ゆかりの目は、いつも光り輝いている。キラキラと何色ものレーザービームが大きな黒目の中を飛び交っている。
とろんとした目で見つめていたかと思うと、急に険しい表情に変わった。鋭いまなざしを僕に向ける。
「どうして、俊は、慎哉じゃないんだろうね。旦那として点数をつけるなら百点満点なのに、慎哉じゃないっていうだけでゼロ点になっちゃう」
僕は、テレビの中でスパンコールのついた派手な衣装を着て、歌って踊るアイドル・木田慎哉を見た。長い手足を縦横無尽に操りながら、ダンスを踊っている。画面いっぱいに映し出される笑顔。何十万人、何百万人の視線と愛情を一身に受けて輝く。サイボーグのように整った完璧な顔。
確かに僕は、木田慎哉じゃない。
今朝、洗面所で見た自分の顔を思い出す。大きな鼻と目と口。目の下には青黒いクマが沈んでいた。細かい皺が増え、年々深くなっていくほうれい線に、三十三歳という年齢を実感したばかりだ。
「僕はイケメンじゃないし、歌ったり、踊ったりもできないからなぁ」
ゆかりはもう僕の答えなんて聞いていなかった。木田慎哉の新曲を口ずさみながら、うっとりした顔で画面を見つめていた。
月曜日の朝の電車は、重苦しい空気で酸素が薄い。みんなしかめっ面でスマホの画面や新聞を睨んでいる。
中吊り広告に木田慎哉の顔のアップがでかでかと載っていた。ファッション誌の表紙だった。いくらか加工しているとはいえ、透き通るような白い肌にくっきりとした二重まぶた。薄い唇から零れる白い歯が、爽やかさを強調していた。
ゆかりはよく、慎哉は全ての空気を変えてくれる人だと言っていた。そこにいるだけで、この世の辛いこと、苦しいこと全てをかき消してくれる。そして、幸せだけをその場に解き放ってくれる。
確かに、どんよりと沈んだ満員電車の中で、ひと際輝く広告からは、春の柔らかな風のような爽やかさを感じた。きっとゆかりは、この雑誌を買って帰ってくるだろう。
銀行に就職してあっという間に十年が経った。大した夢もなく、安定していて給料の高い職場を求めた結果の選択だった。
新入社員から二つほど階級が上がり、今年から副長という肩書がついた。順調に出世はしているが、大体の未来は見えている。
あと二、三年したら地方の支店長になり、戻ってきたら関連会社に出向して定年を迎える。決められたコースを外れることなく、ただ真っすぐ進んできた。大きな成果も過ちも起こさず、粛々と与えられた仕事をこなしてきた。
ほとんどの同期は、もっと新しいことがしたい、自分の力を試したいと言って辞めていった。その行動力を純粋に凄いなと感心した。その反面、自分は分かりきった未来への道を進む方が性に合っているとも思った。
自分の手で自分の人生を切り拓くことのない僕は、一生ゆかりが憧れる、木田慎哉になることはできない。
終業直前に、大きいプロジェクトが一段落ついたから飲みに行こうと同期の寺川に誘われた。入行した時から仲の良い同期はもう寺川しか残っていなかった。
寺川は、たまたま僕と一緒に書類の確認をしていた坂口さんにも声をかけた。数年前に同じ支店で働いていたと言っていたことを思い出す。
「私が行ったらお邪魔じゃないですか? せっかくの同期会なのに」
「二人しかいないんだから同期会なんてもんじゃないよ。むさくるしいおっさん二人で飲むより、坂口さんがいてくれた方が華やぐしね」
坂口さんが切れ長の目で寺川を睨む。
「そういう発言はセクハラです」
「ごめんごめん。冗談だって」
「冗談で済む話じゃないです。副長、今夜は寺川さんの奢りでいいですよね?」
そうだねと答えると、寺川はぶつぶつと文句を言い始めた。軽口を叩き合う寺川と坂口さんを横目に、ゆかりに飲み会になったとLINEをする。アイコンの木田慎哉の写真がまた変わっていた。
いつもの焼き鳥屋は、月曜の夜でも混んでいた。
「ずっと副長と飲みたかったんですよ」
乾杯のビールを一気に飲み干し、坂口さんが笑いながら言う。
「どうして?」
「坂口さんは、沢渡のファンだから」
坂口さんが寺川の肩を思いっきり叩く。
「寺川さんからよく副長の話を聞いていて、せっかく同じ部署になったんで、一回ぐらいは飲みに行きたいなって思ってたんです」
「それがファンって言うんじゃないのかよ」
坂口さんが違いますと言いながら、届いたばかりの二杯目のビールに口をつける。
「ファンなんて言われると、アイドルになった気分だよ」
枝豆を頬張りながら言う。ファンと聞いて真っ先に頭に浮かんだのはゆかりだった。
「そういえば、沢渡の奥さん、アイドルのファンだったよな。誰だっけ?」
「木田慎哉」
「奥さん、木田慎哉のファンなんですか? 今、映画にも出てますよね? なんでしたっけ、原作が漫画の」
「今やってるのは『パラダイス・ロマンス』かな? この前、一緒に観に行ってきたから」
「相変わらず仲良いよな。俺だったら絶対無理。大体、自分の奥さんが他の男にきゃーきゃー言ってるのなんて見たくないだろ」
