どうしても好きな人には触れたくなってしまう。癖みたいなものだと思う。   
 肌の温度とか、息の湿度とか、実際の身体の重さとかを感じてみたくなってしまう。
 だから、私は今、木田慎哉に触れたいのだ。
 私は、木田慎哉が好きだ。
 それ以上でもそれ以下でもない。それは揺るぎない事実としてこの身体を支配している。
 誰もが絶対に実らない恋だという。でも、絶対だと言い切れる人はいるのだろうか。絶対はないということが、この世の絶対の真実なのだ。
「ゆかりは夢見てるよね」
「夢?」
「だって、本当に木田慎哉と付き合えると思ってるの?」
 高校からの友人、ミチルが眉間に皺を寄せながら訊く。
「だって人生百年時代だよ? 百年も生きてたら一回ぐらいアイドルと付き合う可能性だってあるんじゃないの」
 マシュマロの浮かんだココアを飲む。喉に絡みつくような甘さが広がる。
「私は慎哉が欲しい。欲しいものは欲しいんだよ」
 真っ直ぐにミチルの目を見つめる。有名ブランドの新作のアイシャドウが綺麗に塗られていた。ミチルが目を逸らし、ため息をついて、スマートフォンを開いた。
「三十三歳の既婚者が、十九歳のアイドルが欲しいなんて、夢は夢でも悪夢だよ」  
 悪夢――。別に私は夢を見ているわけじゃない。現実として、木田慎哉に惚れている。そして、彼の職業がアイドルで、十四歳年下だという事実があるだけだ。
 現実と事実を掛け合わせたら悪夢になるのだろうか。
「ゆかりに木田慎哉を見せたのが間違いだったわ」
 ミチルが心の底から憐れむような目で私を見た。
 
 
 二年前、ミチルが見せてくれたDVDの中に木田慎哉がいた。まだ、世間に知られる前の慎哉。ミチルの好きなアイドルグループのバックダンサーとしてあどけない顔で、必死にダンスを踊っていた。MC中に話を振られて、たどたどしい口調で自己紹介をする慎哉の顔に釘付けになった。標本のように整った顔のパーツ、白い肌、長い脚。 
『一流のアイドルになりたいです』
 声変わりをしたばかりの少し掠れた声だった。彼の瞳の中に、無数のペンライトの光が煌き、目が眩むような照明の光を跳ね返すほどのオーラを全身から放っていた。
 どうして好きになったのか、今でも明確な理由は分からない。
 ただ、木田慎哉という一人の男をシンプルに好きになった。
 慎哉はそれからすぐにソロデビューを果たし、一流アイドルへの道を瞬く間に駆け抜けていった。
 ドラマ、映画、舞台、バラエティ番組、歌番組、雑誌、ラジオ。日常の中に洪水のように慎哉が押し寄せてきた。
 
 慎哉と出会ってからの日々は、アクリル板に覆われたような毎日だった。世界と大きな隔たりがあって、何ひとつ手触りが感じられなかった。
 仕事をしていても、もやがかかったように頭の芯がぼおっとしていた。次から次に目の前を流れていく画面を追い続け、チームのメンバーと雑談をしながら、昼食を摂り、会議に出ると、あっという間に終業時間になっていた。
 家に帰り、ご飯を作り、食器を洗い、洗濯をする。友人と会って、ご飯を食べる。休日には俊と出掛け、買い物をしたり、映画を観たりする。
 美味しいものを食べた時、綺麗なものを見た時、それら全ての感動を慎哉と分かち合いたいと思った。純粋無垢な真っ直ぐな気持ちでそう願った。
 慎哉への想いが募れば募るほど、純度を増していくのが分かった。余計な感情が削ぎ落されて、ただ好きだという感情の核に近づいていく。純度と質量を増した想いは、胸の奥に静かに深く沈んでいく。

 半年前に行ったライブで、私は自分の欲望の真実に気付いた。
 アンコールで客席へと下りてきた慎哉が、私の目の前に立った。手を伸ばせば触れることのできる距離だった。
 あと数センチで指先が触れるというところで、隣にいた若い女の子が手を伸ばし、慎哉の腕を掴んだ。
 慎哉が私の目を見て、寂しそうに笑った。
 私だけのものにしたい――。
 悲鳴のような歓声と慎哉の身体から香るバニラの甘い匂いに包まれながら、湧き上がってきた欲望ごと自分の身体を抱き締めた。
 天地がひっくり返るほどの奇跡でも起きない限り叶わない願いだとしても、可能性が残っているのならば、諦めることができない。
 その日から、可能性が残っていることと、絶対に確かなものがないという事実が私の生きる理由になった。
  

