき、木田慎哉の顔がアップになる。シミひとつない肌。全ての光を吸収し、輝く大きな瞳。整った形の唇が動く。
『俺のものになれよ』
 副長は瞬きもせずに、画面を見つめていた。木田慎哉から放たれた強烈な閃光が副長の顔を照らしていた。
 そのまま副長の身体が光の粒になってさらさらと消えていくような気がした。手を振り、木田慎哉が去ってもじっと画面を見つめている。 
 次の瞬間、私はビジネスバッグを踏んづけて抱き締めていた。
「副長、好きです」
 木田慎哉でも、誰かの夫でも、副長でもない、沢渡俊という男が純粋に好きだった。
 身体を離すと、一瞬はっとした顔をした後に、眉毛を下げて困り果てたように笑う。目が少しだけ潤んでいるように見えた。
「ありがとう」
 急に険しい顔に変わる。
「でも、やっぱり坂口さんの想いに応えることはできない。こんなところにまでのこのこ来たくせに、本当に申し訳ない」
 ごくりと唾を飲み込んで、身体の奥から吐き出すように言った。
「僕は、まだゆかりのことが好きなんだ」
 その言葉と一緒に、自分の身体から空気が抜けていくのを感じた。風船のようにどんどんしぼんでいく。
 ぶーんという空調の音を聞きながら、ベッドに仰向けに倒れる。天井のモノクロのマリリン・モンローが私に向かって微笑んでいた。完璧な笑顔。憧れの人をアイドルというのであれば、マリリン・モンローも同じだった。世間の憧れ。手の届かない人。
 しゃらくせえなと思った。しゃらくせえの意味すら分からなかったけど、しゃらくせえという言葉を世界で初めて使った人はこんな気持ちだったはずだと確信した。
「どうして私が副長を好きになったか知りたいですか」
 ベッドの端に腰掛けていた副長が私を見る。
「同じ部署になった時の歓迎会で、僕の副長って役職おかしいよなって言ったんです。副なのに長って歪だし、おかしいよなって言いながら笑ったんです」
「それがどうして」  
「変な人だなって思ったら、いつの間にか好きになってました」
 ふはっと副長が吹き出す。背後ではオレンジ色の照明がゆらゆらと揺れていた。この照明が突然炎に変わって、この部屋を、私たちを、世界を焼き尽くしてくれればいいのにと願った。
「副長になって、初めて良かったって思ったよ」
 やっぱりしゃらくせえなと思ったら一気に眠気が襲ってきた。目を閉じる。カサカサという音がして、薄い布団が身体の上に掛けられた。ポンポンと優しく肩を叩かれる。鼻の奥がつんとしたけど、思いっきり啜り上げた。
 

 目を覚ますと、副長の姿はなかった。人がいた名残すらなく、酔っぱらって寝て起きた自分の部屋と変わらない静けさだった。起き上がって周りを見渡す。テーブルの上に置かれた一万円札だけが、確かに副長がいたことを証明していた。
 ベッドサイドに埋め込まれたデジタル時計の表示は、八時半。仰向けになり、天井を見つめたまま銀行に電話を掛け、体調不良だと告げた。からからに乾燥した部屋のおかげで、いい具合に声が掠れていた。電話に出た後輩が、沢渡副長もインフルエンザにかかって休むそうなので、先輩もちゃんと検査してゆっくり休んでくださいねと言った。ありがとうと返して電話を切る。
 私と会うのが気まずいとかそんな単純な理由じゃないことは分かっていた。     
奥さんを探しに行ったのか、それとも離婚を決めたのか。
 やっぱり私たちの需要と供給は一致しなかった。
 私は副長を求め、副長は奥さんを求め、奥さんは木田慎哉を求めた。
 交じりあうことのない想いだけが、ぐるぐるぐると暗く深い渦を巻いていた。そこから生きて帰ってきた人はいないというバミューダトライアングルのようだった。
 そこに落ちた人間は、生きて帰ってこれないのか、生きて帰ってきたくないのかは分からない。
 きっと落ちた人間にしか分からない世界がある。
 這いあがれないんじゃない、這いあがりたくないのだ。今の私がそうであるように。
 思いっきり泣きたいのに、涙は一滴も流れなかった。それならと大きな声で笑う。あはははと声に出すと、天井のマリリン・モンローと目が合った。