「そうかな。別に気にならないよ」
「嫉妬するとかないんですか?」
「僕が? 慎哉に?」
坂口さんがねぎまを頬張りながら頷く。
嫉妬なんてしたことがない。だって、相手は木田慎哉だ。初めから同じ土俵にすら立っていない。
「慎哉は、僕の奥さんにとって、神様みたいなもんだから嫉妬したことなんてないよ。昨日も、なんで僕が慎哉じゃないんだってがっかりしていたよ。旦那としては百点なのに、慎哉じゃないって言うだけで、ゼロ点になるんだってさ」
二人の箸が止まる。目を丸くして僕の顔を見ている。
「副長、そんなこと言われて何て答えるんですか」
坂口さんの口調に棘のような鋭さが混じっていて、少し戸惑う。
「え? 僕、イケメンじゃないし、歌ったり、踊ったりもできないからなって答えたけど」
寺川が笑う。
「沢渡らしい答えだな」
坂口さんは憮然とした表情でビールのジョッキを掴んで飲み干した。
「奥さん、頭おかしいんじゃないですか。こんないい旦那さんがいるのに、木田慎哉の方がいいだなんて。ただのアイドルじゃないですか。別にそこまでイケメンじゃないし」
ここにゆかりがいなくて良かったと心底思った。もしいたら、発狂して坂口さんに何をするか分からない。僕では手に負えなくなってしまう。
「でも、彼は本当にイケメンだよ。歌もダンスも上手いし、ライブの時は、ギターも弾くんだ。随分練習したみたいで、かなりの腕前だよ」
「アイドルがギターを弾いたって、しょせん本物のギタリストには勝てませんって」
坂口さんが吐き捨てるように言う。寺川がまぁまぁとなだめるように口を挟む。
「沢渡も奥さんの影響ですっかりアイドルオタクだな」
「オタクってほどじゃないよ。ゆかりとゆかりの友達を見たら、熱量が違いすぎて、恐れ多いよ」
「ほんっと副長ってばっかみたい」
坂口さんが僕を睨む。きりっとした黒いアイラインのせいで余計に怖さが増していた。
「副長、奥さんが木田慎哉と不倫するなら、私と不倫しましょうよ」
「え?」
坂口さんの言葉の意味が分からず訊き返す。改札に向かう構内は混雑していた。坂口さんの声が大きくなる。酔っぱらっていて呂律が回っていない。
「だって、木田慎哉との不倫なら、副長は許すんですよね。だったら、私と不倫したって、奥さんは責めることできないじゃないですか」
言い終わると、真っ赤に充血した目のまま、怒った顔で僕の胸をハンドバッグで何度も叩いた。すれ違う人が、僕たちを怪訝そうに眺めていく。
「坂口さん、ちょっと落ち着いて」
坂口さんのハンドバッグを持つ手が震えていた。
「私は木田慎哉じゃなくても、副長は百点だと思ってますから」
そう言って踵を返すと、改札の中に走っていった。
何が起きたのか分からないまま、気付いたら電車の中だった。朝と同じ広告が、空調の風に揺れていた。完璧な笑顔の木田慎哉。やっぱり、イケメンだなと思った。
リビングのドアを開けると、ゆかりはソファに寝転がって、雑誌を読んでいた。広告で見たファッション誌だった。電車の中と同じ笑顔の木田慎哉が、ゆかりの手にしっかりと握られていた。
「電車の中で広告を見たよ」
声をかけると、ゆかりが眩しい笑顔で雑誌を広げて見せる。
「ねぇ、この慎哉ほんとやばくない? 白シャツとデニムだけでこんなにかっこいいなんて、この世に慎哉しかいないよね」
白い肌に白いシャツを羽織り、真っすぐなまなざしで慎哉が僕を見つめていた。
もしも、本当に、ゆかりが慎哉と不倫をしたら。
慎哉の白い胸に顔をうずめるゆかりを想像する。
僕がゆかりと出会ってから十年間で、一番幸せな顔をしていた。
でも、だからといって僕は坂口さんと不倫をするのだろうか。
「こっちのページのスーツもいいの。黒でシンプルなんだけど、エロいっていうか」
ゆかりがページをめくって、また見せてくる。やっぱり、目には星が瞬いていた。
僕は、この目をしている時のゆかりが嫌いじゃない。むしろ、好きだ。僕の好きなこのキラキラとした目を一瞬でゆかりに宿すことのできる慎哉に、僕は敵わない。そもそも同じ土俵で戦うことすら叶わないだろう。
いつか、ゆかりの隣を慎哉が歩いてくれることを願う僕は、頭がおかしいのだろうか。
だって、好きな人が幸せでいてくれることが僕の幸せだから仕方がない。その幸せが自分の不幸に直結していると分かっていても、僕は全てを受け入れようと思っている。
ゆかりは、セックスの時にずっと目を瞑っている。
慎哉と出会ってからずっとそうだ。瞼の裏には間違いなく慎哉が浮かんでいるのだろう。他の男を想っているゆかりに欲情している僕は、とんでもない変態だ。そして、僕に抱かれることを受け入れてくれるのであれば、誰を想っていようが関係ないと思っていた。
それは決して優しさではない。僕は自分の好きな人に触れたいから触れているだけなのだ。