 慎哉が、今欲しいものはアクセサリーだと雑誌のインタビューに答えていた。ほんの少し前まで、アクセサリーをつけたことのない少年だったのに。ただそれだけのちょっとした変化を知るだけで、胸がぎゅっと締め付けられたように痛んだ。
 少しずつ大人になる瞬間に立ち会う幸せを噛みしめるのと同時に、その成長をすぐ傍で見守る存在が自分ではないという現実が辛くて仕方がなかった。
 私と慎哉の間を隔てる十四年という歳月がもどかしかった。
 慎哉よりも十四年も多く世界を知ってしまっている自分が疎ましかった。どうして、同じ時代を、同じ速度で歩めなかったのかと生まれた時代を呪った。
 インターネットの掲示板で、十四歳差の恋愛というトピックスを探す。
 女性が十四歳年下という記事ばかりが出てきて、検索窓に『女性』と『年上』というキーワードを追加する。一件の記事が、青白い画面に浮かび上がる。

 妻が十四歳年上の夫婦です。恋愛に年の差は関係ないです。どれだけ相手を愛しているかということが重要だと思います。その熱意さえあればきっとうまくいきます。僕たちは今とっても幸せです――。

 ハンドルネームには『まつにゃん』と書かれていた。会ったこともない『まつにゃん』が、一瞬で私の仏になった。本当かどうかは分からない。でも、十四歳年上の女性を愛し、幸せだという男性がこの世界のどこかに存在している可能性はある。それが分かっただけで十分だった。
 私は出会った。後は慎哉が出会ってくれさえすればいいのだ。
 想いを告げることができずに終わる恋なんて恋じゃない。アイドルだろうが一般人だろうが関係ない。
 どうしようもなく、狂おしいぐらいに、私は木田慎哉が好きだ。彼に触れたいし、彼に触れられたい。それが、私たち人類が不老不死になる確率と同じぐらい難しいことであったとしても、私は絶対に諦めない。


 会社の健康診断の結果がポストに入っていた。玄関でコートも脱がずに立ったまま封筒を破る。乳がん検診の結果欄に、一年後に経過観察を受けるようにと書いてあった。人生で初めて引っかかった。
 コート越しの自分の胸を見つめる。ほんの微かな膨らみがあるぐらいの控えめな胸だった。
 一瞬、慎哉の瑞々しい白い手が見えた気がした。
 触れられる前に、消えるかもしれない胸。
 触れられる前に、消えるかもしれない命。
 慎哉がどんどん大人になっていくのと同じ速度で、私はどんどん死に近づいていた。
 要精密検査ではない。今すぐ命に関わる深刻な状態ではない。それでも。何かの終わりがしっかりとした足音を立てて近づいている気がした。
 始まりと終わり。
 偶然と必然。
 生と死。
 こちら側とあちら側。
 男と女。
 木田慎哉と私。
 くらくらとする頭を手で押さえながら、食器棚の引き出しに診断結果の紙を押し込んだ。
 ご飯を食べて、慎哉が出演するラジオを聞いた。
 ずっと幼馴染に片思いをしているが、関係が壊れてしまうのが怖くて告白ができないという高校生からの相談だった。
 いつもは明るい声が、電波に乗っているからなのか、リラックスしているからなのか、落ち着いて聞こえた。
『片思いしてる時が一番いいですよね。分かるなぁ。でも、告白しただけで関係が壊れちゃうような人を好きになったんですか? 自分が好きになった人を信じましょうよ。絶対に告白した方がいいです。後悔しないように想いを伝えるのが一番です。自分が欲しいものは絶対に諦めちゃダメ』
 滑らかな口調が熱を帯びてくる。
『やっぱり、恋愛でも仕事でも、捨て身になるというか、何かを捨てなければ何かを手に入れることができないと思うんですよ。だから、恐怖心を捨てて、絶対に行動した方がいいです』
 話が終わると同時に、慎哉の好きな曲が流れてきた。叶わない恋をして諦めきれずに思い悩む歌詞が、優しいメロディと一緒に脳に流れ込んでくる。
 私は、好きな人が好きだと言った曲を、好きな人と一緒に聴いている。
 でも、傍に彼はいない。どうしてこの曲を好きになったのか、理由を訊くことはできないし、感想を伝えることもできない。
 今、誰を想ってこの曲を聴いているのか、いつ、誰とこの曲を聴いたのか。何ひとつ知ることができない。
 イヤホンの刺さった耳を引きちぎりたい衝動に駆られた。
 でも、そんなことをしたら、慎哉の声が二度と聞こえなくなると思いとどまる。
 私が息を吸い、心臓を動かす。全ての行動が慎哉のためだった。
 私の生きる意味が慎哉じゃない、私が生きることそのものが慎哉なのだ。
曲が終わって慎哉の声を聞いた瞬間、ああ、私の幸せは、もうこの人と出会って恋に落ちること以外にないのだと知った。
 狂ってる。そんなこと知ってる。
 頭がおかしい。そんなこと分かってる。
 それでも好きなのだ。ただ、それだけなのだ。
 欲しい。どうしても欲しい。なにもかもが欲しい。
 手に入れなければ、私は、壊れてしまう。