 ホテルをチェックアウトし、駅までの道をのろのろと歩く。低い日差しと冷たい空気が全身を包む。
 駅前のカフェに入り、サンドイッチとコーヒーを頼む。渡された番号札を手に奥のソファ席に座る。
 年配の女性二人組がいるだけで、店内は閑散としていた。平日の午前十時にカフェにいるなんて大学生以来だと思った。
 あの頃の私は、好きな男に抱いてくれと土下座をして、抱いてもらえない未来が待っているなんて想像もしていなかった。昔の自分にごめんと心の中で謝りながら、でも何度生まれ変わっても、結局このカフェでぼんやりと座っている未来に辿り着くような気がした。
 運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ時だった。真正面の入口から、黒のロングコートを着たマスク姿の長身の男性が入ってきた。サングラスをしていて顔は分からない。レジで注文を終え、きょろきょろと辺りを見回し、私の斜め前の席に座った。
 男性がサングラスを外した瞬間、カップを落としそうになり、慌てて持ち手を握り直す。
 木田慎哉だった。
 昨日の夜、テレビで見たのと同じ、真っ白な肌とサイボーグのように整った顔のパーツ。店員が運んできたカップを受け取り、目を細めながらゆっくりと飲む姿は、ファッション雑誌の一ページそのものだった。長い脚を組んで、スマートフォンをいじり始める。
 副長に教えなければとバッグの中からスマートフォンを取り出す。
 
 今、木田慎哉が目の前にいます! カフェの住所送るんで、すぐに来てください!
 木田慎哉がいます! 急いで奥さんに連絡してください!
 生木田慎哉に遭遇したんですけど、本当にイケメンでした!
 
 私はいったい何を副長に教えればいいのだろうか。思い浮かんだ文面のどこにも正解はなかった。
 木田慎哉が、天井に向かって思いっきり腕を伸ばし、あくびをした瞬間、女の人の歓声が遠くから聞こえたような気がした。
 ため息をついて、バッグの中にスマートフォンを戻す。今の私にできることは、目の前の同じ人間とは思えない、均整の取れたスタイルの木田慎哉をただ眺めることだった。

 副長のためだったら、これから先の幸せ全て捨ててもいいと思っていた。それなのに。何を考えているのか、何を求めているのかすら知ることができない現実を今すぐ捨ててしまいたいと思った。
 たった一人の男のために、何もかも捨てた副長の奥さんの気持ちが痛いほど分かった。副長の気持ちはひとつも分からないのに。なんて皮肉なんだろうと思いながら、サンドイッチに齧りつく。
 木田慎哉がゆっくりと立ち上がって店を出て行く。
 去っていく木田慎哉の背中に願った。
 あなたが副長の奥さんと出会ってさえくれれば、いつか私の恋は叶う。
 だから、どうか、出会ってくれ。生きているなら、この世界に存在しているなら、天文学的に不可能といわれるような数値だったとしても、出会う可能性はあるはずだ。アイドルは偶像だが、木田慎哉という人間は実体として存在していることが、今日私の目の前で証明された。
 だから、きっと、私の恋も叶わないはずはない。
 何もかも終わったと思った瞬間からの大逆転がある。そんな夢みたいなことでも信じなければ、私は今この場所に、自分の形を保って座っていることすらできない。
 不毛な希望を、冷めたコーヒーと一緒に流し込む。このコーヒーが身体の中に永遠に留まってくれればいいと願った。
 どうしても好きな人には触れたくなってしまう。癖みたいなものだと思う。   
 肌の温度とか、息の湿度とか、実際の身体の重さとかを感じてみたくなってしまう。
 だから、私は今、木田慎哉に触れたいのだ。
 私は、木田慎哉が好きだ。
 それ以上でもそれ以下でもない。それは揺るぎない事実としてこの身体を支配している。
 誰もが絶対に実らない恋だという。でも、絶対だと言い切れる人はいるのだろうか。絶対はないということが、この世の絶対の真実なのだ。
「ゆかりは夢見てるよね」
「夢?」
「だって、本当に木田慎哉と付き合えると思ってるの?」
 高校からの友人、ミチルが眉間に皺を寄せながら訊く。
「だって人生百年時代だよ? 百年も生きてたら一回ぐらいアイドルと付き合う可能性だってあるんじゃないの」
 マシュマロの浮かんだココアを飲む。喉に絡みつくような甘さが広がる。
「私は慎哉が欲しい。欲しいものは欲しいんだよ」
 真っ直ぐにミチルの目を見つめる。有名ブランドの新作のアイシャドウが綺麗に塗られていた。ミチルが目を逸らし、ため息をついて、スマートフォンを開いた。
「三十三歳の既婚者が、十九歳のアイドルが欲しいなんて、夢は夢でも悪夢だよ」  
 悪夢――。別に私は夢を見ているわけじゃない。現実として、木田慎哉に惚れている。そして、彼の職業がアイドルで、十四歳年下だという事実があるだけだ。
 現実と事実を掛け合わせたら悪夢になるのだろうか。
「ゆかりに木田慎哉を見せたのが間違いだったわ」
 ミチルが心の底から憐れむような目で私を見た。
 