本当に好きな男に触れたくて仕方がないのに触れられなくて苦しんでいるゆかりの目の前で、僕はいともたやすく好きな人に触れる。そんな残酷な仕打ちに耐えてくれているのであれば、一生、目を瞑っていてくれて構わないと思った。
僕の指先が、唇が、彼女の中で木田慎哉のものになってくれていることを願った。
少しでも彼女の苦しみが和らぐのであればそれだけでよかった。
でも、それは僕のただのエゴだ。そんなことは嫌というほど分かっているのに、それでも僕は理解のある優しい夫を演じていた。
「私の人生行き当たりばったりなの」
合コンで出会った時、ゆかりはそう言って笑った。就職活動に失敗して、大学の先生の紹介で入ったイベント会社で働いていたこと。転職した今の会社も、昔のバイト先の人に声をかけられて入社したことを淡々と話し、梅酒のソーダ割を一気飲みした。白い喉元がごくりと大きな音を立てた。
「流されてばっかりなの。自分で道を選んで決めているように見せかけて本当は何も考えていない。自分を納得させるために誤魔化して、騙してる。いつか破綻するだろうね。こんなの」
大きな目は、遠くを見つめていた。ぎゅっと結んだ唇はかさついていた。ショートヘアの活発で明るい子という最初の印象が薄れていく。ごめんごめん、ちょっと疲れてるからとすぐに笑顔を浮かべたゆかり。
僕はあの日のゆかりを十年経った今でもありありと思い出すことができる。
初めて会った人に自分の表も裏も見せる。それでどういう反応をするかで判断しようとする真っすぐさが清々しかった。
あれから何回彼女の喜怒哀楽を見てきただろうか。
普段のゆかりの様子をおかしいと感じるようになったのはいつからだろう。いつものように慎哉を見つめる目に、翳りが混ざり始めた。星が瞬いていた黒目が、鈍い光を宿すようになった。それがいつのことだったか、僕は今でも思い出せない。
ある日、帰宅すると、イヤホンを耳に刺したまま涙を流すゆかりがいた。
「どうしたの」
慌てて訊くと、ゆかりは寂しそうに笑いながらイヤホンを外し、消え入りそうな声で言った。
「慎哉が、何かを捨てないと何かを手に入れることができないって」
何かに当てはまる部分が僕と木田慎哉であることは明らかだった。
好きな人が幸せでいてくれるためなら、僕は不幸になっても構わない――。
僕は理解のある優しい夫を完璧に演じきることができなかった。
絶対に手放したくない。
一瞬で全身の血管が沸騰したように熱くなる。
ソファに座るゆかりを抱き締めた。身をよじり、嫌がって逃げようとするゆかりを組み伏せる。いつもより強く目を瞑ったゆかりの眉間に皺が寄っていた。
「ゆかり、目を開けて」
ゆかりは細い首を振った。横を向く顎を掴んで唇を吸う。真一文字に閉じられた唇は固かった。僕の執着心がゆかりの身体にべっとりとまとわりつくのが見えた。虚しさも罪悪感も全て欲望の熱に変えた。
二人の身体がガラスの破片のように粉々になってソファの周りに散らばっていくような気がした。もう二度と元の形に戻ることはない。ゆかりの目は強く閉じられたまま、うっすらと涙が滲んでいた。
ゆかりが浴びるシャワーの音が聞こえてきた。裸のまま、ぼんやりとソファに寝転び、真っ白い天井を見つめる。
ゆかりのことを心の底から好きだと思った。固く閉じられた瞼も唇も、眉間の皺でさえも愛おしかった。手を伸ばせば簡単に好きな人に触れられる現実は、何物にも代えがたい幸せだった。
触れることも、想いを告げることもできず、小さな身体を震わせて泣くゆかりの姿を思い出すと、喉の奥がつかえたように息苦しくなった。
僕は僕の欲望のために、ゆかりを地獄に突き落とした。
僕がこれからゆかりと同じ苦しみを味わうのは、至極当然な罰だと思えた。
ゆかりが家を出て行ったのは、あの夜から一週間が経った朝だった。
さようなら。ありがとう。
それだけ書かれたメモと一緒に離婚届が置いてあった。最後の言葉がさようならじゃないのは、ゆかりの優しさだろうか。
水切りカゴから、コーヒーカップを取り出す。ゆかりのコーヒーカップが洗って置かれたままだった。まだうっすらと水滴がついている。
ゆかりが作った最後のコーヒーをカップに注ぐ。いつもと同じ味だった。濃さも香りもちょうど良い。苦すぎず、香りも強すぎない。いつかゆかりが、僕に似たコーヒーだと言っていたのを思い出す。
こういう時には、出会った頃のことや、楽しかった頃を思い出すと漠然と想像していたのに、何も浮かんでこなかった。
コーヒーの香りと、寝起きの顔で笑うゆかり。
日常の何気ないワンシーンが、蜃気楼のように揺らめいて霞んでいく。
窓の外には真っ青な空が広がっていた。秋晴れ。新しい一日が始まっている。
好きな人が家を出て行っても、たとえ僕が死んでも世界は回る。そんな当たり前のことがとても残酷で、とてもありがたかった。
きっとどこかで、僕と同じように世界の回転を嘆いている人がいるはずだという確信を持てるから。