 はっと気づくと、目の前に俊が立っていた。怯えたような目でこちらを見ていた。
「どうしたの?」
 答えようとした時に頬が濡れていることに気づいた。言ってしまったら全てが終わる。でも、言わなければいけないところまできてしまった。
「慎哉が、何かを捨てないと何かを手に入れることができないって」
 俊が私を抱き締める。自分の好きな人にそんなに簡単に触れられるなんてずるいと思った。強烈な嫉妬心が身体の奥から湧き上がる。抵抗してもすぐに押さえつけられた。これまで経験したことのない、男としての俊の強さだった。
 ぎゅっと目を瞑る。
 神経を研ぎ澄ませ、慎哉の顔と身体を思い浮かべる。
 胸に触れられた瞬間に、慎哉の透き通るような白い手が見えた。私はその手をありったけの力で握り返そうとした。でも、あのコンサートの時と同じように、指先が触れる直前で泡が弾けるように消えた。
 瞼の裏の真っ暗な世界に光の海が見えた。目が眩むほどの無数のペンライトが揺れていた。
 私は幻のペンライトの海に飛び込んだ。全身が光の中に吸いこまれていく。
 俊をずるいと思った瞬間から、私は俊の目の前に存在していることさえ耐えられなくなった。


 いつもより早く起きたこと以外は変わらない朝だった。結婚した当初から七年も住んでいるマンションの寝室。ダブルベッドのシーツや布団カバーはブラウンで統一されている。ラジオで言っていた聖也の寝室と同じ色。
 昨日遅くに帰ってきた俊は、規則正しい寝息を立てて、よく眠っていた。一週間前の欲望と力だけでぶつかってきた男とは思えない、穏やかな寝顔だった。
 二十三歳で出会って十年。明らかに増えた顔の皺ひとつひとつを見つめる。
 木田慎哉と出会うまでは、この皺がさらに増えるまで一緒に生きていくと信じていた。白髪になっても、禿げても、歯が抜けても、それでも好きでいられる人だと思った。
 今、私がそう思えるのは、この世界で慎哉だけだった。
 音を立てないようにそろそろとベッドから出て、身支度を整える。最低限必要なものが入ったバッグを手に玄関に向かった。
 振り返って、テーブルの上の紙切れを眺める。

 誰も悪くない。俊だって、木田慎哉だって悪くない。もちろん、私だって悪くない。
 俊は、夫として百点満点の男だった。優しくて思いやりがあって、いつでも私のやりたいことを優先してくれた。
 でも、木田慎哉じゃない。
 たった一つのその欠点で、たちまちゼロ点になってしまう。
 精一杯尽くしてくれた男を一瞬で捨ててしまう自分に嫌気が差すのと同時に、それ以外に選択肢なんてどこにもないと確信していた。
 今、私は、全世界の人間に聞きたい。
 本当に自分が心の底から、全身全霊をかけて愛した男が目の前に現れたら。
 もし、自分のことを好きだと言ってくれたなら。
 その時に断れる人は何人いるのだろうか。
 私は、断った人たちを尊敬はしない。
 絶対に後悔するのが分かっているから。
 欲望のままに生きられないということは、平穏を与えてくれるが、後悔を必ず残す。それはいつの間にか暗い影となり、ずっと自分の人生に付いて回るのだ。
 そんなものに支配されるくらいなら、私は全てを捨てて、好きな人と生きる人生を選ぶ。選択の余地なんてどこにも存在していない。私の目の前には、その道しかないのだ。
 誰を傷つけようが、笑われようが、後ろ指を指されようが、地獄に堕ちようが、私の目の前に慎哉が現れたら、一瞬の躊躇いもなく、彼を選ぶ。
 たとえ、これから先、手に入れるはずだった幸せ全てを捨てることになったとしても。
 むしろ、慎哉に出会えるなら、これから先、手に入れるはずだった幸せなんて全て捨てていい。
 慎哉に出会えること以外に幸せなんてない。
 明日、世界が滅ぶなら、私に木田慎哉をください。
 明日、世界を滅ぼしたいなら、私から木田慎哉を奪ってください。