 
 二年前、ミチルが見せてくれたDVDの中に木田慎哉がいた。まだ、世間に知られる前の慎哉。ミチルの好きなアイドルグループのバックダンサーとしてあどけない顔で、必死にダンスを踊っていた。MC中に話を振られて、たどたどしい口調で自己紹介をする慎哉の顔に釘付けになった。標本のように整った顔のパーツ、白い肌、長い脚。 
『一流のアイドルになりたいです』
 声変わりをしたばかりの少し掠れた声だった。彼の瞳の中に、無数のペンライトの光が煌き、目が眩むような照明の光を跳ね返すほどのオーラを全身から放っていた。
 どうして好きになったのか、今でも明確な理由は分からない。
 ただ、木田慎哉という一人の男をシンプルに好きになった。
 慎哉はそれからすぐにソロデビューを果たし、一流アイドルへの道を瞬く間に駆け抜けていった。
 ドラマ、映画、舞台、バラエティ番組、歌番組、雑誌、ラジオ。日常の中に洪水のように慎哉が押し寄せてきた。
 
 慎哉と出会ってからの日々は、アクリル板に覆われたような毎日だった。世界と大きな隔たりがあって、何ひとつ手触りが感じられなかった。
 仕事をしていても、もやがかかったように頭の芯がぼおっとしていた。次から次に目の前を流れていく画面を追い続け、チームのメンバーと雑談をしながら、昼食を摂り、会議に出ると、あっという間に終業時間になっていた。
 家に帰り、ご飯を作り、食器を洗い、洗濯をする。友人と会って、ご飯を食べる。休日には俊と出掛け、買い物をしたり、映画を観たりする。
 美味しいものを食べた時、綺麗なものを見た時、それら全ての感動を慎哉と分かち合いたいと思った。純粋無垢な真っ直ぐな気持ちでそう願った。
 慎哉への想いが募れば募るほど、純度を増していくのが分かった。余計な感情が削ぎ落されて、ただ好きだという感情の核に近づいていく。純度と質量を増した想いは、胸の奥に静かに深く沈んでいく。

 半年前に行ったライブで、私は自分の欲望の真実に気付いた。
 アンコールで客席へと下りてきた慎哉が、私の目の前に立った。手を伸ばせば触れることのできる距離だった。
 あと数センチで指先が触れるというところで、隣にいた若い女の子が手を伸ばし、慎哉の腕を掴んだ。
 慎哉が私の目を見て、寂しそうに笑った。
 私だけのものにしたい――。
 悲鳴のような歓声と慎哉の身体から香るバニラの甘い匂いに包まれながら、湧き上がってきた欲望ごと自分の身体を抱き締めた。
 天地がひっくり返るほどの奇跡でも起きない限り叶わない願いだとしても、可能性が残っているのならば、諦めることができない。
 その日から、可能性が残っていることと、絶対に確かなものがないという事実が私の生きる理由になった。
  

 慎哉が、今欲しいものはアクセサリーだと雑誌のインタビューに答えていた。ほんの少し前まで、アクセサリーをつけたことのない少年だったのに。ただそれだけのちょっとした変化を知るだけで、胸がぎゅっと締め付けられたように痛んだ。
 少しずつ大人になる瞬間に立ち会う幸せを噛みしめるのと同時に、その成長をすぐ傍で見守る存在が自分ではないという現実が辛くて仕方がなかった。
 私と慎哉の間を隔てる十四年という歳月がもどかしかった。
 慎哉よりも十四年も多く世界を知ってしまっている自分が疎ましかった。どうして、同じ時代を、同じ速度で歩めなかったのかと生まれた時代を呪った。
 インターネットの掲示板で、十四歳差の恋愛というトピックスを探す。
 女性が十四歳年下という記事ばかりが出てきて、検索窓に『女性』と『年上』というキーワードを追加する。一件の記事が、青白い画面に浮かび上がる。