一ヶ月経ってもテーブルの上に置かれた離婚届と水切りカゴに伏せられたゆかりのコーヒーカップはそのままだった。
離婚した際の手続きはどうすればいいんですかと人事に聞いてしまったせいで、銀行内にあっという間に僕が離婚したという話が広まってしまった。まだ離婚届に自分の名前すら書けていないのに。アイドルに狂った奥さんに捨てられたとか、若い女と不倫をしていたとか、自分でもどれが本当でどれが嘘なのか分からない噂が流れた。
寺川よりも先に飲みに行こうと誘ってくれたのは坂口さんだった。変な噂を立てられたくないと行く直前までごねる僕を、半ば強引に連れ出した。
飲み始めてからの出来事は断片的にしか覚えていない。
焼き鳥の香ばしい匂い、畳の上で土下座をする坂口さん。ラブホテルの部屋の安っぽいフローラルの香りと煙草の臭い。いくつものモノクロのマリリン・モンローがプリントされた壁紙。
唯一、鮮明な記憶として残っているのは、坂口さんの目だった。
僕を見る坂口さんの目が、慎哉を見るゆかりの目と同じだった。潤み、レーザービームが飛んでいるように光輝いている。愛しさと苦しさが混ざった感情の目。
坂口さんは僕と同じだった。好きな人に想いを伝えることができて、触れることができる。でも、手に入れることはできない。神様にどんなに祈ろうとも、自分のものにすることはできない。
与えられることも、与えることもできない。
僕は、坂口さんにもゆかりにも何ひとつしてあげられることがなかった。
朝日を全身に浴びると、今までの全ての出来事が嘘のように思えた。ゆかりと結婚していたこと、ゆかりが出て行ったこと、坂口さんとホテルに行ったこと、何もできなかったこと。
夢か妄想でしかないように思えるのに、生々しい感触だけが残っていた。
最後に触れたゆかりの肌の柔らかさ、出て行った朝に飲んだコーヒーの味、坂口さんの切羽詰まった声、抱き締められた時に聞こえた心臓の音。自分の不甲斐なさを踏みにじるように駅までの道を進む。
歩道の脇にタクシーが停まり、黒ずくめの長身の男が降りてくる。長い脚と小さな顔。マスクをしていたが目元を見ただけで、誰なのかが一瞬で分かった。
木田慎哉だった。
突然目の前に現れた慎哉は、僕をちらっと見た後、すたすたと歩き始めた。
怪しまれないように距離を取りながら慎哉の後ろをついていく。よくよく見ると、ゆかりが飽きるほど見ていた動画サイトに出ていた時の私服と同じだった。黒のロングコートに、慎哉が身に付けていて人気になったハイブランドの黒のベレー帽に、オーダーメイドで作ったと雑誌で紹介していた黒のブーツ。
さっきまでゴミが散らばっていた明け方の埃っぽい歩道が、ドラマのロケ地に様変わりしていた。
慎哉は朝日を浴びていなかった。慎哉の全身から朝日を軽く超えてしまうほどのまばゆい光が放たれていた。
声を掛けるべきか。なんて言えばいい。
妻が大ファンなんです。僕も一緒に見ていてファンになって、新曲の「Real」は、本当に好きな曲で、毎日聴いています。この前の映画も良かったです。刑事役のアクションが素晴らしくて、興奮しました。
あと、あと、あと。
全くあなたには関係のない話なんですが、あなたのせいで妻が出て行きました。
そんなこと言えるわけがない。言うつもりもない。言ったところでゆかりは戻ってこない。
そもそもゆかりが出て行った確かな理由なんて分からない。慎哉のせいかもしれないし、僕のせいかもしれないし、ゆかり自身のせいかもしれない。誰にも分からない。ゆかりだって分かっていないはずだ。
そうだ、ゆかりに連絡しなければ。
スマートフォンを鞄から取り出して、恐る恐るカメラのアプリを立ち上げる。慎哉は下を向き、手元のスマートフォンを覗いていた。五メートルほど離れた場所で、カメラを向ける。液晶画面の真ん中に慎哉の後ろ姿を収める。
シャッターボタンを押す。シャッター音が響き、どきりとしたが、慎哉の耳に白いイヤフォンが見えて胸をなで下ろす。三枚目の写真を撮った時に、慎哉がくるりと右に向きを変え、マンションのエントランスへ入っていった。
マンションを見上げる。十階建てぐらいだろうか。真新しい剥き出しのコンクリートの壁が重厚な鎧に見えた。
ここが誰の家なのか分からないが、ゆかりがいてくれることを願った。
天地がひっくり返るほどの奇跡が起きて、この家に慎哉と二人で暮らしていてくれればいいなと思った。
撮ったばかりの慎哉の後ろ姿の画像を見返す。ズームをしたせいで、ざらざらの画像だった。
粗い画像でも、後ろ姿でも、木田慎哉はやっぱりかっこよかった。
いつも正面ばかり見ていたから、後ろ姿は新鮮だった。細いのに、肩はがっしりしていて、長めの丈のコートがよく似合っていた。
ふと気づくと、液晶画面に水滴が落ちていた。ぽつり、ぽつりと増える水滴の中に、慎哉の後ろ姿が滲んでいた。耐え切れずに、その場にしゃがみ込む。スーツの袖口で目元を拭う。