 玄関を出ると、真っ青な空が広がっていた。秋晴れ。心地よい風が頬を撫でる。遠くに見える神社の木が少しだけ色づいていた。
 遠くの空に、何かの抜け殻のような白い月が浮かんでいた。残月。夜が明けて居場所をなくしたことにさえ気づかず漂う姿が、少しだけ私に似ているような気がした。
 

 一人分の給料ではぎりぎりの生活だったが、慎哉が住んでいるといわれる場所にマンションを借りた。
 何かを捨てなければ、何かを手に入れることはできない。
 慎哉の言葉を一日に何度も呪文のように心の中で繰り返す。
 朝起きて、絶望する。慎哉に触れることのできない世界を、私は今日も生きていかなければいけないのかと思う。
 今日が一番若い自分を無駄に使って、一日一日と老いに向かっていく。
 彼が好きだと言ったアーティストの曲を聴き、彼が読んでいるという本を読み、ダイエットに励み、肌の手入れも怠らない。アンチエイジングに効くと聞いたから、毎朝甘酒を飲むようになった。
 少しでも良いことをして徳を積むために、会社のゴミ捨てを率先してやるようになった。
 神社に行って、二百円を賽銭箱に入れる。木田慎哉の仕事がうまくいきますように、木田慎哉と出会って絶対に付き合えますようにと願う。
 神様には願いじゃなく、感謝をしなければいけないとインターネットで見つけた記事には書いてあった。
 そんなの何の意味もないと思った。
 神様にどれだけ取り繕っても全部お見通しだ。
 それなら、最初から私は自分の欲望をありのままに願う。逃げも隠れもせずに真っすぐ願う。

 一人暮らしを始めて一ケ月が経った。音楽番組で慎哉が新曲を披露していた。
 滅多にない残業を終えて、小さなテーブルで夕飯を食べ終えたところだった。コンビニで買ったお惣菜は、慎哉の好きな豚の生姜焼き。
 ロックサウンドに合わせて、激しいダンスを踊っている。ターンをするたびに、光の粒のように汗が舞った。
 もっと近くで見たくなり、テレビの前に移動する。
 全体を映していたカメラがどんどん慎哉に近づいていく。
 画面いっぱいに慎哉の顔が映し出され、目が合った。
『俺のものになれよ』
 その瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。テレビの前で、突っ伏して駄々をこねる子供のように大声で泣く。
 遠い。あまりにも、遠い。
 腹の底からせり上がってくる欲望、悲しみ、虚しさ、切なさ、全てを大声と涙に変えてしまいたくて、思いっきり泣いた。
 三十三歳、八畳のワンルーム、食べ終えた食器に、干しっぱなしの洗濯物。
 歌い終えて、満面の笑みで手を振る慎哉。
 涙は手で拭っても拭っても溢れてきた。天井に向かって、もう一度大きな声を上げる。
 隣からドンと壁を叩く音が聞こえた。その音も、泣き叫ぶ私も、全部幻なのだと自分に言い聞かせた。


 翌朝、残っていた仕事を片付けようと、いつもより早い時間に駅に向かっていた時だった。
 黒いロングコートを着た長身の男性とすれ違った。
 すれ違った瞬間、バニラの甘い香りがした。振り向いて視界に入ったシルエットは慎哉そっくりだった。すたすたと早足で歩いていて、どんどん背中が遠ざかっていく。
 唾をごくりと飲み込んで、背を向ける。もう一度前に歩き出す。一歩進む度に、慎哉の後ろ姿の残像が濃さを増していく。
 踵を返し、慎哉を見た場所まで走って戻る。もうどこにも慎哉の姿はなく、見慣れた都会の雑踏が広がっていただけだった。
 斜め前にそびえ立つマンションの前でうずくまる男性が視界に入った。見覚えのあるグレーのコートに、右の襟足がはねるくせ毛の黒髪。
 俊だった。
 スマートフォンを抱きかかえながら、肩を震わせていた。俊がこんなにも感情を露わにしている姿を見るのは初めてだった。
 きっと俊は、今、私と同じ地獄にいる。
 好きな人に想いを告げることができない、触れることができない地獄。
 俊と出会ってから、一番心の距離が近いような気がした。
 マンションを見上げる。真っ青な空を背負って、規則的に並ぶ部屋の窓がきらきらと朝日を反射していた。
 誰が住んでいるのか分からないけれど、この部屋に住む全ての人が幸せになればいいと思った。
 そして、うずくまっている俊が幸せになればいいと思った。
 もちろん五メートル先で見つめている私も。
 世界中の人が幸せになればいいと思った。
 でも、一番幸せになって欲しいのは、やっぱり木田慎哉だった。 
 どうか、幸せでいてください。そして、私と出会ってください。
 振り返って、駅までの道を進む。
 木田慎哉と出会う前の、私の一日が始まる。           《了》