 妻が十四歳年上の夫婦です。恋愛に年の差は関係ないです。どれだけ相手を愛しているかということが重要だと思います。その熱意さえあればきっとうまくいきます。僕たちは今とっても幸せです――。

 ハンドルネームには『まつにゃん』と書かれていた。会ったこともない『まつにゃん』が、一瞬で私の仏になった。本当かどうかは分からない。でも、十四歳年上の女性を愛し、幸せだという男性がこの世界のどこかに存在している可能性はある。それが分かっただけで十分だった。
 私は出会った。後は慎哉が出会ってくれさえすればいいのだ。
 想いを告げることができずに終わる恋なんて恋じゃない。アイドルだろうが一般人だろうが関係ない。
 どうしようもなく、狂おしいぐらいに、私は木田慎哉が好きだ。彼に触れたいし、彼に触れられたい。それが、私たち人類が不老不死になる確率と同じぐらい難しいことであったとしても、私は絶対に諦めない。


 会社の健康診断の結果がポストに入っていた。玄関でコートも脱がずに立ったまま封筒を破る。乳がん検診の結果欄に、一年後に経過観察を受けるようにと書いてあった。人生で初めて引っかかった。
 コート越しの自分の胸を見つめる。ほんの微かな膨らみがあるぐらいの控えめな胸だった。
 一瞬、慎哉の瑞々しい白い手が見えた気がした。
 触れられる前に、消えるかもしれない胸。
 触れられる前に、消えるかもしれない命。
 慎哉がどんどん大人になっていくのと同じ速度で、私はどんどん死に近づいていた。
 要精密検査ではない。今すぐ命に関わる深刻な状態ではない。それでも。何かの終わりがしっかりとした足音を立てて近づいている気がした。
 始まりと終わり。
 偶然と必然。
 生と死。
 こちら側とあちら側。
 男と女。
 木田慎哉と私。
 くらくらとする頭を手で押さえながら、食器棚の引き出しに診断結果の紙を押し込んだ。
 ご飯を食べて、慎哉が出演するラジオを聞いた。
 ずっと幼馴染に片思いをしているが、関係が壊れてしまうのが怖くて告白ができないという高校生からの相談だった。
 いつもは明るい声が、電波に乗っているからなのか、リラックスしているからなのか、落ち着いて聞こえた。
『片思いしてる時が一番いいですよね。分かるなぁ。でも、告白しただけで関係が壊れちゃうような人を好きになったんですか? 自分が好きになった人を信じましょうよ。絶対に告白した方がいいです。後悔しないように想いを伝えるのが一番です。自分が欲しいものは絶対に諦めちゃダメ』
 滑らかな口調が熱を帯びてくる。
『やっぱり、恋愛でも仕事でも、捨て身になるというか、何かを捨てなければ何かを手に入れることができないと思うんですよ。だから、恐怖心を捨てて、絶対に行動した方がいいです』
 話が終わると同時に、慎哉の好きな曲が流れてきた。叶わない恋をして諦めきれずに思い悩む歌詞が、優しいメロディと一緒に脳に流れ込んでくる。
 私は、好きな人が好きだと言った曲を、好きな人と一緒に聴いている。
 でも、傍に彼はいない。どうしてこの曲を好きになったのか、理由を訊くことはできないし、感想を伝えることもできない。
 今、誰を想ってこの曲を聴いているのか、いつ、誰とこの曲を聴いたのか。何ひとつ知ることができない。
 イヤホンの刺さった耳を引きちぎりたい衝動に駆られた。
 でも、そんなことをしたら、慎哉の声が二度と聞こえなくなると思いとどまる。
 私が息を吸い、心臓を動かす。全ての行動が慎哉のためだった。
 私の生きる意味が慎哉じゃない、私が生きることそのものが慎哉なのだ。
曲が終わって慎哉の声を聞いた瞬間、ああ、私の幸せは、もうこの人と出会って恋に落ちること以外にないのだと知った。
 狂ってる。そんなこと知ってる。
 頭がおかしい。そんなこと分かってる。
 それでも好きなのだ。ただ、それだけなのだ。
 欲しい。どうしても欲しい。なにもかもが欲しい。
 手に入れなければ、私は、壊れてしまう。