坂口さんの香水の匂いと、吸ってもいない煙草の臭いがした。
とろんとした目で見つめていたかと思うと、急に険しい表情に変わった。鋭いまなざしを僕に向ける。
「どうして、俊は、慎哉じゃないんだろうね。旦那として点数をつけるなら百点満点なのに、慎哉じゃないっていうだけでゼロ点になっちゃう」
僕は、テレビの中でスパンコールのついた派手な衣装を着て、歌って踊るアイドル・木田慎哉を見た。長い手足を縦横無尽に操りながら、ダンスを踊っている。画面いっぱいに映し出される笑顔。何十万人、何百万人の視線と愛情を一身に受けて輝く。サイボーグのように整った完璧な顔。
確かに僕は、木田慎哉じゃない。
今朝、洗面所で見た自分の顔を思い出す。大きな鼻と目と口。目の下には青黒いクマが沈んでいた。細かい皺が増え、年々深くなっていくほうれい線に、三十三歳という年齢を実感したばかりだ。
「僕はイケメンじゃないし、歌ったり、踊ったりもできないからなぁ」
ゆかりはもう僕の答えなんて聞いていなかった。木田慎哉の新曲を口ずさみながら、うっとりした顔で画面を見つめていた。
月曜日の朝の電車は、重苦しい空気で酸素が薄い。みんなしかめっ面でスマホの画面や新聞を睨んでいる。
中吊り広告に木田慎哉の顔のアップがでかでかと載っていた。ファッション誌の表紙だった。いくらか加工しているとはいえ、透き通るような白い肌にくっきりとした二重まぶた。薄い唇から零れる白い歯が、爽やかさを強調していた。
ゆかりはよく、慎哉は全ての空気を変えてくれる人だと言っていた。そこにいるだけで、この世の辛いこと、苦しいこと全てをかき消してくれる。そして、幸せだけをその場に解き放ってくれる。
確かに、どんよりと沈んだ満員電車の中で、ひと際輝く広告からは、春の柔らかな風のような爽やかさを感じた。きっとゆかりは、この雑誌を買って帰ってくるだろう。
銀行に就職してあっという間に十年が経った。大した夢もなく、安定していて給料の高い職場を求めた結果の選択だった。
新入社員から二つほど階級が上がり、今年から副長という肩書がついた。順調に出世はしているが、大体の未来は見えている。
あと二、三年したら地方の支店長になり、戻ってきたら関連会社に出向して定年を迎える。決められたコースを外れることなく、ただ真っすぐ進んできた。大きな成果も過ちも起こさず、粛々と与えられた仕事をこなしてきた。
ほとんどの同期は、もっと新しいことがしたい、自分の力を試したいと言って辞めていった。その行動力を純粋に凄いなと感心した。その反面、自分は分かりきった未来への道を進む方が性に合っているとも思った。
自分の手で自分の人生を切り拓くことのない僕は、一生ゆかりが憧れる、木田慎哉になることはできない。
終業直前に、大きいプロジェクトが一段落ついたから飲みに行こうと同期の寺川に誘われた。入行した時から仲の良い同期はもう寺川しか残っていなかった。
寺川は、たまたま僕と一緒に書類の確認をしていた坂口さんにも声をかけた。数年前に同じ支店で働いていたと言っていたことを思い出す。
「私が行ったらお邪魔じゃないですか? せっかくの同期会なのに」
「二人しかいないんだから同期会なんてもんじゃないよ。むさくるしいおっさん二人で飲むより、坂口さんがいてくれた方が華やぐしね」
坂口さんが切れ長の目で寺川を睨む。
「そういう発言はセクハラです」
「ごめんごめん。冗談だって」
「冗談で済む話じゃないです。副長、今夜は寺川さんの奢りでいいですよね?」
そうだねと答えると、寺川はぶつぶつと文句を言い始めた。軽口を叩き合う寺川と坂口さんを横目に、ゆかりに飲み会になったとLINEをする。アイコンの木田慎哉の写真がまた変わっていた。
いつもの焼き鳥屋は、月曜の夜でも混んでいた。
「ずっと副長と飲みたかったんですよ」
乾杯のビールを一気に飲み干し、坂口さんが笑いながら言う。
「どうして?」
「坂口さんは、沢渡のファンだから」
坂口さんが寺川の肩を思いっきり叩く。
「寺川さんからよく副長の話を聞いていて、せっかく同じ部署になったんで、一回ぐらいは飲みに行きたいなって思ってたんです」
「それがファンって言うんじゃないのかよ」
坂口さんが違いますと言いながら、届いたばかりの二杯目のビールに口をつける。
「ファンなんて言われると、アイドルになった気分だよ」
枝豆を頬張りながら言う。ファンと聞いて真っ先に頭に浮かんだのはゆかりだった。
「そういえば、沢渡の奥さん、アイドルのファンだったよな。誰だっけ?」
「木田慎哉」
「奥さん、木田慎哉のファンなんですか? 今、映画にも出てますよね? なんでしたっけ、原作が漫画の」
「今やってるのは『パラダイス・ロマンス』かな? この前、一緒に観に行ってきたから」
「相変わらず仲良いよな。俺だったら絶対無理。大体、自分の奥さんが他の男にきゃーきゃー言ってるのなんて見たくないだろ」