 はっと気づくと、目の前に俊が立っていた。怯えたような目でこちらを見ていた。
「どうしたの?」
 答えようとした時に頬が濡れていることに気づいた。言ってしまったら全てが終わる。でも、言わなければいけないところまできてしまった。
「慎哉が、何かを捨てないと何かを手に入れることができないって」
 俊が私を抱き締める。自分の好きな人にそんなに簡単に触れられるなんてずるいと思った。強烈な嫉妬心が身体の奥から湧き上がる。抵抗してもすぐに押さえつけられた。これまで経験したことのない、男としての俊の強さだった。
 ぎゅっと目を瞑る。
 神経を研ぎ澄ませ、慎哉の顔と身体を思い浮かべる。
 胸に触れられた瞬間に、慎哉の透き通るような白い手が見えた。私はその手をありったけの力で握り返そうとした。でも、あのコンサートの時と同じように、指先が触れる直前で泡が弾けるように消えた。
 瞼の裏の真っ暗な世界に光の海が見えた。目が眩むほどの無数のペンライトが揺れていた。
 私は幻のペンライトの海に飛び込んだ。全身が光の中に吸いこまれていく。
 俊をずるいと思った瞬間から、私は俊の目の前に存在していることさえ耐えられなくなった。


 いつもより早く起きたこと以外は変わらない朝だった。結婚した当初から七年も住んでいるマンションの寝室。ダブルベッドのシーツや布団カバーはブラウンで統一されている。ラジオで言っていた聖也の寝室と同じ色。
 昨日遅くに帰ってきた俊は、規則正しい寝息を立てて、よく眠っていた。一週間前の欲望と力だけでぶつかってきた男とは思えない、穏やかな寝顔だった。
 二十三歳で出会って十年。明らかに増えた顔の皺ひとつひとつを見つめる。
 木田慎哉と出会うまでは、この皺がさらに増えるまで一緒に生きていくと信じていた。白髪になっても、禿げても、歯が抜けても、それでも好きでいられる人だと思った。
 今、私がそう思えるのは、この世界で慎哉だけだった。
 音を立てないようにそろそろとベッドから出て、身支度を整える。最低限必要なものが入ったバッグを手に玄関に向かった。
 振り返って、テーブルの上の紙切れを眺める。

 誰も悪くない。俊だって、木田慎哉だって悪くない。もちろん、私だって悪くない。
 俊は、夫として百点満点の男だった。優しくて思いやりがあって、いつでも私のやりたいことを優先してくれた。
 でも、木田慎哉じゃない。
 たった一つのその欠点で、たちまちゼロ点になってしまう。
 精一杯尽くしてくれた男を一瞬で捨ててしまう自分に嫌気が差すのと同時に、それ以外に選択肢なんてどこにもないと確信していた。
 今、私は、全世界の人間に聞きたい。
 本当に自分が心の底から、全身全霊をかけて愛した男が目の前に現れたら。
 もし、自分のことを好きだと言ってくれたなら。
 その時に断れる人は何人いるのだろうか。
 私は、断った人たちを尊敬はしない。
 絶対に後悔するのが分かっているから。
 欲望のままに生きられないということは、平穏を与えてくれるが、後悔を必ず残す。それはいつの間にか暗い影となり、ずっと自分の人生に付いて回るのだ。
 そんなものに支配されるくらいなら、私は全てを捨てて、好きな人と生きる人生を選ぶ。選択の余地なんてどこにも存在していない。私の目の前には、その道しかないのだ。
 誰を傷つけようが、笑われようが、後ろ指を指されようが、地獄に堕ちようが、私の目の前に慎哉が現れたら、一瞬の躊躇いもなく、彼を選ぶ。
 たとえ、これから先、手に入れるはずだった幸せ全てを捨てることになったとしても。
 むしろ、慎哉に出会えるなら、これから先、手に入れるはずだった幸せなんて全て捨てていい。
 慎哉に出会えること以外に幸せなんてない。
 明日、世界が滅ぶなら、私に木田慎哉をください。
 明日、世界を滅ぼしたいなら、私から木田慎哉を奪ってください。

 玄関を出ると、真っ青な空が広がっていた。秋晴れ。心地よい風が頬を撫でる。遠くに見える神社の木が少しだけ色づいていた。
 遠くの空に、何かの抜け殻のような白い月が浮かんでいた。残月。夜が明けて居場所をなくしたことにさえ気づかず漂う姿が、少しだけ私に似ているような気がした。
 