「そうかな。別に気にならないよ」
「嫉妬するとかないんですか?」
「僕が? 慎哉に?」
坂口さんがねぎまを頬張りながら頷く。
嫉妬なんてしたことがない。だって、相手は木田慎哉だ。初めから同じ土俵にすら立っていない。
「慎哉は、僕の奥さんにとって、神様みたいなもんだから嫉妬したことなんてないよ。昨日も、なんで僕が慎哉じゃないんだってがっかりしていたよ。旦那としては百点なのに、慎哉じゃないって言うだけで、ゼロ点になるんだってさ」
二人の箸が止まる。目を丸くして僕の顔を見ている。
「副長、そんなこと言われて何て答えるんですか」
坂口さんの口調に棘のような鋭さが混じっていて、少し戸惑う。
「え? 僕、イケメンじゃないし、歌ったり、踊ったりもできないからなって答えたけど」
寺川が笑う。
「沢渡らしい答えだな」
坂口さんは憮然とした表情でビールのジョッキを掴んで飲み干した。
「奥さん、頭おかしいんじゃないですか。こんないい旦那さんがいるのに、木田慎哉の方がいいだなんて。ただのアイドルじゃないですか。別にそこまでイケメンじゃないし」
ここにゆかりがいなくて良かったと心底思った。もしいたら、発狂して坂口さんに何をするか分からない。僕では手に負えなくなってしまう。
「でも、彼は本当にイケメンだよ。歌もダンスも上手いし、ライブの時は、ギターも弾くんだ。随分練習したみたいで、かなりの腕前だよ」
「アイドルがギターを弾いたって、しょせん本物のギタリストには勝てませんって」
坂口さんが吐き捨てるように言う。寺川がまぁまぁとなだめるように口を挟む。
「沢渡も奥さんの影響ですっかりアイドルオタクだな」
「オタクってほどじゃないよ。ゆかりとゆかりの友達を見たら、熱量が違いすぎて、恐れ多いよ」
「ほんっと副長ってばっかみたい」
坂口さんが僕を睨む。きりっとした黒いアイラインのせいで余計に怖さが増していた。
「副長、奥さんが木田慎哉と不倫するなら、私と不倫しましょうよ」
「え?」
坂口さんの言葉の意味が分からず訊き返す。改札に向かう構内は混雑していた。坂口さんの声が大きくなる。酔っぱらっていて呂律が回っていない。
「だって、木田慎哉との不倫なら、副長は許すんですよね。だったら、私と不倫したって、奥さんは責めることできないじゃないですか」
言い終わると、真っ赤に充血した目のまま、怒った顔で僕の胸をハンドバッグで何度も叩いた。すれ違う人が、僕たちを怪訝そうに眺めていく。
「坂口さん、ちょっと落ち着いて」
坂口さんのハンドバッグを持つ手が震えていた。
「私は木田慎哉じゃなくても、副長は百点だと思ってますから」
そう言って踵を返すと、改札の中に走っていった。
何が起きたのか分からないまま、気付いたら電車の中だった。朝と同じ広告が、空調の風に揺れていた。完璧な笑顔の木田慎哉。やっぱり、イケメンだなと思った。
リビングのドアを開けると、ゆかりはソファに寝転がって、雑誌を読んでいた。広告で見たファッション誌だった。電車の中と同じ笑顔の木田慎哉が、ゆかりの手にしっかりと握られていた。
「電車の中で広告を見たよ」
声をかけると、ゆかりが眩しい笑顔で雑誌を広げて見せる。
「ねぇ、この慎哉ほんとやばくない? 白シャツとデニムだけでこんなにかっこいいなんて、この世に慎哉しかいないよね」
白い肌に白いシャツを羽織り、真っすぐなまなざしで慎哉が僕を見つめていた。
もしも、本当に、ゆかりが慎哉と不倫をしたら。
慎哉の白い胸に顔をうずめるゆかりを想像する。
僕がゆかりと出会ってから十年間で、一番幸せな顔をしていた。
でも、だからといって僕は坂口さんと不倫をするのだろうか。
「こっちのページのスーツもいいの。黒でシンプルなんだけど、エロいっていうか」
ゆかりがページをめくって、また見せてくる。やっぱり、目には星が瞬いていた。
僕は、この目をしている時のゆかりが嫌いじゃない。むしろ、好きだ。僕の好きなこのキラキラとした目を一瞬でゆかりに宿すことのできる慎哉に、僕は敵わない。そもそも同じ土俵で戦うことすら叶わないだろう。
いつか、ゆかりの隣を慎哉が歩いてくれることを願う僕は、頭がおかしいのだろうか。
だって、好きな人が幸せでいてくれることが僕の幸せだから仕方がない。その幸せが自分の不幸に直結していると分かっていても、僕は全てを受け入れようと思っている。
ゆかりは、セックスの時にずっと目を瞑っている。
慎哉と出会ってからずっとそうだ。瞼の裏には間違いなく慎哉が浮かんでいるのだろう。他の男を想っているゆかりに欲情している僕は、とんでもない変態だ。そして、僕に抱かれることを受け入れてくれるのであれば、誰を想っていようが関係ないと思っていた。
それは決して優しさではない。僕は自分の好きな人に触れたいから触れているだけなのだ。
本当に好きな男に触れたくて仕方がないのに触れられなくて苦しんでいるゆかりの目の前で、僕はいともたやすく好きな人に触れる。そんな残酷な仕打ちに耐えてくれているのであれば、一生、目を瞑っていてくれて構わないと思った。
僕の指先が、唇が、彼女の中で木田慎哉のものになってくれていることを願った。
少しでも彼女の苦しみが和らぐのであればそれだけでよかった。
でも、それは僕のただのエゴだ。そんなことは嫌というほど分かっているのに、それでも僕は理解のある優しい夫を演じていた。
「私の人生行き当たりばったりなの」
合コンで出会った時、ゆかりはそう言って笑った。就職活動に失敗して、大学の先生の紹介で入ったイベント会社で働いていたこと。転職した今の会社も、昔のバイト先の人に声をかけられて入社したことを淡々と話し、梅酒のソーダ割を一気飲みした。白い喉元がごくりと大きな音を立てた。
「流されてばっかりなの。自分で道を選んで決めているように見せかけて本当は何も考えていない。自分を納得させるために誤魔化して、騙してる。いつか破綻するだろうね。こんなの」
大きな目は、遠くを見つめていた。ぎゅっと結んだ唇はかさついていた。ショートヘアの活発で明るい子という最初の印象が薄れていく。ごめんごめん、ちょっと疲れてるからとすぐに笑顔を浮かべたゆかり。
僕はあの日のゆかりを十年経った今でもありありと思い出すことができる。
初めて会った人に自分の表も裏も見せる。それでどういう反応をするかで判断しようとする真っすぐさが清々しかった。
あれから何回彼女の喜怒哀楽を見てきただろうか。
普段のゆかりの様子をおかしいと感じるようになったのはいつからだろう。いつものように慎哉を見つめる目に、翳りが混ざり始めた。星が瞬いていた黒目が、鈍い光を宿すようになった。それがいつのことだったか、僕は今でも思い出せない。
ある日、帰宅すると、イヤホンを耳に刺したまま涙を流すゆかりがいた。
「どうしたの」
慌てて訊くと、ゆかりは寂しそうに笑いながらイヤホンを外し、消え入りそうな声で言った。
「慎哉が、何かを捨てないと何かを手に入れることができないって」
何かに当てはまる部分が僕と木田慎哉であることは明らかだった。
好きな人が幸せでいてくれるためなら、僕は不幸になっても構わない――。
僕は理解のある優しい夫を完璧に演じきることができなかった。
絶対に手放したくない。
一瞬で全身の血管が沸騰したように熱くなる。
ソファに座るゆかりを抱き締めた。身をよじり、嫌がって逃げようとするゆかりを組み伏せる。いつもより強く目を瞑ったゆかりの眉間に皺が寄っていた。
「ゆかり、目を開けて」
ゆかりは細い首を振った。横を向く顎を掴んで唇を吸う。真一文字に閉じられた唇は固かった。僕の執着心がゆかりの身体にべっとりとまとわりつくのが見えた。虚しさも罪悪感も全て欲望の熱に変えた。
二人の身体がガラスの破片のように粉々になってソファの周りに散らばっていくような気がした。もう二度と元の形に戻ることはない。ゆかりの目は強く閉じられたまま、うっすらと涙が滲んでいた。
ゆかりが浴びるシャワーの音が聞こえてきた。裸のまま、ぼんやりとソファに寝転び、真っ白い天井を見つめる。
ゆかりのことを心の底から好きだと思った。固く閉じられた瞼も唇も、眉間の皺でさえも愛おしかった。手を伸ばせば簡単に好きな人に触れられる現実は、何物にも代えがたい幸せだった。
触れることも、想いを告げることもできず、小さな身体を震わせて泣くゆかりの姿を思い出すと、喉の奥がつかえたように息苦しくなった。
僕は僕の欲望のために、ゆかりを地獄に突き落とした。
僕がこれからゆかりと同じ苦しみを味わうのは、至極当然な罰だと思えた。
ゆかりが家を出て行ったのは、あの夜から一週間が経った朝だった。
さようなら。ありがとう。
それだけ書かれたメモと一緒に離婚届が置いてあった。最後の言葉がさようならじゃないのは、ゆかりの優しさだろうか。
水切りカゴから、コーヒーカップを取り出す。ゆかりのコーヒーカップが洗って置かれたままだった。まだうっすらと水滴がついている。
ゆかりが作った最後のコーヒーをカップに注ぐ。いつもと同じ味だった。濃さも香りもちょうど良い。苦すぎず、香りも強すぎない。いつかゆかりが、僕に似たコーヒーだと言っていたのを思い出す。
こういう時には、出会った頃のことや、楽しかった頃を思い出すと漠然と想像していたのに、何も浮かんでこなかった。
コーヒーの香りと、寝起きの顔で笑うゆかり。
日常の何気ないワンシーンが、蜃気楼のように揺らめいて霞んでいく。
窓の外には真っ青な空が広がっていた。秋晴れ。新しい一日が始まっている。
好きな人が家を出て行っても、たとえ僕が死んでも世界は回る。そんな当たり前のことがとても残酷で、とてもありがたかった。
きっとどこかで、僕と同じように世界の回転を嘆いている人がいるはずだという確信を持てるから。
一ヶ月経ってもテーブルの上に置かれた離婚届と水切りカゴに伏せられたゆかりのコーヒーカップはそのままだった。