 一人分の給料ではぎりぎりの生活だったが、慎哉が住んでいるといわれる場所にマンションを借りた。
 何かを捨てなければ、何かを手に入れることはできない。
 慎哉の言葉を一日に何度も呪文のように心の中で繰り返す。
 朝起きて、絶望する。慎哉に触れることのできない世界を、私は今日も生きていかなければいけないのかと思う。
 今日が一番若い自分を無駄に使って、一日一日と老いに向かっていく。
 彼が好きだと言ったアーティストの曲を聴き、彼が読んでいるという本を読み、ダイエットに励み、肌の手入れも怠らない。アンチエイジングに効くと聞いたから、毎朝甘酒を飲むようになった。
 少しでも良いことをして徳を積むために、会社のゴミ捨てを率先してやるようになった。
 神社に行って、二百円を賽銭箱に入れる。木田慎哉の仕事がうまくいきますように、木田慎哉と出会って絶対に付き合えますようにと願う。
 神様には願いじゃなく、感謝をしなければいけないとインターネットで見つけた記事には書いてあった。
 そんなの何の意味もないと思った。
 神様にどれだけ取り繕っても全部お見通しだ。
 それなら、最初から私は自分の欲望をありのままに願う。逃げも隠れもせずに真っすぐ願う。

 一人暮らしを始めて一ケ月が経った。音楽番組で慎哉が新曲を披露していた。
 滅多にない残業を終えて、小さなテーブルで夕飯を食べ終えたところだった。コンビニで買ったお惣菜は、慎哉の好きな豚の生姜焼き。
 ロックサウンドに合わせて、激しいダンスを踊っている。ターンをするたびに、光の粒のように汗が舞った。
 もっと近くで見たくなり、テレビの前に移動する。
 全体を映していたカメラがどんどん慎哉に近づいていく。
 画面いっぱいに慎哉の顔が映し出され、目が合った。
『俺のものになれよ』
 その瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。テレビの前で、突っ伏して駄々をこねる子供のように大声で泣く。
 遠い。あまりにも、遠い。
 腹の底からせり上がってくる欲望、悲しみ、虚しさ、切なさ、全てを大声と涙に変えてしまいたくて、思いっきり泣いた。
 三十三歳、八畳のワンルーム、食べ終えた食器に、干しっぱなしの洗濯物。
 歌い終えて、満面の笑みで手を振る慎哉。
 涙は手で拭っても拭っても溢れてきた。天井に向かって、もう一度大きな声を上げる。
 隣からドンと壁を叩く音が聞こえた。その音も、泣き叫ぶ私も、全部幻なのだと自分に言い聞かせた。


 翌朝、残っていた仕事を片付けようと、いつもより早い時間に駅に向かっていた時だった。
 黒いロングコートを着た長身の男性とすれ違った。
 すれ違った瞬間、バニラの甘い香りがした。振り向いて視界に入ったシルエットは慎哉そっくりだった。すたすたと早足で歩いていて、どんどん背中が遠ざかっていく。
 唾をごくりと飲み込んで、背を向ける。もう一度前に歩き出す。一歩進む度に、慎哉の後ろ姿の残像が濃さを増していく。
 踵を返し、慎哉を見た場所まで走って戻る。もうどこにも慎哉の姿はなく、見慣れた都会の雑踏が広がっていただけだった。
 斜め前にそびえ立つマンションの前でうずくまる男性が視界に入った。見覚えのあるグレーのコートに、右の襟足がはねるくせ毛の黒髪。
 俊だった。
 スマートフォンを抱きかかえながら、肩を震わせていた。俊がこんなにも感情を露わにしている姿を見るのは初めてだった。
 きっと俊は、今、私と同じ地獄にいる。
 好きな人に想いを告げることができない、触れることができない地獄。
 俊と出会ってから、一番心の距離が近いような気がした。
 マンションを見上げる。真っ青な空を背負って、規則的に並ぶ部屋の窓がきらきらと朝日を反射していた。
 誰が住んでいるのか分からないけれど、この部屋に住む全ての人が幸せになればいいと思った。
 そして、うずくまっている俊が幸せになればいいと思った。
 もちろん五メートル先で見つめている私も。
 世界中の人が幸せになればいいと思った。
 でも、一番幸せになって欲しいのは、やっぱり木田慎哉だった。 
 どうか、幸せでいてください。そして、私と出会ってください。
 振り返って、駅までの道を進む。
 木田慎哉と出会う前の、私の一日が始まる。           《了》

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