離婚した際の手続きはどうすればいいんですかと人事に聞いてしまったせいで、銀行内にあっという間に僕が離婚したという話が広まってしまった。まだ離婚届に自分の名前すら書けていないのに。アイドルに狂った奥さんに捨てられたとか、若い女と不倫をしていたとか、自分でもどれが本当でどれが嘘なのか分からない噂が流れた。
寺川よりも先に飲みに行こうと誘ってくれたのは坂口さんだった。変な噂を立てられたくないと行く直前までごねる僕を、半ば強引に連れ出した。
飲み始めてからの出来事は断片的にしか覚えていない。
焼き鳥の香ばしい匂い、畳の上で土下座をする坂口さん。ラブホテルの部屋の安っぽいフローラルの香りと煙草の臭い。いくつものモノクロのマリリン・モンローがプリントされた壁紙。
唯一、鮮明な記憶として残っているのは、坂口さんの目だった。
僕を見る坂口さんの目が、慎哉を見るゆかりの目と同じだった。潤み、レーザービームが飛んでいるように光輝いている。愛しさと苦しさが混ざった感情の目。
坂口さんは僕と同じだった。好きな人に想いを伝えることができて、触れることができる。でも、手に入れることはできない。神様にどんなに祈ろうとも、自分のものにすることはできない。
与えられることも、与えることもできない。
僕は、坂口さんにもゆかりにも何ひとつしてあげられることがなかった。
朝日を全身に浴びると、今までの全ての出来事が嘘のように思えた。ゆかりと結婚していたこと、ゆかりが出て行ったこと、坂口さんとホテルに行ったこと、何もできなかったこと。
夢か妄想でしかないように思えるのに、生々しい感触だけが残っていた。
最後に触れたゆかりの肌の柔らかさ、出て行った朝に飲んだコーヒーの味、坂口さんの切羽詰まった声、抱き締められた時に聞こえた心臓の音。自分の不甲斐なさを踏みにじるように駅までの道を進む。
歩道の脇にタクシーが停まり、黒ずくめの長身の男が降りてくる。長い脚と小さな顔。マスクをしていたが目元を見ただけで、誰なのかが一瞬で分かった。
木田慎哉だった。
突然目の前に現れた慎哉は、僕をちらっと見た後、すたすたと歩き始めた。
怪しまれないように距離を取りながら慎哉の後ろをついていく。よくよく見ると、ゆかりが飽きるほど見ていた動画サイトに出ていた時の私服と同じだった。黒のロングコートに、慎哉が身に付けていて人気になったハイブランドの黒のベレー帽に、オーダーメイドで作ったと雑誌で紹介していた黒のブーツ。
さっきまでゴミが散らばっていた明け方の埃っぽい歩道が、ドラマのロケ地に様変わりしていた。
慎哉は朝日を浴びていなかった。慎哉の全身から朝日を軽く超えてしまうほどのまばゆい光が放たれていた。
声を掛けるべきか。なんて言えばいい。
妻が大ファンなんです。僕も一緒に見ていてファンになって、新曲の「Real」は、本当に好きな曲で、毎日聴いています。この前の映画も良かったです。刑事役のアクションが素晴らしくて、興奮しました。
あと、あと、あと。
全くあなたには関係のない話なんですが、あなたのせいで妻が出て行きました。
そんなこと言えるわけがない。言うつもりもない。言ったところでゆかりは戻ってこない。
そもそもゆかりが出て行った確かな理由なんて分からない。慎哉のせいかもしれないし、僕のせいかもしれないし、ゆかり自身のせいかもしれない。誰にも分からない。ゆかりだって分かっていないはずだ。
そうだ、ゆかりに連絡しなければ。
スマートフォンを鞄から取り出して、恐る恐るカメラのアプリを立ち上げる。慎哉は下を向き、手元のスマートフォンを覗いていた。五メートルほど離れた場所で、カメラを向ける。液晶画面の真ん中に慎哉の後ろ姿を収める。
シャッターボタンを押す。シャッター音が響き、どきりとしたが、慎哉の耳に白いイヤフォンが見えて胸をなで下ろす。三枚目の写真を撮った時に、慎哉がくるりと右に向きを変え、マンションのエントランスへ入っていった。
マンションを見上げる。十階建てぐらいだろうか。真新しい剥き出しのコンクリートの壁が重厚な鎧に見えた。
ここが誰の家なのか分からないが、ゆかりがいてくれることを願った。
天地がひっくり返るほどの奇跡が起きて、この家に慎哉と二人で暮らしていてくれればいいなと思った。
撮ったばかりの慎哉の後ろ姿の画像を見返す。ズームをしたせいで、ざらざらの画像だった。
粗い画像でも、後ろ姿でも、木田慎哉はやっぱりかっこよかった。
いつも正面ばかり見ていたから、後ろ姿は新鮮だった。細いのに、肩はがっしりしていて、長めの丈のコートがよく似合っていた。
ふと気づくと、液晶画面に水滴が落ちていた。ぽつり、ぽつりと増える水滴の中に、慎哉の後ろ姿が滲んでいた。耐え切れずに、その場にしゃがみ込む。スーツの袖口で目元を拭う。
坂口さんの香水の匂いと、吸ってもいない煙草の臭いがした。